池田輝政が藩主として姫路に入ったのは慶長5年(1600)秋のことであった。
さっそく、増税を実施した。
築城に取り組まねばならなかったためである。
石材や木材の運搬、石垣積み、堀の掘削、その他城下町づくりなどに巨費が必要になった。
これらの巨費は、全て村高を基準として徴収された。
そのため、輝政は築城費をひねり出すため村高を平均2割も多く設定した。
慶長14年秋の10月あしかけ8年に及ぶ大工事で堂々とした姫路城は完成した。
動員された人数は述べ2400万人。
とにかく、無理おしがあった。
播磨の百姓は、この重税に黙っていたのだろうか。
史料がないために、詳細はわからないが、弾圧のために黙らざるを得なかったようである。
それにしても、百姓衆の疲弊はひどかった。
池田氏は、姫路城完成後一割の「ゆるみ検地」(減税)を実施している。
その状況を、新野辺村にみたい。
19世紀前半の新野辺村の年貢基準収穫高はおよそ928石である。
これは、江戸時代の池田時代の「2割打ち出し」のままの数字である。
『加古のながれ』(加古川市)は、「(新野辺村は)池田時代の村高で幕末まで徴収うけたのです」と指摘している。