ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

上荘町・平荘町探訪:かみそう・へいそう

2009-05-26 10:32:06 |  ・加古川市上荘・平荘町

 かみそう・へいそう    2006・8・3のブログより

Cff397c4  正和5(1316)の「報恩寺の文書」に、「播磨国印南荘屏村(へいむら)」とある。

 印南荘(奈良・西大寺の荘園)には屏・都染・益田などが含まれており、屏とは平で、後に平之荘(へいのしょう)と呼ばれ、平荘町の語源にもなっている。

 とすれば、平荘は「へいしょう」と読むのが自然である。

交差点の案内板(写真)を見てほしい。ローマ字で「Heisocho」とあり、「へいそうちょう」と読ませている。

 市役所で正式な読み方を訊ねてみた。

 読み方は、「日本行政区画便覧によって、それぞれへいそう・かみそうと読むのが正式である」との答えであった。

 平荘小学校に訊ねると学校名は「へいそうしょうがっこう」であり、上荘小学校に問い合わせると「かみしょうしょうがっこう」で、校歌も「かみしょうしょうがっこう」と歌っているとのことであった。

 住民の方に尋ねても、どちらともはっきりしない。

 原因は、昔「かみしょう」「へいしょう」と呼んでいたが、行政が書類・刊行物で「へいそう」「かみそう」と読ませて、徹底しないまま、今に至っているというのが真相ではないだろうか。もちろん、これは勝手な推論である。

 歴史的には「へいしょう」「かみしょう」が正しい読み方だと思うのだが・・・

  上荘町・平荘町探訪」を、この辺で一休みとします。まだ外に、紹介したい場所出来事は後日、続けることにします。

お読みいただきまして、ありがとうございました。ご批判・ご感想をいただければ幸いです。

次回からは、加古川市を飛び出して稲美町の探訪と加古川市のより小さい町・平岡町二俣を集中して散歩しようと考えています。史料があっての探訪ではありません。どんな結末になるか私にも分かりません。

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上荘町・平荘町探訪:国包村の商工業(江戸時代)

2009-05-25 22:25:34 |  ・加古川市上荘・平荘町

 国包村の商工業  2006818のブログより

012  江戸時代の国包村のようすを見ておきたい。

 国包村は、湯乃山街道(ゆのやまかいどう)と加古川が交わり、美の川にも近く、交通の要所に位置していた。

 そのため、近在ではめずらしく、町場化が進んでいた。

 元文2年(1737)の同村の明細帳には、家数125軒の内、本百姓74軒、水呑50件と水呑(田畑を持たない小作)の割合が多い。

 具体的な職種として、大工4人、桶屋2人、医者3人、木挽6人、紺屋1人、材木屋3人、陸塩売4人、旅籠屋5人、川舟宿6人、殺生人(川漁師のこと)6人、蚕種商2人、そのほかに、高瀬船3艘、舟主2人と明細帳にある。

 これらは専業ではなく、百姓の兼業が含まれていると思えるが非農業的な職業が多いく、全体に加古川の舟運に係わる職業が多いのが特徴である。

 確かに、国包村は、近在では珍しく町場が進んでいたが、別の理由もある。

 4月30日のブログ(畑平左衛門と亀之井用水)の文章の一部を読んでみたい。

「・・・国包は、5日も日照が続くとツルベで朝・夕灌漑をしなければならず、他の村からの嫁入りも嫌われたと言う。

 そんな、窮状を救うため、文化13年(1816)、畑平左衛門(応親)が、美濃川が加古川に注ぎ込む手前から取水する用水(亀之井用水)をつくった。・・・」

つまり、国包村は水田のための水が得にくい土地であった。農村としても発達できたのは亀之井用水が完成して以後の、江戸時代も終わりの頃からである。

*写真:加古川の堤防からみた国包

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上荘町・平荘町探訪:金のイヤリング(カンス塚古墳出土)

2009-05-25 19:42:09 |  ・加古川市上荘・平荘町

 金のイヤリング(カンス塚古墳出土) 2006・8・11ブログより

Fcbb28e8  平荘湖古墳群のほとんどの古墳は7世紀のものである。その中にあって、カンス塚古墳は5世紀後半にさかのぼる古いものである。

 カンス塚古墳は、平荘湖の建設に伴い湖底に沈んだ全長30メートルの古墳である。

 一部盗掘されていたが、玉類などの装身具・刀剣・鉾・やじり・鎌・斧・砥石・須恵器それに鉄鉗(かなはし)・槌などの鍛治具など多くの種類の出土品があった。

 なかでも一対の金のイヤーリング(写真)は注目を集めた。

 県下でも、加古川市の他に2例(姫路市と龍野市の古墳)があるだけである。全国でも、50ほどの出土例しか知られていない。

 朝鮮半島からもたらされたものである。この古墳の主とその交易関係に興味がわく。

 それにしても、カンス塚の「カンス」とはどんな意味だろうか。前々から気になっていた。

 この古墳から出土した鉄鉗(かなはし)に注目して欲しい。この鉄鉗の形がカンス塚古墳の形(帆立貝式古墳:前方後円墳の前方部が短いもの)に似ているという。つまり、カンスはカナハシが変化した単語であるというのである。

 また、「カンスは鉄・銅で作った湯沸かし器や茶の湯で用いる茶釜をいう」と辞書にある。ホタテの形に似ていなくもない。

 定説はない。不思議な名前のままでよい。

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上荘町・平荘町探訪:山角廃寺

2009-05-25 16:04:53 |  ・加古川市上荘・平荘町

  山角廃寺  2006・8・10のブログより

E5e2eb65  平荘小学校の校庭の隅に、塔の心礎(写真)がある。中心に円形の孔が彫りこまれている。

 かつて、山角(やまかど)に寺があったことを物語っている。

 この寺の元の位置についてははっきりしないが、近くに古瓦の散布が見られたという報告もあり、おそらく、この付近にあったのであろう。

 仏教は6世紀に朝鮮よりもたらされた。そして、白鳳時代(645710)に、非常な勢いで全国各地にひろがった。

 山角にある古代寺院もその一つである。

<msnctyst w:st="on" address="加古川市" addresslist="28:兵庫県加古川市;"></msnctyst>

 加古川市には、同時期の寺院として、野口・西条・中西(西神吉町)・石守(神野町)等でも確認されている。

 この寺院を建設したのは、どんな人物であろうか。

 時代は仏教文化が、古墳文化にとって変わろうとする時期であった。とすると、この寺院を建設したのは、それまで古墳を築いていたこの地域の豪族であったとも想像できる。

 平荘は、加古川右岸では古墳の発達した場所であった。

 山角廃寺のすぐ東隣に報恩寺がある。山角廃寺との連続性を考える向きもあるが、この点について<msnctyst w:st="on" address="加古川市" addresslist="28:兵庫県加古川市;"></msnctyst>

(山角)

 荘園時代、山角辺りは、印南荘屏村と呼ばれていた。屏は塀であり、西と北を山()で囲まれた地形である。

 慶長時代の絵図では、山角は山門の字を当てており、村の名前は、山()の前にある村の意から来ているのかもしれない。

 加古川市史(第一巻)は「・・今後における資料増加に期待するとして、ここでは7世紀末から8世紀はじめのころに創建された山角廃寺の存在を推測することにとどめておきたい・・・」としている。

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上荘町・平荘町探訪:三つの益気神社

2009-05-25 15:47:38 |  ・加古川市上荘・平荘町

三つの益気神社  2006・8・6のブログより

Taira_283_2 事件は、文禄3年(1594)年、平ノ荘神社16ヵ村の代表者の参詣の時におきた。

(16ヵ村:益気郷3ヵ村、平ノ荘13ヵ村)

 (益気)・・・・平の面々、益気の中にも御歴々(おれきれき)がいるのだが、毎年益気の者は、下座に座っている、座を改めて我々を上座にすればどうか。

 (平ノ荘)・・・御歴々であることは承知しているが、益気の人の中には、殺生を仕事とする者がいる。・・・ケガラワシイ!(益気の者に川漁の権利が認められていることを指す=秀吉の免状)

 売り言葉に買い言葉、日ごろの不満が燃え上がった。その勢いは、すさまじいものであった。

 この時、近郷からこの喧嘩を見ようと数万の人が押しかけたと言う。

 この事件のあと、慶長4年(1599)益気郷は、益田山(加古川市東神吉町)に益気神社(ますけじんじゃ)を建てた。

 その後、池尻村も平ノ荘の氏子から抜け池尻村に、益田新村(出河原村も益気神社が創建され、3つの益気神社が誕生した。

 益気神社という名称から、奈良時代の創建を想像してしまうが、平ノ荘神社から分かれた比較的新しい神社である。

*写真は、池尻の益気神社

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上荘町・平荘町探訪:神仏分離(平之荘神社の板碑にみる)

2009-05-25 12:35:04 |  ・加古川市上荘・平荘町

神仏分離(平之荘神社の板碑に見る) 2006・8・8のブログより

088 平荘神社(加古川市平荘町山角)の正面の石段上り口の左右に各一面の板碑(いたび)がある。

 いずれも、この付近の古墳から掘り出された組み合わせ式石棺の側石を利用したものと思われる。

 向かって、右側(写真)の板碑には、梵字で、マン(文殊菩薩)・バク(釈迦如来)・アン(普賢菩薩)の釈迦三尊が、左側の板碑にはサ(観音菩薩)・キリーク(阿弥陀如来)・サク(勢至菩薩)の阿弥陀三尊と弘安二の記銘がある。

 弘安二年(1279)といえば、現在確認されている加古川市内の石造物記銘としては最も古いものである。

 ここは、平之荘神社である。現代人の感覚からすると神社に釈迦三尊・阿弥陀三尊とは少し不思議な感じもする。

 このことについて「知っておきたい日本の神様(武光誠著)」の一部を読んでおきたい。

 「・・・・6世紀のなかば、仏教が伝わった。そこには有益な知識や技術がふくまれていた。

 平安時代の初めになると、神社側では『このままでは、自分たちは時代遅れになるぞ』という声がひろまった。

 そのため、神社を支配する豪族や武士が、僧侶をやとって神前で仏事をおこなわせた。・・・また、仏教側力のがわも、庶民に慕われている神道と結びつくことによって布教を有利に進めた

 中世以降、本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)によって、日本の主だった神様は仏が仮の姿であらわれたものだとされた・・・」

 このように、日本では仏教と神道が争うことなく融合していた。

しかし、明治初年に、政府は、仏教と神道を分離させることを命令した。神仏分離である。

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上荘町・平荘町探訪:天坊山(てんぼうさん)

2009-05-25 12:05:18 |  ・加古川市上荘・平荘町

 天坊山(てんぼうさん) 2006・8.2のブログより

117  写真中央の山(右の尾根)は天坊山(てんぼうさん)である。名前の由来は分からないが、近くの山角(やまかど)の名刹、報恩寺と関係があると思える。

 報恩寺は明徳2年(1391)、奈良・西大寺の末寺であり、多数の塔頭寺院を擁していたことが知られている。

 昭和43年、天坊山は注目を集めることになった。山頂に関西電力が鉄塔工事をしたが、その途中で古墳が発見されたのである。

 直径16メートルの円墳で古墳時代前期(45世紀)の古墳であった。

 一基の石室から、壮年男子の人骨が見つかった。

その他の出土品は刀・ヤリガンナ槍・くさび形鉄器・鎌・クワ・土師器の壷など多いが、それぞれの量は少ない。

東側の石室は一回り小さいが、鏡(画文帯神獣鏡)などを出土している。

 埋葬されたのはこの地域を治めた有力者であろう。それにしても発見された場所は、標高163メートル山頂にある珍しい古墳である。

 ブログを書く前には、現地へ出向くことにしている。でも、天坊山にはまだ登っていない。最近、とみに体力の衰えを感じる。

 でも、近いうちにチャレンジしたい。そして、古代人が眺めた、平荘・上荘の地形を眺めてみたい。

 *天坊山の所在地は、加古川市上荘町小野であるが、写真は上原(かみはら)から見た天坊山。

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上荘町・平荘町探訪:里村の騒擾

2009-05-24 17:25:00 |  ・加古川市上荘・平荘町

<msnctyst w:st="on" address="里村" addresslist="46:里村;"></msnctyst>

里村の騒擾 (2006年8・16日のブログより)

96b7ca2d 江戸時代も後半になると、多くの村々がそうであったように、里村でも農民と庄屋の対立がおきた。そのようすをみたい。

宝暦10年(1760)、明和5年(1768)に里村の庄屋・彦九郎に対し10か条の訴えが藩に出された。二件ともほとんど同じ内容である。

 紙面の都合で一つだけ紹介したい。

 (農民)・・・「村方諸入用はなるだけ簡略にしてもらいたい」と庄屋に願ったが、全く聞いてくれない。

(庄屋)・・・村方の諸入用については年々増額しているが、随分倹約している。村では、7・8人が徒党を組んで、「庄屋が使い込んでいる、生活の困窮しているものに返せ」と偽りを触れ、村方をそそのかしている。

 この騒擾の詳細については「加古川市史(二巻)」p442~9を参照されたい。

 享和元年(1801)にも庄屋は農民から追求を受けている。

<msnctyst w:st="on" address="里村" addresslist="46:里村;"></msnctyst>

 里村では、庄屋と農民の騒動が40年も続いた。

 この騒擾から、庄屋の仕事内容、村政と農民の生活、そして農民の関心ごとなどを知ることができて興味深い。

<msnctyst w:st="on" address="里村" addresslist="46:里村;"></msnctyst>

 里村は、天文元年(1532)の「報恩寺文書」に「里村」の名前がある。それより以前にできた古い村である。

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上荘町・平荘町探訪:築山・2

2009-05-24 16:42:06 |  ・加古川市上荘・平荘町

   築山・2  (2006・7・19のブログより)

002 今週は、激しい雨が降り続いている。午前中(2006・7・19)、兵庫県南部に大雨警報がでていた。昔なら、こんな時は、洪水の心配をした。

 特に、国包のあたりは、しばしば大洪水を経験している。

 特に、鎌倉時代の嘉禄(かろく)元年(1225)の大洪水は、すさまじく、国包村の東を流れていた加古川が村を全滅させ、河原にしてしまった。

 ムクとエノキが目立つ場所は、高さ3メートルあまりの小高い丘になっている。

 地元では「国包の築山(くにかねのつきやま)」と呼ばれ、洪水の時の避難場所であった。

 築山(つきやま)は、宝暦6年(1756)、国包出身の長浜屋新六郎という人物が、加古川の洪水で毎年のように被害にあっていた住民の避難場所として私財を投げ出して築いた丘だと伝えられている。

 大正から昭和にかけて行われた加古川の大規模な改修以来、この地域は、やっと大きな洪水からまぬがれている。

 昔は、洪水の避難場所であったが、今は子供の遊び場所であり、信仰の場所として、社(築山神社)におまいりに来る人も多い。

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上荘町・平荘町探訪:築山のエノキ・クスノキ

2009-05-24 16:26:24 |  ・加古川市上荘・平荘町

今、ブログでは「上荘町・平荘町探訪」をしている。このシリーズ以前にもすこし、上荘・平荘町について書いているのでここで、まとめて再掲しておきたい。

築山(1)  エノキ・ムクノキ 

                  2006・7・18のブログより   

 006_3 築山に来ている。この人工の小山は、上荘町国包(くにかね)にある。

上荘町というのであるから当然、昔は加古川の西にあったのであろうが、洪水によって加古川の流れが変わり、一部が加古川の東岸に上荘の名を残こすことになった。

 江戸時代、洪水の避難場所として、この築山は築かれた。

今日は、この築山にある大木の話である。

 近くから見ると、一本のように見えるこれらの木は、二本のエノキが一本のムクノキを両脇から包み込むような形で成長している。

 三本あわせた木の周囲は約7メートルにもなる。がっちりと築山をつかむ根の一部が地上をはい、頼もしく見える。

 樹齢は240年ほどで、市内では唯一の天然記念物に指定されている。

 三本の木を築山の中心部に植えた理由はわからない。

しかし、洪水の時、目印になったことは確かであろう。あるいは、この築山まで水がきた時に、つかまれるように植えられたのかもしれない。

 ムクノキとエノキは築山にある築山神社の神木ではない。あくまで、実利から植えられているようである。

 戦前まで、この木を囲んで盆踊が行われたという。

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上荘町・平荘町誕生:(民話)芝村の天神さん

2009-05-24 11:51:17 |  ・加古川市上荘・平荘町

Taira_069 むかし、仁明天皇の頃の話です。

平荘の芝村(現:養老)の医者の娘に、きくのという人がいました。

京都の貴族の家に奉公をしていました。

きだての良い娘でした。

お嫁入りの年頃になったので、おひまをいただいて家に帰り、25才で結婚し男の子が生まれました。

とっても、かわいい子でしたが、ふとした風邪がもとで亡くなってしいました。

悲しいことが、重なりました。

夫も二ヶ月後になくなったのです。

きくのは、生きる望みがなくなりました。

ちょうどその頃、都の菅原是善卿(すがはらこれよしきょう)夫妻に男の子が生まれ、乳母を捜しておられました。

ある人の紹介で、きくのが是善卿のところへあがることになりました。

是善卿の若君は、後の道真公です。

きくのは、道真公が8才になるまで大切にお世話をしました。

きくのは「・・・若君も、もう8才になられ、ことに優れたかたになられ、たのもしく思っています。このあたりで、故郷へおひまをいただきとうございます。・・・」と是善卿に申し出ました。

その後、道真公はたいそう位の高い方になられました。

道真公が57才の時でした。

道真公が偉くなるのを恨んだ藤原時平が、道真公が悪いことをたくらんだと陰謀をめぐらし、罪をかぶせました。

道真公は、筑紫の大宰府に流されることになりました。

 ◇道真公との再会◇

都をあとに、船で播磨灘にさしかかったとき、にわかに海が荒れて船が沈むばかりになりました。

やっとの思いで、別府(加古川市別府町)の浜にこぎつけ上陸されました。

そして、あたりをご覧になりながら、「私が小さい時、乳をもらった乳母は、この近くの芝村というところだったが、ここからどれほどの道のりですか・・」と村人にたずねられました。

「一里ばかりです」と村人は答えました。

道真公は「きくのは、生きていないかもかもしれないが、せめて乳母の住んだあとだけでもたずねてみたい・・」と芝村にでかけられました。

きくのは、生きていて二人は再開するができました。

別れの時です。道真公は、きくのにもう二度と会えないかもしれないと、歌をお詠みになりました。

  ながらえて ありとも我は おもはじな

      逢見るそ社(こそ) つきぬ奇縁を

 (わたしは、生きながらえて もういちどお目にかかれようとは思いません。

   今日こうしてお会いできましたことこそ、尽きない不思議なご縁がありましたから)

その翌年、きくのは亡くなりました。

きくのには、子どもがなく家が絶えたため、短冊は村長(むらおさ)に預けられました。

芝村では、この短冊をご神体として、きくのが住んでいた場所に天神社(写真)を建て、お祭しています。

後、芝村には雷が落ちたり、火事がおきたりする心配がなかったと言い伝えられています。

*こんな民話が、芝村に伝わるのは、姫路から大坂・京都への道、湯乃山街道が平荘を通っていたからではないでしょうか。

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上荘町・平荘町探訪:村名二題(上原村・養老村)

2009-05-23 18:40:27 |  ・加古川市上荘・平荘町

 104_2  ◇もとは原村◇  

天文元年(1532)の報恩寺の文書に「薬師堂、鎮守伊和明神、原村有之」とある。

 ここに見える原村は、現在の上原(かみはら)である。

 志方町に原村があったため、平荘の原は、これと区別するために、明治11年、村名を原から上原に変えた。

 この時、志方町の原村は下原(しもはら)と変わったが、昭和29年、西志方町原は志方町と合併時に元の「原」に戻している。

 それにしても、この時(明治11年)「どちらの村を上とするか」について、おそらく議論が沸騰したことと想像される。詳細はわからない。

 「上原」は、そのまま今日にいたっている。

◇養老村(ようろうむら)◇

 明治10年12月、印南郡芝村と同中村が合併して新しく設定された村名である。

 命名にあたっては芝村の有力者・滝氏にちなんでいるらしい。

 それにしても、滝氏から養老の滝を連想し、村名としたとは面白い例である。

 ちなみに、平荘村の初代から五代までの村長を記しておきたい。

   初代  滝 右左治   二代 滝 信二

   三代  前川 昌三   四代 滝 一二

   五代  滝  悦一

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上荘町・平荘町探訪:権現ダム

2009-05-23 08:30:35 |  ・加古川市上荘・平荘町

◇権現ダム◇

Taira_263_2 平荘湖ダムは完成したが、東播磨工業地帯の建設は急速に進み、平荘湖ダムからの送水だけでは工業用水の需要に応じることはできなかった。

兵庫県は、第二の貯水ダムを計画した。

「場所は、平荘町中山。総工費は90億円で、3つの山を3本の堰堤で結び、豊水期に加古川からポンプアップして貯水する。

通称、権現池(ごんげんいけ)を利用して貯水量1,000万トンの湖を作る」というものであった。

このダム建設により、中山地区を中心に平荘町磐(いわお)と志方町野尻地区の一部が水没することになる。

昭和45年9月27日、兵庫県は、地元および加古川市の協力が不可欠と市に協力を要請した。

市会としては、当時設置されていた総合開発特別委員会に付託した。

委員会は、平荘湖ダム建設の用地買収の難航の苦い経験もあり熱心に動かなかった。

◇難航する移転・保障問題◇

5月17日の夜、ようやく、県・市による第1回目の説明会が行われ、地元への協力要請をした。

5月25日、中山町内会は、次のような回答書を市長に提出した。

「中山地区町内会は、権現ダム建設に伴う水没計画には絶対反対である」とし、その理由として、「住みなれた土地を離れ、他に移住することは大きな苦痛である。

この土地での現在の生活に不自由なく、離れる必要を感じない。

なぜ、企業のために我々が犠牲を払わねばならないのか。

過去の例を見ると、他に移住した人々の実情は余りにも気の毒なケースが多く、我々としても大きな不安を感じる」などをあげている。

平荘湖ダムの場合と異なり、地元の反対や市会での当初の冷淡な対応もあり、ダム建設は難航し、ほとんど進展を見ないまま年を越した。

この段階でも加古川市は、むしろ県と地元との交渉を見守るという姿勢であった。

県の担当者は、地元の対策委員会の委員長と非公式の交渉をかさねた。

昭和45年12月にいたり、ついに了解点にたっした。

計画は、さらに遅れ、結局さまざまな問題が解決したのは、昭和53年1月であった。

権現ダムの建設は、最初の計画からじつに10年ぶりにようやく着工の運びとなった。

*『加古川市議会史(記述編)』参照

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上荘町・平荘町探訪:(民話)又平新田村の弁天さん

2009-05-22 13:27:27 |  ・加古川市上荘・平荘町

Taira_273

 平荘湖の底に沈んだ又平新田村に弁天池という大きな池があり、池の北東隅の島に弁天さんがおまつりしてありました。

 この島は古墳で、弁天さんが、しばしば稚児に化けて、池の表面にあらわれたという言い伝えから、村人は稚児が窟(ちごがくつ)と呼んでいました。

 むかし、この村に彦衛門という人がいました。

 池守りなどをしていたので、毎日池に行き、いつの間にか弁天さんと心安くなっていました。

 ある日、彦衛門はいつものように池の廻りを歩いていると弁天さんが手招きしていいました。

 「いっぺん、あなたの家に遊びに行きたいが、私は天界の身、人に見られると困るので、家の者をみんなよそへやってもらえんやろか・・・」

 彦衛門は、うれしくなって、急いで家に帰りました。

 何とか口実をつくり、おかみさんに親類へ行くよう言いつけました。

 おかみさんは、「きっと何かあるぞ」と思いました。

 村はずれまで行き、途中で引き返えすと、案の定、家の中から女の人の声が聞こえてきます。

 彦衛門が、綺麗な着物を着た美しい娘と話しているのでした。

 おかみさんが、のぞいているのを見つけた弁天さんは、「下界の人に見られては、ここに居ることはできません」といって立ちあがりました。

 彦衛門は、袖を持って、もどそうとした拍子に、袖がちぎれ、ちぎれた錦の片袖だけが残りました。

 島に帰った弁天さんは、「ひとところに長くいては、なじみができていけない」と、淡路島へ行ってしまいました。

 弁天さんがいなくなった又平新村では、それから、この片袖をご神体としてお祭しているといわれています。

 又平新田村の弁天社は、平荘湖の建設により、現在、湖の南東の堤防に新しく移築(写真)されています。

 *『ふるさとの民話』(加古川青年会議所編)参照

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上荘町・平荘町探訪:平荘湖ダム

2009-05-21 21:49:42 |  ・加古川市上荘・平荘町

Taira_277_2

<msnctyst w:st="on" address="加古川市" addresslist="28:兵庫県加古川市;"></msnctyst>

 加古川市は、工業誘致に積極的に取り組み、工業都市としての発展をめざした。

 しかし、そのための多くのインフラが未整備だった。

  特に、工業用水の確保は急を要した。

  昭和3211月には、加古川市工業地帯整備促進協議会が発足し、市会においても工業用水ダムの必要性が認識され、同年10月、議員総会で「加古川上流に一ヵ所代表的なダムを建設する」案が提出された。

  ダム建設に向けて具体的に動き出したのは、国庫補助が確定し、昭和351月に入ってからであった。

 359月には神戸製鋼所誘致が本決まりとなった。

 「平荘町又平新田の升田山など4つの山を土手で環状につなぎ、水面積1.3平方キロメートルのダムで、総工費315000万円、貯水量88万トン、加古川よりポンプアップする」という計画だった。

 そして、45年完成をめざした。

   難航した保障交渉◇

 ダム建設によって100万平方メートルが水没する。

 また、又平新田にある市立養老院と約30戸が水没する。

 地元民は、将来に対す生活に対する不安はぬぐえず誠意ある県の対応を求めた。

  交渉は難航した。

 37311日付けの神戸新聞は、「東播工業地帯の工業用水を確保する加古川県営工業用水ダムは既に着工の段階に入っているが、10日、残っていた地元又平新田地区の保障要求がまとまり加古川工業用水建設事務所に提出した・・・同案では、県の案と大きなへだたりがあり、今後の交渉にくらい影を投げかけている」と報じた。

 市会ダム対策特別委員会は補償交渉の解決に向けて両者の斡旋に乗り出した。

3712月、難産の末、県と地元との最終合意がまとまり、昭和38年に入り、本格着工された。

 414月、待望の貯水がはじまり、71日ダムは完成した。

 *『加古川市議会史(記述編)』参照

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