ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(97) 「やへどさん」(弥兵衛塔)

2014-12-18 09:03:39 |  ・加古川市米田町

 気ままな「ひろかずのブログ」です。

  いま、小説『双剣の客人(寺林俊)』(アールズ出版)を読んでいる。

 この小説は、主人公・宮本武蔵は米田村(高砂市米田町)誕生説で書いておられる。

 米田を歩いてみたくなった。

 でも、きょう(12月17日・水)は寒波。

 いまから頑張って、写真を撮りに出かけます。

    加藤弥兵衛塔

 慶安二年(1645)、陸奥白河藩から姫路入りした榊原忠次の頃には、播磨南部を中心として新田の開発が盛んに進められた。

 姫路藩は新田開拓を進めるための後援を惜しまなかった。

 新田が完成すると、検地役人により新田の高などが決められた。

 もちろん、村にとって高の査定は少ない方がよいが、藩にとっては、その反対になる。

 そのため、姫路藩の役人と百姓との駆け引きがあった。

 加藤弥兵衛は、そんな役人の一人だった。

弥兵衛の名前は、播磨地方南部の各村々の検地にしばしば登場する。

    加藤弥兵衛、自刃す

 伝承によれば、寛文年間、米田新田の開発が完成し、検地が行われた際、弥兵衛は検地におもむき、貧しい百姓のために寛大な措置をとった。

 百姓にはよろこばれたが、役人として責任を感じ、帰路、籠の中で切腹したと言われている。

 村人は、これを悲しんで米田に碑(写真)をたてた。

 地元では、この塔を「やへどさん」と呼び、親しんだという。

 弥兵衛は、藩財政の窮乏を新田開発で切り抜けようとした藩政担当者と農民との間に板ばさみになった犠牲者であったのだろう。

 *写真:加藤弥兵衛の塔

 

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さんぽ(27):宝殿駅界隈を歩く(27)・六継里

2014-01-19 09:59:40 |  ・加古川市米田町

 Muksasi_001 「宝殿駅界隈を歩く」といいながら、少し離れて米田を歩いているが、次の話題に移りたい。
 その前に、米田には米田神社の近くに「六継里」の石碑がある。少し触れておきたい
   六継里(むつぎのさと)
 『風土記』は、奈良時代の国ごとの産物・伝承・土地の室などをまとめた地理・歴史書である。
 米田(米堕)は、『風土記』に六継里(むつぎのさと)として登場する。
 もっとも、古代の里は、はっきりとした境界で分けられた地域ではなかったようである。
 Photo
 六継里は、いまでは高砂市と加古川市が入り組んでいる里で、米田辺りから加古川東岸の稲屋辺りに及んだ地域らしい。
 10月上旬から中旬にかけて甘茸というめずらしい茸が生えたと『風土記』にはある。<o:p></o:p>

 しかし、現在では現存しない植物だと言われている。
 当時の六継里の風景を想像したい。
 加古川の本流は、この里の西を流れていたのではないだろうか。
 稲屋を含んでいることから考えると、加古川の分流はあったものの、米田と稲屋は続いた地域であったのだろう。
 加古川本流は、六継里から海に流れ込んだ。そして六継里は、海岸に近い地域だった。
 目の前の海には、ナビツマ島が横たわり、さらにその先が瀬戸内海であった。
 ナビツマ島は、加古川の流れがつくった三角州で、今は陸続きになって高砂市内を形成している。
 *『播磨の国風土記を歩く(寺林峻)』(神戸新聞総合出版センター)参照

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さんぽ(26):宝殿駅界隈を歩く(26)・平野庸脩

2014-01-18 16:29:49 |  ・加古川市米田町

 

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 播磨は、儒学の盛んな地であり、加古川でも儒学をはじめとして学問が盛んであった。
 中でも、平野庸脩(ようしゅう)の『播磨鑑(はりまかがみ)』は抜かすことができない。
   平野庸脩は平津の人
 平野庸脩は、平津村に生まれた。
 先祖は、別所長治の募下であったといわれている。父母ならびに彼の生没年は定かでない。
 彼は医を業とし、それ以外の学問も好んだ。
 大坂の暦算家・大島喜侍が明石で門人を教えていたとき、喜侍に入門し数学・暦術を学んでいる。
 また、和漢詩歌も好んでみずから詠じた。
   
播磨鑑の編述
 彼の業績でもっとも有名なものは地誌の『播磨鑑』の編述である。
 地誌『播磨鑑(はりまかがみ)』は、17冊に及ぶ大著で、彼が40余年の歳月を費やして大成したものであった。
 同書は、播磨国の郡県邑里から神社仏閤、名所古跡をはじめ、物産・人物・風俗・古老伝聞にいたるまで、あまねく収録している。
 編さんに着手したのは享保の初めころで、長年にわたり資料の収集、調査をおこない、  宝暦一二年(1762)に完成した。完成後、時の藩主酒井忠恭に献じられている。
 また、庸脩は、『播磨鑑』とは別に『播磨州輿地通志(はりまのくによちつうし)』も編じている。
 同書は、現在は加古・印南両郡のものしか伝わっていない。
 もともと、完成をみなかった書かもしれず、庸脩が『播磨鑑』を簡略化したものを意図してつくりかけ、中途でとりやめたものとも考えられる。
 『播磨州輿地通志』の巻首は、「印南 平野庸脩纂輯、 加古 三浦元礼参考、同 山口希一正校」とある。
 友人の三浦元礼と山口希一が編さんを助けているのである。
 山口希一は、尾上神社の権()宮司であり、三浦元礼は『播磨鑑』の序文も書いており、高砂の大庄屋である。
 こうした、庸脩の友人たちは、当時の播州の最高の知識者層であった。
 *『加古川市史(第二巻)』参照

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さんぽ(25):宝殿駅界隈を歩く(25)・もと、泊神社は川西にあった

2014-01-17 09:51:16 |  ・加古川市米田町

 泊神社(加古川町木村)
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 「宝殿駅界隈を歩く」といいながら、話題は一挙に遠くへ飛んでしまう。
 ここで加古川町木村にある泊神社について少し触れておきたい。
 『播磨鑑』の記述に「泊神社には4人の神官がおり、真言宗に属した神宮寺の僧と神人(みこ)一人がいた」とある。
 かなりの大社であったようだ。泊神社の氏子に注目したい。
 泊神社の氏子は、地元の木村・稲屋・友沢・西河原・加古川の五ヵ村が祭礼の世話をするが、さらに塩市・米田新・古新・米田・船頭など加古川右岸(西側)一帯に広がっていた。
 現在、泊神社の氏子は、加古川の東岸・西岸に広がっている。すこし不思議である。
    
もと、泊神社は加古川西岸にあった
 「元禄播磨絵図(部分)解読図」をみている。
 加古郡と印南郡(いんなみぐん)の境界が書かれている。
 地域の「境界」を決める場合、川・海・山・道などを目印にするのが普通である。
 加古郡・印南郡の境界が決められた頃(奈良時代)、加古川の本流がここを流れ、加古川村(現在の本町)・木村・友沢村・稲屋村は印南郡に属していた。
 加古川は、暴れ川である。もともと、泊神社のある木村は川西にある集落であったが、洪水で加古川は流路を変え、その地域は二つに分断されてしまったのである。
 木村・稲屋・友沢・西河原・加古川の村々は、明治22年まで印南郡に属していた。
 そして、明治2241日の合併時、木村等印郡の川東のこれらの村々は、何かと 不便であるので加古郡に編入され、現在に至っている。
*地図:元禄国絵図(解読図)
(注)現在の高砂市の中心部の郡境は不自然であるが、これは加古川の流れではない。別の理由で決められた。後日、説明をしたい。

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さんぽ(24):宝殿駅界隈を歩く(24)・宮本武蔵②、武蔵誕生の地?

2014-01-16 08:56:52 |  ・加古川市米田町

  宮本武蔵誕生の地?
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近年、宮本武蔵が注目されることが多い。
前号で、その出生地について米田村と断定したが、実のところは確定されていない。
 『高砂市史(二巻)・近世』から、武蔵の主要な生誕地を紹介しておきたい。
   
・生国は播磨(『五輪書』)
 まず、唯一、武蔵が著したとされる兵法書である『五輪書』には、「生国播磨」とあり、播磨国の中で生れたことになる。
   
・太子町宮本村
 
 次に、一八世紀中頃に宮本伊織の出生地に隣接する平津村の平野庸脩(つうさい)が編んだ『播磨鑑(はりまかがみ)』がある。
 
 ここには、「宮本武蔵、揖東郡鵤ノ邊、宮本村ノ産也」と明記している。
 この宮本村は、現在の揖保郡太子町宮本村である。

 ただし、『播磨鑑』には、もうひとつ佐用郡平福の説があるとしているが、その内容はない。
   
・生国は播磨(『二天記』豊田景英)
 そして、安永五年(1776)に豊田景英が著した『二天記』がある。
 新免玄信すなわち宮本武蔵の伝記である同書には、武蔵が播磨生まれであることが記されている。
 豊田景英は、熊本藩細川家の筆頭家老である。
 『二天記』は、武蔵の晩年の弟子たちからの聞き覚書をはじめとする史料を、わかりやすくまとめたものであり、武蔵を知るうえで重要な著書である。
   
・作州宮本村(東作誌)
 さらに、文化十二年(1815)に津山藩士正木輝雄が著した作州東部六郡の地誌『東作誌』には、武蔵が作州宮本村の平田無二の子であることが記されている。
   
・米田村(宮本家系図)
 また、武蔵や伊織の子孫である豊前小倉の宮本家の系図を基にしたものがある。
 この系図は、一九世紀中頃に作成されたと考えられるもので、武蔵が印南郡米田村の田原甚右衛門家貞の二男として記されている。
 甚右衛門家貞の長男は、伊織の父の甚兵衛久光である。
 つまり、武蔵は、伊織の父の弟、すなわち叔父というのである。
 
写真:「武蔵之生誕地」と刻んだ、でっかい石碑である。揮毫は、東京都知事選に立候補した細川護煕氏のお父さんの護貞氏である。
 *『高砂市史(第二巻)・近世』参照
 *写真:「宮本武蔵・伊織生誕之地」を示す石碑
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さんぽ(23):宝殿駅界隈を歩く(23)・宮本武蔵①、武蔵は米田の人

2014-01-15 08:16:28 |  ・加古川市米田町

  宮本武蔵① 武蔵は米田の人
 吉川英治の小説『宮本武蔵』は、大好評をはくした。
 吉川英治は、武蔵の生誕地を「作州大原(岡山県)」とした。
 そのため、武蔵は作州人だと信じられている。
 近年、この説に異議が唱えられている。
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つまり、「宮本武蔵は高砂市米田町生まれである」とする説である。
 その根拠になったのは、泊神社(加古川市加古川町木村)に宮本伊織(武蔵の養子)が奉じた棟札(写真)の発見である。
 棟札について、少し説明を加えながら紹介したい。・・・・武蔵は赤松一族の出身である。武蔵誕生の250年ほど前のことである。
 赤松持貞は、こともあろうか将軍の側室に手をだしてしまった。持貞は切腹を命じられ、嫡男の家貞等一族は、印南郡の米田に追放になった。
 姓も田原に変え、地侍として勢力を伸ばした。
 そして、家貞から五代目に名前も同じ家貞の時、二人の男子がいた。その弟の武蔵玄信は、作州・新免(しんめん)氏の養子になった。
 新免氏は、後に宮本と名を変えた。宮本武蔵の誕生である。
 武蔵にも子どもがなかったので、伊織を養子とした。
 武蔵は、明石藩の小笠原に仕えていたが、豊前の小倉に移ったので伊織もそれに従った。伊織15歳の時であった。
 伊織は、小倉藩で家老にまで上りつめた。
 武蔵の死後8年目の承応二年(1653)、伊織は武蔵の出身地・米田の氏神である泊神社の老朽化がひどく、田原家の祖先供養のために社殿を新しくした。
 発見された棟札には武蔵の出自を書いている。武蔵の生誕地「播磨の国・米田説」は、  俄然説得力を持ってきた。
 武蔵は『五輪書』でも、はっきりと「生国播磨」と書いている。
 *写真:伊織奉納の棟札(泊神社)。なお、伊織奉納の灯篭が社殿の裏にある。

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さんぽ(22):宝殿駅界隈を歩く(22)・米田大地震

2014-01-14 09:12:30 |  ・加古川市米田町

 米田大地震(応永19年・1412
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先に、中世の 加古川地域を記録した鎮増の書いた『鎮増私聞書』から応永32年(1525)の加古川大洪水を紹介した。
 『私聞書』は、また応永19年(14121114日の早朝・米田に大地震があったことを記録している。
 地震の記事は、次のようである。
 ・・・某年(応永19年)十一月十四日暁、大地震あり、他国は、去程はなしと云伝、播磨にては米田東西十里計、神舎・仏寺・人屋はくつ(崩)れ、人の打殺さるゝこと多かりけり・・・
 播磨以外では、さほどのことはなかったようである。
 播磨では、米田を中心として周辺10里ほどの神社・仏閣等が殆ど倒壊したことを記録している。
 米田の地震は、今で言う直下型の地震であったのかもしれない。
 加古川下流の沖積平野は、加古川の流れが運んだ土砂が表面を覆い、地下の構造が把握しにくい。
 南海地震・山崎断層にともなう地震にはもちろん注意が必要であろうが、加古川にはあんがい私たちの知らない断層があり、それが動いて大きな被害をもたらすかもしれない。
 593年前に米田を中心にしておきた米田大地震は、そのことを私たちに教えてくれているのだろうか。
 歴史から学んでおこう。
 *『加古川市史(第二巻)』・『加古のながれ(市史余話)』(加古川市史編さん室)参照

 

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さんぽ(21):宝殿駅界隈を歩く(21)・加古川大洪水

2014-01-13 00:02:04 |  ・加古川市米田町

 「加古川大氾濫(応永32年・1425
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 中世(鎌倉~室町時代)の地方史は、一般的にはっきりとしない。
 というのは、ほとんど史料が残っていないからである。
 そんな中で、米田にあった定願寺(じょうがんじ)の僧・鎮増(ちんぞう)が残した『鎮増私聞書』は、室町時代を知る貴重な記録であり、それに加古川の大洪水のことが登場する。
 ・・・その年(応永32年・1425)の725日の夜半から雨がひどくなり、ついに加古川が氾濫しました。
 ・・・・
 加古川は、播州平野を流れる大河でございます。・・・・いったん川が暴れだすと手がつけられません。
 今回のような、大洪水は、近隣の人々が流されて亡くなるという大惨事に至ったのでございました。
 私(鎮増)も、いちおう避難しましたが、目の前を流れてゆく人々をみましても、どうすることができない、もどかしさがございました。
 人を救うのが僧侶のつとめであるはずですのに・・・
 しかしながら、この流死者を仏がお救いにならなかったのは、この者たちが悪行をつくって悪道におちるべき者だったからなのでしょうか。
 ざっと見ただけで、千人以上の人が亡くなったのでしょう。
 上記の「しかしながら、この流死者を仏がお救いにならなかったのは、この者たちが悪行をつくって悪道におちるべき者だったからなのでしょうか」の鎮増の考えは、当時の考え方からぬけだしていない。
 *(『室町お坊さん物語(田中貴子)』(講談社現代新書)より
 なお、この頃、加古川の本流は、鎮増の住む米田から伊保崎(高砂市西部)へ流れていた。

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さんぽ(20):宝殿駅界隈を歩く(20)・米田町合併問題⑥・宝殿駅前境界変更問題

2014-01-12 07:33:00 |  ・加古川市米田町

      宝殿駅前境界変更問題
 
 001
 いま、加古川市の住宅地図を見ている。JR宝殿駅の周辺は、なるほど不思議な地割である。
 宝殿駅の駅舎は高砂市であり、その南一帯の商店街は、加古川市に属している。
 駅から南に伸びる道を行くと国道2号線にでるが、さらに行くとすぐ高砂市になる。
 JR宝殿駅前周辺の開発の話がおこれば、加古川市と高砂市の利害が対立しそうな配置にある。
 昭和32年、米田町合併問題の余波があった。
 米田町が分裂して、それぞれ加古川市と高砂市に合併した直後から、平津地区特に国鉄(当時)宝殿駅前商店街を中心として、再度分市を求める動きがおきた。
003
 昭和325月、主に宝殿駅周辺の住民が高砂市長と議長に「平津地区を高砂地区に編入して欲しい・・・」と申し入れた。
 高砂市は「地元の福祉を守る」と言う立場で県の調停を求めた。
 これに対して、他の平津地区の住民は「先に高砂市に出された陳情はデタラメである」と県当局や加古川市に申請書を提出した。
 48日、加古川市議会も「再分市絶対反対」の決議をした。
 県は「・・・米田地区を分離した際、住民の多数意見によって加古川市に編入したばかりであり、調停にかかったからといって境界変更を認めることにはならない」と、分市を考えていないことをほのめかした。
 その後の話し合いで、加古川市は平津地区の要求を尊重すると言うことで、分市の動きは、おさまっていった。
*写真上:宝殿駅、下:宝殿駅前商店街

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さんぽ(19):宝殿駅界隈を歩く(19)・米田町の合併⑤、川西小学校問題②

2014-01-11 08:38:34 |  ・加古川市米田町

 川西小学校問題 越境入学
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 昭和334月の新学期、84名の児童は、米田小学校へ通学した。
5
月に入っても77名の児童が越境入学した。
 6月22日、加古川市教委から、米田小学校へ通学している児童は、川西小学校へ復帰するよう文書が配られた。
 このままの状態が続けば、進級できないことも予想された。
 高砂市教委から、ニ学期から川西小学校へ復帰すれば出席・成績等は考慮すると言うことも提案された。
 二学期が始まった。依然として73名の児童が米田小学校へ登校した。
 机・椅子等が用意されていない。そのため廊下で待機した。
 事態を重視した両教委は、緊急会議を開き「当初の方針どおり、米田小学校へ通学を認めない」ことを確認した。
 保護者との話し合いは、もめにもめたが、結局「二学期は、現状維持」とする暫定措置で了解した。
 10月はじめ、高砂市から三学期からの米田小学校への越境を絶対に認めないことの申し入れがあり、加古川市も了解した。
 やがて、三学期の始業式(16日)がはじまった。
 73名のうち56名が川西小学校へ登校したが、残る17名は依然として米田小学校へ通学した。
 これらの児童は、学校から拒否されながらも9日まで強引に登校を続けた。
 17名の保護者は、10日に「盟休声明書」を関係当局にくばり、「寺子屋授業」を始めた。
 その後、各方面からの説得もあり、3月半ば問題は急転直下解決となり、17名全員は川西小学校へ登校することになった。
 ようやく、川西小学校問題は解決した。
 なお、幼稚園や中学校についても問題はあったが、大きな問題にはならなかった。
*『加古川市議会史(記述編)』参照
*川西小学校は合併後建設された珍しい円形校舎であったが、老朽化に伴い姿を消した。<o:p></o:p>

 写真は、49年の歴史を終え解体中の円形校舎。(2007812日撮影)

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さんぽ(18):宝殿駅界隈を歩く(18)・米田町の合併④、川西小学校問題①

2014-01-10 08:46:18 |  ・加古川市米田町

 川西小学校問題
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 昭和319月、米田町議会は、船頭・平津地区は加古川市へ、その他は高砂市へ合併することを決議した。
 合併問題は、解決したかに思えたが、しこりを残していた。
 高砂市長は、「米田小学校は、高砂市に編入されたのであり、同校の財産・所有権はすべて高砂市にある」と主張して、船頭・平津地区の児童の米田小学校への通学を拒否したのである。
 加古川市としては、小学校は当然組合立で運営されるものと考えていたので、あわてた。
 高砂市の態度は強硬で、「昭和32年度は、米田小学校への通学を認めるが、新校舎の完成が可能な昭和33年度以降は認めない」と主張した。
 話し合いは難航した。加古川市は新校舎の建設を考えざるをえなくなった。
 新校舎の建設は、昭和3212月に認められ、急ピッチの突貫工事にかかわらず、完成は新年度にずれ込んだ。
 高砂市は、新校舎完成までの米田小学校への通学を認めた。
 加古川市立川西小学校は、昭和34年4月、新しくスタートした。
 しかし、スムーズな門出とはならなかった。
 米田小学校へ通学していた児童675人のうち80人余の高砂市との合併を要求していた親は、川西小学校への通学を拒否した。
 84人の児童は、米田小学校へ出席し、約70人の親も「越境通学」を求めて同小学校へ押しかけた。
*『加古川市議会史(記述編)』参照
*写真:米田小学校<o:p></o:p>

 

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さんぽ(17):宝殿界隈を歩く(17)・米田町の合併問題③、米田町の分裂③

2014-01-09 08:38:34 |  ・加古川市米田町

 米田町の分裂
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米田町をめぐって、高砂市と加古川市との綱引きが強まる中で、新たに「印南郡中部ブロック案」が県から提示された。
 つまり、西神吉村・東神吉村、そして多くの米田町民が生石神社の氏子を同じくしている関係から阿弥陀村との合併案である。
 しかし、中心となる米田町の態度がいつまでもはっきしなかった。
 そのため、西神吉村・東神吉村が加古川市との合併に傾いた。
 これと同時に、米田町船頭地区も加古川市に合併したい趣旨の要望書を米田町会に提出した。
 高砂町は、阿弥陀村に急遽合併を申し入れ受け入れられた。
 米田町は、住民投票で住民の声を聞くことにした。
 合併の条件は、有効投票の55%以上の賛成が必要と言うことに決めた。
 投票に先立って米田町長は、「住民投票の結果を参考にするが、町会においても慎重に審議して決める」とも述べていた。
 結果は、賛成2574票(55.4%)で、からくも賛成に必要な55%を0.4%上回っただけだった。
   
米田町は高砂市へ、
      船頭・平津地区は加古川市へ
 町会はますます混迷し、合併問題は県に委託された。
 県会議長は、次のように述べている。
 「・・・難航している両市が米田町にテコ入れしているためで、このままでは何時までたってもラチがあかない。
 この際、県に一任してもらうことになったが、町村合併促進法が切れる9月までに、  合併審議会でよく検討して解決したい(神戸新聞)・・・」
 そして、県の裁定がでた。
 印南郡米田町は、高砂市に合併するものとする。ただし、その際同町船頭及び平津のニ地区は、加古川市に編入するものとする。
 米田町は、県の裁定案をのんだ。しこりを残した合併劇は終わった。
 *『加古川市議会史(記述遍)』参照
 *写真:高砂市、米田町および阿弥陀村との合併(昭和31年)、提供高砂市

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さんぽ(16):宝殿駅界隈を歩く(16)・米田町の合併問題②、 米田町の分裂②

2014-01-08 08:27:00 |  ・加古川市米田町

 米田町の分裂②
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 昭和25年、米田町・西神吉町・東神吉町は、旧加古川町を中心とする合併に参加を申し入れ、これら3町との間で仮調印までおこなっていた。
 しかし、米田町は、加古川市への参加に反対するグループが町長のリコール運動をおこす内紛もあり、結局3町の合併は実現しなかった。
 その後、米田町では、高砂町との合併を望む声が高まり、加古川市との間で板ばさみの苦しい立場に立たされることになった。
 この時、加古川市の態度は「加古川市と高砂地区が大同合併して、一大産業都市を建設したい」という理想を掲げた。
 米田町内の事態は、ますます悪化した。
 合併のこじれから端を発した町政の紛糾は、町長の不信任案の提出からリコール寸前へ、さらに町会の正副議長の辞職を申し入れるまでにいたった。
 加古川市でも、もっと積極的に米田町に働きかけるべきとの意見が高まった。
昭和29116日の米田町会は、議員16名中7名の欠席の中で高砂への合併に同調することを決定した。
 ここに激震が走った。
    
船頭地区は分町しても加古川市と合併を
 米田町船頭地区は、「分町してでも加古川市に合併する」とする爆弾宣言が飛び出し、陳情書を県当局ならびに議会筋に申し入れた。
 米田町の合併問題は、県を巻き込んだ合併劇となっていった。
 *『加古川市議会史(記述遍)』参照。写真は、米田町役場(『加古川市議会史・記述遍』より)

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さんぽ(15):宝殿駅界隈を歩く(15)・米田町の合併問題①、米田町の分裂

2014-01-07 07:59:03 |  ・加古川市米田町

 Photo
 米田町の話は、どうしても米田町の合併の話からはじまる。
 それほど、米田町の合併問題は大事件であった。
 昭和25615日、加古川市は加古川町・神野村・野口村・平岡村・尾上村が合併して誕生した。
 その後、別府町(昭和2610月)、八幡村・平荘村・上荘村(昭和304月)、東神吉村・西神吉村・米田町船頭・平津地区(昭和319月)を加古川市に編入した。
 そして、志方町を昭和542月に編入し、現在にいたっている。
    米田町の分裂
 そのうち、米田町との合併は、もめにもめた。結果、米田町は分裂した。
 この経過を見ておきたい。
 高砂市は、昭和29年高砂町・荒井村・曾根町・伊保村が合併して誕生したが、それに先立って米田町との合併を望んだ。
 加古川市も同じで、米田町との合併を希望した。
 米田町にあるニッケ印南工場と加古川工場は密接な関係にあった。
 ニッケ工場は、行政が異なり、何かと不便があった。
 また、ニッケ印南工場は、米田町と東神吉村にまたがっている。
 さらに、西神吉村・東神吉村と米田町は、宝殿中学校を共同経営していた。
 この外にも西神吉村・東神吉村・米田町は緊密な関係を持っていた。
 米田町は、高砂市と加古川市の狭間にあり、そのため合併問題で翻弄されることになった。
 米田町の住民は、加古川市との合併派、高砂市との合併派に分裂し対立してしまった。
*『加古川市議会史(記述遍)』参照、地図の赤い部分が加古川市米田町

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さんぽ(14):宝殿駅界隈を歩く(14)・米田の伝承

2014-01-06 00:35:27 |  ・加古川市米田町

    米田の伝承<o:p></o:p>

 米田町の合併は、もめにもめた。その結果、米田町は現在、高砂市と加古川市に分かれの合併となった。
 その経過を「宝殿駅界隈を歩く」で追ってみるが、その前に米田の伝説を紹介しておきたい。
   米田(よねだ)の伝説
 『ふるさとの民話』(加古川青年会議所)からの転載であることを最初にお断りしておきます。
   ◇米墮(よねだ)◇ 
 Photo
 大化元年(645)、船師の藤井という人が、年貢の米を船に積んで海を通っていました。
 その時、法華山一乗寺(いちじょうじ)にいた法道仙人(ほうどうせんにん)が、鉢を飛ばせて供米を申し入れました。
 藤井は、「自分だけの了見で米を渡すことができない」とことわったところ、鉢は  ふたたび空中に舞いあがり、それに続いて、積み荷の米は米田の上空を法華山へとつらなって飛んでいってしまいました。
 藤井は、驚いてあやまりに行きました。
 藤井が供米をこばんだのは、年貢米を私物として考えなかったことが正しいのであって、おこる法道仙人の方に無理がありました。
 法道仙人が笑って許すと、米はもとのように連なって船へ飛んで帰りました。
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 その米俵のうち一俵が、この地に落ちたことから米墮(よねだ)といい、後に「米田」の字をあてています。
(墮には「落とす・落ちる」と言う意味がある)
 一俵だけ、この地に落ちたのは、法道仙人が信仰している薬師如来がまつってあったので、供物であったということです。
 その後、米田の村は米がよく実り、おおいに栄えたということです。
 *絵:一乗寺開山上人像(一乗寺蔵)

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