気ままな「ひろかずのブログ」です。
いま、小説『双剣の客人(寺林俊)』(アールズ出版)を読んでいる。
この小説は、主人公・宮本武蔵は米田村(高砂市米田町)誕生説で書いておられる。
米田を歩いてみたくなった。
でも、きょう(12月17日・水)は寒波。
いまから頑張って、写真を撮りに出かけます。
加藤弥兵衛塔
慶安二年(1645)、陸奥白河藩から姫路入りした榊原忠次の頃には、播磨南部を中心として新田の開発が盛んに進められた。
姫路藩は新田開拓を進めるための後援を惜しまなかった。
新田が完成すると、検地役人により新田の高などが決められた。
もちろん、村にとって高の査定は少ない方がよいが、藩にとっては、その反対になる。
そのため、姫路藩の役人と百姓との駆け引きがあった。
加藤弥兵衛は、そんな役人の一人だった。
弥兵衛の名前は、播磨地方南部の各村々の検地にしばしば登場する。
加藤弥兵衛、自刃す
伝承によれば、寛文年間、米田新田の開発が完成し、検地が行われた際、弥兵衛は検地におもむき、貧しい百姓のために寛大な措置をとった。
百姓にはよろこばれたが、役人として責任を感じ、帰路、籠の中で切腹したと言われている。
村人は、これを悲しんで米田に碑(写真)をたてた。
地元では、この塔を「やへどさん」と呼び、親しんだという。
弥兵衛は、藩財政の窮乏を新田開発で切り抜けようとした藩政担当者と農民との間に板ばさみになった犠牲者であったのだろう。
*写真:加藤弥兵衛の塔