ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

新野辺を歩く(27):新野辺住吉神社⑪・梅谷重傳

2012-07-31 09:05:49 |  ・加古川市別府町新野辺

007前号で、新野辺住吉神社の鳥居について書きました。きょうも、鳥居からの話です。

鳥居に向かって左の柱(北・写真上)に、「延享二乙年・正月吉祥日」と、この鳥居がつくられた年を刻んでいます。(*延享二年:1745年)

そして、右の柱(南・写真下)には、鳥居の寄贈者、「梅谷重傳」の名があります。

   

延享二年(1745)の庄屋は梅谷家

新野辺村の大歳家は天明5年(1785)年に新野辺村の庄屋に任命されています。

それ以前、新野辺村の庄屋は梅谷家でした。

梅谷家は大歳と庄屋を交替するまで庄屋を務めており元文二年(1737)当時でも100石余を所持しており、近世初頭以来、新野辺村の有力な地主としてきた家であろうと思われます。

大歳家は、文化二年(1805)の38石余りから嘉永4年(1851)の95石へと梅谷家に次ぐ地主に成長しています。

 

008_2  大歳家が新野辺村の庄屋に

そして新野辺組の大庄屋に

文化元年(1818)11月、大歳吉左衛門は大庄屋格となり、そして天保9(1838)大歳藤家は、新野辺組の大庄屋となりました。

ここでよくわからないことがあります。

それでは、梅谷家がどうして大歳家と庄屋を交替し、また、大庄屋に選ばれなかったのかということです。

いろいろと想像はできるのですが、史料等で確かめることはできていません。

この問題は後に、想像も交え考えることにしましょう。

ともかく、鳥居が造られた時の新野辺村の庄屋は梅谷家で、梅谷氏がこの鳥居を寄贈したのは自然なことのようです。

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新野辺を歩く(26):新野辺住吉神社⑩・消えた石の習俗

2012-07-30 09:14:10 |  ・加古川市別府町新野辺

 願かけの「つぶて」

6838c85fきょうは、どこにでも見られた話です。

かつて、鳥居に石ころがたくさん載っている風景は、どこでも見られました。

過去形の話です。でもそんなに遠い過去の話ではありません。

私(69才)の子どもの頃は、どこの神社でもそんな風景が見られました。

その時は、「悪戯(いたずら)かな・・・」と思っていました。

・・・・

『つぶて中沢厚著(法政大学出版センター)の一節を読んでみます。

・・・どうしてあのような所鳥居に小さな小石が載っかかっているのか不審に思って見上げた人もあるだろう。

「願かけのつぶて」ともいって、これは全国的な信仰習俗です。

何かを願って小石を投げ、「うまく載れば、願いがかなう」という一種の占いにも通ずる・・・以上『つぶて』より

つまり、神様に自分の願いがつうじ、「神様からのOKのサインの証が鳥居に載った石ころ」だというのです。

このように石投げは本来、神と人間の交流の手段でした。

   消えた石の習俗

009新野辺の住吉神社の鳥居には石ころは乗っていません。

おそらく、こんな石の風習も消えて久しくなって、最近では、小石の乗る鳥居を切ることも、ほとんどなくなってしまいました。

ひとりのおじいさん(私のこと)が「お金がたまりますように・・・」と鳥居に小石を投げてみました。

石ころは無残にポロリ・・・・(二回目もやはりポロリ)

金運はなさそうです。神様に拒否されました。

 子どもが神社の境内で遊ぶことも少なくなりました。

 ・・・・

 風が吹き抜ける木々の下で、元気な子供の遊ぶ声を聞きたいものです。

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新野辺を歩く(25):新野辺住吉神社⑨・正覚寺

2012-07-29 07:48:43 |  ・加古川市別府町新野辺

   正覚寺跡

011  新野辺住吉神社の鳥居の南に広い土地があります。

ここは旧公会堂の跡地ですが、ここにかつて、浄土宗正覚寺がありました。

今は、住吉神社の南東隅にある鐘楼跡(写真)が、その名残をとどめています。

新野辺村にあった3つの寺院については後日、詳しく取り上げます。

今回は、簡単に紹介しておきます。

新野辺には、鶴林寺(浄心院・天台宗)の檀家が多くあります。なぜでしょうか。

 江戸時代、長砂村(現:野口町長砂)の西方寺を本寺とする浄土宗の三か寺がありました。

 それらの寺は、円福寺・長谷寺と住吉神社のとなりにあった正覚寺です。

 寛延三年(1750)の新野辺村の明細帳にもこの3か寺は記されています。

   正覚寺・明治4年に廃寺に

これらの寺は、天明の頃からあいついで無住になり、明治4年(1873)、ついに廃寺となってしまいました。

 新野辺村から寺がなくなってしまいました。新しい寺を見つけなければなりません。

   新野辺村と鶴林寺浄心院

 鶴林寺には3ヶ寺があります。その内の西の寺が浄心院です。

浄心院の歴代住職のうち4代が新野辺村出身の梅谷氏でした。

その後、浄心院は出火し全焼してしまいました。

この時、梅谷家の財力で再建したということです。

新野辺村の梅谷家と鶴林寺の浄心院は強い結びつきがありました。

また、新野辺村は浜ノ宮天神社の氏子の村であり、鶴林寺は浜ノ宮天神社の「神宮寺」でした。

 (注)神宮寺・・・神仏混合で神社に付属した寺で、神も仏教を喜ぶという考えから僧侶が神社の祭りを仏式で行っていました。これらの制度は、明治時代すべて廃止されました。

 こんな関係でしたから、新野辺村は、もとは浄土宗の寺の檀徒でしたが、鶴林寺・浄心院(天台宗)の檀徒となりました。

 *写真:正覚寺の鐘楼跡(新野辺住吉神社南東隅)

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新野辺を歩く(24):新野辺住吉神社⑧・綿屋源四郎

2012-07-28 07:01:13 |  ・加古川市別府町新野辺

   昭和46年当時の新野辺住吉神社

 940a3aae現代では、新野辺の住吉神社は、新野辺以外の人にはあまり知られていないようです。

 新野辺の住吉神社は、適切な表現ではないのですが、現在、昆虫が羽と脚をとられているようさえ見えるのです。

 かつて境内には松が生い茂っていたという記録(社寺明細帳・天明二年)があります。

 今は、広い境内の一角にちょこんと本殿があるだけです。

 『加古川市誌(第二巻)』(665p)にある住吉神社(写真上)では、大きな拝殿があります。

 『加古川市誌(第二巻)』が発行されたのが昭和46年ですから、その当時でも昔の風景が若干残っていたようです。

 綿屋源四郎

 024 社殿(本殿)の前に一対の常夜灯と宝暦十二年(1762)寄進の狛犬があります。

 そして、本殿を囲む玉垣の前に一対の灯籠があります。

 向かって左の灯籠の文字は、はっきり読むことはできませんでしたが、右の灯籠(写真下)は、延享二年(1745)正月 綿屋源四郎寄進の銘をはっきりと読むことができます。

 江戸時代後期~明治時代の初めの頃、加古川地方、特に浜手は木綿の生産が盛んでした。

 燈籠にある綿屋源四郎は、どんな人か確かめることはできませんが、綿を商う商人で、商売に成功し、そのお礼の印に灯籠を奉納したのであろうと考えられます。

写真上:昭和46年当時の新野辺住吉神社(『加古川市誌・第二巻』)より

写真下:「綿屋源四郎寄進」の銘のある燈籠

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新野辺を歩く(23):新野辺住吉神社⑦・肥料王

2012-07-27 10:41:45 |  ・加古川市別府町新野辺

109現在の新野辺住吉神社は、荒れて昔を語る跡をあまり発見することができません。

でも、いろいろと、その歴史を伝えています。

新野辺住吉神社を散策しましょう。

  

 肥料主

全国に、「○○王」といわれた人は、たくさんおられます。

謙虚さを尊ぶわが国では、これらの人々は、他人がそう呼んだので、自らを「○○王」と名のったのではありません。

 例外が加古川市にあります。多木久米次郎です。

 山陽電車の別府駅(加古川市別府町)の西の道を南にまっすぐに下り、別府川を渡って500mほど行けば港に出ますが、その手前に多木浜洋館(あかがね御殿)があります。

 浜洋館の横に写真上のような、大きな石碑があります。

戦前は、この石碑に堂々とした多木久米次郎の像がのっており、もともとの石碑の文字は、「肥料王」でした。

 006 久米次郎は、自分の像に「肥料王」と刻んだのです。

時代は戦前で、天皇の時代に、いくらなんでも「マズカロウ」との声が上がりました。そのため、久米次郎は王の写真のようにチョンを付けて「王」を「主」とごまかしました。

姑息なことを思いついたものです。

  

  新野辺住吉神社に残る「肥料王」

この時、他の石碑の「肥料王」も「肥料主」と変えていますが、新野辺住吉神社の玉垣にある石碑(写真下)は訂正がされていません。

見落としたものか、行書体のためにそのままにしたのか分かりません。

「肥料王」の文字が、そのまま残っています。

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新野辺を歩く(22):北海道へ②・塗炭の村

2012-07-26 07:53:39 |  ・加古川市別府町新野辺

(前号のつづき)

北海道移住計画が持ち上がった明治15年当時、一般的に交通機関も発達していません。

人々は世情に疎い人がほとんどでした。

移民等の問題になると誰も確信がなく、当局としても、進んで許可を出す状況でもありませんでした。

   北海道への移住計画消える・・・

Ff7c5fdaあちらこちらの風評を聞いて処置するのが一般的でした。

そんな時でした。

郡役所は、「徳島県人で北海道へ移住した人たちが、全員困りはてて、帰るにも帰れずに難渋している、という噂を聞いて、新野辺村からの出願者に対する処置もなるべく慎重に対処するよう決め、そして、活路を他の安全な道を歩むように」と村人に説得することを決めました。

そして、この計画は「危険きわまる無謀な計画であるから、宣伝に乗ってはならない」と、郡当局により阻止せられました。

そのため、その後は集会ごとに人数が減り、ついには万難をおかしても決行したいという者は、わずかに8家族となってしまいました。

これらの8家族も熱心ではあるが、何分にも子どもが多く、労働に従事する者が少なく、労働条件の悪い家ばかりでした。

そのような家族を引き連れて移住しても到底初期の目的を達することができないことは目に見えていました。

結局、北海道移住に対する恐が広がり、これらの家族もやがて意欲をなくし、移民の計画は中止となりました。

   住吉頭・講の衰え

しかし、苦しい生活は容赦なく新野辺村を襲いました。

北海道移住はやめたが、神戸や大阪へひそかに夜逃げするものが相次ぎ阪神間に避難し、行方をくらますものが百十数戸におよび、二百数十戸あった新野辺村は百五十戸たらずの貧しい村となってしまいました。

残った者ものも不景気のどん底にあえぎながら、ようやく飢えをまぬがれるといった状態でした。

こんな経済状態でしたから、住吉講の頭式はもちろん、伊勢講・山上講・えびす講・弘峰講・大師講・薬師講・金毘羅講等の講のほとんどが中止となりました。

最後の住吉神社の頭式は、明治17年旧813日福沢常太郎方で行われましたが、その頭式も途中で中止になっています。

 *「新野辺住吉神社の由緒」参照

 (「新野辺住吉神社の由緒」は、戦後、新野辺自治会長として活躍された塩本繁武氏の書き残された綴りです。山本幸一氏がコピー保存されたものの一部を参照させていただきました)

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新野辺を歩く(21):北海道へ①

2012-07-25 07:40:03 |  ・加古川市別府町新野辺

   明治15年・猛烈な暴風雨が新野辺村を襲う

明治15年の秋でした。

猛烈な暴風雨が吹き荒れ、金沢新田の堤防は高潮と荒波のために全部破壊され、新田の稲作は皆無となってしまいました。

金沢新田開発以来の大災害です。

その年、畑の綿は半作に、そして本田の米は3割の減収で大変な凶作となりました。

翌年、明治16年は植え付け後、雨は少なかったのですが、全国的に作物はよく育ちました。

新野辺村では、金沢新田の堤防の修復などに、多大の費用を要しました。

その上に、肥料は松前の魚粕で10貫、250銭以上の高値であったのに、米は1石、350銭から4円ぐらいの安値、綿も10貫で4円内外の安値で収支があわず、農業の打撃は大変なものとなりなりました。

この頃の新野辺村の作物の中心は綿でした。

綿は篠巻と蒲団綿として兵庫・大坂に送りだしてしました。

これに従事する商人や職人もそうとうあって、3年続きの不作は再起不能の農家は百数拾戸を数え、この救済に手の施しようもなく、飢死を待つよりほかしかたない状況となりました。

   北海道への移住へ

5086cd85ちょうどその時でした。

新野辺村のS氏の知人で、その遠縁にあたる士族で加西北条町の小学校長をしていた倉賀野氏が校長引退後、神戸赤心社事務員となり、北海道の石狩への移民担当係りをしていました。

この人に相談して救済策を講じたところ、倉賀野氏は「北海道に肥沃な開墾のしよい土地があり、一家族に7町歩~10町までを貸し与えることができるので、世話をしてやろう。

また、費用としては補助金10円を給し、農具その他の開墾に要する道具類は貸与することになっているから入居者は入る衣類だけを持って行けばよい・・・」ということで、新野辺村の北海道移住計画は動き始めました。

計画では、明治184月から出発し、百家族の移住を実施し、新野辺村の分村をつくり、北海道から当地方に肥料を送り、こちらからは綿を送って相互交換を始めようという計画でした。

新野辺村と赤心社は、移住許可の手続きを執るために加古郡役所(現在の寺家町にあった)へ願い出ました。(次号へ続く)

 *加古郡役所(役所は明治12年加古川市寺家町に置かれ、この建物は明治179月新築)

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新野辺を歩く(20):新野辺住吉神社⑥・頭分の役割

2012-07-24 08:43:59 |  ・加古川市別府町新野辺

   頭分、村の水をとりしきる

 寛政九年(1790)閏七月に新野辺村の庄屋・組頭・総百姓代が小宮組(現:播磨町)の大庄屋に差し出した書類にある五ヶ井用水を新野辺村へ引き込む用水をめぐる長砂村との争論から、新住吉頭の頭分が旱魃による水不足の時に排水をとりしきっていたことが分かります。

百姓にとって一番大切なものは水です。

この水をとりしきることは特別な意味を持ちます。

つまり、住吉頭の頭分は、村の運営の一番重要な役割を果たしているのです。

   大庄屋・庄屋 vs 頭分

96b7ca2d別の例を紹介します。

万延元年(18605月上旬の長雨と7月の台風によって不作となった新野辺村は、他の村と同様に藩へ手当米願いを出願しました。

921日代官が検分をし、庄屋(村)へ41石の下付が申し渡されました。

さらに、これに加えて村の寄り合いで、藩からの手当の報告とともに大庄屋に小作料の減額が話しあわれています。

これを受けて、大歳家と梅谷家は相談を行いました。

この寄合に参加したのは、庄屋と頭分、もしくは住吉社の氏子であったと考えられます。

詳細は省きますが住吉頭は、小経営の農家を守る性格を持っていました。

逆にいえば大歳家や梅谷家から見れば、地主経営上自らの利益を貫徹できない村社会が存在していたことになります。

それが住吉社の氏子であり、具体的には頭分がその役を担っていました。

ここに二つの例を紹介しましたが、新野辺村では、頭分を中心とする住吉頭が小経営の農小生産者を守り、さまざまな点において経営主体として存在していました。

新野辺村の頭分は、ただ庄屋・組頭の監視としての百姓代ではなかったのです。

新野辺村の住吉頭・頭分についての詳細は紹介はできていません。

下記の参考文献をご覧ください。

*『武士の周縁に生きる』(吉川弘文館)・羽田真也論文参照

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新野辺を歩く(19):新野辺住吉神社⑤・頭分(とうぶん)

2012-07-23 08:41:49 |  ・加古川市別府町新野辺

 

  村方三役 

Eccb34e8  江戸時代、村方三役が村を運営しました。

 現在、加古川市内の中学生が使っている歴史教科書(『中学社会歴史』・大阪書籍)の説明を読んでおきます。

・・・・村には土地をもつ本百姓と、土地を持たない水呑百姓との区別があり本百姓の中から庄屋(名主)・組頭・百姓代(ひゃくしょうだい)等の村役人を出し、寄合によって村を運営していました・・・

上記のような説明は、どの教科書にも見られます。

これは誤りではないのですが、少し説明が必要のようです。

というのは、庄屋(名主)は、江戸時代初期から置かれましたが、組頭は必ずしもそうではありません。

また、百姓代は江戸時代中ごろになって初めて姿をみせます。

百姓代についてもう少し説明しておきます。

村入用(むらいりよう)という村費などの負担は庄屋・組頭により村人に割り振られました。

しばしば、その負担をめぐって村役人と一般の百姓の間でトラブルが生ることもしばしばありました。

この傾向は、江戸時代も中期になるといっそう多くなり、激しくなりました。

そのため、一般の百姓を代表する百姓代が登場したのです。

   

   頭分(とうぶん)

きょうは、新野辺村の百姓代についてみましょう。

話は少し遠回りをします。

新野辺住吉神社には神社を運営する組織である住吉頭が置かれました。

その頭を運営する人々は頭分(とうぶん)と呼ばれました。

頭分は、氏子の中から選ばれました。

新野辺村の頭分は、教科書で言う百姓代の役割を果たしています。

しかし、新野辺村の頭分は、庄屋・組頭の仕事を監視するというだけではありませんでした。

庄屋・組頭と共に村の運営にしっかりと組み込まれていました。

つまり、氏子の意見をまとめる頭分は村の運営に積極的な役割を果たしました。

頭分の意見を無視して庄屋・組頭は村の運営を決めることはできなかったばかりか、大庄屋の大歳家でさえ頭分の意見を無視することはできませんでした。

新野辺の頭分は、むしろ村の運営の中心として役割をになっていました。

それでは、頭分は具体的に村の運営にどんな影響力をもったのでしょうか。次号で見ることにします。

 *『武士の周縁に生きる』(吉川弘文館)より羽田真也氏論文参照

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新野辺を歩く(18):新野辺住吉神社④・小百姓の多い新野辺村

2012-07-22 10:02:37 |  ・加古川市別府町新野辺

   

大歳家と梅谷家

A4c6bdff新野辺村は、姫路藩領に属して寛延三年(1750)当時で、村高961石余、家数227軒、人口1075人の村でした。

新野辺住吉神社を中心にした広がりの集落でした。

庄屋は、天明五年(1785)までは悔谷家が、それ以降、安政元年(1854)までは大歳家が代々勤めました。

以下の数字は幕末の嘉永四年(1851)年当時の新野辺村の石高の一部です。

梅谷家が143石弱、大歳家が96石弱を所持しており、所持高3位の善兵衛家が21石でした。

一方、土地を持たない百姓が61軒、1石未満が51件で全体の約57%を占めています。

このように、新野辺村は梅谷・大歳両家が突出した土地を所有し、その一方に土地を持たない農民やわずかな土地を持つ農民が多く存在する村でした。

もちろん、無高層や小百姓は、そのままでは生活ができません。

当然、彼らは梅谷家・大歳家の小作となりました。

が、その外に商いや出稼ぎが多く、商いではけっこうな経済力を持った家もあったようです。

大歳家と梅谷家については、後にさらに紹介します。

  

  小百姓層の多い新野辺村

数字から見ると、新野辺村にとって梅谷家と大歳家の存在は絶対的なようです。

それでは、梅谷家・大歳家が村運営のすべてを取り仕切っていたように想像できます。しかし、大歳家や新野辺村に残る村方文書が語るところでは、必ずしもそうではないようです。

大歳家や梅谷家の村運営とともに住吉神社の氏子が大きな力を持っていました。

それも、小さな経済力を持った村人を代表して村運営に参加し、時には大歳家・梅谷家との対立もありました。

それら住吉神社の果たしていた役割を、関西学院大学の羽田真也先生の研究を参考にして紹介させていただきます。

  *「新兵庫県の歴史(1)」より羽田論文参照

  *『武士の周縁に生きる』(吉川広文館)より羽田論文参照

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新野辺を歩く(17):新野辺住吉神社③・篠部(シノベ)

2012-07-21 08:47:18 |  ・加古川市別府町新野辺

「新野辺を歩く(15)」の復習をしておきます。

   地名「シノベ」

002 ・・・新野辺はもともと、「シノベ」に「篠部」の文字を使っていました。

このふきんには篠竹(しのだけ)がしげり、かくれ住むには都合がよい場所でした。

 嘉吉の乱に負けた赤松一族のうちのある一族が、ここに隠れ住んだという話もあります。・・・(「新野辺を歩く・15」より)

新野辺はもともと「篠部」の文字が充てられていたようです。

そして、正保三年(1646)の播磨国知行高辻郷帳には新野部とあり、元禄十年(1702)の記録には新野辺と記されています。

このような記録から新野辺村の文字が使われるようになったのは、元禄時代前後だと思われます。

   篠竹の繁るところ

030「篠」は、「細くて小さな竹」のことで、新野辺の住吉神社が造られた室町時代の中ごろ、このあたりは篠竹で一面覆われた土地であったとする伝承は、案外真実ではなかったかと思われるのです。

というのは「ひろかずのブログ」では、新野辺住吉神社について書いてみたかったので、先日写真を撮りに出かけました。

住吉神社の写真をご覧ください。

いまは、だだっ広い空間に、小さな社がちょこんと鎮座しているだけの神社です。

往時の住吉神社については何も語ってくれません。

重い口をこじ開ける作業が必要のようです。

 ・・・・

昔は、現在のような宗教の薄い時代ではありません。村人は、自分たちの村ができると、まず氏神さんをつくりました。

神社が造られた場所は、伝承のマムシの話はともかく、篠竹が繁っていたのでしょう。

神社の周囲を歩きました。荒れているとはいえ、清掃は行われているようです。

でも、神社の後ろあたりは、篠竹が猛烈な勢いで芽を出していました。

このまま放置すると篠竹は根を広げ、あたり一面は篠竹で覆われてしまうことでしょう。

まさに篠部(シノベ)の原点を見た思いです。

新野辺は、伝承が言うように、まず篠竹を掘り起こすことから開拓がはじまったのでしょう。

*写真上:現在の新野辺住吉神社

 写真下:芽を伸ばす篠竹(神社の裏あたり)

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新野辺を歩く(16):新野辺住吉神社②・伝承「よの木」

2012-07-20 11:30:00 |  ・加古川市別府町新野辺

D113f23bよの木(エノキ)

 前号に引き続き、新野辺住吉神社の伝承です。

 昔、人々の足に「いしふ」という魚の目のようなものが、よくできました。

それができると、なかなかなおりませんでした。

ところが、新野辺の住吉神社けいだいにある「よの木」の根を「いしふかと思ったらよの木やった」と口ずさんでふむと、ふしぎなことに、たちまち「いしふ」がなおったのです。

そこで、「いしふ」ができた時は、おとなも子どもも「よの木」の根を踏みに出かけたそうです。

・・・・

 住吉神社の御神木が、「よの木」だといわれています。

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新野辺を歩く(15):新野辺住吉神社①・伝承、マムシと住吉神社

2012-07-20 11:10:06 |  ・加古川市別府町新野辺

 話題を変えて、新野辺の住吉神社の探訪に出かけます。

今、新野辺の住吉神社は「あれはて」て、昔の面影はありません。

でも、住吉神社は新野辺村の生活を見守り続けた大切な神社でした。

住吉神社に伝わる伝承の紹介からはじめましょう。

伝承:マムシと住吉神社

Aceff58f別府の新野辺(しのべ)には、こんな話が伝わっています。

 新野辺はもともと、「シノベ」に「篠部」の文字を使っていました。

 室町時代の中ごろのことです。

このふきんには篠竹(しのだけ)がしげり、かくれ住むには都合がよい場所でした。

 嘉吉の乱(嘉吉元年・1441、播磨の国の守護大名であった赤松満祐が、時の将軍足利義教を殺して播磨に逃げ帰り、のち戦いに敗れて赤松氏が滅亡した)に負けた赤松一族のうちのある一族が、ここに隠れ住んだという話もあります。

 江戸時代の少し前の頃です。

大こうずいがあり、田畑は土砂におおわれ、岡のようになってしまいました。

 大こうずいの後、草が茂り、マムシが住みつき村人は大変困っていました。

 村人は、神様に頼むことにしました。

いまの播磨町の住吉神社にお願いして造られたのが、新野辺の住吉神社です。

 そうすると、不思議なことに新野辺からマムシがいなくなり、米・麦などはよく実り、村人は住吉神社をますます信仰するようになったといいます。

 昔は、マムシが嫌ったという紺色(こんいろ)の服装で草取りに出かけたといわれています。

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新野辺を歩く(14):作間稼ぎ・出稼ぎ

2012-07-19 10:15:01 |  ・加古川市別府町新野辺

大坂酒屋の米踏かせぎへ

3bf1db28_2 (「新野辺村明細帳・寛延三年」より)

人数 1075人 

内男 544人

      女 531人

大工   24人

農具鍛治  3人

樽屋    1人

医者    1人

作間商人 22人

と、あり51人の職業が記録されています。

22人の作間商人は、味噌・タバコに売り、木綿小売りが6人、そのほか籠振りの零細な行商人がいたことが分かります。

次に、明細帳から右のか所を読んでおきます。

 (解読)

 男かせぎ耕作之間ニハ干鰯筵打申候、又冬春作間ニ大坂酒屋米踏挊ニ

 九拾人斗(ばかり)りも参り申候、尤五人組迄断参申候

*挊(かせぎ)

 1072aa30(意味)

 新野辺の百姓は農作業の合間に、干鰯(ほしか・農業のための肥料)の藁袋つくりに精を出しています。

そして、冬から春にかけての農閑期に大坂の酒屋に米踏作業に出かけます。

出稼ぎにあたっては五人組迄届けています。

女かせぎについては、「解読」だけを紹介しておきます。

 (解読)

 女稼耕作之間ニハ妻子共干鰯筵縄又ハ浜之宮松林落葉山守とかけわけ浜辺草芝薪かせぎ木綿かせぎ致申候者も御座候

 ここで注目したいのは、男かせぎで「90人ばかりが大坂の酒屋へ米踏稼ぎに出かけている」ことです。

 米踏と言うのですから、酒の仕込みの準備工程である精米作業(単純労働)のことと思われます。

大坂商人のツテで出稼ぎに行ったようです。

このように、農業だけでは生計が難しく、多くの新野辺村の百姓は、商をしたり、出稼ぎに出ています。

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新野辺を歩く(13):本百姓90軒・水呑137軒

2012-07-19 08:43:36 |  ・加古川市別府町新野辺

本百姓90軒・水呑137軒(新野辺村・寛延三年)

3d0b1f6a右の文書は、寛延三年(1750)の新野辺の明細帳の一部です。

 太字に注目ください。

 一 本百姓九拾軒

 一 水呑百姓百三拾七軒

 一 人数千七拾五人 内

         男 五百四拾四人

         女 五百三拾壱人

新野辺村の明細帳によれば、百姓家数227軒のうち本百姓(農地を持っている百姓)90軒、水呑(農地を持たない百姓)137軒と水呑の割合がおどろくほど多く、本百姓を大きくうわまわっています。

農業だけに頼れない

全国には、農業にたよらない他の仕事で書類上は水呑ではあるが裕福な生活の百姓がいます。

が、新野辺村の場合は、農地が少ないこと、汐風の害・水損・旱損の地であり農業にばかりたよれない条件がありました。

そのため、農業での収入を補うために新野辺村から多くの出稼ぎがあったことが明細帳(寛延三年・1750)から読み取ることができます。

次回の「新野辺を歩く」では、新野辺村の職業・出稼ぎについて調べてみることにします。

*文書の二行目に小さく、右に「姓」そして左に「百」の文字の書き込みがあります。書き忘れたか写し間違いのために後から書き入れたものです。

このような例は「写」や「下書き」の文書の中に時々見られます。うっかり書き間違ってしてしまったのでしょう。

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