前号で、新野辺住吉神社の鳥居について書きました。きょうも、鳥居からの話です。
鳥居に向かって左の柱(北・写真上)に、「延享二乙年・正月吉祥日」と、この鳥居がつくられた年を刻んでいます。(*延享二年:1745年)
そして、右の柱(南・写真下)には、鳥居の寄贈者、「梅谷重傳」の名があります。
延享二年(1745)の庄屋は梅谷家
新野辺村の大歳家は天明5年(1785)年に新野辺村の庄屋に任命されています。
それ以前、新野辺村の庄屋は梅谷家でした。
梅谷家は大歳と庄屋を交替するまで庄屋を務めており元文二年(1737)当時でも100石余を所持しており、近世初頭以来、新野辺村の有力な地主としてきた家であろうと思われます。
大歳家は、文化二年(1805)の38石余りから嘉永4年(1851)の95石へと梅谷家に次ぐ地主に成長しています。
そして新野辺組の大庄屋に
文化元年(1818)11月、大歳吉左衛門は大庄屋格となり、そして天保9年(1838)大歳藤家は、新野辺組の大庄屋となりました。
ここでよくわからないことがあります。
それでは、梅谷家がどうして大歳家と庄屋を交替し、また、大庄屋に選ばれなかったのかということです。
いろいろと想像はできるのですが、史料等で確かめることはできていません。
この問題は後に、想像も交え考えることにしましょう。
ともかく、鳥居が造られた時の新野辺村の庄屋は梅谷家で、梅谷氏がこの鳥居を寄贈したのは自然なことのようです。