ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

さんぽ(175):播磨町を歩く(56) 今里伝兵衛①・用水が欲しい

2014-06-30 07:04:31 | 播磨町

  一色・二俣(加古川市平岡町)を流れ、古宮(播磨町)の大池に達する用水(新井用水)の話をしましょう。きょうは、そのあらすじです。
   今里伝兵衛と新井用水
Photo
 承応3年(1645)の旱魃は、ひどいものでした。太陽が大地を容赦なく照りつけました。秋の収穫は何もなかったのです。
 溜池に頼る村々の百姓は、種籾はもちろん木の実、草の根、竹の実を食べつくし餓死する者も少なくありませんでした。
 それに比べて、加古川の水を利用している五ヶ井郷(現在の加古川町・尾上町地域)は、ほとんど被害がなく、水田は夏の太陽をいっぱいに受け、むしろよく実っていました。
 野口・平岡(以上加古川市)・播磨の村々の百姓は、食べるものがなくなり、五か井郷から食料と種籾を分けてもらって、やっと生活をつなくことができました。
 古宮村(播磨町)の大庄屋の今里伝兵衛は、加古川から用水を引きたかったのですが、播磨町の地は、加古川から遠く、それに水は、川より高い土地には流れてくれません。 そのため、上流の城山(じょやま・加古川市神野町)のすぐ北の加古川から水を取ることを考えました。
 しかし、問題は、「取水する場所は、五ヶ井用水の取水口の近くになります。当然、五か井郷百姓たちは了解しないであろう。そして、他の村々の協力が得られるだろうか?」ということでした。
 姫路藩主・榊原忠次の協力を得ることができました。
 困難な工事でも、領主の命令があれば、周辺の百姓は従わざるを得ません。
 難問は解決しました。新井用水の工事は明暦元年(1665)正月に始まり、翌年の3月に完成しました。<o:p></o:p>

  伝兵衛は新井の開通式に白装束で臨んだといいます。
 *挿絵は、伝兵衛が五ヶ井郷の実りを見て、用水の建設を考えているところ。

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さんぽ(174):播磨町を歩く(55) 大中遺跡④・国の史跡に

2014-06-29 05:48:06 | 播磨町

  多くの遺物が出土
021
 大中遣跡は、弥生時代中期から古墳時代中期にかけての遣跡であることが判明しました。
 約44.000平方メートルの範囲に、円形、方形長万形、互角形、六角形の住居跡が数多く発見されています。
 そして、そこからさまざまな用途や機能に応じた土器や鉄器、砥石など当時の人びとの生活を知る手がかりとなる遣物が多量に発見されました。
 また、前号で紹介した当時から中国との交流があったことを示す青銅製の内行花文鏡片(分剖鏡)も出土しています。
   
国の史跡に(昭和42年)
034
 このように大中遺跡跡は、古代国家が形づくられようとする時期を今に伝える重要な遺跡で、昭和42年(1967)に国の史跡に指定されました。
 そして兵庫県立歴史公園「大中古代の村」として全面的に保存、整備され、広く人々
 に親しまれる憩いの場となっています。
 公園内には、復元住居など野外展示物だけでなく、播磨町郷土資料館も併設され大中遺跡の出土品が数多く保存、展示されています。
 きのう(28日)、昼から大中遺跡に出かけ、古代の村を散歩しました。
 竪穴住居の中から小学生らしい声が聞こえてきました。秘密の場所に入ったような楽しそうな声でした。
 どこかの高校のブラス部の生徒でしょう。大きな樹の下で、フルートとトランペットの練習をしていました。湿った風も、気持ちよく感じました。
   
大中は、大沢村と東中野村が合併して誕生
 最後に、蛇足です。「大中」の呼称のことです。
 この地は、昔から「大中」と呼ばれていたのではありません。
 明治9年、加古郡大沢(おおざわ)村と東中野村が合併して、それぞれの地区の名前の一字を取って大中村が誕生しました。
*写真上:復原された、弥生時代後期竪穴式住居
*写真下:播磨町郷土資料館

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さんぽ(173):播磨町を歩く(54) 大中遺跡③・なぞの鏡

2014-06-28 06:50:13 | 播磨町

 大中遺跡で、発見された「分割鏡」については、『歩いてみよう・稲美町の歴史』に詳しいので、その説明をお借りしました。
 文は、一部書き直しています。
   
なぞの鏡(内行花文鏡)
Photo
 昭和38年年(1963)3月、犬中遺跡がある台地の中でも少し高くなっているところにある住居跡から出土しました。
 この住居跡は、弥生時代後期のもので、その住居跡は遺跡の中ほどに復元されています。
 出土したものとは、鏡片(写真)で、最大長6.2センチ、最大幅3センチで、重さは7.2グラムあり、他の遺跡から出土した鏡を参考に復元(写真下)すると直径が21.2センチになります。
 この鏡片は、鑑定の結果、中国の後漢代に製作された内行花文鏡(ないこうかもんきょう)であることが判明しました。
   
分割鏡
Photo_2
 この鏡片は意図的に割った上に、片方を磨いて一直線にし、懸垂ができるように二つの穴があけられており、考古学上、分割鏡あるいは懸垂鏡と呼ばれています。
 このような分割鏡は、近年弥生時代の遣跡から時々発見されるようになってきましたが、昭和38年当時、大中遺跡のこの鏡片は、弥生時代の住居跡から発掘された鏡としては日本第一号で、考古学界で大きなセンセーションを巻きおこしました。
 この大中遺跡の分割鏡がどのようにして大中の地に運ばれてきたのでしょうか。なぜ分割され、他の破片はどこへ行ったのでしょうか。
 また、どのような人が首に懸けていたのでしょうか、大きなロマンを感ぜずにはいられません。
 この鏡は弥生時代の歴史を調べる上で重要なカギをにぎっていそうです。
 というのは、卑弥呼の鏡といわれる三角縁神獣鏡より古く、日本統一の前の時代の鏡であるからです。
 また、文様は数多くの鏡に用いられ、当時の人びとの心をとらえていたと考えられています。
 この内行花文鏡片は、平成10年(1998)に町の文化財に指定され、播磨町郷土資料館に展示されています。
 *写真上:内行花文鏡片
 *写真下:内行花文鏡復原デプリカ

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さんぽ(172):播磨町を歩く(53) 大中遺跡②・タコツボ

2014-06-27 07:42:47 | 播磨町

 大中は絶好の生活の場
 大中の集落は他の集落遺跡がそうであるように、絶好の場所に営まれていました。
 播磨平野のほぼ中奥部で、北から張り出した低平な丘陵は、国道二号線のあたりで切れ、海岸線沿いの低地へとつながっています。大中の弥生集落はこの台地の南端部に築かれます。
 高台であるため加古川の氾濫の影響もあまりなかったようです。
 台地の南は低湿地で、米は十分な収穫があったことでしょう。
 さらに、すぐ近くを喜瀬川が流れ、伏流水も豊かで飲み水の心配もなかったようです。
 大中の人々は、こうしたすばらしい環境の中で生活していました。
   
イイダコ漁
Img
 大中の各住居跡から、非常に小型の土器が百数十個出土しています。
 高さがせいぜい15センチで、口の部分または底部に小さな穴があいており、単なる貯蔵用の容器ではないことは確かです。
 この土器は大阪湾沿岸、播磨灘北九州の博多湾沿岸からも多数の出土例があり、用途不明の土器として長く放置されてきましたが、最近になってイイダコ漁のための土器であることがわかりました。
 今から1100年前、大中の人々はすでにイイダコの習性を知って、特殊な漁獲法を工夫し、そのうまさを味わっていたのです。
 イイダコは、体は小さいのに大きな卵を産みます。その味は絶品です。
 春から秋にかけてのイネ作りが終わった時期、大中の人々は、比較的ひまでした。
 この時期、彼らは北西の寒風に吹かれながらイイダコ漁していたに違いありません。
 *図:大阪湾・播磨灘沿岸のイイダコつぼ型土器分布図(『兵庫探検・歴史風土編(神戸新聞社)』)より

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さんぽ(171):播磨町を歩く(52) 大中遺跡①・地元中学生により発見

2014-06-26 06:34:13 | 播磨町

  大中遺跡、地元中学生により発見
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 大中遺跡は、昭和376月、地元播磨中学の三人の生徒によって発見されました。
 古くから「大増(おおぞ)の畑では土器が出るとか、大増には貝殻の山が三つもあり、じゃまになるので車で捨てに行った」とかいう話がありました。
しかし、公にはなっていませんでした。
 古代の歴史に興味を持っていた播磨中学校の三年生の浅原重利(あさはらしげとし)、大辻真一(おつじしんいち)、大辻要二(おおつじようじ)らは、大正時代にこの地に別府鉄道が敷設された時、多くタコツボが掘り出されたことを地元の古老から聞き、調査したところ、多くの土器片を発見しました。
 これが、大中遺跡が世に出るきっかけとなりました。
   
県下最大の集落遺跡(弥生~古墳時代)
 昭和371225日、上田哲也氏(東洋大付属姫路高教諭)を中心に発掘が始まりました。
 翌日には、さっそく住居跡の遺構を掘り当てました。続いて27日に第二号住居跡。<o:p></o:p>

 正月も休まずに掘り進むという熱意が実を結んだのか、三日には3つめの住居跡を発見しました。
 そのため、考古学者のほかに古建築の専門家も加わって、本格的な調査が続けられ、昭和47年の春まで11回の発掘が行われました。
 この間に「出た住居跡は合計43基」といってもこれはほんの一部でした。
 遣跡の総面積は四万平方㍍にも達するのですが、発掘区域は十分の一にも満たない3000平方㍍で、全域を掘れば300基近くになると推定されました。
 また、住居跡は円形、方形、長方形、六角形などそれぞれ違うタイプのものばかりで考古学的に高い評価を受けるとともに、大中遺跡は広く世に知られるようになりました。
 この遺跡は弥生時代後期(2世紀)から古墳時代中期(5世紀)にかけての遺跡ですが、当時県下ではもちろん最大、全国でもAクラスの規模を持つ集落でした。
 *写真:大中遺跡から発見された大量のタコツボ群(昭和382月撮影)、『兵庫探検・歴史風土編』(神戸新聞社参照)

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さんぽ(170):播磨町を歩く(51) 播磨町合併物語④・播磨町は独立路線を

2014-06-25 07:16:34 | 播磨町

 別府町の合併進まず
 「世論調査の投票」(拘束力を持たない)の結果は、別府町と加古川町の合併は反対となりましたが、別府町は、今度は阿閇村(現:播磨町)との合併の協議にはいりました。
 事態は、加古川市制実施予定の61日に向けてますますの緊迫してきました。
 町長・町議会とも最終的な態度を決めなければならなくなりました。
 そのため、今度は拘束力のある「決戦投票」の結果にゆだねることを決めたのです。
 投票は、昭和2556日に実施され、結果は次のようでした。
    加古川町との合併賛成     1250 票
      〃   合併反対     1164 票 
 *この投票には、「外国人(在日朝鮮人を指す)は投票せしめない」との注意書きがありました。
 結果は、別府町の加古川町との合併賛成が反対を上回ったのですが、その差はわずかに86票でした。
 一部の議員からは「町長リコール」・「分村してでも・・・」という言葉まで飛び出しました。
  阿閇村(現:播磨町)は、加古川市との合併を拒否
 土山駅前問題
004
 このようなもたつきの中、二見町は明石市との合併を決めてしまいました。
 そして、阿閇村(現:播磨町)では「土山駅前問題」が発生しました。
 土山駅前は、加古川町・阿閇村・魚住村・二見村が入り組んでいます。
 その内、阿閇村に属している土山駅前商店街(ほとんどが野添地区)が、加古川町への合併を強力に推し進めようとしたのです。
 阿閇村は、さまざまな思惑と利害が対立し、村内がまとまらなくなってしまいました。
 そのため、合併の是非を問う住民投票を実施しました。
 その結果は、次のようで、はっきりと加古川町との合併を拒否しました。
     
現状維持  2548 票
     合併賛成  1502 票
 二見村は明石市と合併し、阿閇村は明確に合併を拒否したのです。
 阿閇村は、独立路線を取ることになりました。加古川市別府町は昭和26年、加古川市に合併しました。
*写真:現在の土山駅前(北側)商店街(地区としては、播磨町野添、624日撮影)

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さんぽ(169):播磨町を歩く(50) 播磨町合併物語③

2014-06-24 07:18:32 | 播磨町

     別府町長・木下収
Photo
 肝心の播磨町合併問題が登場しません。ご辛抱下さい。
 別府町の三つの合併構想により町内の意見は分裂しました。
 そんな中にあって、町長・木下収は、終始加古川市との合併を積極的に呼びかけ、町内の意見のとりまとめを図かりました。
 彼は、「シャープ勧告、保健衛生、産業発達計画、教育文化に関す問題、住宅建設・失業対策等の社会問題、警察と消防、農業問題から見た合併問題、徴税方面から見て、総司令部の意見は・・・」と多方面にわたり、町民に加古川市との合併の必要性を訴えました。
  別府町、加古川市との合併に反対
 合併を目指した木下町長でしたが、まとまらず、昭和25年(1950年)24日、町議会が開催され、加古川(市)との合併に対する世論調査の投票を行うことが決定しました。
 昭和2529日、投票は実施され、結果は次のようでした。(投票率、87.11%)
    投票総数 2745票 (他に外国人 80票)
    有効投票 2723票 (他に外国人 71票)
     賛成  1165票
     反対  1558票
 結果は、加古川市との合併反対が賛成を393票も上回るというショッキングな結果でした。
 木下町長は、即日辞職願を提出しました。町議会で彼の辞職願は留意され撤回されましたが、ここに加古川市との合併は一頓挫しました。
 *写真:別府町旧役場


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さんぽ(168):播磨町を歩く(49) 播磨町の合併物語②・別府町の三つの合併構造

2014-06-23 07:59:53 | 播磨町

 別府町:三つの合併構想
Img_0001
 別府町は、昭和26年(1951101日、難産の末、結果的には加古川市と合併しました。
 別府町は海運船舶業がさかんで、別府町との合併は「臨海工業都市への発展」を秘めた極めて魅力的な青写真でした。そのため、別府町への合併の誘いは、加古川市だけではなかったのです。
  
三つの合併構想
加古川市から別府町へ合併の申し入れがなされたのは、昭和24年(1949)でした。
 当時、加古川市との合併以外に、別府町には二つの選択肢がありました。
 一つは、加古郡別府町、阿閇村(現:播磨町)・二見町が合併する、東播臨海都市建設構想です。
 神戸新聞は「・・・・(阿閇村・二見町との合併は)あらゆる面で共通した条件を持つものの団結で、将来の発展を期したいという提案があり、全員が大体賛成の意向を示したのでちかく関係町村によって正式の合併相談が行われる模様である・・・」(昭和241117日)と報じました。
 今にも、別府と阿閇・二見との合併が実現しそうな雰囲気でした。
 もう一つは、加古郡別府町、高砂市、尾上村、荒井村、印南郡伊保村との合併構想で高砂市長のこの構想は、高砂・伊保を中心とする構想であり、別府町にとっては少し面白くありません。
 ともかく、合併の利害が対立し、別府町内は分裂状態となりました。
*『加古川市史(第三巻)』参照・写真は、別府町・加古川町の合併式

 

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さんぽ(167):播磨町を歩く(48) 播磨町合併物語①

2014-06-22 10:34:02 | 播磨町

  「播磨町合併物語」を始めます。
 今回は、播磨町の合併は加古川市・別府町とのかかわりで推移します。そのため、「播磨町合併問題」は、加古川市の合併から始めます。
   戦後の合併
 1945年、ニコラス・ラモートが姫路に進駐しました。
 彼は、戦後改革のために地方財政を確立するため合併をとき、姫路市の合併が一気に進みました。
 この合併は「ラモート合併」と呼ばれています。
 この圧力は、東播磨の各町村にも波及してきました。<o:p></o:p>

  二つの経済政策
 ここで、聞きなれない用語ですが辛抱ください。シャウプ勧告とドッジ・プランです。
   
シャウプ勧告
 戦後GHQは、地方自治を日本の民主化の重要な柱としました。
 しかし、シャウプは、「地方自治体の財政的な基盤は弱く、それまでの地方自治体の歳出は、国からの補助金に頼りすぎている」と勧告しました。
 つまり、地方自治体の経済的な自立を求め、国からの補助金を減らしました。
   
ドッジ・プラン
Img_2
 アメリカの顧問・ドッジは、日本経済の自立と安定のために「インフレ・国内消費の抑制と輸出振興」を軸とする財政金融引き締め政策を勧告しました。
 つまり、財政引き締めによる地方への補助金の削減です。
 ドッジ・ラインが強行されたために、自治体の台所は火の車となってしまいました。
 こうした状況が、合併に俄然拍車をかけることになりました。
   
加古川町の合併
 1949年(昭和24)、11月に入って、加古川町の合併の動きが俄然現実的なものなってきました。
 5日には尾上村・別府村に対して市制実施の申し入れが行われました。
 しかし、現実にはそう一直線に進行しませんでした。
    
加古川市誕生
 いろいろとありましたが、1950年(昭和25410日、加古川市公会堂において、加古川町・尾上町・野口町・平岡町・神野町の関係5ヵ町が集まり市制実施の調印式が行われました。
 そして、615日加古川市制施行記念式典が挙行されました。
 ここに別府町が入っていません。別府町は、直接播磨町との合併に問題を残していました。
 写真:市制1周年、別府町合併記念式<o:p></o:p>

 

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さんぽ(166):播磨町を歩く(47) 別府鉄道②・であいの道

2014-06-22 07:07:21 | 播磨町

Img 前号の「別府鉄道①」は、どちらかと言えば別府~野口線の説明になっています。
 JR土山駅から別府港までを結んでいた別府線は『歩いてみよう、播磨町の歴史』に詳しいので、その一部をお借りしました。(文末は「です・ます」に変えています)
   
別府鉄道②・土山~別府線
 土山別府線の開通は大正12年(1923318日です。
 土山線で輸送した貨物は、そのほとんどは多木化学の化学肥料で、戦前は年間5万~7万トン、戦後は12万~22万トン、と記録があります。
 小型のSLがたくさんの貨車を引き、現在の大中遺跡を横断する唯一急な勾配の軌道を、ガッタンゴツトンとあえぎながらゆっくり登る姿を「多木のガッタン」と地元の人々は親しみをこめて呼んでいました。
 別府鉄道の無煙化は昭和39年(1964)から始まり、すべての機関車がディーゼル機関車に置き替えられたのは昭和42(1967)です。
 日本が高度成長期に入った昭和四十年代になると、臨海部に進出した企業の大半が大型トラックに輸送を委ねたため、22万トンの大台を記録した別府鉄道の輸送は減る一方になりました。
 昭和50年代に入って、国鉄(現:JR)は貨物大合理化計画を発表し、別府鉄道ではこの計画を受けて、昭和59131日をもって営業を停止することになりました。
 この日、播州地方には珍しく雪が積りました。
  
 であいの道
021
 別府鉄道の線路跡は、加古川市と播磨町に譲渡され、播磨町では「であいの道」として整備されています。
 先日、「ひろかずのブログ」で、別府鉄を紹介したいので、大中の郷土資料館から土山駅までの「であいの道」を往復しました。
 最近、腰痛で歩くのが少し心配でしたが、本当に気持ちの良い散歩になりました。
 途中、アジサイの花も綺麗で、クチナシの香りが何とも言えません。
 それに、歴史の流れをそれとなく説明している説明も、いいアイディアであいた。
 別府~野口(加古川市)の「松風小道」のイメージを持って散歩をしたものですから、ずいぶん得をした気分になりました。
 播磨町は、「なんと素晴らしい土地利用をしたのか」と、感心させられました。
 きょう、加古川市は市長・市議選の日です。
 こんな豊かな、空間を創造できる人を選びたいものです。
 *上の図:野口・土山線
 *写真:であいの道

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さんぽ(165):播磨町を歩く(46) 別府鉄道①

2014-06-21 08:02:58 | 播磨町

 昨年の6月(2014)樹林社から『写真アルバム、加古川・高砂の昭和』が出版されました。
 そのフォトコラムで別府鉄道について下のように紹介させていただきましたので、再掲載します。(文尾を「です・ます」に変えています)
   
別府鉄道
 ・・・
Img
 別府鉄道の前身・別府軽便鉄道が開業したのは大正10年の9月でした。
 現在の加古川市役所のすぐ東に高砂線の野口駅がありましたが、そこから分岐して別府港駅に向かう野口線と、別府港駅から国鉄山陽本線の土山駅へ向かう土山線があり、別府の海水浴場へ向かうために利用した地元の人は、親しみを込めて「ガッタン」とか「マッチ箱」と呼んでいました。
 別府鉄道の主な役割は、別府にある多木製肥所(現多木化学)で生産される肥料の運搬でしたが、その後、沿線住民の加古川の商店街への買い物の足として、あるいは通勤、通学手段として、別府鉄道はなくてはならないものになりました。
 最も賑わったのは昭和30年代の初め頃で、別府の浜での潮干狩り、また海水浴へと多くの客を運びました。
 しかし、こうした風景も、同42年頃から加古川市臨海部の工場用地の造成が始まり、海水浴場も閉鎖になると、以後急速に様変わりしました。
 モータリゼーションの波で乗客は激減し、さらに同592月、土山駅での貨物取り扱いの停止が決定的な打撃になり、高砂線と同じ昭和59年に、63年の歴史を閉じた。
現在、野口線跡は「松風こみち」、土山線跡の一部は「であいの道」と、それぞれ遊歩道として生まれかわり、往時の面影をわずかにとどめています。
 *『加古川・高砂の昭和』(樹林社)参照
 *写真:土山駅に止まる別府鉄道の機関車(撮影・三浦考一氏)

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さんぽ(164):播磨町を歩く(45) 善福寺(大中)⑤・北向きの地蔵さん

2014-06-20 07:46:20 | 播磨町

003 善福寺のすぐ北で、喜瀬川に架かる大中橋の東詰に地蔵堂がありあます。
 安置されているのは、「北向きのお地蔵さん」です。
 この「北向きの地蔵さん」も善福寺の続きとして紹介させていただきます。
 地蔵堂に、説明がありましたので、その一部をお借りします。
 北向きの地蔵
 <地蔵堂の説明(少し変えています)>
 喜瀬川のほとりに、北向きにこのお地蔵さんはたたずみ、私たちを見守っておられます。
 多くの仏さまは、南面されています。
 それらの多くの仏様と対面されているこのような北向きのお地蔵さんの数は少なく、一層より多くの功徳があると言われています。
 004
地蔵菩薩は、この大地と同じように、万物を成長せしめる偉大な効力を蔵しておられます。
 まさに「大地の母」であり、私たちに一番親しみを持って接してくださり、苦しいとき、悲しいとき、助けのほしいときに地蔵さんのご真言(しんごん)を唱えて、一心に帰依するならば、必ず、あらゆる苦しみからの救済に手をさしのべていただけます。
 この地蔵さんは、近在では、特に「子授け地蔵」または「子安地蔵」として昔から親しまれ、そのご利益(りやく)、霊験あらたかと言われてきました。(以下略)
 喜瀬川を散歩されるとき、この「北向きのお地蔵」にお参りください。
 きっと、いいことがありますよ。
 *写真上:北向きの地蔵
 *〃 下:地蔵堂

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さんぽ(163):播磨町を歩く(44) 善福寺(大中)④・結界石

2014-06-19 07:33:17 | 播磨町

 結界石:「不許葷酒入門内」
 善福寺(大中)の山門にある「不許葷酒入門内」と刻んだこの石塔(写真)は「結界石(けっかいせき)」です。
 3_009
「クンシュ、モンナイニ、イルヲ、ユルサズ」と読みます。
 葷酒の「葷」は、ニラ・ニンニク・ネギなどの臭気がある食物や、カラシ・トウガラシなどの刺激性のあるもの、精力の出ると言われている食物、それに肉などを指しています。
 これらは、寺での行の妨げになるので、それらを食べて寺に入ってはいけない。
 また、酒も飲んで寺に入ってはいけない、と言う意味です。
 禅宗寺院の山門によくみられます。
 善福寺(大中)は、禅宗・曹洞宗の寺です。
 ほとんどの結界石は、江戸時代に造られています。
 善福寺の結界石には、宝暦七年(1757)造られた銘があります。
   
山門を入れば、そこは聖域
 もともと仏教の寺では、葷酒を禁止しています。
 ですから、ことさら葷酒を結界石に刻んで他に示す必要はないとも言われており、これは俗人が寺内にこれら「葷」を持ち込むことを禁じる意味もあるといわれています。
 また、「葷」の造りの「軍」を支配者の意味とし、あわただしい軍乱の中で支配者が交代しても寺院の独立を守るとする説もあります。
 *『日本石仏事典(庚申懇話会)』(雄山閣出版株式会社)参照

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さんぽ(162):播磨町を歩く(43) 善福寺(大中)③・宝篋印塔

2014-06-18 07:54:10 | 播磨町

   善福寺(大中)の宝篋印塔(ほうきょういんとう)
 善福寺の宝篋印塔の紹介です。『歩いてみよう・播磨町の歴史』に詳しい説明があるのでお借りします。(一部内容を省いたり、文体を変えています)
3_014
 善福寺の正面の本堂に手を合わせ、少し右手奥に入っていくと、生垣の中にこの宝篋印塔(ほうきょういんとう・写真)があります。
 制作の手法からみて、おそらく、室町時代初期の頃の建立と思われます。
 花崗岩製で、総高は157センチです。
 宝篋印塔とは、写真のような塔をいいます。
 元来は、内部に宝篋印心呪経(しんじゅきょう)を納めたことからその名が出たのですが、納入物のいかんにかかわらず、この塔形の名称となりました。
 宝筐印塔には石造の他に、木造、銅造のものもあります。
 石造のものは鎌倉時代中期以降、供養塔や墓塔として流行しました。
 善福寺の宝篋印塔は、昭和57(1982)町指定文化財に指定されました。
 理由は、中世の石造でここまで完全な形で残されているのは播磨町で唯一といえるからです。
 中世の資料そのものが少ない中で、この塔は、仏教へ熱い思いを寄せた人びとがここに生活していたことを語り、播磨町の中世史を照らしています。
 以上が『播磨の歴史』からの引用です。<o:p></o:p>

 花崗岩でつくられていること
 少しだけ、勝手な想像を加えます。ご批判をください。
 この宝篋印塔が花崗岩でつくられていることに注目しました。
 花崗岩は、堅くて細工がしにくい石です。播磨町地域は、流紋岩(竜山石・高砂市)の産地に近く、しかも流紋岩は加工がしやすいのですが、あえて花崗岩を使用しています。
 中世初期とすると、技術的にも花崗岩の細工は一般化していません。
 おそらく石工はこの地方の者ではなく、特別な技術を持った人であったと想像されます。
 この特別な技術集団とは、伊派の石工集団と想像するのです。
 伊派の石工集団は、大和を根拠地にしながら、摂津の御影を中心にその活躍が知られています。
 善福寺の宝篋印塔も、他所(御影あたり)で完成させ、船でここに運ばれたものと想像するのです。
 従って、この宝篋印塔は高価についたはずです。
 あえて、花崗岩で宝篋印塔を建立した、当時の人々の信仰心の強さを想像します。
 もちろん、この宝篋印塔は個人の供養・墓標とは考えられません。
 集落全体の祖先の供養のためであったのでしょう。
 *写真:善福寺(大中)境内の宝篋印塔

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さんぽ(161):播磨町を歩く(42) 善福寺②・大澤(だいたく)小学校

2014-06-17 05:50:08 | 播磨町

  学制(がくせい)
 時代は、江戸時代から明治へとバトンタッチされました。
 世界に目を開いた日本は、その遅れを取りもどすために、まず教育に力を注ぎました。
 そして、明治5年(18728月「・・・・一般の人民は、必ず不学の戸なく、家に不学の人がいないようにする・・・」という大目標をかかげて教育の普及につとめました。
 これが「学制」です。
 この学制が実施された3年後の明治8年には、全国に24,225の小学校がつくられました。
 しかし、実質就学率は3割程度であったといわれています。
   大澤小学校(だいたくしょうがっこう)
3_007
 この、学制により、播磨町域で最初につくられたのが大澤(だいたく)小学校でした。
 大澤小学校は、大澤(おおざわ)、野添、二子(ふたこ)、古田、東中野、山之上(やまのうえ)を学区として、現在の大中の善福寺境内に開設されました。
 こうした初期の学校は寺院の一隅や民家を使って始められ、教員は二名か三名がふつうでした。
 まさに、「明治版・寺子屋」です。
 新政府は、火の車で、施設その建設費は国や県から支給されません。苦肉の策として寺が利用されたのです。
 それに、小学校といえども現在と異なり授業料50銭が必要でした。
 ですから、苦しい生活の中で学校制度反対運動も各地でおきています。
 明治17(1884)には大澤、本荘の両小学校が合併して、阿閇(あえ)小学校と改称され、明治33(1900)、現在の播磨小学校の地に、木造校舎の阿閉尋常小学校が建てられました。
 なお、戦後の昭和21年(1946)、阿閇村立阿閇小学校と名称が変わり、昭和22年、六・三制により、阿閇中学校(現:播磨中学校)が阿閇小学校を仮校舎に開校されました。
 現在、善福寺の境内には大澤小学校跡を示す石碑(写真)が建てられています。
 *『播磨町の歴史』(「歩いてみよう播磨町の歴史」を編集する会)参照
 *写真:大澤小学校跡を記念する石碑(善福寺境内)

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