ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川町寺家町探検(35) 加古川警察署

2021-04-04 08:47:40 | 加古川町寺家町探検

      加古川警察署

 「加古川町寺家町探検(3)復習:分岸寺界隈」の図絵で、「人馬引き継役所」を見つけてください。

 ここを改良して、明治6年に加古川分署(明石警察署の分署)が配置されました。

 これが加古川警察のはじまりでした。その後、明治26年12月、加古郡役所の地に独立した加古川警察署を設置しました。

 そして、明治37年加古川警察署庁舎として新築されました。
 写真は、大正12年の加古川警察署の写真です。

 場所は、寺家町字五反田46番地在(東播総合出張所の場所)です。

     警察は、感染症の取り締まりも

 昔は、警察の仕事は防犯や交通の取りだけではなく、保健・衛生関係の仕事も兼ねていました。

 加古川警察署においても明治11年のコレラ、24年・25年のコレラ・赤痢。

 そして、大正5年の後数年間は、これら腸チフスの撲滅にも力を入れました。

 戦後は、保健所が設置されこれらの仕事は保健所が行うようになりました。

 *写真:明治26年寺家町に設置された加古川警察庁舎。大正12年ごろの写真。

 『写真集・加古川(玉岡松一郎編)』(国書刊行会)より

 

   篠原町・溝の口の探検に出かけましょう

「シリーズ2・加古川町寺家町探検」いったん休憩し、次回から、シリーズ3「加古川町篠原町・溝口の探検」にでかけます。(no5045)

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加古川町寺家町探検(34)  さなぼり市 (さなぼり大売り出し) 

2021-04-03 09:05:17 | 加古川町寺家町探検

      さなぼり市(さなぼり大売り出し)

 戦後しばらく、近くで商店らしい賑わいのある町は加古川の町ぐらいでした。

 農家の方たちの一番の楽しみは盆と正月のお休みと、そして6月の田植えが終わった後の「さなぼり市」と、秋の収穫が終わった後の「せいもん払い」に加古川の町に出て買い物をして「いろは食堂のかつめし」か「かさよしのうどん」、そして寺家町の「まるまんのうどん」を食べるのが何よりの楽しみでした。

 近在から山のような人が加古川の町に集まり黒山の人だかりで、商店街は押すな押すなの人だかりでした。今では想像すらできない人出でした。

 それをあてこんで、阪神方面の商人も進出して大いに賑わいがありました。

 「せいもん払い」については「加古川町寺家町探検(31)・せいもん払い」で紹介していますのでご覧ください。

 寺家町も同じで、狂おしいほどの賑わいがありました。

 なお、「いろは食堂のカツメシ」ついては、後に『いろは食堂物語(仮称)』として紹介する予定です。



    〈用語説明:さなぼり〉

 「さなぶり」ともいいます。子どものころ、農家のひとが「さなぶり」と言っていたようにおぼえています。

 「さなぼり」は、田植えの終了のお祝いであり、または休日のことです。

 本来は、神様が田植えが終るのを見て帰る日と信じられ、この日に田の水口やあぜ、または床の間などに、苗を供えて田の神を祀る風習が日本各地にみられました。(no5044

 

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加古川町寺家町探検(33) 加古川町役場

2021-04-02 07:58:44 | 加古川町寺家町探検

    加古川町役場

 明治22年2月21日、印南郡に属していた加古川町(まち)が地理的な関係から加古郡に編入され、同年4月1日、加古川町(まち)・寺家町・篠原村が合併して、新しく加古郡加古川町(ちょう)が誕生しました。

 そして、昭和26年1月1日に加古川町(まち)は、「本町」と改称しました。

 少し、付け加えです。

 加古川町役場は、明治22年寺家町311番地に建設されました。

 後に、同町316番地、313番地、314番地に移っています。 

 いずれも、場所は寺家町の地番ですが、旧印南郡と旧加古郡・寺家町との境目(陣屋の近く)に位置しています。

   新加古川町役場落成(大正15年)

そして、加古川町はだんだん大きくなり、大正15年6月7日、現在、加古川中央公民館として使われている場所に加古川町役場が新築落成しました。

 写真の加古川町役場の場所は寺家町311番地ですから、今のニッケパークタウンから南へ伸びる道と西国街道(寺家町商店街)の交差点の北西隅です。(no5043)

*写真:旧加古川町役場玄関(写真左:明治22年)と新加古川町役場(現在の加古川中央公民館場所:大正15年建設)

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加古川町寺家町探検(32) 太子堂消える

2021-04-01 06:38:57 | 加古川町寺家町探検

  太子堂消える

 国道2号線と加古川小野線の交わる大川町の交差点の北西隅に小さな大師堂があり、説明には、こう書いてありました。

 「当大師堂は、江戸時代末期嘉永3年に(1850)、当地大川町に疫痢が流行て、住民の方が多数お亡くなりになりましたので、高野山より御霊をお受けしまして、ここに建立されました・・・」

 詳しいことはわかりんせん。急性の激しい中毒症状の病であったようです。多くの人が亡くなられたんでしょうね。

 『加古川宿のスケッチ(阿木哲郎著)』(日本文学館)で、次のように記しておられます。

 

 ・・・嘉永3年は、全国的に天候不順で天災・人災に人々は苦しめられた時代でした。

とりわけこの年の寒さは厳しく加古郡一帯ではコメの値段が上がり、生活も困窮し、洪水もおき、ひとびとは疲弊していました。

 そこを疫病が襲いました。

 『武江年表』には、嘉永3年二「6月中旬より曇天多く、冷気にて病者多し。12月末風邪流行・・・・

 

 このお堂は、流行病の記録でした。

 先日、この大師堂の写真を撮りにでかけました。

 なんと、壊され更地になっているのです。夏頃には確かにありました。

 歴史の証人の一つが消えました。(写真は、インターネットより)(no5042

 *写真:消えた「太子堂」

 

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加古川町寺家町探検(31) 中村旅館・最後の夜

2021-03-31 08:11:56 | 加古川町寺家町探検

      中村旅館・最後の夜

 加古川飛行場(加古川市尾上町)に降り立った特攻隊員は、最後の夜を中村旅館(県道小野線の国道2号線と寺家町商店街の中ほどで、道路の西側)ですごしました。

 中村旅館は、戦時中陸軍の指定旅館でした。

 現在は、更地になっています。

 加古川から知覧(ちらん・鹿児島県)へ飛び、そこから特攻に出撃しました。

 *海軍の特攻は鹿屋から出撃しました。

 特攻隊員にとって、中村旅館の夜は、最後の安息の場所でした。

 その夜、特攻隊員は、お互いに、何を話たりあったのでしょう。・・・

 当時の様子を知るUさんの話では、「特攻の話などは全くなく、不思議なほどでした」と話しておられました。

 隊員たちは、遺品を残されています。

 写真の「断」とかかれた血染めの書もその一つです。

 誰かに宛てた書ではありません。

 「断」は、何からの断であったのでしょう。

 この世からの「断」であったのでしょうか。

 家族、あるいは恋しい人からの断であったのでしょうか。

 すべてからの「断」であったのでしょう。

 最後に書いた「断」は、彼の足跡をとどめています。(no5041)

 *特攻隊員の多くの遺品は、現在、鶴林寺で保存されています。

 *写真:特攻の碑(現在、鶴林寺)と特攻隊員の書いた「血染めの書」

 

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加古川町寺家町探検(30) 寺家町の一里塚の場所判明

2021-03-30 10:09:23 | 加古川町寺家町探検

       寺家町の一里塚の場所判明

 慶応2年の寺家町を描いた地図をご覧ください。

 寺家町商店街(西国街道)です。

 右(東)方に一里塚があります。



      門松は 冥土の旅の 一里塚

      めでたくもあり めでたくもなし



 これは一休さんの作だといわれています。でも、一休さんが生きた時代(13921481)には、一里塚はつくられていません。したがって、この狂歌は江戸時代の他の人の作品です。

 一里塚は慶長9年(1604)、二代将軍・秀忠が日本橋を起点として街道筋につくらせてから、次第に全国に広がりました。

 一里塚は、普通周囲が五間、高さ一丈の土を盛り上げ、そして目印に榎や松が植えられた。兵庫県の一里塚は、ほとんど松が植えられました。

 加古川市寺家町にあった一里塚は、いつの頃まであったのか、また正確な場所は分かっていませんでした。

 歴史学者の中村和男氏は、寺家町にあった一里塚のあった場所を確定されました。

 詳細については『神戸と歴史(58巻第3号)』の中村氏の論文をお読みください。

 一里塚のあったのは、現在、携帯電話の販売会社(ソフトバンク)が置かれているところと、「かご屋(食堂)」の場所です。(no5040

 *写真:一里塚があった場所(ソフトバンクとその向かいの食堂、かご屋)

  地図:一里塚の場所を示す古地図 

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加古川町寺家町探検(29) 居屋河原日岡神社

2021-03-29 07:28:01 | 加古川町寺家町探検

       居屋河原日岡神社 

 加古川地域の地名を研究されていた石見完治(いわみかんじ)さん(故人)は、著書 『古地名新解』で、居屋河原(いやがわら)について、次のように「いつの頃か、はっきりしませんが、日岡山に神社がなかった昔、居屋河原(いやがわら)のこの地初めて宮を建てて、九州の「日向はん」をお迎えして祀りました。

 そして、神武天皇がここに祖神を祀り、礼(禮「いや」)をつくして、この神を崇められたので「禮ヶ原(いやがはら)」という」という地名伝承を紹介されています。

 なお、江戸時代、日岡神社は「日向(ひゅうが)神社」であり、日岡神社と呼ばれるようになったのは、明治の初めのころです。

 「居屋河原神社は、現在の日岡神社発祥の神社ではないか」とも想像されます。

 *神武天皇:日本の初代の天皇、実在の天皇ではなく伝説上の天皇です。

 なお、居屋河原日岡神社については、池田吉弘さんが『Kako-style2』 で紹介しておられるので、お借りしました。(『Kako-style2文:池田吉弘氏』より)

        居屋河原日岡神社は、

           日岡神社の境内にある大鳥居神社

 正式名は「居屋河原日岡神社」といい、昭和46 (1971)1月まで、現在の播州信用金庫加古川支店と大鳥居会館にあたる場所に建っていました。

 昭和44(1969)年に日岡神社が焼失し、その2年後の再建に伴って、大鳥居神社は、日岡神社と合併して現在の場所に。

 日岡神社の兄弟宮とされていたため、他の境内社の中でも別格扱いされており、本殿は小さいながらも格式の高さが窺えます。

 かつて神社があった居屋河原は、旧街道に面しており、江戸時代の参勤交代で諸国の大名が通るのに、鳥居があったため 一旦、馬を降りなければならず、将軍が鳥居を移転させたという話も伝えられています。[取材/池田吉弘]no5039

 *写真:移転前の居屋河原日岡神社

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加古川町寺家町探訪(28) 加古川ナンバーワンの大イチョウ ・ 龍泉寺(現:平野)のふるさと    

2021-03-28 08:24:12 | 加古川町寺家町探検

  加古川ナンバーワンの大イチョウ

     ここは、龍泉寺(現:平野)のふるさと

 この大神宮とイチョウの木について『Kako-Style2』に、ありますので一部をお借りします。

 (大神宮は)、JRの車窓からも見え、ニッケ加古川工場内にある、小さな神社「大神宮」です。

 樹齢約360年といわれる幹周り約4m85㎝のイチョウを御神木に、神明造りの社殿を持つ大神宮は、加古川工場設立と同じ明治32(1899)年に、会社の社運の繁栄と工場の安全・参拝者への加護を祈念して創建されました。

 いわば加古川の二ッケ工場を見守る存在でした。

 伊勢神宮より、天照大神の御分霊をいただく氏神の泊神社(加古川町木村)の分霊が祭神として祀られています。

 少しだけ付け加えておきます。大神宮のイチョウの木は、もともとこの神社とは関係がなかったのです。

 ニッケの進出により、立ち退きのような形で平野に移転した龍泉寺の境内にありました。

 龍泉寺の平野への移転の顛末は、『加古川町寺家町探検(22)』の「龍泉寺燃える」をご覧ください。

 ニッケ西の駐車場横の大神宮の地は、龍泉寺の故郷です。

 *写真:大神宮のイチョウ

     ここは、龍泉寺(現:平野)のふるさと

 この大神宮とイチョウの木について『Kako-Style2』に、ありますので一部をお借りします。

 (大神宮は)、JRの車窓からも見え、ニッケ加古川工場内にある、小さな神社「大神宮」です。

 樹齢約360年といわれる幹周り約4m85㎝のイチョウを御神木に、神明造りの社殿を持つ大神宮は、加古川工場設立と同じ明治32(1899)年に、会社の社運の繁栄と工場の安全・参拝者への加護を祈念して創建されました。

 いわば加古川の二ッケ工場を見守る存在でした。

 伊勢神宮より、天照大神の御分霊をいただく氏神の泊神社(加古川町木村)の分霊が祭神として祀られています。

 少しだけ付け加えておきます。大神宮のイチョウの木は、もともとこの神社とは関係がなかったのです。

 ニッケの進出により、立ち退きのような形で平野に移転した龍泉寺の境内にありました。

 龍泉寺の平野への移転の顛末は、『加古川町寺家町探検(22)』の「龍泉寺燃える」をご覧ください。

 ニッケ西の駐車場横の大神宮の地は、龍泉寺の故郷です。(no3038

 *写真:大神宮のイチョウ

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加古川町寺家町探検(27) (加古郡)郡役所(2) 郡長・北条直正

2021-03-27 07:04:18 | 加古川町寺家町探検

      加古郡郡長 北条直正

 明治19年、加古郡郡役所の新庁舎は完成しました。

 今日は、郡役所の話ではありません。明治12年に加古郡の初代郡長・北条直正の話です。

 北条直正は、まさに義人でした。

 当時、県令(今の県知事に当たる)は、森岡昌純(まさずみ)でした。彼は、薩摩出身で、どこまでも明治新政府の指示に従うと言う人物でした。

 その彼が、地租改正で腕をふるいました。

 母里地区(稲美町)の税は、江戸時代に比べて一挙に3倍をこえました。稲美地区の他の多くの農民も税を払うことができません。

 特に、母里地区の197戸と総戸数の半分以上が、土地を失い破産状態となりました。

それでも、県令は、農民に税の完納をせまりました。

 郡長の北条は、農民の窮状をだまって見過ごすことはできません。

 農民は、鍬を持ち、蓑笠をかぶり県庁や加古郡郡役所に押しかけたこともありました。まさに、一揆の再現でした。

 郡長は、「いやしくも官民の間に立ち、職を奉ずる者が民情を述べるのは当然ではありませんか。無理非道な重税を課して、不納となった者を処分するなど、そのような非理非道なことは絶対に行えません」と、農民側に立って県令と対立します。

 明治15年、郡長に突然の転任の内示がありました。好ましくない人物として追われたことは明らかでした。

 明治時代、母里地区の農民の苦闘を、北条直正は『母里村難恢復史略(もりそんなんかいふくしりゃく)』として記録に残しています。(no5037

 *写真:加古郡長・北条直正

 

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加古川町寺家町探検(26) (加古郡)郡役所(1)

2021-03-26 08:15:44 | 加古川町寺家町探検

      加古郡の郡役所は寺家町に

 明治12年1月8日、印南郡加古川村は加古郡寺家町にならい加古川町(まち)としました。

 この日は、加古郡役所を隣町の寺家町に設置した日でした。

 加古川村は、江戸時代から印南郡よりもむしろ、川東(東岸)の加古郡つながりが深い地域でした。

 明治22年2月21日、印南郡に属していた加古村(現:本町)が地理的な関係から加古郡に編入され、同年4月1日には加古川町・寺家町・篠原町が加古郡加古川町を編成しました。

 *昭和26年1月1日、加古川町は本町に改称

 また、明治22年4月1日、鳩里村(友沢村・木村・稲屋村を含む)、氷丘村も加古郡の村として誕生しました。

    郡役所は、現:JAビルの場所に

 寺家町近辺の町村が加古郡との合併に先立つ、明治12年(1879)、加古郡の郡役所を寺家町におきました。

 最初は、常住寺の寺家町の麑松小学校(げいしょうしょうがっこう)の一部を借り郡役所としました。

 常住寺に、今でいう市役所にあたる郡役所が置かれました。

 そして、明治17年9月、新しい郡役所(写真)を同じく寺家町に建設しました。

 今の寺家町商店街の入り口(JAビル)の場所です。(no5036

 *写真:加古郡役所

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加古川町寺家町探検(25) 余話として: 加古川遷都論・寺家町あたりに政府官庁街

2021-03-25 06:26:16 | 加古川町寺家町探検

  余話として

   加古川遷都論・寺家町あたりに政府官庁街

 大正12年(192391日、東京を中心に未曾有の大震災がおきました。関東大震災です。

 そして、政府は壊滅した首都を東京以外の場所に移そうとする遷都論がおきました。

 「今村均・回顧録」(当時の参謀本部少佐、後に陸軍大将)によれば、国土防衛上の観点から首都移転を極秘に検討し、加古川の地を候補地の一つに挙げています。

 加古川が候補にあげられたのは、第一に災害が少ない地域であるということでしたが、その他に「中国・朝鮮への侵略に備え、日本の首都を西に移すべきである」との考えがありました。

 候補地として、加古川の他に八王子(東京都)はともかく、ソウル(韓国)が、あげられています。

 「遷都(八幡和郎著)」」(中公新書)では、加古川への遷都の理由を次のように述べています。

 「・・・(首都の候補地は)兵庫県加古川の平地である。歴史上、大地震にみまわれたこともなく、水資源も量・質ともに条件がよい。防空という観点からも理想的である。

 商工業都市としての機能は、阪神に任せ、皇室、政府機関、教育施設のみを移し、ワシントンをモデルに設計する・・・」

 この加古川遷都が実現していたら、寺家町あたりは政府の官庁街になっていたことでしょう。

 この遷都論は、やがて各方面にもれ、動揺が起こり、立ち消えになりました。

 加古川の地は、平清盛の時代にも一度首都の候補にあがったことがあります。後日、他のところで紹介しましょう。(no5035

*写真:震災後の惨状



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加古川町寺家町探検(24) 三宅周太郎(加古川名誉市民賞第1号)

2021-03-24 06:58:10 | 加古川町寺家町探検

  三宅周太郎(加古川名誉市民賞第1号)

 *以下の記事は、『新かこがわ辞典』を参照させていただきました。

 加古川名誉市民賞、第1号が贈られたのは劇評家、三宅周太郎です。

 三宅は、劇評といういささか地味な分野で健筆をふるいましたが、また、特筆すべきことは、文楽(人形良瑠璃)の救世主となったことです。

 常設小屋の火災等により衰亡の危機に陥っていた文楽の研究に本格的に取り組み、その成果が世の注目を集めるところとなり、今でも文楽を楽しむことのできるのは周太郎のおかげです。

 また、昭和5 (1930)年6月、刊行された『文楽の研究』は『続文楽の研究』とともに、初版以来版を重ねるなど、不朽の名著となっています。

 三宅は、明治25(1892)年に寺家町の「忠良」を銘柄とする酒造家に生まれました。

 生家が中心となって出資した劇場「寿座」に幼少のころから出入りし、演劇の世界が日常のものとなっていたのでした。

 この「寿座」は、のち映画館「新興座」(後の新興会館)へと変遷します。

 関東大震災ののち、一時大阪に転居しましたが、再度上京しました。

 三宅の有名な逸話として、彼は劇場や俳優から送られてくる招待券は使わず、入(券を買って観劇したことでした。

 名優であれ看板役者であれ、彼は芸を批評の対象としたので、ときには酷評することもありましたが、演ずる者と観る者は対等という立場を貫くために身銭を切って入場することを彼なりの誇りとしたのでしょう。

 昭和33(19589)年紫綬褒章受章、昭和39(1964)年9月加古川市名誉市民、昭42(1967)年5月芸術院恩賜賞受賞、三宅は、同年2月14日に死去したので同賞は没後の受賞でした。(no5034)

 *写真:三宅周太郎(京都南座を背に・昭和39年2月26日撮影)

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加古川町寺家町探検(23) 検番筋・繁の家

2021-03-23 10:18:08 | 加古川町寺家町探検

       検番筋(けんばんすじ)

 ベルデモール街から寺家町通りを西に向かって、一筋目の北行き道路を通称「検番筋」と呼んでいました。

 現在の家並みからはとても想像が出来ないのですが、昭和32、3(195758)年頃までは、ダンスホールやバー・キャバレーに飲食店等がひしめく、加古川町内の一大歓楽地でした。

 検番とは、「芸者屋の取り締まり、芸妓に口のかかった時の取次などをする事務所」です。

 もう少し説明をしますと、料理屋、待合、芸妓屋の3業が集まって営業している地域を一般に「三業地」と俗称しています。

 3者が合流して同業組合を組織しているところから、そう呼んでいました。

 その営業には公安委員会(第二次大戦までは警察署)の許可が必要であり、組合の中で芸妓の斡旋や料金の決済などの事務処理をする必要が生じ、この地域の内に検番を置くことになりました。

 昭和30年(1955)前後まで、市街地の主要な遊興地帯でした。

 加古川町では昭和20年代の後半に、三業地を平野の新地に移設したため、寺家町の検番筋周辺のようすは一変しました。

 *以上は『新・かこがわ辞典』(新・かこがわ辞典編集委員会)参照

     繁の家(しげのや)

 滝沢好子さんは、「・・・往時の賑わいは今ではすっかり影を潜めてしまった検番筋ですが「繁の屋」は、創業時から同じ場所で営業を続けている最後の料亭です・・・」と当時の賑わいと繁の屋を取材されています。(『Kakostyle2』より)  (no5033

 *写真:割烹「繁の家」

 

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加古川町寺家町探検(22) 龍泉寺燃える

2021-03-22 10:18:41 | 加古川町寺家町探検

 龍泉寺(加古川市加古川町平野)は、今は加古川町平野ですが、元は寺家町のお寺でした。事情を説明しましょう。

 なお、龍泉寺については、「かこがわ探検シリーズ・平野編(仮称)」でさらにその詳細を紹介することにします。

      龍泉寺燃える

 江戸時代の「加古川宿絵図(部分)・慶応元年(1865)」(地図)をご覧ください。

 龍泉寺は、もともと寺家町字蔵屋敷にありました。日本毛織(ニッケ)が、加古川に進出していらい、龍泉寺はニッケに囲まれてしまいました。

 境内の大きなイチョウの樹は、現在も元のばしょを占拠しています。

 *「宿絵図」の向かって左上部に龍泉寺があります。図中の常住寺も移転しました。光念寺は、現在も絵図の場所にあるので場所は想像しただけると思います。

 当時、ニッケは日の出の勢いで、会社は龍泉寺に対して立ち退きを要求しました。

 檀家の中には、「だいたい、後から来て立ち退けとはけしからん。そんな不見識なことはできん」と強力に反対する意見も多くありました。

 そんな時でした。龍泉寺は、庫裏を残し焼け落ちたのです。丁度、ニッケ創立十周年記念(明治44年6月12日)の夜のことでした。

 出火原因は分からないままに終りました。

 その後、再建のための資材は購入されたが、檀家の中には「この際、別の場所に移転しては・・・」との意見もあり、再建問題は難航しました。

 従って、龍泉寺の再建資材は、しばらく寝かせたままの状態が続きました。

 やっと意見がまとまり、大正5年8月7日に現在の場所に再建されたのです。

 それにしても、ニッケが龍泉寺の移転を要求していたまさにその時の出火でした。

 「ニッケの誰かが放火した」という噂は、その後もしばらく囁かれました。(no5032

 *地図で龍泉寺を見つけてください。

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加古川町寺家町探検(21) 大将軍(2) 大将軍(堂)は、 常住寺の鬼門か?

2021-03-21 09:40:39 | 加古川町寺家町探検

  大将軍(2)

 「将軍」と聞くとすぐに源頼朝・徳川家康等を思い浮かべ、「将軍堂には、どの将軍が祭られているのか」と考えてしまいます。

 大将軍とは柳田国男も指摘されているように「将軍」とは関係がなく、塞の神(さえのかみ)・道祖伸などとも混同されて村を様々な悪霊災厄殻守る神です。

 

 小門口(「こもんぐち」・「こもぐち」とも読む)」の祀られているのは、「増長天」であり、これは南方を護る神様です。

 地元の歴史に詳しいK氏は「昔、この地は、隣接する「常住寺」を中心としていました。

 そして、常住寺を基点として、常住寺の北東側が丑・虎の方角、すなわち「鬼門除け」となるので、ここに大将軍堂を建てたのではないかと考えても不思議ではありませんね・・・」と、言っておられます。

      ウシトラ(北東)の方向   

 昔から、「丑寅(「艮・うしとら)」の方向は、「鬼門(きもん)」として人々に恐れられていました。

 中国古代の地理書『山海経(せんがいきょう)』によると、度朔山(どさくさん)という山の東北の方にたくさんの鬼が住んでいて、夜になると門から出て来て人びとを悩まし たといいます。

 そこで、鬼の出入りする東北の方向を鬼門というようになりました。

 鬼門(東北)は、災のおきる方向でした。

 

 『加古川史誌(第一巻)』(310P)も「大将軍堂は寺家町字山之内あって、大将軍は暦塞の方位をつかさどる神で、・・・古来、この町の鬼門除である」と記しています。

 

 鶴林寺と小門口は、ずいぶん離れています。

 小門口(大将軍)と鶴林寺と結びつけて考えるには、少し無理があり、常住の、小門(口)あったところと考えるのが自然と思えるのですが・・・。(no5031

 *写真:大将軍堂内部(インターネットより)

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