ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

かこがわ100選(38):志方八幡神社

2013-03-31 10:23:47 |  ・加古川100選

今回の「志方八幡神社」の紹介も、神社の紹介になっていない。神社については『わがまち加古川60選』(加古川市地域振興部商工労政課)をご覧願いたい。

 きょうの話題は「志方八幡神社と鬼門」の話である。

志方八幡神社        *志方町志方町

昔は、十二支で時間・方位などを表した。

方位では、「子」を北とし、「午」を南とした。そのため、北と南を結ぶ経線を子午線という。東北の方向は「丑寅」である。

 ウシトラの方向は鬼門   

Photo昔から、「丑寅(「艮・うしとら)」の方向は、「鬼門(きもん)」として人々に恐れられていた。

中国古代の地理書『山海経(せんがいきょう)』によると、度朔山(どさくさん)という山の東北の方にたくさんの鬼が住んでいて、夜になると門から出て来て人びとを悩ましという。

そこで、鬼の出入りする東北の方向を鬼門というようになった。

鬼門(東北)は、災のおきる方向である。

     鬼は魂(隠)の音韻変化

「鬼」とは、生命の通った魂が身体から離れた霊となったものをいい、死者の魂(隠・おん=見えないもの)で、隠(おん)が変化して鬼となった。

日本では古くから死者を「穢れ」と「恐れ」との両面からみる発想があったが、いつの間にか「恐れ」が優先して、人間に害を加える巨大な怪物となったのである。それが鬼である。

鬼は丑寅の方向に住むということから、鬼は牛の角をはやし、虎の牙をもった形をつくりあげられた。

こうして東北の方向は、鬼門として忌み嫌われるようになったのである。

現在でも鬼門に当たる方角に台所や便所があると家庭内に紛争が絶えないなど、あらぬことを信じる人がおられる。

     宮山は志方城の鬼門

そのため、東北方向を鬼門として、そこに神仏を祭り、鬼の災いをさける風習が生まれた。

比叡山延暦寺は、京都の鬼門に当たるために建てられた寺で、京都を災いから守ろうとしたのは、よく知られている。

さて、志方ですが櫛橋左京亮(くしはしさきょうのすけ)が志方城を築いたのは、明応元年(1492)のことである。

志方城は、今の観音寺・志方小学校の場所にあった。

志方城の鬼門の方向に小高い丘(宮山)があり、その丘に石清八幡宮から勧請して志方八幡社を建て、鬼門を鎮め、志方城の守り神としたのである。

 *写真:志方八幡神社遠景

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かこがわ100選(37):中西廃寺

2013-03-30 07:15:37 |  ・加古川100選

中西廃寺         *西神吉町中西

 Photo 日本に仏教が伝わった。

 まばゆいばかりの仏像を見て、はっきりとその教えは分からないものの人々は畏れ、尊崇した。

 その後、仏教は日本各地に広がり、やがて加古川の地にも伝えられた。

 それも、比較的早い白鳳時代(645710)である。

 加古川市西神吉町中西にあった寺院(中西廃寺)もそのひとつである。

 『加古川市史(第一巻)』は、次のように述べる。

 ・・・この寺院(中西廃寺)は、正式な発掘調査が行われていないため、詳細は明らかでない。

 ・・・現在、薬師堂境内の西南隅にある塔心礎(写真)は、1919年(大正8)に元の位置より50センチばかり移動したという話があるが、伽藍配置を復元する有力な手がかりとなる。

 法隆寺式伽藍を備えていたようで、創建は白鳳時代である・・・

 白鳳時代、各地に破多くの寺院が建てられたが、その創建者は、どんな人物だろうか。

 7世紀になると古墳を造る風習は次第に衰え、消えてゆく。

 これは、「かつて、古墳を建設した有力な豪族がやがて、仏教の影響を受け、古墳に代わって寺院を建設したのだろう」といわれている。

 平荘湖の周辺に、たくさんの古墳がある。「あった」と言った方が正確であるのかもしれない。

 これらの古墳の内の有力者が、中西の寺院を建設したのではないだろうか?

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かこがわ100選(36):称名寺

2013-03-29 08:28:59 |  ・加古川100選

称名寺       *加古川町本町

Photo_2  称名寺のある場所に信長・秀吉の時代、加古川城があった。

 天正六年(1578)秀吉は7500人の兵を率いて、加古川城へやってきた。

当時、信長は武田・上杉と対峙しており、大坂では石山本願寺(浄土真宗)が信長に対抗して、身動きがとれなかった。

 その時、石山本願寺を支援していたのは、毛利氏であった。

 やがて、加古川地方を中心にして信長軍と毛利軍の激しい戦いが展開された。

 当時、野口・神吉・加古川・志方(以上加古川市)・高砂等の諸城は、三木の別所氏の支配下にあった。天正5年(1577)信長から別所氏に一通の手紙が届いた。

 内容は「毛利攻めにおいて、信長方に味方されたい・・・・・・恩賞ははずむ」というものであった。城主・別所長治(べっしょながはる)は、この時21才。

 やがて、評定(会議)が加古川城(加古川西高等学校の東約500㍍にある称名寺が加古川城跡・写真)で開かれた。

 信長側からは秀吉が、そして三木側からは城主・長治に代わり、叔父の賀相(よしすけ)等が参加した。

 世に名高い「加古川評定」である。この評定により、三木方は毛利に味方し、信長方と戦うことになった。

評定の状況は、小説であるが、司馬遼太郎氏の小説『播磨灘物語』の一部を読むことにしたい。

     加古川評定

 ・・・いよいよ秀吉が広間にあらわれ、評定がはじまりました。当然のことながら秀吉は正面の席にいる。

 播州者は、みな秀吉をあるじのごとく秀吉にむかい、はるかに下がっている。

 「なぜじゃ、我々はみな羽柴ごとき者を主のように仰がばならぬ・・・・」と、どの男も、この位置関係に不満を持ち、別所賀相(べっしょよしすけ・三木城主長治の叔父)のごときは「ちょっと、かわやに・・・・」とつぶやき、ゆっくり腰を上げて、そのまま部屋を出て小一時間帰ってこなかった。

 評定も進みつつあった時である。賀相に言わせれば、「下郎上がりが、何を間違えて、かかる場所に座っておるのか・・・」といいたかったところであろう。

 「かわやに・・・」といった賀相は、そのまま門前に出、そこで待たせてあった供の者を連れ、その辺を一巡し、ひまをつぶした。

 ・・・・この後、もとの席に帰り、三木方の重臣に長々と秀吉に戦法を講釈させた。

 たまりかねた秀吉は「よく承った・・・」と長談義を中断させた。・・・(『播磨灘物語』より)

 賀相は三木に帰り、この評定のようすを城主・長治に伝えました。「・・・秀吉の態度はまことに無礼であった・・」と。

 三木方は、毛利氏に味方し、信長・秀吉方と戦うことが決定した。

 加古川城は、信長側についたが、他の近在の城主は毛利軍に味方した三木方として信長軍と戦うことになった。その詳細については別に紹介したい

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かこがわ100選(35):天の岩船

2013-03-28 07:03:43 |  ・加古川100選

私ごとから始めたい。

現在、私の住所は、尾上町今福である。「かこがわ100選」に今福の話題を入れておきたい。独断である。

 天の岩船(あまのいわぶね)    *尾上町今福

Photo写真をご覧願いたい。(祠は、御旅所) 

 今福八幡社の境内の御旅所の前に長さ1.6メートル、幅72センチ、厚さ37センチの直方体の岩がある。

この岩を挟むように両側に長さ1.9メートル、厚さ30センチあまりの自然石が二本おかれている。

説明には「・・・神武天皇(じんむてんのう)が東征(とうせい)の時、乗ってこられた天の岩船・・・」とあり、海に近かったこともあり、海のイメージと重ねて考えられているようである。

*神武天皇の話は、この近辺では多く語られていますが、神話として読んでいただきたい。

この岩は、古墳の石室に納められてあった石棺(せっかん)の身の部分である。

現在では、この岩(石棺)について知る人も、めっきり少なくなったが、江戸時代はひろく知られていたらしく、いくつかの文章にこの「天の岩船」のことが紹介されている。

江戸時代の観光案内書ともいえる『播磨名所巡覧図絵(はりまめいしょじゅんらんずえ)』は、次のようにある。

・・・・

尾上村の田の中に有り、俗に天の小舟という・・・昔の石棺の蓋(ふた)なるべし

・・・

『播磨名所巡覧図絵』にある「蓋」は「身」の誤りである。

また、同時代に編まれた『播磨鑑(はりまかがみ)』には「・・・在長田村、高砂と尾上のとの間、畑中、磐にて船の形なり・・・」と書かれている。

この石棺は、はじめからこの場所に置かれていたのではなく、何時の頃からは分からないが、現在の場所へ運ばれている。

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かこがわ100選(34):神木の石棺仏

2013-03-27 09:18:40 |  ・加古川100選

石棺仏          *平荘町神木

 Taira_012加古川地域には不思議な石仏がたくさんある。平荘町は石棺仏を含め石仏の宝庫である。

 石棺仏は、石棺の蓋、あるいは身の部分に仏を刻んだ石造物である。

 これらの石棺仏は、鎌倉時代から室町時代にかけてさかんに造られたが、その後、なぜかプツリと姿を消した。

 鎌倉時代、水田の開発が盛んで、土地が新たに開墾された。

 この時、多くの古墳も壊され、出土した石棺は、仏像を彫る材料として再利用されたのであろう。

 単なる廃物利用ではなさそうである。当時の人々も、この石材は、死者を葬った石棺であることを意識していたと思われる。

 石棺仏は、全国に120基ほど確認されているが、その8割が加古川史、加西市地域に集中している。

 その理由は、はっきりとしない。

 加古川市・加西市地域では普通に見られるこれら石棺物であるが珍しいものである。

 写真は、神木(こうぎ・平荘町神木)の石棺仏(鎌倉後期)の石棺仏である。

  一結衆十六人

 鎌倉時代から室町時代にかけてのこれら石造物は、死者の供養塔である。

 しかし、当時の庶民は裕福ではなかった。

 これら石造物の造立者は、有力な農民だったと思われるが、それにしても独力で造立するには負担が大きすぎた。

 信仰で結ばれた多数者の発願で造立している石造物が多い。

 個人の墓塔となるのは、次の室町時代を待たねばならない。

 神木の石棺仏も写真では確認しにくいが、右下に「一結衆十六人」と刻んでいる。

 *写真は平荘町神木(こうぎ)の石棺仏

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かこがわ100選(33):平木橋

2013-03-26 07:48:20 |  ・加古川100選

 「集団疎開」をおわり、「かこがわ100選」を続けます。

平木橋(ひらきばし)      *野口町水足

017淡河川(おうごがわ)・山田川から分水された水は、各地を潤しながら、やがて練部屋(ねりべや・神戸市西区神出町)に集められ、さらに分水され、特に印南野台地(いなみのだいち)潤しました。

練部屋から分かれた一つの支流は稲美町の池に流れ、凱旋池(現在、埋め立てられ県立東播磨高校になっています)・万歳池(稲美町)・鳥が丘池に流れ、そして最後に平木池に到達しました。

しかし、平木池は山田疎水の末端に位置していたため十分な水が得られませんでした。

昭和24年頃には放置されたままになり、昭和40年頃に埋め立てられました。

平木池に水を運んだ平木橋も、やがて人々から忘れ去られて、雑木林の中にひっそりとたたずんでいました。

突然のことでした。

この平木橋のある場所に、東播磨南北道路が計画され、にわかに平木橋が注目を集めるようになりました。

平木橋には「HIRAKI AQUEDUCT BUILD SEP. 1915」、裏には「平木橋大正四年九月架之」、とありレンガの赤と御影石のコントラストが美しい橋です。

土木工学的にも貴重であることが分かり、平木橋は専門誌にも紹介され、訪問する人も増えました。

保存運動がたかまり、兵庫県と加古川市は、橋の移設保存工事に着手し、水足の公民館横の前ノ池(まえのいけ)に移転され保存されることになり、平成223月、工事は無事完了しました。
 *写真:現在(移転後)平木橋

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集団疎開(15):疎開先訪問

2013-03-25 10:04:17 |  ・加古川の戦争

昭和19年の夏、都会の小学生を空襲から守るため、先生と共に田舎へ集団疎開が実施されました。

志方へは三つの国民学校(西志方・志方・東志方小学校)に分かれて、神戸国民学校の生徒の疎開が実施されました。

   疎開先訪問

7acc438c1994年(平成6)は、集団疎開50周年にあたり、神戸国民学校の疎開生が疎開先への訪問を実施されました。

1994年(平成61023日、参加された疎開生は約百名で、当時の疎開地(姫路・高砂・志方)を訪問され、当時の苦しかったことと懐かしさを思い出されています。

そして、住職に感謝状等を贈られました。

その日のようすは、新聞にも大きく報道されました。

なお、シリーズ「集団疎開」疎開では、作文等が無かったため紹介できませんでしたが、神戸国民学校(現:神戸諏訪山小学校に統合)の生徒は観音寺(志方町)・妙正寺(横大路)の外、細工所の安楽寺と高畑の円福寺へも疎開されています。

集団疎開については、まだ全部紹介できていませんが、ここで報告を終了させていただきます。

安楽寺・円福寺の疎開のようすは、分かりましたら後日、改めて報告させていただきます。

*写真:疎開先を訪問された方々の記念写真(妙正寺にて)

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集団疎開(14):お母さんからの手紙

2013-03-24 07:15:36 |  ・加古川の戦争

7c82a77e「集団疎開(4)・母の死」で紹介したように潮海一雄は、志方町横大路の妙正寺で昭和1992日から最後の昭和20113日)まで集団疎開をされています。

下の手紙は、そのお母さんから、妙正寺に届いた手紙です。

  忘れられない

       母からの手紙  

                        3年 潮海 一雄

18916d0b

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集団疎開(13):姉からの手紙

2013-03-23 06:54:33 |  ・加古川の戦争

姉からの手紙 

(昭和二十年六月五日の神戸大空襲のあとの手紙)

2年 門田幸也(志方町観音寺への集団疎開生)

300pxkobe_after_the_1945_air_raid幸也君、その後お元気ですか。こちらは皆元気です。

今日は、中々のよい天気ですね。

青い空に白い雲がふはり、ふはり浮いています。

面会はたのしかったね・・・・けれどこちらは、そのあくる日恐しい事があったのよ・・・・幸也君もしっているでしよう。あの空襲ですよ!

お姉ちゃんは生れて始めてあんな目にあったよ。では一通り書いてみます。

警戒警報が鳴ったのがちょうど朝の七時すぎであったので、皆ご飯をたべていました。

ついで空襲!さあ大へんといふわけで身仕度をととのえてまっていた。

もちろん地下室へはいった。

見ていると十二機ぐらいの、一編隊がやってきた。

そして、バラバラバラと焼夷弾をおとしだした。

すると、三宮の方から一時に黒い煙があがった。

また、つぎつぎとやってきて最後にサラサラ、ドドンーといったかと思ふと、あたりは煙で一寸先も見えない。

お姉ちゃんは、どうしょうかと思って、うろうろしていたら、お父ちゃんが来てくれたので一緒にやけあとへと向かった。

やけあとにも無数の焼夷弾がおちてきて、「前におちたアー、後ろにおちたアー」といっているときりがない。

ころびながらも、やっとやけあとの教会の所までにげてきた。

見るとお姉ちゃんのそばにはだれもいない。

大へんと思ってさがしてもいないので泣きそうになった。

でも、やっとお父ちゃんとお兄ちゃんがさがしにきたホッとしたよ。

けれども、お母ちゃんがいないのでこまってしまった。

やっとみつけたところは、お家の庭の防空壕の中で、隣の梁さんと平本さんのおばさんとよその子が、やけ死んでいました。

外がはでは船員さんが死んでおられました。きのどくでした。

すこし熱いのがさめてからいってみると、一時間ぐらいの間にきれいに灰になっていました。

なにもかも、やけてしまいました。・・・・敵機はしゃくにさわるね。きっとこの仇をうってやらなければおなかの虫がおさまりません。(以下略)

*神戸大空襲直後の神戸「ウィキペディア」より

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集団疎開(12):50年ぶりの訪問

2013-03-22 08:18:28 |  ・加古川の戦争

第二次世界大戦中に学童疎開を体験された旧神戸国民学校(現:諏訪山小学校に統合)卒業生や教職員等、約100名が疎開50周年を記念して、1994年(平成61023日、高砂・姫路・加古川市の疎開先をバスで訪問されています。

次の下記は観音寺(志方町)を訪問された仁藤明氏の訪問記の一部です。

    50年ぶりの訪問      4年 仁藤 明

719fbf77今を去ること五十年前の太平洋戦争の最中、ちょうど10才で親元を離れ印南郡志方村へ疎開した。

10才と言えば食べ盛り遊び盛りの年頃、疎開先では裏山で松の木を切り、そのまま持ち帰り風呂の燃科に、また、食べるものと言えば芋のつる、稗、粟、蓬(よもぎ)、雑炊、煌(いなご)、等口に入る物は何でも食べた。

親恋しさに連れ戻された事、辛い事ばかりが脳裏に焼きついた50年前を回想しながら、今その地(観音寺)に立っている何とも複雑な心境でした。

あだなで「にっちゃん」と呼ばれた時は、嬉しさで一挙にあの時に戻りました。

お世話になった観音寺ご住職が一ケ月前に他界され、お会いする事を楽しみたしていただけに誠に残念でし・・・・(以下略)

*写真:観音寺にて

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集団疎開(11):宝殿~観音寺(志方町)を歩きました

2013-03-21 07:55:50 |  ・加古川の戦争

 志方町の観音寺で集団疎開された当時小学校2年生の西浦さん等3名は、宝殿駅から観音寺まで当時の記憶を確かめようと歩かれています。

   集団疎開は、何だったのか     2年・西浦正晃

昭和二十年三月十七日の神戸の夜襲に母親が恐怖を感じたのか、途中から集団疎開に放り込まれたのです。

宝殿駅から一里の道を歩いて観音寺(志方町)に着いて、私の集団生活が始まった。

栄養失調になり、四ケ月で六月五日の神戸空襲で焼け出されて移った芦屋の疎開先に連れて帰えられた。

そして、日本は敗けた。

 集団錬開の生活は、ただ惨めということしか思い出さない。

戦争の悲惨さが文や写真で発表されているが、集団疎開も小さいながらも子どもの私にとって、惨さだけが今も思いとして残っている。

    宝殿駅から観音寺(志方町)まで歩きました

Shikata3_014昭和五十五年、集団疎開に付きそえで行かれた橋本タミ先生の金婚式のお祝いで再会した橋本学級の集団疎開の仲間である増田君、今は亡き熊沢幸男君の三人が、集団疎開の志方を訪ねようという話になり、夏の日、かつて辛い思いをして行き帰りした宝殿駅からの道は歩かなければ意味がないし、時間かけて観音寺まで歩いた。

約四十年経っていたが、寺は集団疎開時と同じであり、小学生の背丈から見た高さと広さの違いがあったが、何か感無量であった。

何か心の中で集団疎開から引きずっていたものが終ったように感じたことを、思い出します。

そこには懐しさではなく、小学生の心に刻みこまれた思い、戦争によって経験しなくて済んだものを経験しなければならなかったということを、この三人が感じていたからこそ、夏の暑い日に観音寺まで歩く気持になったのであろう。

*写真:観音寺(現在)

     

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集団疎開(10):お父さんが来た

2013-03-20 07:24:16 |  ・加古川の戦争

  神戸小学校の志方への集団疎開は、妙正寺(志方町横大路)ともう一ヵ寺、観音寺(志方町志方町・しかたちょう、しかたまち)の二ヶ寺でした。

 観音寺での集団疎開児童の体験を文集『学童疎開追想』にみることにします。

お父さんが来た           2年 上田 登

Ed2691a0・・・・七月の暑い盛りの日、授業中に浜田先生が「上田!お父さんが来られたよ。授業はよいから逢ってきなさい」と・・・

予想もせぬ父の来訪に言葉もでないほどうれしかった。

父は内地召集で戦闘帽・ゲートル姿だったと覚えています。

公会堂より少し離れた畑の中の大きな石に、腰をかけて二時間ほど二人きりで嬉しい時間を過ごしました。

 父が持参したものは、今でもよく記憶しています。

パン、乾パン、麦の煎ったもの、それと色鉛筆。父が帰る時には不思議に涙は出ませんでしたが、私の学童疎開中、最も嬉しい一日で今でも克明におぼえております。

 疎開中の生活で思い出す事は、いつも空腹だった事。少し寂しかった事。

 お寺の本堂の石段に並んで座り、シラミを潰した事。公会堂の庭で上級生が、バリカンで、頭をかってくれた事。志方村の北部に少年通信兵の訓練校があった事。畑で芋を堀り生で食べて叱られた事、等々・・・。

    終戦、そして集団疎開が終わった

八月十五日の終戦後、親がむかえに来る様になり、残留者がどんどん滅ってまいりました。

しかし、いつか神戸に帰れる安心感で、それ以後は気持も落着きました。                               秋に入り中町公会堂の仲間も十人位になり、家へ帰れる日を一日千秋の思いで待っておりました。

・・・・                                             

(十一月下旬)引率され帰神、(空襲で家は焼けたので)諏訪山小学校の音楽室に一時落ち着きました。

数日後、父が迎えに来てくれました。

再度山の仮り住いに両親、祖母、兄弟妹と家族が揃いました。とても不思議で、テレクサイ感じでした。         

志方から出した私の手紙は母がすべて記念に保存して居りますが、母が長期入院で、保管場所が判りません。

疎開前に母が、葉書の表書き(住所:当時は神戸市神戸区・宛名)をして、私に持たせました。

私が書いた文章はいつも同じで「お父さん、お母さん、お元気ですか、僕も元気です・・・」「帰りたい、逢いに来て欲しい」は書けませんでした。

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集団疎開(9):炊事当番

2013-03-19 07:18:53 |  ・加古川の戦争

(前号の東中弘吉氏の思い出の続きです)

  待ち遠しかった炊事当番    6年 東中弘吉

Ce58726eつらかった疎開の生活の中にも楽しい日が平等に順番に廻ってくるしかけになっていた。

炊事当番の日である。

その日は、該当の生徒は朝から顔が生き生きしていた。

当時給食の食器はすり鉢型の素焼きの丼鉢で、もちろんご飯は盛り切り飯であった。

ところが何故かこのすり鉢型の丼が総学童数より八つ程不足しており、その不足分だけ学童が持って来た丸みのある、見るからに丼鉢が使用された。

これらは、すり鉢型のものより約三割多く入り、中でも紺色で松の絵が焼付けられたジャンボ丼は五割近くも多く入ったと思う。

食事の為に公会堂へ入るとその日の炊事当番が誰であるか一目瞭然であった。

炊事当番の席にはちゃんと大きな丼があり、それに山盛りに御飯が盛られていた。

丼鉢についてまた珍現象があった。

大型の丼鉢は、確か炊事当番の人数より二、三個余分にあり、それが又誰の席に置かれているかが、当時の私達の小さな社会関係の一面を現わしていた。

その日の炊事当番と仲の良い友人の席、ボス的存在の生徒の席、勉強の良く出来る指導者の席等、恩を売ったり返したり、管理したり管理されたり、丼の位置一つで、当時の年若い我々のインフォーマルな管理体形の一面をうかがい知ることができた。             

    田中様ありがとうございました

食物の点で私にとってもっと有難い裏話がある。

さきに触れた民浴(みんよく)である。二人一組で民家に貰い風呂に行ったが、私は三年生の五十嵐君とペアになった。

隔日に公会堂の裏手の田中真之様宅へ出かけた。

このご家庭は遺家族で、おばあさんと、戦争未亡人、二年生の真之君の三人家族であった。

私が五十嵐君と二人で入浴している間に必ず食事か軽食の準備をして下さり、入浴後ご馳走になった。

食べ残りがあれば、餅、芋、豆などは紙袋に入れてお土産として持たせて下さった。

あまりに我々を歓待し、優遇して下さるので、お孫さんの真之君が却って羨む位であった。

同じように民浴に行った友人の中には、疎開の子と白眼視され、入浴も遠慮勝ちであった者も少くなかった。

それを思うと、私と五十嵐君とは実に恵まれていて、よい家庭に配属されたものだ。(以下略)

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集団疎開(8):野兎狩り

2013-03-18 06:50:33 |  ・加古川の戦争

    疎 開         6年・東中弘吉

29eeb1f1_2夏休みが終った二学期に入ってすぐ疎開に出発した。

六年、三年の男子は印南郡西志方村へ、五年、四年は志方村へ、女子生徒はそれより姫路よりの曽根、御着に出かけた。   ,

出発の当日は我々学童はそれほど悲しいとも思わなかった。

丁度戦争激化のため中止になった「伊勢まいり」の一泊修学旅行のかわり位にしか考えていなかった。

それに何しろ悪友、良友大勢で担任の先生に引率されて行くのが何より心強かった。

お国のためとはいえ、九才から十二才までの我が子を手離し、終期の明確でない別離の生活を強いられた父兄の気持がどんなに悲しいものか、当時の私には推測することもできなかった。            

    野兎狩り      

疎開先の西志方では、六年、三年の男子がそれぞれ二班に分かれ、公会堂・妙正寺に分宿することになり、そこから西志方村の国民学校(現:加古川市立西志方小学校)へと通学した。

食事は公会堂で全が揃って頂き、入浴は妙正寺の生徒は山門を入った右側の風呂に入り、私たち公会堂の班は、二人一組となり近隣の民家へ隔日に貰い風呂をした。民宿ならぬ民浴であった。

両親と離別しての生活も、一日、二日は興奮気味で楽しかったが、日増しに淋しく、空腹も手伝って、神戸の方を向いて両親や兄弟を思い出して泣く日も多くなった。

・・・・・両校生徒融和を図るため角力大会、運動会、それに合同授業も一、二回実施された。

共同行事の一つに野兎狩りがあった。

何時の頃か忘れたが寒い頃であった。山の斜面に頂上から山裾まで網を張り、私達が勢手になって一列縦隊で網の方へ追いつめて行く。

頂上の方で誰かの「あっ、兎だ。」との叫び声が聞えるとほとんど同時に、一匹の兎が物凄い速さで我々の前を通過した。ところが、そこが混成チームの弱さで、神戸の生徒と西志方の生徒との間隔が少し離れ過ぎていた。

兎もさる者でその間を、あっという間に走り抜けた。当日の兎狩りは、野兎を見ただけで収獲はゼロ。

兎を逃がしたことで神戸の我々は「動作が鈍い、憶病だ」とさんざん失態をなじられた。

神戸の学童頼むに足らずと考えたのか、現地の生徒だけで第二回目の兎狩りが行われ、この時は、我々はお呼びでなかった。

ところが相憎く第二回目も収獲はゼロ。それを聞いた我々は「それ見た事か、第一回目の失敗も我々神戸の学童だけ罪ではないぞ」と話し合い、冤罪が晴れた思いだった。

当時の西志方村の先生方は本当に情け深い方々で、疎開児童に、「どうしても兎汁を馳走してやりたい」の一念から、学校の飼い兎を屠殺して我々に供して下さった。

兎汁の味は本当に複雑で、今だに忘れられない。

*写真:集団疎開中の神戸校(現:神戸市立神戸小学校)の学童(妙正寺山門前で)

 前2列は、当時の3年生、後ろ列は、当時の6年生

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集団疎開(7):稲岡工業から

2013-03-17 08:05:12 |  ・加古川の戦争

妙正寺のある横大路には、加古川を代表する工場の一つである稲岡工業があった。

稲岡工業の説明を少ししておきたい。

   

    稲岡工業

9fdd3153稲岡工業は、現在の加古川市域やその周辺は江戸時代から木綿の生産が盛んだったが、産業の近代化とともに木綿業は危機に直面した。

窮状を打破しようと、創業者の稲岡久平が木綿の加工品としてタオルに着目。調査・研究を重ねて1891(明治24)年に生産を開始した。

海外輸出や、中国にも工場を展開し。戦後も最新鋭技術を積極的に導入。百貨店向けの高級品が好調だった1991年には売上高26億円を計上した。

しかし、バブル崩壊後は、中国を中心とするアジア製品の安値攻勢と国内の消費不振で業績が悪化。

20082月に民事再生法の適応を申請して経営破綻した。

先日、稲岡工業に残された史料の調査に出かけました。

その中に、「社史の原稿の一部」と思えるものがあり、それに集団疎開の記述があったので紹介しておきたい。

    

    稲岡工業のお風呂にも入りました

昭和十九年九月には神戸市より神戸国民学校児童約100人が、工場に近い妙正寺と横大路公会堂に集団疎開をしてきた。

当店では寄宿舎の風呂を時々開放して、疎開児童を入浴させた。

また、広い荷造場を開放して従業員の素人芝居演芸会を行い、疎開児童に観劇させた。

この素人演芸会は産業戦士慰問という目的もあった。

また、社長は物資不足の中、菓子等を調達して疎開児童全員に分け与えた。

*写真:稲岡工業

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