ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

北条直正物語(32) 初代母里村村長・岩本須三郎

2020-07-31 07:17:21 |  北条直正物語

 明治22年4月1日、蛸草新村・草谷村・下草谷村・野谷新村・印南新村・野寺村の6ヵ村が合併して母里村が誕生しました。

 その時、江戸時代の新田をあらわす新村の名称はなくなり、それぞれ母里村蛸草・下草谷・野谷・印南となりました。

 初代母里村村長として蛸草の岩本須三郎が選ばれました。

     初代母里村村長・岩本須三郎

 蛸草新村の庄屋の家に生まれた須三郎は、父を早く亡くし12才で庄屋の家をついでいます。

 戸長になってからは、納税の問題・疎水事業にと、おいたてられ続けの毎日でした。

 あるとき、郡長が気の毒そうに、「岩本さんもえらいときに村長になってでしたな」となぐさめたほどです。

 (岩本)「ほんまですな・・・でも、苦労が大きいほど、喜びも大きますし・・・」

 静かに答える須三郎の声には重みがありました。

 まさに、須三郎の人生観でした。

 しかし、「村長の言うことよう分かるが、借金だけがぎょうさんできた。なんでこんな時に疎水つくるんや、もうちょうっと時期待てへんのかいな・・・わしら、土地売るしかしょうない」と不満をもらすものも多くいました。

 (岩本)「土地売ったらあかん、もうじき水が来る。疎水の仕事や鉄道の仕事で日銭かせいで、もうちょっとがんばらなあかん」

 こういうのが精一杯でした。

 明治22年は、雨が多い年になりました。そして、秋には台風にも見舞われ、できたばかりの水路の一部も崩れました。

 金が足りない。それだけではなかったのです。工事が始まると山陽鉄道の工事もはじまったため、人夫の賃金もあがりました。

 でも地方の地元資産家は、出資には冷淡でした。

 トンネルの工事の目途はついたのですが、工事費は、目途がつきません。

 21ヵ村の惣代は「淡河川疎水工事費拝借」を国に願い出でました。

 工費拝借願いは認められなかったが、借り入れ金の返済の延納は認められました。

     水がきた・・・・

 明治24年4月7日ケシ山トンネルは貫通し、4月11日、検査のために水門が開かれました。

 淡河川の水は、勢いよく疎水に流れ出ました。

 練部屋の配水所の周りは、水を迎える多くの人々の熱気があふれました。

 水は、ゆっくりと力強く5日をかけて練部屋に流れてきました。

 うれしさのあまり、水路に跳びこむ者も大勢いました。

 喜びは、練部屋からの支線水路やため池工事に大きな励みをあたえました。

 須三郎の蛸草では早くから水路・広谷池の工事を始めました。

 野寺の穴沢池の工事もさっそくはじまりました。

 こうして各村々で相次いで工事にかかり、明治40年には印南17、下草谷6、草谷5、野寺4、野谷3の新池が築かれました。

 野寺高薗寺の東がわにある「総池之碑」には、淡河川の疎水が通じて野寺村には4つの新池と5つ増築が行われたことを記録しています。新池分を紹介しておきます。

  (新築)

  穴沢池  明治 25 年 9月起工

  野畑池  〃  27年  4月 

  小出池  〃  27年10月

  中 池  〃  28年10月(no5044)

 *写真:岩本須三郎(『兵庫県淡河川・山田川疎水百年史』より)

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北条直正物語(31)  水は練部屋(ねりべや)へ

2020-07-30 10:17:45 |  北条直正物語

         水は練部屋(ねりべや)へ

 いくたの試練をのりこえて、ついに夢が実現する日が来ました。

 明治21年1月27日、淡河川疎水工事の起工式が播磨葡萄園で行われました。

 内海知事、田辺技師、県会議員、町村戸長、水利関係者らの顔がそろい、晴れた寒さ厳しい冬の日でしたが、ここばかりは華やいでいました。

 「(魚住)完治はん、よう頑張りましたな・・・」

 「皆さんのおかげです。百姓の思いは、みんなおんなじなんです・・・」

 だれかれとなく、完治に声をかけてきました。

 完治は、満ち足りたこの日の幸せをかみしめるのでした。

      ケシ山隋道は難工事

 たやすく思われた淡河川の平地の工事は、岩は崩れやすく難工事となりました。

 また、皮肉なことに工事は、しばしば雨にたたられました。

 御坂(みさか)では、水管(サイフォン)の工事が始まりました。

 人々の疑いと心配の中を工事は予定通り進み2年間で見事に完成しました。

 御坂を越えた疎水は、御坂の少し南のケシ山へと流れ下ります。

 この部分の疎水の一部は、山を貫く隋道(682m)工事となりました。

  *隋道(ずいどう)は、トンネルのこと

 ケシ山の隋道工事は、土地が軟弱で、湧水がおびただしく県の直営工事となったのですが、それでも一日60mを進めるのがやっとの難工事でした。

 21年2月に取りかかり、貫通するまで3年4ヶ月を要しました。

 ケシ山を越えた水は、ついに紫合村練部屋(ゆうだむらねりべや)の配水所に水は流下りました。

 そして、配水所の噴水口から吹き上がり、5つの排水口からそれぞれのため池へ向かうのです。

 工事費は、トンネルなどの難工事などのために大幅に増えました。

 工事もさることながら地元負担金の徴収は難航しました。

 長年の日照と重税のため、疲れきった村人とから集めることは限界に達していました。(no5043)

*写真:現在の練部屋の配水所。写真中央部(配水所から東)の山は雌岡山

 

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北条直正物語(30) 取水口、山田川から淡河川に

2020-07-29 10:43:05 |  北条直正物語

 地図で淡河川・御坂(サイフォン)・練部屋(ねりべや)を確認ください。

 疎水工事は、淡河川の取水口から練部屋までの疎水です。練部屋から流れ出た水は、各支線を流れ、印南台地を潤すことになります。

    取水口、山田川から淡河川に変更

 疎水に対する国の動きに、近隣の村々も参加を願い出ました。

 母里6ヵ村としても仲間が増えれば負担も軽くなります。

 双方の利害が一致して水利組合の組織は大きくなりました。

 19年には関係6ヵ村に加古新村、天満地区の10ヵ村、それに平岡の高畑村・土山村そして二見の東二見村・福里村が加わり21ヵ村となり、名前も「印南新村外20ヶ村水利組合」となりました。

 内海県令(森岡県令は明治18年に中央へ転出)は、この疎水事業に意欲的でした。

 県令みずから加古川まで出向き、21ヵ村の戸長(村長)と請願委員を郡役所に集めました。

 「・・・・私は、前県令からこの計画を引き継ぎました。国に工事費9万円の借り入れを願ったのですが半額の4万5千円程度が限度と思われます。

 それでも、この工事を受けるかどうか重大なことなので、よく考えて欲しい・・・・」

 新しく組合に加わった村々の代表は、どのくらいの工事費になるのか不安でしたが、何とか各村々の負担も決めることができました。

 内海県知事(明治19年度より県令から県知事に改称)は、水利土工費を国に申請しました。

     サイフォンって何?

 内務省に、より精密な調査を依頼しました。

 内務大臣の山県有朋(やまがたありとも)は、洋式土木を学んだ新進気鋭の田辺儀三郎技師を派遣してきました。

 調査の結果は、人々を困惑させるものでした。

 山田川線は、シブレ山が険しく岩がもろく、はじめに見積もった工事費ではとてもおぼつかない。

 淡河村木津で取水すれば、平地を楽に掘り進めることができる」と言うものでした。

 地図をご覧ください。

 でも、この路線は志染村御坂(しじみむらみさか)で、いったん低地(志染川)をこえなければならないので、いままで誰も注目した者はありませんでした。

 田辺技師は、ここを鋼鉄のサイフォンで水を通すというのです。

 人々は、「なんぼ世の中が変ったいうたかて、いっぺん下ろした水が上がるやなんて、そんなええかげんな話聞いたことがないわ・・・」と不思議がるばかりでした。

 郡長は、サイフォンについて何度も何度も説明しました。

 そして、新しい路線の工事が認められました。(no5042)

 *地図は『兵庫のため池』(兵庫県農林水産部)からお借りしました。

 *写真:現在の御坂(みさか)サイフォン

 

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北条直正物語(29) 牛の餌じゃ

2020-07-28 10:38:17 |  北条直正物語

    疎水計画は動き出したが

 疎水建設は動き出しました。が、喜んでばかりはおれません。

 いぜん未納地租は残ったままでした。

 (明治19年)11月、鐘が鳴らされた。人々は役場へ急ぎました。

 吏員が、地租不納処分のために村に来たのです。村人たちはたまった不満をぶちまけた。

 「疎水ができるのに殺生や、水が来るまで待てんのかいな」

 「土地買うた者が儲けて・・・、お前等金持ちの味方ばっかりするんかいな」

 郡の吏員は何も言えませんでした。

 怒りに檄した村人たちに、戸長の岩本もなだめようもなかったが、吏員と話してもらちのあく問題でもありません。

 新郡長は「疎水の話が持ち上がって土地の値段もあがったし、売りやすくなったはずだ。売って納めるのがいやなら公売にするまで・・」と手かげんをしませんでした。

 不納者440人の畑地140町が処分されてしまいました。

 この時、6ヵ村730戸の農地7分の4以上の土地を奪われてしまったのです。

 その、ほとんどが土地を営々として開墾してきた小百姓の土地でした。

     牛の餌じゃ

 この時(明治19年)のひとりの農民の様が、『母里村難恢復史略』に記されています。

 以下のような内容もあります。

 ・・・・

 3畳敷ばかりの藁小屋の隅で、年老いた農夫が釜でなにやらに煮物をしていました。

 農夫は、突然の来訪者におどろいたようすでした。

 「だれじゃいな」

 「役所から来たんやが、だれもおらへんおかいな」

 吏員は、釜の中をのぞいてみたくなりました。

 老農夫は、あわててその手を押さえました。

 「見たらあかん」「中のぞかんといてくれ」

 悲鳴にも似た声でした。吏員は、一瞬ひるんだが蓋をはずしました。

 煮えた釜には麦らしいものが浮かんでいましたが、ほとんどが藁でした。

 「牛の餌やないか」

 いくら貧乏でも牛並みのものを食べているとは知られたくなかったのでしょう。

 税金の話どころではなくなりました。

 郡吏は、だまってポケットから20銭を取り出すと、そっとかまちに置いて、「これで税金はろとけ」

 そう言うと、後もみずに出ていきました・・・

 *小説『赤い土』小野晴彦氏は、この『母里村難恢復史略』(北条直正著)をベースに物語にされています。(no5041)

 *写真:『母里村難恢復史略』(北条直正著)

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北条直正物語(28) 疎水計画が動く    

2020-07-27 07:37:38 |  北条直正物語

   疎水計画が動く

     品川農商務省大輔(次官)来る

 (明治16年)12月19日、農商務省大輔(次官)の品川弥二郎が、葡萄園の視察に訪れ、この視察に県から租税課長が同行しました。

 葡萄園の園長の福羽(ふくば)は、葡萄園の苗の植え付けや生育のようすのほか、地域の百姓の生活のようすも話しました。

 丸尾茂平次(印南新村戸長)は、地租を納めるために土地を売ったことを話しました。

 品川は、さらに村の生活ぶりを聞きただすのでした。

 ・・・・・

 (品川)「租税課長。人民が租税を納めるために土地を売ったと言っているが、知っているのか」

 (租税課長)「はい、知っております」

 (品川)「知っていてなぜすぐに止めさせなかったのだ。第一に、土地を売って納めなければならないほどの地租を課すとはなにごとだ」

 租税課長への叱責はするどいものでした。

 (品川)「・・・なぜ、適正な修正をしなかったのだ。郡長が土地売買の世話をしたということであるが、租税課長が修正していれば、せずに済んだはずではないのか」

 そして、品川弥二郎からこんな発言が続きました。

 (品川)「これからは、なるべく土地を売らないように。土地さえあれば、その内によいことがあるであろう」

 戸長たちは、顔を見合わせるのでした。

 「よいこと?・・・、ひょっとしたら国のほうで疎水計画が具体化しているのではないのだろうか・・」

 その後も、魚住逸治さんの疎水の話に随分熱心でした。

 ・・・

 租税課長は、おもしろくなかったのでしょう。

 「この恨みは必ずかえさせてもらう・・・」

 百姓への、お門違いの恨みが、腹のそこで煮えたぎっているのでした。

    疎水計画が動く・・・

 「国が、疎水を具体化させるのではないか」というウワサは、百姓の間で大きな波紋をよびました。

 ウワサだけではなかったのです。

 年が改まった(明治)16年、県は疎水線の実測を始めました。2月には県の土木課長と郡長が水源まで視察をしました。

 突然、疎水計画をめぐる状況が変わってきました。

 3月には、県の動きを追うかのように、農商務省の南市郎平が訪れました。

 南は、安積疎水(福島県)を手がけた人物でしたから、疎水計画のウワサは、いっそう大きく広がりました。

 県の土木課も加わり大がかりな調査もはじまりました。

 7月10日には大蔵卿(大臣)の松方正義(まつかたまさよし)の巡視があり、続いて農商務卿の西郷従道(さいごうつぐみち)の視察がありました。

 (明治)17年3月、関係村より新赤堀郡長の副申を添えて、水路開削起工願を提出しました。

 疎水計画は、にわかに動き出しました。(no5040)

 *写真:品川弥二郎(農商務省大輔)

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北条直正物語(27) 北条郡長辞任

2020-07-26 10:17:37 |  北条直正物語

   北条郡長辞任

     説得すれど

 印南新村の百姓衆が、郡役所に直訴したあくる日、郡長(写真)は上庁しました。

 なんとしても、土地の取り上げの件を県令に伝えたかったからです。

 しかし、県令からの返事は、むなしいものでした。

 (県令)「地価を修正し、増租分の延長も認めたのに、その上に郡役所まで押しかけるとはあまりにも強情者たちである。処分は徹底して行なえ・・・」

 ・・・

 郡長は、何を説いても分かってもらえぬ上司に言いようのない怒りを覚えました。

 (郡長)「このままでは、村が潰れてしまう。当座、2000円でも納めたら急場をしのげるのだが・・・郡長が租税の支払いのために畑を売らせる。こんなことが許されるのだろうか」

 こんな考えが北条自身を苦しめるのでした。

 ともかく、今を切り抜けるために2000円が必要でした。

 北条は、大阪のYに、土地の購入を申し込みました。

 Yは、葡萄園に興味を持ち、将来の疎水の話に目を輝かせました。

 「いまは儲けにならへんが、疎水ができたら、この地はようなる。ええ買い物かも知れへん」と考えたのでしょう。

 没収地のうち34町の契約がまとまりました。

 価格は、葡萄園の時と同じ反当り6円でした。

 その代金の2000円は戸長に渡され、そのまま地租未納分として納付されました。

 なんとか急場をしのぐことはできました。

 残った没収地は元の百姓に返されました。

    北条郡長辞任

 (明治)15年4月。突然郡長に勧業課への転任が決まりました。

 役人として好ましくない人物として、閑職へ追われたのは明らかでした。

 悔しかった。北条は、自分の力のなさを骨身にしみて感じるのでした。

 このままでは、百姓がかわいそうだ。

 ・・・・

 北条は、役人を辞任しました。(no5039)

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北条直正物語(26) 郡長は味方や

2020-07-25 10:24:20 |  北条直正物語

    郡長は味方や

 (郡長)「皆さんはお願いに行くつもりでも県令は、一揆ととるでしょう。

 その後にまっているのは、処罰だけです。立ち方、まちごうたらいけません。どないしたらよいか、よう考えてください。・・・皆さんでよう話し合ってください」

 郡長は、いっとき部屋にこもりました。

 ・・・・

 ややあって、郡長は呼びだされました。

 (百姓)「・・・来る時、丸尾戸長(村長)に、冷静に行動するように」と言われました。

 そして、郡長は、たとえ役人でも村のことを真剣に考えてくれはった。役人の中でたった一人の味方や。

 わし等には、まだ大事な郡長や。

 郡長の話を、よお聞いて欲しいといわれました。話はまだ、まとまっていません」

 北条郡長は、熱いものがこみ上げてくるのでした。

 「地券の取り上げの件は、なんとしても県令と話をつけます。そう丸尾さんにお伝えください」

 百姓は、来た道をひきあげていきました。何の解決もないままで・・・(no5038)

 *挿絵:『赤い土』より(昨日と同じ)

 

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北条直正物語(25) 印南新村の百姓たつ

2020-07-24 07:09:18 |  北条直正物語

     印南新村の百姓たつ

 明治15年は、なんとも気の重い年明けとなりました。

 「240町の土地を農民から取り上げることは百姓の生きる全てを奪うことになる。営々として積み上げた苦労を、村を一気につぶすことになる。法の定めに従うとはいえ、人間として許されるのだろうか・・・」

 郡長は、言いようのない悔いとおののきを覚えるのでした。

 田舎の宿は、静かでした。冬の風だけが屋根でなっています。

 しかし、怒りに火がついついてしまいました。

 ・・・・

 数日後、印南新村の男200人あまりが郡役所を目指しました。

 郡長がその知らせを受けた時は、すでに加古川の町に迫っていました。

 午前10時。一群は寺家町の役所に着きました。

 さっそく、一群は郡長に直訴しました。

 (百姓)「この度のこと(地券没収)は、人とも思えぬ仕打ちであり、あまりにもひどい。このような仕打ちをした県令は、おそらく真実を知らないとしか思えません。

 我々は、直接県令に会って事情を説明し、処分を取り消すように嘆願することにしました。郡長には迷惑と思うが同行願いたい・・・

 百姓も立たなあかん時があります。今がそのときやと思てます・・・」(no5037)

 *挿絵:『赤い土』より

 

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北条直正物語(24) 飴と鞭

2020-07-23 08:21:20 |  北条直正物語

    飴(地租の見直し)

 新祖額に対する不満は他の地域でもおきていました。

 かたくなな態度をとっていた政府も、一部の祖額の修正に応じざるを得ませんでした。

 14年にずれこんだ地価の修正作業でしたが、全国の15ヶ村で祖額の修正が行われることになりました。

 15ヶ所のうち6ヶ所が兵庫県で、川辺郡の一ヶ村と蛸草新村を除く印南5ヵ村が対象となりました。

 国は、正式に印南5ヵ村の祖額は適正な査定でなかった事を認めたのです。

 しかし、森岡県令は国の財政確立のための職務に忠実のあまりの勇み足ということか、中央では高く評価されていました。

 この修正される村の中に、なぜか蛸草新村の名前がないのでした。 

 詳しいことは分かりませんが、これは隣り合う加古新村や国岡、国安、岡村への影響を考えてのことであったのかも知れません。

 蛸草新村の戸長(村長)、岩本須三郎にとってはつらい決定でした。

 「お人よしやから、甘う見られるんや」「村のもんは、えらい迷惑や」と言う者もいました。

 ただし、この減税は14年から行われ、それまでの祖額はそのまま納めなければならなかったのです。

 祖額は、若干修正され、延納は認められたのですが、まだまだ納められる額ではありません。

 ・・・・

 祖額を決めた県としては、祖額が間違いであると国に指摘されたことは、面白くありませんでした。

     鞭(より厳しい取立て)

 県の租税課は、「減税は行われたのだからもはや文句はないはずである」と、地租未納の徴収は一段と激しさを増しました。

 県の命令に郡長も従わざるを得ません。

 郡長は、印南6ヵ村の主だった者に伝えました。

 「先日、県令より命令がありました。印南新村の地祖未納者処分をせよと言うことです。

 皆さんにも地租未納分を完納してもらわねばなりません。

 この度の命令は厳しいものであり、猶予はないでしょう。

 不納の時は公売処分になります・・・・」

 しかし、「ないものはない」のでした。

 陳情の効果もなく、不納者221名の土地は公売されることになりました。

 しかし、この時も入札者は一人も現れませんでした。

 県は、次の方法として土地没収と地券引き上げを通知してきました。

 明治14年12月31日のことでした。

 印南6ヵ村にとって、冷たい、絶望の大晦日となりました。(no3036)

 *挿絵:増税を迫る役人

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北条直正物語(23) どこまでも続く苦難

2020-07-22 08:42:36 |  北条直正物語

     どこまでも続く苦難

 明治時代初期の村名がしばしば登場します。地図(赤い部分)で場所を確認ください

    6ヵ村(現:母里)連合会結成

 明治13年3月播州葡萄園が発足しました。

 疎水の話は、いつも工事費用になると前へ進みません。

 旱害・重税が重なり疎水の話どころではなかったのです。

 しかし、山田川疎水関係の印南新村、蛸草新村、野寺村、野谷新村、草谷村、下草谷の村々で疎水を造るための連合会がつくられました。

 県・国へ働きかけることにしました。役員もぐっと若返りました。

 魚住逸治23才(野寺村)、松尾要蔵29才(野谷新村)、岩本須三郎35才(蛸草新村)らを中心とし、若い熱と智恵で疎水問題が進められることが決まりました。

     国からの援助消える

 地元の連合会ができました。県も疎水建設に働きかけるといいます。国も山田川疎水に対して理解が生まれたと思われました。しかし、行く手に暗雲が待ち受けていました。

 新政府は、西南戦争等に多額の出費があり、出費を抑えなければならなかったのです。

 新政府は、明治13年、太政官代48号をだしました。

 その3条には、府県が実施する工事の土木費のうち、国からの下げ渡し金を14年度より廃止するというものでした。

 国からの援助金がなければ、山田川の疎水事業計画は止まってしまいます。

 あんのじょう、県へ提出していた山田川疎水計画は即時「却下」されました。

      厳しい税の取立て

 それを追うかのように「明治14年3月25日、11・12・13年の祖額不足分を一時に徴収し、不納ものは断然処分すべし」という命令が届きました。

 北条郡長は、不可能なことを県に申し入ましたが、県からの返事は「不納ものは当然のこととして、処分せよ」でした。

 郡長の抵抗もむなしく、不納者の土地が公売に出されました。

 神戸から数名の者が物色に来たのですが、さすがに土地にかかる重税に手出しができず入札者は一人もいませんでした。

 安心はできません。次は、土地の没収がまっていました。

      あいつぐ県への嘆願

 印南新村は、金のできる目当てはなく、県に地租算定の基となった23円で買い上げてもらうように嘆願した。

 返事は簡単なもので、「書面之趣ハ難聞届候条成規之通相可心得事(しょめんのおもむきは、ききとどけがたくそうろうじょう、せいきのとおり、あいこころえるべきこと)」

 引き続き、年貢の未納期間を引き伸ばして欲しいことを県に嘆願しました。これも一蹴されました。

 印南新村が嘆願書を出した頃、六か村としても地価修正の伺い書を提出しました。

 前年の8月に地価の修正願いを提出していたのですが、9ヵ月を過ぎても返事は、「追って沙汰する」と言うものでした。

 その間にも地租の督促は急で、6ヵ村はたまらず地租の延納を願い出ました。

 良い返事は、ありません。

 百姓の怒りは、沸点に達しようとしていました。(no5035)

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北条直正物語(22) 播州葡萄園

2020-07-21 10:19:54 |  北条直正物語

    播州葡萄園

 日本のブドウ栽培のルーツが印南(加古郡稲美町印南)にあったことは、稲美町以外では意外と知られていないようです。

 播磨葡萄園は、120年前に廃園になり、地元でも忘れられていました。

 15年ほど前にその遺構が見つかり、その一部の発掘調査が行われました。

 平成17年(2005)に国の史跡指定が決まり、播州葡萄園が再浮上してきました。

    官営、播磨葡萄園

 明治12年、政府は官営の葡萄工場を計画しました。

 地元ではさっそく誘致に動き、翌13年2月、政府は約30ヘクタールを買収し、3月、園長・福羽が着任し播州葡萄園はスタートしました。

 明治16年度には11万本の苗木の植えつけも終わり、ワイン・ブランデーづくりもはじまり、約20平方メートルのガラス温室がお目みえするのもこの頃です。

 明治17年には、松方正義大蔵卿(後、総理大臣)、西郷従道(さいごうつぐみち)農商務長官が葡萄園を視察しました。

 官営の播磨葡萄園の開設により政府の要人がしばしば印南新村を訪れるようになり、当地の事情が、直接中央でも知られるようになり、疎水の必要性も認められるようになりました。

 明治19年、園長の福羽逸人(ふくばはやと)は、ドイツ・フランスへ留学を命じられました。

 代わって経営にあたったのは、農商務省の前田正名(まえだまさな)です。

  *前田正名は、多木粂次郎にも大きな影響を与えています。

 そして、事情は良く分からないのですが、明治21年、前田正名に払い下げられています。

 ですから、葡萄園が官営工場であったのは10年ばかりでしたが、この間に岡山県の名産となっている「マスカット・オブ・アレキサンドリア」の温室栽培への技術移転でした。

    葡萄の天敵・ブドウフィロキセラ被害広がる

 明治18年6月、葡萄の天敵であるブドウフィロキセラがみつかりました。

 前田の経営にうつって後、フィロキセラ大繁殖により、葡萄の木は衰弱して、明治20年代の後半、播州葡萄園は、閉園となりました。(no5034)

 *写真:発掘されたブドウ酒(中身もはいっている)

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北条直正物語(21) 播州葡萄園にかける  

2020-07-20 08:29:38 |  北条直正物語

    播州葡萄園にかける

 中学生が使っている歴史教科書から「官営工場」の説明を読んでおきます。

 ・・・・

 「政府は、欧米から機械を買い、国が運営する官営工場をつくり、民間の産業も育成しました。これを殖産興業といいます」

 少し付け加えておきます。

 明治10年当時、民間には大規模な工場をつくる技術も資本もありませんでした。

 そのため、国が運営するモデル工場をつくり、やがて民営に移管して工業を育てようとしました。

 そして、どの教科書も代表的な官営工業として富岡製糸工場(群馬県)の写真を紹介しています。

 印南新村につくられた国営播州ブドウ園(播州葡萄園)もその一例です。

    北条直正、播州葡萄園にかける

 母里地区は、水が少ないため作物が十分に育ちません。綿作は急速に衰退しました。地租が高い。従って土地は売れなません。

 どう頭をひねっても、祖額を完納するお金ができないのです。

 そんな時でした。北条は、大阪朝日新聞に、「官営ブドウ工場をつくるため、国は土地を求めている」というニュースをみつけました。

 北条は、土地を母里地区に誘致し、土地を国に買い上げてもらう。

 その金で納税することができる。

 税を完納して、今度は疎水の誘致を確実にさせよう。

 土地を売った農民は、ブドウ園で働かせてもらう。

 北条の頭にこの構想が、一瞬にして駆け巡るのでした。

 これより外の方法は考えられませんでした。

 さっそく上庁し、県令にそのことを話しました。

 その日の県令は、納税の方法を話したためか上機嫌でした。

 「わかった。担当の福羽(ふくば)氏が、兵庫県にこられたら話してみよう。

 その日がわかったら郡長にも連絡をするから、直接にお目にかかり、お願いしてはどうか・・・」

    福羽逸人の来県

 数日後、福羽逸人(ふくばはやと)らの来県の知らせを受け、郡長は急いで上庁しました。

 「福羽さん、彼が今話していた加古郡の北条郡長です」

 郡長は、福羽逸人をみて、驚きました。生気溢れる若者だったからです。

 北条が、ビックリしているのを察したかのように、「若すぎますか。24才です」

 「どちらで、ブドウ酒の勉強をされました」

 「フランスです。あちらの人は、ワインをよく飲みます。私もワインを飲みながら勉強しました」

 「それは、飲みこみの早いことで・・・」

 「ノミコミですか? ア・ハハハ」

 二人は、心安く話を続けることができました。(no5033)

 *写真:播州ブドウ園発掘現場(稲美町印南)

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北条直正物語(20) 森岡県令 VS 北条郡長

2020-07-19 10:43:06 |  北条直正物語

        森岡県令 VS 北条郡長

 県の庁舎で郡区長会が行われた日、北条郡長は少し早めに上庁して県令に訴えました。以下は『赤い土』から県令と北条郡長のやり取りです。

 (森岡県令)

 県広しといえども地租の夫納は印南6ヵ村だけであり、大蔵省より厳しい督促をいただいておる。

 まことに申しわけないことである。

 今までの忍耐にも限度があり、もはやこれ以上の猶予は認められない。不納者を直ちに処分するように」

 (北条郡長)

 県令殿のご命令ではございますが、法の通り処分すれば、印南新村272町の畑地はことごとく公売になります。

 そうなれば、畑はすべてよそ者の所有となり、村がなくなってしまいます。

 (県令)

 たとえ亡村になろうとも、処分すべきである。

 (郡長)

 従いかねます。

 (県令)

 なに!おいの命令が聞けんとか!

 (郡長)

 ・・・租税官が地租改正で違法の税を課したため、人民はその負担にたえられず仕方なく不納になったのです・・・

 卑しくも官民の間に立ち、職を奉ずる者が民情をのべるのは当然ではありませんか。無理理非な重税を課して、不納となった者を処分するなど、そのような非理無法なことは絶対に行えません

 (県令)

 おはん!

 その日は押し問答でおわりました。

 あくる日、北条は、昨日の言葉のいき過ぎを佗に県庁を訪れました。

 県令も思うところがあってか、態度があらたまっていました。

 北条に次のような提案をするのでした。

 「租税官が改正法の施行に間違いがあったとしても今は祖額の改めようがない。

 村民には気のどくだが、完納してもらうしかない。そのかわり、山田川疎水の建設に努力しよう。

 県令が疎水を持ち出してきました。この機を逃せば疎水事業はできないかもしれない。

 でも、納税のめどは立たない。

 この時、ブドウ園建設計画という思いがけない話が飛び出してきました。(no5032)

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北条直正物語(19) 貧乏神 

2020-07-18 07:40:44 |  北条直正物語

     貧乏神 

 丸尾茂平次は、早朝から地租の督促に家々をまわっていました。

 「松う、おるか」

 「よう見えてまっしゃろ」

 夏の熱気は朝から強く、開けっぱなしの家の中はまるみえでした。

 「そら、わしも(地租)払いたいんやが、みてのとおりなんもおまへん。泥棒かてきてくれまへんわ。

 用心がよろしおますわ。

 もうなくなるもん、なんにもあらへん。

 残っとんのは、お婆だけでっせ。そいでよかったら、地租の代わりに持っていってもろたらよろします」

   畑を買うてくれまへんか

 「戸長はんにお願いがおますんやが」

 松治は座りなおして、「わしの畑買うてくれまへんか。一反2円でええんや。5反おます。10円で買うたってほしい・・・」

 松治は目を落とした。

 お婆はんも可哀そうなもんですワ。

 若うちに、ここに嫁にきて、働いても働いても貧乏神に取りつかれて、あげくに病気です・・・

 近頃は、えらい気も弱おうなって、毎日“死にたい・死にたい”いうてます。

 せめて、10円で畑、買うたってほしいんですワ。

 せめて米の粥ぐらい食わしたいんです。

 地租の話どころではなくなりました。

 話をしながら、茂平次は隣の様子が気になっていました。

 物音がしないのです。

 「隣の与七とこ、えらいひっそりしとるな・・」

 「きのう夜中に出て行きよったんや。どこやわからへん・・」

     土地が売れない

 以前では一反2~3円で売れていた畑も、最近では金に換えることが難しくなりました。

 あまりに高い地租のために、土地を買ったらその負担が大きくなるので買い手がなくなってしまいましたからです。(no5031)

 *『赤い土』の「地獄の一丁目」参照

 

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北条直正物語(18) 郡長は、やはり役人か?

2020-07-17 10:54:30 |  北条直正物語

      郡長は、やはり役人か?

 印南新村の丸尾茂平次が、郡役所をはじめて訪れたのは郡役所が開設されてから数日を過ぎた午後でした。

 「もっとはよう、お祝いに来たらよかったのですが、私の話は暗いことばっかりで郡長さんには悪いと思うてます。

 印南野の百姓は、前世でよっぽど悪いことしたんでしょうな。

 近頃はお天とうさんも信じられんようになりました」

 話題は、やはり地租のことになってしまいました。

 「新祖額が不当に高額なことは、私もよく承知しています。地租改正掛に誠意があれば、こんなことにならなかったでしょうに」

 郡長は、改正掛の無責任さが腹立たしかった。

 いったん決まった地租は、私にはどうすることもできません。

 「私が郡長を命じられた時、租税掛員から“加古郡は地租の未納者が非常に多く、地租の徴収が郡長の仕事である”といわれました。

 役人とは厄介なものです、職務上がいかに理不尽でも、部下は命令に従わなければなりません」

 そう話す郡長は、お役人そのものでした。

 丸尾茂平次は、腰をあげながら、「私らは、祖額を減らしてもらおうと県令に嘆願書を出しました」というのでした。

 郡長もはじめて聞く話でした。

 「それは、どういうことです?」

 「金借りに走りまわっても祖額にはとても足りまへん。

 そいで、土地の値段を決めなおすか、そこそこの値段でわし等の村の土地を買い上げて欲しい」とお願いしたんです。

 そしたら、すぐに姫路出張所へ出頭するように命令がきました。

 ごっつい怒られましたわ・・

 そして、県令の指令書見せてもらいました。

  指令

 書面願之趣難及詮議候事(しょめん、ねがいのおもむき、せんぎにおよびがたくそうろう)

 「味気ないものでんな。それだけですは・・・」

 郡長は、茂平次の話を聞き終わると「わたしは郡長ですいから、その職務をなし遂げなければなりません。

 それに、ここでは私郡長としての見解しか言えません。でも私には自分の考えがあります。私的に話したいこともあります。・・・」

 茂平次は立ち上がり、郡長に深々と頭を下げるのでした。(no5030)

 *   『赤い土』(小野晴彦著)参照

 挿絵:雌岡山(めっこうさん)に続く印南新村の土地

 

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