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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(265):長楽寺(30)・語り続けましょう、長楽寺のことを

2012-03-31 10:54:42 |  ・加古川市志方全般

私ごとで申し訳ありません。

私は西志方小学校の北東隅にあった幼稚園の卒園です。

そして、小学校の1年生の12月に加古川小学校へ転校しましたから、昭和25年の夏だったと思います。

小学校から長楽寺と道路の間にあった施設で一泊の林間学校がありました。

どんなプログラムであったのか、全く覚えていません。

学校の校舎とよく似ていた施設であったようです。

もうひとつ覚えています。

なぜか、西志方小学校の校章のある窓ガラスが数枚ありました。

小学校の古くなった窓ガラスの再利用だったのでしょうか。

もっとも、小学校の1年生の時で、今から60年以上も前の記憶ですから自信が持てません。

   無関心でした

Photo_2とにかく、私と長楽寺の関係は、ことしの2月まではそれだけでした。

昨年の94日、長楽寺が土砂でつぶれたことは新聞で知っていました。

でも無関心でした。

ブログで志方町を取り上げ、西志方を歩いている時でした。

原の仏性寺で取材した後、大藤山を見たんです。

ぱっくりとY字型に山肌がえぐられている風景が飛び込んできました。

「これは大変だ」と、その足で長楽寺へ出かけました。

お墓が修理されていました。

その時は、こっそりと数枚写真を撮っただけです。

   語り続けることの大切さ!

その夜、「いま、長楽寺を取り上げないで、何が地域史なんだ・・・」と思い、長楽寺さんへも何度か寄せていただきました。

今できることは、「広くこの事実を知らせ、広める」ことだと考え、とりあえずブログで長楽寺のことを書き始めました。

いつもより、少しではありますがアクセスが多かったようです。

しかし、長楽寺さんについては俄か勉強であったため不正確なこと、不適切な表現も多くあったことをお詫びします。

いったん「長楽寺」についての報告はお休みして、少し勉強してみます。

そして、長楽寺について、支援活動を含めて後日再開させたいと考えています。

 尚、今日の神戸新聞の朝刊に、「1000年の森をつくろう」の署名が林野庁に提出されたニュースが大きく報道されています。

*写真:長楽寺HPより

◇お詫びとお知らせ◇

ブログをお読みいただきありがとうございます。

4月は私用のためこのブログをお休みにします。ブログを始めて以来1ヵ月も休刊にすることは初めてです。再開できるか心配です。

ですから、「51日の再開」を宣言して、自分を縛っておきます。

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志方町を歩く(264):長楽寺(29)・長楽寺と西大寺

2012-03-30 11:10:26 |  ・加古川市志方全般

   加古川平荘山角の報恩寺の開基は慈心

Photo『加古川市史』を参考に推理します。

『加古川市史(一巻)』の「報恩寺流律宗のながれ」の項に、次のような記述があります。

 報恩寺のある旧印南郡平荘村山角(現:加古川市平荘町)の地は、もと印南荘内屏村といい、天文二年(1533)のある文書によれば慈心和尚開基の名刹です。

また、報恩寺の縁起では、和同六年(713)慈心の開基としています。

「縁起」も古い記録も共に報恩寺の開基を慈心としています。

記録と縁起では、慈心について混乱がありますが、慈心和尚が報恩寺の開基に関係しているようです。

*慈心は、慈心覚房(11701243)ことで、藤原長房がその人です。

 彼は、興福寺の中に常喜院を建て、律を起こした人です。

   長楽寺の開基も慈心

長楽寺には開基等に関する文書等の記録は残っていませんが、縁起では「和銅六年(713)慈心」の開基と伝えています。

報恩寺も長楽寺も開基は慈心和尚です。

これは、単なる偶然の一致でしょうか。

長楽寺についての詳細を調べたいのですが、長楽寺は、三木合戦で焼き打ちにあうなどで、文書等が焼かれ昔の長楽寺の歴史は全くわかりません。

ただ、境内に残る石造物などから鎌倉時代には相当の寺院であった想像できます。

   長楽寺は、もと西大寺・真言律宗の寺院か?

もうひとつ、長楽寺と報恩寺との共通点をあげてみます。

報恩寺には、花崗岩の層塔があります。

長楽寺にも十三重の花崗岩の層塔の残欠があります。

地元の歴史家は、「この花崗岩の層塔は、もと西中の寺にあったものである」と指摘されていますが、私はもと長楽寺にあったのではないかと想像します。

この層塔は、花崗岩製です。当時、かたい花崗岩を加工できたのは奈良西大寺の伊派の石工集団だけでした。

ですから、長楽寺も西大寺と関係があった寺院と考えられるのです。

西大寺は、旧印南郡に印南荘を経営していました。

報恩寺は、印南荘の内・屏荘(平荘)あたりの経営のための寺院でした。

とすると、長楽寺は印南荘の内「志方荘」を経営(支配)関わった中心の寺院であったと考えてもよさそうです。

 *きょうの記事は、素人が、それもかなり強引な想像で書いています。今後、志方荘について調べてみます。史料等詳細をご存知の方はご教授ください。

*写真:現在の西大寺本堂

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志方町を歩く(263):長楽寺(28)・池郷

2012-03-29 00:07:54 |  ・加古川市志方全般

地図で長楽寺の前のダンベ池・中池・皿池の場所を確認ください。

これらの池の水は、大藤山からの水を集めて、永室村の田畑を潤い続けました。

この地域は、土地が高く川がなかったので、これらの池の水にたよるより他に方法はありません。

ダンベ池・中池・皿池の水は、農民の命そのものでした。

    昔は助永村・比室村

永室村は、明治9年まで、それぞれ助村、氷村と呼ばれていました。

明治9年に両村は合併して、それぞれの村名の一字をとって永室村としました。

合併の理由は、両村はこれらの池を共同で利用していたからです。

助永村・氷室村の百姓は、勝手にこの水を使うことはできません。

そのため、池の水は厳格に両村で管理されてきました。

026両村は、水に関して互いに話し合い、取り決めをつくり、協力をしなければ村は成り立ちませんでした。

両村は、何かと村の枠を越えて、運営されたのです。

明治9年、両村の合併は、当然のように行われました。

   池郷(いけごう)

このように、池を通じて結びついた村々・地域を「池郷(いけごう)」と言います。

ダンベ池の堤防の北東隅に「蓮池再興の碑」があります。

その碑の其檀部に「池郷中」(写真:右から読みます)とあります。

助永村、比室村はお互いに池の水を共に利用し、利害を共にする池郷でした。

碑文は、干ばつのために、池の水が不足し、蓮池の改修を行った天明から天保に生きた庄屋の記録です。

◇ダンベ池◇

地元の人は「ダンベ池」を「蓮池」と呼んでおられます。

昔は、お盆の頃には蓮の花が咲き、長楽寺はいっそう華やいだことでしょう。

*碑文については『めんめらの生きた道』(磯野道子)を参照させていただきました。

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志方町を歩く(262):長楽寺(27)・森をつくろう(2)

2012-03-28 00:08:24 |  ・加古川市西志方

長楽寺の裏山の大藤山を形成している岩石は、閃緑花崗岩で、六甲山の花崗岩よりさらに水に弱く風化が早い花崗岩です。

でも、風化が土を造り、樹木を育てました。その木々の根がしっかりと大地を支えました。

樹木に抱かれた土壌が水を蓄え、谷に集まり、そして麓の池のへ、そして村々の田畑を潤しました。

 大藤山では、遠い昔からこんな営みが繰り返されてきました。

  

   大藤山受難

 019近くで、次のような話を聞くことができました。

 <戦争中>

 「はっきりと覚えてへんけど、戦争中に松の油を採るいうて、ようけの木を切りました」

「鉱山を掘る時に支えにするために、木を切りました・・・」

 <戦後>

戦後も大藤山の受難は続きました。

今から50年ほど前のことです。長楽寺の裏山が大火でたくさんの木が焼けました。

戦中から戦後にかけて長楽寺の裏山は、大変な受難があったようです。

 今の長楽寺の裏山の樹木(写真)は、その後に育った杉を中心にした木々です。

昨年の94日の山崩れの原因は、山の荒れだけではなく、たくさんあると思います。いまその原因の分析がもとめられます。でも、確かな原因の一つは「山の荒れ」です。

そこで、いま長楽寺さんでは、「1000年の森をつくりたい市民会」を立ち上げ、大藤山の再生運動のための署名を始めています。

 「市民の会」の署名の趣旨を掲載します。署名にご協力ください。

   

   みんなで1000年の森をつくろう!

<趣旨>平成2394日未明、合風12号による大雨の中、兵庫県加古川市志方町永室にある大藤山(251.1m)は上から下まで崩落しました。

麓にある1300年の歴史を持つ大藤山長楽寺の本堂、座敷は土砂流に押し流され、歴史的価値のある文化財を失いました。住職をはじめ家族は奇跡的に助かりましたが、真っ暗闇の中、すさまじい音と共に流されていく本堂を目の当りにし、死の恐怖を味わいました。今も家には戻れず、仮住まいを余儀なくされています。

もう二度とこのような悲しいことがないようにと願ってやみません。

今を生きる私たちの命を守る為に、共に生きるすべての生命の為に、未来の為に、私たちは今、何が出来るのかを考え行動します。

防災に強い森、命を育む森、1000年の森づくりの計画と実行を要望します。

 *連絡先 「1000年の森をつくりたい市民の会」? 090-5548-3392

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志方町を歩く(261):長楽寺(26)・森をつくろう(1)

2012-03-27 07:12:41 |  ・加古川市西志方

  1000年の森をつくろう

Photo313日の神戸新聞「大雨に弱い急峻な六甲山地」と題して、次の記事を書いています。

 大藤山の状況は「六甲山地」を「大藤山」と置き換えれば全く同じ図式です。

大藤山を形成している岩石は、閃緑花崗岩(せんりょくかこうがん)です。

閃緑花崗岩は、六甲山の花崗岩よりさらに水に弱く風化が早い花崗岩です。

神戸新聞の記事を読んでみましょう。

  地震、水害に強い森に

国土交通省近畿地方整備局六甲砂防事筋所によると、六甲山地は風化した花こう岩で形成された部分が多く、大雨で崩れやすい。

さらに、山頂から河口までの距離が短いため、大雨が降ると、川の水は一気に河口へと突き進む。

1938(昭和13)7月の阪神大水害などがその恐ろしさを物語る。

近年は山林の手入れ不足で地表に日が差さず、特定の種類の樹木しか育たないため、さらに土壌が崩れやすい状況が生まれている。

神戸市は対策として1月、「六甲山森林整備戦略案」を策定した。

今後1OO年を見据え、市内の六甲山地を5分類して間伐や植林を進める。

4月以降、一部の市有林を対象に、作業道整備と山の斜面の補強などの実証実験を始める。

市六甲山整備室は「市民参加で聞伐に取り組むなどし、災害に強い森づくりを進めていきたい」としている。(神戸新聞より)

   大藤山(長楽寺の裏山)の状況は!

  大藤山は、もろい花崗岩(閃緑花崗岩)です。

  山頂からの雨は一気に山麓の池や田畑へと突き進みます。

  昨年の94日の土砂くれはその恐ろしさを物語りました。

  近年は、特定の樹木が多く、山の手入れが行き届かず土壌の崩れやすい状況が生まれている。

以上のように、大藤山は六甲山の状況と酷似しています。

いま、長楽寺は、お寺再建ともう一つ裏山(大藤山)の森の再生を目指しています。

そのため、「1000年の森をつくろう!」と森の再生を訴え、署名活動を行っています。

*写真:昨年94日の土砂崩れの跡

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志方町を歩く(260):長楽寺(25)・長楽寺の歴史(1)

2012-03-26 08:32:53 |  ・加古川市西志方

全国のどの神社仏閣も、その神社仏閣がいかに素晴らしい来歴を持つかということを「縁起」としてまとめ、現在に伝えています。

ですから、寺社の縁起は、ほとんどの場合そのままでは信ずることができません。

長楽寺の縁起も、そのままでは史実とは認めることはできませんが、紹介しておきましょう。

    長楽寺の縁起

Album_img09長楽寺は、和銅六年(713)、慈心上人により真言秘密の遣場として大藤山(251)の中腹に開基されました。

現在の本尊である「木造延命子安地蔵菩薩」は、治承二年(1178)高倉天皇の中宮建門院(平清盛の女)が難産のおり、各地の神社仏閣に祈願されましたがおもわしくなく、丹波老の坂の地蔵尊が女人安産によいとの事で勅使をたて参籠祈願をしたところ、いとも安らかに玉の如き皇子(安徳天皇)が生まれました。

高倉天皇は喜びのあまり、平清盛に命じ同体の地蔵様66体を彫刻させ、日本66州に一体ずつ安置させました。

和同六年(713)の開基とされています。

以上が『志方町誌』に紹介されています。

史実として、開基等は定かではありませんが、残された石造物などから想像して鎌倉時代までは確実にたどれそうです。

それ以上の長楽寺の歴史は縁起も含めて、今後の研究に待つことにします。

そのため、今日のブログは「長楽寺の歴史(1)」としておきます。

    長楽寺は三木合戦で焼かれたか?

天正6年(15788月、大事件が発生しました。三木別所氏に味方した志方城方と信長・秀吉方の戦いが始まりました。

三木別所に味方した志方城は炎上してしまいました。

元禄十一年(1698)、助永村庄屋・九郎兵ヱの書いた「万覚書(よろずおぼえがき)」によると、次のように書かれています。

長楽寺は、天正六年(1578)秀吉の兵火にあい七堂伽藍ことごとく焼失し、難を逃れた子安地蔵は助永村に移され、仮堂を造って安置されました。

当時、助永村には二間四方の地蔵堂があり、地蔵尊を祀っていたので、この方は「小仏地蔵」、長楽寺の子安地蔵は「岩掛地蔵」と呼んだといいます。

寛文三年(1663)専空念教法師が、現在の地に常行念仏堂を建て、宝永三年(1706)に広く喜捨を仰いで、本堂、阿弥陀堂、庫裡等を再建しました。(「万覚書」より)

長楽寺の焼き打ち事件は、当時の状況から史実と思われます。

志方城の合戦と長楽寺の関係も今後研究課題です。

大正七年(1918)、子安地蔵は国宝に指定され本尊厨子に安置され、昭和二十五年(1950)の法の改正により、国の重要文化財に指定されました。

現在、昭和六十三年ご本尊を災害から守るため、地蔵堂を造り安置されています。

昨年、94日の土砂崩れで、地蔵堂は無事でした。

*『志方町誌』参照 *写真:長楽寺の春(長楽寺HPより)

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志方町を歩く(259):長楽寺(24)・十三重層塔残欠②

2012-03-25 07:50:30 |  ・加古川市西志方

「志方町を歩く(254)」で長楽寺の「十三重層塔残欠」を紹介しました。

今回の報告は、その続きとしてお読みください。「十三重層塔残欠②」としておきます。

  十三重層塔残欠②

少し、復習をします。

  長楽寺の十三重層塔の残欠は基礎と笠が残り、ともに花こう岩製です。

  復元されると、その総高は約570cmであり、十九尺塔として造られたものでしょう。

  鎌倉中期(1250年頃)の形式を示しています。

  長楽寺の東南に当たる志方町西中(写真下)の墓地に同式の笠が三個あり、もと一具のものと考えられています

  専門家は、この石塔は鎌倉時代初期のもので、県下における最古の層塔であると指摘しています。

塔はもともとに西中に存在したのか?

Shikata_1_016長楽寺と志方町の西中の墓地の「十三重層塔残欠」を見学した時、「両層塔とも元はてっきり長楽寺にあり、その一部が何らかの理由で、西中の墓地に移動したもの」と思い込んでいました。

そして、元の長楽寺の創建の年代をいろいろ想像してしまいました。

 その後、「志方郷(27号)」で、地元の郷土史家・上月昭信氏がこの塔について次のように紹介しておられることを知りました。

紹介しておきます。

塔の屋根部分が置かれている。西中墓地の入り口に、かつて「七尾山八王寺」という寺院が存在したといわれる。

現在も小字として「八王寺」があり、このことを物語る。

志方町誌には「伝承によれば天平年間行基菩薩の開基と伝え、本尊は釈迦牟尼仏で四天王を配置した相当の伽藍であり、焼失して廃寺となる」「西中毘沙門堂の本尊である毘沙門天王は七尾山八王寺のものである」と記している。

行基開基の伝承は別にして、鎌倉期に「七尾山八王寺」が存在した可能性は高く、志方町内に散在する十三重塔残欠は、もともとこの寺院に造立されていた塔の散らばったものといえる(「志方郷・27」より)

 上月氏は、長楽寺の層塔の残欠はもともと西中にあったものとされています。

そして、長楽寺と西中の残欠の外にこの層塔の一部(写真)が、最近観音寺(志方町)の境内で発見されたことも紹介されました。

 先日、観音寺の墓地へこの層塔の一部を撮影に出かけました。

 墓地の一番高くなっている北の所に残欠の一部はありました。

説明がありませんので、このブログの写真と同じ石造物を探してください。

それにしても、長楽寺の十三重の層塔の残欠は、西中にあったものでしょうか。

もし、長楽寺にあったとすれば、長楽寺の創建の一つの手掛かりにもなり、西大寺の真言律宗との関係が考えられます。

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志方町を歩く(258):長楽寺(23)・地蔵盆

2012-03-24 07:58:03 |  ・加古川市西志方

長楽寺の地蔵盆について『志方町誌』は、次のように書いています。

   長楽寺の地蔵盆

Photo志方で一番灘大な盆踊りは長楽寺の地蔵盆で、広い境内を参詣埋めつく、むせかえるような人いきれの中で、殆んど徹夜で踊りあかしたものである。

宵の日にから寺まで約一粁の道を、肯中にかつがれた太鼓が一時間もかかって寺まであがってくる。

境内を太鼓が練り廻ったあと、やっとのことで屋台の上にあがると、そこで音顕がはじまり、盆踊りの男女が屋台のぐるりを二重にも三重にもとりまいて踊るのである。

音頭の番組みが進んで、夜中をすぎる頃には漸く人影も少なくなって、秋のけはいの深くなった山の夜空に、声はいっそう澄んで哀調を帯びた。

今年の音頭も踊りも、もうこれでおしまいだという気持ちも手伝ってか、この単調な太鼓の音がひとびとの胸にしみた。

・・・・・

上記の、『志方町史』の文章は、歴史書の記述のようではありません。「文学的」です。地蔵盆の夜の風景が一幅の絵のように浮かんできます。

また、「志方郷(第8号)」で、礒野道子さんも地蔵盆について書いておられるので、その一部をお借りします。

地蔵盆の夜

太鼓の上には頭(かしら)が乗っている。右手(めて)は命綱を握り、弓手(ゆんで)に弓張提灯を持って大きく揺れる太鼓の上で青年は指揮をとる。

路傍に並ぶ見物人の注目を浴びながら、提灯を高く掲げた胸の線がたくましい。人々は太鼓の後について行く。

(長楽寺に着いて)三十段の石段を一気に駆け上がってきた太鼓は「よいやっせえ」の掛け声も勇ましく、右に左に倒しては高く差し上げて、音頭のためのやぐらを駆けまわる。

・・・・砂ぼこりが舞い、歓声が上がる。

    おや!

上記の文章を読みながら「おや・・・」と思うことがあります。

この太鼓の練り歩きは、「何を表しているのだろうか」ということです。

調べてみましたが、どこにも答らしきものがみつかりませんでした。

長楽寺さんへも問い合わせましたが、「わからない・・・」ということです。

この行事は、おそらく江戸時代の終わりの頃にはじまった行事でしょう。

そこには、「何か」があったはずです。

地蔵盆一般の話ではなく、長楽寺・長楽寺周辺の地域で、この行事を始めた「何か」の原因があったはずです。

その「何か」を知りたいものです。

*『志方町誌』・「志方郷(第8号)」参照

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志方町を歩く(257):長楽寺(22)・四国八十八ヶ所めぐり

2012-03-23 07:49:09 |  ・加古川市西志方

   四国八十八ヶ所めぐり

昔は、四国八十八ヶ所めぐりは、全部歩いての巡礼でした。

同行二人(お大師さんと一緒)と書いた笠に杖、白装束の姿になって四国八十八ヶ寺をめぐりました。

   長楽寺の八十八ヶ寺めぐり

Sarah_032長楽寺の寺域にも八十八ヶ寺を模した88の祠がありました。

それをめぐる小道もあります。

長楽寺のこれらの八十八ヶ寺の祠をめぐると、四国八十八ヵ寺を巡るのと同じ功徳があるとされ、近隣の人々は、お大師さんの命日である21日になるとお米一握り、お金を88個持って、お参りに出かけました。

一つの寺の地域はいえ、坂をあがったり下がったりして、お年寄りにはたいへんきつい「八十八ヶ寺めぐり」でした。

昔の人は、お大師さんに対する信仰心がずいぶん厚かったためでしょう。

毎月二十一日には沢山のお賽銭があがったといいます。

長楽寺にある八十八の祠は、明治43年(1910)に造られたものです。

今から100年ばかり昔のことです。

祠の屋根はすべて丸みを帯びたそりがあり、美しい形で石仏は一体一体が異なったお姿です。

四国八十八ヶ寺のそれぞれのお寺のご本尊ですから当然のことです。

その隣には、お大師さんが全部の祠に座っていらっしゃいます。

石仏の下の台には文字が刻まれています。

「四十七番 伊予八坂寺」その横には本尊(阿弥陀如来)の名が刻まれています。

「伊予八坂寺」には、寄進者の名があります。

どんな思いでの寄進だったのでしょう。

病気の回復を願ったのでしょうか。

それとも、親よりも先に亡くなった子どものためだったのでしょうか。

 ・・・・

*『志方郷・第34号』(永室長楽寺:四国八十八ヶ所巡り‐磯野道子)参照

なお、昨年の94日の長楽寺を襲った土砂崩れで、これら八十八の祠の内、39が流されてしまいました。



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志方町を歩く(256)・緊急報告・稲岡工業破産へ

2012-03-22 08:04:43 |  ・加古川市西志方

Shikata_1_00120日(火)の神戸新聞の朝刊は、志方町の稲岡工業の破産のニュースを大きく報じました。その影響か、かつてこのブログで書いた「稲岡商店(工業)」へのアクセスが増えています。

きょうは、神戸新聞の記事を転載させていただきました。

*「稲岡商店①・②」は、「ひろかずのブログ・志方町探訪・稲岡商店」で検索ください。

稲岡工業破産へ

<神戸新聞、20日(火)朝刊より>

民事再生法の適用を申請し、経営再建中だったタオルメーカーの稲岡工業(加古川市志方町横大路)が破産する見通しとなった。

輸入品でも少量しかなかった明治期にタオルを国産化し、業界で草分け的な存在として知られる同社。

在庫処分セールが19日から本杜工場で始まり、長年愛用してきた消費者や近隣住民かち惜しむ声が広がった。

    

明治24年(1891)操業開始

Shikata_1_008 同社によると、現在の加古川市域やその周辺は江戸時代から木綿の生産が盛んだったが、産業の近代化とともに木綿業は危機に直面した。

窮状を打破しようと、創業者の稲岡久平が木綿の加工品としてタオルに着目。

調査・研究を重ねて1891(明治24)年に生産を開始した。

海外輸出や、中国にも工場を展開し。戦後も最新鋭技術を讃堀的に導入。百貨店向けの高級品が好調だった1991年には売上高26億円を計上した。

だが、バブル崩壊後は、中国を中心とするアジア製品の安値攻勢と国内の消費不振で業績が悪化。

20082月に民事再生法の適応を申請して経営破綻した。

さらに、直後のリーマン・シヨックで事業環境は悪化。グローバル経済の荒波は、120年以上の歴史を刻んだ老鋪にも容赦せず、直近の売上高は1億5千万円にまで落ち込んでいた。残務整理に当たる社員の一人は「時代の変化に対応できなかったことに尽きる」と唇をかんだ。

同社は23日まで在庫処分セールを行う。

タオルやバスローブ、マフラーなどを市価の59割引で販売する。

本社工場近くに住む女性(71)は「商品はしっかりして、使いやすかった。地元の女性の働き口だったのに」と残念がり、タオルを段ボールごと購入した。

高砂市の女性は「知人に元従業員がいるだけに、会社がなくなるのはさみしい」と声を落とした。

<蛇足>

私の父も稲岡工業に勤めていました。そしてフィリピンへ出征し、戦死しました。それだけに、稲岡工業の破産は、いっそうひとつの時代の終わりを感じます。

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志方町を歩く(255):長楽寺(21)・植原繁市

2012-03-21 08:26:24 |  ・加古川市西志方

 

  きょうの「長楽寺」は、植原繁市の紹介です。

 繁市は、志方町が生んだ詩人です。彼の代表作「寂しさ」の歌碑(写真)が境内の片隅にありましたが、94日の土砂崩れで流され、まだ見つかっていません。

 以前、繁市の歌碑を紹介しました。今はその時の風景はなくなりましたが、再度その時の文章を紹介します。(文体は変えています)

花と流星の詩人・植原繁市

Photo今にも泣き出しそうな空でした。

 風も、木々のざわめきもありません。

 長楽寺の境内は、時間が止まっているようでした。

 植原繁市には、こんな風景が似合うのかもしれません。

 境内の隅に繁市の歌碑があります。(注:現在土砂崩れのため、歌碑は流され、見つかっていません)

     人に告ぐべき

     寂しさにはあらぬ

     ゆふぐれをひとり杜にきて

     しみじみと樹をゆする

        泣けばとて、かえるものかよ

        告げばとて、癒ゆるものかよ

        しみじみと樹をゆする

 繁市の唯一の詩集『花と流星』にある詩「寂しさ」です。

 繁市は、明治41年、志方町横大路で生まれました。小学校でも病気がちで、姫路商業高校に入学しますが、胃腸疾患のため二年で退学します。

 そうした病弱が彼の繊細さを育てたのかもしれません。

・・・・・

 繁市に関して紙面の関係で多くを紹介できませんが、『鹿児(第80号)』(加古川史学会機関誌)で、高橋夏樹氏が論文「花と流星の詩人・植原繁市」を書いておられます。

 繁市は、西条八十主宰の『愛踊』に多くの作品を発表しました。

 繁市の作詞による加古川音頭は、今も歌い継がれています。

 実生活としては、生涯志方町の職員として働き、収入役の重責もまっとうしました。

 昭和46320日死去。63才。

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志方町を歩く(254):長楽寺(20)・十三重層塔残欠

2012-03-20 00:16:56 |  ・加古川市西志方

029  この石造「十三重層塔残欠」(写真上)は、前号で紹介した重制六面石幢のすぐ西横にあります。

 笠の上の石仏と、基礎の前の水盤を取り除いて想像ください。

 これだけでは、もとの形や大きさは想像しにくいものです。

 下記の説明にある「元は一体であった」といわれる西中の層塔の三個の残欠(写真下)を見学しました。

 なるほど、大きな層塔であったことが分かります。

 加古川市教育委員会の説明があるので読んでおきます。

十三重層塔残欠

基礎と笠が残り、ともに花こう岩製である。

復元されると、その総高は約570cmであり、十九尺塔として造られたものであろう。

基礎石の高さと幅の比率から、すこぶる古式であり、左右の輪027 郭と格狭間の間が目立ってひろく、格狭間を平らに造っているなど総じて鎌倉中期(1250年頃)の形式を示している。

なお、長楽寺の東南に当たる志方町西中(写真下)の墓地に同式の笠が三個あり、もと一具のものと考えられている。

この塔は供養塔として造立されたものと推定してよいのであろう。

     昭和六十二年三月

        加古川市教育委員会

   

    県下最古の層塔

 少し付け加えておきます。

 専門家は、この石塔は鎌倉時代初期のもので、県下における最古の石塔であると指摘しています。

石造物は、近隣の石を材料とするのが普通です。

長楽寺の十三重層塔残欠は、硬い細工の難しい花崗岩を材料としています。

大藤山は花崗岩の山ですが、ここの花崗岩は、もろく彫刻には向いていません。

 他所で造られ、ここに運ばれたものでしょう。

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志方町を歩く(253):長楽寺(19)・重制六面石幢

2012-03-19 07:39:19 |  ・加古川市西志方

長楽寺の境内には、たくさんの石造物が階段を登った右手にありあます。

今回は、「重制六面石幢(せきとう)」を紹介します。

加古市教育委員会の説明があるので読んでみます。

   重制六面石幢

Sarah_024この石幢残欠は自然石の上に据えられ、上にも自然石が載せられているので見たところ石灯籠の形になっているが、火袋に当たるところが、いわゆる重制六面石幢の石幢である。

この塔身は、元加古川町内にあったものと伝えられている。

石英粗面岩で塔身の高さ27.5㎝。

六角形の各部の幅は上部で10.9cm、下部で12.3㎝、二重光背形輪部の中に六地蔵の立像を刻む。

磨滅がひどく明確を欠くが、合掌、棒珠、持錫塔の姿をしのぶことができる。

室町時代後期の作と推定される。

加古川市では数少ない重制石幢の一つである。

        昭和六十二年三月

              加古川市教育委員会

◇「重制石幢」の説明しておきます。

 石幢(せきとう)には単制と重制とがあります。

「重制石幢」は、灯籠の火袋の部分に仏像が刻んだものをいいます。

   石仏たちも寂しそう 

土砂崩れは本堂を押しつぶしました。 

でも、境内の石仏などは復旧され元の場所に戻されました。

石造物の後ろにあった壁はありません。

この冬、大藤山からの冷たい風は、直接これらの石造物に吹きつけました。

これら石動物は、大藤山の緑を背景にお寺があって、小鳥のさえずりの中でこそ、似合うようです。

石仏たちも寂しそうです。

*写真:重制六面石幢

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志方町を歩く(252):長楽寺(18)・抱き地蔵

2012-03-18 08:58:11 |  ・加古川市西志方

   抱いて寝れば子宝が!

Photo 長楽寺には「抱き地蔵」と呼ばれる小さな石の地蔵さんが数体あります。

子どもが欲しい女性は、「これを借りて帰り、抱いて寝れば子ども授かる」と言い伝えられています。

「おなかの子どもが、お地蔵さんにお母さんを取られてしまうと思って、生まれてくるのでしょう」と住職は説明されています。

願いがかなったら、お礼として「前かけ」を一枚つけて寺に返す習慣があります。

成績のよいお地蔵さんには、たくさんの「前かけ」が掛けてあり、借りる人も枚数の多いお地蔵さんを希望するといいます。

   江戸時代に始まった慣習か?

いつの頃、この「抱き地蔵」の習慣が始まったかについてははっきりとしていませんが、このほほえましい習慣は、最近に始ったのではありません。

記録はないのですが、江戸時代までさかのぼるのではないかともいわれています。

・・・・

何年たっても子どもができない・・・。

こんな時に願いをかなえてくれたのは「抱き地蔵」でした。

*写真:抱き地蔵の一体

*『郷土の石彫(19)』神戸新聞(文・田中幸夫)参照

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志方町を歩く(251):長楽寺(17)・地蔵信仰③

2012-03-17 07:31:03 |  ・加古川市西志方

  

    何が長楽寺を再興させたのか

 「長楽寺に檀家がほとんどない訳は?」(志方町を歩くno,248)で、次のように書きました。

「次の二つの出来事と年代に注目ください。

①寛永八年(1631)  檀家制度

②宝永三年(1706)  長楽寺再興

 Photo長楽寺は、三木の合戦のときに焼失し、その後途絶えていた長楽寺が再興されたのは宝永三年(1706)です。

この時は、すでに全ての家は檀家制度により、どこかの寺の檀家に所属していました。

従って、長楽寺には現在も檀家がほとんどありません」

    

   スポンサーはいたか?

檀家がなければ、新たにお寺を建設・維持していくことは一般的には非常に困難になります。

それでも、長楽寺は宝永三年(1796)年再興されました。

何がそれを可能にさせたのでしょう。

つまり、建設資金は、どのように集められたのでしょうか。

裕福なスポンサーがいたのでしょうか。

その場合、寺の記録で寄進者の名を知ることはできます。

長楽寺の場合は、大口の寄進者の名を見つけることができません。

他の理由を考えなければなりません。

永室(当時は比室村、助永村)など近隣の村々からまとまった献金があったのでしょうか。

これも、あまり期待がでません。永室村など、この近隣の村々は一般的にはあまり裕福な村ではなく、資金の援助は期待できなかったようです。そんな記録もありません。

   

   庶民の地蔵信仰に支えられた長楽寺

そうであるなら、長楽寺の建設・維持を「地蔵信仰の高まり」にその原因を考えざるを得ません。

長楽寺は、強力な庶民の地蔵信仰に支えられて集められた資金で建設され、維持発展されてきたお寺ではないかと考えざるを得ません。

長楽寺は、まさに庶民の信仰に支えられ建設・維持されてきたお寺です。

・・・・

長楽寺は、きっと再び多くの方々に支えられ必ず再建されるでしょう。

*写真:崩壊(昨年94日)前の長楽寺本堂

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