ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(457):宇宙人現わる

2011-04-07 07:32:04 | 稲美町

「相野飛行場」についての報告をしばらく終え、次の話題のために『稲美町史』や『インターネット』で調べていました。

そこで出会ったのが、稲美町に出現した「ミステリーサークル」のニュースです。

当時、私もこのニュースを新聞で知り、いそいそと見学に行ったことを思い出しました。懐かしい思い出です。

コーヒーブレイクで「稲美町に宇宙人現わる」として、このニュースを紹介します。

もうすっかり忘れていたニュースであり、資料もないために、インターネットの記事を利用させていただきました。

   

稲美町に宇宙人現わる!!

Photo稲美町にミステリーサークルの出現があったのは、平成三年(1991)5月のことでした。

5月9日、麦の取り入れを間近に控えた、幸竹地区の麦畑において、三つの渦巻き状のサークルが発見されました。

サークルは、それぞれ直径3m、2m、3mのきれいな円で、1mずつの間隔で一直線に並んでいました。

このことが14日の神戸新聞で報道されたため、14日には大変な人出となり、道には物売りまで出る有様でした。(以下、当時の神戸新聞記事を参考)
 16日には、早大の大槻教授が調査に参加し、次ぎのような談話を発表しました。

  円の中心部に数本の倒れずにいる麦の穂がある。

  中心近くは麦が放射状に倒れ、円周に近くなるほど時計回りに角度のついた倒れ方になる。

  中心から円周に向かうほど穂は上に重なる。

本物のミステリーサークルと推定がなされる。・・・

それに、同月29日には、初回の東隣に、国内最大級と目される長径20m短径15mの楕円形サークルひとつと、その周りを取り巻くようにして直径1mの小円が3つ発見されました。
 前回見つかったのとは、渦の向きが逆方向(反時計回り)でしたが、これまでのミステリーサークルの特徴を同様に備えているとされました。

また、大槻教授によって、科学的に見て起こり得ると予言されていたともいいます。
これが見つかった時は、ブームに乗ったいたずらかと思われたのですが、加古川警察署員の検証では、麦の整然とした倒れ方を見てもいたずらの形跡はなかったとのことでした。

さらに、同月31日の朝、そこから500メートル南の道路を隔てた麦畑で、直径10mのサークル(反時計回り)が見つかり、通算大小8個がこの地区で見つかることになりました。

*写真、内容とも「HP・播磨のミステリーサークル(編集:奥人)」より

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稲美町探訪(339):コーヒーブレイク・稲美町散策

2010-10-19 12:16:26 | 稲美町

稲美町の10月は祭りの季節ですが、そのザワメキも一段落したようです。

16日(土)「いなみ野ため池群の散策」(東播磨県民局主催)で、秋の稲美町を歩いてきました。

秋の気持ちのいい、高い空が広がっていました。

加古の大池~入ヶ池~万葉の森~天満大池の約6キロのコースでした。

万葉の森では、稲美町で取れた食材での昼食をいただきました。

赤米(古代米)のご飯も格別でした。

途中、久しぶりで道端の木にぶら下がっているアケビを見つけました。

   万葉美人あらわる

Dsc_0012 昼食を食べた後、公園の散策をしていたんです。突如、なんと万葉美人(写真)が現れたんです。

そして、万葉歌を詠まれました。印象的でした。

今、公園内の池ではアサザ花が咲いています。

公園内には万葉歌碑がたくさんあるので、それらをめぐる散策も一興です。

秋の七草を探されるのもいいですね。

   秋桜(コスモス)

天満大池のコスモス畑では見頃でした。

秋の花は何といってもコスモスです。

稲美町の町花のためか、一層その感がします。

ぜひ、お出かけください。

秋にはサクラのように花を咲かせるので、「秋桜」の字をあてていることからわかるように、コスモスは古くからの住人のような顔をしています。

でも、コスモスの故郷はメキシコで、日本の秋を彩って、まだ、100年あまりにしかなりません。

つまり、江戸時代の人はコスモスの花を知らなかったのです。

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稲美町探訪(312): オニバスの花(六軒屋池)

2010-09-14 07:16:53 | 稲美町

Hirokazu_063 日曜日(12日)、「兵庫・水辺ネットワーク」主催のセミナーと現地説明会に行ってきました。

*このセミナーについては、きょうの神戸新聞朝刊でとり上げられています。

「稲美町探訪(305)」で、オニバスを取り上げましたが、きょうは六軒屋池のオニバスの花と葉の裏について少し書いておきます。

花は、紫のきれいな花(写真上)です。

でも、花の周りは、まるでオニヒトデの食指のようで不気味です。

そして、花の色は紫。

「無法者の兵士に取り囲まれた高慢ちきな女王様」とでも表現したいような花です。

オニバスの花

オイバスについてインターネットで調べてみました。

「・・オニバスの花には開放花と閉鎖花とがあり、開放花とは通常の花のように花びらを開いて咲く花のことです。

オニバスは紫色の美しい花を咲かせます。

それに対して、閉鎖花とは花びらを開かないまま自家受粉によって結実する花です。

オニバスは、閉鎖花をたくさんつけ、開放花はあまりつけません。

場合によっては開放花をまったくつけない場合もあります。・・・」

Photo_3 さいわい、六軒屋池のオニバスは、いま写真のようなみごとな開放花をつけていますので見学ください。

    オニバスの葉の裏

水面を覆うオニバスの葉の表面は見ることができますが、裏側(写真下)はあまり見ることはありません。

葉脈が血管のように走り、とげがいっぱいです。まさに鬼に形相です。

この葉の裏側の写真はインターネットからのもので六軒屋池のオニバスのものではありません。

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稲美町探訪(311):ガガブタ(茨池)

2010-09-13 07:49:53 | 稲美町

Hirokazu_078 昨日、兵庫・水辺ネットワーク主催の現地見学会とセミナーに参加してきました。

これは今年10月に名古屋市で開催される生物多様性条約第10会締約国会議(COP10)が開かれるのを前に企画された行事です。

午前中は、ガガブタが群生する茨池(いばらいけ・稲美町加古)とオニバスの生育する六軒屋池(ろっけんやいけ・同)で観察会が行われました。

きょうは茨池のガガブタついての報告です。

*写真上:茨池のガガブタ(手前のみどりの濃い部分はヒシで、その向こうの白い花をつけて群生しているのがガガブタ)

   ガガブタ

Gagabuta3_2 まだ午前1030だというのにとにかく暑い。

それでも、空だけは秋のようです。堤防から少し向こうにガガブタが白い花をいっぱいつけて広がっています。

ガガブタとは面白い名前です。

インターネットで調べてみると、「ガガは影の転化で鏡の意味で、ガガブタは鏡の蓋を意味する。漢字で鏡蓋と書く」とあります。

そう説明されると、なんとなく納得してしまいそうですが、現地説明の方に確かめると「はっきりとした定説はない」とのことでした。

「ひょっとして(何かを意味した)古代語の名残ではないでしょうか」と、付け加えられました。

 古代語の名残説の方が面白い・・・

 ガガブタが小さな白い花をつけ、群生している様(写真)は実にみごとなものです。

この花は今日限定の花で、午後にはしぼんで、明日は新しい花だそうです。

それに、絶滅が危惧されている花と聞くと見ておきたくなりませんか。

白い花はもうしばらく咲いています。

午前中に茨池で見学ください。

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稲美町探訪(310):コーヒーブレイク・「稲美町探訪」再開

2010-09-12 17:16:46 | 稲美町

Photo_2  まずい英語で、加印地域(加古郡・印南郡を含む地域)で活躍した12名の人物を紹介しました。

英語で紹介するとアクセスが極端に減るのではないかと心配しましたが、思ったように減っていません。

お読みいただきありがとうございました。

ご感想をお聞かせいただければ幸いです。

4年前に、ある事情で『英語で紹介する加古川市の歴史(A History of Kakogawa City)』を書きました。

ブログの種が尽きた時にでも紹介したいと思います。

今回、英語で紹介した人物も4年前に書いたものです。

この時は、稲美町について殆んど知りませんでした。

昨年の10月ごろから稲美町について学習をはじめました。

その豊かな歴史にビックリしています。

お世話になった稲美町の方々のご親切に感謝申し上げます。

英語シリーズでは、稲美町関係の人物を取り上げていません。

稲美町は、沢才兵衛、伊左衛門、岩本須三郎、魚住逸治など多くの傑物を輩出しました。

彼らについては、いつか、このシリーズ(英語)でとり上げてみようと考えています。

  『稲美町探訪』を再開

2週間ばかり「稲美町探訪」をお休みしました。

再開させます。

なお、資料(特に写真など)がございましたらご紹介ください。

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稲美町探訪(305):緊急報告②・オニバス(加古六軒屋池)が見ごろです

2010-08-29 12:08:07 | 稲美町

いま、稲美町六軒屋池で「オニバス」が見られます。

826日(木)の神戸新聞は、このオニバスについて「緑の傘、ため池を覆う」の見出しで、次のように報じました。

見学しにお出かけしませんか。

   六軒屋池のオニバス

Inamimachi7_139_2 (神戸新聞より・一部省略)

・・・・

オニバスはスイレン科の一年草で、環境省レッドリストで絶滅危惧Ⅱ類に指定されている。

5年前、環境保全のために池の水を入れ替えたところ、池を覆うように育ち始めたという。

今年の夏は、高温で雨が少ないため、葉は例年より少ない約100枚。

池の魚を日光から守るように大きな葉を広げ、所々で直径5センチほどの紫色の花を咲かせている。

葉は2メートルまで育ち、10月下旬ごろまで見られるという。

(以下略)

*絶滅危惧Ⅱ類・・・現在の状態をもたらしている要因が引き続くばあい、近い将来に「絶滅危惧Ⅰ類へ移行することが確実な種

注:六軒屋池にお出かけの時は、オニバスが集まって見学できるのは、神社の反対側(北)の堤防の中央あたりです。

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稲美町探訪(304):緊急報告①・天満大池にアゾラ出現

2010-08-28 10:55:43 | 稲美町

 緊急報告① 天満大池にアゾラ出現

Inamimachi7_134 「国岡の歴史」を連載していますが、緊急報告を二つはさみます。

2007831日、あるところで次のような文を書きました。

・・・

・・・「野口(加古川市)農協」の東の道は、ふだんは空いているんですが、その日はなぜか渋滞していました。

横の「駅ヶ池」を見ると、なんと!水面が真っ赤でした。

きれいというより不気味な感じです。

よく見ると、ヒシをびっしりと小さな赤い水草が取り巻いています。

それも、池いっぱいに覆っています。

「何という水草でしょうか?」また、「害は、ないのでしょうか?」・・

・・・この文を読んだ友達が神戸新聞に投書してくれました。

そして、926日の夕刊のトップに大きく「外来シダ植物‐アゾラ‐猛威」と報じ、記事は「アゾラは池の水質を変えてしまうので、放置せずに、可能な限り早期に取り除くことがのぞましい」と結びました。

その後、大掛かりなアゾラの除去作業が行われ、以来「駅ヶ池」のアゾラの出現はとまっています。

  アサザ危うし!

先日、天満大池へ出かけました。枯川(喜瀬川)から天満大池への取水口の近くに、アゾラが広がっていました。

駅ヶ池のような鮮やかな色のアゾラではなく、くすんで少し目立たないアゾラです。

それが、絶滅危惧種のアサザを育てているエリアにも侵入しているんです。

アサザ危うし!・・・

写真:天満大池に出現したアゾラ

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稲美町探訪(300):「稲美町探訪」が300号に

2010-08-24 10:16:04 | 稲美町

 「稲美町探訪」が300号になりました

Aca957a3 「稲美町探訪」が300号になりました。

内容に若干偽りありで、290号から299号は「国岡の歴史」として、いままでの記事の再掲とさせていただきました。

ともかく、300号としておきます。

「稲美町探訪」が100号になったとき、次のように書きました。

・・・

今日で「稲美町探訪」も100号になりました。・・・

書いている私は100号分だけ稲美町を知ることができました。

・・・「300号になったら、いっぱしの専門家面をして、稲美町についての話を誰かに押し付けているかもしれません」・・

300号になったのですが、専門家面なんてできる状態ではありません。

でも、誰かに「稲美町につての話」を話してみたいという気持ちが少しわいてきました。

ブログを続けている間にも、稲美町について、3回お話をする機会をつくっていただきました。

9月には、あつかましくも、水を中心にした「国岡の歴史」を国岡(稲美町天満)で話す機会をもっていただけるようです。

水利委員(専門家)の方もこられるそうです。

まさに「身のほど知らず」の行為です。

「稲美町探訪」はもう少し続きそうです。とりあえず400号を目標に続けますので、もうしばらくお付き合いください。

  余話:夏休みは宿題のお手伝いに?

「稲美町探訪」をはじめるまえは、加古川市の各町の探訪をしていました。

それも含めると現在1100号を数えています。

気候の話ではありませんが、この夏ちょっとした異変が起きています。

8月にはいり、毎日ブログへのアクセスが普段より100以上も増えているのです。

先日、ある高校生(女子)からメールをもらいました。彼女は私のブログをヒントに夏休みの宿題をしているそうです。

8月になってアクセスの増えた犯人は、どうやら宿題のためのようです。

理由は何でもいいんです。

若者が地域に目を向けてくれるヒントになっていたことは大満足です。

*写真:国岡の風景(昭和30年当時か)、内容と直接関係がありません。

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稲美町探訪(257):中村を歩く⑨・中村下沢から向山へ入植

2010-07-16 00:16:50 | 稲美町

前号で向山集落の誕生は元禄時代として紹介しました。

では、向山の祖先はどこから移住してきたのでしょうか。

   「向山」は「向かいの山」

C402930 前号で「向山にはかつて、明願寺という明福寺(下沢)の説教場としての寺があった・・・」と『稲美町史』を引用しました。

これは入植前の自分たちの旦那寺、つまり下沢の明福寺に願い出て、明願寺という説教場を向山集落に建立したものと考えられます。

そして、明願寺を心のよりどころにして村を発展させたのでしょう。

それに、何よりも向山の人達は「自分たちの祖先は下沢から移り住んだ・・・」とはっきりとその歴史を受け継いでおられます。

明福寺(下沢)の辺りから、向山の方をみると、坂は曇川の辺りまでいったん下っています。

そして、再び向山の方へと急な登坂となっています。

向山の地形は、下沢から見ると、まさに「向かいの山」です。

では、「下沢の多くの人々がなぜ向山に移住したのだろうか・・・」ということですが、当時の社会の動き、近辺の村々の記録から推測して、新田開発のためとしか考えられません。

このようにして、中村向山は誕生しました。

時代は、元禄時代です。

当然のこととして、この時、中村の大庄屋の小山五郎右衛門の政治力があったと思われます。

挿絵:北条正さんが描いてくださった「開拓に当たる百姓の姿」です。

先年、大腸がんで亡くなられました。ご冥福をお祈りします。

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稲美町探訪(256):中村を歩く⑧・中村向山誕生

2010-07-15 09:00:31 | 稲美町

Shodoshima_236 中村向山(むかいやま)へ出かけました。

下沢集落の南を流れる曇川は、海抜約30メーでトル、向山の中心辺りは海抜36メートルとなっています。

こんなに高まった丘の頂上にある向山は、昔は水が得にくい地域で、農地にならなかったということが想像できます。

では、向山に集落ができ、農業を始めたのはいつのころでしょう。

   中村向山は元禄時代にはじまる

手がかりがあります。

次の事実をつなげて考えてみます。

       池大神社(天満宮の若宮)

向山公会堂横の神社です。この神社の祭神は菅原道真・大歳神・市杵島姫命で、これらの祭神は天満神社と同じで、国安天満神社の若宮です。

そして、この神社の創建は元禄時代だといわれています。

 *写真:池大神社

    五郎右衛門池

五郎右衛門池が造られたのは元禄の頃です。

③ 明願寺

現在、向山には報恩寺があります。報恩寺の開基は、昭和4年と新しいのですが、『稲美町史』に、報恩寺の説明の後に次のような記述があります。

「・・・向山にはかつて明願寺という明福寺の説教場としての寺があったようである。これは元禄四年(1691)教意上人により建立されたものという」

 池大神社・五郎右衛門池・明願寺はみな元禄の頃にできています。

   五郎右衛門池の水は天満大池より

元禄の頃、中村の大庄屋・小山五郎右衛門は、この向山の丘に天満大池から水を引き、五郎右衛門池をつくりました。

それに伴い、この地に入植が始まり集落を形成し、神社・寺院を創建したのでしょう。

中村向山は元禄時代にはじまる集落と考えてよさそうです。

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稲美町探訪(255):中村を歩く⑦・明福寺(中村下沢)

2010-07-14 00:10:31 | 稲美町

  燃え上がる念仏の炎

5218e1c0 寺院の縁起は、必ずしも事実を語るものではないのですが、『明福寺のあゆみ』(明福寺発行)を参考にして明福寺の歴史をたどってみましょう。

時代は、応仁の乱をはさんで、中世という時代に見切りがつけられようとしていた動乱のさなかでした。

蓮如上人(れんにょしょうにん)は、明応5年(1496)石山本願寺の建立に着手し、翌年には完成させました。

・・・こうした時に明福寺は真言宗の寺でしたが、僧・道全は浄土真宗に帰依したといいます。

当時、このように他宗から転向した例は、決して珍しいものではなかたのですが、それにしても、道全の信仰は深いものがありました。

事実は若干異なっていたかもしれませんが、いずれにしても、室町時代後期、明福寺を中心として、念仏の炎は大きく燃え上がったようです。

   

道全は布教僧か?

また、道全は、他の地域からこの地に来た布教僧でもあったようです。

大正時代に、同志社大学の聞き取り調査によれば「・・・道全なる者、500年前氷丘村のうち大野村より来り、この地を耕して、その子孫のため村を開発した・・・」という聞き取りを記録しています。

これは史実に基づく聞き取りとは思えませんが、興味ある記録です。

事実、江戸期蛸草郷は大野組の支配下にあった時期が長く続いています。

天明二年(1782)、『大野組寺社修験明細帳』(写真)に、当地は「加古郡蛸草庄中村支配・京都西本願寺浄土真宗明福寺」と記載されています。

明福寺と念仏宗、そして道全について、さらに調べる必要がありそうです。

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稲美町探訪(254):中村を歩く⑥・円光寺のカイズカイブキ

2010-07-13 08:30:49 | 稲美町

平成1883日、神戸新聞朝刊の「東播版」に中村円光寺のカイズカイブキを「戦国の世から続く息吹」として大きく紹介しています。

きょうの「中村を歩く」は、神戸新聞の記事をお借りします。

(一部書き換えています)

 Inamimachi7_071  

戦国の世から続く息吹

もこもこと空に向かって、幾重にも積み重なっていく緑の傘。

抜けるように青い空を背にしたその姿は、わき上がる入道雲を思わせる。

ヒノキ科のカイズカイブキは古来、庭園づくりではおなじみの存在。

寿命が長く、都市公害に強い種として街路樹や生垣に多用されるが、稲美町中村の円光寺に立つ高さ7メートルの古木は、ひときわ存在感がある。

「円光寺は、8世紀に天満大池を築造した行基が開いた」という伝承を持つ。

建設当時は池の近くにあった。

明治政府の神仏分離政策で現在の場所に移った。

もともと、そこは西教寺という三木落城後、家臣が開いた庵だったという。

この木の由来は残っていないが、町の調査では400年、町内最古の木らしいことが判明した。

もしかしたら、戦乱の世の生き証人かもしれない。

1989年7月には町の文化財と天然記念物にも指定され、木を訪ねてくる人も多くなった。

それだけに、手入れにも気が配られ、傘を開いたような昔ながらの「棚作り」は見事な出来映えだ。

幹にも十分に日が当たって樹勢は旺盛で、今も成長を続けている。

「緑がもっとも鮮やかさを増すのが今の季節」と小松靖典住職。

「この土地に根ざし、伸び伸び生きとるように見えますな」と、慈しみ、見守っている。(神戸新聞より)

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稲美町探訪(253):中村を歩く⑤・円光寺の五輪塔

2010-07-12 18:19:12 | 稲美町

五輪塔(中村・円光寺墓地)

Inamimachi7_070  中村・円光寺の墓地に小さな五輪塔(写真)があります。

風化のために判読はしにくいのですが、地輪部に「応仁二年(1468)」の年号を持っています。

 学校で、「応仁の乱は(1467)にはじまる」と学習しました。

世は、まさに混乱の時代でした。そんな時代に造られた五輪塔です。

おそらく、この五輪塔は、小ぶりですが個人の冥福(めいふく)を祈る供養塔ではなく、先の見えない混乱の時代で、生活に苦しんだ村人は祖先の霊を 共同で供養するために造ったと考えられます。

      古い石造物

「稲美町探訪(228)」で、国安地蔵山の旧円光寺墓地の五輪塔を訪ねました。

地蔵山の五輪塔は、応安元年(1368)とあり、町内では最古級の石造物でした。

中村の円光寺墓地の五輪塔も古い時代の石造物です。

  五輪塔について

五輪塔について、詳しくは「稲美町探訪(228)」をご覧ください。

少し復習をしておきます。

「私たちの住む世界の全ての物質と現象は、五つの元素(空気・風・火・水・土=地)の組み合わせにより成り立っている」としています。 

五輪塔は、これら五つの元素を形にしたもので、稲美町探訪(228)の図にあるように、それぞれ上から空輪・風輪・火輪・水輪・地輪と名前がついています。 

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稲美町探訪(250):中村を歩く④・小山五郎右衛門(その4)

2010-07-09 07:49:15 | 稲美町

六分一、森安、中村の集落をぬけると、中村向山集落の手前に五郎右衛門池があります。

道は舌のような地形の頂上部を西へと伸びています。

大体海抜40メートルの高いところから徐々に低くなっています。

道の北も南も急に低くなっています。

   五郎右衛門池

Inamimachi7_081 向山の手前の五郎右衛門池あたりで、道は海抜46.9メートルで、池は道に沿って南側に造られています。

地形から考えて、自然のままではこの場所には水がありません。

反対に、池があり、水を溜めることができれば、一帯は新たな田畑が開かれます。また灌漑には絶好の位置です。

五郎右衛門は、蛸草大池(天満大池)から水を引き、この場所に池を造ることを考えたのでしょう。

そして完成した池は、五郎右衛門の指導により造られたので五郎右衛門池と呼ばれました。

五郎右衛門は、大庄屋です。恐らく工事費も彼が工面したのではないかと想像します。

五郎右衛門の最大の事業は蛸草新村の開発でしょうが、この五郎右衛門池も彼の功績の一つです。

その外、幸竹新村も彼の指導によるものであるといわれています。

五郎右衛門は、ずいぶん農業開発に情熱を傾けた人物のようです。

*写真:五郎右衛門池(夕方の五郎右衛門池)

<お知らせ・国岡新村を紹介>

いま、ブログでは「中村」の探訪をしています。しばらく、このシリーズを続けますが、土・日は、国岡を散策してみます。

というのは、先日「土地改良区」で古文書を見せていただきました。

ビックリするほどの数です。少し長期にわたると思いますが、少しずつ紹介して、昔の「国岡地区」(国岡新村)をあぶりだしたいと考えています。

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稲美町探訪(249):中村を歩く③・小山五郎右衛門(その3)

2010-07-08 10:37:32 | 稲美町

「相の山」について少し説明しておきます。

現在「相の山」は、町名として名前を残していますが、これは戦後開発された新興の住宅地域です。

もとは、現在の「六分一山」から印南地区につらなる山林地帯の指した呼び名でした。

野際(のぎわ)の集落は、その山林に接する地域であることからつけられた村名のようです。

この「相の山」地域は明石郡と接しており、しばしば争いを起こしました。

寛文6年(1666)にも郡境をめぐる争がありました。

郡境が確定され、加古郡の土地として相の山周辺には原野がひろがりました。

その頃、五郎衛門は気鋭の青年でした。

  「蛸草新村」の開発!

Inamimachi7_077 やがて、五郎右衛門は、絶大なる政治力を持つ大庄屋に任命されました。

彼は、相の山周辺に広がる原野に目をつけました。

五郎右衛門は西条組の大庄屋(沼田与次太夫)を抱きこみ、強引に相の山周辺、つまり蛸草新村の開発を進めました。

元禄10年(1697)のことです。

開発当時は畑のみでしたが、元禄15年(1702)に村のもっとも上手にため池造りをはじめ、翌16年(1703)には広沢池・広谷池(明治24年拡張)を築き、水田2町歩を開きました。

蛸草大池(天満)大池の上流に池を築くことは、天満大池の水が少なくなり蛸草郷の反対があり難しい問題を抱えるのがふつうですが、五郎右衛門の強引な政治力が可能にしたようです。

五郎右衛門の倅の久右衛門は蛸草新村の初代の庄屋になっています。

新田に蛸草新村と名づけたのは、入植者の多くが蛸草郷出身者で占められていたからでしょう。

現在、蛸草集落の旧家の多くが中村の円光寺や北山の常泉寺を旦那寺としているのは、ここに源がありあます。

しかし、現在、蛸草には小山姓を名のる旧家はありません。

    写真:蛸草中条墓地の碑と碑文

              開発人

     月洲智昭居士 小山五郎右衛門

              先祖子孫者

              敬之

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