『播磨風土記』にはこんな話もあります。
・・・別嬢(ヤマト・タケルのお母さん)は、やがて亡くなり、(景行)天皇との幸せな生活は長く続きませんでした。
天皇は、悲しみのあまり病気になり、新しいお住まいを賀古の松原(かこのまつばら)につくられ、お住まいになりました。
ある人が、ここに冷たい清水を掘り出しました。
そのため、これを松原の御井(まつばらのみい)と言いました。・・・
松原の御井(まつばらのみい)?
場所は、国道250号線(浜街道)の相生橋の手前と加古川河口の中間より少し橋よりでした。
堤防を越えれば加古川の河口で、すぐ海に出るところでした。
「風土記がつくられたころは、海浜に近いところできれいな水が湧き出していたのかもしれない」という想像ができる場所でした。
そして、この水は尾上神社の神事に使われていたといいます。
昔の記憶をたどり、この場所を訪ねましたが、それらしき場所は見つけることができませんでした。
確かめてみると、そこは宅地になり「松原の御井」はもう少し南東に移動して保存されているとのことでした。
地図を片手に、そこを訪ねたのですがわかりません。
それもそのはずです。歩きまわっていると偶然に工場の裏で、河口に近いところに偶然「松原の御井」(写真下)を発見しました。
人が立ち寄る場所ではありません。
もちろん形は井戸で、立派な屋根もつくられ、風土記の説明もありました。
「風土記にある場所なので、しかたなく、義務としてこしらえた」という感じでした。
そこは、風土記のロマンのかけらも感じることはできない無機質な場所でした。
*写真上:元の松原の御井