ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

明けまして、おめでとうございます

2015-01-01 00:10:50 | その他

 明けまして、おめでとうございます

                    2015・1・1

   門松は 冥土の旅の 一里塚

       めでたくもあり めでたくもなし

 これは一休さんの作だといわれていますが、一休さんが生きた時代(1392~1481)に、一里塚はありません。

 したがって、この狂歌は江戸時代の他の人の作品です。

 ・・・・

 今年は、特別な年です。私(71)は、羊年です。

 最近は、猛烈な勢いで時が過ぎていきます。

 風邪を引いた時などは、時々、一休さんの心境になります。

 でも、もうしばらく時に抵抗して、地域史の押し売りをします。よろしくお願いします。

 *写真:書斎の羊とハボタン

 *「ひろかずのブログ(高砂市を歩く)」は6日(火)から再開します。

 

 

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余話  それぞの歴史像

2014-12-28 08:41:26 | その他

   史実とドラマの歴史像

 今日は12月28日(日)。仕事納めの日です。

 それにしても、なんと1年は短いことでしょう。定年後は特にそれを感じます。

 わたしは羊年です。来年は、6回目の羊年です。

 みなさんのこの一年はいかがでしたでしょうか。

 私にとってのこの一年は、おおげさにいえば、NHKの大河ドラマ「軍師・官兵衛」とお付き合いの1年でした。

 大河ドラマを1回も欠かさず見たのは今年が初めてです。

 というのは、公民館等で官兵衛についてお話を頼まれることが多かったためです。

 でも、若干後悔をしています。

 私の知る官兵衛像は司馬遼太郎の小説にある世界です。少しだけ、その他の史料で補っただけの官兵衛像です。

 先日、『黒田官兵衛‐作られた軍師像(渡辺大門)‐』(講談社現代新書)を購入し、読み始めました。

 「史実とドラマ」における官兵衛像とは随分異なっているようです。

   宮本武蔵、米田誕生説を・・・

 宮本武蔵像も「史実」と「ドラマ」では、ずいぶん異なっているようですが、一般的な歴史像は「ドラマ」により作られています。

 「宮本武蔵」の場合は、だんぜん吉川英治の小説「宮本武蔵」による像が一般的です。

 作州宮本村出身説が全国的に「当然のこと(常識)」として流布されています。

 今、『双剣の客人‐生国播磨の武蔵(寺林駿)‐』(アールズ出版)を読んだところです。

 この小説は、副題にあるように宮本武蔵を米田出身としています。

 しかし、これも小説の歴史像です。

 私が地元というわけではないのですが、「武蔵、米田村誕生説」を支持したいのですが・・・

 それぞれ、小説・史実・地元びいき等からなる、それぞれの歴史像をお持ちです。

 それでもいいと思っています。

 それらを肴にして、話しができるのは楽しいことです。

 来年もそんな1年になってほしいです。

 *写真:宮本武蔵と伊織像(米田町西光寺)

 *明日から来年の1月5日までブログをお休みします。6日から再開しますのでお付き合いください。この1年有難うございました。良いお年をお迎えください。

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いなみ野学園同窓研修会

2014-10-04 15:12:59 | その他

 ブログ挿入を兼ねて

「高砂を歩く」は6日から掲載の予定

  いなみ野学園同窓研修会

 9時半から、「いなみ野学園同窓研修会」に出かけました。

ビックリしました。

 すばらしい会場(大講堂)で、それに聴講生がなんと350人。

 300人を超える学習会は初めての経験でした。

 9時20分ごろに会場に到着した関係で、聴講生の方がたくさん会場に急いでおられました。

 「私の話を聞きに来ておられる」と思うと、少し緊張します。

 きょうのテーマは「軍師・官兵衛と加古川」でした。

 それにしても、今年の大河ドラマは面白いですね。

  ある「読書法」

 きょう、学習会があるので、昨日夕方からしばらく喫茶店で準備も兼ね、ある本を読みました。

 ある本とは、『信長の跫(神吉修身著)』(かんき出版)です。

 サブタイトルに「神吉城の戦い」とあります。

 この喫茶店まで、ドライブを兼ねてきたのは、神吉城の近くの喫茶店だったからです。

 小説の舞台の近くで読む読書は少し違います。

 なによりも、身近な地域名がたくさん登場します。

 こんな読書もいいものです。

 *「いなみ野学園同窓研修会」の会場風景

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ブログ挿入練習 ヤマト・タケル(2)

2014-10-03 09:20:18 | その他

    ヤマト・タケルはどんな人?

 9月28日(日)、加古川市民会館は満員で熱気に包まれました。

 「神話からつながる郷土の歴史と日本のこころ」と題して、作家の竹田恒泰の講演とヤマトタケルを中とするパネル、そして演舞がありました。

 竹田氏の話の中心は、「日本人は、もっと神話を大切にしましょう」と言うことのようでした。

 しかし、竹田氏のお考えは、神話とは言いながら、神話=古事記・日本書紀の内容で、他の神話は、まるで興味がないように想像されました。

 古事記・日本書紀は、ご存知のように神話の中でもかなり意図的に書かれた「神話?」です。

 それに、竹田氏は、ヤマト・タケルやお父さんの景行天皇が実在されたことを強調されたことには驚きました。

 景行天皇、ヤマト・タケルは、実在していないことは、学会の常識です。

 このことで、「ヤマト・タケルの話は、荒唐無稽である」と片付けたくはありません。

 古事記・日本書紀の物語が語る内容を通して、学問的に分析し当時(4世紀)の社会を知る手掛かりにしてほしいのです。

 市民会館で周囲を見渡しました。

 参加者は、みな「なるほど・・・」と竹田氏の話にうなずいておられました。

 少し心配です。

 ヤマト・タケルを加古川市が産んだ英雄として売り出すのなら、もう少しヤマト・タケルについて知る必要がありそうです。

 竹田恒泰氏の話では困ります。

     (蛇足)『風土記』にヤマト・タケルが登場しない!

 日本書紀・古事記に登場するヤマト・タケルですが、不思議なことに『播磨風土記』のどこにもヤマト・タケルの姿はありません。

 あるのは、ヤマト・タケルのお母さんとお父さん・景行天皇の愛の物語ばかりです。

 これは何を物語るのでしょうか。

 これまで『播磨風土記』にヤマト・タケルが登場していないことに疑問を抱かれた研究は、あまりありません。

 私は、「よく非常に独断的な意見を言う」とおしかりを受けますが、あえて、書かせていただきます。

 「風土記がまとめられた時代、加古川地方にはヤマト・タケルの話はなかったのではないか・・・ないものは書けないという訳です。

 ギリシャ神話に登場するような英雄が加古川に誕生したという物語は痛快な話のですが、ヤマト・タケルの話は地元にはなかったのではないかと想像するのです」

 こんなこと書くのは、少々気が重い・・・

 *写真:竹田恒泰氏(当日配布のパンフ)より

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ブログ挿入練習 ヤマ・トタケル(1)

2014-10-03 08:53:23 | その他

    ヤマト・タケル①

 最初にお断りしておきますが、私は「ヤマト・タケル」の物語は好きです。

 「ひろかずのブログ」でも、ヤマト・タケル物語として書いていますのでお読みください。

 およそ、30年ほど前のことです。加古川市でヤマト・タケル論争が燃え上がりました。いま加古川市では、再びヤマト・タケルが登場しようとしています。

 でも、単純に喜べない側面を含んでいます。ブログの操作の練習を兼ねて、経過を書いておきます。

    ヤマト・タケル論争

 「ヤマト・タケル論争」が突如出現しました。

 ことのおこりは、1980年12月、加古川駅前に加古川市のシンボルとして、日本武尊(ヤマト・タケル)像の建立計画があることを「神戸新聞」(12月6日付)が報じたことでした。

 加古川商工会議所が中心となり、この計画は進められていました。翌、81年9月には商工会議所内に「日本武尊銅像建立奉賛会」がつくられました。

 これに対して、教員組合・高等学校教員組合・「明るい加古川市をつくる市民の会」など8団体が中心になり「加古川駅前の日本武尊建立に反対する会」が結成されました。

 反対の主な理由は、次のようでした。

(1)戦前の教科書などで、日本武尊(ヤマト・タケル)は戦争に駆り立てる役割を果した。

(2)実在するかのような説明は、歴史を歪曲するものである。

(3)加古川駅前という公共の場所が、市民の合意もえずに建設されるのは民主的でない。

(4)駅前には、平和をイメージする明るいものを選ぶべきである。

 12月4日、加古川勤労会館で開かれた反対集会には高名な歴史家・直木考次郎氏(故人)も駆けつけられました。

 この頃から、マスコミも「今、なぜヤマト・タケルか?」と銅像建設反対の論調が目立つようになりました。

 このような世論の高まりで、加古川市議会は「建立反対」「反対」の議案を継続審議としました。

 その後も反対の声が高まり、銅像建立の声は少なくなりました。

 追い討ちをかけるように、建設推進の中心になっておられたO氏が亡くなられ、やがてヤマト・タケルが駅前に建立される計画は、立ち消えとなった経過をたどりました。

 *写真:ひれ墓(日岡御陵)


 

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コスモス

2014-10-02 16:46:43 | その他

  新しいブログの挿入の練習

  きょうの午後、Nさんが「gooブログ」を立ち上げてくださいました。

  その手続きが良くわかりません。

  このブログ「コスモス」は、新しくなった「gooブログ」練習です。眺めるだけで結構です。

  「高砂市を歩く」は6日(月)から始めます。よろしくお願いします。

   コスモス

  春のサクラ前線は南から北上していくが、秋の訪れはコスモスと紅葉によって、北

から南下します。

  秋にサクラのような花を咲かせるので、「秋桜」の字を当てたことかろもわかるように、コスモスは古くからの住人のような趣を持っています。

  ところが、この花のふるさとは遠くメキシコで、日本の秋を彩って、まだ、100年あまりにしかならないそうです。

  江戸時代の農村風景にコスモスは見られません。

  コスモスとは「調和」「飾り」「宇宙」を意味するギリシャ語で、その旺盛な繁殖力であっという間に世界中に広がりました。名のごとくコスモポリタンな花です。

  そんな意味は、知らなかったのですが、子供のころから、なぜか宇宙に広がる星のイメージを持っていました。

  写真のコスモスは、我が家の玄関近くに毎年咲いています。

  そのテリトリーも徐々に広がっているようです。

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余話:緊急事態発生

2014-10-02 14:44:59 | その他

   緊急事態発生!
     もうすぐ「ブログ人」(OCN)がなくなります
 「ひろかずのブログ」が600号になった時、次のように書いています。
 ・・・2006年6月14日に「ブログをはじめました」と宣言して、ともかくブログを始めました。
 医者から、メタボ気味で高血圧のため「歩きなさい」と言われていたため、「散歩をしながら、気づいたことをでも随筆風に書こうかな」とはじめたブログです。
 一週間もすると書く材料がなくなりました。
 そこではじめたのが、加古川市内の歴史探訪でした。
 在職中にためておいた史料が若干あったためです。
(稲美町・播磨町・高砂市についての史料はありませんでした)
 加古川市を中心にブログを書いていると、結構アクセスがありました。
 このアクセス数に励まされました・・・
 2006年、ブログ(ブログ人)を初めてから、きょうで2574号になりました。
 いま、ちょっと事件が起きています。
 メカ音痴の私が、本を買っきて、なんとか立ちあがったブログでしたが、事情は分かりませんが、この11月の終わりでOCNの「ブログ人」が終りになります。
 大変です。このままでは、「ひろかずのブログ」も続けることができません。はやめに手だてを講じなければなりません。
 その為、いま、Nさんにご無理をお願いして、ブログを「gooブログ」に移転する作業を進めていますが、使い方が良くわかりません。
 11月の終わりまでには慣れるよう頑張ります。
 メカに弱い71歳のお爺さんです。
 11月の終わりまでは、今まで通りOCNの「ブログ人」で入力し発信します。よろしくお願いします。
     「高砂市を歩く」をはじめます
 さて、「播磨町を歩く」では、ビクビクしながら書いていました。
 と言うのは、ほとんどがどなたかの研究で、無断で使わせていただいたためです。パクリです。
 次号から「高砂市を歩く」を始めますが、すこしは自分らしさを出したいと考えています。
 準備のため10月5日(月)までお休みとします。ご了解ください。
*写真:先日(9月27日・土)、浜ノ宮神社でたくさんの史料を見せていただきました。

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さんぽ(219):「播磨町を歩く」が100号に

2014-08-14 08:45:14 | その他

  播磨町を歩いています
Img
 きょうの「ひろかずのブログ」は2526号です。
 号を重ねると、いろんなところから問い合わせがあります。
 公民館の地域学講座、老人会等で勉強会の講師の話が舞い込んできます。
 ついつい「はい、はい」と返事をしてしまいます。退職後は、そんなことをしながら楽しんでいます。
 しかし、地元の歴史については素人で、詳細は知りません。
 地域学講座の時は「地域史家」と紹介されますが、これも他に「肩書き」が無いので仕方なく公民館の肩が付けてくださったものです。
 「古文書」も、ろくに読めない地域史家なんていませんよね。
 もう少し私のことをはなしますと、ある大学院で「朝鮮現代史」を勉強しました。
 その時に、少しだけ朝鮮語も勉強しました。
 退職して、別の大学院で「英語(教育)」を専攻しました。
 そして、今年(2014)そこで勉強したことを、もとにして『A History of Kakogawa City』を英語で書いてみました。古文書より、英語の方が少しだけ、できるかな?
 自慢ではないんです。ようは何でも屋で、なにも専門が無いということです。
   
「播磨町を歩く」が100号になりました
 特に、播磨町の歴史は、全く知りませんでした。
 「播磨町を歩く」は、加古川市・播磨町の歴史散策をした後、軽い気持ちで「播磨町の歴史でもでも調べようかな」と始めたものです。
主に『町史・阿閇の里』『歩いてみよう、播磨町の歴史』の文章をお借りしています。
 それが、今日で100号になりました。写真を撮りに出かけます。紹介したい場所を捜します。不思議なもので、だんだん播磨町の地理が分かるようになりました。
 それにともなって、播磨町が好きになっているようです。
 200号、300号となる時、いっぱしの専門家面をして、播磨町の人に「播磨町とは・・・」と、偉そうに話しているかもしれません。
 自分の、厚かましさが目に浮かぶようです。
 とにかく200号を目指して、播磨町を歩いてみますのでよろしくお願いします。

<o:p></o:p>

 

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「ひろかずのブログ」が、きょうで2.500号になりました。

2014-07-19 07:31:09 | その他

  「ひろかずのブログ」が2.500号に!
 退職3年目から始めた「ひろかずのブログ」ですが、きょうで2.500号になりました。<o:p></o:p>

 ちりも積もって小山になりました。
Img
 一度だけ、ある事情で「やめようかな・・・」と考えたことがありました。
 その時は、しばらく休んで、なんとか再開させることができました。
 以後、気張らずに、みなさんに押し売りをしています。
 こんなブログですが、最近は毎日のアクセスが500近くになっています。
 このアクセス数に後押しされてブログを続けています。
 今、播磨町を歩いています。<o:p></o:p>

  いままで、加古川市・稲美町の歴史探訪を書いてきました。
 播磨町についての知識がありません。土地感もありません。
 これがいいんです。何冊か本を買い込んで、読んでいます。ボケ防止になります。
 買い込んだ本の内容を確かめるために、現場へ行きます。そして、写真を撮ります。
 そうすると一日に、一つ新しい知識ができ定着するんです。
 今、「播磨町を歩く」は、前号で74号になりました。74の新しいことを知ることできました。
 けっこう楽しいのです。それに何よりも安あがりの趣味です。
 加古川市・稲美町でも経験しましたが、こんな作業が200、そして300とふえる時、誰かに話したくなります。頭の中で化学変化が起こります
 そして、時には公民館などで「専門家面」をして、臆面もなく話します。
 最近は、このサイクルが少し過熱気味です。途中で故障をしないように、少しゆっくり回転させるようにします。
 退職して3年目から始めた「ひろかずのブログ」ですが、日課として定着したようです。
 朝、前日用意しておいた内容で、新しい「ひろかずのブログ」を作ります。
 できた時は、大げさにいえば、「きょうも生きている・・・」と感じます。
 何かの都合で書けなかった日は、どこかで大事なものを忘れてきたたような気持ちになります。
 こんな、私の勝手な思いに付き合っていただき有難うございます。
  ボケ防止と腰痛対策を兼ねて、
     5.000号まで続けますか?
 もう一つの目論見は、腰痛対策です。
 71歳になりました。昨年から、少し腰痛がひどくなって来ました。やばい・・・
 原因は、はっきりしています。運動不足です。
 誰かの文章を、ちゃっかりとお借りすることが多いブログですが、大切にしたいことがあります。①現場に行って、②写真を撮ることです。
運動になっています。
 最近、孫(5才・今月の24日で6歳になる女の子です)と遊ぶことが増えました。
 あと10年は、孫と遊びたいので、元気でボケないように頑張ります。
 そのために1年に300ほどブログを書いて、10年続けると5.000号にはなります。
 私も81歳になります。その時、迷惑をかけない別の生き方を考えます。
 もう少し、お付き合いください。よろしくお願いします。(「ひろかずのブログ」2.500号の日に)
 挿絵:取材中の私

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特別報告:蛍の浜(高砂市荒井町・浜風公園)

2012-06-04 00:02:45 | その他

「ひろかずのブログ」では加古川市・稲美町の話題を拾っていますが、今日は特別に高砂の話題です。

・・・・

私は、加古川市尾上町今福に住んでいます。小説家・城山三郎氏は、小説『部長の大晩年』(朝日新聞社)で、今福を「蛍の里」として紹介されました。一部を読んでみます。

    蛍の里

(今福村から眺めると)目を遮るものない平野(に鶴林寺が見える)・・・

聖徳太子の命で創建された由緒ある寺で、境内も広く、日ごろ各地から参詣者があるが、寺の行事のときには、芝居や見世物が出た。

・・・そのあたり(今福村)、加古川の豊かな水を引き込んだ水路には、鮒(ふな)、泥鰌(どじょう)、鯰(なまず)などが多く、林蔵(父)が鯰を好むので、耕衣はとくに鯰を狙った。

岸辺の水草や藻をつついて追い出したのを、タモですくったり、小さなかえるを縛り付けて針でつり上たり。

そうした鯰や川蝦(えび)を父子で火に焼いて食べた。

・・・・

初夏には蛍が特に多いところで、無数の蛍が群れて、いくつもの光の玉、光の雲のようになり、輪を描きながら、夜空を低く舞う・・・以上小説『部長の大晩年(城山三郎著)』より

*城山氏は、小説『部長の大晩年』で今福出身の俳人(永田耕衣)の人生を描いています。

近くのSさん(故人)に取材したことがあります。「子どもの頃、ホタルは湧くように飛んでいたよ・・・」と話してくださいました。

これは、今福だけではなく、戦後すぐまでは、蛍のある風景は加古川市のどこでも見られたようです。

 「経済成長」とともに、やがて蛍は姿を消していきました。

   

    蛍の浜

 058先日、Mさん(女性)から、「高砂市荒井町の浜風公園でたくさん蛍が飛んでいるのでお出かけください」とメールをいただきました。

 さっそく孫と出かけました。

8時頃でした。ハンゲショウの草むらに、たくさんの平家蛍が光っていました。

帰る頃には、何匹か飛ぶようになり、一匹が孫の顔の前をフワッと飛びすぎて行きました。

孫はもう大喜び、飛びあがって捕まえようとしていました・・・

ここから150㍍も行けば浜に突き当たります。

お出かけください。65日頃までは、午後8時半頃まで開園されています。

*写真:浜風公園のハンゲショウの草村です。もう少しするとハンゲショウに白い斑点ができます。

その頃ハンゲショウを再度紹介します。そのあたり(浜から150メートルあたり)に蛍は、たくさん出現します。

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コーヒーブレイク:「ひろかずのブログ」1700号を超える!

2012-06-01 06:07:59 | その他

 続くもので、きょうで「ひろかずのブログ」は、1719号になりました。

先週、このブログをお読みの神戸新聞の記者が来られ、1700号続いたことを記事にしたいと、取材を受けました。

以下は、昨日の神戸新聞(東播版)の記事から転載させていただきました。

    「ひろかずのブログ」1700号超

 Cd884f31_2兵庫県加古川市と稲美町の史跡や風習を紹介するインターネットサイト「ひろかずのブログ」の記事が今月、1700号を超えた。

 元中学教諭の飯沼博一さん(68)=加古川市尾上町今福=が2006年6月から、市史などを参考に各地を探訪し、執筆を続ける。

「書き手がおらず、埋もれている地域史を一つの形にして後世に残したい」とさらに意欲を募らせる。(井上 駿)

   ・・・・・・・

 社会科の担当だった飯沼さんは定年退職後、姫路獨協大大学院で英語を学び、06年に修士号を取得。

 英語で読める郷土資料がないことから、加古川市の歴史を一冊の英語の本にまとめ、同年秋、市教委に届けた。

 さらに、社会科の副教材として郷土史をまとめた経験を生かし、ブログを開設。加古川市と稲美町を対象エリアとし、各地を歩いて回り、住民にも話を聞く。

「市史を分かりやすくかみ砕き、さらに自分の目で見て考察を加える」ことを心がけて書き、写真やイラストも添えて更新を続ける。

 昨年は、稲美町国岡地区の歴史を住民らの協力を得て、ブログの記事を冊子「くにおかの歴史」に再編集、地区内に全戸配布した。

 現在は同市志方町を2度目の探訪中で、志方八幡宮や高御位山などを回り、江戸時代後期に大庄屋が残した日記も紹介する。

「手軽に読めるブログに書き続け、郷土を愛する読者を増やしたい」と飯沼さん。数多くの未解読の古文書にも出合ったといい、「解読して、地域史に新しい一ページを刻みたい」と話す。

 サイトは「ひろかずのブログ」で検索。

 飯沼さんTEL079・422・4641

 *写真:昨日の神戸新聞の記事より

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コーヒーブレイク:嬉しかったこと

2012-03-01 08:26:11 | その他

  

 嬉しかったこと

E6364fa1ブログを書いていて、時々嬉しいことがあります。

写真は、稲美町国岡の開村350年行事を報じた27日の神戸新聞の朝刊の記事です。

この行事は、26日の開村記念行事だけではありません。

一昨年、国岡の公会堂で地域の方の歴史講座「国岡の歴史」が開かれました。

それを機に、自治会・土地改良区などが中心となり実行委員会が結成されました。

昨年10月には、冊子「くにおかの歴史」が完成し、再度多くの方に呼びかけ歴史講座が開かれました。

26日の開村350年記念行事は、こんな活動の上での行事となりました。

「ブログを書いていて時々嬉しいことがある」と書いたのは、記念誌「くにおかの歴史」のベースは「ひろかずのブログ」でした。

そのため、加古川市の住人でありながら、国岡の「開村350年祭」にご招待をいただきました。

出席したかったのですが私用があり、欠席させていただきました。

申し訳ありませんでした。

  

 開村350年 盛大に祝い

国岡の「開村350年 盛大に祝い」と27日の神戸新聞の朝刊(写真)は大きく報じました。

その最初の部分を取り上げておきます。

「町史によると、国岡新村は1662年(寛文2)に開村。

当時100戸程の小さな集落だったが、今では町役場があり、約1400世帯が暮らす中心地となっている。

時代の流れと共に転入者が増える中、地域の歴史や絆を見つめ直す機会にしようと、自治会や土地改良区などでつくる350年祭実行委員会が祭りを企画した。

同会は一昨年12月に発足。

村の歴史をまとめた記念誌を全戸に配り、愛宕神社の境内で屋台練りができるように、本殿の周りに道を整備してきた・・・」

次回は、ひとまわり発展した「国岡の400年祭」が行われますように。

その時、50年後の方は「くにおかの歴史」をご覧になるでしょうか。

天国(地獄かもしれません)から拝見させていただきます。

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緊急報告③:美濃部達吉の祖父母・父母の墓碑、十輪寺に移設

2012-01-17 11:44:43 | その他

神戸新(14)朝刊は、美濃部達吉の祖父母・父母の墓碑が十輪寺(高砂市高砂町横町)で保存されるようになったことを報じました。

墓碑(写真)の場所に説明板がなく分かりにくいのですが、境内の工楽松右衛門の墓碑の前です。

十輪寺のお参りの時は、お寄りください。

  美濃部達吉の祖父・祖母の墓碑が十輪寺境内に移設

009以下の文は14日の神戸新聞朝刊からお借りしました。

・・・・

達吉の祖父母・秀軒(しゅうけん)と道、父母・秀芳(しゅうほう)と悦の墓はもともと、高砂市高砂町木曽町の共同墓地にあった。

次男の達吉らきょうだい4人ともが高砂を明治期にはなれたといい、墓は達吉の兄・俊吉のその知人とその遺族が守ってきた。

2009年には俊吉の遺族が墓を東京へ移した。

3基の墓碑だけが高砂に残ることになり、「美濃部達吉研究会」と遺族が石材店で保管。

「達吉の功績を伝える重要な文化財」として保存を計画した。

十輪寺の西田光衛住職(当時)に相談したところ、境内に置けることに。

募金活動で費用を捻出して昨年11月、墓碑を移設した。

達吉の父、秀芳葉蘭学医で、姫路藩の学問所「申義堂」で庶民の子弟を教えた。

その申義堂は十輪寺前に再建され、(1月)14日から一般公開される。

墓碑の移設に併せ、一族の功績に改めて光が当てられることになる。

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緊急報告②:美濃部達吉生家跡の説明の碑

2012-01-16 11:16:46 | その他

Photo2008420日のブログでは天皇機関説・美濃部達吉生家跡の説明をし、「(達吉の生家跡は」現在、倉庫になっており達吉の生家であることを知る人も少なくなってきました。説明板ぐらい欲しいものです)と書きました。

再度そのブログの一部を読んでおきます。

   天皇機関説

*文体は変えています。

 美濃部達吉の憲法学説は「天皇機関説(てんのうきかんせつ)」と呼ばれています。

 この説は、「主権は天皇にあるのではなく、国家にあり、天皇は国家の一機関である・・・」とする学説で、絶対的な天皇制国家の下で、政党と議会の役割を高めようとする学説でした。

 この時期、日本は戦争に向かって暴走をはじめていました。

 軍部は、特に学問の自由は危険思想の温床であるとして容赦のない一撃を加えるようになりました。

 1935年(昭和10)、達吉の「天皇機関説」にも攻撃がかけられました。

 当時、貴族院議員にもなっていた達吉の学説を、ある右翼議員が、彼の説は「謀反」「反逆」として攻撃したことに端を発して「天皇機関説」排撃運動がはじまりました。

 そして、全国の大学・高等学校から機関説は排除され、達吉も議員を辞職しました。

 この事件(天皇機関説事件)以後、政治・経済のあり方についての研究の自習はできなくなりました。

 政府・軍部は、国民のいっさいの非難を許さず、戦線を中国全土に広げたのです。

 1945年(昭和20)、815日、敗戦。

 戦後、新しい憲法がつくられ、達吉は新憲法に関する著書を出版しました。

 達吉の新しい活動が始まろうとしていた1948年(昭和23)、達吉は75歳の生涯を終えました。

 達吉の生家は高砂町の堀川の近くで、現在は、倉庫(写真上)になっており達吉の生家であることを知る人も少なくなってきました。説明板ぐらい欲しいものです。

 達吉の生家の場所に倉庫の建設の話が持ち上がった時、保存運動はなかったといいます。(2008420日のブログより)

     美濃部達吉生家跡説明の碑

025_2昨日、修復になった申義堂を見学した帰りに、久しぶりで達吉の生家跡へ寄ってみました。

なんと、倉庫の隅に美濃部達吉生家跡の説明(写真下)が設置されていました。

なお御影石に次の説明が刻まれています。

  美濃部達吉生家跡

明治憲法下で「天皇機関説」を唱えた憲法学者美濃部達吉博士は、明治6年(183757日、父秀芳(蘭方医、申義堂教授、第2代高砂町長)、母悦の次男として、ここ材木町の地で生まれた。

達吉博士は、高砂小学校、小野中学校を経て兄俊吉とともに上京、東京帝国大学法科大学を卒業し、同大学教授を経て務めた。

その間、東大における美濃部憲法学は、幾多の著名な憲法学者、行政法学者を輩出した。

昭和23(1948)、東京で他界したが生前の著書等は、息子の亮吉氏(元、東京都知事、参議院議員)の蔵書とともに「美濃部親子文庫」に保存されている。

            高砂みなとまちづくり構想推進協議会

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緊急報告①:申義堂(江戸期の学問所)復元なる

2012-01-15 17:18:14 | その他

005緊急報告を少しします。

2007814日のブログで、東神吉町で残っていた郷校「申義堂」について紹介しています。

その中で、「現在高砂市での再建計画は、あまり進んでいないようです」と書きましたが、このほど申義堂が移築、復元され一般公開が始まりました。

今日115日)の神戸新聞(東播版)は「庶民の教育の場再び」のタイトルで、江戸時代の「申義堂」について報じています。

最初の部分を読んでみます。全文は新聞をご覧ください。

    「申義堂(江戸時代の学問所)」復元なる

申義堂は文化年間180418)、姫路藩家老の河合寸翁(かわいすんのう)が命じ、現代の同市高砂町北本町にできた。・・・・憲法学者美濃部達吉の父で、町医者の秋芳らが教授を務めた。

町人らの子どもが早朝から正午まで学んだという。

しかし、明治になり閉鎖され、建物は姫路の寺の説教所として、加古川市東神吉町西井ノ口に移築された。

その後、倉庫になっていたが、1993年解体され、高砂市教育委が部材を保管。

元の場所に近い市有地での保管が決まり2010年夏に着工した。

以上が新聞記事の一部です。

    「申義堂」を紹介(2007年のブログ)

 今日は、2007814日の「申義堂」についての文章を再掲します。

(文体は変えています)

 ・・・

Sinngi_dou_2 江戸時代後期になると藩校の設置が全国でさかんに行われました。

幕藩体制の揺るぎの中で、藩政をになう人材の必要が高まったためです。

さらに、教育は庶民対象の郷学へと広がりました。

高砂でも姫路藩により「申義堂(しんぎどう)」が設けられ、庶民教育が行われました。

申義堂の設立は、文化年間(180417)で酒井忠実の家老・河合寸翁(かわいすんのう)の意見により、高砂市北本町に開校しました。

藩校「好古堂(こうこどう)」の支校の一つで、町民の子弟の教育の場となりました。

内容は、四書五経などが中心でした。

教師陣は多彩で、美濃部達吉の父・秀芳や本居宣長の子・大平などがいました。

また、勝海舟・頼三樹三郎(らいみきさぶろう)・梁川星巌(やながわせいがん)などが高砂に逗留中、講師として教壇たったこともありました。

隆盛を誇った「申義堂」でしたが、明治4年(1871)の廃藩置県と共に廃校となりました。

その後、申義堂は明治12年に加古川市東神吉町西井ノ口に移築され、光源寺(姫路)の説教所として使われていました。

戦後は、西井ノ口町内会の倉庫として利用され、もと申義堂であったことは人々の記憶から消えていきました。

専門家の調査により、申義堂の遺構であることが分かり、高砂へと移築保存されることになり、解体されました。

現在、高砂市での再建計画は、あまり進んでいないようです。

*写真上:復元工事が完成した申義堂、下:戦後、西井ノ口で倉庫として使われていた申義堂

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