緊急報告を少しします。
2007年8月14日のブログで、東神吉町で残っていた郷校「申義堂」について紹介しています。
その中で、「現在高砂市での再建計画は、あまり進んでいないようです」と書きましたが、このほど申義堂が移築、復元され一般公開が始まりました。
今日(1月15日)の神戸新聞(東播版)は「庶民の教育の場再び」のタイトルで、江戸時代の「申義堂」について報じています。
最初の部分を読んでみます。全文は新聞をご覧ください。
「申義堂(江戸時代の学問所)」復元なる
申義堂は文化年間(1804~18)、姫路藩家老の河合寸翁(かわいすんのう)が命じ、現代の同市高砂町北本町にできた。・・・・憲法学者美濃部達吉の父で、町医者の秋芳らが教授を務めた。
町人らの子どもが早朝から正午まで学んだという。
しかし、明治になり閉鎖され、建物は姫路の寺の説教所として、加古川市東神吉町西井ノ口に移築された。
その後、倉庫になっていたが、1993年解体され、高砂市教育委が部材を保管。
元の場所に近い市有地での保管が決まり2010年夏に着工した。
以上が新聞記事の一部です。
「申義堂」を紹介(2007年のブログ)
今日は、2007年8月14日の「申義堂」についての文章を再掲します。
(文体は変えています)
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江戸時代後期になると藩校の設置が全国でさかんに行われました。
幕藩体制の揺るぎの中で、藩政をになう人材の必要が高まったためです。
さらに、教育は庶民対象の郷学へと広がりました。
高砂でも姫路藩により「申義堂(しんぎどう)」が設けられ、庶民教育が行われました。
申義堂の設立は、文化年間(1804~17)で酒井忠実の家老・河合寸翁(かわいすんのう)の意見により、高砂市北本町に開校しました。
藩校「好古堂(こうこどう)」の支校の一つで、町民の子弟の教育の場となりました。
内容は、四書五経などが中心でした。
教師陣は多彩で、美濃部達吉の父・秀芳や本居宣長の子・大平などがいました。
また、勝海舟・頼三樹三郎(らいみきさぶろう)・梁川星巌(やながわせいがん)などが高砂に逗留中、講師として教壇たったこともありました。
隆盛を誇った「申義堂」でしたが、明治4年(1871)の廃藩置県と共に廃校となりました。
その後、申義堂は明治12年に加古川市東神吉町西井ノ口に移築され、光源寺(姫路)の説教所として使われていました。
戦後は、西井ノ口町内会の倉庫として利用され、もと申義堂であったことは人々の記憶から消えていきました。
専門家の調査により、申義堂の遺構であることが分かり、高砂へと移築保存されることになり、解体されました。
現在、高砂市での再建計画は、あまり進んでいないようです。
*写真上:復元工事が完成した申義堂、下:戦後、西井ノ口で倉庫として使われていた申義堂