ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(234):志方・大塚古墳

2012-02-29 07:52:45 |  ・加古川市志方町

  志方大塚古墳

057『志方町を歩く(232)』で志方小学校の北の四道辻地蔵堂(よどのつじじぞうどう)を紹介しましたが、そこからすぐ北に「大塚古墳」がありますので紹介します。

大塚古墳(写真)のバックに志方中学校・八幡神社があるので、すぐお分かりになると思います。

この古墳は直径30メートルぐらいの大型の古墳でしたが、昭和10年頃に破壊されてしまいました。

今では、かつての姿を全くとどめていません。

天井石は、古墳の中に落ち込み露出しています。

   当地方の有力な支配者の墓

『志方郷(4号)』で、郷土史家の上月昭信氏は、この古墳について次のような特徴をあげておられます。

  石室の奥壁にも石室をもつ

  石室の規模は、志方町で二子塚に次ぐ大きさを持つ

  群集墳の時代(6世紀後半から7世に初め)に単独で平野近くの先端部に築かれている

  発掘調査の結果、直径38㍍という広い墓域を持つ

 これら②~④の特徴から、古墳の被奏者は当地方で相当な実力者の墓と考えられます。

そして、それ以上の特徴としては、①石室の奥壁に石の棚を持つことです。

 石棚を持つ古墳は播磨地方では知られておらず、その分布は大和・紀伊・摂津・丹波で、それぞれ12其確認されている程度です。

志方大塚の被葬者は、どんな人物だったのでしょうか。

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志方町を歩く(233):石棺二尊石仏(志方皿池)

2012-02-28 07:21:34 |  ・加古川市志方町

志方皿池 石棺二尊石仏

025この石仏は、原・志方町・投松を東西の道と南からの北へと抜ける交差点の所に皿池がありますが、その皿池の南西隅にあります。

石仏の安置されている場所は幹線に近いのですが、少しだけ道から離れているためか、ここに見事な石仏があることをご存知の方は少ないようです。

一度、お訪ねください。

 この石棺二尊石について説明(板)がありますので読んでおきます。

「石棺の上半に高さ30cmの阿弥陀仏と地蔵菩薩の坐像を彫こんでいます。

石棺は高さ(地上部分)80cm、下部99cm、上部の幅67cmです。

室町時代前期に彫られたものと考えられ、均整がとれて気品のある石仏としては志方随一といわれています。

    平成133月 加古川市教育委員会」

 『志方町誌』は、以上の説明の外に「もともとここに祀られたものであろう」と付け加えています。

    祖先の供養と来世の安寧を願ったのか?

この石仏について、以下の文は蛇足です。

勝手な想像ですから読み飛ばしていただいて結構です。

まず、このような見事な石仏は個人のものではないと思われます。

室町時代までの一般的に百姓は貧しく、個人でこんな立派な石仏をつくることはできなかったと考えるのが普通です。

それに、室町時代は、天変地変に見舞われた時代でした。

志方地方も例外でなかったはずです。

そんな時は、百姓たちは、阿弥陀仏や地蔵様に必死にお願いをするより外に方法がありませんでした。

それでも、多くの人々の命は失しなわれたのでしょう。

人々は、そんな苦境を和らげるために、そして来世での安寧を願い、祖先の供養のために村全体で阿弥陀像と地蔵像を造立したものと想像するのです。

 室町時代の、このあたりの人々の絆と必死さを感じるのです。

像が阿弥陀さんであり地蔵さんであるので、よけいにそんな想像をしてしまいます。

 ところで、この石仏と皿池との関係があるのでしょうか。皿池の歴史を知りたい・・・・

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志方町を歩く(232):四道辻地蔵堂と道標群

2012-02-27 08:53:49 |  ・加古川市志方町

062湯ノ山街道は、山中から東へ伸び志方町さらに投松峠から加古川へつうじていました。

湯ノ山街道から分かれて西牧のほうへ行く道がありますが、小野道です。

この小野道は、『志方町誌』によれば、有馬道(湯ノ山街道のこと)に起こり、西牧・永室・西中・東飯坂・東中・行常・大沢・細工所・野尻を経て中山新村加東郡界に至る、全長二里七町三十二間三尺野道路である」との記述があります。

たしかに後に紹介しますが、この道沿い道標が残っています。

しかし、前号で紹介した二つの永室に残る「おの」への道標は志方町誌のいう「小野道」より南の村中を走る道に沿っています。

小野道を紹介しているいろいろな記述も小野道に関して若干の混乱があるようです。

でも前号で紹介した「小野道」は山中から永室をとおり、志方小学校の少し北の所で南からの道と交差します。

ここから道は北へ二つに分かれています。西の道は法華道です。

法華道は、志方町から西飯坂・東飯坂・畑を経て法華山の山門までの法華山参りの祈りの道です。

東の道をとると天神山の東で一端落ち込み比較的低い峠をつくり、大宗を抜け志方町と細工所をつなぐ大切な幹線道でした。

そして、この道は細工所から更に北条方面へ、東へは野尻をとおり小野方面へと続いていました。

    

  四道辻地蔵堂と道標群

志方小学校北の道標は、旅人にとって大切な道標でした。

ここにはいくつかの道標があります。

まず上の二つの道標をご覧ください。

辻堂の左の大きな道標は「すぐ北条 左法華山」(大正七年 施主平田外有志)とあり、その右下に小さな道標があります。

若干読みづらいのですが「文化八(欠損)」「右 た(欠損)」「南無阿(欠損)」「左 ほ(欠損)」とあり、「右 た」の「た」は「たんば」で、「左 ほ」の「ほ」の続きは「ほっけ道」でしょう。

なお、この道標の横には「四道辻地蔵」(よどのつじじぞう)のお堂には四基の石仏があります。

中央の二基が道標で左の道が法華道で、右が「たんば道」であることを示しています。

ここは、昔のターミナルでした。

*写真:四道辻地蔵堂と道標

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志方町を歩く(231):永室の道標

2012-02-25 06:26:58 |  ・加古川市西志方

湯ノ山街道は、山中を少しでたところで、湯ノ山街道から分かれて西牧のほうへ行く道があります。小野道です。

この地点が小野道の起点で、ここにもかつて道標がありました。

この小野道沿は、西牧・永室(比室)を通り、志方町へ抜け小野へ至る生活道路です。

今日は、この道に残る二つの道標を紹介します。

  永室(比室)の道標

020ひとつは、長楽寺へと向かう道沿いにある道標(写真上)です。

文字を読んでおきます。

   すぐ ひめじ

   右 谷 ぢぞう

   すぐ おの いちば

蛇足ですが「すぐ」というのは近くという意味ではなく、「まっすぐ」の意味し、「すぐ ひめじ」は「このまま、まっすぐに行けば姫路に至ります」という意味です。

道標の周りは花壇になっており、地区の人々が大切に保存しておられるようでした。

  永室(構)の道標

006もう一つの道標(写真下)は、永室村(構)の中の道です。三差路にあります。

迷わないための道案内のようです。

   右 志方町

   左 をの

 「をの(小野)へ行くのは、左の道ですよ!」と丁寧に教えてくれています。

ここでも蛇足を書いておきます。「志方町」の読み方のことです。

明治2241日、志方町・西中村・西飯坂村・投松村・上富木村が合併して志方村が誕生しました。

「おや!志方町が合併して志方村になるなんて・・」と思われた方もおられると思います。

志方は交通の要衝であり、戦国時代・櫛橋氏は、ここに志方城を築いたのです。

かつて、志方は商業・政治の一大中心地でした。賑わいがありました。

そのため、ここは「村」ではなく、江戸時代、志方町(しかたまち)と呼ばれました。

くどくなりますが、「しかたまち」と読むことを、もう一度確認しておきます。

 *「志方町」については詳しくは「志方町を歩く(47)」をご覧ください。

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志方町を歩く(230):盤珪 ・ありのままの人生

2012-02-24 08:17:25 |  ・加古川市西志方

 原の仏性寺の中興に盤珪がかかわっていました。

最近小説『盤珪(寺林俊)』(神戸新聞出版センター)を読んだところですので、盤珪について紹介しておきたくりました。

詳しく、小説をお読みください。

盤珪・「ありのまま生きる」を説いた高僧

2384df6f元禄三年(1690)、晩年近い盤珪は郷里の網干(姫路市)に、三カ月にわたって説法をしました。

この間、詰めかけた信者は数万人にのぼり、農家の納屋から物置まで宿をとる人でいっぱいだったといいます。

69才の盤珪はありのままに生きる尊さをじゅんじゅんと説きました。

盤珪は、今の姫路市網干区浜田の医者の三男坊として生まれ、12才で読まされた儒教書「大学」に出てくる「明徳(めいとく)」の言葉にとらわれてしまいました。

その意味を儒者に聞くのでしたが、言葉の解釈しかしてくれません。

この「明徳」こそ、真実の生き方があると思われたのです。

それを体得するため、彼はすさまじいまでの修業をしました。

しかし、それらはすべて無駄に思えるようになりました。

自分はひどくむだ骨を折ったので、皆の衆には畳の上で楽々とまことの生き方に目覚めることを説いたのです。

他の人にはあまり座禅をすすめていませんでした。

むだ骨は折らせないという、この温かさに人が押しかけたのかもしれません。

人は、もともと、生まれもせず滅びもしない不生の仏心を持っているのに、知恵がついて、せっかくの仏心を悪に仕えさせてしまう。

だから「怒り腹立ちせず、欲しや憎しやの心なき時は、もう完全な自分を生きておりまする」と説きました。

彼は、やさしい言葉で話しました。

これが盤珪の不生禅ですが、座禅を強いず、公案も用いないユニークさで、禅の世界では異端の道を歩むしかなかったのです。

しかし、行く先々で大衆が盤珪の説法を待ち構えて聞き入りました。

盤珪は、求められるまま、気の向くまま各地を旅し、法名を与えた弟子は五万人あまりにもおよびました。

そんな中に田捨女(でんすてじょ)もいました。

元禄6年9月3日、盤珪は72才で死に臨みました。最後まで異端の誇りを貫いた人生でした。

*『播磨百人伝』・小説『盤珪』参照

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志方町を歩く(229):原のお薬師さん

2012-02-23 07:38:47 |  ・加古川市西志方

今、志方町の石造物を紹介しています。今回は、仏性寺の貴重な薬師如来坐像(写真)を紹介しましょう。

仏性寺は、「もと藤池あり、三木別所氏の支城があり天正の頃、兵火に焼失してし、寛保二年(1742)に現在の位置に再興された」と伝えられています。

   薬師三尊像

4f9e0bdc写真は、仏性寺の本尊として祀られているのは薬師如来坐像とその脇侍です。

仏性寺は、前号でも紹介したように、寛保二年に臨済宗の名僧である盤珪(ばんけい)禅師によって再興され、現在は臨済宗(禅宗)の寺院となっています。

これらの像を祀る本堂も小さく、かつて『加古川市史』の文化財編で一部が紹介されたことを除けば、近年まであまり注目されることはなかった寺であり仏像でした。

平成13(2001)に本堂が改修されました。

これらの仏様は、その時あらためて注目されるようになりました。

伏せ目の穏やかな顔立ち、彫の浅いしわの表現のために厚みが薄く感じられる体部、細かい螺髪(らほつ)などから平安時代の後期(11世紀後半)の如来像であることがわかりました。

また、脇侍の日光・月光菩薩は、修理により像容を損ねていますが、これらの仏様も平安時代後期の菩薩形立像の特徴を備えた優れた仏像です。

平安時代の三尊像が現在にまで伝わる貴重な仏像です。

これらの像から、天台系の規模の大きな寺院を想起させるもので、この地域の平安時代の仏教を考える上でたいへん興味深い仏像でとなっています。

なお、造内には台座裏に寛文10年(1670)の銘がある像高31.5センチの薬師如来の小像が納められています。

*『志方郷(第37号)』・『仏と神の美術‐中世いなみ野の文化財』(加古川総合文化センター)参照

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志方町を歩く(228):四尊笠塔婆

2012-02-22 08:15:33 |  ・加古川市西志方

仏性寺について『志方史誌』から主なカ所を紹介します。

  仏性寺

031寺(仏性寺)は、もとも藤池の地にありました。

そこに三木別所氏の支城があり、天正の頃、寺は支城と共に兵火にあい堂塔・寺宝をすべて焼失してしまい、寛保2年(1742正月に盤珪国師(ばんけいこくし)により現在の地に再興されたといわれています。

  山号寺号   医王山仏性寺

  本尊     薬師如来

  宗派     臨済宗妙心寺派

    四尊笠塔婆

この寺の本堂の裏に石造物がごろごろしています。そのうち本号では四尊笠塔婆(写真上)・石棺地蔵石仏・板碑型地蔵石仏(写真下)を紹介しましょう。

 説明板を読んでみます。

 「この笠塔婆は石英粗面岩製で、残っているのは方柱状の塔身だけである。

 銘文のある面を正面とすると裏面には仏座像を、右側面には合掌する立像を厚肉彫りしている。

037 正面の坐像は阿弥陀であるが、他は不明である。

銘文は、正面中央蓮華座の下に永徳四年1384とあり、南北朝時代の立像であることがわかる。  平成四年 加古川市教育委員会」

    北朝年号

「永徳四年」に注目ください。

時代は南北朝時代の石造物です。「永徳」は北朝の年号であり、南朝元号ではこの時、「元中」でした。志方地方が赤松氏の勢力下にあったのであるから当然でしょう。

  石棺地蔵石仏・板碑型地蔵石仏

「四尊笠塔婆」の側に石棺地蔵石仏(写真下後列右端)・板碑型地蔵石仏(写真下後列右端から二番目)があります。

いずれも室町時代の古い石仏です。

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志方町探訪(227):西飯坂、天満宮の道標

2012-02-21 07:28:01 |  ・加古川市西志方

『東播磨の道標を訪ねて(井原卓也著)』に西飯坂天神山の道標(写真)を、次のように紹介されています。

西飯坂、天満宮前の道標

023「右、めいしよみち」とあるように、播州松巡りなどの名所旧跡への案内がされている。

ちょうど天神山のふもとを東西にあぜ道が通っている。

この道をそれぞれの方向に歩くと、播州松巡りや、法華山に行くことができたのであろう。

道標の場所も少し高い所にあり、南側を望めば志方町を見下ろすことができる。

      左 ほっけ山

      右 めいしょみち そねかこ川(『東播磨の道標を訪ねて』より)

  西飯坂は交通の要衝

 少し説明を加えておきます。

左の「ほっけ山」とは法華山のことで、「めいしょみち」とは、石の宝殿・曽根の松・尾上の松・手枕の松(加古川市別府)などのことです。

最近、西飯坂の天神社に時々来ています。

西飯坂集落の地形に興味を持っています。

西飯坂の集落の西の道を北へ行くと法華山へ通じています。

巡礼の道です。

そして、集落の東の道を南へ行くと曽根・加古川方面へ通じていますが、北へ急ぐことにします。

細工所へと通じ、また西にそれると西飯坂の西を北へ抜けた道と再び合流します。

湯ノ山街道が東西に走り賑わいのあった頃、志方町を通り、西飯坂の東と西の道を巡礼者は法華山へと急いだのでしょう。

特に、志方・西志方の人々、そして東志方地域の人々は、巡礼の道以外に生活の道として西飯坂の東の道を行き交いました。

というのは、西飯坂の東の道は大藤山の山塊が西飯坂の集落の東でいったん大きく落ち込み谷をつくり、そこは道となり、昔から東志方地域と西・志方地域を結ぶ幹線となっていました。

西飯坂の東と西を走る道は、大藤山から東に伸びる山塊で二つに分かれがちな志方地域を結びつける役割を果たしていました。

地図でお確かめください。

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志方町を歩く(226):西牧・大歳神社の絵馬

2012-02-20 07:11:15 |  ・加古川市西志方

加古川市平岡町中野に残る「中野村・坪刈記録」は、大正13年の大干ばつについて次のように記録しています。

「植え付、628日初め、73日全部終了。

稲作は未曽有の大干ばつ(61日より716日、一時夕立のありしのみにして、821日まで降雨なし、50年ぶりの大干ばつ)・・・・」

加古川市と志方村西牧の空は、遠い距離ではあり安線。同じ空が広がっていました。

当然、西牧村も50年ぶりの大干ばつです。

こんな時は神様に「雨を降らせて下さい」と、お願いする以外にありませんでした。

菅原道真は農業(水)の神

 18日、別の取材で西牧の大歳神社を訪ねました。

 そこで、1枚の大正13年の大干ばつを描いた雨乞いの絵馬(写真)を見ましたので、いま志方の石造物の報告をしていますが、この話題を挟みます。

絵馬の主人公菅原の道真について少し説明しておきます。

農業にとって、池・水・雨はまさに神様でした。

菅原道真についての詳細な物語は、ここでは省きますが、道真は藤原氏の讒訴(ざんそ)にあい、突如大宰府に流されました。

道真は、延喜3年(903)、失意のうちに大宰府で亡くなります。59才の人生でした。

道真の死後、京都では天変地異がしきりに起きます。

旱天・流星・大地震、そして疫病などが続き、貴族たちは道真の怨霊が京の空に舞い戻って来たのではないかと噂し、動揺ははなはだしいものがありました。

このため、朝廷は神社を建立して道真の霊を慰めようとしました。

道真の怒りが雷神として現れたと信じた藤原貴族たちには恐怖でしたが、道真は農民にとって雷は雨と水をもたらし、稲の実りをもたらす神として全国にひろがりました。

   西牧大歳神社の絵馬

078大正13年は、未曽有の大干ばつの年になりました。

西牧のお百姓さんは、氏神に降雨をお願いしました。

その時の絵馬が大歳神社に懸かっています。

絵馬の雷を呼びおこしているのは、もちろん菅原道真です。絵馬の説明を読んでみ置きます。

   822日、大雨!

大歳神社は、往古より西牧村社として村民崇敬浅からず、年々春夏の祭礼を行い、五穀豊穣を祈り、また旱天に際しては雨を祈り、その恩恵をこうむる事がしばしばでした。

大正13年は6月末より9月下旬に至るも降雨なく溜池用水が不足しました。

村民は稲の稔の無くなることを嘆き、大歳神に17日の雨乞いをしました。

祈願を怠りませんでした。

満願の日、8月22日に大雨が降り農民一同よみがえりました。

西牧の人は歓喜に堪えず、神前にこの絵馬をかけ、神様の力とお恵みを後年に伝えます。

            大正十四年四月

                 西牧村中

*絵馬の説明は、わかりやすく書き改めています。

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志方町を歩く(225):藤池公民館前の地蔵さん

2012-02-19 09:26:18 |  ・加古川市西志方

以前「志方町を歩く」で湯の山街道(有馬道)を取り上げました。

もう一度、荒神谷から志方町間の湯ノ山街道を歩いてみます。

礒野道子さんは、「志方郷(第20号で)」に、このあたりの湯ノ山街道について寄稿されています。その一部をお借りします。

    すっかり変わった風景

051有馬道を訪ねて、荒神谷から投松峠まで、志方町を横断しながら昔の有馬道の面影を探して歩いた。

現在は「主要地方道・加舌川・姫路線」として舗装された広い道が走っているが、昔

は坂が多く道幅も三分の一位だった。

特に荒神谷は樹木がうっそうと茂り、よく曲がった道で山裾を曲がると何が出てくるかわからない。

追いはぎを恐れた旅人は、山中の人家が見えてくると、やれやれと思ったそうである。

大池の坂を降りるにつれて、志方盆地が眼前に開けてくる。

左手に大藤山を眺めながら東へ進む。

このあたりの道は面目を一新して昔の面影を見ることはできない。

古老に聞くと随分曲がっていたそうである。(「志方郷・20号」より)

   藤池公民館前の道標は語る

このあたりを通った湯ノ山街道は、圃場整備などで風景一変しており、順路を復元するのが不可能のようです。

でも、荒神谷から志方町までは比較的まっすぐな道であったと想像されます。

昨日(18日)、ちょうど雪が降っていた時間でした。原の交差点と志方町の皿池の間の藤池地区の公会堂前の道標を訪ねました。

四体の石仏(五輪塔含めて)が堂に並んでいます。おそらく元、このあたりにあった石仏をここにまとめて安置したのでしょう。

向かって、一番左のお顔がない仏さんは地蔵さんで、その地蔵さんに向かって右に「ありま」左に「本っけ山」とあります。

この地蔵さんが、もともとこの場所に安置されていなくても、このあたりにあったのでしょう。

「ありま」とあります。このあたりを湯ノ山街道(有馬道)が走っていたのです。

志方町までは、荒神谷→藤池→志方町と湯ノ山街道は比較的まっすぐに伸びた道のようです。

*写真:藤池公民館前の石仏(一番左の小さい石仏に「ありま・本っけ山」の銘がある)

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志方町を歩く(224):高御位山登山口の道標

2012-02-18 08:29:43 |  ・加古川市西志方

   

 是より十八丁

Dsc_0007写真の道標は、西志方成井の高御位山の登山口近くにあます。

「是より十八丁」と刻まれ、ここから高御位山頂までの距離が示されています。

去年の秋、登山口に車を止めて頂上を目指しました。

私事で申しわけないのですが、高血圧と不整脈で最近はめっきり運動不足です。

登り始めるとたちまち、息が苦しく後悔するはめになりました。

でも、「○○丁」と書かれた目印に励まされてゆっくり、ゆっくり頂上を目差しました。

頂上が十丁目と思い込んでいたものですから、「十丁目」の所に到着した時、またまた後悔・・・

でも、その日は十分すぎる休憩をとりながら、頂上までなんとか登ることができました。

成井の道標の「是より十八丁」の文字を読んでいたら、あるいは途中で登山を中止していたかもしれません。

  

  頂上まで十八丁、すべて神の宿る所

高御位山は神様の宿る山です。

『郷土誌(19号)』で神栄宣郷さんは高御位山について書いておられるので一部を紹介させていただきます。

「印南郡の人々が、最も早く神を祭った場所は、高御位山の山頂であると思はれるのであります。

だいたい古代の祭祀というものは.神社で行われたわけではありません。

神社などいう建造物のない時代から神に対する信仰はあり、その祭典は行はれていたのです。

神霊は樹木に宿り、また岩石にとどまりたまうというのが、原始からの思想です。

その樹木に紳霊が宿るとして祭る形式が、今も行はれるひもろぎであり、岩石に神がとどまりますといって祭ったのが、いわくらとして語られる祭祀遺蹟なのであります。

高御位山はいうまでもなく磐座(いわくら)のうちの、最もすぐれたるものの一つであって、その山の名は「高くうるわしく、すぐれたる磐座」という意味をあらわしたものであります。・・・・」

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志方町を歩く(223):赤松氏則の碑②

2012-02-17 07:22:19 |  ・加古川市志方町

 「志方町を歩く(124)」で「南朝正閏論」を復習をしておきます。

南朝正閏論

「南北朝正閏論(せいじゅんろん)」という言葉をお聞きなったことがあるでしょうか。

この問題の発端は、明治44115日の「読売新聞」の社説でした。

ここでは水戸学の南朝正当論から「学校の歴史の教科書で南朝と北朝を並べているのはおかしい」という論調でした。

これは、第二次桂内閣の時でした。

野党の立憲国民党は、この問題を倒閣運動に結びつけようと飛びついたのです。

桂太郎は、元老の山片有朋に相談して明治天皇の勅裁を受け、ここで南朝が正当であると決められました。

以来、足利尊氏は『逆賊』とされたのです。

昭和9年には、「足利尊氏は人間的なすぐれた人物である」と書いたために斉藤実(まこと)内閣の商工大臣は、辞職に追い込まれるという事件もおきました。

戦前、足利尊氏は完全に『逆賊』とされてしまいました。

      赤松氏則(範)南朝を支持

Dsc_0027  赤松一族は、足利尊氏方に味方しました。

ただ、円心の4男、氏則(氏範とも書く)だけは南朝方についていました。

西飯坂の公民館の裏に天神社があり、その境内の西側に大師堂があります。

そこを50㍍ばかりまっすぐに登ったところに、前号で紹介した「故赤松氏範公塔」があります。

塔の右側面には戒名まであり、墓碑のように見えますが、墓碑ではありません。

氏則(範)の顕彰を兼ねた慰霊碑です。

この塔は、明治37年から39年に建立されています。

明治時代以後、天皇は南朝が正当で、北朝は逆賊とされ、明治の終わりの頃南朝正閏論がおこり、法的にも南朝が正当であることが決められました。

赤松氏則(範)の塔が建立されたのは、おりから日本が日清戦争に勝利をおさめ、日露戦争にも勝利しようとしていた時代でした。

忠義・忠節という徳目は大いに奨励されました。

繰り返します。赤松氏一族・足利尊氏は逆賊とされました。

そんな北朝支持の赤松氏の中にありながら、氏則(範)は南朝を支持しました。

「故城主・赤松氏則(範)公」の碑は、このような時代を背景に建立されたのでしょう。

塔の左側面(写真)に顕彰文が刻まれています。

 *『志方郷(2号)』、「天神山城主・赤松氏範公塔」(文:松本光明)参照

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志方町を歩く(222):赤松氏則の塔①

2012-02-16 11:36:48 |  ・加古川市志方町

『志方町誌』の一部を引用させていただきます。

「・・天神山は標高123㍍の小さい山であるが、志方盆地の中央に孤立する山で、四方を見渡すに便利である。

今、頂上に愛宕神社があった跡があり、その境内が城址だとうことで、今も尚当時の石垣が残っている。

・・・・城主は赤松氏則(氏範とも書く)、永徳の頃の人、武勇あり、その後・・・至徳三年播州清水寺に討死す。・・・」

 赤松氏則については「志方町を歩く(101)」で若干説明していますので、復習しておきます。

赤松氏則(赤松円心の四男)

Dsc_0015赤松則村(円心)には四人の男子があり、一男は範資(のりすけ)、二男貞則(さだのり)、三男則祐(そくゆう)そして四男が天神山城の城主・氏則です。

氏則は、父円心の死後、三人の兄たちと不和となり、宮方につき兄弟間の争いとなり、氏則は、正平二四年(北朝応安二年・1369)に摂津中島で挙兵しました。

足利義満は、赤松則祐らに命じて氏則を攻撃させました。

氏則は敗れて、天王寺に逃れました。

そして、永徳三年(1383)氏則は、播磨清水寺(加東市)に立てこもりましたが、則祐の子の義則に攻められ、父子5人、郎党137人とともに自殺しました。

   赤松氏則の塔

『志方町誌』では、天神山城の城主を赤松氏則としていますが、詳細については分かりません。

氏則は、志方地方を支配した城主であり、支配者であったのかも知れません。今後の研究に待つことにします。

時代的に天神山城は赤松氏一族の誰かの支配の山城であったことは確かでしょう。

昨日(15日)、天神山へ登ってみました。

たかが、123㍍の山であり登山というほどのものではないだろうと登り始めたら、けっこうこう配があり山城に適した山で、しんどいプチ登山になりました。

 天神山登山は、急きょ思い立って登ってみたくなったためで、当初は山腹の赤松氏則の塔(写真)を撮りに出かけました。

*この塔については次号で紹介することにします。

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志方町を歩く(221):お清地蔵(おきよじぞう)

2012-02-15 22:19:42 |  ・加古川市志方町

お清地蔵の話は『志方町誌』でも紹介されていますが、主に『志方郷(15号)』の北本梅雄さんのご研究をお借りしました。

   お清地蔵(志方町南町)

Dsc_0002志方の南町の志方会館の前の道を少し南へ行き、右(西)に折れるとお堂があります。

お清地蔵(おきよ)を祀るお堂です。

お清地蔵には、こんな話があります。

昔この村に前田きよという信心深い親切な人が住んでいました。

ある晩(文政8917日)のことでした。(*文政8年‐1825年)

不思議な夢を見ました。

地蔵が夢枕に立って「わたしは村はずれを流れる溝に架かっている石の橋です。

大昔から橋になって村人のお役に立ってきました。これからは地蔵となって世の中のためにつくしたい・・・。

どうか私を起こしてください」

お清は、朝になるのを待ちかねて村はずれまでやって来ました。

すると、石の橋もあたりの景色も夢とそっくりでした。

あまりの不思議さに、村人ともに石橋を掘りおこし、すぐそばに立てて祀ることにしました。

石橋になっていた石には、お地蔵さんの像はありません。

が、村人は「お清地蔵」と呼んでお祀りをしています。

お参りする人もだんだん増えてきました。

 昨日も寒い一日でしたが、手押し車の婆さんがお参りをされていました。

明治3351日、その由来を石に掘って書き残しています。

大正145月にはお清さんの曽孫に当たる伊藤国松さんと妻のコハナさんが石造りの社を建立されました。

神戸でお住まいであった国松さんも夢でこの地に地蔵のあることを知られたそうです。

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志方町を歩く(220):馬橋地蔵

2012-02-15 07:56:38 |  ・加古川市東志方

015_2 法華山谷川は、小さい川ですが、東志方あたりは特に急流で、しばしば大氾濫を繰り返してきました。

昨年の94日(日)の出来事を神戸新聞のHPは次のようなニュースを掲載しています。

「・・・4日午後320分ごろ、加古川市志方町東飯坂で、救助中だった同消防本部中央消防署・志方分署の南節男消防士(53)が増水した法華山谷川に転落し、流された。

消防署員や消防団員、加古川署員が捜索しているが、見つかっていない。・・・・」

*南さんは後日、死亡が確認されました。

    

   馬橋地蔵  

  法華山谷川の氾濫を証明するかのような地蔵さんがあります。

東志方小学校の北の道を東中に向かうとやがて法華山谷川に架かる橋に出会います。馬橋です。

その馬橋のたもとに赤茶けたお地蔵さん(写真)が新しい祠に祭られています。

 説明がありますので紹介しておきます。

 「この地蔵は、舟形光背地蔵石仏で、室町初期の作品と思われます。

 いつの頃から馬橋のたもとにあったものか分かりませんが、全体が赤茶けており、馬橋改修の時、川底より出たものと言い伝えられています。」

 全長70㎝ 幅23㎝ 立像の高さ29㎝

        平成17年3月 加古川市文化財保護協会」

 いつの頃か、法華山が氾濫し、近くか上流にあったお地蔵さんが流され長い間川底に埋まっていたのでしょう。

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