ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

大河・かこがわ(316) かこがわと洪水(17)・加古川駅前の洪水

2020-08-22 09:45:27 | 大河・かこがわ

 昭和8年の加古川改修の後、大きな水害は経験していません。

 これは、たまたまそうであっただけで、偶然といえます。

 最近は「かこがわの水害」といえば、下の写真のように小規模なものでした。加古川駅前の洪水のようすを見ておきましょう。

     加古川駅前の洪水

 加古川駅前通り、火の見やぐらの見える所は、寺家町商店街の入り口付近です。

 写真の「神姫バスのりば」とあるのは、現在の「ケンタッキーフライドチキン店」のある場所です。

 写真の女性の姿から駅前商店街は床上50センチの水害でした。

 この水は、加古川本流水害ではなく、日岡山の北を流れる曇川(曇川:くもりがわ)の水が日岡山の西と本流の堤防の間を流れ、五ヵ井水から南へあふれだした水です。

 本流が切れていたら、こんな程度ではおさまりません。

 

 私たちは、「かこがわの洪水」といえば、このような小規模な水害を想像しがちですが、現在、地球を取り巻く環境は大きく変化しています。

 そして、各地に大きな被害を与えています。

 繰り返します。「かこがわ」が牙をむかなかったのは「たまたまの偶然」のことでした。

 ハザードマップ等を参考にして、自治体も私たち個人も災害と隣り合わせに生活していることに気を留めておくことにしましょう。(no5066)

 *写真:加古川市中心街の水害(昭和36年、加古川市教育委員会提供)

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大河・かこがわ(315) かこがわと洪水(16)・河川工事進む(2)・かこがわ改修工事完成

2020-08-21 10:53:38 | 大河・かこがわ

     河川工事進む(2)・かこがわ改修工事完成

 1933年、当初の計画(10年)を 大きく延長し、16年の長期にわたり加古川改修工事は完成し、竣工式は、11月19日午前9より加古川町大橋南の河原で挙行されました。

 官民あわせて千人が参列でした。

 その日、加古川町内は美しく飾られ、旗行列や提灯行列などで大変な賑わいとなりました。

 この長期にわたる工事は、600万円の巨費にものぼり、そして、この間に要した延べ人員は120万人で、死傷者も321人を出しました。

 この大事業を記念して、加古川改修記念碑(写真)が建てられています。

 また、改修工事完成を記念して、「川祭り(現在の加古川のもと)」を行うようになったのです。

 1934年(昭和9)11月、川祭りの第一日目に、加古川記念碑除幕式が盛大に行われました。

 記念碑は、加古川橋東詰めの春日神社のすぐ南にあるのですが、現在ではあまり知られることなく、ひっそりと川の安全を見守っています。(no5065)

 *『加古川市史(第三巻)』参照

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大河・かこがわ(314) かこがわと洪水(15)・改修工事進む(1)

2020-08-20 10:17:48 | 大河・かこがわ

       改修工事進む(1)

 加古川は、「河川法」により国の直轄事業として帝国議会で改修工事が決まりました。

 しかし、工事はなかなか始まりませんでした。

 工事への着手の順位をめぐって、全国で激しい競争が展開されたのです。

 加古川河川改修期成同盟は、帝国議会へ工事開始の請願をしました。

 ついに、大正7年度からの工事着手が決まりました。

 工事期間は、10ヵ年で、船頭(ふなもと・米田町)の南から荒井(高砂市)へ分流していた支流を締め切る工事を含む大改修工事でした。

 着工式は、1921年(大正10)日本毛織加古川工場の敷地で行われ、床次(とこなみ)内務大臣も出席しました。

 その後、関東大震災の復興・軍事予算などのため、治水予算は大幅削減がもくろまれ、工事は順調に進んだのではありません。

 工事が遅れれば、「明治30年の大洪水が再び起おこるだけでなく、近年発展しつつある沿岸工業地帯にも被害がおよび、さらに鉄道・山陽線を破壊し、わが国の重要な交通機関を途絶させる」等の理由をあげ、工事を計画通り進め、加古川改修工事が打ち切りになることがないよう陳情活動をおこないました。

 1926年(大正15)4月には加古川町付近が、そして、加古川新橋が竣工しました。

 1928年(昭和3)には東岸の東神吉まで、西岸の神野村西条まで竣工しました。

 これで総工事の8割が完成し、その後も、工事は続きました。(no5064)

 *地図の太い実線は、改修工事後の堤防(現在の堤防)・『加古川市史(第三巻)』参照

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大河・かこがわ(313) かこがわと洪水(14)・河川改修

2020-08-19 07:43:10 | 大河・かこがわ

       河川改修

 明治時代、「かこがわ」はしばしば水害をおこし、その度に河川改修の要求が高まりました。

 明治43年は、全国的に大水害にみまわれ、多くの死者がありました。

 国は、国の直轄事業として、すぐにでも工事を始めなければならない河川は全国に65あるとしました。

 そして、これらの河川のうち20を選び「第一期河川」としました。

 「かこがわ」は、利根川や木曽川とともに、第一期河川に組み入れられました。

 この時選ばれた第一期河川は、以下の20河川です。

 利根川(茨城・千葉)・信濃川(新潟)・淀川(大阪)・木曽川(三重)・吉野川(徳島)・九頭竜川(福井)・高梁川(岡山)・庄川(富山)・遠賀川(福岡)・荒川(東京)・北上川(宮城)・阿賀野川(新潟)・雄物川(秋田)・最上川(山形)・神通川(富山)・岩木川(青森)・富士川(静岡)・斐伊川(島根)・緑川(熊本)そして加古川(兵庫)

 1911年(明治44)9月4日、次のように官報に告示されました。

 兵庫県下加古川筋左岸加東郡福田村内大門村右岸河合村内復井村大門橋以下海ニ至ルマテ公共ノ利害ニ重大ナル関係アル河川ト認定シ本年九月十日ヨリ河川法ヲ施行ス

 「かこがわ」は、国の直轄事業として本格的改修工事が前進することになったのです。 

 河川法による総改修費は、3分の2を国が負担し、残りの3分の1は兵庫県の負担でした。(no5063)

*『加古川市史(第三巻)』参照 

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大河・かこがわ(312) かこがわと洪水(13)・河川改修要求なる

2020-08-18 10:03:01 | 大河・かこがわ

     河川改修要求なる

 明治29・30年は、水害にみまわれました。

 そのため、加古川の本格的改修の要求が高まりました。

 明治31年、加古郡・印南郡の17ヵ村は、「加古川河身改修期成同盟」を結成しました。

 しかし、1904年(明治37)の日露戦争が、それに水をさしたのです。

 経費節減のため河川改修実現への動きは頓挫してしまいました。

 1907年(明治40)7月から9月にかけて、台風が次々来襲し、大きな被害をもたらしました。

 これをきっかけに、ふたたび河川改修要求の運動に火がつきました。

 その後、河川改修の運動はさらに高まり、1907年貴族院・衆議院で「加古川は、天下の大川ではないが、その被害ははなはだしく、人民の苦悩は計り知れない。

 だから、関係人民の苦衷を察し、加古川に河川法を施行し、相当の改修をして、安心して暮らせるようにして欲しい・・・」とする河川改修の請願が採択されたのです。

 この請願は、3月13日の衆議院請願委員会に、そして、22日に衆議院本会議にかけられ異議なく可決されました。

 加古川の水害の深刻なことが、中央の帝国議会で認められました。

 河川改修は、確実に動き始めました。

 地図は、1903年(明治36年)測量の五万分の一の地形図です。

流路は、現在とだいぶ異なっています。(no5062)

*『加古川市史(第三巻)』参照

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大河・かこがわ(311) かこがわと洪水(12)・被害の大きかった明治30年の水害

2020-08-17 07:02:50 | 大河・かこがわ

   被害の大きかった明治30年の水害

 前号のブログ「明治29年の水害」の続きです。

 翌、明治30年の9月にも台風は加古川を直撃しました。

 被害は、前年を大きくしのぐ大災害となりました。

 死者8名、傷者31名、建物の流失倒壊383棟、破損浸水14,389棟、堤防破壊破損31,854間、道路破壊破損52,795間、橋梁流出破損838ヵ所で被害総額は1,057,000円にものぼりました。

 加古川流域の村々では、おりからのウンカの害にくわえ、収穫期に大水害を被ったため収穫のない田畑も少なくありませんでした。

 生活に困窮し、土地を手放す者も続出しました。

 土地売買の手続きが日々百件以上もあり、登記事務所は連日夜業をするほどであったといいます。

 これらの水害をきっかけに、加古川河川の本格的改修の要求がたかまったのです。

 それには、国庫の補助が必要でした。

 そのため、1898年(明治31)、加古郡・印南郡17町村は「加古川河身改修期成同盟」を結成しました。(no5061)

 *『加古川市史(第三巻)』参照

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大河・かこがわ(310) かこがわと水害(11)・明治29年の水害

2020-08-16 10:13:45 | 大河・かこがわ

    明治29年の水害  

 大雨の時、当然「かこがわ本流」の水位は高くなります。

 そのため、「かこがわ」の支流からの取り入れ口の水門は閉じられます。

 曇り川(神野町)に、それをみましょう。

(*曇り川:日岡山の北を流れる「かこがわ」の支流)

 曇り川は、ふだんはあまり流れがありません。曇り川は、曇った時だけ水があるところから「曇り川」の名が付けられたという説まであるぐらいです。

 しかし、長雨が続いた時には、ここに一挙に大量の雨が集まり濁流となります。

 こんな時は、「かこがわ」へ排水する水門は閉じられると、水の行き場がなくなります。

 曇り川の濁流は、曇り川が「かこがわ」に突き当たり、「かこがわ」の水門辺りから流れを南へ変え、大野・加古川・そして海岸部へと押し寄せ、かこがわの町に水害をおこしました。

 加古川町の水害史のパターンは、この例がほとんどです。

 『加古川市史(三巻)』を引用したい。

 ・・・・1896年(明治29)、1897年(明治30)の両年、かこがわ流域では、水害により深刻な被害がありました。

 明治29年には、8月から9月上旬にかけて前線性降雨や台風により水害が頻発しました。

 この時の状況について、9月10日付『神戸又新日報』は、次のように伝えています。

 *以下は、その記事の一部ですが書き変えています。詳しくは『加古川市史・三巻』をご覧ください。

 ・・・6日より、曇り川が氾濫し、加古郡西部加古川町・氷丘村・鳩里村等の各村一円は浸水し、氷丘村ごときは一村450戸のうち400戸が浸水し、 茫々(ぼうぼう)たる湖の如し。

 人々は、寺院または高地に避難し田面はことごとく没した・・・・(no5060)

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大河・かこがわ(309) かこがわと洪水(10)・築山(つきやま)

2020-08-15 11:15:26 | 大河・かこがわ

       築山(つきやま)

 先に、嘉禄元年(1225)、国包を襲った大洪水については、紹介しました。

 「この地(加古川市八幡地区)は、加古川が大きく蛇行し、特に洪水が多かったのです。

 国包には写真のような人工の築山(つきやま)があります。

 洪水時の避難場所です。

 宝暦六年(1756)、国包出身の長浜屋新六郎という人が、洪水で被害に困る住民のために私財を投げ打って築いたものだと伝えられています。

 当時は、水害のため飢饉の状態でした。

 この工事により、多くの貧しい人々が仕事を得て救われたとも伝えられています。

 後年、この築山に土地の人々が感謝の気持ちと安全への祈りをこめ築山神社を築きました。

 なお、この築山には近くから見ると一本のように見える大樹です。

 この木は、二本の榎が一本のムクノキを両脇から包み込むような形で成長して、三本あわせた木の周囲は7mにもなります。

 樹齢は、240年ほどで、築山を造ったときに植えられたともいわれています。

 樹木では、唯一の加古川市指定の文化財となっています。(no3059)

  *写真:築山とエノキ・ムクノキ

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大河・かこがわ(308) かこがわと洪水(9)・中津・大野村、升田堤建設にはんた~い

2020-08-14 10:18:59 | 大河・かこがわ

        中津・大野村、升田堤建設にはんた~い

 前回紹介したように、 流域の人々にとっての生活は、まさに「かこがわ」との対決の歴史でした。

 前回の復習です。

万治元年(1655)、姫路藩は、升田山から船頭(ふなもと・加古川橋西)にかけて、丈夫な堤防(升田堤)をつくり、水害を防ぎ現在の加古川本流の西側に広大な田畑を計画しました。

 この升田堤が完成すれば、その対岸の大野・中津村等の洪水の可能性が大きくなります。

 そのため、大野・河原・中津の百姓達は、藩主・榊原忠次に嘆願書を出しました。

 「・・・私たちの村々は、昔から水害の際は西側と同じように被害を受けてきました。

 ところが、この度の工事で右岸(西岸)だけが強くなり、左岸(東岸)が弱いままですから、一方的に被害が私どもへかかってきます。

 この度の工事を小規模にして、今後少しずつ高くしてはいかがでしょうか・・・」と。

 もちろん、この「升田堤建設反対」の要求は一蹴されました。(no5058)

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大河・かこがわ(307) かこがわと洪水(8)、「かこがわ」は暴れ川(2)・升田堤

2020-08-13 09:17:47 | 大河・かこがわ

     かこがわ」は暴れ川(2)・升田堤

 前回(「かこがわ」は暴れ川・1)の図(「正保播磨国絵図(解読図)」)を参照ください。

 池尻から下流に二つの大きな流れがあります。

 二筋の加古川は、二ヶ所の渡船が必要で旅人は難渋しました。

 それに、加古川は若干西に低い勾配をつくっています。

 特に、西加古川沿い人々は洪水に難渋しました。

 姫路藩は、ここを美田に変え藩の収入をはかりました。

 藩主・榊原忠次は、升田で西加古川をせき止め、船頭(ふなもと)までの堤(升田堤)の強化を命じたのです。

 (*升田堤:現在の升田から米田町船頭まで)

 この工事に動員された役夫は、60万ともいわれています。

 万治二年(1659)八月、工事がほぼ完成した時でした。暴風雨が襲ったのです。

 一夜のうちに堤は壊れ、元の河原にもどってしまいました。

 お上から、「この工事は重要である。人足が不足なら15~60才までの者をすべて動員せよ。異議を唱える者は追放せよ・・・」と、厳しい命令でした。

 さすがの堰も堤も短期間で完成しました。

 図は、「元禄播磨の国絵図(解読図)」です。

 下図のように、「升田堤」により加古川の流れは、大きく変わりました。

 しかし、洪水はその後も続きました。

 加古川は、まさに暴れ川でした。(no5057)

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大河・かこがわ(306) かこがわと洪水(7)・「かこがわ」は暴れ川(1)、二筋の流れ

2020-08-12 09:40:11 | 大河・かこがわ

        「かこがわ」は暴れ川(1)・二筋の流れ

 1600年、姫路藩を支配した池田氏は、地図の場所に高砂城・高砂町の建設をはじめました。

 この時、現在の「かこがわ」本流は支流であり、本流は現在の高砂市の西部を流れていました。

 絵図は、「正保播磨図絵(解読図)」の一部です。

 *正保(1644~1648)

 正保(しょうほう)播磨図絵では、平荘町池尻あたりから、ほぼ同じ大きさの二本の流れがあります。

 東の流れは東加古川、西の流れは西加古川と呼ばれていました。

 このように、「かこがわ」は、現在の流れと同じではなく古代から幾度となく、洪水を引きおこし、その流れを変えました。

 「かこがわ」の周辺に住む人々にとって、「かこがわ」は恵の川であるとともに、同時に闘いの対象でもあったのです。(no5056)

 *絵図:「正保播磨図絵(解読図)」

 

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大河・かこがわ(305) かこがわと洪水(6)・米田大洪水(応永32年・1425)

2020-08-11 10:18:35 | 大河・かこがわ

       米田大洪水(応永32年・1425)

 中世の地域の歴史は、はっきりしません。ほとんど史料が残っていないからです。

 そんな中で、米田の定願寺(じょうがんじ)の僧・鎮増(ちんぞう)が残した『鎮増私聞書』は、室町時代を知る貴重な記録であり、それに加古川の大洪水のことが登場します。

 ・・・・その年(応永32年・1425)の7月25日の夜半から雨がひどくなり、ついに加古川が氾濫しました。

 ・・・・

 加古川は、播州平野を流れる大河でございます。・・・・いったん川が暴れだすと手がつけられません。

 今回のような、大洪水は、近隣の人々が流されて亡くなるという大惨事に至ったのでございました。

 私も、いちおう避難しましたが、目の前を流れてゆく人々をみましても、どうすることができない、もどかしさがございました。

 人を救うのが僧侶のつとめであるはずですのに・・・

 しかしながら、この流死者を仏がお救いにならなかったのは、この者たちが悪行をつくって悪道におちるべき者だったからなのでしょうか。

 (この時代、このような考えは一般的でした)

ざっと見ただけで、千人以上の人が亡くなったのでしょう。

 *(『室町お坊さん物語(田中貴子)』(講談社現代新書)より

 なお、この頃、加古川の本流は、鎮増の住む米田から伊保崎(高砂市西部)へ流れていた。(no5055)

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大河・かこがわ(304) かこがわの洪水(5)・嘉禄元年(鎌倉時代)、大洪水が国包を襲う

2020-08-10 10:27:37 | 大河・かこがわ

      嘉禄元年(鎌倉時代)、大洪水が国包を襲う

 図は、「元禄播磨図会(部分)読解図』から、さらに現代の八幡町付近を残したものです。

 郡堺が描かれています。

 国包(くにかね)に注目してください。

 国包は、加古川東岸にあるが八幡町ではありません。不思議なことに現在でも加古川市上荘町に属しています。

 その昔、郡堺が決められた時(奈良時代)、「ここを加古川が流れ、印南郡と加古郡の堺にしたのではないか」と考えます。

 記録によると、国包は元加古川の西岸の村でした。

 村が移動したのではありません。

 嘉禄元年(1225)、この地を大洪水が襲い、川は集落を突き抜けました。そのため国包村は真っ二つになってしまったのです。

 古代より「かこがわ」は暴れ川であり、嘉禄元年以前も、以後も「かこがわ」は、しばしば流路を変えています。

 『風土記』の時代(奈良時代)と嘉禄元年(鎌倉時代)の直前の風景は同じではないでしょうが、古代の加古川の流れは、国包・八幡地区あたりで、大きく湾曲していたことは確かなようです。

そのため『風土記』の時代(奈良時代)、八幡地区は望理里(まがりのさと)と呼ばれていました。

 望理里は、湾曲した「かこがわ」加古川に沿った村々でした。

 国包には、洪水の時の避難所である築山(つきやま)が、今でも残っています。築山については、後日紹介しましょう。(no5054)

 *『加古川の流れ(建設省近畿地方局・姫路地工事事務所)』(1975)参照

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大河・かこがわ(303) かこがわと洪水(4)・ 加古郡と印南郡の郡境の語ること

2020-08-09 09:52:58 | 大河・かこがわ

       加古郡と印南郡の郡境の語ること

 地図は、「元禄播磨絵図(部分)解読図」から、現在の加古川市加古川町の部分だけを拡大したものです。

 地図の加古川村(現在の本町)・木村・友沢村・稲屋村とその他の村との間に郡境があります。

 この郡境は、聖武天皇の神亀三年(726)に創設されました。

 郡境を決めるとき海・やま・川などがその基準になったと考えられます

 その時、「かこがわ」は郡境に沿ったところを流れていたのでしょう。

 そして、「かこがわ」の左岸側(西側)は印南郡、右岸側(東側)は加古郡と決められました。

 ですが、なにせ「かこがわ」は暴れ川です。幾度となく大洪水をおこし、流路を変えました。

 流路が現在のように定まってからも、加古川村・木村・友沢村・稲屋村は印南郡のままで、長く変更されませんでした。

 江戸時代になり、これらの村々は印南郡に属しているとは言うものの地理的な関係から、加古川東岸の村々との経済的な結びつきを強め、何かと不都合なことがでてきました。

 そのため、明治22年4月1日、全国的に新しい町村合併が行われ、加古川村、鳩里村(友沢村・木村・稲屋村を含む)、氷丘村が誕生しましたが、その時、加古川村・友沢・木村・稲屋村は、加古郡に編入されました。

 「かこがわ」は、記録はあまり残されていませんが、洪水により幾度となく流路を変えたことを物語っています。(no5053)

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大河・かこがわ(302) かこがわと洪水(3)・旧流路の語ること

2020-08-08 09:14:41 | 大河・かこがわ

 奈良時代、中央・地方の政治の仕組みも整ってきました。

 地方には国司・里長等の地方官が置かれました。

 これら地方官の仕事は治安、なによりも農民から確実に税を納めさせることでした。

 政府は、税を確実にするために土地制度を整えた。これが条里制です。

 条里制は、七世紀の末には始まっていただろうと思われます。 

     旧水路跡は、何を語る

 条里制の土地があったことは確かめられています。

 しかし、土地だけでは田畑になりません。水が必要です。

 どのようにして水を得たのでしょうか。

 池から得たとも考えられが、池の遺構がありません。

 埋もれてしまったとも考えられますが、これだけ発達した条里制です。どこかで遺構が見つかってもよさそうなものです。

 考えられることは、「かこがわ」の水を利用することです。

  でも、「かこがわ」からの用水を造り作り、条里制の田畑に引いたとも思えないのです。

 「かこがわ」は暴れ川だした。「かこがわ」のような大きな川に堰をつくり水を引いたとも考えられません。

 この時代に大規模な用水作る土木技術はまだありません。

 「かこがわ」は、太古よりその流路を幾度となく変えています。旧流路を見てください。

 これら流路跡と条里制の遺構がたぶんに重なるのです。

 つまり、条里制の土地は「かこがわ」の旧流路を用水として利用したと考えるのが自然です。

 記録はないのですが、流路跡は「かこがわ」は洪水で氾濫し、流れを幾度となく変えたようです。(no5052)

 

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