加古川評定(1) 加古川に集まれ・・
天正五年(1577)秀吉は、岡山との境の上月・福原の小さな山城を陥落させた。
陥落させた上月城には、毛利に攻められ、お家再興を目指す尼子衆700人を入れた。
秀吉は、信長への報告のために、いったん近江安土に帰ったのである。十二月の中旬であった。
秀吉が播州を留守にしている間に、播州の諸豪族の間に不穏な動きが生じていた。
年が明けてしばらくすると播州勢のほとんどが毛利方に翻るという事態になった。
毛利の工作のためでもあるが、主に播州という土地柄にも原因があった。
秀吉軍は、福原・上月城を陥落させたが、播州の諸豪族は「これもつかの間で、やがて、毛利が奪還するであろう・・・」と考えていたし、播州は浄土真宗の影響が強く、本願寺に敵する信長を「仏敵」として、門徒衆が信長方に味方することを許さない地盤であった。
その上に、播州の諸豪族は、家門の上下・家柄という意識に縛られていた。信長・秀吉という筋目のない者の下に着くことをよしとしなかった。
この時、糟谷武則は?
この情勢に官兵衛は、秀吉に早期の播磨入りを要請した。
秀吉は、急ぎ播磨入りを決め、加古川で評定(会議)を開くことの触れを出した。
司馬遼太郎は、加古川評定の行われた加古川を『播磨灘物語』で次のように書いている。
『・・・場所は姫路ではない。姫路では西に寄りすぎる。加古川ということにした。加古川は播州の海岸線のほぼ中所(なかどころ)にあり、どの地方からやって来るにしても便利であった・・・』と地理的な利便性をその理由としている。
それだけとも思えない。
この時、糟谷武則はまだ加古川城の城主ではない。城主は兄の朝正である。そして、加古川評定の時は朝正、息子の友員(ともかず)そして、武則は三木城にいた。
ということは、加古川評定の時は加古川城の主人はいない状態になっていたのである。
秀吉としては、使いやすいことがその第一の理由であったと思われる。
秀吉は、7500人を率いて加古川の糟谷の館(加古川城)向かった。天正六年(1578)二月二十三日のことである。
この会議の焦点は、播州最大の勢力を誇る三木城主・別所氏がどちらに味方するかにかかっていた。
三木・別所氏が信長方に味方すればすんなり、他の領主もそれに倣ったであろうが、この加古川評定の始まる前に、別所氏は毛利氏への加担を決めていたようである。