「官兵衛がゆく」は、加古川地域での官兵衛の足跡を捜すためにまとめているが、少し遠くまで足を伸ばしすぎている。
そろそろ、纏めなければならないが、『播磨灘物語』で、一番印象的な官兵衛の幽閉と藤の花の話をぜひ紹介しておきたい。
以下は『播磨灘物語(三)』(講談社文庫)「藤の花房」の転載(一部)である。
藤の花房(『播磨灘物語』より
(官兵衛は、湿気の多い牢に捕らわれているが、とにかく死なずに生きていた)そういうときに、官兵衛のこの六尺の天地に重大な変化が発生した。
格子越しに見あげる牢のひさしに、ぽつんと薄緑色の輝くような生命がふくらみはじめてきたのである。藤の芽であった。
入牢して以来、庇のあたりには空しかなかった。おそらくこの牢屋の屋根のあたりに藤が蔓をはびこらせているのに相違なかったが、それがある夜、風のいたずらかなにかで、蔓が庇まで垂れたのであろうか。
その冬枯れの白茶けた蔓に、なんと芽が吹いたのである。世にあるときは無数の自然現象とその変化にとりかこまれて、しかも無関心でいた。まして山野に自生する藤などに関心が往くことなど、まずなかった。
しかし、いま官兵衛の目の前にある藤の芽は、官兵衛にとって、この天地のなかで、自分とその芽だけがただ二つの生命であるように思われた。
その青い生きもののむこうに小さな天があり、天の光に温められつつ、伸びることのみに余念もない感じだった。
官兵衛は、うまれてこのかた、生命というものをこれほどのつよい衝撃で感じたことがなかった。その者は動く風のなかで光に祝われつつ、わくわくと呼吸しているようであり、さらにいえば、官兵衛に対して、生きよ、と天の信号を送りつづけているようでもあった。
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生きよ!
朝、起きると、まっさきに藤をながめた。芽はすこしずつふくらみ、小さいながらの房もついているようだった。それを終日、飽くことなく、官兵衛は、ながめつづけているのである。
夜、青い芽が、「生きよ」と叫ぶことがあり、官兵衛は弾かれたように起きあがってしまったりする。夢であった。
しかし、夢とも思えないのは、弱りきっている官兵衛のこの肉体に、跳ね起きられるような力が残っているはずがないということであった。跳ね起きる力を湧かせるという以上、天から降りてきているこの芽は官兵衛にとってただごとではなかった。
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おれは生きるだろう
牢の庇に垂れている藤の蔓はいよいよ青い物を大きく弾かせ始め、それも最初はひと所だけが群がっていたものが、にぎやかになった。
(天運が、おれにめぐってきている) と、官兵衛は、毎日祈るような気持でそれを見つめている。
蔓が日光に温められ、ときに風の中で意思あるもののように動く。
「いのちよ」 と、叫びあげてしまっている自分に、官兵衛はときに気付く。藤の新緑が官兵衛にしきりに話しかけてくれている以上、宮兵衛も答えざるをえず、答えればつい叫びになってしまうのである。
そのうち、新緑のかたちが微妙な複雑さを見せはじめた。藤の生命のなかで、何事かがはじまろうとしているようであった。
(花の支度ではないか)
官兵衛がそのように事態を解釈したとき、かれは躍りあがりたいほどのよろこびを感じた。花がこぼれ落ちはじめるのではないか。
このころになると、官兵衛は自分の生命と藤の生命とが、一つになっているような実感のなかにいた。藤のあらたな生命が風に揺れれば自分も揺れるような実感がしたし、緑がいきいきとふくらむにつれて、自分のいのちも、息づきまでがみずみずしくなってゆく思いもした。
「もしも・・・」と、念ずる思いが、湧きあがるように体中にひろがった。官兵衛は、占いを立てた。
(もしこの蔓に花が咲けば、おれのいのちはかならずたすかる)ということである。
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やがてその藤に鈴のように花房がさがったとき、官兵衛は天が捨てていないことを心から知った。
(おれは、生きるだろう)と、しずかに思うことができたし、ふたたび娑婆に出て、人交割ができることに確信をもった。
藤の花は朝焼けの絶えたあとの色に似てあわあわとした紫色であった。
穂のまわりに、蝶がむれているようであった。
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まるで、オー・ヘンリー(O. Henry)の小説『最後の一葉(The Last Leaf)』を読んでいるようである。
*絵:牢の前に咲いた藤の花、『日本歴史文学館13・播磨灘物語』(講談社)より