ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

官兵衛がゆく(71):三木城落つ

2013-01-31 07:58:10 | 黒田官兵衛

  

  三木城主(別所長治)自害す!

Puaru_035「官兵衛がゆく・65」でもふれた大村合戦のあと、三木城はひどく衰えた。

三木の籠城戦は、一年十ヵ月つづいた。

その間、およそ一万人のうち八千人ちかくが生き残っていた。誰の目にも、落城は目前であることはわかった。

ほとんどの食糧補給のルートが止まった。

秀吉は、三木城に降伏をせまった。

返事が来た。

「ご憐憫をもって城兵を助けおかるれば、某(それがし・三木城主別所長治のこと)腹をきるべく相定め訖(おわんぬ)」という文面であった。

官兵衛は、そばにあってその文面を読んだ。

「涙が止まらなかった」という。

天正八年(1580)年一月十七日、別所氏一族が自害した。

城主・長治の辞世の句「今はただ 恨みもあらじ 諸人の 命に代わる わが身と思へば」であった。

この歌は、長治の正直な気持であったであろうが、末期(まつご)に「ながはると 呼ばれしことも いつはりよ 二十五年の 春を見ずして」と読んだともいわれている。

命をゆるされた城兵たちは、城を後にちっていった・・・・

    

   三木合戦で、播磨の中世はおわる

天正八年一月十七日、三木合戦は終わったが、この事件は播磨における中世の終わりでもあった。

以後、播磨の近世の扉がこじ開けられた。

<余話として>

現在、東播磨では秀吉の評価は高い。いわゆる「籠城の兵士たちに対して、戦後処理において秀吉は寛大であった」ことがその理由であろう。

 しかし、伝えられているように開城の日、本当に11名だけであったのだろうか。

 天正八年四月、石山本願寺蓮如は「・・(石山本願寺が、このまま)抵抗を続ければ最後は、有岡城や三木城同然になることはあきらかである・・・」と語っている。

 三木戦の最後の段階で、大量殺りくが行われた可能性もある。

*写真:別所長治像(三木城跡)

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官兵衛がゆく(70):くそたれ坂(稲美町草谷)

2013-01-30 00:04:41 | 黒田官兵衛

稲美町を散策していた時にこの坂の話を聞いた。

何とも不思議な「くそたれ坂」の名前を持った坂の伝承である。

この坂の話を紹介しておきたい。

   三木城への食料運搬ルート ・魚住の港から

Photo三木城に味方する野口城、神吉城、志方城が落城した。

三木城に籠城した人は、7500人と言う。

城内では、日に日に食糧事情は厳しくなった。 

三木城は、秀吉軍により取り囲まれている。 

丹生山(たんじょうざん)・淡河城(おうごじょう)も落城し、三木城へのほとんどの食糧補給のルートがとだえた。 

そして、高砂城が落城した後は、魚住城(明石市)のルートが細々と残されるばかりとなった。 

毛利勢は、魚住城を食糧基地とした。 

このことを知った秀吉は、魚住から三木への監視を徹底させた。 

『播州太平記』は、次のような補給コースを記している。 

魚住城から少し西の魚住町中尾(住吉神社のあるところ)付近から、現在の国道379号線沿いに北上し、神戸市岩岡に出て、さらに北上して稲美町蛸草(たこくさ)へ出る。 

そして、草谷から三木市別所町西這田(ほうだ)に入る。

三木城への15キロのコースである。 

    くそたれ坂 」

稲美町草谷の地蔵堂の近くで、あるお母さんから「くそたれ坂」(写真)の話を聞いた。

小学生の息子に教えてもらったといわれた。

たぶん、小学生は社会科の時間に、この話を先生から聞いたのであろう。

いまでは、地元でもこの話はあまり聞かれない。

草谷の地蔵堂(写真)の右の道が「くそたれ坂」である。

それにしても、ユーモラスな名前の坂である。

これは「魚住から三木城へ食糧を運んでいる時、草谷付近で突然の秀吉側の攻撃にあい、運搬の兵たちが慌てふためいて、恐怖のあまり脱糞してしまった」という伝承からつけられた名前という。

そんなことが実際にあったのかもしれない。 

地蔵堂のところの道は急な坂になっている。

草谷川とその先の小高い丘を越えれば三木城はすぐである。

*写真:くそたれ坂(地蔵堂の横の坂:稲美町草谷荒内)

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官兵衛がゆく(69):高砂城の戦い

2013-01-29 00:07:28 | 黒田官兵衛

野口城・神吉城・志方城と、加古川・高砂地方の三木城を支える城は、つぎつぎに落され、加古川・高砂地方で残っているのは高砂城だけにとなった。

高砂城の話が抜けていた。

『播州太平記』から高砂城の戦いを再現したいが、この本は物語性が多く、実態はよくわからない。

とにかく、高砂城は秀吉軍に敗れている。

   高砂城の攻防(『播州太平記』より)

Kakogawawoyuku_057秀吉は、三木城を攻めようと、三木城の東にある平井山に陣を置いて、三木城を兵糧攻めにする準備にとりかかった。

高砂城がじゃまになる。      

  高砂城主・梶原景行は、別所氏とは親密な味方であった。

景行は、毛利とひそかに連絡をとり、海上から加古川を登り、美の川を経て三木城へ兵糧を運びこもうとした。       

秀吉は、加古川の河口の今津(現在の尾上町)に軍と軍船を置き、海上を封鎖し、秀吉軍は、高砂城に攻めてきた。

しかし、梶原景行は、落ち着いていた。

やがて、毛利の援軍くることがわかっていた。

秀吉軍は、高砂城に火をつけた。城の多くが焼かれた。

毛利の援軍が波をけたててやって来た。

天正六年(1578)十月十八日、秀吉軍の二回目の攻撃が始まった。

秀吉軍には油断があった。

秀吉の兵は、梶原軍と毛利軍に挟まれ、ほとんどが打ち取られ、残った兵は今津へ逃れたという。

    高砂城落ちる

この大勝利に気をよくした毛利軍の吉川元春と小早川隆景は、「この勢いで、三木へ攻めよせ、秀吉軍をはさみうちにすればかならず勝てる」大将で藩主の毛利輝元に進言したが輝元は、そうしなかった。

「まず本国へ帰り・・・兵糧をととのえてから三木城へ運送する方がよかろう。兵糧さえあれば、守りの固い三木城のこと、攻めおとされることはない」と、毛利軍は帰国してしまった。

平井山の陣でこの知らせを聞いた秀吉は、くやしがった。

さっそく、室津・坂越(さこし)・網干・飾磨の港に番船をおいて、毛利軍の通路をたち切り、三たび高砂城を攻めた。

高砂城は、毛利軍が帰国したばかりで余力はなかった。

景行は、長い籠城は望めないと判断し、一族を残らず三木城へつかわし、自分は髪をそり、龍庵と名を改め、鶴林寺にこもったという。

その後の龍庵について知っている者はだれもいない。

    天正七年十月段階で秀吉側についたか?

008梶原景行は、天正七年七月段階では三木・別所に属していた。

ある記録によれば同年10月末には秀吉側に属している。

高砂市観光協会は、梶原一族の墓石の説明には「・・・天正七年、(高砂城の)最後の城主景秀公は、黒田官兵衛の紹介により羽柴秀吉に帰順した・・・」と書いている。

一般に流布されている高砂城の物語は、ともかくとして、高砂城の最後は、秀吉側についたようである。 

  高砂城は、現在の高砂神社の場所か!

高砂城の場所であるが、小松原(高砂市荒井町小松原、神社三社大神社境内)に、梶原氏の城があったと言われているが、『播磨鑑』『播州古城記』に「池田輝政は、梶原の城のあとに高砂城を築いたと」書いている。輝政は、江戸時代のはじめの頃、高砂神社の場所に高砂城を築いている。

また、高砂神社に伝えられたている古文書に「輝政は、神社の北西にあった古い城跡が地の利が悪いので今の場所に城を築いた・・・」とあるので、三木合戦の頃、梶原氏の高砂城は、今の高砂神社の場所にあったと思われる。

*写真上:十輪寺にある城主・景行ら梶原一族の墓石

 〃 下:小松原の三社大神社境内にある旧・高砂城跡を示す石碑

 

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官兵衛がゆく(68):余話・湯乃山街道

2013-01-28 00:01:20 | 黒田官兵衛

官兵衛がゆく(67)」で、「(官兵衛は牢を出たが)体力をつけなければならない。有馬の湯の「池坊(いけのぼう)に行った。

 そして、官兵衛は、有馬に来てまだ一カ月しかたっていなかった。体力も十分回復していなかったが、平井山(三木市)へもどった。じっとしておれなかったのである。

官兵衛が(平井山の)陣に戻ると、家来たちは狂ったように喜んだ。泣きだす者もいた」と書いた。

ここで紹介しておきたいことがある。

伊丹から有馬へ、そして有馬から平井山(三木)」への道のことである。

湯乃山街道(ゆのやまかいどう)

 Photo湯乃山街道は、三木からさらに西へ姫路まで繋がっている。加古川市の北部を通る。

 その昔、摂津と播磨を結ぶ道は、海岸部の山陽道(江戸時代の西国街道)ばかりではなかった。

 湯乃山街道である。有馬温泉を通るため、そう呼ばれる山陽道の裏街道である。

 湯治客ばかりではなく、多くの人が利用した。

 特に南北朝の時代、播磨と西摂津を制した赤松氏がこの道を重要視し、京都への軍事道路として整備した街道である。

 湯乃山街道は、京都・大阪方面からから有馬・三木そして加古川へ、そこで加古川を渡り、井ノ口・都染(つそめ)・薬栗(くすくり)・山角(やまかど)の各村を、それから志方町・姫路へと湯乃山街道は、さらに伸びていた。

 加古川市の上荘・平荘・国包・宗佐等の各村々は、湯乃山街道沿いに発達した。

 湯乃山街道を人々は行きかった。物や情報が動いた。

 この街道沿いに、三木城・志方城、そして名刹・報恩寺(現:平荘町)があるのも頷ける。

 信長・秀吉の時代、三木合戦では、街道沿いの村々は、兵(つわもの)の喧騒で満ちた。

 昔、湯乃山街道沿いの村々には賑わいがあった。上荘・平荘の村々は、鄙の村ではなかった。

 官兵衛が平井山へ急いだ道はこの「湯乃山街道」であった。

 以下、蛇足である。

姫路から官兵衛の妻の実家・志方へは、湯乃山街道が一番便利であった。官兵衛は元気な頃、この道を何回となく歩いたとであろう。

 「志方城は三木方であるため、人目をさけて夜が多かったのではないか」と想像する。

*写真:旧、湯乃山街道(国包あたり)

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官兵衛がゆく(67):官兵衛の幽閉⑥・平井山(三木)へもどる

2013-01-27 08:06:30 | 黒田官兵衛

天正七年(1579)十一月十九日有岡城(伊丹城)は落城した。

官兵衛は、牢で生きていた。

官兵衛は、駈けつけた栗山善助らと共に大手門の外に出て、本営で指揮に当たっていた織田信澄にあいにいった。

信澄に、ことの次第を公認してもらった。そして、信長・秀吉に伝えられた。

官兵衛の髪は抜け、四肢は硬くミイラのようであった。

  

    有馬にて

Photo体力をつけなければならない。

有馬の湯の「池坊(いけのぼう)」に行った。

余話である。

伝承では、神亀九年(742)、行基が有馬が温泉寺をたて、人々の湯治場として施設をつくったという。

そして、湯治場は、温泉寺の宿坊として発達したために宿泊所は「坊」と名前がつけられた。

・・・・

官兵衛は、湯治の間に栗山善助から、小寺が荒木に官兵衛を売ったこと、官兵衛の音信が絶え、信長が官兵衛が荒木に寝返ったと思いこみ、信長に人質として出した息子の松寿丸を殺すように秀吉に命じたこと、竹中半兵衛がひそかに松寿丸を半兵衛の美濃菩提山の家にかくまったこと、半兵衛は、平井山(三木市)で五ヵ月前に亡くなったことなどを聞かされた。

その時官兵衛は、顔を抱え込むようにうなだれて泣いたという。そして、その日から数日寡黙になってしまった。

官兵衛は、「半兵衛の外に誰が、松寿丸をかくまってくれたであろう・・・・誰もいない・・・」と、何度も何度も呪文のように唱えた。

半兵衛は、わずか三十五年の人生であった。

   

    平井山(三木)

時代は、ガラガラと音を立てながら動いていた。

官兵衛は、有馬に来てまだ一カ月しかたっていなかった。体力も十分回復していなかったが、平井山(三木市)へもどった。じっとしておれなかったのである。

官兵衛が陣に戻ると、家来たちは狂ったように喜んだ。泣きだす者もいた。

秀吉は、官兵衛が近づいてくるのをまっていた。官兵衛は脚を引きずっていて、歩行が困難だった。

秀吉の方から近づいてきた。

秀吉は声を出して泣いた

「命一つ、せめてのことだった」と言ったが声にならなかった。

鼻水も流していた。

・・・・

その後、部屋に入り、いろいろと話した。

「ところで、今日から黒田だな・・・」と秀吉は、笑いながらいった。

官兵衛は、城主「小寺」からもらっていた「小寺」から、元の「黒田」姓にもどした。

小寺家は、没落した。

*写真:現在の有馬温泉寺

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官兵衛がゆく(66):官兵衛の幽閉⑤・村重にげる

2013-01-26 15:08:45 | 黒田官兵衛

   有岡(伊丹)城、落城

011荒木村重が謀反をおこして、有岡城に籠ってから一年近くになろうとしていた。

謀反にふみきったとき、彼の脳裏には、荒波をけたてて東へと進み来る毛利の援軍の勇姿があった。

しかし、最初から計算がまちがっていた。

毛利が織田軍に勝利をするとなると、少なくとも兵力において信長軍をこえる七万を必要とした。

しかし、毛利は船で来る。一合戦のために送ることのできる兵力はせいぜい三千であり、この兵力では、勝負にならない。

それでも村重は、毛利の援軍をまった。

(援軍はこない)

天正七年(1579)八月という月ほど村重にとってつらい月はなかった。

八月も終わりになると「毛利はこない」ということがはっきりしてきた。

重臣たちも「どうなさるおつもりか・・・」と村重に問いつめるが、「援軍は必ず来る」というばかりであった。

  

   捨てられた女・子どもたち、そして村重の逃亡

家臣の中にも「村重を殺して、その首をみやげに織田方へ走る」という雰囲気もあった。

村重は極度に恐れた。この恐怖の中で、村重は常の心をなくしたのか、九月二日の夜、城を抜け出してして、尼崎城に籠ってしまった。

それでも、落城が十一月十九日であるから、村重が城から消えて、なお二ヵ月以上戦いはだらだらと続いていた。

十一月十九日、伊丹城の城代・荒木久左衛門以下数人が城から出てきた。

続いて丸腰の城兵がぞろぞろ出てきた.女・子どもは一人もいない。

女・子どもたちは、人質である。

彼らは尼崎城へむかった。

しかし、尼崎城に籠った村重は久左衛門たちに会うことを拒否した。城門は、開かなかった。 

家臣たちは、城門の前で必死に城主・村重の名を叫び続けたのであろう。

その時の夕日を司馬氏は『播磨灘物語』で、次のように書いている。

「・・・落日というのは、壮観というほかない、はるか明石海峡の方角にあって、淡路の島影は紫に染まり、沖が銀色に輝いて、その中を熟れきった太陽が音をたてるように落ちてゆくのである」と。

説得は失敗した。このまま帰れば、彼らには死がまっている。

途中、城兵は消えた。久左衛門たちも「殺される」という恐怖に勝てなかったのか、有岡城に妻・子どもを残したまま、すべての者が消えた。

信長は、このことを許さなかった。

その後、待っていたのは、女(妻)たちの磔刑であった。100人を超えた。子ども・小者は500人以上焼き殺された。そして、京都の人質はすべて切られた。

・・・

その後、荒木村重は、尼崎城を脱出し行くへが知れなくなった。

*写真・有岡城本丸跡

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官兵衛がゆく(65):三木城攻め③・食糧戦

2013-01-25 00:08:52 | 黒田官兵衛

   食糧戦    

18b6389e毛利氏は、播磨への援軍はなかったが食糧の運び込みは、誠実に努力した。

荒木村重の信長からの離反により、毛利方は花隈城(神戸市)に海岸から米俵を陸揚げした。

そして、丹生山(たんじょうざん)から三木城へ食糧を運び込んだ。

丹生山は、標高五百十五メートルで、山上には大寺院の明要寺があった。

裏六甲の山波の一角で、南側を山田川(志染川の上流)が流れ、摂津と播磨を結ぶ交通路に面していた。

この明要寺を基地として、尾根をつたい三木城へ食料を運びこんだ。

土地の百姓も護衛の雑賀衆(さいがしゅう)も一俵ずつかついで、毎夜、三木城へ運んだのである。

やがて、この秘密の補給路も秀吉方も発見され、激しい戦い(丹生山の戦い)はあったが潰された。

わずかに残されていた丹生山からの食糧補給も途絶えた。

   最後の戦い・大村戦(天正七年・1579

三木城の攻防戦は、あくまでも補給が要になっている。

食糧の補給が絶えれば、戦いはそれで終わる。

毛利は、高砂から加古川をのぼり、美の川から三木城へ食糧を運びこもうとした。

それを阻止しようとする秀吉軍と戦った大村戦(天正七年九月十日)は、三木城の最後の大規模な戦闘だった。

このとき出撃した三木方の人数は、秀吉が投入した兵力とさほど大きなひらきがなかった。

その人数、三千であった。

しかし、三木軍の兵は歩くのがやっとという状態で、秀吉の兵がいきいきと動くのにひきかえ、いかにも飢餓がせまっていることがだれの目にもはっきりとした。

それでも、別所衆はよく戦った。

この大村合戦以後、三木側からの本格的攻撃はなかった。

城内は、すさまじいまでの飢餓地獄となった。

*絵:「三木合戦絵図」にある丹生山の戦い(三木・法界寺)

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官兵衛がゆく(64):官兵衛の幽閉④・藤の花

2013-01-24 07:40:40 | 黒田官兵衛

「官兵衛がゆく」は、加古川地域での官兵衛の足跡を捜すためにまとめているが、少し遠くまで足を伸ばしすぎている。

そろそろ、纏めなければならないが、『播磨灘物語』で、一番印象的な官兵衛の幽閉と藤の花の話をぜひ紹介しておきたい。

以下は『播磨灘物語(三)』(講談社文庫)「藤の花房」の転載(一部)である。

    藤の花房(『播磨灘物語』より

33e13e9b(官兵衛は、湿気の多い牢に捕らわれているが、とにかく死なずに生きていた)そういうときに、官兵衛のこの六尺の天地に重大な変化が発生した。

格子越しに見あげる牢のひさしに、ぽつんと薄緑色の輝くような生命がふくらみはじめてきたのである。藤の芽であった。

  入牢して以来、庇のあたりには空しかなかった。おそらくこの牢屋の屋根のあたりに藤が蔓をはびこらせているのに相違なかったが、それがある夜、風のいたずらかなにかで、蔓が庇まで垂れたのであろうか。

その冬枯れの白茶けた蔓に、なんと芽が吹いたのである。世にあるときは無数の自然現象とその変化にとりかこまれて、しかも無関心でいた。まして山野に自生する藤などに関心が往くことなど、まずなかった。

しかし、いま官兵衛の目の前にある藤の芽は、官兵衛にとって、この天地のなかで、自分とその芽だけがただ二つの生命であるように思われた。

その青い生きもののむこうに小さな天があり、天の光に温められつつ、伸びることのみに余念もない感じだった。

官兵衛は、うまれてこのかた、生命というものをこれほどのつよい衝撃で感じたことがなかった。その者は動く風のなかで光に祝われつつ、わくわくと呼吸しているようであり、さらにいえば、官兵衛に対して、生きよ、と天の信号を送りつづけているようでもあった。

・・・・・

     生きよ!

朝、起きると、まっさきに藤をながめた。芽はすこしずつふくらみ、小さいながらの房もついているようだった。それを終日、飽くことなく、官兵衛は、ながめつづけているのである。

夜、青い芽が、「生きよ」と叫ぶことがあり、官兵衛は弾かれたように起きあがってしまったりする。夢であった。

しかし、夢とも思えないのは、弱りきっている官兵衛のこの肉体に、跳ね起きられるような力が残っているはずがないということであった。跳ね起きる力を湧かせるという以上、天から降りてきているこの芽は官兵衛にとってただごとではなかった。

・・・・

    おれは生きるだろう

牢の庇に垂れている藤の蔓はいよいよ青い物を大きく弾かせ始め、それも最初はひと所だけが群がっていたものが、にぎやかになった。

(天運が、おれにめぐってきている) と、官兵衛は、毎日祈るような気持でそれを見つめている。

蔓が日光に温められ、ときに風の中で意思あるもののように動く。

「いのちよ」 と、叫びあげてしまっている自分に、官兵衛はときに気付く。藤の新緑が官兵衛にしきりに話しかけてくれている以上、宮兵衛も答えざるをえず、答えればつい叫びになってしまうのである。

そのうち、新緑のかたちが微妙な複雑さを見せはじめた。藤の生命のなかで、何事かがはじまろうとしているようであった。

(花の支度ではないか)

官兵衛がそのように事態を解釈したとき、かれは躍りあがりたいほどのよろこびを感じた。花がこぼれ落ちはじめるのではないか。

このころになると、官兵衛は自分の生命と藤の生命とが、一つになっているような実感のなかにいた。藤のあらたな生命が風に揺れれば自分も揺れるような実感がしたし、緑がいきいきとふくらむにつれて、自分のいのちも、息づきまでがみずみずしくなってゆく思いもした。

「もしも・・・」と、念ずる思いが、湧きあがるように体中にひろがった。官兵衛は、占いを立てた。

(もしこの蔓に花が咲けば、おれのいのちはかならずたすかる)ということである。

・・・・・

やがてその藤に鈴のように花房がさがったとき、官兵衛は天が捨てていないことを心から知った。

(おれは、生きるだろう)と、しずかに思うことができたし、ふたたび娑婆に出て、人交割ができることに確信をもった。

藤の花は朝焼けの絶えたあとの色に似てあわあわとした紫色であった。

穂のまわりに、蝶がむれているようであった。

・・・・

まるで、オー・ヘンリー(O. Henry)の小説『最後の一葉(The Last Leaf)』を読んでいるようである。

 *絵:牢の前に咲いた藤の花、『日本歴史文学館13・播磨灘物語』(講談社)より

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官兵衛がゆく63):官兵衛の幽閉③・信長の命令「松寿丸を殺せ」

2013-01-23 08:34:38 | 黒田官兵衛

  松寿丸を殺せ

033官兵衛が有岡城に着くや牢に閉じ込められた。

この瞬間から官兵衛の消息が突如消えた。

さまざまな噂がながれた。

「裏切った」と言うのが、信長への報告者の解釈であった。

・・・織田方の空気が、荒木村重の寝返りにいかに緊張し、疑心暗鬼になっていたからである。

信長からの命令は秀吉に下達された。「官兵衛の息子・松寿丸を殺せ・・・」と言うことであった。

この使者に応接した秀吉の側に竹中半兵衛がいた。

「(半兵衛は)このこと、拙者が仕りましょう」と即座にいった。「このこと」とは長浜に行って官兵衛の子、松寿丸を殺すという仕事である。

半兵衛は、官兵衛が裏切ったとは考えなかった。考えられなかったのである。

半兵衛この時、労咳(肺結核)がかなり進み、衰弱していた。

板ごしに乗って長浜城へ向かった。

「松寿丸を助けてやろう・・・」と思っていた。

半兵衛は、自分の故郷の(美濃)の菩提山を考えていた。

松寿丸を菩提山に預け、半兵衛は播州三木の平井山の陣へもどった。

    

   信長は不徳の人

 松寿丸が、菩提山でかくまわれている間、官兵衛は有岡城の牢に繋がれていた。

有岡城落城とともに官兵衛は助け出されたのである。

この間の話は感動的でNHKの大河ドラマでも大きくとりあげられることであろう。

話は播磨から遠ざかっている。ここでは、先を急ぎたい。

 有岡城は、信長の攻撃の前に敗れ、村重は、無様にも家来・家族を捨て、一人落去したのである。

 信長は、激怒した。残った家臣・女、そして子供を磔にした。

 『播磨灘物語』では、この時の地獄の風景について官兵衛に語らせている。

「・・・・信長が村重の妻妾及び党類の妻子を大虐殺下と言う報告は、官兵衛門の心を、木枯らしのなかの枯れ芦のように、おののかせてしまった。・・・天下は、信長を慕うか。慕わないであろう。信長は徳を持って化せねばならない段階にきているのに、逆に“信長の世は、長くない”と官兵衛はおもった・・」と。

    

竹中半兵衛死す

官兵衛は裏切っていなかった。報告が信長に伝えられた。

信長は「まずい」といったという。

『黒田家譜』では「官兵衛に対面すべき面目なし」といったと記している。

官兵衛がまだ獄中にいた暑い盛りの六月十三日、竹中半兵衛は三木の平井山で死んだ。

半兵衛は、その後の官兵衛、松寿丸(黒田長政)については知らないまま死んだのである。

*写真:竹中半兵衛の墓(三木市)

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官兵衛がゆく(62):三木城攻め②・平井山の戦い

2013-01-22 08:56:13 | 黒田官兵衛

三木方、平井山の戦いで大敗

17a342f4_2 神吉城・志方城が陥落した。

総大将の信長の長男・信忠は三木の本城攻撃を秀吉の命じ、八月十七日京都へ引きあげた。秀吉側の本陣は、三木城の北、約二キロメートルの平井山においていた。

平井山は、三木城を見下ろせる絶好の位置にある。

そして、秀吉は、図のように付城(つけしろ)を築き、三木城をとりかこんだ。

しかし、秀吉側も兵力に余裕がなかった。

三木城側も毛利の援軍を待つ作戦をとり、お互いに動かなかった。

しかし、この戦いが始まって間もなく、予想もしなかった事態が発生したのである。

先に紹介したように、荒木村重が信長に反旗を翻した。

三木側としては、反対に絶好の機会であった。荒木の城は伊丹にある。荒木が裏切ったとなると、信長は荒木がじゃまになり、三木への支援が鈍ってしまうのである。

三木側としてもこの好機を逃がさなかった。

十月二十一日、三木城中で評定が行われ、平井山攻撃が決まった。

ただ、秀吉側をおびき出そうという意見もあったが、三木側から平井山本陣を急襲するという強硬路線が採用された。

平井山の合戦は、十月二十二日、午前六時頃にはじまった。

平井山上からこれを眺めた秀吉は別所側の無謀な攻撃をよろこんだ。

夜戦ではない。正面から挑んでくる。

別所側の動きはよくわかった。それに、「別所軍は、十町ほどの距離にある。人も馬も疲れる」と読んだ。

結果は、三木側は蹴散らされ、多くの兵を失った。

    

   せまる飢餓

以後、三木城は、ますます毛利の援軍を待つようになり、城内に籠ってしまう。

しかし、援軍は来ない。

復習になるが、平井山戦の少し前に、岡山(備前・備中・美作)を支配する宇喜多直家が毛利を裏切って信長方に走っている。

陸路、毛利の援軍は期待できない状況であった。

秀吉軍の包囲網は、じわじわと三木城を攻め上げた。

三木城内には飢餓が迫っていた。

なお、平井山の本陣であるが、三木市の案内板の建つ場所ではなく、もう少し南の尾根にあったと言われている。

案内板の位置からは、三木城がみえにくい。

*図:三木の包囲網(英語版で、申し訳ありません)

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官兵衛がゆく(61):官兵衛の幽閉②・藤兵衛の策略

2013-01-21 07:55:49 | 黒田官兵衛

官兵衛は有岡城(伊丹城)の荒木村重の謀反を聞いた時、三木の平井山にいた。

平井山については、次号で取り上げる。

   御着城主・藤兵衛の策略

021村重の謀反を知った時、「御着城主の小寺が村重になびくのではないか」また、「村重が毛利側につけば、三木城は、東は村重から西は主家の小寺から挟み撃ちになる・・・」という悪夢が頭をよぎった。

平井山をはなれ、姫路城を目指した。

少し説明がいる。姫路城は、秀吉に進呈した城であったが、その後、秀吉は写書山を根拠にし、三木城攻めのため、さらに平井山に移っていた。この時、姫路城は父(職隆)が入っていた。

官兵衛は、御着城へ行った。

城主・藤兵衛(政職のこと)は、気持ちはすでに織田から毛利へ転換していた。

官兵衛は、小寺が毛利に着く不利を必死に説いたが、藤兵衛の気持ちは変わらなかった。

官兵衛は、伊丹の村重の説得に出かけるという。この時、官兵衛は、村重を説得できると考えていた。

小寺は、すでに官兵衛を見捨てて、官兵衛を殺そうと考えていた。

しかし、官兵衛をここで殺せば姫路城の官兵衛の父・職隆が黙っているはずはない。御着城と姫路城に分かれて争いとなるのは目に見えている。

藤兵衛は、策をろうした。

官兵衛にいった。

「荒木のことだが、わしが織田を見限ったのは、荒木への義理があってのことで、そなたが荒木の心を変えることができれば、わしも従来通り織田につきたい・・・」

官兵衛は、単身有岡城へ出かけた。

その裏で、藤兵衛は荒木村重へ急使を走らせていた。

「貴方の方へ、官兵衛が行くから、捕らえて殺してほしい」という内容であった。

藤兵衛が、官兵衛を売ったのである。官兵衛は、藤兵衛がそこまで考えているとは疑っていなかった。

   官兵衛、幽閉される

官兵衛が有岡城に着くや、即、牢に閉じ込められた。

この瞬間から官兵衛の消息が突如消えた。

さまざまな噂がながれた。

一番、苦しんだのは妻の光(てる)であったのかもしれない。

*写真:有岡城(伊丹城)本丸跡

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官兵衛がゆく(60):官兵衛の幽閉①・荒木村重の謀反

2013-01-20 10:06:56 | 黒田官兵衛

「三木城の戦い」を書き始めて、さっそく話題を「官兵衛の幽閉」に変える。

ここしばらく、「三木城の戦い」と「官兵衛の幽閉」を、混ぜながら話を進めたい。

   有岡城(伊丹城)を訪ねる

007昨年の年末、有岡城(伊丹城)跡へ出かけた。

有岡城跡は、JR福知山線の伊丹駅のすぐ前にある。

住宅会社の宣伝文句ふうにいえば、まさに「駅より徒歩一分」であり、捜すまでもない。

駅周辺には年末の町の賑わいがあったが、城跡内は外からの騒音が聞こえてくるだけで誰もいない。

来年は、ここに多くの人が訪れていることだろう。

NHKの大河ドラマで、間違いなく大きく取り上げられるからである。

城主は、荒木村重。

村重は、黒田官兵衛をこの城の牢に約一年間幽閉した。

この話は広く知られているが、後にも取り上げることにしたい。

    荒木村重謀反!

三木城の籠城戦がはじまって間もなくの頃であった。

信長の家臣であった荒木村重が、突然毛利に寝返った。

荒木村重が謀反を企てているといううわさが、三木の秀吉に聞こえてきたのは(天正六年)十月にはいった頃であった。

秀吉も、官兵衛も信じられなかったが、事実となった。

村重の持ち場は、石山本願寺である。信長にとって、最も手ごわい相手が石山本願寺で、村重は本願寺を担当していた。その村重が毛利についたのである。

信長としても、ただの裏切りではなかった。

播州攻めの秀吉にとっても、伊丹の荒木が毛利に寝返ったとなると信長からの播州への道は分断され、支援は難しくなる。

反対に毛利としては、三木城の援軍がやりやすくなる。

信長としても、村重の離反はよほどの驚きであったに違いない。

    信長は不徳の人

村重の謀反の理由は、さまざまに想像されているが、司馬氏は『播磨灘物語』次のように分析している。

・・・・(村重の謀反は)織田信長という人物の器量に関係(かかわ)ってくることになるであろう。信長は、諸国を斬り取りする困難な時期においてこそ彼自身が巨大な錐(きり)になって旋回し、立ちふさがる旧時代という岩壁に大穴をあげて行ったが、その事業がやや峠を越した観のこの時期にあっては別の人格を時代が要求するようになった。

「ああいう、不徳の大将では」と、村重が謀反を私(ひそ)かに決意したときは、そのように、うめいたにちがいない。

・・・・(『播磨灘物語(二)』より)

確かに、村重の謀反は「信長の不徳」にあったことは想像される。

最近の研究では、毛利からの調略があったようである。もちろん、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が、その任にあたっている。

毛利は、村重を略した。

*写真:有岡城跡(復元された有岡城石垣)

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官兵衛がゆく(59):三木城攻め①・籠城戦

2013-01-19 00:08:29 | 黒田官兵衛

   

   三木城攻め

90eae9e1 天正六年七月、神吉城・志方城は落ちた。

先に書いたように、この時、秀吉・官兵衛は加古川にはいなかった。北の抑えのため但馬の竹田城にいた。

そのため、志方城の戦いで、官兵衛は、妻の実家(志方城)を攻めるという苦悶から逃れることができた。

この間、神吉・志方城を攻めの総指揮者は織田信長の長男・信忠であった。その傘下に滝川一益、明智光秀、荒木村重、筒井順慶、細川藤孝、そして織田家の次男信雄、三男の信孝等がいた。

早々たるメンバーであった。

秀吉をしても、彼の「ひと声」で、とうてい動かすことのできるメンバーではない。信長もそのことを知っていた。

そのため、信長は長男を総指揮者として大軍とともに加古川へ送り込んだのである。

神吉城・志方城は、けちらされた。その後、八月に彼らは元のそれぞれの持ち場へ引き揚げた。

秀吉は、八月に但馬から播州に帰って、いよいよ秀吉・官兵衛の三木城攻めが開始された。

   

  籠城戦、しかし・・・

三木城の城兵は七千五百で、攻撃側の秀吉軍は、八千であった。

三木城の策は籠城戦であった。

籠城戦は、攻める側としては普通三倍の兵力を必要とすると言われる。秀吉側の八千の兵では、とりまくだけで精いっぱいであった。

籠城戦は、しばらく籠城すればその間に味方の援軍があることが前提となる。

三木側の七千五百人は、毛利軍の援軍を待った。

その時、三木城は、内外から秀吉軍を挟み撃ちにして、せん滅できると信じていた。

しかし、援軍の可能性はほとんどなかった。

と言うのは、毛利軍は、船でやってくる。船の動員力は限られている。それに、三木城は海沿いではない。

陸から来るとなると岡山を通らねばならない。

岡山には、宇喜多直家がいる。直家は毛利側とはいえ、いつ裏切るか知れない状態であった。

官兵衛が調略をしていた。いまにも、秀吉側に寝返りそうであった。毛利としては攻撃中に秀吉側に寝返られては、どうしようもない。

おまけに、御着城の小寺の動きもはっきりとしない。

客観的に判断すれば、援軍はないと読めるのであるが、播州人はそのように考えなかった。

 「かならず毛利軍は来る」・・・

*写真:三木城の図(広島市中央図書館蔵)

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官兵衛がゆく(58):余話として・黒田庄町に伝わる黒田家譜を見る

2013-01-18 14:14:33 | 黒田官兵衛

  

  荘厳寺(西脇市黒田庄町)伝わる

『もう一つの家譜』を見る

018きのうから、軽い気持ちで、無責任な文章を書いたり発表したりするものではないと反省している。「官兵衛がゆく(4)」で紹介した「もう一つの家譜」のことである。

この記事は、よく調べずに気軽に付け加えた文章である。

昨日(1月17日)「もう一つの黒田家の家譜」が伝えられている、黒田庄(西脇市黒田庄町)の荘厳寺(しょうごんじ)を伺いした。

家譜を見せていただき、堀井住職から説明を聞いた。

いままで、私の気持ちの片隅に、「どうせ家譜は、信用が置けない史料である」との思いがあった。

でも、「いまあらためて荘厳寺の黒田家の家譜を見直す必要もアリかな」と思い始めている。

いただいた学習会の資料を読んだ。

その資料に、気になる報告がある。とりあえず二点だけ引用させていただきたい。

 (一)官兵衛の黒田庄町誕生説

(黒田庄町に伝わる家譜を裏付けるように)もし、官兵衛が本当に姫路生まれなら、地元の姫路の人間はそう書くはずだ。ところが姫路の古記は、官兵衛が姫路の産ではなく、十里以上も離れた丹波国境の多可郡黒田村の産だと書いている。・・・・・姫路の人間が、遠い多可郡の黒田村の産だと書くわけがない・・・

 

 (二)官兵衛の実父は、重隆か?

これも姫路の古記なのだが「官兵衛は小寺職隆の猶子となった」とある。猶子と言うのは養子である。・・・

官兵衛は、職隆の実子ではなく通説では、官兵衛の祖父とされていた重隆である。・・・

なんということだろうか。官兵衛は重隆の子であるとする。

この記述を読んで、ハッと思ったことがある。

既に、専門家の内では解決済みのことかもしれないが、「官兵衛がゆく(7)・官兵衛の原形」でも書いているが、再度紹介したい。

「御着城跡にある黒田家廟跡に来ている。・・・・廟の左は官兵の祖父・重隆、右は母お岩の五輪塔である。・・・」と、その時は何の疑問もなく書いたが、重隆と母が廟に祀られる組み合わせが不自然である。実父なら父母の廟として、すっきりする。

貝原益軒の著した『黒田家の家譜』も、姫路の事情を良く知らないままに纏めた点も多いようである。

「荘厳寺に伝わる黒田家譜」の研究も進められている。

学問的に、新しい官兵衛の実像が実証されるかもしれない。

*写真:荘厳寺(西脇市黒田庄町)に伝わる、もう一つの黒田家譜を見る私。

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官兵衛がゆく(57):加古川城⑤・春日神社

2013-01-16 23:36:52 | 黒田官兵衛

春日神社

Photo 加古川城主・糟谷氏の話を続けたい。

国道2号線の加古川大橋の東詰近くに、ひときわ目につく公孫樹がある。

そこは春日神社(写真)の境内である。

復習である。

江戸時代の幕府の正式な家系図によると。糟谷氏は相模国糟谷荘の在であった。

さらに、江戸時代の「糟谷(加須屋)氏文書」では、糟谷氏の祖先は、藤原(中臣)鎌足であるという。

やがて、祖先は宇治川の合戦で功績をあげ、加古郡雁南荘(かなんのしょう)を与えられた。雁南荘は、今の加古川市加古川町付近である。

室町時代、糟谷氏は赤松の支配下に入り、加古川城を造り城主になったと考えられる。

東播地方には鎌倉時代以降関東武士が多いが、関東武士については先に紹介した。

   春日神社は糟谷氏の氏神

なんと、糟谷氏の祖先は、藤原(中臣)鎌足というのである。

どうも怪しい。一般的に系図の信用度というものは、この程度のものである。

とにかく、時の雁南荘の糟谷有季(かすやありすえ)が藤原氏の氏神を文治2年(1186)ごろ、奈良の春日神社からこの場所に勧請したという。

加古川城主糟谷武則は、有季の子孫である。

春日神社は、糟谷氏の氏神である。

*写真は春日神社

KAKOGAWA』(伊賀なほゑ著)参照

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