大蔵元(おおくらもと)
近世の高砂では、その商業を円滑に行うための組織として、17世紀半ばに大蔵元(蔵元)という制度がつくられました。
これは一種の株仲間で、特に大蔵元は、高砂の特権商人によって形成されています。
江戸時代の高砂の繁栄も、これら大蔵元の活動によるものでした。
しかし、高砂では、これらの輸送を担当するのみで、それを材料にした手工業は興りませんでした。
その点、製造業を中心にして、発展をとげた伊丹などとは対照的でした。
高砂は、もっぱら荷物の引き受け、保管、積出しをその業務とした商業の町でした。
それらの仕事を引き受けた問屋商人は、一般的に「大蔵元」とよばれ、年貢米を取り扱うことため、藩からも特別な待遇を受けていました。
小蔵元(こくらもと)
また、史料から「小蔵元」の名称がみられます。
小蔵元は、大蔵元の下にあり大蔵元に統括されていたようです。
大蔵元の役割
加古川を下ってくる御城米、諸大名米、および諸荷物の運搬は、高砂港に所属する船に限定されていました。
例外として、沖積み荷関しては自由な積み出しが認められていたようですが、他所での積み出際は、厳しく取り締まりがなされていました。
高砂港を出入りする諸荷物は大蔵元を通さず直接積こむことを禁止し、大蔵元問屋へ商業機能が集中されていました。
これは、単に大蔵元を利するだけでなく、荷改め、抜け荷の防止の役割も果たしました。また、藩が大蔵元に荷受け独占の特権を付与したことは、川筋からの年貢米の品質検査を厳重にする点でも大きな役割を果たしました。(no2881)
*「近世港町の商業機能に関する研究(市村泰隆)」兵庫教育大学修士論文参照
*写真:堀川沿いの蔵跡(昭和45年撮影・現在徐々に取り壊されています)