ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(118):城山物語(21)、城主・孝橋新五郎繁広説

2011-10-06 08:58:23 |  ・加古川市東志方

    孝橋新五郎繁広

『志方町誌』では、孝橋繁広を次のように説明しています。

「・・・赤松繁広は、赤松満政の三男で、祖父の満則は義則(満祐の父)の弟です。

ところが、その義則の命により義則の子、孝橋左馬介則繁の跡を継ぐことになり、名をあらためて孝橋新五郎繁広といい、加西市笠原善坊の城主となった・・・」と書いています。

頭が混乱してきました。孝橋新五郎繁広は赤松満祐・義則(円心の二男)につながる人物としています。

「この文章は間違いである」といえる自信はありません。

しかし、歴史家は、これらを断定できる史実とは認めていません。ようは、はっきりしないのです。

    天神山城系(大河内家)との結びつき

F1ea2f96_2これも、「火のないところには煙はたたない」というように、何らかの史実を語っているのかもしれません。

ここに満政(繁広の父)・満則(繁広の祖父)が出てきますが、これらの人物は、天神山城系(大河内家)の人物です。

大河内家は、円心・義則・政則・晴政と続く赤松惣領家とは切っても切れない関係で結びついた赤松一族です。

置塩城周辺の図で天神山城と置塩城を確認してください。

嘉吉の乱で滅びたいったん滅びます(前期赤松氏)。

が、奇跡的な復活をとげます。そして、後に置塩城を築城しますが、その理由の一つは「信頼できる天神山城(大河内家)が近くである」ということにあったと思われます。

その天神山城系の人物が加西の善坊に進出したというのです。

『志方町誌』に「・・中道子山城と善坊が指呼の間にあることから考えて、(かってあった小さな城に)手を加えて(中道子山城に)住んだ位のことはあったであろうと思われる・・・」と書いています。

しかし、『中道子山城発掘調査報告』で城が築かれた時代と孝橋新五郎繁広の時代は大幅に異なっており、かなり無理があります。

     

志方・加西地域と大河内家・赤松惣領家と何らかの関係があったのでしょう。

孝橋新五郎繁広城主説も、中道子山城が天神山城系(大河内家)、赤松惣領家の人物そして志方・加西地域と結びついた伝承ではないかと想像するのです。

<蛇足>

明応五年(1492):後期赤松氏の全盛期を築いた赤松政則は鷹狩に滞在していた加西郡坂井庄の長円寺で心臓発作のためあっけなく亡くなる。

 *地図:「置塩城周辺図」(天神山城と置塩山城の場所を確かめてください)

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