ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

令和について(7) 令和記念除幕式

2019-05-02 08:24:32 | 令和について

 きょう(5月2日)の神戸新聞は、「いなみ野万葉の森」の「令和」の記念碑のニュースを伝えました。

     「いつか子どもに教えたい」 令和記念除幕式に妊婦参加

 (2日朝刊・神戸新聞より)

 「令和」時代が幕を開けた1日、兵庫県東播地域も祝賀ムードに包まれた。令和の典拠となった「万葉集」にちなんだ稲美町の庭園「いなみ野万葉の森」で新しい歌碑や記念碑を建立。また、各市町の役所には婚姻届を提出するカップルが続々と訪れ、幸せを願う1日となった。

 「令和」の記念碑が披露された稲美町国安の「いなみ野万葉の森」では町主催の除幕式があり、約150人が集まった。奈良時代の貴族の装いの人たちや出産間近の妊婦らが参列した。

 「令和」は万葉集の一節から引用。梅見の宴会で詠まれた和歌の序文で、50基以上ある庭園内の歌碑にも記されている。改元を祝い、稲美ライオンズクラブ(松岡圭根会長)が新しい歌碑を寄贈。これに合わせて「令和」の文字を刻んだ碑を町商工会(廣田政文会長)が寄贈し、庭園入り口近くに設けた。

 碑の除幕を前に、古谷博町長が両会長に感謝状を手渡す際、元号を「平成」と言いかけて慌てて言い直す一幕もあり、和やかな空気の中で式が進んだ。

 町は、町内の妊婦3人を招待。6月に次女を出産予定の女性(32)は「子どもが大きくなったら一緒にここにきたい」。妊娠9カ月の女性(39)は「生まれてくる子どもには、いつかきょうのことを教えたい」と笑顔だった。

 同庭園の管理に協力するNPO法人「いなみ野万葉の森の会」の鷲野隆夫理事長(79)は「この年齢になって新しい時代を迎えられて感無量。希望がある若い人たちは頼もしい」と話していた。(若林幹夫、広岡磨璃)(no4629)

 *記事・写真ともに神戸新聞(2日)より

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令和について(6)「令和」の時代が始まりました

2019-05-01 14:17:32 | 令和について

 「令和」の時代が、はじまりました。

 特に関心がある方ではないのですが、何となく「時代が、良くなるといいのにな・・・」という気持になっています。

 きょう(5月1日)、「令和」の石碑(写真)の除幕式が「いなみ野万葉の森」であることを聞いていたので、時間も確かめず出かけました。残念!終わっていました。

 すばらしい「令和」の時代にできるのは「私たち」なんですね。

 きょうの神戸新聞に素晴らしいコラムがありましたので紹介させていただきました。

    「令和」の時代がスタートしました

 (神戸新聞コラムより)

 詩人の茨木のり子さんが生まれたのは大正15年、昭和改元の年にあたる1926年である。大正ロマンの華やぎはだんだんと影をひそめ、昭和は破滅に向かって戦争への道を歩んでいく。

 代表作のひとつ「わたしが 一番きれいだったとき」は、そのころを振り返って書かれた。

 わたしが一番きれいだったとき、街々はがらがら崩れていって、とんでもないところから、青空なんかが見えたりした。

 詩は、つづく。わたしがきれいだったとき、まわりの人達が沢山死んだ。

 ・・・わたしはおしゃれのきっかけを落(おと)してしまった。そしてあのときのわたしは〈ふしあわせ〉で〈とんちんかん〉で〈さびしかった〉と。

 15歳で開戦の報を聞き、敗戦は学徒動員で駆り出された軍の工場で知ったという。

 七色にきらめくはずが、戦時一色に塗りつぶされた一度きりの青春を顧みて、唇をかんで悔しがったその人の面影が目に浮かぶ。

 ことしは戦後74年。平成は明治以来、初めて戦争のない時代として終わった。きょう幕を開けた令和の世に過去から引き継ぐべき教訓をあげるとすれば、第1項は「不戦の誓い」をおいてほかにはなかろうと思う。

 いまの子どもたちがやがて青春を謳歌(おうか)し、おしゃれをし、恋をささやける世なら、ほかに多くは望まない。(no4626)

 *写真:いなみ野万葉の森に設置された「令和の碑」

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令和について(5) 「いなみ野万葉の森」紹介 

2019-04-10 08:03:24 | 令和について

 「令和について(1~4)」は、おせっかいな内容になってしまいました。でも、「令和」の典拠になった公園の歌碑ついて、公園関係者の方々にご検討下さいますようお願いもうしあげます。

 

 最後に、「いなみ野万葉の森」を紹介しておきます。

 稲美中央公園の一角にある「万葉の森」は町制施行30周年記念事業の一環として企画され、昭和63年に完成しました。

     「いなみ野万葉の森」紹介

 説明板には「この万葉の森は、古代の印南の海を縮景造園した日本庭園です。池は、印南の海、その北の森林は賀古の松原(かこのまつばら)で、池の中の島は淡路島です・・・」とあります。

 池が印南の海をあらわし、その真ん中に淡路島がデンとあります。

 そして、池を囲んで賀古の松原があり、印南川(加古川)が流れています。

 説明にはないのですが、印南の海の周囲には、印南野(台地)が広がっています。

 この公園は、まさに印南野(台地)のど真ん中です。

 そんなことを知って、万葉の森を散策ください。また、違った風景のように見えます。

 万葉の森には、万葉歌碑・万葉の森賛歌があり、万葉植物と共に来園する者の心を和ませてくれます。

 

 この「いなみ野万葉の森」は、4月1日の元号発表と、元号の典拠になった歌碑があったため、新聞でも大きく報道され、以来華やいでいます。

 『万葉集』は、「高校で学んだだけで、日本最古の歌集である」くらいにしか覚えていません。

 詠まれた場面を、部屋にあった本で調べてみました。

 少し、万葉の森の碑の説明と違っているように思えたので、すこし、おせっかいな内容ですが書いてみました。

 今後「いなみ野万葉の森」は、ますます有名になり、たくさんの人が来られると思います。

 

 きょうのブログは、「いなみ野万葉の森」へのご案内です。

 いい季節になりました。お出かけください。(no4605)

 *写真:いなみの万葉の森

 

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令和について(4) 池主は、クーデター計画(「奈良麻呂の変」)に加わる

2019-04-09 09:15:05 | 令和について

 

   大伴氏一族は、武門の人たち

 大伴池主のことを付け加えておきます。

 池主は、大伴につながる一族です。

 天皇の住む、宮城には12の門があります。その門の一つ一つを古代の豪族が守りを固めています。

 その正面の門は、大伴門です。大伴氏はその門を守るだけではなく他の11の門を統括していました。

 つまり、大伴氏の本来の仕事は、天皇を守るという近衛兵でした。

 ですから、天皇家と深い誼(よしみ)を持った一族です。

 しかし、旅人・家持の時代は、天皇の権力を藤原氏がそれにとって代わろうとした時代でした。*大伴池主は、大伴家持と共に活躍。

 聖武天皇が亡くなり、橘諸兄が亡くなり、その息子(奈良麻呂)が、それに反対し、クーデターを起こそうとして失敗しました。「奈良麻呂の変」以後、大伴氏の力は、弱まりました。

 家持は、このクーデターを予想はしていたでしょうが加わっていません。しかし、家持の信頼していた、「大伴池主」は、この反乱計画に連座して、とらわれました。

 武門の大伴一族の血が騒いだのでしょう。藤原氏の横暴を許せませんでした。

 池主は、殺害されたのでしょう。以後、彼の姿はありません。

 彼は歌読みの得意な人物でしたが、本来は政治家で、そして兵だったんですね。

     ロマンチックな歌を詠んでいるが・・・

 万葉の森には、大伴池主の歌碑がありますので、紹介しておきます。

   をみなへし 咲きたる野辺(のへ)を 行(ゆ)き廻(めぐ)り 
       君を思ひ出 た廻(もとほ)り来(き)ぬ 」
                       巻17-3944 大伴池主
  (女郎花の咲き乱れている野辺、その野辺を行きめぐっているうちに、
あなた様を思い出し、回り道をしてきてしまいました)
 なんとも、ロマンチックな恋人同士のやり取りのような歌です。

 彼(池主)の、素直な気持ちの歌でしょうか。

 私の部屋にある万葉集の解説書(『万葉集注釈・第17巻』沢潟久孝著:中央公論社)を読んでみました。ピッタリとしません。

(私の解釈)

 家持・池主等は、悩むのでした。「・・・天皇家の力はどんどん弱められている・・・でも、何もできない。そして、このようなロマンチックな歌(駄作)しか読むことのできない(許されない)時代が悔しい、ふがいなさを感じる・・・いや、自分(池主)も歌で自分の気持ちをごまかしている・・・」

 万葉集の愛好家には、叱られそうな解釈ですが、そう読めるのです。

 

 この大伴池主の歌碑が、「いなみの万葉の森」にありますので、紹介しておきます。素人の感想ですので、無視してくださってけっこうです。

 ただ、歌も時代(政治)を抜きにして考えられないと考えます。(no4604)

 *写真:いなみ万葉の森にある「大伴池主の歌碑」

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令和について(3) 「令和」の典拠になった歌の作者は、「大伴池主」ではない!

2019-04-08 06:58:28 | 令和について

 

  「令和」の典拠になった歌の作者は

         「大伴池主」ではない!

 大伴の旅人・家持・池主について少しだけ考えてみましょう。

 「令和」の典拠になった宴のことです。

 この宴は、太宰府の大伴旅人の家に集まっての歌会ですから、旅人が絡んでいることは確かです。

 その他、分かっていることを少し上げておきます。

 (1)大伴家は、大伴家は天皇家を警護する家柄です。

 (2)この時、旅人は、九州の反乱を平定するために大宰府に派遣されていました。

 (3)大伴旅人は、大伴家持のお父さんです。

 (4)大伴旅人は、665年頃の生まれ(731年没)だと言われています。

 (5)大伴家持は、717年頃の生まれ(785年没)だと言われています。

 (6)この宴が開かれた時は、730年ですから、この時、家持13歳ぐらいの子どもです。

 (7)旅人は、宴の翌年、大納言として帰郷したが、その年に亡くなっています。66才でした。

 年代は、少し(だけ)史実と異なっているかもしれませんが『万葉集』で調べています。

 さて、大伴池主(おおとものいけぬし)ですが、生まれは不詳ですが、亡くなったのは、757年ではっきりとしています。

 研究者によれば、大伴池主は、大伴家持と似た年齢でしたが、池主の方が少し上で、家持と強い信頼関係があったとしています。

 

 「奈良麻呂の変(758)」というのは、橘諸兄が死に、その子の橘奈良麻呂が、藤原仲麻呂の横暴を見かねて反乱をおこそうとした事件です。クーデター計画です。

 その中に大伴家関係の人が多く含まれていました。

 あるいは家持も、仲間に入ることを進められたのかもしれません。

 結局、彼は入らなかったのですが、裏切り者が出て、一網打尽につかまってしまい、このクーデター計画は失敗でした。

 その後、厳しい取り調べがありました。鞭で打たれるんです。肉に食い込むような鞭打ちの刑です。多くの同志たちが、その鞭で死んでいます。

    大伴池主は「奈良麻呂の変」で、殺害される

 このクーデター計画に家持の信頼していた大伴池主も連座していました。当然、とらえられました。

 この事件で以後、池主の姿はプッツリ途絶えました。消息は、分かりません。

 彼も、あの恐ろしい鞭打ちの刑で、亡くなったのかもしれません。

 大伴家の勢力は、一挙に失うことになりました。

 家持は、奈良麻呂乱の翌年、41才になったばかりでした。家持は中央の要職から退けられ、鳥取県の国府の任地に下りました。そこで、正月の宴で歌を詠んでいます。

 この後、彼は四分の一世紀を生きるのですが、一首の歌も残していません。

 

 きょうのブログは、「太宰府の令和の典拠となった歌会には池主はいなかったし、池主は旅人の子どもの世代の人であり、家持との結びつきが強かった」ことを言いたかっただけです。

 なお、令和の典拠になった歌の作者は万葉集では、はっきりと書いていませんが、当時の状況から「大伴池主」ではなく「大伴旅人」とするのが正しいでしょう。

 

 万葉の森の歌碑については、今後ますます話題を呼ぶでしょう。学者を交え、早急に事実を検証する必要がありそうです。(no4603)

 *写真:いなみ万葉の森の歌碑

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令和について(2) 華やかな歌会でした。が・・・

2019-04-07 07:54:07 | 令和について


           

   華やかな歌会でした。が・・・

 昨日(6日・土)、午後「いなみ万葉の森」に出かけました。

 もちろん、元号「令和」の典拠となった歌碑を見学するためでした。

 ここへは何度も来ているのですが、こんなに華やいだ「万葉の森」は初めてでした。やはり元号(令和)に関心があるのですね。

 見学に来た目的は、この歌碑を見たかったためですが、何よりもその作者が「大伴池主」になっていることを、直に確認したかったからです。

 その理由は、次回以降にします。今日は歌の意味と当時の社会情勢を、少しだけ見ておきます。

 天平二年の正月十三日に、太宰府の大伴旅人(おおとものたびと)の家に集まって、宴会(うたげ)が開かれました。

 この歌会が開かれたのは、現在の暦では、西暦730年2月8日ごろだそうです。

 意味は、次のようです。

    時に、初春の月にして、気淑(よ)く、風らぐ。

   梅は、鏡前の粉を披く蘭は珮後(はいご)の香を薫(くゆ)らす。

 もう少し、分かりやすくしておきましょう。

    折しも、初春の佳(よ)き月で、空気は清く澄みわたり、風はやわらかく、そよいでいる。

   梅は佳人の鏡前の白粉(おしろい)のように咲いているし、蘭は貴人の飾り袋の香にように匂っている。

    天平時代は、藤原氏の陰謀で幕を開けた

 この歌を詠む限り、大伴旅人の気持ちは、穏やかで平和な春の陽気のようです。

 少し年表を見ることにします。

 この歌会(宴会)が行われたのは、天平二年(730)です。

 この前年の神亀五年(729)に、絶大な勢力を誇っていた長屋王は、藤原氏の陰謀により亡くなりました。

(*神亀五年8月5日、天平に改元。ですから、天平元年は8月5日から12月31日まで)

  長屋王は自害、妻も後を追いました。長屋王家は滅亡しました。

 しかも、密告から三日という短い期間で終わった政変でした。

 その後、藤原一族は、急速に勢力を拡大します。

 奈良時代を代表する華麗な天平時代は、長屋王の悲劇を踏み台にした幕を開いたのです。

 大伴旅人は、反藤原一族に属していました。

 当然、このニュースは、太宰府に伝たえられていたでしょうから、大伴旅人の気持ちは、この歌どおりでは、なかったでしょう。(no4603)

 *写真:ハイ一句(写真は大宰府ではありません。「いなみの万葉の森」です。撮影は1910年)

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令和について(1) 「令和」ゆかりの地沸く

2019-04-06 08:13:14 | 令和について

    「(元号)令和」について

 4月3日(水)の神戸新聞は、「兵庫 令和ゆかりの地沸く」と題して「いなみ万葉の森」にある新元号「令和」の典拠となった歌碑を大きく紹介しました。

 少し気になります。

 それは、万葉の森にある歌碑の作者が「大伴池主(おおとものいけぬし)」となっていることです。

 神戸新聞も気になったのか。写真等の説明に、「(万葉の森)碑上で作者が、大伴池主となった経緯は不明という」と註を入れています。

 今日は、神戸新聞記事から、その歌碑についての一部の紹介です。

    「令和」ゆかりの地沸く(1) 

 (以下、記事・写真とも神戸新聞からの転載)

 新元号「令和」の典拠となったのが日本最古とされる歌集「万葉集」だったことを受け、ゆかりの地に注目が集まっている。

 万葉集には古代人が航路として行き交った瀬戸内海沿いで詠まれた歌が多く収められ、兵庫県内にも関連する場所や歌碑が点在する。広く知られていなかったところもあるが、関係者は「地域の魅力に目を向ける契機に」と期待を寄せる。

 「令和」の出典は、万葉集巻5の一節。梅見をする宴会で詠まれた32首の和歌の前にある漢文の序文から取られた。

 歌人の大伴旅人(おおとものたびと)の漢文とされる。

 万葉集で複数の地名が登場する兵庫県稲美町。同町の「いなみ野万葉の森」には、新元号「令和」の典拠となった歌碑がある。同町は新元号の発表を受け、2日に案内板を立てた。

 庭園には、ほかにも万葉集の歌をしたためた石碑が数十本、設置される。普段は静かな庭園だが、この日は通常の2倍を上回る100人以上が来園。テレビ局の取材なども訪れ、来場者は興味津々で歌碑を眺めた。

 園の運営に関わるNPO法人「いなみ野万葉の森の会」の鷲野隆夫理事長(79)は「園内で紹介している歌から、元号が生まれるとは」と驚いた様子だった。(no4602)

 *写真、記事ともに神戸新聞(4月3日朝刊)より

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