ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

北条直正物語(1) 北条直正の話をしよう

2020-06-30 09:14:56 |  北条直正物語

     北条直正没後100周年 

    北条直正の話をしよう(1)

 稲美地区は台地上にあり一部を除いて、江戸時代まで稲を育てる十分な水が得にくい地域でした。

 この地域の人々は、まさに水との壮烈な闘いの歴史でした。

 そのため、江戸時代までは、年貢は他地区より低く抑えられていました。

しかし、明治時代の地租改正により、他の地域と同じになりました。

 同じように、なったことは、この地域に住む人々にとっては大増税でした。

 このままでは生活はできません。

 人々は立ち上がりました。その先頭に立ったのが加古郡長の北条直正でした。

 今年は、北条直正没後100年に当たります。彼なくして、稲美町の歴史は語れません。

 稲美町は、北条直正の顕彰を計画していたようですが、コロナ事件でまだできていないようです。

 そのため、このブログで北条直正と農民の汗と涙の物語をまとめることにしました。

     綿作の広がり 

 19世紀前半の文化~天保期(1804~49)には、新しい商品作物として綿の栽培が急速に広がりました。

 姫路木綿は「姫玉」・「玉川晒(さらし)」として、江戸でも高い評価を得るようになりました。

 印南野台地では、水が得にくく水田開発が困難であるため畑作が中心でした。

 綿作は、水のすくない印南野台地の人々にとって、欠かすことのできない商品作物でした。

 文化12年(1815)、野谷新村においては、綿は作つけ面積の25.0%を占め、また、明治元年(1868)、草谷新村では、51.2%もの作付面積を占めていました。

     綿作の衰え

 やがて、江戸幕府は終わり、日本は開国をします。

 それに伴い、機械紡績が始まりました。

 安い外国綿がどっと輸入されるようになり、国内の綿生産の衰退は決定的となったのです。

 明治10年代になると神戸港の輸入品は綿糸・綿花・石油でした。

 特に、イギリス綿糸やインド綿花の輸入が激増しています。

 綿作は、急速に衰えました。印南の台地の村々は、水が少なく十分な米の収穫がありません。

 天は無情でした。

 江戸時代の終わりから明治のはじめにかけて日照は、村人におかまいなく襲い、大飢饉をひきおこしました。

 印南野台地の人々は、この旱魃の被害をまともに受け、飢えに苦しみました。

 どうしたらいいのでしょう・・・・

 さらに、苦難が百姓をおそいました。

 新しい税制(地租改正による大増税)でした。(no5013)

 *挿絵:綿の収穫

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大河・かこがわ(299) 入浜権を考える(13)・ぼやき節

2020-06-29 09:53:45 | 大河・かこがわ

      ぼやき節

 時代は、急激に変わりました。

 特に、明治維新、戦後の変化は驚くばかりです。

 中でも、高砂市の変化は「異常」の言葉がぴったりするほどの変わりようです。

 渚がほぼ100%コンクリートで覆われ、市民のためのかつての天国のような風景が完全になくなりました。

 「時代の変化」と、かたずけるには、あまりにも残念な「激変」です。

 

 先日、本屋さんで『経済と人間の旅(宇野弘文著)』(日本経済新聞出版社)を購入しました。

 その最初を紹介しておきます。

 「・・・戦後約60年(上記の本が出版された年)が過ぎ、ヨーロッパでは都市とか自然に対する考え方が大きく変わってきた。

 例えば、(スペインのバルセローナは)川岸を覆うコンクリートをはがして昔ながらの蛇行する川に戻し、周囲にその地域特有の樹木を植える。

 小鳥や動物がそこに集まり、子ともたちの格好の自然観察の場となった。

 自動車を中心とした交通体系を見直して市電などの公共交通機関を復活させ、街の中心部から極力、自動車を締め出すようにした。

 その結果、商店街などの懸念とはむしろ逆に市街地が活性化し、雇用が増える都市が数多く出てきた。・・・」

 これは夢物語でしょうか。これ以上の都市化(経済至上主義)は許されません。

 以上で「入浜権を考える」を終えます。

 次号から、稲美町の大恩人、北条直正さんを取り上げましょう。(no5012)

 *写真:向島の夕暮れ(高砂町、向島町)

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大河・かこがわ(298) 入浜権を考える(12)・夢のような世界

2020-06-28 07:47:40 | 大河・かこがわ

        夢のような世界

 『100人証言集』で、松田正己さんは、小学校時代(昭和30年頃以前)の汐見町を次のように書いておられます。

 ・・・・「私は物心ついてから小学校5年生の時まで汐見町(荒井浜沿いの一地区)で育ちました。

 それは、今の三菱重工のあたり約60世帯の国鉄官舎の町でした。

 今、汐見町といっても知らない人が多いと思います。というのは埋立て工事で美しい自然と共に完全に姿を消した町だからです。

 大木曽水路をはさんで、町の東は広大なアシ、ヨシの湿地でカモ、ヨシキリ、ヒバリ、サギといった野鳥の宝庫でした。

 ・・・この湿地と海をへだてる土手には形のよい松が生えており、汐見町のすぐ前の土手にはドクダミ、ハマユウガオ、ノバラ、ハコベ、クローバー、月見草が群落をなしていて昆虫がたくさんいました。

 そんなところで私たちはオニヤンマ釣り、芦ぶえ、竹とんぼつくり、へびのぬけがら集め、無数にあったアリジゴクの観察など自然そのもので創造的に遊んだものです。

 汐見町の前の砂浜は途方もなく広くて、台風のあとに波が打ち寄せてできた潮だまりで、タコや魚を手づかみでとりましたしアカ貝は一時間でバケツに山もりとれました。・・・とにかく二階の窓のすぐ前に土手ごしに海がありますし、夜、その上に出る月や星の美しかったこと。

 あまりにも自然が豊かで、その有難さに気がつかなかったのです。

 三菱製紙の悪水が目立ちはじめたのは昭和33年頃からで、小学校5年の時埋立てのため汐見町がなくなるというので松波町へもどりました。

 中学を出て六年ほど高槻の方へ行っていましたが、帰って来てみると高砂はもう昔の姿をとどめていませんでした。

 私にとって、あの汐見町はかけがえのない「ふるさと」でした。それは文字通り町の名まで消し去られたのです。

 高砂は、こんな夢のような町でした。

 入浜権運動について、『渚と日本人』で高崎裕士さんは、多くのことを語っておられます。ここでは、そのほんの一部を紹介させていただきました。

 入浜権運動は、高砂から全国に発信されました。最後に、「入浜権宣言」を読んでおきます。詳しくは高浜さんの著書をお読みください。

     入浜権宣言

 古来、海は万民のものであり、海浜に出て散策し、景観を楽しみ、魚を釣り、泳ぎ、あるいは汐を汲み、流木を集め、貝を掘り、のりを摘むなど生活の糧を得ることは、地域住民の保有する法以前の権利であった。

 また、海岸の防風林には入会権も存在していたと思われる。

 われわれは、これらを含め『入浜権』と名づけよう。

 今日でも、憲法が保障するよい環境のもとで生活できる国民の権利の重要な部分として、住民の『入浜権』は侵されてならないものと考える。

  しかるに近年、高度成長政策のもとにコンビナート化が進められ、日本各地の海岸は埋め立てられ、自然が大きく破壊されるとともに、埋立地の水ぎわに至るまで企業に占拠されて住民の『入浜権』は完全に侵害されるに至った。

 多くの公害もまたここから発している。

 われわれは、公害を絶滅し、自然環境を破壊から守り、あるいは自然を回復させる運動の一環として、「入浜権」を保有することをここに宣言する。(no5011)

 *『渚と日本人』参照

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大河・かこがわ(297) 入浜権を考える(11)・渚をうばわれて

2020-06-27 07:08:16 | 大河・かこがわ

     渚をうばわれて

 高砂の埋立事業は、昭和42年5月の東部埋立地竣工の許可を皮切りに、43年3月伊保埋立地、44年12月中部埋立地、48年12月西部埋立地が完成し、高砂海岸は全く姿を消し去りました。

 この間、昭和37年には全国総合開発計画が策定され、39年9月16日にはその施策に沿った工業整備特別法による特別地域に指定を受けるなどして、高砂の海岸消滅が高度成長政策の一環であることがはっきり位置づけられました。

     海がPCBで死んだ

 ところで鐘化はといえば、35年6月から塩ビの生産を開始していた高砂を中心に石油化学原料への転換を進め、43年12月にはアメリカからの技術導入により月産1万トンの塩ビ工場が完成しました。

 こうした塩ビの増強に対応して水銀電解法による塩素とカセイソーダの生産が拡大され、「ほうきで掃いて捨てた(元鐘化従業員の話)」というような大量の水銀の使用により、後の高砂本港水銀汚染事件を引き起こしました。

 その後、高度成長の流れに乗り、業績もぐんと向上して昭和44年3月期には純利益が5年前の約8倍というほどになりました。

 それを可能にした背後には、(1)生産性向上運動による労組の弱体化、(2) PCBの危険性を無視した販路拡大、(3)環境破壊、公害を無視した排水の垂れ流しでした。

 カネクロール(PCB)の生産は、昭和29年4月に月産100トンでスタートし、34年12月、150トン、鐘化が最大の危機に瀕しながら、埋め立ての拡張にふみ切った36年は3月に200トン、9月に300トンと二回も増強を行ない、さらに42年4月450トン、43年5月600トン、44年には750トンと強化し続けています。44年7月に、三菱モンサントがアロクロール(PCB)を生産し始めるまでは、国内市場をほとんど独占しました。

 最初PCBの用途は、低圧コンデンサー用絶縁材としてのみで始りました。

 それをトランス用絶縁油へとひろげ、32年から高圧コンデンサー用へ進出し、さらに熱媒用にまで用途を拡張し他のです。

 PCBの毒性は戦前から知られており、PCBを熱媒体として用いる場合、熱交換器の腐食の可能性が加わり、PCBが漏洩する危険性が大きい。

 したがって、食品工業においてPCBを使用することは不適当であるにもかかわらず、これを売りまくって、カネミ油症事件のような悲惨な結果を招きました。

 さらに、PCB(カネクロール)は、37年、ノーカーボン紙の生産や印刷インク溶剤としての用途に進出して、全面的な環境汚染を加速させた。

 高砂においては、三菱製紙のNCR紙に用いられ、その廃水等によって高砂西港の底質中最高3.300ppmという高濃度汚染をひきおこしました。

 また、「昭和48年までの水銀総使用量は375トン(兵庫県調べ、県全体の50%近い)」を48年に市民の手によって追求され、県の遅ればせの指導でクローズドンステムに切りかえるまでは、全くのたれ流しを続けたのです。

 その結果は、高砂本港の底質中372ppm(「公害を告発する高砂市民の会」調べ)という洞海湾に次ぐ汚染になって現れました。

 さらに、その他の廃液を流し続け、付近海域を赤だしのみ汁と粕汁を混ぜたようなドロドロの海にしてしまったのです。(no5010)

 *『渚と日本人(入浜権の背景)』(NHKブック)参照

 *地図(現在の高砂海岸)(『渚と日本人』より)

 

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大河・かこがわ(296) 入浜権を考える(10)・PCBの生産

2020-06-26 06:20:00 | 大河・かこがわ

        PCBの生産(高砂・カネボウ工場)

 明治20年、東京綿商社として発足した鍾紡は、2年後社名を「鐘ケ淵紡績株式会社」とし、三井財閥の助力のもとに日露戦争前後には大手にのし上っていきました。

 高砂では、明治38年から操業を開始しました。

 昭和11年4月からは海岸沿いに建設された人絹工場によって、高砂町は市街地と海岸との間を巨大な工場でへだてられてしまいました。

 この鐘紡人絹工場は、昭和24年、鐘淵化学として独立し、急ピッチの設備投資を続けました。

 25年5月の塩化ビニール(大阪工場)、26年3月のブタノール(高砂)などです。

 このうち、塩ビは、26年には朝鮮戦争にともなう特需景気の中で、全国生産量5.085トンのうち1.376トンを生産し、トップの座を占め、鐘化に大きな収益をもたらしました。

 鐘化高砂工業所には従来から、月産320トンの水銀電解法によるカセイソーダ製造設備がありましたが、これは同時に350トンの塩素を生産しました。

 28年1月には、同じ塩素を用いてPCBを生産することが目論まれ、29年4月からカネクレールの生産が開始さました。

 32年7月、塩化ビニールの安定需要をめざして合成繊維カネカロンの製造設備を設置、35年には塩化ビニールそのものを高砂でも生産しました。

 しかし、この頃になると合成繊維業界の競争等により、鐘化は多額の赤字をかかえこむことになったのです。

 鐘化は、合理化に最も力をそそぎ、36年1月、「目標利益を絶対に確保するためのあらゆる施策を強行する」などの方針を打ち出しました。

    高砂市のすべての海岸に工場が 

 昭和29年7月、高砂町、荒井村、伊保村、曽根町が合併して高砂市が誕生、翌30年7月29日には早速「工場誘致条令」を施行しました。

 さらに、高度経済長成政策のもと、32年10月10日、播磨臨海工業地帯に指定され、この頃から高砂市の約5キロメートルの海岸のすべてを埋め立てて工場用地にすることが考えられてきました。

 36年6月21日、東部(高砂町地先)、中部、西部(それぞれ荒井町地先)埋立地免許坂得により県事業として埋め立てが開始された。

 この時、それまでの工場と海岸との間にあった堤を払い下げてしまいながら、県は新しく造成した埋立地についても防波堤まで企業に売ってしまいました。

 この時、海岸土地所有者である杉本家(仮名)に7.000万円が支払われました。

 本当なら高砂町のものであったはずという事情を考えたものか、杉本家は、市に110万円寄付したといいます。(no5009)

 *『渚と日本人(入浜権の背景)』参照

 *写真:現在のカネボウ

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大河・かこがわ(295) 入浜権を考える(9)・汚れる海

2020-06-25 10:08:07 | 大河・かこがわ

      入浜権利を考える(9) 汚れる海

 三菱製紙に来てもらうため結んだ、あまりにも一方的なに関する確約書でした。後々、町民は苦しむことになります。

   そして、渚は死んだ

 ・・・製紙所が操業を開始して間もない明治34年6月15日、一人の農夫が町役場にどなりこんで来ました。

 興奮のあまり何を言っているのかわからないのをなだめすかして聞くと、「三菱製紙所の悪水が流れこんで植えたばかりの稲が枯れた」といいます。

 吏員が行ってみると三反にわたってまっ黄色に枯れていました。

 三菱は、潮の逆流による塩分から枯れたのだと主張しました。が、農民は排水中止を要求しました。

 三菱は、高砂とかわした確約書をたてに、藍屋町と高瀬町の間の溝を通して東浜町の堀川港内へ放出することにしました。

 これに対して、今度は漁民がだまっていません。

 「堀川の水は彼らの生活用水だ」というので、5・60名の漁師が役場に押しかけました。

 農民と漁民の問に立たされた町当局は困りはて、東農人町裏から荒井村との境の大木曽水路まで、700間の新排水路を町費で構築することにしました。

 三菱は費用の負担を申し出ました。*地図の赤線が廃水路

 さて、降って湧いた排水路問題に、荒井村は当然拒否の態度を示したが、服部兵庫県知事は強引に工事許可を出し、突貫工事にかかりました。

 そのすぐ後、ことごとく三菱の側に立って事をすすめて来た町議・杉本鶴太郎(仮名)と三菱社員一人は、工事現場を見まわり中、荒井村村民に襲撃されて負傷する事件がおこったのです。

 その夜、(たぶん7月18日)鋤鍬を手にした荒井村民300名が高砂町におしよせ、もはや、町の手には負えぬと見た三菱は神戸から屈強の人夫約50名を連れて来て、警察官70名の護衛のもとに工事を遂行完成させました。

 この時できた三菱製紙排水路は、その後、町の中を開渠(後に暗渠)で貫流しました。

 この排水路こそ、昭和39年7月から開始したノーカーボン紙の生産にともなうPCB汚染水を流し続け、高砂の海を汚した原因の一つとなったのです。

 *海岸の流れは西から東に流れており、PCBは高砂の浜に運ばれ沈殿しました。

 ところで、悪水を港内に放流されそうになって反対運動に決起した漁民・500名は反対の態度を表明したが、結果的には魚介不漁に対する見舞金として漁業組合に三菱から2.500円寄付を受けるということでけりがつきました。

 これは日本における、企業からの漁業補償のおそらく最初のものでしょう。

 この時も、例の杉本鶴太郎(仮名)が仲介し立会人となって根回し、一部の人達だけが利益を得ることになりました。

 そして、乱獲のこともあってか、昭和24・5年頃から貝が減少してきた。

 その頃から、貝の養殖場の水ぎわから2・30メートルに及んで砂地がドロドロになって足の指の間からヌルヌルとはみだしてくるし、一種の異臭がただよい始めてきました。(no5008)

 *『渚と日本人(入浜権の背景)』(NHKブック)参照

 *地図:赤線・三菱製紙の排水路(『渚と日本人』より)

 

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大河・かこがわ(294) 入浜権を考える(8)・浜辺が消える

2020-06-24 08:10:13 | 大河・かこがわ

  入浜権を考える(8) 

       浜辺が消える

 昭和10年代になると、現在高砂市になっている荒井村、伊保村、曽根村にも、海岸線に沿って次々と工場が建てられ、住民の前から海がへだてられていきました。

 その中でも、昭和14年、陸軍造兵廠播磨製作所の荒井村への進出は最大のものでした。

 昭和6年、キッコーマンの工場が建ち、次いで現在の播磨耐火練瓦等が立地し、昭和16年、全面的に造兵廠の巨大工場が建設されました。

 戦後、造兵廠は国鉄工場、三菱重工、神戸製鋼等に払い下げられました。

 それでも、昭和36年の埋め立ての開始まで荒井の浜そのものは残っていました。

      汚れる海

 海の汚染は、明治34年に、三菱製紙所が誘致され、操業を開始した時から始まりました。

 そもそも、三菱製紙が従来工場のあった神戸を引きはらって高砂に来た動機は、『三菱製紙六十年史』によれば、つぎのようです。

 (1)工場用水について絶対安心である。(2)播磨灘を近くひかえているので排水上きわめて便利である。(3)輸送の便がよい。(4)将来必要とする場合、原料藁の確保がしやすい 。(5)砂町周辺は、甚しく疲弊しているので土地も労力も廉価で入手できる、ということでした。

 排水について、この時点ですでに垂れ流しが目論まれていたようです。

 この時の町の状況を、後に町長にもなった有力者の伊藤長平氏は『三菱製紙六十年史』に次のように語っています。

 「加古川町に鉄道がしかれると、皮肉にも荷物は全部加古川駅で扱うようになり、高砂町はにわかに仕事がなくなってしまいました。

 そして、阪鶴線(播州鉄道のこと)ができてからというものは全く貨物が途絶えてしまいました。

 人家は、どんどん減って2.500戸もあったものが1.000戸足らずになってしまい、いたるところに乞食がおり、行倒れがあるという有様でした。(中略)地価は高い所でも一反50円(一坪約17銭)安いところとなると35円くらいで、それでも買手は少なく、宅地は坪30銭くらいで、ところによってはただ同様でありました。町の人々が後悔し嘆いているところへ、日本毛織会社が高砂に工場を建てるそうだといううわさが伝ってきました。(中略)結局、加古川町に工場を建てることに決定してしまいましたので、高砂の町民の落胆は見るも哀れな有様でした。そこへ三菱製紙が来るということになったので、まるで夢のような話です。高砂丸が難船しかかっているところへ観音様があらわれたよう」と書いています。

 つまり、高砂は、一方的に会社に妥協しました。

 なお、三菱と鐘紡とで、なんと高砂町の8割の土地を買占めたといわれました。(no5007)
 *『渚と日本人(入浜権の背景)』(NHKブック)参照

 *写真:高砂海水浴場(大正時代):『加古川・高砂の100年』(郷土出版社)より

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大河・かこがわ(293) 入浜権を考える(7)・海への道がふさがれる(2) 

2020-06-23 08:42:54 | 大河・かこがわ

   入浜権を考える(7)

      海への道がふさがれる(2) 

(前号「浜への道がふさがれる(1)」より続く)

 <河合義一議員>

 今度の鐘紡の交渉は鐘紡にしてやられておる。

 鐘紡は、最初レイヨン工場を作るので、水が多くいると言ってだまされておる。

 町長は、道を鐘紡に譲ることは決っていると言われたが、いつ決っておるのか。

 助役は、私にうそを言ったのである。

 いつ本町線廃止は決定したか。誘致々々と言うが初めて鐘紡を持って来るのでなく、はじめから10年後には建つことに決っていたのである。

 <戸田亀太郎町長>

 本町線廃止は既定の事実なりと言ったことは、「あの道を(工場の敷地として)使わぬことには人絹界をリードする様な工場は出来ぬ」と言うのでやむをえぬと言うのである。

     「本町線」市民の知らぬ間に消える

 誘致に賛成していた議員たちも、海に出る道路がなくなるとは知らされていなかったらしく、事実を知って大騒ぎになったようで、教育界でも問題になりました。

 そうした反対の声に、さすがの鐘紡も抗しきれなかったらしく、小学校前の海水道は廃止をまぬがれたのです。

 しかし、昭和36年以降の埋立ての中で、この海水道の延長ともいうべき市道が、いったんは海岸までつけられておりながら、昭和46年、市民のほとんど知らぬ間に、市議会の審議にもかけないで鐘紡人絹工場の後身、鐘淵化学に払い下げられてしまいました。

 「昭和19年、ときの軍部の至上命令による実施権者の神田勝次町長の手によって実行された家屋強制疎開までは、道幅4メートルそこそこの狭い南、北本町通りは、小規模ではあったが商店街として活況を呈していて、これに続いて、いわゆる「海水道」が渚にまで真直ぐに通じていました。

 この海水道をはさんで両側はフケ田と雑草地で、その中間、海岸に向って右側の小高い場所に鐘紡の療養所の古ぼけた一棟が建っていました。

 鐘化工場が建設されるに及んで、当時の町議会の強い反対決も議も及ばず海水道は鐘化工場敷地の西側に変更移動しましたが、それでも新しい海水道として住民に親しまれ、現在の武田薬品工場前から西へ通ずる堤防上は、10数本の松が、青い空にそびえていました。

 現在は、その道もなくなりました。(no5006)

 *『渚と日本人(入浜権の背景)』(NHKブック)参照

 *図(高砂町の海へ出る道・昭和36年まで)(『渚と日本人』より)

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大河・かこがわ(292) 入浜権を考える(6)・海への道がふさがれる(1)

2020-06-22 06:04:29 | 大河・かこがわ

    入浜兼を考える(6)

     海への道がふさがれる(1)

 図(高砂町の海へ出る道:昭和9年まで)は、昭和初年の高砂町地図ですが、、海水浴場へ三本の道路がありました。

 昭和9年、鐘紡は町当局に圧力をかけて、このうち「神社前線」と「学校前線」の二本の海水道を廃止させ、まん中の本町筋から海岸に出る道路を鉄道線路沿いに東へ迂回させようとしました。

 この時の高砂町議会でのやりとりの一部を議事録(昭和9年5月29日)からみておきます。

 <脇村嘉祐議員>

 鐘紡工場の誘致も結構だが百年の大計にも頭をつかわれたい。吾々の伸びんとする処は南方(海の方)である。将来、駈引きしないことを契約せられたい。

 万一この道路が廃止されたならば南本町の人は地価の下ることを憂へて居り、また、海岸の西方で漁船が遭難でもすれば、救助に非常に困難する等道路廃止のため非常に迷惑をする人もあるかに聞く。

 施設の如何によっては悲しむべき結果を生むことは明らかなる事実である。

道路、学校その他は吾々の重要機関である。

 この重要機関を鐘紡に差上げようと唯々諾々と町長一個の考えを以って承認されたことは不合理である。・・・・

 <戸田亀太郎町長>

 本町線は差迫っている。

 学校前は、待ってもらわねばならんと言ったのに、如何せん今、(鐘紡は)わけてもらわねばならんと言うことであった。

 <由利駒吉議員>

 本町と海水浴とは離れることが出来ぬので、せめて学校前だけでも残して置くべきである。

 本町は相生の松及び海水浴により外客を集めて居る。然るに、この道路を廃止することは、どうかと思う。

 本町は、天恵的な水があるから各工場が着目して居るのである。将来。後悔する様なことがないとは言えない。

 廃道を拒否することも愛町の発露に外ならぬ。

 <戸田亀太郎町長>

 鐘紡を誘致して、現実に於いて(海岸への道路は)廃止の運命に到達して居るのであるから止むを得ぬ。

 <庄司秀一議員>

 誘致には賛成であるが、海水道二線廃止には絶体に賛成出来ぬ。将来、本町がより以上伸びんとするならば南を除く訳には行かぬ。

 然る時、二線を廃し、一線しかないと言うことならば南部発展に一大支障を来たす訳である。この意味で二線を必ず必要とする。

 <戸田亀太郎町長>

 南に発展策を講ずるは、一つの方策なるも、吾等の先輩は多くの土地を売り、鐘紡の誘致に努めて居る。現在、誘致するにあらざれば、発展の余地なし。(no5005)

 *内容、図(高砂町の海へ出る道)とも『渚と日本人(入浜権の背景)』(NHKブック)参照

 

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大河・かこがわ(291) 入浜権を考える(5)・渚は個人の所有物にあらず

2020-06-21 08:17:53 | 大河・かこがわ

     入浜権を考える(5)

     渚は個人の所有物にあらず

昭和29年の合併による高砂市の誕生以後、高砂美しい海岸によって生きる道を捨て去り・明治34年、三菱製紙を誘致して以来じわじわと進められて来た工業都市として生きる軌道を爆進することになりました。

 四代、工楽松右衛門が海水浴場休憩所を建てようとして「借地願」を出した時、該当する土地が官有地と地図に記されていた。

 ところが、次の証言を聞いてください。

 「・・・・“こぶ七”は最初からの業者で、その頃は土地の使用料を姫路の税務所(?)におさめていたそうですが、それが明治の後期より、杉本鶴太郎(仮名)さん個人に支払うことになったそうである」

 どのような事情でみんなの財産が個人に払下げになったのかわかりません。

 不思議なのは、官有地であったはずの海岸が杉本(仮名)という個人のものになったという点です。

 明治6年(1837)から明治14年(1881)の間に実施された地租改正において、日本の土地私有制度は確立されたのですが、この時、海岸の砂浜は“雑種地”という地目で国有化されました。

 したがって、侵食や陥没によって私有地であったものが浜地となったもの以外は、現在でも国有地であるはずです。

 「古来、海浜というものは誰もが利用してきた」ということから、地域住民の誰もが雑用に供してよいという趣旨であったと解釈してよいでしょう。

    高砂の浜が、なぜか個人の所有物に!

 それが、高砂海水浴場の場合、杉本鶴太郎(仮名)個人のものになったのはどういうことなのか、不思議なことです。

 杉本鶴太郎(仮名)が、高砂町長をしていたのは明冶45年3月から数年間ですから、高砂町の海浜が鶴太郎個人のものになったのは、おそらく大正の初め頃と考えられます。

 杉本鶴太郎がうまく立ちまわって自分名義に書き換えてしまったというのが案外真相ではないでしょうか。

 とにかく、この人物は三菱製紙が高砂に来た時点でも、町会議員としてその父杉本鉄平(仮名)と共に会社側に立って立ちはたらいています。

 この辺りの事情については『渚と日本人』を詳細にお読みください。

 なお、『渚と日本人』では、地域の有力者を杉本鶴太郎(仮名)としています。ここでもこの仮名を使わせていただきました。(no5004)

 *写真:水着姿の女性たち(高砂の浜・昭和初期)『目で見る加古川・高砂の100年』(郷土出版社)より

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大河・かこがわ(290) 入浜権を考える(4)・高砂の海水浴場、70年の歴史に幕

2020-06-20 10:14:32 | 大河・かこがわ

         入浜権を考える(4)

     高砂の海水浴場、70年の歴史に幕

 一般には「こぶ七」という屋号で海産物を扱っていた沼田家が最初からの海水浴業者と考えられています。

 海水着を着て海に入るというのは明治の中頃から始められました。

 土用の丑の日には海水に腰をつけるとよいという言い伝えがあり、播州一円の老若男女が押し寄せて夜通し店を開けていたといいます。

 春の潮干狩りは京阪神、夏は北播地方の学校、町内会、子供会というふうに客筋が決っていて、11店あった休憩所の一店だけでも一日で子供なら1,000人もの客であったといいます。

 そして、その「こぶ七」は、昭和36年から始まった埋立工事のため、海水浴場がなくなる昭和35年の夏まで四代にわたって海水浴場休憩所を営み続けました。

高砂海水浴場は、実に70年の歴史を持ちました。

 しかし、高砂海水浴場が大いに賑わったようになったのは大正末期から昭和初期へかけてのことです。

     浜に賑わいの声があった

 すなわち、大正3年の播州鉄道(後の加古川線および高砂線)、同12年の私鉄 (現山陽電鉄)の開通は、東・北播一円の、また京阪神間の潮千狩客や海水洛客を高砂に集めることになりました。

 高砂の浜の賑わいには、次のような理由がありました。

 (1)遠浅で干潮潮時の如きは3~400m余りの美しい砂地があり、婦女子・老人も安心して遊ぶことができた。(2)掘っても尽きない清新な砂粒であった。(3)潮千狩に適した場所で、マテ、アサリ、カモ貝等5・6才の幼児でも容易に採れる程であった。(4)砂浴に適していた。(5)交通が便利であった。(6)松の名所であった。

 春は潮干狩りで空と水は青く、夏は遠浅の最も安全な海水浴場として、遠くは大阪、神戸から、近くは三木、小野、社、北条、西脇方面から家族向きレジャーの最適地として賑いがありました。

 昭和10年頃、今の鐘淵化学工場(当時は鐘紡人絹工場といった)が建設されても、まだ、昭和30年頃までは、春と夏は人ひとで高砂浜は埋まりました。

 砂浜には休憩所が十数軒も建ちならび、土地の業者を大いにうるおしました。(no5003)

 *写真:海水浴場にて(昭和20年代)『目で見る加古川・高砂の100年』(郷土出版社)より

 

 《お知らせ》

 うっかりしていました。6月15日は、稲美町にとって大恩人の北条正直の命日でした。それも没後100周年に当たります

 その生涯を知った時、「北条正直のおかげで今日の稲美町がある」と言っても過言ではない稲美町にとって大恩人です。

 いま、シリーズで「高砂の入浜権を考える」をはじめました。このシリーズが終わりましたら、いそいで、「北条直正物語(仮称)」を紹介することにします。

 今日は、6月15日は彼の100回目の命日であったことを覚えておいてください。

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大河・かこがわ(289) 入浜権を考える(3)・海は誰のもの

2020-06-19 09:13:22 | 大河・かこがわ

  入浜権を考える(3)

           海は誰のもの

 工楽家の衰亡は、高砂市のその後の歴史と重なります。

 松右衛門の工事の結果、高砂晦の海岸は、昭和36年に埋立工事の始まる前の姿にほぼ近いものとなりました。

 すなわち、港や海岸は高砂神社の南方約500メートルへと遠のき、その間は新田として開発されて、俗に「工楽新田」とよばれました。

 しかし、その後の「工楽新田」は、海に続く新田とはなりませんでした。

       高砂は、工業都市として

           再出発しようとしたが・・・

 以下の内容は、『渚と日本人(高崎裕士著)』(NHKブック)をお借りします。

 ・・・明治21年(1888)、山陽鉄道の開通によって、その物資の集散・中継的地位に変化がおこった。海上運送は後退してきた。

 かくて、東播地域の物資集散の中心が加古川町に移り、高砂の商業の衰退は決定的なものになった。

 人口推移をみると、安永二年(1773)に8,097人であったのが、明治26年(1893)には6,530人と著しく減少した。

 また、戸数も1,936戸から1,224戸と減少した。

 高砂の衰退を打開する活は、工業都市として立つほかないと思われた。

 明治22年、町制を布いた高砂は、このような窮状から脱すべく、工場誘致を進めたのである。

 明治34年(1901)、三菱製紙、同41年(1908)の鐘淵紡績会社の誘致は、高砂が工業都市として出発する転換点をなした。

 鉄道の話が続く、先の述べたように山陽鉄道は高砂を通らず、明石から加古川を経由、直接姫路へ通ずるよう敷設されたが、その上に大正3年(1904)、播丹鉄道(後の国鉄高砂線、加古川線)が高砂港を起点に加古川を経て、加古川上流の谷川駅まで開通した。

 これが、加古川への物資集散の度を強める結果に終った。

これだけが高砂のとり得る唯一の方策であったのだろうか。今日にして思えば、疑問なしとはいいがたい。

 工業都市は、住民と会社のパイプが詰まった時、悲劇を生んでいる。

 高砂の場合も住民と会社パイプが機能したとはいえなかった。

 とにかく、大阪湾岸をのぞけば、全瀬戸内海沿岸地域で最も早く巨大企業を誘致したのが高砂であり、反公害運動も、明治34年に発生している。

 高砂の明治における企業誘致の問題は、そのままわが国の住民運動史であった。(no5002)

 *写真:三菱製紙(明治後期)

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大河・かこがわ(278) 入浜権を考える(2)・経済都市・高砂の変貌

2020-06-18 10:50:15 | 大河・かこがわ

    入浜権を考える(2)

       経済都市・高砂の変貌

 近世の高砂の町を語るとき、必ずといっていいほど『近世の高砂(山本徹也著)』(高砂市教育委員会)にある右図が紹介されます。

 高砂の町は、池田輝正の姫路への入部(慶長五年)後、ここに城が築かれ城下町として出発しました。(*高砂城は、現在の高砂神社の場所にありました。)

 城下町は、まず政治・軍事都市であり、そして経済都市の性格をもっています。

 しかし、高砂の町の性格を決定づけたのは、元和元年(1615)の武家諸法度の「一国一城令」です。

 以後、高砂は政治・軍事都市から港町、つまり経済都市として整備を進めていくことになりました。

 加古川流域という豊かな後背地と高砂の町は、加古川(高瀬船)により結ばれ、高砂の町は、江戸時代をつうじ、繁栄しました。

やがて、江戸幕府は倒れ、時代は明治へと大きく変わります。

 従来の領主の年貢米の制度がなくなり、米が高砂に集まらなくなりました。それにたよっていた多くの問屋が没落しました。

 息の根を止めたのは、山陽鉄道(現:JR山陽線)開通でした。

    工業都市に活路をみつけようとしたが・・・

 明治21年に開通した山陽鉄道(現:JR山陽線)は、最初から加古川を通るように計画されていたものではなく、当初は、東二見(明石市)・高砂・飾磨(姫路市)・網干(姫路市)の海岸線を通過する予定でした。

 が、工事費・工事期間の関係上、海岸に予定されていた鉄道は、加古川の町を走ることになりました。

 そして、大正2年(1913)加古川線・高砂線が開通し、今まで高砂に集まっていた物資が、加古川の町に集まるようになりました。

 高砂の町の衰退は、決定的でした。

町は、工場誘致に活路を見つけることになりました。

 注目したいのは、「一般的に高砂への工場誘致の条件は企業側に有利に進められた」ということです。

 やがて、高砂の町から浜は消え、企業のものになっていくことになってしまいました。(no5001)

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コーヒーブレイク:「ひろかずのブログ」が5.000号になりました

2020-06-17 08:40:23 |  ・コーヒーブレイク・余話

  「ひろかずのブログ」が5.000号になりました

 2006・6・14「ひろかずのブログ」を始めました。

 ほぼ14年前でした。

 定年から2年たっていました。この2年間は、ある大学で若い学生に交じり英語を勉強していました。なんとか修論もでき卒業ができました。

 問題は、その後でした。特別に何をしようという計画もありません。

 まず考えたことは、「健康」と「ぼけ」のことです。

 散歩でして、新聞や小説でも読んでいたらいいな・・・とズボラを決め込んでいましたが、いざ始めてみると、あまりに単調な生活です。

 さいわいタイプが打てましたので、見たこと、考えたことを文章にしてみようと考えました。どういう形でまとめてよいかわかりません。

 ちょうど、ブログが流行っていましたので、時代に取り残されないよう『脳トレ』のつもりで始めたのが、「ひろかずのブログ」でした。

 

 6月(2006年)でしょうね。『ブログに挑戦してみよう(NHK)』を購入して、悪戦苦闘の末ブログを立ち上げました。

 それには、短い文で「よろしくお願いします。当面、まち歩きで、見たこと感じたことを投稿します」と書いています。この時は、写真の挿入の方法も分からないため短い文章だけの第1号でした。

 それから、今日で5.000号になりました。続くものですね。

 4.000号の時、5.000号まで続けて「ひろかずのブログ」をやめようと決めていましたが、中途半端になるので、もう少しだけ続けます。

 ご迷惑ですがお付き合いください。(no5000)

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大河・かこがわ(287) 入浜権を考える(1)・『渚と日本人(入浜権の背景)』を読む

2020-06-16 10:22:19 | 大河・かこがわ

           「入浜権を考える」(1)

    『渚と日本人(入浜権の背景)』を読む

 私の本棚に『渚と日本人(入浜軒の背景)、高崎裕士・高桑守史』(NHKブック)があります。

 昭和51年7月1日発行とあるのでずいぶん以前に書かれた本です。

 もう40年以上前に書かれています。

 この本を買ったのも35年以上も前です。

 線を引いていますので、読んだのでしょうが、内容についてはほとんど覚えていません。

 ただ、「高砂の浜について書かれていた」という印象だけが残っていました。

    高砂には渚があった!
 ある事情で、この本を引っ張りだし、あらためて読みなおしました。

 「うん・うん・・・」と納得しながら一気に読んでしまいました。

 決して、内容は古くはありません。

 いまこそ、特に加古川市・加古川町・播磨町の人に読んでほしい本です。

 私も、加古川市・播磨町・高砂市の海岸の現状について、正直なところあきらめていました。

 でも、あらためて考えると、住民が海の側に住みながら海岸で遊べないのは、何としても不合理です。

 「渚は、一部の会社のための占有物ではい」というあたりまえのことを、あらためて考えさせられました。

 この地域は、今後も大きく変化を続けるはずです。

 その時、「入浜権」の考えは、今後の住みやすい地域づくりの原点になります。

 いまこそ、私たちの地域に「豊かな海岸があったことを、多様な生活があったことを知る」時なのでしょう。

 この本に「かつて高砂市に豊かな浜(渚)があつた」ことを語ってもらいましょう。(no4999)

 

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