北条直正没後100周年
北条直正の話をしよう(1)
稲美地区は台地上にあり一部を除いて、江戸時代まで稲を育てる十分な水が得にくい地域でした。
この地域の人々は、まさに水との壮烈な闘いの歴史でした。
そのため、江戸時代までは、年貢は他地区より低く抑えられていました。
しかし、明治時代の地租改正により、他の地域と同じになりました。
同じように、なったことは、この地域に住む人々にとっては大増税でした。
このままでは生活はできません。
人々は立ち上がりました。その先頭に立ったのが加古郡長の北条直正でした。
今年は、北条直正没後100年に当たります。彼なくして、稲美町の歴史は語れません。
稲美町は、北条直正の顕彰を計画していたようですが、コロナ事件でまだできていないようです。
そのため、このブログで北条直正と農民の汗と涙の物語をまとめることにしました。
綿作の広がり
19世紀前半の文化~天保期(1804~49)には、新しい商品作物として綿の栽培が急速に広がりました。
姫路木綿は「姫玉」・「玉川晒(さらし)」として、江戸でも高い評価を得るようになりました。
印南野台地では、水が得にくく水田開発が困難であるため畑作が中心でした。
綿作は、水のすくない印南野台地の人々にとって、欠かすことのできない商品作物でした。
文化12年(1815)、野谷新村においては、綿は作つけ面積の25.0%を占め、また、明治元年(1868)、草谷新村では、51.2%もの作付面積を占めていました。
綿作の衰え
やがて、江戸幕府は終わり、日本は開国をします。
それに伴い、機械紡績が始まりました。
安い外国綿がどっと輸入されるようになり、国内の綿生産の衰退は決定的となったのです。
明治10年代になると神戸港の輸入品は綿糸・綿花・石油でした。
特に、イギリス綿糸やインド綿花の輸入が激増しています。
綿作は、急速に衰えました。印南の台地の村々は、水が少なく十分な米の収穫がありません。
天は無情でした。
江戸時代の終わりから明治のはじめにかけて日照は、村人におかまいなく襲い、大飢饉をひきおこしました。
印南野台地の人々は、この旱魃の被害をまともに受け、飢えに苦しみました。
どうしたらいいのでしょう・・・・
さらに、苦難が百姓をおそいました。
新しい税制(地租改正による大増税)でした。(no5013)
*挿絵:綿の収穫