ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

大河・かこがわ(32) 古墳時代(1)・加古川地域の3つの古墳群

2019-08-31 07:09:39 | 大河・かこがわ

 今回から、しばらくは、加印地区(加古川市・高砂市・稲美町・播磨町)の古墳時代の散策に出かけましょう。

 今日は、大まかな話です。

   古墳時代(1) 加古川地域の3つの古墳群

 まず、加古川市にある古墳群を探検することにしましょう。

 加古川市には、地図のように3つ大きな古墳群があります。

 日岡山古墳群(4世紀古墳)・西条古墳群(5・6世紀)・平荘古墳群(6・7世紀)です。

 もちろん、この他にも多くの古墳があります。

 日岡山古墳は、これらの古墳の中でも最も古く、4・5世紀にさかのぼることができます。

 日岡山古墳は、兵庫県でも有数の古墳群が残っている地域です。

 昔は、もっと多くの古墳があったのですが、戦争中に多くの古墳が壊されました。

 たとえば、加古川刑務所は戦時中弾薬庫(神野倉庫)であり、それらの施設を建設するために、多くの古墳はこわされました。

 鏡が出土した東車塚古墳は、その古墳からでした。(no4752)

 *地図:加古川市地域の3つの古墳群

 

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大河・かこがわ(31) ナビツマの島(2)、印南別嬢のロマンス

2019-08-30 09:04:41 | 大河・かこがわ

    南批都麻島と印南別嬢のロマンス

 奈良時代に書かれた『風土記』に、南批都麻島(なびつましま)が登場します。前回の「ナビツマ」の物語の続きです。伝承です。

 奈良の都から一人の役人が、加古の里に派遣されてきました。

 彼は、里の女性と結ばれ、女の子をもうけました。

 名を印南別嬢(いなびのわきいらつめ)といい、美しい女性に成長しました。

 この噂は、時の天皇(景行天皇)にも聞こえ、妻に迎えるため加古の地へやって来ました。

 別嬢の胸が高なりました。どうしてよいか分かりません。“南批都麻島”に身を隠しました。

 加古の松原に着いた帝は、別嬢を探したが見当たりません。

 そのときです。島に向かって、一匹の白い犬が寂しげに鳴いていました。天皇は「誰の犬か」とたずねると、土地の人は「別嬢の犬である」と答えました。

 天皇は、舟をつくり島に渡たり、そして別嬢と幸せな生活を始めました。

 これは物語(伝承)ですが、研究者は、ナビツマ島は実在し「加古川の堆積により出来た三角州であろう」と結論づけています。

       小松原の御所殿神社

 地元では、印南別嬢(いなびのわきいらつめ)を祭ったのが、高砂市荒井町小松原の御所殿神社(ごしょどのじんじゃ)であると伝えています。

 場所は、荒井町3丁目小松原ですが、この辺りは迷路のようで捜しにくい場所で、見学するには住宅地図が必携です。

 神社に説明板がありましたので一部を読んでおきます。

 「・・・風土記に見える景行天皇(けいこうてんのう)が印南別嬢命(いなびのわきいらつめのみこと)を求婚される舞台となった南批都麻という島が荒井を中心とするこの地である。・・・」

 きっと、このあたりに南批都麻の島があったのでしょう。当時の風景を想像ください。(no4751)

 *写真:御所殿神社(ごしょどのじんじゃ:印南別嬢命を祭ったという神社・高砂市荒井町小松原)

 

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大河・かこがわ(30) ナビツマの島(1)

2019-08-29 08:48:29 | 大河・かこがわ

     ナビツマの島(1)

 風土記にある「ナビツマの島」の物語です。

 奈良の都から一人の役人が、加古川の里に派遣されてきました。

   彼は、加古川の里の女性と結ばれ、女の子をもうけました。

 名を印南別嬢(いなみのわきいらつめ)といい、別嬢は、美しい女性に成長しました。

 噂は、時の天皇(景行天皇)にも聞こえ、妻に迎えるため加古川の地へとやって来ました。

 別嬢の胸が高なりましたが、どうしてよいか分かりません。“ナビツマの島”に身を隠しました。

 加古の松原に着いた帝は、別嬢(わきいらつめ)を探したが見当たりません。

 そのときです。島に向かって、一匹の白い犬が寂しげに鳴いていました。天皇は「誰の犬か」とたずねると、土地の人は「別嬢の犬である」と答えました。

 天皇は、舟をつくり島に渡たり、そして別嬢と幸せな生活を始めました。

 これは物語であり実話ではありませんが、研究者は、ナビツマの島は実在し「加古川の堆積により出来た三角州であろう」と結論づけています。

 当時、高砂あたりには“ナビツマの島”のような大きな島(三角州)があったのでしょう。

 風土記は奈良時代に書かれた歴史書です。

この頃、現在の中心地あたりは、まだ海であり、人の住めるような状態ではなかったようです。(no4750)

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大河・かこがわ(29) 高砂三角州

2019-08-28 08:16:51 | 大河・かこがわ

 歴史家の稲見悦治氏の論文「加古川三角州の非対象とその原因」の「加古川三角州の形成過程」の一部を読みましょう。(*文体を少し変えています)

      高砂三角州

 加古川左岸(東岸)の三角州の陸化の時代は極めて早かったのですが、右岸(西岸)の陸化は非常に遅れました。

 加古川三角洲端に当る洗川と現在の加古川本流間の中洲は、古くからナビツマ島(播磨風土記)・加古能島(万葉集)その他の地名で呼ばれ、阿閇津(播磨風土記)より海上(船)で往来しなければならない高砂三角州でした。

 *阿閇津(現在の播磨町の港)

 ある記録に「天平年間(奈良時代)まで、高砂は海中の高州にて少し漁師の住し処(ところ)にて、荒井・小松原は砂浜・芦原で有し処(ところ)、池田公(輝政)の御普請にて荒井は塩浜と相なり云々」とあるように中世末期に入ってようやく加古川三角州の一部となったようです。

 こう見てくると平安時代以降の数々の和歌・平家物語・源平盛衰記をはじめ、謡曲で「高砂」とうたわれ、人々によく知られた、いわゆる「高砂」は、「尾上神社々記」に「・・・此辺一帯の総称にして当社(尾上神社)所謂高砂の尾上なり」とあるように、最初加古川左岸(東岸)の加古川市尾上附近の砂丘地帯の通称であったらしいのです。(以下略)

 奈良時代までの高砂の中心部は、人が住めるような状態ではなかったということです。(no4749)

 *地図:加古川三角州の発達状況図(古代末期・赤線の海岸線に注目ください)

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大河・かこがわ(28) 鹿(子)児水門(かこのみなと) 

2019-08-27 09:40:12 | 大河・かこがわ

         鹿(子)児水門(かこのみなと)

 『日本書紀』応神天皇13年の条に、次のような話があります。

 ・・・天皇が淡路島に狩に出かけた時に、多くの鹿が「鹿子水門(かこのみなと)」に入るのを見たので、調べてみると、日向(宮崎)の豪族の娘(髪長媛-かみながひめ)が都に仕えるために東上するための一行だった。

 彼らが鹿皮の衣を着ていたので、鹿と見あやまったのだった・・・

 これは、地名説話ですが、九州と畿内を結ぶ瀬戸内海の泊(港)のひとつに、「鹿子水門」があったことを物語っています。

 古代には、河口が港として利用される場合が多かったが、航海に必要な水や食料も得やすかったのでしょう。

 それに、加古川の河口は内陸部と結ぶ重要な拠点でした。

「鹿子水門」がどこにあったか、明らかではないのですが、加古川東岸は西岸と比べ若干土地が高く、加古川の流れは西岸より安定していました。

 古い古墳も東岸に集中している。そんなことを総合して、現在の稲屋(加古川市加古川町)辺りが、「鹿子水門」であろうと考えられています。

 現在の稲屋は、やや内陸部になっていますが、当時はこの辺りまで海が迫っていたと思われます。(no4748)

  *『加古の流れ(市史余話)』『加古川市史(一巻)」参照

  *写真:稲屋、福田寺付近(鹿子水門址)か

 

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大河・かこがわ(27) 東神吉弥生遺跡

2019-08-26 09:31:17 | 大河・かこがわ

     東神吉弥生遺跡

  昭和41年、東神吉町西井ノ口で加古川バイパスの工事中、遺物を含んだ層が発見され、昭和42年の発掘調査により、弥生時代前期ならびに後期の弥生遺跡であることが確認されました、

 *場所は東神吉中学校の南のバイパスあたり

 遺跡は、標高5メートルの古代の自然堤防上に位置しています。

 砂部遺跡の近くで、『加古川市史(第一巻)』は、「・・・両遺跡は、もともと一つの村であったと考えてよいであろう」と結論づけています。

さらに、加古川市史の記述を引用します。

 ・・・・二つの遺跡を合わせたムラの範囲を正確に算出できないが、溝と付近の地形からみて、おおよそ東西300メートル、南北500メートル、広さにして1.5ヘクタールの大きさと推定される。

 遺跡のすぐ近くに広がる低地は、水田として利用されていたのであろう。

 これらをあわせると、耕地面積は少なくとも約400ヘクタールに達したと考えられる。(no4747)

 *『加古川市史(第一巻)』(加古川市教育委員会)参照

 *写真上:発掘中の東神吉遺跡、写真下:発掘された鍬(共に柴田圓治さん撮影)

 

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大河・かこがわ(26) 砂部弥生遺跡

2019-08-25 06:30:04 | 大河・かこがわ

    砂部弥生遺跡

 日岡山と升田山の狭窄部から流れ出した川の流勢は、つねに南西方向すなわち加古川右岸(西岸)に強く、その低湿地は洪水の常習地帯でした。

 それに対し、左岸(東岸)は、つねに緩やかな水の流れで、より早い時期から陸地を形成しました。

 西岸、つまり神吉地区の低湿値の開発は、加古川左岸より遅れました。

 しかし、西岸の低湿地(神吉地区)は、人が住めないということではありません。

 遅れたというものの自然堤防も大きく、ずいぶん古くから人が住んでいました。

 標高5メートル余りの微高地の、弥生遺跡である砂部(いさべ遺跡)は、そのことを証明しています。

    (1)砂部弥生遺跡

 昭和49年県の建設局より、加古川平荘ダムの工業用水を、高砂市の工業地帯へ送る送水管の埋設工事が発表されました。

 遺跡の可能性があり、加古川市教育委員会が調査を実施しました。

 場所は、神吉中学校の少し東で、加古川西岸から約1.4キロ、標高約5メートルの古代加古川西岸の自然堤防上に位置しています。

 また、住居跡の周りからは、土器を焼いた穴が発見され、そこからイネやカヤが確認されました。

 砂部遺跡には幾筋もの溝が南北方向に通り、それより東は地形が一段と低くなっています。

 かつて加古川が、この辺りを流れていたと想像されます。(no4746)

 *写真:土器焼成の穴と竪穴住居

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大河・かこがわ(25) 美乃利遺跡

2019-08-24 08:38:49 | 大河・かこがわ

         美乃利遺跡

 溝ノ口遺跡の調査に引き続き、その北に広がる美乃利遺跡が平成27年11月25年から平成12年11月25日から、平成28(2016)3月18日までの間実施されました。

 2,820㎡を調査された結果、合計780基もの遺構と、たくさんの遺物が出土しました。

 美乃利遺跡も溝ノ口遺跡も弥生時代から中世にかけての複合遺跡でした。

 調査地点は、写真で確認ください。

 調査地点の北にある丘陵は、日岡山です。

 地図と合わせて場所を確認ください。(no4735)

 *『美乃利遺跡発掘調査報告書Ⅰ』より

 *写真上:美乃利遺跡発掘現場

  同 下:竪穴建物

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大河・かこがわ(24) 溝ノ口遺跡(2)・弥生を中心にした複合遺跡

2019-08-23 07:57:25 | 大河・かこがわ

 

         溝ノ口遺跡(2) 弥生を中心にした複合遺跡

 前回は、加古川バイパスの建設に伴う溝ノ口遺跡の報告の紹介でしたが、その後の調査により溝ノ口遺跡は、広範囲に広がっていることがわかり、3回に分けて調査が行われました。

 第1回目は、平成26年12月9日から12月26日まで。

 第2回目は、平成27年8月10日から11月24日まで。

 3回目は、その北の美乃利地区(美乃利遺跡)の調査が実施されました。

 美乃利遺跡については、次回報告しましょう。

 調査の結果から、これらの遺跡は、弥生時代から平安時代の複合遺構であることが確認されました。

 今回は、溝ノ口遺跡の発掘現場と遺物の一部を見ていただくことにします。

 *写真上:溝ノ口遺跡の発掘現場(上空から播磨灘を望む、加古川バイパスがるので場所は確認ください)

 *写真下:溝と遺物の一部

 *写真:『溝之口発掘調査報告書Ⅳ(加古川市教育員会)』(2018)より

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大河・かこがわ(23) 溝ノ口遺跡(1)・加古川パイパス工事で発見

2019-08-22 09:18:55 | 大河・かこがわ

        溝ノ口遺跡(1)

             加古川パイパス工事で発見

  「溝ノ口弥生遺跡」(加古川市加古川町溝口)の発見は、昭和42年、加古川バイパスの工事中、地元の中学生が多量の弥生土器を見つけたのがきっかけでした。

 調査は、昭和43~44年にかけて行われ、弥生中期(3世紀中ごろ)を中心とする遺跡であることがわかりました。

 多数の出土品がありました。

 これら出土品の一部は、加古川市文化センター(平岡町)に展示されています。

 溝ノ口遺跡は、JR加古川駅から東へ約1キロメートルの場所で、少し高くなっており、当時の加古川の東岸の「自然堤防」上にあった集落と想像されます。

 また、調査により溝ノ口弥生遺跡は、弥生遺跡だけでなく古墳時代・奈良時代の住居も含まれている複合遺跡であることが確かめられました。

 加古川市内最大の複合遺跡です。

 溝ノ口弥生遺跡は、調査後埋められ、加古川バイパスとなりました。

 その後の調査で、溝ノ口遺跡は、より大きな集落で周辺に広がっていることが判明しました。

 註:溝ノ口遺跡は弥生~奈良時代の複合遺跡のため、その時代の加古川地域を説明する時、再度紹介することにします。(no4733)

 *写真:溝ノ口遺跡出土の弥生土器(文化センターて展示されています)

 

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大河・かこがわ(22) 大中弥生遺跡(4)・国史跡に

2019-08-21 08:20:11 | 大河・かこがわ

   大中弥生遺跡(4)

       国史跡に、多くの遺物が出土
 大中遺跡は、弥生時代中期から古墳時代中期にかけての遺跡であることが判明しました。
 約44.000平方メートルの範囲に、円形、方形長万形、五角形、六角形の住居跡が数多く発見されました。
 そして、さまざまな用途や機能に応じた土器や鉄器、砥石など当時の人びとの生活を知る手がかりとなる遣物が多量に発見されました。
 また、先に紹介したように、当時から中国との交流があったことを示す青銅製の内行花文鏡片(分剖鏡)も出土しています。
    国史跡に(昭和42年)
 このように大中遺跡は、古代国家が形づくられようとする時期を今に伝える重要な遺跡で、昭和42年(1967)に国の史跡に指定されました。

 そして、兵庫県立歴史公園「大中古代の村」として全面的に保存、整備され、広く人々 に親しまれる憩いの場となっています。
 公園内には、復元住居など野外展示物だけでなく、播磨町郷土資料館も併設され、大中遺跡の出土品が数多く保存、展示されています。
 古代の村を散歩しましょう。竪穴住居の中から古代人の声が聞こえてきそうです。
    大中は、大沢村と東中野村が合併して誕生
 蛇足です。「大中」の呼称のことです。
 この地は、昔から「大中」と呼ばれていたのではありません。
 明治9年、加古郡大沢(おおざわ)村と東中野村が合併して、それぞれの地区の名前の一字を取って大中村が誕生しました。(no4732)
 *写真:資料館の展示品(一部:インターネットより)

 

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大河・かこがわ(21) 大中弥生遺跡(3)・なぞの鏡、分割鏡

2019-08-20 09:18:58 | 大河・かこがわ

   大中弥生遺跡(3)・なぞの鏡、分割鏡

 昭和38年年(1963)3月、大中遺跡がある台地の中でも少し高くなっているところにある住居跡から出土しました。

 この住居跡は、弥生時代後期のもので、その住居跡は遺跡の中ほどに復元されています。
 出土したものとは、鏡片(写真上)で、最大長6.2センチ、最大幅3センチで、重さは7.2グラムあり、他の遺跡から出土した鏡を参考に復元(写真下)すると直径が21.2センチになります。
 この鏡片は、鑑定の結果、中国の後漢代に製作された内行花文鏡(ないこうかもんきょう)であることが判明しました。
      分割鏡
 この鏡片は意図的に割った上に、片方を磨いて一直線にし、懸垂ができるように二つの穴があけられており、考古学上、分割鏡あるいは懸垂鏡と呼ばれています。
 このような分割鏡は、近年弥生時代の遣跡から時々発見されますが、昭和38年当時、大中遺跡のこの鏡片は、弥生時代の住居跡から発掘された鏡としては日本第一号で、考古学界で大きなセンセーションを巻きおこしました。
 この大中遺跡の分割鏡がどのようにして大中の地に運ばれてきたのでしょうか。なぜ分割され、他の破片はどこへ行ったのでしょう。
 また、どのような人が首に懸けていたのでしょうか、大きなロマンを感じます。
 この鏡は、弥生時代の歴史を調べる上で重要なカギをにぎっていそうです。
 というのは、卑弥呼の鏡といわれる三角縁神獣鏡より古く、日本統一前の時代の鏡であるからです。
 また、文様は数多くの鏡に用いられ、当時の人びとの心をとらえていたと考えられています。
 この内行花文鏡片は、平成10年(1998)に町の文化財に指定され、播磨町郷土資料館に展示されています。(no4731)

 *写真:内行花文鏡片と内行花文鏡復原デプリカ

 

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大河・かこがわ(20) 大中弥生遺跡(2)・大中は絶好の生活の場

2019-08-19 08:24:59 | 大河・かこがわ

       大中遺跡(2) 大中は絶好の生活の場

 大中の集落は、生活の絶好の場所でした。
 播磨平野のほぼ中央部で、北から張り出した低平な丘陵は、国道二号線のあたりで切れ、海岸線沿いの低地へとつながっています。大中の弥生集落はこの台地の南端部に築かれます。
 高台であるため加古川の氾濫の影響もあまりなかったようです。
 台地の南は低湿地で、米の収穫もあったことでしょう。
 さらに、すぐ近くを喜瀬川が流れ、伏流水も豊かで飲み水の心配もなかったようです。
 大中の人々は、こうしたすばらしい環境の中で生活していました。
     イイダコ漁
 大中の各住居跡から、小型の土器が百数十個出土しています。
 高さがせいぜい15センチで、口の部分または底部に小さな穴があいており、単なる貯蔵用の容器ではないことは確かです。
 この土器は大阪湾沿岸、播磨灘北九州の博多湾沿岸からも多数の出土例があり、用途不明の土器として長く放置されてきましたが、最近になってイイダコ漁のための土器であることがわかりました。
 今から1100年前、大中の人々はすでにイイダコの習性を知って、特殊な漁獲法を工夫し、味わっていたのです。
 イイダコは、体は小さいのに大きな卵を産みます。その味は絶品です。
 春から秋にかけてのイネ作りが終わった時期、大中の人々は、比較的ひまでした。
 この時期、彼らは北西の寒風に吹かれながらイイダコ漁していたに違いありません。
 *図:大阪湾・播磨灘沿岸のイイダコつぼ型土器分布図(『兵庫探検・歴史風土編(神戸新聞社)』)より(no4730)

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大河・かこがわ(19) 大中弥生遺跡(1) 中学生により発見

2019-08-18 09:29:35 | 大河・かこがわ

私たちの地域で弥生遺跡というと、まず、大中遺跡を最初に紹介しなければなりません。

    大中弥生遺跡(1) 中学生により発見
 大中遺跡は、昭和37年6月、地元播磨中学の三人の生徒によって発見されました。
 古くから「大増(おおぞ)の畑では土器が出るとか、大増には貝殻の山が三つもあり、じゃまになるので車で捨てに行った」とかいう話がありました。
しかし、公にはなっていませんでした。
 古代の歴史に興味を持っていた播磨中学校の三年生の浅原重利(あさはらしげとし)、大辻真一(おつじしんいち)、大辻要二(おおつじようじ)君らは、大正時代にこの地に別府鉄道が敷設された時、多くタコツボが掘り出されたことを地元の古老から聞き、調査したところ、多くの土器片を発見しました。
 これが、大中遺跡が世に出るきっかけとなりました。
     県下最大の集落遺跡(弥生~古墳時代)
 昭和37年12月25日、上田哲也氏(東洋大付属姫路高教諭)を中心に発掘が始まりました。
 翌日には、さっそく住居跡の遺構を掘り当てました。続いて27日に第二号住居跡。

 正月も休まずに掘り進むという熱意が実を結んだのか、三日には3つめの住居跡を発見しました。
 そのため、考古学者のほかに古建築の専門家も加わって、本格的な調査が続けられ、昭和47年の春まで11回の発掘が行われました。
 この間に「出た住居跡は合計43基」といってもこれはほんの一部でした。
 遣跡の総面積は四万平方㍍にも達するのですが、発掘区域は十分の一にも満たない3000平方㍍で、全域を掘れば300基近くになると推定されました。
 また、住居跡は円形、方形、長方形、六角形などそれぞれ違うタイプのものばかりで考古学的に高い評価を受けるとともに、大中遺跡は広く世に知られるようになりました。
 この遺跡は弥生時代後期(2世紀)から古墳時代中期(5世紀)にかけての遺跡ですが、当時県下ではもちろん最大、全国でもAクラスの規模を持つ集落でした。(no4729)
 *写真:大中弥生遺跡

 

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大河・かこがわ(18) 縄文時代(3)・岸縄文遺跡(加古川市西神吉町) 

2019-08-17 13:25:12 | 大河・かこがわ

           縄文時代(3)岸縄文遺跡(加古川市西神吉町)

 加古川市西神吉町の岸・大国の集落の南の端、つまり県道平荘・魚橋線辺りは、段丘となっています。

 その段丘の南は、加古川が運んだ土砂がつくった平地が海岸まで続きます。

 この平地部から、弥生時代の遺跡が発見されているのですが、縄文遺跡(土器)が発見はありません。

 このことは、弥生時代(BC2.3世紀~AD2・3世紀)に陸化が進み、やっと人が住める状態になったと考えられます。

 それに先立つ縄文時代、ボーリング調査でも確認されていますが、そこは海で人が住める状態ではありませんでした。

 現在、岸の集落の北側は台地、台地で大きな団地になっていますが、この辺りで弥生土器が出土することは知られていました。

 周辺一帯は、良質の粘土を利用してレンガが生産されていました。

 このままでは、「岸の弥生遺跡が消滅する」と昭和34年、加古川市教育委員会は、発掘調査を実施しました。

 この発掘調査により、縄文晩期の土器が多数発見され、縄文遺跡であることが確認されました。

 なお、この遺跡から縄文土器の他、弥生土器・土師器・須恵器なども出土しています。

 これらの遺物は、加古川市郷土資料館に保存されています。(no4728)

 *『加古川市の文化財』(加古川市教育委員会)・『考史遊記(永江幾久二著)』(兵庫タイムス)参照

 *写真:岸遺跡発掘遠景(昭和34年撮影)

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