ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川を歩く(32):加古川川筋一揆(7)・一揆その後

2008-05-24 09:32:02 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

9fb4f90e  一揆は、終息した。

 その後には、当然のように、おカミの厳しい取りしらべがまっていた。

 加古川の流域には、そのころ領主の数は19もあり、複雑な行政区域に分かれていた。

 こんな場合、幕府(大坂城代)が直接のりだした。

 加古川川筋一揆は、もともと計画的なものではく、自然発生的な性格の一揆であった。

 アジビラにしても、誰が書いたか分からない稚拙のものであった。

 とはいえ、迷宮入りは許されない。でも指導者は、はっきりしなかった。

 それまでの一揆の相手は領主か、その代理機関の庄屋たちであった。

 しかし、川筋一揆は“もてる者”と“持たざる者”との争いで、富商が狙われた。

 「一つの経済圏」(5月18日のブログ)でも述べたが、百姓たちが領域を超えて団結できたのも、加古川がつくるひとつの経済圏の中で同じ貧乏を味わっていたためであろう。

 天保時代には、もはや幕藩体制のタガが緩みをみせていた。

 一揆のスタイルも直接的な激しい「打ちこわし」となんら変わらないものであった。

 小野藩・三草藩などは荒れるにまかせ、一揆が自然に静まるのを待つだけのふがいない醜態をさらけ出した。

 この一揆は、一時的にしろ、米の川下げをはばんだ。そして金持ちや領主たちを恐れさせ反省させた。

 が、その後の農民の生活は改善されなかった。

*「加古川を歩く:加古川川筋一揆」は今回で終わり、次から「加古川の舟運」を予定しています。史料・写真等が十分でないため蒐集します。そのため。ブログを2~3日休みます。

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加古川を歩く(31):加古川川筋一揆(6)・一揆の終息

2008-05-23 10:08:16 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

203842b7_2  近藤亀蔵屋敷の打ちこわしは、加古川一揆の大きな山場だった。

 長年の農民の不満に、次々と火がついた。

 もともと、この一揆のねらいは、米の川下げで金儲けをする新町(加東市滝野町)から、河口の高砂港までの川筋の富農・富商を懲らしめることにあった。

 農民にとって、高砂は、まさに“恨みの町”と化していた。

 近藤邸をつぶした一揆は、加古川市域の国包(くにかね)・西条・大野・寺家町へとなだれ込み、干鰯屋(ほしかや)・酒屋・木綿問屋などを襲った。

 そして、高砂を目ざした。

 しかし、加古川一揆も15日(天保四年・1833)の朝には、姫路藩の軍勢に取りおさえられた。

 姫路藩にしても、藩内の経済混乱を避けるため、高砂だけは死守する心構えであったのであろう。

 一方、北へ向かった一揆衆も15日の朝には疲れはて、人数も減り、柏原藩の兵に散らされた。

 ここに加古川一揆は、終わりを告げた。

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加古川を歩く(30):加古川川筋一揆(5)・近藤亀蔵②

2008-05-22 09:30:31 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

Kakogawawoyuku_084  小野市の黍田と対岸をつなぐ万歳橋が左岸(東岸)に突き当たるところに豪商・近藤亀蔵の屋敷があった。

 天保の川筋一揆で一揆衆につぶされた。

 写真は、近藤家のあった場所で、今はその跡かたはない。

 昨日に続き、亀蔵について『故郷燃える①』より、その続きを引用させていただきたい。(亀蔵の子・文蔵の話が中心となる)

 ・・・・

 (一揆の)のち、勤王・佐幕の動乱期に、近藤家は亀蔵から文蔵の代になっていたが、倒幕派の急先鋒、長州藩と深く結びつき、その志士たちの活動をひそかに援助する。

 長州藩との関係は、近藤家が兵庫~下関間の回漕業(海運業)を経営していたことから生じた。

 元治元年(1864)と慶応元年(1865)の二度にわたり、幕府が長州藩を封鎖したときには、その物資輸送を助けており、長州藩士、伊藤俊介(博文)なども長く近藤文蔵の本宅(市場町)に潜伏していたことがあるようだ。

 志士たちは、近藤のような豪商のルートをたどって、地下活動をした。

 ・・・・

 余談になるが、明治になって没落した近藤家の子孫が、政府高官に出世した伊藤博文のところへ、金策を頼みにいったことがある。

 博文は、志士時代の恩義を感じ、あるもうけ仕事をあたえた。

 ところがもう一度頼みにいったときは「あの時の恩返しはすんだ」とすげなくことわられたという。

 それはさておき、安政三年(1865)76歳で死ぬまで、この近藤亀蔵にとって最大の災厄が、天保四年九月の一揆襲撃だった。・・・・

 (『故郷燃える①』神戸新聞社)より

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加古川を歩く(29 ):加古川川筋一揆(4)・近藤亀蔵①

2008-05-21 09:16:13 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

490cd734  山陽自動車道と加古川が交わるすぐ北あたりで加古川は大きく南へと湾曲する。

 そこに万歳橋がかかるが、万歳橋の左岸(東岸)に近藤亀蔵の屋敷があった。

 亀蔵の屋敷は、天保四年(1833)九月十四日の朝、加古川筋を荒れ狂った一揆衆に見事なまでに潰された。

 現在屋敷跡は、木材店となっているが、跡かたはまったくない。

  近藤亀蔵①

 近藤亀蔵については、『故郷燃える(①)』(神戸新聞社)におもしろいの記述があるので、引用させていただきたい。

 ・・・・「市場亀蔵、阿弥陀か釈迦か、お門(かど)通れば後光さす」と、当時の俗謡に歌われている。

 何でも相撲の番づけ表に見立てるのが日本人の好みで、江戸時代大はやりしたが、享保年間(1730年ごろ)に、はじめて「日本長者鑑(かがみ)」という長者番づけが出たとき、東西の両横綱として上げられたのは、東が出羽の本間、財産四十万で、西は播磨の近藤、六十万両であり、近藤家は日本一の大金持ちと折り紙をつけられた。

 寛政元年(1789)、わずか九歳で先代の跡を継いだ亀蔵は、文化、文政、天保へと40年間にわたり、いろいろなことに東奔西走した。

 相当の腕ききだったらしい。

 特に、回漕業(海運業)をもっとも手広くやり、大坂・兵庫・高砂・下関に倉庫をおいて、全国に船を派遣し、米や雑貨の売買で大もうけをした。

 もろん、「当国第一の銀貸し(銀行)」でもあった。

 幕府に相当な献金もしたのだろう、亀蔵という名も大坂城代からもらった。

 長蔵というのが元の名である。

 地元の小野藩、一柳(ひとつやなぎ)家の御用金もうけたまわって、とっくに苗字帯刀ご免だった。・・・・

 亀蔵について、もう少し『故郷燃える①・黒船編』より紹介したい。

*写真・近藤亀蔵

 

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加古川を歩く(28):加古川川筋一揆(3)・一揆の背景

2008-05-20 09:28:28 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

2a9cc640_5  加古川川筋一揆のおきた天保四年(1833)は、全国的なキキンで、日本中のあちこちで暴動があった。

 加古川流域でも前年の凶作に続き、この年も 植え付けの後、長雨が続いた。                                                               

 特に関東・東北地方の天候不順はひどく、米が不足し、米が値上がりした。

 世にいう「天保の飢饉」である。

 加古川川筋の商人は、米を大量に買占め、高砂に送った。

 そのため、川筋でも米の値段が上昇した。

 また、幕末の農村には肥料(干鰯・ほしか)商等が村に入りこみ。農民も商品経済にまきこまれていた。

 商人の中には高利貸を専門にした者もいた。

 当時、だぶついた金を投資する先がなかったのである。

 自然、高い利息でもとって庶民に金を貸すより方法がなかった。

 貧富の差が目立ってきた。

 百姓たちの間にムラムラと不穏な衝動が頭をもたげた。

 まず、多くの商人が集まる新町が狙われた。

 そして、一揆勢は加古川の東岸・西岸に分かれて図(『加古川市史・第二巻より)のように広がった。

 13日の朝には何千という大集団にふくれあがっていった。

 特に、小野市の市場(当時、太郎太夫村といった)に豪商・近藤亀蔵の屋敷があった。

 見事なまでにつぶされた。

 豪商・近藤亀蔵については明日のブログで紹介したい。

   

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加古川を歩く(27):加古川川筋一揆(2)・新町

2008-05-19 09:20:56 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

Kakogawawoyuku_073 加古川を闘竜灘(加東市滝野町)までさかのぼると、ゴロゴロとした岩石が川底からせりあがっている。

 昔は、今よりも水量が多くてここを流れる水は豪快な風景をつくっていたことであろうと想像される。

 しかし、高砂からここまでのぼった高瀬舟は闘竜灘が壁となり、これより上には進めなかった。

 そのためにすぐ下流が終点になる。

 一方、闘竜灘の上流から下ってきた船は、そのすぐ上でとまった。

 闘竜灘の地帯だけ、積荷はいったん陸上を運ばれ、上下の積みかえが行われた。

 そのためこの辺りは、米・その他の物資の集散地として栄えた。

 特に、闘竜灘のすぐ下流の新町には自然の岩を利用した船着場(写真)がある。Kakogawawoyuku_075

 新町という名も高瀬舟の舟運以来、ここはにわかに賑わいを見せたところからつけられた名前である。

 この新町の辻に、一揆を予感させる一枚の張り紙がコツゼンと現れた。

 天保四年(1833)九月十一日の早朝のことであった。

 その日は、何ごともなく過ぎた。

 これと同じような張り紙は、近隣の村々にも張られていた。

 翌、十二日の夕暮れ、遠くにかがり火が見えた。

 そして、夜のふけはじめためた頃、一団は川を渡り新町へとなだれ込んできた。

 手に手に、竹やりやクワを持っていた。

 一揆衆は、夜も11時ちかくになったころ米の仲買商を襲撃した。

 加古川川筋一揆は、新町からはじまった。

 *写真下は、船着場への道への表示板(新町)

  『故郷燃える①』(神戸新聞社・昭和45年)参照

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加古川を歩く(26):加古川川筋一揆(1)・一つの経済圏

2008-05-18 08:20:15 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

A5eb9f12 天保四年(1833)に加古川川筋を巻き込んだ加古川川筋一揆を取り上げたい。

 すでに述べたように、高砂は港町として大いに繁盛した。

 加古川流域の年貢米・綿等は、高瀬舟(たかせぶね・挿絵)で高砂に集められ、ここから大坂・江戸へ送られた。

 そして、帰りの舟で干鰯(ほしか)・その他の生活用品がそれぞれの流域の村々に運ばれた。

 この加古川の舟運については、後日項を改めて取り上げたい。

 江戸時代、加古川流域は、藩の枠を超えて、加古川川筋という一つの経済圏が成立していた。

 そのため、天保四年は、全国的な飢饉にみまわれ、各地で一揆がおきたが、加古川でも庶民の苦しみと怒りは一挙に広がりをみせ、加古川川筋全域を含む大規模な一揆にひろがった。

 一揆の序曲

 播磨は前年(天保三年・1932)も不作であった。どの村々も、夏には米のなくなった農家も少なくなかった。

 天保四年は植えつけの後に長雨が続いた。農民は暗く打ち沈んでいた。

 9月11日の早朝のことである。

 滝野町(加東市)新町の辻に一枚の張り紙がコツゼンと現れた。

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加古川を歩く(25 ):加古川は暴れ川(12)・河川工事進む(2)

2008-05-16 07:58:21 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

Kakogawawoyuku_066_3  1933年、当初の計画(10年)を 大きく延長し、16年の長期にわたり加古川改修工事は完成した。

 竣工式は、11月19日午前9より加古川町大橋南の河原で挙行された。

 官民あわせて千人が参列した。

 その日、加古川町内は美しく飾られ、旗行列や提灯行列などで大変な賑わいとなった。

 この長期にわたる工事は、600万円の巨費にものぼった。

 そして、この間に要した延べ人員は120万人で、死傷者も321人を出した。

 この大事業を記念して、加古川改修記念碑(写真)が建てられた。

 また、改修工事完成を記念して、「川祭り」を行うようになった。

 1934年(昭和9)11月、川祭りの第一日目に、加古川記念碑除幕式が盛大に行われた。

 記念碑は、加古川橋東詰めの春日神社のすぐ南にあるが、現在ではあまり知られることなく、ひっそりと川の安全を見守っている。

 なお、加古川の洪水については、4月4日のブログ「五ヶ井用水を歩く(13)・別府川」もあわせご覧ください。

*『加古川市史(第三巻)』参照

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加古川を歩く(24):加古川は暴れ川(11)・改修工事進む(1)

2008-05-15 09:25:19 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

6d8df0e4 加古川は、「河川法」により国の直轄事業として帝国議会で改修工事が決まった。

 (昨日のブログをご覧ください)

 しかし、工事はなかなか始まらなかった。

 工事への着手の順位をめぐって、全国で激しい競争が展開されていた。

 加古川河身改修期成同盟は、帝国議会へ工事開始の請願をした。

 ついに、大正七年度からの工事着手が決った。

 工事期間は、10ヵ年で、船頭(ふなもと・米田町)の南から荒井(高砂市)へ分流していた支流を締め切る工事を含む大改修工事であった。

 着工式は、大正1921年(大正10)日本毛織加古川工場の敷地で行われ、床次(とこなみ)内務大臣も出席した。

 その後、関東大震災の復興・軍事予算などのため、治水予算は大幅削減がもくろまれ、工事は順調に進んだのではない。

 工事が遅れれば、「明治30年の大洪水が再び起おこるだけでなく、近年発展しつつある沿岸工業地帯にも被害がおよび、さらに鉄道・山陽線を破壊し、わが国の重要な交通機関を途絶させる」等の理由をあげ、工事を計画通り進め、加古川改修工事が打ち切りになることがないよう陳情活動をおこなった。

 1926年(大正15)4月には加古川町付近が、そして、加古川新橋が竣工した。

 1928年(昭和3)には東岸の東神吉まで、西岸の神野村西条まで竣工した。

 これで総工事の8割が完成した。その後も、工事は続いた。

*地図の太い実線は、改修工事後の堤防(現在の堤防)・『加古川市史(第三巻)』参照

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加古川を歩く(23):加古川は暴れ川(10)・河川改修

2008-05-14 08:48:28 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

053 写真は、昨年の梅雨の頃の加古川である。

 長雨が続いたが、加古川は悠々と流れていた。

 しかし、明治時代、加古川はしばしば水害をおこし、その度に河川改修の要求が高まった。

 明治43年は、全国的に大水害にみまわれ、多くの死者をだした。

 国は、国の直轄事業として、すぐにでも工事を始めなければならない河川は全国に65あるとした。

 そして、これらの河川のうち20を選び「第一期河川」とした。

 加古川は、利根川や木曽川とともに、第一期河川に組み入れられた。

 この時選ばれた第一期河川は、以下の20河川である。

 利根川(茨城・千葉)・信濃川(新潟)・淀川(大阪)・木曽川(三重)・吉野川(徳島)・九頭竜川(福井)・高梁川(岡山)・庄川(富山)・遠賀川(福岡)・荒川(東京)・北上川(宮城)・阿賀野川(新潟)・雄物川(秋田)・最上川(山形)・神通川(富山)・岩木川(青森)・富士川(静岡)・斐伊川(島根)・緑川(熊本)そして加古川(兵庫)

 1911年(明治44)9月4日、次のように官報に告示された。

 兵庫県下加古川筋左岸加東郡福田村内大門村右岸河合村内復井村大門橋以下海ニ至ルマテ公共ノ利害ニ重大ナル関係アル河川ト認定シ本年九月十日ヨリ河川法ヲ施行ス

 加古川は、国の直轄事業として本格的改修工事が前進することになったのである。 

 河川法による総改修費は、3分の2を国が負担し、残りの3分の1は兵庫県の負担であった。

*『加古川市史(第三巻)』参照

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加古川を歩く(22):加古川は暴れ川(9)・河川改修要求なる

2008-05-13 08:54:52 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

2900da67_2  明治29・30年は、水害にみまわれた。

 そのため、加古川の本格的改修の要求が高まった。

 明治31年、加古郡・印南郡の17ヵ村は、「加古川河身改修期成同盟」を結成した。

 しかし、1904年(明治37)の日露戦争が、それに水をさした。

 経費節減のため河川改修実現への動きは頓挫してしまった。

 1907年(明治40)7月から9月にかけて、台風が次々来襲し、大きな被害があった。

 これをきっかけに、ふたたび河川改修要求の運動に火がついた。

 その後、河川改修の運動はさらに高まり、1907年貴族院・衆議院で「加古川は、天下の大川では及ばないが、その被害ははなはだしく、人民の苦悩は計り知れない。

 だから、関係人民の苦衷を察し、加古川に河川法を施行し、相当の改修をして、安心して暮らせるようにして欲しい・・・」とする河川改修の請願が採択されたのである。

 この請願は、3月13日の衆議院請願委員会に、そして、22日に衆議院本会議にかけられ異議なく可決された。

 加古川の水害の深刻なことが、中央の帝国議会で認められた。

 河川改修は、確実に動き始めた。

 地図は、1903年(明治36年)測量の五万分の一の地形図である。流路は、現在とだいぶ異なっている。

*『加古川市史(第三巻)』参照

 

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加古川を歩く(21):加古川は暴れ川(8)・明治30年の水害

2008-05-12 08:02:44 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

A22b547c_2 昨日のブログ「明治29年の水害」の続きである。

 翌、明治30年の9月にも台風は加古川を直撃した。

 被害は、前年を大きくしのぐ大災害となった。

 死者8名、傷者31名、建物の流失倒壊383棟、破損浸水14,389棟、堤防破壊破損31,854間、道路破壊破損52,795間、橋梁流出破損838ヵ所で被害総額は1,057,000円にものぼった。

 加古川流域の村々では、おりからのウンカの害にくわえ、収穫期に大水害を被ったため収穫のない田畑も多かった。

 生活に困窮し、土地を手放す者も続出した。

 土地売買の手続きが日々百件以上もあり、登記事務所は連日夜業をするほどであったという。

 これらの水害をきっかけに、加古川河川の本格的改修の要求がたかまった。

 国庫の補助が必要である。

 そのため1898年(明治31)、加古郡・印南郡17町村は「加古川河身改修期成同盟」を結成した。

*『加古川市史(第三巻)』参照

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加古川を歩く(20):加古川は暴れ川(7)・明治29年の水害

2008-05-11 09:15:10 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

2fb6821a 大雨の時、加古川の水位は高くなる。

 そんな時は、加古川の水の取り入れ口から、反対に大量に流れ込むことになる。

 そのため、取り入れ口の水門は閉じられる。

 しかし、困ったことがおこる。

 曇り川(神野町)に、それをみたい。

 曇り川は、ふだんはあまり流れがない。曇り川は、曇った時だけ水があるところから「曇り川」の名が付けれたという説まである。

 しかし、長雨が続いた時には、ここに一挙に大量の雨が集まり濁流となる。

 こんな時は、加古川へ排水する水門は閉じられるている。

 水の行き場がなくなる。

 曇り川の濁流は、曇り川が加古川に突き当たる加古川の水門辺りから流れを南へ変え、大野・加古川・そして海岸部へと押し寄せ、水害をおこした。

 加古川の水害史のパターンは、この例が多い。

 『加古川市史(三巻)』を引用したい。

 ・・・・1896年(明治29)、1897年(明治30)の両年、加古川流域では、水害により深刻な被害を被った。

 明治29年には、8月から9月上旬にかけて前線性降雨や台風により水害が頻発した。

 この時の状況について、例えば、9月10日付『神戸又新日報』は、次のように伝えている。

 *以下は、その記事の一部であるが書き変えている。詳しくは『加古川市史・三巻』をご覧ください。

 ・・・6日より、曇り川が氾濫し、加古郡西部加古川町・氷丘村・鳩里村等の各村一円は浸水し、氷丘村ごときは一村450戸のうち400戸が浸水し、 茫々(ぼうぼう)たる湖の如し。

 人々は、寺院または高地に避難し田面はことごとく没した・・・・

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加古川を歩く(19):加古川は暴れ川(6)・築山

2008-05-08 08:22:31 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

002 一昨年、7月17・18日のブログの内容と重なる。

 嘉禄元年(1225)、国包を襲った大洪水については、昨日のブログをご覧ください。

 この地は、加古川が大きく蛇行し、特に洪水が多かった。

 国包には写真のような人工の築山(つきやま)がある。

 洪水時の避難場所である。

 宝暦六年(1756)、国包出身の長浜屋新六郎という人物が、洪水で被害に困る住民のために私財を投げ打って築いたものだと伝えられている。

 当時は、水害のため飢饉の状態だった。004_2

 この工事により、多くの貧しい人々が仕事を得て救われたとも伝えられている。

 後年、この築山に土地の人々が感謝の気持ちと安全への祈りをこめ築山神社を築いた。

 尚、この築山には近くから見ると一本のように見える大樹(写真下)がある。

 この木は、二本の榎が一本のムクノキを両脇から包み込むような形で成長して、三本あわせた木の周囲は7mにもなる。

 樹齢は240年ほどで、築山を造ったときに植えられたともいわれている。

 樹木では唯一の加古川市指定の文化財となっている。

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加古川を歩く(18):加古川は暴れ川(5 )・国包

2008-05-07 11:00:11 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

001 右の標識をご覧願いたい。

 「国包」は、難解な地名の一つである。

 それに、こんな「丁寧な標識」をご覧になったことがあるだろうか。

 わざわざ「ここは上荘町の・・・」と説明がある。

 「国包は八幡町でしょうか?」と、加古川検定にも出題されそうです。

 というのは、国包は川東にあるが八幡町ではない。

 不思議なことに上荘町に属している。

 「元禄播磨国絵図解読図(部分)」(下図)をご覧願いたい。8718c39

 その昔、加古川は印南郡と加古郡の間を流れていたと考えられる。

 (郡境は聖武天皇の神亀三年(726)に創設された)

 記録によると国包は、もとは川西の村であった。

 村が移動したのではない。

 嘉禄元年(1225)、この地を大洪水が襲った。

 そのため国包村は流され、あとは一面の河原となった。

 この嘉禄の大洪水で加古川の流れも大きくかわったのである。

 現在でも、川の西岸の井の尻には国包の字、花の谷・稲中・城ノ下・岡入・河原などがある。

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