その後には、当然のように、おカミの厳しい取りしらべがまっていた。
加古川の流域には、そのころ領主の数は19もあり、複雑な行政区域に分かれていた。
こんな場合、幕府(大坂城代)が直接のりだした。
加古川川筋一揆は、もともと計画的なものではく、自然発生的な性格の一揆であった。
アジビラにしても、誰が書いたか分からない稚拙のものであった。
とはいえ、迷宮入りは許されない。でも指導者は、はっきりしなかった。
それまでの一揆の相手は領主か、その代理機関の庄屋たちであった。
しかし、川筋一揆は“もてる者”と“持たざる者”との争いで、富商が狙われた。
「一つの経済圏」(5月18日のブログ)でも述べたが、百姓たちが領域を超えて団結できたのも、加古川がつくるひとつの経済圏の中で同じ貧乏を味わっていたためであろう。
天保時代には、もはや幕藩体制のタガが緩みをみせていた。
一揆のスタイルも直接的な激しい「打ちこわし」となんら変わらないものであった。
小野藩・三草藩などは荒れるにまかせ、一揆が自然に静まるのを待つだけのふがいない醜態をさらけ出した。
この一揆は、一時的にしろ、米の川下げをはばんだ。そして金持ちや領主たちを恐れさせ反省させた。
が、その後の農民の生活は改善されなかった。
*「加古川を歩く:加古川川筋一揆」は今回で終わり、次から「加古川の舟運」を予定しています。史料・写真等が十分でないため蒐集します。そのため。ブログを2~3日休みます。