ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

大河・かこがわ(59) 古墳時代(26)  地蔵寺古墳(加古川市・平荘町池尻) 

2019-09-30 10:32:42 | 大河・かこがわ

        地蔵寺古墳(加古川市・平荘町池尻

 地蔵寺古墳は、平荘湖の東端の山の麓にある地蔵寺の建物の下に開口しています。

 群れをなさずに、単独で造られている終末期(7世紀)の古墳です。

 切石に近い横穴式石室で玄室長3.6m、幅1.7m、船頭1.7m以上の古墳で、墳丘は地蔵寺の建立に伴い削られたようで、旧状をとどめていません。

 もともとは円墳であったと考えられ、石室内から遺物は採取されていません。

 石室に入るとまず感じることは、石が見事に組み合わされ、精巧に造られていることです。

 奥壁、天井には巨石を使用し、側壁は石材を巧みに組み合わせて、表面をノミで平らに削っています。

 奥隅には、L字に加工した石材を一部コーナーに使用しています。

 お訪ねください。

 地蔵寺は、見つけにくい場所です。

 お寺さんにお尋ねください。

    平荘地区は石棺仏(石仏)の宝庫

 なお、地蔵寺境内には、石棺の身の側板を利用した地蔵石棺仏(せっかんぶつ)六地蔵石棺仏が残されています。

 平荘地区には、地蔵寺だけでなく、たくさんの石棺仏や石仏があります。

 平荘地区の石棺仏(石仏)については、鎌倉時代のところで、改めて紹介する予定です。(no4748)

 *写真:地蔵寺古墳(インターネットより)

 *『加古川市史(第四巻)』参照

 

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大河・かこがわ(58) 古墳時代(25) (民話)又平新田の弁天さん

2019-09-29 09:55:19 | 大河・かこがわ

 前号で稚児が窟(ちごがくつ)古墳の石棺を紹介しました。

 この古墳には、弁天さんの民話があります。

 古墳時代の話ではありませんが、余話として紹介しておきましょう。

    (民話)又平新田の弁天さん

 平荘湖の底に沈んだ又平新田村に弁天池という大きな池があり、池の北東隅の島に弁天さんがおまつりしてありました。

 この島は古墳で、弁天さんが、しばしば稚児に化けて、池の表面にあらわれたという言い伝えから、村人は稚児が窟(ちごがくつ)と呼んでいました。

 むかし、この村に彦衛門という人がいました。

 池守りなどをしていたので、毎日池に行き、いつの間にか弁天さんと心安くなっていました。

 ある日、彦衛門はいつものように池の廻りを歩いていると弁天さんが手招きしていいました。

 「いっぺん、あなたの家に遊びに行きたいが、私は天界の身、人に見られると困るので、家の者をみんなよそへやってもらえんやろか・・・」

 彦衛門は、うれしくなって、急いで家に帰りました。 

 何とか口実をつくり、おかみさんに親類へ行くよう言いつけました。

 おかみさんは、「きっと何かあるぞ」と思いました。

 村はずれまで行き、途中で引き返えすと、あんのじょう、家の中から女の人の声が聞こえてきます。

 彦衛門が、綺麗な着物を着た美しい娘と話しているのでした。

 おかみさんが、のぞいているのを見つけた弁天さんは、「下界の人に見られては、ここに居ることはできません」といって立ちあがりました。

 彦衛門は、袖を持って、もどそうとした拍子に、袖がちぎれ、ちぎれた錦の片袖だけが残りました。

 島に帰った弁天さんは、「ひとところに長くいては、なじみができていけない」と、淡路島へ行ってしまいました。

 弁天さんがいなくなった又平新村では、それから、この片袖をご神体としてお祭しているといわれています。

又平新田村の弁天社は、平荘湖の建設により、現在、湖の南東の堤防に新しく移築(写真)されています。(no5757)

 *『ふるさとの民話』(加古川青年会議所編)参照

 *写真:弁財天神社(「大河・かこがわ‐56‐」の古墳分布図の稚児ヶ窟古墳の近くの▲の所)

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大河・かこがわ(57) 古墳時代(24)  稚児ヶ窟古墳石棺の身と蓋

2019-09-28 07:51:38 | 大河・かこがわ

 平荘湖の湖底の中ほどに、かつて稚児ヶ窟(ちごがくつ)古墳と呼ばれた池尻16号墳がありました。前号地図で稚洞ヶ窟古墳のあった場所を確認ください。

 この古墳の石棺は、市内最大の石棺で、蓋と身がそろうめずらしい例です。

     稚児ヶ窟古墳石棺の身

 石棺の身は、志方町の投松(ねじまつ)公会堂の庭に置かれています。

 長さ228㌢、幅142㌢、高さ95㌢の堂々とした大型石棺です。

 内部は土が詰まっています。

 石棺の前に立つと、その大きさが実感できます。

 この石棺に身の部分について、石棺の側に次のような説明(加古川市教育委員会)があるので読んでおきます。

 ・・・この石棺の身は、かつて平荘ダムに水没した稚児ヶ窟古墳にあったものを姫路藩主、榊原式部太夫が泉水に使うため運ぼうとしたが、重くて投松峠に放置したという記録がある。

 昭和11年、県道拡張の時、ここに運んできたと言われている。

    稚児ヶ窟古墳石棺の蓋

 この石棺の蓋は、平荘湖畔、弁天社の広場に置かれています。

 とにかく、デカイ石棺の蓋です。

 被葬者は、在地系豪族と考えるよりも畿内から移ってきた有力豪族の墳墓と考えたほうが良いのかもしれません。

 蛇足ですが、投松は「ねじまつ」と読みます。クイズになりそうな集落の名前です。(no5756)

 *写真上:稚洞ヶ窟古墳出土の石棺の身、

  同 下:稚洞ヶ窟古墳出土の石棺の蓋

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大河・かこがわ(56) 古墳時代(23) 平荘古墳群・カンス塚古墳の場所は、どこ!

2019-09-27 09:57:53 | 大河・かこがわ

         カンス塚古墳の場所は、どこ!

 平荘湖のあたりには、かつて図のようにたくさんの古墳が集中していました。

 私事ですが、最近、腰痛の治療を兼ねて散歩をしています。

 たくさんの古墳を見ることができます。

 アクア交流館の前あたりでは、一部が水面に浮いたように姿を現わしている古墳を眺めながら散歩をしています。

 地図で「金のイヤリング」が出土したカンス塚古墳の場所を確かめてください。

 以下の説明は『加古川市史(第一巻)』の記述をお借りしていますが、文章(文体)・記述等は、少し変えています。

     平荘湖古墳群の語ること

 海浜の工業地帯に用水を供給する平荘ダム建設のために、多くの古墳が平荘湖に沈んでしまいました。

 工事に並行して、1962年(昭和37)から66年にわたり、数次の調査が行われました。

 水没した古墳は約50基ですが、升田山に約11基、飯盛山に約5基の古墳が残っています。

 かつては、かなりの数の墓古墳がありました。

 これだけの古墳をつくった人々の生活の基盤になったのは、ここから南西に広がる平野部であったと考えられます。

 加古川右岸(東岸)は、早くから開発が進み4・5世紀を形成する勢力が存在していました。

 が、それに比べると左岸(西岸)はやや遅れ、6世紀になって、豪族はようやく大きな勢力に成長したとみてよいでしょう。

 

 このように、左岸の開発が遅れたのは、加古川の河口部の分流がほとんど左岸に集中しており、西岸の平野部の流れが長く安定しなかったためと考えられます。(no4755)

 *『加古川市史(第一巻)』参照

 *地図:平荘湖周辺の古墳群

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大河・かこがわ(55) 古墳時代(22) 金のイヤリング(カンス塚古墳出土)

2019-09-25 11:11:18 | 大河・かこがわ

         金のイヤリング(カンス塚古墳出土) 

 平荘湖古墳群のほとんどの古墳は6・7世紀のものです。

 その中にあって、カンス塚古墳は5世紀後半にさかのぼり古い古墳です。

 カンス塚古墳は、平荘湖の建設に伴い湖底に沈んだ全長30メートルの古墳でした。

 一部盗掘されていましたが、玉類などの装身具・刀剣・鉾・やじり・鎌・斧・砥石・須恵器それに鉄鉗(かなはし)・槌などの鍛治具など多くの種類の出土品しています。

 出土品も朝鮮半島南部の渡来した工人により須恵器・製作技術によるものも多く含まれています。

 なかでも一対の金のイヤリング(写真)は注目を集めました。

 県下でも、加古川市の他に2例(姫路市と龍野市の古墳)があるだけです。全国でも、50ほどの出土例しか知られていません。

 このイヤリングも朝鮮半島からもたらされたもので、カンス塚古墳の主とその交易関係に興味が持たれます。

 それにしても、カンス塚の「カンス」とはどんな意味でしょう。前々から気になっていました。

 この古墳から出土した鉄鉗(かなはし)に注目してください。

 この鉄鉗の形がカンス塚古墳の形(帆立貝式古墳:前方後円墳の前方部が短いもの)に似ており、カンスはカナハシが変化した単語であるというのです。

 また、「カンスは鉄・銅で作った湯沸かし器や茶の湯で用いる茶釜をいう」と辞書にあります。

 今のところ、定説はありません。(no4754)

 *写真:カンス塚古墳出土の金のイヤリング

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大河・かこがわ(54) 古墳時代(21) 宮山古墳(加古川市八幡町)

2019-09-24 10:30:15 | 大河・かこがわ

 天満大池に沿った西の道(県道宗佐・土山線)を北へ車を進めると、やがて加古大池の西に出ます。

 さらに、北へ少し行くと八幡町野村の手前で、道は坂をつくって八幡町へと急降下しています。

 ちょうど、坂を下る手前辺りから印南野台地が西へ舌を出したように城山(じょやま・加古川市神野町)にむかって伸びています。

 この舌のように伸びた台地こそ、古代文明の舞台であり、縄文・弥生・古墳・白鳳時代の人々の生活の跡がいっぱい詰まっています。

 『加古川市の文化財』を参考にして、宮山遺跡を訪ねてみます。

       宮山古墳(加古川市八幡町)

 宮山遺跡は、八幡町上西条(かみさいじょう)と中西条の間で、上記の舌のように伸びた印南野台地から、さらに北へ突き出たところにあります。

 昔、ここは上西条と中西条の共有地で、自由に土を取っていました。

 昭和39年頃、この土砂が採集されていた場所から遺物を含む層がみつかりました。

 昭和40年に一部、発掘調査が行われ、縄文時代後期の遺跡で、住居址や祭祀跡とみられる遺構が発見されました。

 また、山頂部に古墳が集中しており、宮山大塚(中期古墳)の他、後期古墳五基が確認されています。

 保存状態は悪くないのですが、江戸時代に盗掘されたらしいのです。

 宮山は小さな丘です。

 登り道は、桜並木で、春には桜いっぱいの丘になります。(no4753)

 *『加古川市の文化財』(加古川市教育委員会)参照、

 *写真は宮山古墳の一基。

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大河・かこがわ(53) 古墳時代(20) 二塚古墳(加古川市神野町)

2019-09-23 07:58:52 | 大河・かこがわ

     古墳時代(20) 二塚古墳(加古川市神野町)

 夏の日でした。

 稲根神社(いなねじんじゃ)の裏にある二塚古墳の写真を撮りに出かけました。

 昼間の熱い日で、強烈な薮蚊の襲来でした。

 縞々模様の蚊が数匹、尻尾を高くして脚に止まっています。

 早々に退散したことを覚えています。

     二塚古墳(加古川市神野町)

 稲根神社のある小さな丘の裏に、二つの円墳があります。

 二基の古墳が近接しているところから考えると夫婦塚とも考えられます。

 2号墳は、1号墳よりやや高いところにあり、石造りも若干丁寧な造りです。

 2号墳の方が1号墳よりも少し早く造られているようです。

 2号墳の築造時期は、石室の形態や見つかった須恵器などから6世紀後半の古墳と思われますが、1号墳もあまり時期は違わないと考えられます。

 二塚古墳のあるこのあたりは、加古川地方では最も早く米作が始まったといわれています。

 古墳の被葬者は、米つくりにたずさわった経済力を持っていた有力な人物だったのでしょう。

 

 以下は、余話です。

 稲根神社のあるこの集落は、江戸時代はこの二つの古墳にちなみ二塚村と呼ばれていました。

 明治9年に加古郡手末村(てずえむら)と合併して神野村となりました。(no4752)

 *『加古川市史(第四巻)』参照

 *写真:二塚2号墳

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大河・かこがわ(52) 古墳時代(19) 人塚被葬者は、西条廃寺の建造者か?

2019-09-22 11:19:21 | 大河・かこがわ

           西条廃寺と人塚

 神野町西条の城山(じょやま)から南に伸びる標高30メートルばかりの台地に西条廃寺があります。

 西条廃寺(白鳳時代)については、後に調べることにしましょう。

 写真は、西条廃寺の塔跡の一部から正面の森を撮っています。

 その森は、5世紀古墳の人塚古墳です。

 西条廃寺は7世紀に、人塚古墳に接して建設されました。

 古代寺院の側に古墳がしばしば見られる場合があります。

    人塚被葬者は、西条廃寺の建造者か?

 歴史学者は、「古墳の有力な被葬者が、この頃仏教文化を取り入れ寺院をつくった」と考えています。

 古代人は、基本的には、素朴な森や大きな岩(磐座)など自然物を神として崇拝していました。

 やがて、日本へ仏教が伝えられました。

 それとともに寺院や仏像が伝わりました。

 その煌びやかさに、驚きと、崇拝の気持ちを、仏教に衣替えした豪族も多かったようです。

 彼らは、古墳の近くに寺院を築造しました。

 人塚の場合もその代表的な例といえそうです。

 西条廃寺を建設した人塚の被葬者ではないかと考えられるのです。(no4751)

 *写真:西条廃寺の塔跡の一部から正面の森(人塚古墳)を撮影

 

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大河・かこがわ(51) 古墳時代(18) 西条古墳(群集墳)と西条52号古墳

2019-09-21 08:32:46 | 大河・かこがわ

     西条古墳(群集墳)と西条52号古墳

    西条群集墳 

 山手中学校の北方、西条の丘陵地帯に、かつて約30基ばかりの古墳がありました。

 これらの古墳は、1963年(昭和38)にはじまった住宅造成工事により全て破壊されてしまいました。

 現在は、規模の大きな行者塚(ぎょうじゃづか)・尼塚(あまづか)・人塚(ひとづか)を残すのみです。

 現存する3基の古墳などから判断して、これらの群集墳の多くも5世紀古墳で、4世紀古墳の多い日岡古墳群より新しい古墳です。

 これらの古墳は、日岡古墳からの墓所の移転ではなく、異なる豪族墓所であったのだろうと考えられています。

 西条の群集墳の破壊は、宅地造成とはいえ残念なことです。

一度破壊された遺跡は復元することができません。

    西条52号古墳

 古墳の調査中、城山(じょやま)の西隅にある古墳は、他の古墳よりはるかに時代をさかのぼる、およそ3世紀の前半の古墳であることが分かりました。

「西条52号古墳」(図中の赤印)と命名されました。

 西条52号墳は径約15mの円墳で、わずかに盛り土があり、播磨地方でも発見例の少ない弥生時代の墳丘墓でした。

 鏡(内行花文鏡)・鉄・高杯・壷等が出土しています。(no4750)

 *『加古川市史(第四巻)』(加古川市史編さん委員会)参照

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大河・かこがわ(50) 古墳時代(17) 行者塚古墳(4)、日岡山から西条への移動の事情

2019-09-19 19:25:47 | 大河・かこがわ

       日岡山から西条への移動の事情

  加古川市には、大きく日岡山古墳群、西条古墳群、そして平荘古墳群があります。

  もちろん、この外にもたくさんの古墳がありますが、行者塚古墳は、西条古墳群に属しています。

 日岡古墳群の多くは、4世紀古墳であり、西条古墳群は5世紀古墳が中心です。

 この二つの古墳の関係が気になります。

 二つの古墳群の関係について、大阪大学の都出比呂志教授は、次のような見解をシンポジウムで述べられておられます。

 「・・・加古川のこの地方では、この行者塚古墳は5世紀の古墳ですが、その前には4世紀代には、日岡山に有力な墓があったんですね。

 ところが、この行者塚古墳の時期になりますと、(日岡山から西條に)移動する。

 その動く時期は、ちょうど大和や河内の大きな古墳が動く時期と一緒なんです。

 ・・・・ということは、・・・大和・河内という当時の政治的な先進地である中央との動きと、地方の動きとが連動している。

 ・・・・実は、この4世紀、5世紀の時代というのは、日本列島各地の王様がお互いに誼を通じた仲良しの連合というものを作っているわけですね。

 ですから、大和東南部に非常に大きな力を持った王様の時期は、その人達と誼を通じた人達は全国にネットワークを持っていた。

 大和の東南部を4世紀に支配していた人は、日岡山の王様と仲良くしていた。5世紀になって河内を拠点とする違う人が治めた時には、西条の王様と仲良くする・・・

 つまり、都出教授は、日岡山から西条への古墳への移動は、中央の支配者の変動に連動した動きと指摘されています。(no4749

*『開かれた古墳時代のタイムカプセル』(加古川市教育委員会)参照

*写真:西造り出し部の埴輪(デプリカ)、背景は行者塚古墳の後円部(インターネットより)

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大河・かこがわ(49) 古墳時代(16) 行者塚古墳(3)、加羅(任那)への援軍

2019-09-18 14:10:22 | 大河・かこがわ

        加羅(任那)への援軍   

 古代史の専門家は、行者塚出土の大量の埴輪(写真は一部)は、5世紀初期の古墳であると結論づけています。

 ここからは、素人(私)の無責任な想像をまじえますので、そのつもりでお読みください。

 行者塚古墳の出土品の中には朝鮮半島南部からの遺物が多いのです。

 これは、中央(奈良地方)の豪族が、朝鮮南部から得た品物を、地方の豪族に与えたものとも考えられますが、それにしては行者塚古墳には多すぎるのです。

 行者塚古墳の主は、中央の豪族にとって、それほど特別な豪族であったとも思えません。

 5世紀の朝鮮半島の情勢は、百済・高句麗・新羅・加羅(から)、それに中国が複雑に絡み合っています。

 つまり、お互いに相手の領土を狙っていました。

 行者塚古墳から出土品から考えて、行者塚の主は加羅(任那)との交流が深いようです。

 加羅(任那)は、これらの国の中でもっとも弱小の国(地方)でした。

 とするなら、当然加羅は、他国と同盟を結んだり、援軍を求めたりしなければ国を守ることはできません。

 西日本や北陸の海岸にある古墳にも、行者塚と同じく、加羅地方の遺物を多く持つ古墳があります。

 これらの古墳の主は、加羅へ直接援軍を送ったのではないか。あるいは、食料援助とも考えられるのです。

 そして、交流(貿易)の他に、「援助の見返りとして、加羅からたくさんの宝物を得たのではないか」と考えるのです。

 いかがでしょうか。(no4748)

 *写真:東北造り出し出土の家形埴輪(『行者塚古墳)加古川市史編さん室)より

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大河・かこがわ(48) 古墳時代(15) 行者塚古墳(2)、朝鮮半島南部との交易

2019-09-17 15:15:52 | 大河・かこがわ

    行者塚古墳(2) 朝鮮半島南部との交易

   行者塚古墳からたくさんの遺物が発掘されています。

 そのうち、前回紹介した帯金具は中国・晋(しん)の時代のもので、朝鮮半島の金海(朝鮮南部)から伝えられたと考えられています。

 中国大陸のものが交易により朝鮮に渡り、それが日本へ交易により伝えられたのでしょう。

 その他、多くの種類の遺物があります。

 巴型銅器(写真)は、新羅の慶州・釜山の金海あたりの古墳でも発見されています。

 それに、馬具なども朝鮮南部製と考えられています。

 そのほか、鉄鋌(てってい・鉄の板がね)等が発見されていますが、それらは朝鮮半島南部のものと思われます。

 今後、鉄の成分分析が行われると、さらに、詳しく生産地等が特定されることでしょう。

 つまり、行者塚古墳の遺物は大陸の、特に朝鮮半島南部の香りをいっぱい詰め込んだ古代のタイムカプセルです。

 それでは、行者塚古墳の築かれた時代、行者塚古墳の被葬者はどんな人物なのでしょうか。

  次回、考えてみます。(no4767)

  *『開かれた古墳時代のカプセル(記録集)』(加古川市教育委員会)参照

  *写真:巴型銅器

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大河・かこがわ(47) 古墳時代(14) 行者塚古墳(1)、古代からのタイムカプセル

2019-09-15 09:35:12 | 大河・かこがわ

        古墳時代(14)    

      行者塚古墳(1) 古代からのタイムカプセル

 加古川市行者塚古墳(ぎょうじゃづか)古墳は、神野町西条の城山(じょやま)から東に続く加古川左岸(東岸)の丘陵に築かれた前方後円墳です。

 かつて、この辺りには、古墳時代後期の群集墳が多数存在していましたが、そのほとんどは昭和38年(1963)よりはじまった宅地開発にともなって姿を消してしまいました。

 今は、規模の大きな行者塚・人塚・尼塚が残るのみです。

 ここは、昭和48年(1973)「西条古墳群」として国の史跡指定を受けました。

 行者塚古墳の第一次調査(1995)、第二次調査(1996)の調査は、驚くべき内容を明らかにしました。

 その一部を『行者塚古墳(発掘調査報告)』(加古川教育委員会・1997)に見てみます。

 なお、他の人塚・尼塚および西条廃寺については、後に紹介しましょう。

 現在、行者塚古墳は、加古川市山手二丁目となっていますが、山手二丁目は、元八幡町中西条と神野町西条の一部が、宅地造成に伴い、昭和58年11月21日新しく設営された地域です。

 行者塚古墳は、古代の不思議をいっぱい詰めたタイムカプセルでした。

 「行者塚古墳の秘密」を、紹介しましょう。(no4766)

*写真は、行者塚古墳から発見された帯金具。

 『行者塚古墳(発掘調査報告)』(加古川市教育委員会)参照

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大河・かこがわ(46) 古墳時代(13) ヤマトタケル物語(9)、ある歴史学者の思い(苦い経験)

2019-09-14 11:49:09 | 大河・かこがわ

      ある歴史学者の思い(苦い経験)

 歴史学者、佐原真氏は『日本の歴史(一)・日本誕生』(小学館)で、次のように述べておられます。

 ・・・梅原猛氏書き下ろし・・・新歌舞伎・ヤマトタケルを見た。

 分かりやすく、おもしろく・・・記録的な観客を集めたのも当然である、と思う。・・・

 (しかし)作者の意図に反して、見る者、聴く者にすべてが事実だと誤解した観客もいたのではないか。

 おもしろさと分かりやすさによいしれながら私の半分は目覚め、神話・歴史・考古学の研究成果のむずかしさ、それを一般向きに説明することの、いかに困難かをかみしめている。

 佐原氏だけでなく、多くの学者の思いではないかと思われます。

 というのは戦前、歴史教育の中で、「ヤマト・タケル」は、「皇国史観」の中心と扱われ、結果戦争推進の一翼を担わされたにがい過去があります。

 もちろん「ヤマトタケル」には責任のない話です。 

 現在、また社会は「きな臭い」世相になってきました。

 私的なことですが、私は「ヤマト・タケルの物語」が大好きです。

 物語として楽しみ、歴史的な意味を学びたいのです。

 今の時代に「なぜ、ヤマト・タケル」をことさら強調する必要があるのでしようか。

 きな臭い、別の意味を感じざるを得ません。

 今しばらくは、一つの物語として読み、科学的な歴史的を考えることにしましょう。

 *写真:日岡御陵、稲日大郎姫命(いなびのおおいらつめのみこと‐ヤマトタケルのお母さん)の御陵とされています。

 

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大河・かこがわ(45) 古墳時代(12) ヤマトタケル物語(8)、『風土記』にヤマト・タケルが登場しない

2019-09-12 08:45:34 | 大河・かこがわ

   古墳時代(12) ヤマトタケル物語(8)

    『風土記』にヤマト・タケルが登場しない

 古事記・日本書紀のクライマックスに登場するヤマト・タケルですが、時を同じくして書かれた『播磨風土記』に登場しないわけがありません。

 不思議なことに『播磨風土記』のどこにもヤマト・タケルの姿はありません。

 あるのは、ヤマト・タケルのお母さんとお父さん(景行天皇)の愛の物語ばかりです。

 これは何を物語るのでしょうか。

 『播磨風土記』の研究家である、岩坂純一郎氏は『東播磨の歴史1・古代』(神戸新聞出版センター)で、「・・・ヤマト・タケルがなぜ地元で編集された風土記に登場しないのかを考察することは重要です。

 私の認識不足かも知れませんが、これまで『播磨風土記』にヤマト・タケルが登場していないことに疑問を抱かれた研究はほとんどありません。

 ・・・・『播磨風土記』にヤマト・タケルが登場していない理由を考えていくこともこれからの課題の一つとして問題提起をさせていただきます」と書かれています。

 私は、「よく非常に独断的な意見を言う」とおしかりを受けますが、あえて、書かせていただきます。

 風土記がまとめられた時代、加古川地方にはヤマト・タケルの話はなかったのではないか・・・ないものは書けないという訳です。

 ギリシャ神話に登場するような英雄が加古川に誕生したという物語は痛快な話のですが、ヤマト・タケルの話は地元にはなかったのではないかと想像します。

 こんなこと書くのは、少々気が重い・・・

 *写真:武人の埴輪、記事とは直接関係がありませんが、ヤマト・タケルの姿が想像されます。(no4764)

 

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