ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(163) 野の仏たち(2)・八ッ仏(平荘町小畑)

2018-04-30 06:34:21 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

    八ッ仏(平荘町小畑)

 「八ッ仏」(やつぼとけ)を訪ねました。

 前日は、雨のせいで小川には近くの山から気持ちの良い流れの水音が聞こえてききます。。

 遠くでカラスが鳴いていました。

 あぜ道を急いでいると足元に蛇がいたのです。この時期にヘビを見るのはめずらしい。

 ハッ仏は、春のあたたかい日差しの中でした。

 八ッ仏の所在地は、加古川市平荘町小畑字八ッ仏です。

 小畑の集落から北西約500mの山麓にあります。

 石仏の名が小字名として残っている例はめずらしい例です。

 説明板(加古川市教育委員会)を読んでおきます。

 石仏・・・この石仏は大型石棺の家型石棺の蓋に八体の仏像を彫ってあり、俗称「八ッ仏」として祠られています。

 この石棺は、後にある古墳から出土したものでしょう。

 石仏には、銘はありませんが、南北朝時代に彫られたものと思われます・・・(以下略)

 説明板では、南北朝の作としていますが、田岡香逸氏は、『加古川市史(第七巻)』で、「・・・南北朝時代にさかのぼるものとは考えられず、まず、室町前期の1450年ころの造立として、ほとんど誤りではないであろう・・・」と指摘されています。

 それにしても、不思議なことは八体の石仏を彫っていることです。

 石仏として八体の例は他に見られません。

多いほど「御利益」があるのでしょうか。‥‥(no3442

 *『郷土の石彫』(加古川市学会)・『加古川市史(第七巻)』参照

 *写真:八ッ仏

 ◇きのう(4/29)の散歩(11.258歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(162) 野の仏たち(1)・神木(平荘町・こうぎ)の石棺仏

2018-04-29 07:48:10 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

このあたりで、鎌倉時代を中心とする「野の仏たち」を訪ねることにします。

    野の仏たち(1)

    神木(平荘町)の石棺仏・一結十六人衆

 加古川地域には不思議な石仏がたくさんあります。

 石棺の蓋、あるいは身の部分に仏を刻んだ石棺仏です。

 これらの石棺仏は、鎌倉時代から室町時代にかけてさかんに造られましたが、その後、なぜかプツリと姿を消します。

 鎌倉時代、水田の開発が盛んで、土地が新たに開墾されました。

 この時、多くの古墳も壊され、出土した石棺は、仏像を彫る材料として再利用されたのでしょう。

 単なる廃物利用ではなさそうです。

当時の人々も、この石材は、死者を葬った石棺であることを意識していたのしよう。

 石棺仏は、全国に120基ほど確認されていますが、その8割が加古川史、加西市地域に集中しています。

 その理由を知りたいのですが、今のところはっきりとしていません。

 加古川市・加西市地域では普通に見られるこれら石棺仏ですが、珍しいものです。

 写真は、神木(こうぎ・平荘町神木)の石棺仏(鎌倉後期)の石棺仏である。

    一結衆十六人

 鎌倉時代の庶民は裕福ではありませんでした。

 これら石造物の造立者は、有力な農民だったと思われますが、それにしても独力で造立するには負担が大きすぎたようです。

 信仰で結ばれた多数者の発願で造立している石造物が多いようです。

 個人の墓塔となるのは、次の室町時代を待たねばなりません。

 神木(写真)の石棺仏も写真では確認しにくいが、右下に「一結衆十六人」と刻んでいます。(no3441)

 *『兵庫探検(続歴史風土編)』(神戸新聞社)参照

 ◇きのう(4/28)の散歩(12.411歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(161) 余話として、南朝正閏論(2)・北朝年号

2018-04-28 06:12:39 | お爺さんが語る郷土の歴史

 前号の続きです。

 円福寺(東志方高畑)の本堂に向かって右隅に、県指定文化財の宝筐印塔(ほうきょういんとう・写真)があります。宝筐印塔には康歴元年の銘が刻まれています。

      北朝年号(康歴元年)

 「康歴元年(1379)」は、南北朝時代の北朝年号で、南朝年号では天授五年です。

 赤松四代当主・義則が赤松家所領の五穀豊饒を願い、また「一結衆」とあるところから赤松一族の安寧祈願、さらに赤松一族の供養塔として造立したものと思われます。

 この宝筐印塔の「北朝年号」からもわかるように、赤松本家は、曲折はあったものの足利尊氏(北朝方)として活躍し、後醍醐天皇(南朝方)に敵対し、時代を乗り切ります。

    円福寺(東播磨地方)は北朝方

 江戸時代までは、北朝側であろうが、南朝側であろうがあまり問題とならなかったのですが、明治時代となり突如「南朝正閏論(せいじゅんろん)」が声高に叫ばれるようになりました。 (*南朝正閏論については前号を参照ください)

 そして、日本が戦争に突き進んでゆくにつれ、北朝を支持した赤松氏の逆賊度はますます高くなり、赤松氏は歴史の上、全く評価されなくなってゆきました。

 明治時代~戦前にかけて北朝支持を色濃く残す円福寺の立場は微妙であったと想像します。

 戦後、そんな歴史は間違いであるとして、足利尊氏・赤松氏の再評価がなされるようになりました。

 円福寺の宝筐印塔の加古川市教育委員会の説明には「・・・基礎正面に康暦元年の銘がり南北時代の遺品であることがわかる・・・」とありますが、北朝年号であるとの説明がありません。

 「北朝年号の説明がないのは、なぜ?」。もどかしい気持ちが少し残ります。(no3440)

 *写真:円福寺の本堂に向かって右隅の宝筐印塔

  ◇きのう(4/27)の散歩(10.821歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(160) 余話として・南朝正閏論(1)

2018-04-27 07:19:43 | お爺さんが語る郷土の歴史


 南北朝時代は、一つの時代に二人の天皇がいるという異常な時代となりました。

 私たちの地域は北朝方に属していました。そのことが歴史研究に大きな影響(弊害)となりました。次の話題の前に「南朝正閏論(なんちょうせいじゅんろん)」に触れておきましょう。

      南朝正閏論(1)

 「南北朝正閏論」、もうあまり聞かれなくなった言葉です。

 南北朝正閏論の発端は、明治44年1月15日の「読売新聞」の社説でした。

 ここでは水戸学の南朝正当論から「学校の歴史の教科書で南朝と北朝を並べているのはおかしい」という論調です。

 第二次桂内閣の時でした。

 野党の立憲国民党はこの問題を倒閣運動に結び付けようと飛びついたのです。

 桂太郎は、元老の山片有朋に相談して明治天皇の勅裁を受け、ここで法律として南朝が正当であると決められたのです。

 以来、足利尊氏は『逆賊』とされました。

 昭和9年には、「足利尊氏は人間的なすぐれた人物である」と書いたために斉藤実(まこと)内閣の商工大臣は辞職に追い込まれるという事件もおきました。

 戦前、足利尊氏は完全に『逆賊』とされてしまいました。

    足利・赤松一族の研究は戦後

 ことは足利一族だけにとどまりません。後に述べる播磨の赤松一族は、足利の家来として活躍した武将です。

 となれば、当然赤松も逆賊扱いということになります。

 したがって、東播磨地域は赤松の勢力下にありました。つまり、北朝方でした。

 そのため、戦前赤松一族の公平な評価・研究はなされませんでした。

 赤松の研究は戦後になってからの事です。(no3439)

 *写真:北朝の年号を持つ円福寺(志方町高畑)の宝篋印塔(詳細については次号で)

 ◇きのう(4/26)の散歩(11.776歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(159) 余話として・加古川市内の中世石造物

2018-04-26 06:47:04 | お爺さんが語る郷土の歴史

 加古川地域にある、石造物について『加古川市史(第七巻)』の一部読んでおきます。(文体は、すこし変えています)

    加古川市内の中世石造物

 県下に鎌倉時代の石造物は50基あるのですが、このうち播磨は26基で、その中で、加古川市が11基を占めています。

 しかも、1基を除くと、他はすべて平荘町に集中しています。

 同町の鎌倉中期の歴史を研究する上で貴重な史料です。

  注目すべきは、石造物の内、層塔の分布が目立って多いということです。

 中世の石造物の内、層塔は規模が大きく、それだけに製作に要する費用がかさみます。

 その分布が地域の経済的基盤を反映するといってよく、5基が平荘町・上荘町に分布し、中で3基が中期、2基が後期であることは、鎌倉時代における平荘町の経済的基盤がきわめて豊かであったことをしめしています。

  次に、年代のあるその他の石造物についても考えてみます。

 加古川市域に分布している中世の石造物、すなわち慶長末年(1615)以前のものは43基を数えます。

 このうち平荘町は18基を占めています。

 造立に要する負担が重く、その分布がまた地域の経済力を反映するものとみなければならないから、このことからも中世の平荘町の豊かさが知られます。

 ・・・・

 『加古川市史』は中世の石造物が平荘町に多いのは、当時(中世)の平荘町の経済的豊かさにあるのだろうとされています。

 経済的に豊かな地域は、平荘地区だけでなく各地にあったと思われます。

 それでは、なぜこの地域に特に多くの石造物が多いのかという疑問が残ります。

 ここから、素人の飛躍した考えです。

 たしかに、この地域は街道筋(湯ノ山街道)にあり、加古川の水にも恵まれた地域でした。

 しかし、もう一つ大きな特別な集落であったと思われます。

 それは、平荘は西大寺の有力な荘園であり、西大寺の(伊派の)石工集団の活動がありました。

 『加古川市史(七巻)』も、次のようにも書いています。

 ・・・・県下における中世石造美術の中心は、現在、神戸市東灘区御影町に属する石屋であり、その作品は摂津を中心に、広がりを持っています。

 しかも、その石造美術は大和の直系であるが、単なる技術の伝播でなく、大和の伊派の石工が、ときには定住し、ときには注文に応じ出張して製作したものである・・・・

 報恩寺(平荘町山角)は、西大寺の有力な真言律宗の寺でした。

 当然、文観とつながりが考えられます。

 平荘町には多くの石造物が残っていますが、伊派の石工集団の影響も抜きには考えられないのではないでしょうか。(no3438)

 *写真:向かって右の石仏は地蔵像です。この地蔵像の背面に大日如来を表わす梵字が彫られており、梵字の下に、弘安四年(1281)四月廿日の銘があります。(平荘町池尻:地蔵寺の石棺仏)

 *きのう(4/25)の散歩(11.160歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(158) 文観を追え(30)

2018-04-25 09:00:56 | お爺さんが語る郷土の歴史

   

  「文観を追え」は一休みします

 文観が加古川市加古川町大野の生まれであることは確実です。

 文観は、後醍醐天皇の(裏方の)ブレーンでした。

 文観が生きた時代は、鎌倉時代の最後から南北朝時代です。

 南北朝を含むこの時代は、日本の歴史の大転換点でした。

 日本の歴史を二つに区切るならこの時期です。

 とすると、この時代と後醍醐天皇・文観の研究は日本史の一大課題のはずです。

 でも、他の時代と比べてあまり研究が進んでいるとは言えません。

 

 当然、文観の研究もあまり進んでいるとは言えません。

 このブログでは「文観を追え」とかっこよい題をつけて文観とこの時代そして加古川地域を紹介しようとしましたが、素人の手におえる課題としては手ごわ過ぎます。

  ・・・

 今、この分野での研究が進んでいるようです。

 このあたりで、とりあえず、このシリーズを一休みして、あたらしいことが分かれば、その都度紹介して行きたいとおもいます。

 そして、近い将来に新しく書き改め纏めたいと考えています。

 

 次回から時代を少し進めて「お爺さんの語る郷土の歴史」を続けますが、次の話題に進む前に史料に裏打ちされたことではありませんが、「怪しげな話題」(独断)を挟みます。ご了解ください。(no3437)

 *写真:加古川町大野常楽寺(ここから文観の人生は始まりました)

 ◇きのう(4/24)の散歩(10.404歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(157) 文観を追え(29)・後醍醐天皇と文観

2018-04-24 08:18:48 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

    後醍醐天皇と文観

  〈後醍醐天皇〉

 後醍醐天皇は、歴代の天皇とは少し違います。

 どうやら彼は、自分のことを、聖徳太子の生まれ変わりではないかと思っていたらしい節(ふし)があります。

 それで普通の天皇の肖像にはあり得ない肖像(写真)を描かせたりもしました。

 写真の肖像は真言律宗の僧侶の服装です。

 手に持っているのは、まさに真言密教で修験者が相手を祈り殺すときに使う、法具の一つです。

 そして、自ら護摩を焚いて朝敵を呪い殺そうというのは、普通ではありません。まさに異形の天皇でした。

 まさに、中国型の専制君主制です。

 天皇が中心となり、官僚組織がきちんとして、さらに強力な軍隊を持って、一つの大きな国家ができると考えていました。

 彼は、醍醐天皇(在位897930)を理想とし、自ら生前に後醍醐天皇と名乗っています。

 天皇の立場というものを、単に格式を重んじて、権威を引き継いでいくというだけじゃない、自分で政治もするという考えを持って いたのです。

  〈文観〉

 いっぽう、文観は、小野僧正文観上人といいますが、名前の文観は、文殊菩薩と観世音菩薩の頭文字をとって文観と名乗りました。

 どえらい名前です。僧名からもその性格の一端がうかがえそうです。

 その後の文観の活動から見て、文観は大胆で強烈な上昇志向の持ち主のようです。

 ・・・・

 後に、後醍醐天皇と文観はその性格から結びついたのは自然な流れのようです。

 フィーリングがあったのです。

 ただ、文観は、天皇のブレーンとして活躍し、後醍醐天皇の企画演習はしましたが、政治的助言(将来像)までの見通しはなかったようです。(no3436)

 *写真:後醍醐天皇(清浄光寺所蔵・神奈川県藤沢市

 ◇きのう(4/23)の散歩(10.580歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(156) 文観を追え(28)・文観ルート

2018-04-23 08:17:41 | お爺さんが語る郷土の歴史

    文観ルート

 話を少し戻します。

 醍醐帝が討幕の行動をおこした時、寺院がその都度拠点となっています。

 当初、元弘の乱によって後醍醐天皇が都を落ちていったのは笠置山であり、そこの笠置寺にこもりました。

 隠岐島から脱出、船上山に大山寺(だいせんじ)の僧兵を頼りに陣を張りました。

 「建武の新政」の失敗から再度、都を捨てて吉野蔵王堂を行在所として、後に河内へ出て金剛寺、さらに観心寺へと行宮を移しています。

 この一連の寺院と関連のある人物を探すと、当時後醍醐天皇の信任が厚かった醍醐寺座主文観僧正の名が浮き上がってくるのです。

 後醍醐帝はこの討幕挙兵の策謀が露見して、腹心の者たちが捕縛された知らせを受けると、当時、息子の護良親王が座主であった比叡山延暦寺へ逃げ込みました。

 そして、六波羅軍(鎌倉幕府軍)が、比叡山の行在所攻撃にきたという情報がはいると、今度は、山城国金胎寺へ移り、さらに3000人の僧兵を有し要塞堅固な笠置山へと行幸し、笠置寺を行在所として櫓をかまえ、柵をめぐらして城塞化しました。

 後醍醐帝の、一刻を争う事態での迅速敏捷なこの行動は、すべて、文観がかねてから非常時に対する計画をたて天皇に進言していたところによっていたようです。

 楠木正成が後醍醐天皇軍に加わりました。

 その菩提寺である観心寺の僧滝覚坊とは山伏の同業者であり、覚坊と文観と師弟の間であるので、正成と文観は前からの繋がりがありました。

 鎌倉北条軍が大挙して笠置に来攻し、笠置寺の僧兵もこれを迎撃して善戦したのですが、何分歴戦のつわもの関東武士には抵抗出来ず、笠置山も陥落し、後醍醐帝は脱出の途中敵の手におち、京都に還幸のやむなきにいたり、後醍醐帝は隠岐の島に流されたのです。

 

 後醐帝は、山伏の武力の組織活動に期待して、文観に絶対的な信頼を寄せていました。

 「建武の新政」からの天皇の行動をたどってみると、金剛山伏と楠木正成、大山山伏と名和長年、児島山伏と児島高徳など、いずれも名もなき地方豪族であるがその背後には山伏の存在があります。

 この山伏ルートはいずれも文観とのコミュニケーションのある細胞組織であり、文観は後醍醐天皇のブレーンであったようです。(no3435)

 *写真:楠木正成像(富田林市の楠妣庵観音寺

 ◇きのう(4/22)の散歩(10.870歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(155) 文観を追え(27)・文観の活躍

2018-04-22 09:51:51 | お爺さんが語る郷土の歴史

      鎌倉幕府滅ぶ

 元弘二年(1333)五月二十二日、北条時高(31)は、鎌倉の東勝寺で最期を迎えました。

 そして、グレンの炎は次々と自害する諸将を焼き尽くしました。

 死者は600人、みな切腹して果てました。

 鎌倉幕府は滅びました。

     文観の活躍

 元弘三年(1333)六月五日、後醍醐天皇は京都へ凱旋しました。

 引き続き文観が硫黄島から帰ってきました。

 その後の文観の経歴は、華々しいものでした。(南朝年号)

  ・正慶二年(1333)  硫黄島から帰洛

  ・建武元年(1334)  このころまでに醍醐寺座主・東寺大勧進職

  ・建武二年(1335)  東寺一長者(真言宗のトツプ)

  ・建武三年(1336)  大僧正に任じられる

 しかし、後醍醐天皇による「新政(建武の新政)」は、前回にみたように失敗し、吉野にこもりひとすら足利尊氏の北朝打倒を目指し祈り続けました。

 足利氏を後(うし)ろ楯(だて)とする北朝に対して、南朝方の劣勢は覆うべくもなく、延元四年(1339)八月十六日、後醍醐天駁は京郡奪還の夢を果たすことなく、吉野に逃れて三年足らずで世を去りました。

 五十二歳でした。

 『大平記』は、後醍醐天皇の最期の言葉は「身は、たとえ、南山(吉野山のこと)の苔になろうとも、魂は京都の政権をのぞむ。足利尊氏の首を我が墓前に備えよ」であったといいます。

 後醍醐天皇の墓は、京都に足に向けて築かれています。

 このことは、かれの京都に対するはかりしれない執念を物語っているのでそう。

 文観は、正平十二年(1357) 河内金剛寺大門往生院で亡くなりました。

 文観の人生は、後醍醐天皇の活躍と重なります。

 建武の新政失敗の後は、その華々しい活躍はなくなりました。(no3434

 *写真:河内金剛寺

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お爺さんが語る郷土の歴史(154) 文観を追え(26)・建武の新政は失敗

2018-04-21 07:02:07 | お爺さんが語る郷土の歴史

 後醍醐天皇が隠岐の島を脱出し、京都へ凱旋をし、「建武の新政」をはじめました。

 建武の新政とその後の南北朝の展開の詳細については、他の書物をお読みください。

 ここでは中学用歴史教科書(『中学新歴史・帝国書院』)を読んでおきます。

      建武の新政は失敗

 幕府をほろぼした後醍醐天皇は、1334年、年号を建武と改め、天皇みずからが政治を行いました。

 そして,これまでの公家(くげ)政治のしきたりを大はばに改め,公家と武家の政治の両面を取り入れたしくみをつくり,倒幕(とうばく)に功績のあった公家や武士に官職をあたえました。これを「建武の新政」といいます。

 しかし、新政府は、公家や寺社をたいせつにしましたが、倒幕に活躍した武士に対しては恩賞が少なく、また、当時の武家社会につくられていた慣習を無視したりしたため、くの武士たちから不満をもたれるようになりました。

 このような動きをみて、足利尊氏は武家政治の復活を計画して兵をあげました。

 そのため建武の新政は、事実上、2年半で終わりました。

      南北朝の展開

 足利尊氏は、別に新しい天皇をたて、1338年、みずからは征夷大将軍となり、京都に幕府をひらきました。

 一方、京都を追われた後醍醐天皇は、吉野(奈良県)に朝廷をおき(南朝)、京都の朝廷(北朝)と対立するようになりました。

 両朝の争いはこののち約60年間にわたって各地でづきました(南北朝の争い)。

 両朝が争うなかで、南朝方は勢力はしだいにおとろえていきました。

 それに対して北朝方の足利氏には、地方の多くの守護が味方について、勢力を強めていきました。

 1392年、3代将軍義満の和平の呼びかけに南朝が応じて両朝は一にまとまり、南北朝の争いは終わりました。(no3433) 

 *写真:吉野山

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お爺さんが語る郷土の歴史(153) 文観を追え(25)・後醍醐天皇、隠岐に流されるも

2018-04-20 08:05:26 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

   後醍醐天皇、隠岐に流されるも

 倒幕計画に失敗した後醍醐天皇はとらわれ、さらに暮府によって皇位をはくだつされ、隠岐(おき)に流されました。

 元弘二年(1332)三月、鎌倉幕府の滅亡の1年余り前のことでした。

 後醍醐天皇は、身を日本海に浮かぷ孤島におくことになりましたが、時代は動いていました。

 時代は、商業も盛んになり、情報の飛び交う社会になっていたのでした。

 隠岐は、かつての孤島ではありません。

 情報は、秘密のルートからどんどんもたらされました。

 後醍醐天皇の遠島の後も、息子の護良(もりよし)親王や、河内(かわち)の豪族、楠木正成(くずのきまさしげ)らによってなおも根強く倒幕運動は続けられていました。

 後醍醐は、隠岐島にいながらも、なお幕府打倒の機会を虎視眈々と狙っていたのです。

 詳細は省きますが、隠岐へ流されてから11か月後のことでした。

 元弘三年(1333)閏以月突如隠岐を脱出することに成功します。

     文観京都に凱旋

 元弘三年(1333)、伯耆(ほつき)の国で六波羅探題壊滅の連絡を受けた後醍醐天皇は、天皇の政治の復活を宣言し、京都へ向かいました。

 護衛に当たったのは、伯書の国の名和長年(なわながとし)でした。

 都へのルートは、討幕に大きな役割を果たした播磨(はりま)、摂津(せっつ)が選ばれました。

 その道中で、赤松円心、楠木正成ら天皇のために戦った者たちが天皇を出迎え、天皇は彼等を従えて意気揚々と都に凱旋(がいせん)したのでした。

 天皇による「新しい政治」(建武の新政)が始まります。

 すぐに、文観も鬼ヶ島から京都に凱旋しました。(no3432

 *写真:隠岐の島

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お爺さんが語る郷土の歴史(152) 文観を追え(24)・後醍醐天皇と野口

2018-04-19 06:44:31 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

      後醍醐天皇と野口

 正和5年(1316)、北条高時が執権につきましたが、幕府の支配体制の乱れは著しものがありました。

 先に述べたように、この機を見た後醍醐天皇は、正中(せいちゅう)元年(1324)、倒幕を計画しました。

 この時は、事前に機密が漏れ不成功におわりました。

 しかし、後醍醐天皇は、天皇には珍しく、それであきらめるような「やわ」な人物ではありません。

 元弘元年(1331)にも倒幕の計画を進めましたが、この時も身内の密告により失敗に終わってしまいました。

 後醍醐天皇は、隠岐島(おきのしま)に流されることになりました。

 京都を出発した一行は、7月12日に教信寺(加古川市野口町)の前の山陽道を通り、加古川の宿に入りました。

 加古川での宿は、播磨の守護所(場所は現在の称名寺-加古川町)でした。

 その時のようすが「増鏡(ますかがみ)」にあります。

 残念なことに、後醍醐天皇一行は確かに教信寺の前の道を通り加古川の町で宿をとっているのですが、野口を通過した時の記録は残していません。

 少し残念です。

 <増鏡大約>

 12日、後醍醐天皇が加古川の宿に着いたとき、讃岐(四国)に流される子どもの宗良(むねなが)が少し遅れて加古川の東の野口に着きました。

 後醍醐天皇は宗良に会いたかったのですが、警護の武士は、それを許しませんでした。その夜は、後醍醐天皇はもんもんと一夜を過ごしました。(no3431)

 ・・・・

 *写真:後醍醐天皇の流罪の道(教信寺の前の道)

 ◇きのう(4/18)の散歩(11.100歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(151) 文観を追え(23)・文観死罪を免れる 鬼ヶ島遠島へ

2018-04-18 07:57:46 | お爺さんが語る郷土の歴史

    文観死罪を免れる 鬼ヶ島遠島へ

 後醍醐天皇の幕計画は正中の変に続き、またまた失敗でした。

 今度は、鎌倉幕府は激怒しました。厳しい取り調べでした。

 文観等に死罪の決定が下されました。

 「たとえ身分の高い僧であろうとも、死罪にすべきだ」ということに決まったのです。

 しかし、次のような噂話がまことしやかにつたえられています。

 ・・・・執権の北条高時が眠っているとき、夢の中に数千の猿があらわれ、「われらは、比叡に住む仏の使者である」と、猿が高時につげたのでした。

 「僧たちに拷問(ごうもん)にかけたらしいが、かならず仏罰があろう。さきごろの地震も、そのむくいである・・・」と言って姿を消しました。

 

 もともと気の弱い高時は、夜中におきて、部下をやって、文観の獄舎をのぞかせたところ、獄舎の障子に、不動明王の姿が写しだされていたと高時に報告しました。

 「まことか。もしも仏罰があれば、おおごと」と、高時は文観の死刑をとりやめ、僧侶たちを遠島の処分に変吏したと・・・

 あくまで夢物語でしょうが、地震で被害をうけ、まだ野原でむしろ一枚で起居している庶民がおる状態で、もし坊主を殺したならば、ただ反感を買うだけだと考えなおしたのでしょう。

 後醍醐天皇隠岐の島へ流罪、日野俊基や文観等もそれぞれ流罪となりました。

 この時、一番の重罪は文観で、鬼ヶ島(硫黄島)に流されました。

 日野俊基は、流罪になり後に殺害されています。

 幕府は、後醍醐天皇等は日野資朝・俊基・文観等を失い、倒幕という大それた計画はできないであろうと考えたのです。

 しかし、これはさらなる動乱のはじまりにすぎませんでした。(no3430)

 ◇きのう(4/17)の散歩(10.565歩)

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  *挿絵:不動明王(醍醐寺蔵)

 

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お爺さんが語る郷土の歴史(150) 文観を追え(22)、元弘の乱・文観捕らわる

2018-04-17 08:00:21 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

    正中の乱は失敗するも!

 幕府は、倒幕の中心となった日野資朝・日野俊基を取り調べたが、下手な裁断はくだせませんでした。

倒幕を企てたといっても、密告だけで、これという証拠もなかったのです。

 もし、倒幕計画委加わったと思われる公家たちをことごとく捕え、後醍醐天皇までむりやりに退位させてしまえば、決済は地方の武士や民衆の反発を買いかねません。

 決裁は「両名を死刑にするところであるが、資朝(すけとも)は里が島へ遠流。俊基(としもと)は無罪」としました。

 

 後醍醐天皇はこれでへこたれるような、やわな天皇ではありません。

 「倒幕」に二文字がますます燃え上がらせるのでした。

 それからしばらく経(た)って、宮中に、醍醐寺の文観僧正等が招かれた。

 「ご坊に、お願いがございます」と、俊基が殊勝な顔つきで、頭をさげるのでした。

     元弘の乱・文観捕らわる

 「お願いともうしますのは、鎌倉調伏祈祷をしていただきたいのです。

 もちろん、表向きは、中宮のご安産の祈赫(きとう)だということにしていただき、「安産祈祷を口実にして、北条高時をのろい殺してもらいたい」と、俊基は、文観等たのむのでした。

 文観らは、正中の変のときから、倒幕の企てに関(かか)わっていたので、一言もなく、承知しました。

 嘉暦元年(1326)の春ごろから、文観等は、宮中に壇をかまえ、祈祷をはじめました。

 後醍醐天皇も祈祷に加わりました。

 またまた、この計画は漏れてしまいました。

 京都はうだるような7月11日(元弘元・1331)の夕刻でした。日野俊基の館は六波羅の武士により取り囲まれてしまいました。(元弘の乱)

 日野俊基はとらえられ鎌倉へ送られます。死を覚悟した鎌倉へ護の護送でした。文観等もとらえられ鎌倉へ送られたのです。

 次回は、元弘の乱の結末をお話ししましょう。(no3429

 *挿絵:後醍醐天皇も、自ら倒幕の祈祷(『マンガ日本の歴史・18(石ノ森章太郎)』)より

 ◇きのう(4/16)の散歩(10.649歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(149) 文観を追え(21)・正中の変(正中元年・1324)

2018-04-16 07:26:26 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

     混乱する社会
 
14世紀の初め、時の執権・北条高時は、田楽や闘犬にふけり、政治をかえりみることをしませんでした。

 そのため、政治は腐敗しました。

 社会の混乱は深まるばかりでした。後醍醐天皇は、その機会を政権を武士から取り戻し、政治を改めようと、鎌倉幕府打倒を決意しました。
 
その事件の顛末を少し述べておきましょう。

     正中の変(正中元年・1324)

 この討幕計画の中心になったのは、日野資朝(すけとも)と日野俊基(としもと)です。

 資朝は、当時の公家政治の通信人物でした。いっぽう俊基は、身分はもともと低く後醍醐天皇からその才能を認められ取り立てられた人物です。

 後醍醐天皇の信頼のおける仲間内の会議で俊基から討幕の計画が提案されました。

 さすがの、仲間の貴族もびっくりしました。

 俊基は、天下の情勢、後醍醐天皇の決意を諄々と語りました。

 具体的には「倒幕の旗揚げの日は、来る9月23 日。北野の天神祭りの日で、この祭りに、武士の一団がまぎれこみ、わざと喧嘩をはじめる。

 そうすれば、六波羅探題(ろくはらたんだい)は騒ぎをしずめるために兵をさしむける。

 そこで、手薄になった六波羅を急襲し、探題を討ちとり、我らの兵をもって、宇治と大津を固め、まず京都を、朝廷の勢力下においてから、地方の武士たちに号令して、鎌倉へ押し寄せる」ということでした。

 その場の貴族たちもさすがに青くなったようです。

 その後、貴族たちの緊張を和らげるために、肌のすけて見える絹のひとえにまとった遊女と遊ぶ無礼講になったと太平記は伝えています。

 しかし、この計画は仲間内から漏れ失敗におわってしまいました。(no3428

 *挿絵(無礼講):『マンガ日本の歴史・18(石ノ森章太郎)』(中公文庫より)

 ◇きょう(4/15)の散歩(12.078歩)

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