ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

別府町をゆく(33) 別府町の写真集(一部)を終了

2019-06-20 16:36:18 | 別府町をゆく

   別府町の写真集(一部)を終了

 別府町にお住いの呉田(ごでん)利明さんから懐かしい、貴重な写真の提供をいただきました。

 今では、想像さえできない別府町の写真がいっぱいです。

 「ひろかずのブログ」では、その一部を紹介させていただきました。

 ありがとうございました。

 まだ多くの紹介したい写真がありますが、今まで紹介した写真を一部として、後日第2部を掲載することにします。

    貴重な写真を保存しましょう

 他の地区でも、このような写真が多く眠っていると思います。そして、その多くが処分されているようです。

 まとまった数でなくとも、加古川市・高砂市・稲美町・播磨町で、残っているそんな写真をお知らせください。残していきたいです。

 貴重な歴史の証言です。(no4672)

 *きょうの写真はいずれも昭和42年の写真です。

 写真:冬、海水浴場の休憩所で遊ぶ子供たち。

  

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別府町をゆく(32) 別府町大改造(2)、区画整備計画(一部)

2019-06-19 07:06:10 | 別府町をゆく

 

       別府町大改造(2)

 加古川市南部地区をニューモデルタウンとする県営の加古川南部区画整理工事は急ピッチで進められています。

 この区画整理は37年度から4か年計画、総工費7億5千万円で着工されました。

 神戸製鋼所の進出が予想される市別府、尾上両町を中心に臨海部を今のうちに計画開発するのが都市改造というものでした。

 

 以上は前号で紹介した別府町の改造計画の一部です。

 きょうのブログの図は、別府町の一部の改造計画です。道路整備が中心に計画が進められています。(no4671)

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別府町をゆく(31)  別府町大改造(1)

2019-06-18 09:10:47 | 別府町をゆく

 

 

   別府町大改造(1)

 加古川市南部地区をニューモデルタウンとする県営の加古川南部区画整理工事は急ピッチで進められています。

 この区画整理は37年度から4か年計画、総工費7億5千万円で着工されました。

 神戸製鋼所の進出が予想される市別府、尾上両町を中心に臨海部を今のうちに計画開発するのが都市改造というものでした。

 北側は、山陽電鉄路線沿いに600㍍、南側は西へ別府港から約1キロに囲まれた、総面積は96万平方キロメートルの広大な改造計画です。

 計画では同地区の西部を住宅地区、中心部を商業地区、南部を工場地帯に、それぞれ大別されました。

 工場進出に伴う道路網は、「東西に池田~別府港線(幅20㍍)を新設、浜国道を幅6.5メートルから10メートルに広げる。

 また、南北には新しい幅16メートルを新設し、現神野別府港線を幅6メートルから16メートルに拡張、以上の幹線を軸に幅8メートルから4メートルの街路50余本を走らせる」という、まさに大改造計画でした。

 工事は、37年度はじまり別府町は大きくその姿を変えたのです。

 写真は、別府町改造中の写真です。(no4670)

 *写真上:現イトーヨーカ堂西の道(呉田利明氏提供)

    下:中央橋 

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別府町をゆく(30) そこのけ、そこのけ別府鉄道が通る

2019-06-17 07:57:39 | 別府町をゆく

     そこのけ、そこのけ別府鉄道が通る

 別府鉄道の前身・別府軽便鉄道が開業したのは大正10年の9月でした。
 現在の加古川市役所のすぐ東に高砂線の野口駅がありましたが、そこから分岐して別府港駅に向かう野口線と、別府港駅から国鉄山陽本線の土山駅へ向かう土山線がありました。
 別府鉄道の主な役割は、別府にある多木製肥所(現多木化学)で生産される肥料の運搬でしたが、その後、沿線住民の加古川の商店街への買い物の足として、あるいは通勤、通学手段として、別府鉄道はなくてはならないものになりました。
 最も賑わったのは昭和30年代の初め頃で、別府の浜での潮干狩り、また海水浴へと多くの客を運びました。
 しかし、こうした風景も、同42年頃から加古川市臨海部の工場用地の造成が始まり、海水浴場も閉鎖になると、以後急速に様変わりしました。
 モータリゼーションの波で乗客は激減し、さらに同59年2月、土山駅での貨物取り扱いの停止が決定的な打撃になり、高砂線と同じ昭和59年に、63年の歴史を閉じました。

 写真は、山電車別府駅の西の道を少し北へ行った街中を走る別府鉄道。

 今となっては不思議(貴重)な思い出の景色になりました。(no4669)

 *写真:県道八幡-別線を横切って野口へ向かう別府鉄道別府鉄道、下地図:別府鉄道

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別府町をゆく(29) 別府港の風景(昭和32年)

2019-06-08 12:14:54 | 別府町をゆく

 

  写真は、昭和32年の別府港の風景です。(no4666)

 *写真:呉田利明氏提供

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別府町をゆく(28) 浜の風景(12)、金沢新田(2) 

2019-06-06 07:05:05 | 別府町をゆく

 

           浜の風景(12)・金沢新田(2)

  金沢新田の復習です。

  金沢新田は、今の市場町(小野市)の近藤亀蔵をスポンサーに、開発願主は、金沢九郎兵衛で「金沢新田」は完成しました。

 今から170年ほど以前のことです。

 金沢家(東神吉町砂部)に残る天保11年(1840)の文書によると新田は、59町2反20歩3畝で、開発当時の総反別(84町4反21畝)よりも、著しく減少しています。

 これは、一部のか所で地味が悪く、水稲が十分生育しなかったためであろうと思われます。

 そのためか、天保11年から5ヵ年の年貢の減免が許されています。 

 安政5年(1858)にも同様の措置がとられました。新田経営は、順調に進んだとはいえないようです。

 20年を経過した明治10年(1877)の調査記録によると田地・宅地・畑および未開発地を合わせると85町6反2畝5歩と記され、開発当時の規模に回復しています。

 その後、はっきりしないのですが、新田の所有権は近藤家から一時は米沢家に移り「米沢新田」と呼ばれたこともあったといいます。

 第二次世界大戦の頃、金沢新田のほとんどは、多木一族が所有していました。

 戦後は、農地解放により当時の耕作者へ譲られた。(no4665)

*『加古川市誌(第二巻)』参照 

 *写真:昭和32年当時の金沢新田(呉田利明氏提供)

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別府町をゆく(27) 浜の風景(11)、金沢新田(1)

2019-06-04 11:43:27 | 別府町をゆく

          浜の風景(11)・金沢新田

 金沢新田、金沢町の話をしておきます。

 前号の写真と合わせご覧ください

 この地(写真)にはじめて開墾の鍬を入れたのは印南郡砂部(いさべ)村(現在:加古川市東神吉町砂部)の金沢九郎兵衛でした。

 金沢家に残る文書等から判断して、「金沢新田」は、天保四年(1833)ごろからはじまり、天保八年(1837)に完成したと思われます。

 この時の新田は84町4反21畝でした。

 開墾費用は、銀854貫85匁五分と莫大で、九郎兵衛にそんな金はありません。スポンサーは加東郡太郎太夫(たろうだゆう)村の近藤亀蔵でした。

 少し余話です。

 ・・・・神戸電鉄の市場(小野市市場町)から西へ少し行くと太郎太夫というところがあります。現在の小野市市場町です。昔、太郎太夫に近藤亀蔵という大金持ちがいました。

 「市場亀蔵、阿弥陀か釈迦か、お門通れば後光さす・・」と、当時の俗謡にも歌われるほどのお金持ちでした。

 享保年間にはじまる『日本長者鑑』という長者番付が出たとき、東西の横綱として上げられたのは、東が出羽の本間の財産40万両で、西は播磨の近藤60万両であり、近藤家は日本一の金持ちでした。

 ともかく、近藤一族をスポンサーに、開発願主は九郎兵衛で、金沢新田は完成しました。

 お気づきと思うが、基本的に現在の金沢町は金沢新田の上につくられており、そこから名づけられた町名です。そのもとになったのは九郎兵衛の姓です。(no4663)

 *『加古川市史(第二巻)』・『加古川市誌(第二巻)』参照

 *写真:金沢新田跡(昭和36年撮影・呉田利明氏提供) 

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別府町をゆく(26) 浜の風景(10)、浜側から見る別府町の風景

2019-06-03 19:39:37 | 別府町をゆく

     浜側から見る別府の町

 金沢新田の風景です。

 遠景に4本の煙突がみえます。

 多木製肥所の煙突です。

 その場所は、現在イトーヨーカ堂となっています。ですからこの写真の場所は大体のお分かりになると思います。

 もちろん、この新田に現在、神戸製鋼所が建設されています。

 ずいぶん変わってしまいました。(no4662)

 *写真:呉田利明氏提供(浜側から見る昭和32年の別府町の風景)

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別府町をゆく(25) 浜の風景(9)、別府の浜

2019-06-02 07:51:27 | 別府町をゆく

 

   浜の風景(9)  別府の浜

 今週は、「別府町をゆく」にもどります。

 別府は潮風の町でした。浜の風景が思い出されます。

 そして、貝を採った思い出が忘れられません。

 写真は、昭和32年に撮られた写真です。

 年配の方は青春と重なる風景です.(no4661)

 *写真:呉田利明氏提供。

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別府町をゆく(24) 浜の風景(8)・お爺さん・おばあさんの子どものころ

2019-05-24 08:21:41 | 別府町をゆく

 

      浜の風景(8)

           お爺さん・おばあさんの子どものころ

 これらの写真は昭和32年当時のものです。

 昭和42前(浜の埋め立て)の浜の風景を知る人にとって、思い出いっぱい景色です。

 でも、子供や孫に「お爺さん・おばさんの子どもの頃、別府の浜で貝をいっぱいとったよ、夏には泳いだよ、それに魚釣りもしたんだ、夢の世界だったね・・・」と、語るだけの風景に変わってしまいました。

 子どもは信じないでしょうね。(no4652)

 *写真:浜の風景(呉田利明氏提供)

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別府町をゆく(23) 浜の風景(7)

2019-05-23 08:22:16 | 別府町をゆく

    浜の風景(7)

 きょうは、説明抜きです。

 昭和32年当時の別府の浜です。

 昭和32年、私は中学2年生でした。

 加古川中学の生徒でしたから、普段の遊び場ではなかったのですが、夏は海水浴に、春は潮干狩りによく来ました。

 マテ貝を採りが、面白かったのをよく覚えています。砂の穴に塩を入れると貝が顔を出すんです。(no4650)

 *写真:浜の風景(写真提供:呉田利明氏・昭和32年)

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別府町をゆく(22) 浜の風景(6)・金沢新田跡(3)

2019-05-22 06:54:00 | 別府町をゆく

 前回に引き続き『別府小学校百周年記念誌』より、田下明光さんの思い出です。

     魚(じゃこ)とり

 魚の獲り方です。

 「タンボツ」と呼ばれる竹筒でウナギを獲る方法があります。

 太い竹を1㍍位に切って中の節を全部とり去り、数十本を束にしてヒモでくくって水の中にオモリをつけて沈めます。

 数メートル間隔で、ヒモをつなぎ数本一組にして大ミゾ、小ミゾ、シンガイなどに沈めておきます。

 何日かして行くと、タンボツの中でウナギが寝ているのです。

 また、竹ヒゴの先にウナギ用の細長いハリをくくりつけ、大きなミミズを房がけにして、大ミゾの石垣の穴の中に入れて、中のウナギを誘い出したり、ひっかけたりしました。

 シンガイでは、夏になると、ゆでたザリガニの身をエサにして、ウナギを専門に釣りました。

土用の丑の日が近づくと、友達と誘いあって大物を狙いに行きました。

    ワンドあたり

 ワンドでは、大人と一緒になってボラやイナ(ボラの幼少期)をとりました。

 満潮時に大ミゾ側の三ケ所の水門を全部閉め、海側の水門だけを開けて海水を入れると海から魚も一緒にドッと入り、ワンドの中が満水になると水門を閉めます。

 ボラが外まで飛びはねて手づかみできる時もありました。

 今度は、大ミゾ側の三ケ所の水門に皆で、大きなタモ(玉網)をそれぞれに入れて受けてから、三つの水門を同時に少し開けると、タモの中に魚が入る仕組みなのです。

 時々、チヌやスズキの大物が獲れることもありました。

 冬場のカレイ釣り。春まだ浅く海水の冷たい頃のバ力貝、アサリとり。

 夏の昼間は、イナやウナギとり。夜は、チヌの夜釣リ。

 夏も終わりかけ、秋風が吹き始めると、カーバイトのカンテラを持って大ミゾでのエビすくい。

 秋は、ハゼ釣り。

 そして、モズクガニを別府川の岸壁ですくったり、マガリ付近の岩場では魚の頭をエサにカニとり・・・。

 汐干狩、海水浴は当然として、一年中海で遊んでいました。(以下略)(no4649)

 *写真:金沢新田跡(呉田利明氏撮影・昭和36年)

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別府町をゆく(21) 浜の風景(5)・金沢新田跡(2)

2019-05-21 09:41:16 | 別府町をゆく

 『別府小学校創立百周年記念誌』に、田下明光さん(昭和37年卒業)が子どもの頃、新野辺の海岸で遊ばれた思い出を書いておられます。

     浜の風景(4)

 僕にとって別府は海です。そして、海は別府でした。

 父親となって自分の娘、息子に話して聞かせる少年時代の想い出は、あの遠浅の別府の海の話しばかりなのです。

 小学校に入る頃に始めた釣りは未だに続いていますが、エサを買わなければならないことと、魚が釣れなくなったことは、当時と比べて大きな変化です。

    シンガイ・ワンド・マガリ

 「シンガイ、ワンド、マガリ」この言葉を懐かしく感じるのは30代後半(それも男性かナァ)までではないでしょうか。(*この原稿は平成5年に書かれていますので筆者は現在50才代後半)

 別府海岸は、加古川の東岸から別府川の西岸にかけて、加古川市のほぼ南限いっぱいの尾上町と別府町の海岸線約3.5キロメートルのうち東半分を占めておリ、逮浅の海水浴、汐千狩、釣りに最適の海岸でした。

 「アマの泣き潮」と呼ばれていた、一年で一番潮の引く日には沖合300メートルまでいっても背が立つほどでした。

 海岸線には別府から尾上まで延々と防波堤が続いていました。

 防波堤の北側には平行して大小二筋の溝があり、「大ミゾ」「小ミゾ」と呼ぶ一種の気水域(海水と真水の混入域)で、さらにその北側には干拓田跡「シンガイ」が広がっていました。

 小ミゾより大ミゾの方が塩分が多く、小ミゾにはフナもたくさんいたし、シンガイは真水に近く、シンガイの北側にも東西に細長いミゾがあって、フナやナマズが釣れました。

 大ミゾが気水域なのは、海と大ミゾの水を調整する「ワンド」と呼ばれる石積みのバームクーヘンのような樋が防波堤に接して大ミゾ側にあリ、海側に一ケ所、大ミゾ側に三ケ所の水門がありました。

 そして、防波堤は真ん中にあたり、別府と尾上の境界付近で大きくカーブを描いており「マガリ」と呼んでいました。

 マガリ付近からは投げ釣りでカレイ、キスなどがよく釣れましたが、小学生特代はこのマガリで隣町の尾上の小学生と知り合ったり、にらみあったりした、子供の領分の境界でもありました。

 シンガイ、ワンド、マガリ、ここで、僕達は多くの魚の種類と獲り方を覚えたのです。(no4648)

 *写真:ワンド(上)と金沢新田跡(下)の風景(呉田利明氏提供)

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別府町をゆく(20) 浜の風景(4)・金沢新田跡(1)

2019-05-20 06:30:29 | 別府町をゆく

 

   浜の風景(4)・金沢新田跡(1)

 赤く塗った部分が、江戸時代につくれた「金沢新田」です。

 金沢家(東神吉町砂部)に残る文書等から判断して、「金沢新田」は、天保四年(1833)ごろからはじまり、天保八年(1837)に完成したと思われます。

 この時の新田は84町4反21畝の広大な新田でした。

 この金沢新田とさらに別府の浜への拡張により神戸製鋼所は建設されました。

 写真は、金沢新田の風景です。(no4647)

 *写真:金沢新田の風景(昭和33年・呉田利明氏撮影)

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別府町をゆく(19) 浜の風景(3)・魚釣り

2019-05-19 06:51:21 | 別府町をゆく

     浜の風景(3) 魚釣り

 いつの時代も釣りは人気がありました。

 この写真は、昭和32年の釣りの風景です。

 場所は、背景に「あかがね御殿」がありますので、場所はお分かりと思います。

 今の海洋センター付近です。ここにたくさんの太公望が集まりました。

 

 「オジサン・・・今日は何が釣れるんですか」

 アジが多いな。

 「今夜のおかずですか」

 そうやな、酒のアテにな・・・うまいで・・・

 

 当時は、キャッチ・アンド・リリースなんてしません。

 食べるために釣りをしました。

 釣り竿は、竹でした。(no4646)

 *写真:昭和32年の魚釣りの風景(提供:呉田利明氏)

 

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