ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

播磨町さんぽ(24) 村・町の名前(1) 古宮村、昔は今里村

2019-03-31 11:01:24 | 播磨町さんぽ

 

            古宮村、昔は今里村
 播磨町「古宮(こみや)」の名称を考えてみます。
 古宮は海岸線に沿った地域で、古くは「今里村」と称していました。
 中世になって古宮と改めたといいます。
 今里村の地名については、室町時代の永享6年(1434)の住吉大社造営費用の割当状の中に見ることができます。
 以下は、古宮に伝わる伝承です。
 ・・・豊臣秀吉が朝鮮に出兵の途中、この地の海岸を通過しようとしたが、その日は周囲が全く見えない闇夜でした。
 航行に難渋を極めましたが、さいわい古宮の住吉神社の常夜燈が目印となり、無事着岸できたといいます。
 秀吉は、住吉神の御加護として非常に喜び、この地を古宮と命名し、朱印十三石を与えた。・・・
    「古宮」の名称は秀吉が名付けたのか?
 以下は、勝手な想像です。どう思われますか?
 江戸時代は、ここはもっぱら「古宮」と呼ばれており、今里から古宮に変わったのは1434年から1600年の間と言うことです。
 秀吉は、天文5年(1536)から文禄4年(1598)の人ですから、集落の名称が古宮になったのは、秀吉の時代としても、おかしくはありません。
 それまで、この地域は「今里」と呼ばれていたが、秀吉の時代に、この集落の名称は「古宮」にかわったのでしょう。

 集落の名前も、有力者の名前も「今里」では、紛らわしく、何かと不都合なこともあったのでしょう。
 そのために集落の名称は「古宮」に、有力者の家名を「今里」としたのではないかと想像します。
 やがて、古宮村に、秀吉の伝承が付け加わり、集落名は「古宮」として定着したのではないでしょうか。
 勝手な想像であることをお断りします。
 *写真:古宮(こみや)の地名由来を持つ古宮住吉神社の常夜灯台跡

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播磨町さんぽ(23) 海に生きる(3)、朝鮮侵略(文禄・慶長の役)に37名が徴発

2019-03-30 07:17:22 | 播磨町さんぽ

    現:播磨町地区から、

    朝鮮侵略(文禄・慶長の役)に37名が徴発

 秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)の時の水主の話です。

 高砂の十輪寺の境内に出かけました。

 山門を入ると本堂の東側に、多数の石塔に囲まれた一基の大きな宝篋石塔(水主供養塔)があります。

 1592年(文禄元)、秀吉の朝鮮侵略の際にかりだされて死んだ高砂の水主(船乗り)の供養塔です。

 この戦いに、高砂から100人が徴発され、帰国途中96人が溺死したといいます。

 「文禄・慶長の役」とよばれる朝鮮侵略では武士のみでなく、多くの民衆(特に漁民)が動員されました。

 「高麗へ渡り候へば、二度と帰らぬ」とまでいわれ、多くの水夫・武士が死亡しました。

 この供養塔は、全国的にも貴重な民衆側からの朝鮮侵略を記録する遺物です。

 96の石塔群は、1730年に建てられた宝篋印塔より古いもので、村人が水手の死を供養するためにつくったものではないかといわれています。

     古宮組から37名の徴発 

  朝鮮との戦争に徴発されたのは、もちろん高砂の水主だけではなく、飾磨津は100人、妻鹿・八家地域から43 人、的形から72人、高砂とその近辺から18人が、そして、現:播磨町地域から37人が徴発されています。(no4595)

 *写真:水主供養塔(高砂市十輪寺)

 *播磨町史『阿閇の里』参照

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播磨町さんぽ(22) 海に生きる(2)、さかんになる海運

2019-03-29 08:55:59 | 播磨町さんぽ

         海に生きる(2)・海運
 豊臣秀吉のころには、中世以来の海賊を禁じ、朱印状をもった船が、中国大陸・台湾・東南アジア各国と貿易していました。

 この貿易が、そのまま発展していたなら、欧米先進国なみの船舶や航海術をもつようになったと思われますが、江戸幕府は、じつに小心でした。
 幕府は諸大名や民間が航洋船の大型船を持っていることが不安でした。
 そのため、大型船の建造を禁止しました。
 以後、通称「千石船」などといわれる江戸期を特徴づける和船が登場します。
      盛んになる海運
 幕府と各藩は、集めた米を江戸・大坂などの都市へ送り、金に換える必要があり、そのため船運が盛んとなりました。
 幕府が、寛文10~12年(1670~72)河村瑞賢に開発させた奥州太平洋岸から江戸へ、さらに出羽国(秋田・庄内など)から西廻りで大坂・江戸へ運ぶための諸施設や態勢を確立させたのです。
 鎖国によって500石積(米500石・これは75トンになる)以上の船の建造は禁止されていましたが、寛永15年(1638)に商船についてのみ解かれ、大坂・江戸間の樽廻船(たるかいせん)・菱垣廻船(ひがきかいせん)をはじめとして、千石を越える新造舶が、つぎつぎに就航しました。
 廻船より小型の渡海船でも比較的大きいものは、東は和泉・紀伊、西は長門・九州まで行っていたようです。
 寛延・宝暦年代では、塩・薪・干鰯・筵などを買いとって、運んで売ってくる「買積み」と米・雑穀などを運賃をとって運ぶ「賃積み」の両方がありました。
 これらのことが明細帳や諸記録に出ています。
 なお、播磨町域から御影あたりの大型船の雇われ水主(かこ、船乗り)として、江戸行き航路に乗った人も、また、西廻りで日本海へ行く「北前船」に乗り組んだ人も少なくなかったようです。(no4594)
 *播磨町史『阿閇の里』参照
 *挿絵:北前船『ジョセフ・ヒコと様式帆船の男たち』(ふるさとの先覚者顕彰会)より

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播磨さんぽ(21) 海に生きる(1)、漁は監察制度で

2019-03-28 07:16:05 | 播磨町さんぽ

 

   海に生きる(1)  漁は監察制度で

 「海浜の村は、どこでも漁をしていたはずだ」と思われるのですが、なぜかそうなっていません。
 播磨町域の漁村でも古宮村と東本庄村だけに漁船があって、西本庄村も宮西村も漁船がおかれていないのです。
 たとえば、宝暦七年(1757)西本庄村明細帳には「猟船無御座候(りょうせん、ござなくそうろう)」とあります。
 漁業権の制約をうける何かの理由があったのか、舟あげ場に何か支障があったのか、今のところ原因はわかりません。
    漁は監察制度で
 魚種・漁法についても、くわしいことはわかりませんが、古宮村の寛延三年(1750)の村明細帳によると、次の記載があります。

     漁船57艘、 持主57人
 ただし、イイダコ・クモダコ・カキ・エボシ、そのほか手繰網(てぐりあみ)・大蛸漁仕り候

 所にて売り申し候
 折節(おりふし、ときどき)は、大坂へ登せ申す儀も御座候

  運上銀は右に書き記(しる)し御座候
 他所より漁船人込み申さず候


 漁師運上銀(税)は、次のとおりです。
 これを見ると、主な魚種について鑑札を買わせて税を確保するとともに、鑑札がないと、その漁ができない仕組みになっていたようです。

 鑑札は1年間有効でした。

 イイダコが番いい値になっています。
 手繰網で何をとったのかわからないのが残念でが、漁船57艘で延べ127枚(種類)ということは、一そうで二枚(種類)の割宛てにしかなりません。
 一艘あたり、あまり多くの種類の魚を撮っていないようです。
 「本荘貝」などは、当然とっていたと思われるのですが、運上(税)の対象にはなっていなかったのか、記録にあらわれていません。(no4593)
 *播磨町史『阿閇の里』より

 *写真:江戸時代のタコ漁のようす

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播磨町さんぽ(20) 海に生きた船乗りのはなし(20)、秋元安民(4)・速鳥丸の活躍

2019-03-27 09:34:52 | 播磨町さんぽ

     秋元安民(4)  速鳥丸の活躍
 漂流した清太郎ら四人は、速鳥丸の乗組み員となりました。

 速烏丸は、長さ27㍍30㌢のマストニ本の帆を持つ船で、450石(45トン)積み、乗組み員はふつう16人でした。
 航海として、同年9月16、日姫路(飾磨港)を発した速鳥丸は、米千俵、播州産の木綿30包などを積み、同月26日、江戸の品川に着きました。
 このときは18人が同乗しました。
 10月16日、同船は姫路への帰途につきました。
     大型船建造続く
 姫路藩は、大型船で国産の米や木綿を江戸に運び、帰りに関東の物産、大豆やアズキ、銚子のしょうゆ、九十九里浜の干鰯などを積み帰りたいと幕府に願い出て、許されました。
 この交易は、江戸・大坂の問屋商人や商船の手を通さないだけ、藩には有利でした。
 速鳥丸の成積がよいので、姫路藩は飾磨にある藩の船溜(ふなだまり)で、さっそく姉妹船の建造にとりかかり、翌安政六年(1859)完成させ、「神護丸」と名づけました。
 同型ですが、少し小さく、長さ14㍍50㌢、七人乗りの船でした。
 つづいて、「金華丸」も造られました。
 これら新型船を使い始めてから危険率は減り、速度も上がって、飾磨~品川間を10日で行くことができました。
 意外の効果に気をよくした姫路藩は、安政六年もっと新型船をふやし、乗組み員養成のため、速烏丸、神護丸の両船を長崎や北海道へも航海させてほしいと幕府に願い出て許されています。
 これら西洋型帆船は、安政五年から明治五年まで14年間に、70数回、江戸~姫路間を往復しました。
 のち、文久三年(1863)には大砲や砲弾なども輸送し、蕃兵もしばしば同乗しています。
 もっとも、第一号の速鳥丸は、安政六年三月、3度目の江戸への航海中、遠州灘でシケに会い沈没しています。(no4582)
 *『故郷燃える』(神戸新聞社)参照

 *挿絵:大型船築造に貢献した4人の内、清太郎(大正15年)

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播磨町さんぽ(19) 海に生きた船乗りのはなし(19)、秋元安民(3)・大型船(速鳥丸)建造へ

2019-03-26 09:22:20 | 播磨町さんぽ

     秋元安民(3)

     清太郎ら故郷(本庄)へ帰る
 栄力丸の漂流者10人は、安政元年(1854)7月12日、中国船で長崎にたどり着きました。

 浦賀を出てから、まる3年9ヵ月ぶりに踏む故国の土でした。
 長崎奉行所の役人が船改めをし、加古郡本庄村の浅五郎、潰太郎、甚八、喜代蔵等は、お調べがありました。
 調べが終わると、10人は、それぞれ出身地によって、所属する領主のもとへ引き取られました。
 播州加古郡の本庄村の4人、浅五郎、清太郎、甚八、喜代蔵が、姫路藩に引き渡されたのは、安政元年11月23日でした。
 姫路に帰った四人は、家族と面会の喜びを分かち合ういとまもなく、こんどは姫路藩から、長々と調べられ、それが終わるのは、翌安政二年(1855)2月14日のことでした。
 その記録が、「嘉永三年遭難漂流人口書(くちがき)」です。
 この体験記録は、播州の人々にはまことに珍奇にうつり、「写し」によってかなり広く読まれたようです。
     大型船(速鳥丸)建造へ
 秋元安民も、記録を読んで「漂流民の知識を利用する最良のチャンスだ」、ひざをたたいたに違いありません。

 安民は、本で読んだ知識はあっても、実物は知りません。
 一方、浅五郎、清太郎ら漂流民は、外国船をふんだんに見てきているし、実際に乗り、細かい内部まで体で触れています。
 さらに、彼らは船乗りでもあったので、操作に関心も払っていました。
 「安民の理論と補い合えば何とかなるだろう」と、藩当局に大型船の建造を申し出ました。
 藩も大いに乗り気となり、さっそく取りかかるよう安民に命じました。
 秋元安民は、安政四年(1857)、「異国船形新船製船肝煎(きもいり)」という役に任命され、いよいよ四人を使い、室津(竜野市津町)で建造に取りかかりました。
 このとき、本庄村の浅五郎ら四人は苗字帯刀を許され、二人扶持(毎日一升の玄米)を与えられて藩に採用されています。
 この船は、翌安政5年6月24日に完成し「速島丸(はやとりまる)」と命名されました。(no4581)
 *『故郷燃える』(神戸新聞社)参照

  *挿絵:清太郎が描いた速鳥丸

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播磨町さんぽ(18) 海に生きた船乗りのはなし(18)秋元安民(2)・大型船をつくろう

2019-03-25 13:27:54 | 播磨町さんぽ

  

     秋元安民(2) 

           嘉永六年・幕府、大型船建造を許可

  江戸の学者は、洋学色が濃厚でした。
 そんな中で、知識欲の盛んな安民が、洋書に親しんだのも当然でした。
 姫路藩に尊王壌夷を持ち込むことになった安民ですが、一口に尊攘といってもいろんな立場がありました。
 安民などは、時局に敏感だったので、あまりに保守的な姫路蕃内の眠った空気を打開しようと、尊壊をとなえたのだと思われます。
 あくまで「尊王」に重点があり、せっかちな攘夷に走る気持ちは、なかったのでしょう。
 外国のよいところを取り入れようという気持ちがなければ、西洋型帆船を作る考えなど藩に進言するはずはありません。
 この安民の提案は、安政二年 (1855)のことで、たいへんタイムリーなものでした。
 というのも、三年前の嘉永六年(1852)、幕府は鎖国のため禁じていた大型船の建造を許可し、諸藩は争って造船に力を入れるようになっていました。
 姫路藩も、海上の防備や物資輸送に優秀な船が欲しいところだったのです。
 おりもおり、実に都合のよい偶然が重なります。
 あの栄力丸の漂流人が、五年の漂泊ののち、たっぷり西洋船の知識を持って播州へ帰ってきたのです。彼らは船乗りです。大型船の知識をいっぱい持って帰って来たのです。(no4580)

*写真:漂流者が初めて見た異国船

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播磨町さんぽ(17) 海に生きた船乗りのはなし(17)、秋元安民(1)・仁寿山黌と河合道臣と秋元安民

2019-03-24 06:25:43 | 播磨町さんぽ

            秋元安民(1)

 きょうのブログに、播磨町は登場しません。
 少し遠回りをします。河合道臣と秋元安民の話です。後に彼らと播磨町が繋がってきます。
    仁寿山黌と河合道臣と秋元安民
 いまの姫路市阿保に、仁寿山黌という学校がありました。今は、校舎の壁の一部と井戸のあとがあのこるだけです。

 これは、姫路藩の名家老・河合道臣(後の寸翁)が、文政六年(1823)に作った学校です。
 道臣は、天明六年(1786)から天保六年(1835)まで、実に50年近くの長きにわたり、姫路藩の家老として財政建てかかわり、みごとに借金ゼロに成功しました。
 この功績により、天保三年(1832)に家老上座という藩の最高職の待遇があたえられました。
    

 秋元安民ですが、少年時代、この仁寿山黌で学び、学者として立つ素地はこのときに養われたと思われます。
 仁寿山黌は、先に紹介したように河合道臣(寸翁)が藩主の許し得て建てた私立学校で、藩立の学校としては、好古堂がありました。
 両校は、どちらも藩士の子弟を教えましたが、仁寿山黌は、他国・他藩の者の入学も許し、「家意識」の強い好古堂より自由な校風がありました。

「尊王攘夷」の思想を持つ者も生まれました。
 おのずから両校の対立が深まりました。
 道臣(寸翁)のなくなった一年後、藩内の思想統一のためにもよくないというので、天保十三年(1842)仁寿山黌は廃止され、藩の学校は好古堂一本となりました。
 それはさておき、仁寿山黌の廃校の時、秋元安民は19歳になっていました。
 保守的な好古堂で学ぶ気持ちになれなかったのでしょう。いったん脱藩の形で諸藩を旅行しながら学問を続けました。
 ところが、その安民に転機が訪れました。
 嘉永年間(1850ごろ)30歳のころに、姫路藩が好古堂に新しく国学寮を設けることになって、藩の命令で呼び返され教授となりました。
 当時、黒船のうわさもさかんでした。姫路旛でも時代に遅れないための学問が求められたのです。
 安民は、江戸にいたとき、国学だけではなく、洋書にも手をつけていました。いつの間にか西洋形帆船の構造なども研究していたのです。
 少しだけ予告です。
 秋元安民は、播磨町の遭難者の見聞をもとに写真のような西洋式船を建造します。(no4579)
 *挿絵:秋本安民、播磨町の遭難者の協力で造った西洋式の船、恵美酒天満神社(姫路市飾磨区)の絵馬
 *『故郷燃える』(神戸新聞社)参照

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播磨町さんぽ(16) 海に生きた船乗りのはなし(16)、光塩丸の漂流(2)・カタンドアネス島の風景

2019-03-23 08:37:53 | 播磨町さんぽ

 徳三郎(東本庄村)は、フィリピンへ漂流しました。そこで、見たもの・聞いたことを記録しています。
 『怒涛を越えた男たち』(播磨町郷土資料館)から、その一部を紹介させていただきます。
    フィリピンへ漂流
 光塩丸が漂着したときは、スペインによって領有されていた時代でした。

 もう船は使えないほど壊れてしまいました。

 船を捨て上陸した島の村は、バカマノといい、(安政6年・1859)5月21日までこの地の村役人の世話になり滞在しました。
 島の首長は、カベタンビリシヤノという名で、30里離れたビラに居住していたといわれています。
   米、年に二度作
 食べ物は、米・鳥類・卵・豚・牛肉・魚が多く、野菜が少なかったことと「米・年に二作取、年中寒むき日、一日もなし。萬木の実なりつづけの所なり」と、記しています。

 彼らは迎えの船でビラへ連れていかれ、そこで、10日間近く滞在し、次いで海上7日間の距離にあるアルバイへ送られました。
 アルバイの港は、かなりの船が出入りし活気に満ちていました。
 この地の長は、ドノホアンという人で、漂流人に対して極めて親切な扱いをしてくれました。
 特に大きな船を持っていて、マニラへの便船を世話してくれ、「魚・ぶた・木の実・塩から・さとうきび・いろいろ仕入くださる」など、終始好意にみちていました。
 安政6年(1859)5月29日、この地から船で出帆、6月10日マニラに帰帆した彼等は、21日まで船内に置かれたあと、上陸を許されました。
 そして、川中の島にある寺へ収容されましたが、食べ物については「一切みな塩からい、味にがし」と、初めて不平をもらしています。
    日本へ帰りたい
 故国が恋しくなりました。「はやく日本へ渡しくだされ・・・」と、15人もの大将へ頼みました。

 彼等は、やがてチイナエモイチヤンチユウという所の中同人役所へ預けられることになります。
 そして、空家一軒、生活用具、さらに毎日銀銭1枚が与えられました。
 こうして、10月23日まで世話を受けたあと、英国船アンホロキス号に便乗させてもらい、11月13日アモイ島、そして12月21日同港を出帆した船は、一路長崎に向かいました。
 船上で新しい年を迎えた一行は、やがて8日には五島列島を見ています。浦賀を出て、実に1年2か月ぶりにみるなつかしい祖国でした。(no4578)
 *『怒涛を越えた男たち』(播磨町郷土資料館)参照
 *地図:カタンドアネス島

 

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播磨町さんぽ(15) 海に生きた船乗りのはなし(15)、光塩丸の漂流(1)・徳三郎(本庄)の遭難

2019-03-22 09:08:52 | 播磨町さんぽ

 播磨町の郷土史家であった井上朋義先生は、『光塩丸、フィリピン漂流記‐徳三郎異国見聞録』(昭和58年)を出版されています。
 「光塩丸の遭難」は、その著書を参照させていただきます。
     光塩丸の漂流
 安政5年(1858)年9月、播磨赤穂藩領坂越浦(さこしうら)を出帆した光塩丸は1400石積で、赤穂加里屋の三木長之助の持船で、江戸へ運ぶ塩を満載していました。
 そして、無事江戸に入り、品川北新堀喜多村富之助方へ荷揚げしました。
 再び帰りの荷を積んで浦賀の港に入りました。
 普段ならば、すぐに浦賀をあとにするところでしたが、そこで奥州石巻からの売米の積みまわしを請け負いました。
 これが、光塩丸の運命を大きく変えることになったのです。
 不案内の航路のため、3人の水主を雇い、11月10日出航し、石巻へ向かう途中、鹿島灘にさしかかったときでした。猛烈な嵐に巻き込まれたのです。
 そして、荒天により舵をこわされた船は、浸水の危険にさらされ、積荷を捨てて、沈没を避けようとしましたが、帆走能力を失った船は、風と流れのままにあてどなく漂い流れるだけになってしまいました。
     徳三郎(東本庄村)、記録を残す
 光塩丸は幸いにして、安政6年正月、カタンドアネス島(フィリピン群島の一つの島)に漂着しました。

 かくして、この島で約10カ月世話になり、英国船、アンホロキス号に便乗して、アモイを経て長崎に帰着することができました。
 実に1年2カ月ぶりの帰国でした。
 乗員15名が1人も欠けずに帰国出来たのは、栄力丸に比べて奇跡的でした。
 同船が難破し50余日の間漂流し、そして1年間の異国生活に耐えて、一人の犠牲者も出さずに無事帰国できたのは、乗組員のチームワークの良さの結果だと思われます。
 乗組員のうち、播磨町出身者は、徳三郎(東本庄村)1人でした。
 徳三郎は、絵心があったのでしょう、島の生活、民俗、唐人屋ヨーロッパ各国人等異国風景を紹介しており、貴重な記録となっています。(no4577)
*『光塩丸、フィリピン漂流記―徳三郎異国見聞記』参照 

*挿絵:徳三郎が描いたフィリピンのある町の風景・(『怒涛を越えた男たち』・播磨郷土資料館)より

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播磨町さんぽ(14) 海に生きた船乗りのはなし(14)・栄力丸、漂流150年記念碑

2019-03-21 09:10:02 | 播磨町さんぽ

 ヒコ物語を掲載しましたが、今日は、その付録で「栄力丸漂流150年記念碑」紹介しておきます。

    記念碑・「怒涛を越えた男たち」
 古田に正願寺(浄土真宗・せいがんじ)があります。

 山門をくぐると右手に「怒涛を越えた男たち」の記念碑(写真)があります。
 当時の郷土史家であった、住職の発意により建立されました。
 この記念碑により船頭・万蔵やジョセフ・ヒコら17名の顔ぶれと、船乗りの服装などを知ることができます。
 記念碑に書かれている文章を読んでおきましょう。


     「栄力丸、漂流150年記念碑」
  嘉永三年(1850)10月

  1600石積廻船
  太平洋上を漂流すること50日余日
  船頭、万蔵ら17名
  米船オークランド号に救助され
  サンフランシスコに上陸
  異文化に触れ、とまどい、おののき
  憧れつつも、遠き故郷の山河を思う
  鎖国から開国、動乱と混迷の時代
  怒涛の果てを見た男たちがいた
  希望と失意、栄光と挫折の生涯
  歳月が過ぎて、漂流より150年
  その面影をイラストレイテッド・ニュースより写し、記念とする
      2000年(平成12)11月(no4576)
  *写真:「怒涛を越えた男たち」の碑(正願寺)

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播磨町さんぽ(13) 海に生きた船乗りのはなし(13)、ヒコ物語(8)・ヒコ逝く(明治30年12月12日)

2019-03-20 08:32:04 | 播磨町さんぽ


    28 元、姫路藩主からの手紙
 姫路藩の元藩主である県知事の酒井忠邦からの書面を受け取りました。

 書面には漢字まじりで、ヒコは戸惑いながらも文字を眼で追い、辛うじて大意をつかむことができました。
 忠邦は、アメリカ帰りの彦蔵と、どうしても会って話をききたいと考え、書簡を送ってきたのです。
 ヒコは感激しました。

     本庄へ立ち寄る 
 かれは、駕籠にゆられながら、「故郷の本庄村に立寄ってみよう」と思いました。

 墓の建立はすでに完成しているはずで、それを確認したかったのです。

もしも墓が完成していたら、姫路から神戸へ帰る途中に村に行き、村人を招いて墓碑建立の宴をはりたいと思いました。
 駕籠の列は土山宿から左に折れました。
 駕籠の列が本庄村に入り、叔母の家の前でとまり、叔母が、家から出てきました。
 「墓は、どうなりました」
 ヒコの問いに、叔母は、「一昨日、墓が完成し、ヒコの母と義父の遺骨も墓石の下に移葬された」と答えるのでした。
 ヒコは礼を述べ、姫路へ行くいきさつを簡単に説明し、先を急ぎました。
 姫路をたち、帰りに籠をつらねて本庄村に入りました。
 ヒコは、待っていた叔母の案内で蓮花寺に行きました。
 墓と向き合った。高さ三尺五寸(1.06メートル)ほどの三段積みの立派な墓石で、山門を入ってすぐ右側に建てられていました。
 碑面には、母の修善即到信女、義父吉左衛門の弘覚自性信士と先祖のそれぞれの戒名が刻まれていました。
 墓碑の裏には、指定した通りの英文が、一字の誤りもなく刻まれていました。
 住職が、墓前で読経をしました。ヒコは、これで母と義父への義務を果したのを感じました。
 その夜、庄屋の広い座敷を借りて、ヒコは宴をはりました。村の重だった者が並び、役人たちも加わりました。

 村人たちの表情は一様にかたく、杯を口に運びながら時折うかがうような眼をむけてくるが、すぐにそらすのです。
 ヒコは、次第に白けた気分になりました。村人たちは、壁をもうけたように入りこんでくる気配はありません。
 ヒコは、むなしさをおぼえました。
    29 ヒコ逝く(明治30年12月12日)
 明治5年を迎え、8月にヒコは東京に出て、大蔵大輔の井上馨のすすめで、大蔵省に入り、会計局に所属しました。

 彼は、年を追うごとに自分の存在価値が日本の社会の中で次第に薄れてゆくのを感じました。
 明治維新以来、英語教育は急速に充実し、英米人と見まがうほど流暢な英会話をこなし、読み書きにも長じた者が増えていました。
 ヒコは東京をはなれました。

 40歳になり、松本七十郎の娘鋹子(ちょうこ)と結婚しました。

 帰化人であるヒコに戸籍はなく、鋹子は、絶家となっていたヒコの親戚の浜田家を相続して浜田姓となり、浜田彦蔵と名乗るようになりました。

 その頃からヒコは、神経痛におかされるようになり、明治12年に入ると医者通いをはじめました。
 明治21年2月1日、かれは神戸を離れ東京へ向かいました。神経痛に効果があるだろうという医者のすすめにしたがったのです。
 その後、かれは習字を日課としました。
 明治30年に入ると、息切れが激しく、隅田川の岸辺に行くこともなくなりました。
 12月11日は、西の烈風が吹き、午後にはやみ、翌日は晴天でした。
 ヒコは、その日の夕刻、突然激しい胸痛に襲われて倒れ、すぐに医者が呼ばれましたが、意識はもどりませんでした。61歳。(「ヒコ物語」完)(no4575)

 *写真:「ジョセフ・ヒコ生誕地の碑」(播磨人口島入口西)

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播磨町さんぽ(12) 海に生きた船乗りのはなし(12)、ヒコ物語(7)・横文字の墓

2019-03-19 08:12:04 | 播磨町さんぽ

   26 再び故郷へ
  兵庫から大坂にもどったヒコは、(1868年)6月27日、長崎に引き返しました。
 ヒコは、本庄村にもどったことを思い出すたびに、うつろな気分になるのでした。
 思い描いていた故郷ではなく、村人たちも、自分に珍奇な生き物でも見るような眼をむけるだけでした。
 年が明けて、ヒコは相変らずグラバー商会の仕事をしていましたが、7月26日、商会が突然倒産してしまったのです。

箱館戦争の終結で注文が皆無になったためです。

・・・・
 かれの胸には、故郷にもどった折、母の墓を詣でなかったことが深い悔いとして残されていました。
 墓参の余裕がなかったのですが、内心では母の墓を眼にするのが恐ろしく、足をむける気になれなかったからでもあったのです。
 墓碑は、粗末なものにちがいありません。
 ヒコは、自分の手で立派な母の墓を建ててやりたい気持がつのりました。
 長崎をはなれ、兵庫のホテルにもどった3日後、ヒコは駕寵を雇って本庄へ向かいました。
 本庄村に入った。村道に人の姿はなく、庄屋の門前でおろされていました。
      叔母さん・・・・
 案内を請うと、すぐに庄屋が姿を現わし、座敷に通されました。

 庄屋と挨拶の言葉を交していると、廊下から一人の初老の女が入ってきて、手をつき、額を畳にすりつけて頭をさげました。
 女が顔をあげ、ヒコは思わず短い声をあげました。母方の叔母で、ヒコがくるのを庄屋宅で待っていたらしく正装していたのです。
 叔母は、すっかり変ったヒコに戸惑いを感じているらしく、肩をすくめて部屋の隅に坐っていました。
 ヒコは、叔母の前に坐ると、皮膚の荒れた叔母の手をつかみました。
 ようやく縁者に会え、帰郷した実感が胸にせまってきました。
   27 母の墓を建てたい
 ヒコは、叔母に亡母の墓を建立するために村に来たことを告げ、母の墓がどのようになっているかをたずねました。

 叔母は、「埋葬した個所にただ石が置かれているだけだ」と言い、ヒコは「想像していた通りだ」と思いました。
 ヒコは、庄屋と話し合い、叔母と連れ立って菩提寺の蓮花寺に行きました。住職の応対は、丁重でした。
 ヒコが母の墓を建立したいので相談に乗って欲しい、と言うと、住職は、「いかようにも御相談に乗ります」と、神妙な表情で答えてくれました。
 「私は、せめて母の墓は恥しくないものを建てたい。それが私の母に対する孝行です」
 少しの間、思案するように口をつぐんでいた住職は、ヒコと叔母をうながし、庫裡の外に出ました。
      横文字の墓
 山門の方に歩いていった住職は、山門の内側で足をとめると、「ここに建てられたらよろしい」と、言うのでした。

 そこは、あきらかに境内で最高の場所で、ヒコは住職の好意に礼を述べました。
 座敷にもどった住職とヒコは、具体的な打合わせをしました。

 墓について住職は、「近在で最も腕のよい石寅という石工が二見村(現明石市)にいて、その石工に依頼する方がいい」とすすめ、ヒコは一任することにしましました。
 ヒコは寺を辞して、その夜は叔母の家に泊りました。
 翌朝、石寅が弟子をともなって訪れてきました。石寅と墓についての打合わせをしました。
 ヒコは、碑の表面に母と義父、それに祖先の戒名を刻むよう指示し、裏面に英語で「両親ト家族ノタメニコレヲ建テル」Joesph Hecoと刻むことを頼みました。(no4574)

 *写真:横文字の墓(蓮花寺)・絵本『ジョセフヒコと様式帆船の男たち』(播磨町ふるさと先覚者顕彰会)

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播磨町さんぽ(11) 海に生きた船乗りのはなし(11) ヒコ物語(6)・寂しい故郷

2019-03-18 09:18:06 | 播磨町さんぽ

    23 寂しい故郷
 13歳の折りまで眼にした村とは異なって、大きく立派に見えた家々が、いずれも低く、みすぼらしく見えるのです。

 路上に姿を見せているのは幼い子供たちだけで、それらの子供たちの衣類はいずれも粗末で手足が細く薄汚い。
 夢に描いていた故郷とは大きなへだたりがありました。
 ヒコは、同行してきた県庁の役人たちが、庄屋や村の重だった者たちから村の現情についてたずねているのをきいていました。
 「村では棉花畠が多く、姫路藩の木綿専売制のもとに棉花が農家の主要な収入源になっていたが、棉花の価格暴落で農家の収入は激減した」というのです。
 そのため田畠を捨てて流亡する者が後を絶たず、62戸あった人家が30戸にまで減っていました。
 ヒコは、村に廃屋が目立ち、人々も痩せこけている理由を知りました。
      誰も知らない 
 ヒコは、庄屋をはじめ村の重だった者たちの顔をあらためてながめました。

 子供の折りに眼にしたことはあるのだろうが、いずれも見知らぬ者ばかりでした。
 「吉左衛門(義父)は、死んだ」と聞いていたので、菩提寺の蓮花寺に行きました。
    24 蓮花寺にて

蓮花寺の山門が見えてきました。

 案内してきた男が内部に入ると、やがて50年輩の僧が姿を現わしました。
 ヒコは頭をさげ、「本庄村の吉左衛門の養子で彦蔵と申します。この度、帰郷いたしましたが、義父の没年を知りたく参りました」と、名のりました。
 僧はうなずくと、内部に入るよううながし、過去帳を手にして近寄り、坐って紙を繰ると、「これでございますな」と言って、過去帳をヒコの前に置き、ある個所を指さしました。
 ヒコは、視線を据えた。「弘覚自性信士」という戒名の下に義父の名が書かれ、安政三年(1856)という没年が記されていました。
 安政三年というと12年前で、自分が漂流してから6年後に死亡したということです。

      ヒコ、自分の戒名を見る
 かれの視線が横に流れ、不意にその眼がとまりました。
 かれは、その文字をあわただしく眼で追いました。
 「法幢浄辯信士 吉左衛門 子 灘大石栄力丸流船中に而(て)死」
 「流船中に而死」と書かれた死という文字が、眼の中に飛び込んできたのです。
 ヒコの異様な様子に気がついたらしく、僧がいぶかしそうにたずねました。
 ヒコは顔をあげ、「これは・・・」と、過去帳の、「流船中に而死」という部分に指先をあてました。
 「ああ、それは吉左衛門さんの養子の・・・」
  そこまで言うと、僧は不意に口をつぐんでヒコを見つめ、そのまま動かなくなりました。
 「私のようです。吉左衛門子とあるのは私です。戒名までついている」ヒコは、低い声で言うのでした。
    25 法幢浄辨信士
 ヒコは、あらためて過去帳に視線を据えました。

「(ヒコの)御戒名(法幢浄辨信士)は、私がおつけしました」僧が、静かに語りはじめました。
 吉左衛門(義父)は、ヒコがいずれかの地で生きているのではないか、とかすかな望みをいだいていたのですが、「役人から、行方知れずとあるからには、死亡したことはまちがいない。死んだ霊がさ迷っているのは哀れなので回向して欲しい」と、言われました。
 吉左衛門さんは、激しく泣いておられました。
 ヒコは、義父吉左衛門の慈愛の深さに眼頭が熱くなるのをおぼえるのでした。
      本庄は、故郷だが・・・
 県庁の役人の指示らしく、米飯が盛られていて、商人たちはぎこちなく箸を手にしたが、粗末なものでした。

 翌朝、遠く近くきこえる鶏の啼き声で眼をさまし、外に出ました。
 不意に、涙が流れてきました。爽やかな空気には、潮の香がかすかにしていて、たしかにふる里の匂いがしています。
 しかし、かれの気持はすぐに冷え、村にはなじめませんでした。

「村はふる里ではなく、むしろアメリカこそふる里ではないのか」と、胸の中でつぶやくのでした。
 食事を終えたヒコは、県庁の役人に兵庫へ帰ることを早口で告げ、あわただしく、故郷をあとにしました。(no4573)

  *写真:蓮華寺

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播磨町さんぽ(10) 海に生きた船乗りのはなし(10) ヒコ物語(5)・ヒコ故郷へ帰る

2019-03-17 08:34:04 | 播磨町さんぽ

    20 故郷へ帰りたい!
 「私(ヒコ)は、嘉永三年(1850)、13歳の折に故郷の本庄村をはなれて、初めて船に乗り、破船漂流して救出され、それから18年、故郷を見たことはないのです」

 ヒコの言葉に、伊藤(博文)は、神妙な表情をしてうなずくのでした。
    船で故郷へ行けばいい
 「それはたやすいことだ。政府用にオーファン号という小型の蒸気船を購入したが、それに乗って故郷の村へ行けばいい。
 外国人が陸路を行くのには制限があるが、海上を移動するのは自由だ。
 明日、私は、「オーファン号」で兵庫へもどる予定なので、兵庫まで同行し、それからその船で故郷へ行けばよい。そのくらいの便宜ははかる」
 ヒコは、不意に胸に熱いものが突き上げるのを感じました。
 異国の地にあって絶えず帰国を夢みていたが、それは故郷にもどりたい願望でした。
 ヒコは、酔いが体に快くまわるのを感じました。
 伊藤に会い、川遊びをしたことが幸運に思えるのでした。

    21 いざ、故郷へ
 伊藤(博文)から使いの者が来て、「午後三時に淀川の船着場に来て欲しい」と告げました。
 ヒコは、定刻に船着場に行きました。船が、下流にむかって動いてゆきます。
 「ヒコは、伊藤(博文)につづいて「オーファン号」に乗り移りました。
 船はすぐに黒煙をなびかせて進みはじめました。
 船が停止しました。船長がやってきて機関が故障したというのです。すでに夕闇は濃く、やむなく船中で夜を過すことになりました。

 彦蔵は、甲板に出て月を見上げました。夢にえがいていた故郷にむかっていることを思うと、胸は喜びに満ちていました。
 翌朝、迎えに来た小艇に乗りかえ、神戸の波止場に上陸した。ヒコは、伊藤について兵庫県庁に行きました。
    故郷・本庄村へは陸路で
 「オーファン号」の機関が故障したので、本庄村には陸路をたどらねばならなくなりました。

 伊藤は、吏員に指示して手続きを進めてくれました。外国人である彦蔵が許された地域外を旅するには通行免状が必要で、伊藤はその作成を指示しました。
 また、外国人の命をつけねらう者がいることも十分に予想されるので、武装した役人を警備のため同行させるよう命じてくれたのです。
    22 もうすぐ故郷
 翌日、 伊藤(博文)知事の部屋におもむくと、伊藤は、ヒコには、故郷の村役人に彦蔵の帰郷を伝え、歓迎するように指示してある、とも言いました。「ソレデハ快適ナ旅行ヲ・・・」
 県庁の外に出ると、駕籠が並び、ライフル銃を手にした役人たちが待っていました。
 一同、身を入れると駕籠がかつぎ上げられ、前後左右に役人がついて動きはじめました。
 熱い陽光が降りそそいでいました。
 前方に、明石の家並がみえてきました。一行さらに西へ進みました。
 土山村に入り、そこで街道をはずれて左への道を進みました。
 故郷の本庄村浜田に通じる道で、ヒコは胸をときめかせました。
    これが、夢に見た故郷
 浜田に近づくと、前方の道の片側に多くの人が立っているのが見えました。迎えに出ている村人たちにちがいなく、駕籠の列はその前でとまりました。

 彦蔵に、「出迎えの村の者です」と、告げました。
 駕籠が村の人口に近づくと、正装した数人の男が立っているのが見え、役人が近づき、すぐにもどってくると、「出迎えの庄屋たちだ」と言いました。

 駕籠の列は、かれらの案内で村の中に入り、門がまえの庄屋の家の前でとまりました。(no4572)
  *挿絵:ヒコの出迎え(『ジョセフ・ヒコと様式帆船の男たち』より)

 

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