ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川地方の綿作(5)

2006-08-24 21:14:25 | 加古川市

Ffc7ef00  江戸時代も終わりの頃、特に文化文政期(1800年代のはじめ)、加古川地方の綿作は、ずいぶん盛んだった。

  中でも海岸部の尾上地区がその中心であった。

  尾上の池田・養田(ようた)にその例を見ると、安政4年(1857)池田村では畑作の中で、綿作の占める割合は86%、(養田73%)を占めており、全田畑では池田66.8%、(養田66.3%)と、ずいぶん綿作がさかんだった。

  秋には、いちめんに真っ白な綿花のある風景が広がっていたことだろう。

  明治5年、学制が発布され、明治政府は教育の普及に努めた。この学制が実施された3年後の明治8年に、全国で24.225の小学校がつられた。

  池田村では、観音寺を小学校として利用し、「綿里小学校」と名づけた。まさに池田は綿の里だった。

*絵は綿の花

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加古川地方の綿作(4)・地主、大西家

2006-08-22 07:42:26 | 加古川市

9ac2fbbe_1   姫路藩が木綿の江戸積みをはじめてから、木綿問屋など村の富農層は、土地を集め、いっそう経営規模を拡大させた。

  反面、貧しい農民は土地を手放し、その格差は大きくなった。

  この傾向は明治になり、ますます広がった。明治14年のようすを見ておきたい。

  兵庫県下の平均小作率は44.5%と高率であったが、加古郡は55%、印南郡は53%と綿作のさかんな両郡とも県平均をはるかに上回る小作率であった。

  見土呂の大西家は、天保7年(1836)木綿取締役に就任してから、以前にもまして経営規模を拡大させ、毎年2,3万反の綿布を取り扱っていたようである。

  大西家は、木綿だけでなく、干鰯(ほしか)、呉服も商い、さらに酒、醤油の醸造などもおこなっていた。(挿絵は明治20年ごろの大西家の醤油製造所-「淡播農商工便覧」より)

  明治18年には、近隣に138町を有する県下、第4位の地主にまで成長した。

*訂正とお詫び:昨日のブログの「都染の大西家」は、「見土呂の大西家」の誤りです。訂正して、お詫びします。

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加古川の綿作(3)・木綿問屋、大西家

2006-08-21 11:20:56 | 加古川市

7bda8ef5   昨日のブログで、文政6年(1823)姫路藩の江戸への木綿専売が認められたことを書いた。

  右の図は天保7年、姫路藩の大阪や江戸積問屋へ売り渡す木綿の生産地問屋の所在を表している。

  ほとんどが加古郡・印南郡内に位置している。中でもその大半は、現在の加古川市域に含まれている。

  木綿のほとんどが、加古川地域で生産されていたのである。

  木綿を生産した農民は糸にし、反物に織った。木綿商人がそれを買い集め、生産地問屋から、姫路城下の江戸積問屋や大阪積問屋(一部、大阪積も認められていた)へ売り渡された。

  図の21~23の生産地木綿問屋のあった場所に注目して欲しい。いずれも、都染で、それも大西家の一族である。こんな例は、他にない。

  鑑札をもって商売することは、競争相手が少なく安定した経営ができた。その上、大西家は一族4軒がその権利を持っていたのである。

  大西家は、この近辺では、跳びぬた、大き木綿の生産地問屋であった。

*図は「加古川市史(第二巻)」より

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加古川地方の綿作(2)・河合寸翁

2006-08-20 16:06:34 | 加古川市

303b8fb3   河合道臣(みちおみ-後の河合寸翁・すんのう)は姫路藩の家老である。

  藩主・酒井忠道(ただひろ)の文化5年(1808)、藩には、73万石の借金があった。

  彼は、木綿に着目し、姫路藩の財政改革に取り組み、みごと借金ゼロを成し遂げたのである。

  当時、姫路綿(布)の主な送り先は大阪であったが、買いたたきがひどかった。寸翁は、綿を藩の専売品として、江戸への直送する方法をとった。

  勿論、さまざまな妨害があった。これについては、小説「姫路城・凍って寒からず(寺林峻著)」(東洋経済)を読んで欲しい。

  幕府の方針もあり、直送は困難をきわめた。しかし、綿密な調査・江戸問屋や幕府役人への説得により、文政6年(1823)やっと江戸への木綿専売が認められた。

  これには、「藩主・忠学(ただひろ)の妻・喜代姫(きよひめ)が将軍・家斉(いえなり)の娘であったためでもあった」ともいわれている。

  ともかく、姫路綿の江戸での販売は好調で、藩の借金は、短期間に返済し終えた。全国的にも、珍しい例である。

  この、姫路木綿の原料の木綿のほとんどは、加古川地方で生産されていた。

 ◇明日は、加古川地方の木綿問屋について◇

*絵は河合寸翁(鈴木其一筆)

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加古川地方の綿作(1)

2006-08-19 15:49:13 | 加古川市

84fe82f1_1   綿が日本に伝わったのは古く、延暦18年(799)に三河伝えられたのが最初であるというが、栽培技術が伴わずその時は絶滅した。

  その後、綿作は、文禄の頃(1592~96)大和・河内・摂津に広まり、ほぼ同時に姫路地方も木綿産地になった。

  木綿は、それまでの麻と比べ、柔らかく、染めても美しく、それに何よりも暖かく、冬の寒さには大いに役立った。

  江戸時代、大阪・江戸等の巨大消費都市が生まれ、また交通も発達し、商品は大いに流通し、綿も商品作物として栽培されるようになった。

  姫路木綿は、品質がよかった。市川や加古川の水質が木綿を晒すには適していたのである。

  姫路木綿は「玉川さらし」、「姫玉(ひめたま)」と呼ばれ、江戸で大好評を得た。この姫路木綿の原料は、加古川地方が主な産地であったことは案外知られていない。

  *「玉川さらし」は、木綿商の天下原(あまがはら・加古川市東神吉町)の金川甚左衛門がつけた商標であり、玉川とは加古川のことである。

  江戸時代の終わりのころ。秋には、真っ白な綿のある風景が一面にひろがっていたのであろう。

  来週のブログでは、加古川地方の綿作について、取り上げたい。

*挿絵は「播州あたりにて綿を作る図」(綿圃要務)より

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加古川の漁業権(江戸時代)

2006-08-14 07:25:56 | 加古川市

_054   「加古川市史」を読んでいると、面白い記述に出会うことがある。「加古川市(二巻)」にある「加古川の漁業」もその一つである。

  正保3年(1646)、上荘の井ノ口村の上流から高砂までの漁業権(加古川の魚をとることのできる権利)が都染(上荘)の松尾五郎兵衛に与えられた。

  松尾は、姫路藩からこの権利を得て、年々運上銀200匁を上納している。

  松尾五郎兵衛とはどんな人物であろうか。調べてみたい。

  彼は升田新田(出河原)から・中津までを直接とりしまり、それより下流から高砂までを寺家町の川西友三郎に任せた。

  この二人で、運上銀200匁を藩に納めたのである。

  加古川でとれる魚は、鮎(漁期は5月から翌年1月)、鯉(同12月から翌年3月)、鱸(8・9月)、鯔(いな、同7月から翌年3月)であった。

  加古川で川漁を希望するものは、松尾・川西に10匁を納め鑑札を受けなければならなかった。その上に魚種により異なった額の入漁料を毎年納めることになっていた。

  松尾らにとっては、うまみのある漁業権であった。

  秀吉の時代は、升田の者に川漁業の権利が認めれられており、平荘・上荘村の者には認められていなかった。

*写真は、最近の加古川の流れ。。

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滝 瓢水(たきひょうすい)

2006-07-30 08:49:32 | 加古川市

_007  滝瓢水(1684~1762)は風変わりな俳人ある。彼は加古川の別府に生まれた。

  別府にある瓢水(ひょうすい)の生家は、叶屋(かのうや)という船問屋で、彼が家を継いだときは富商であったが、瓢水の代になって、急速に零落した。

  それもそのはずである。彼は、家業を人任せにして京・大阪に遊んだ。地所や持船は、いつの間にか、人手に渡り、親類からも見放されたという。

  しかし、俳諧には、ますますのめりこんだ。彼の俳諧には、底抜けの明るさと機智そして善意がある。ここでは、広く知られている彼の俳諧を三首紹介しておきたい。

       手に取るな やはり野におけ れんげ草

       * Don't pick chinese milk vetches. Since their bloom are more beautiful when left in the field. (He advices not to marry with geisha girl.)

     浜までは 海女も蓑着る 時雨かな

      * A woman diver also has a straw raincoat, and she takes care not to get wet in the rain as she goes to the beach.

      さればとて 石に布団は 着せられず

      * We cannot hang bedding on the gravestone.  (We should show filial piety while our parents are living.)

  彼のエピソードは多い。後日取り上げてみたい。なお、蛇足ではあるが、意味を下手な英訳にしてみた。読んでいただければ幸いである。

*写真は、別府の宝蔵寺にある瓢水の句碑。

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加古川線・中津駅

2006-07-29 07:43:04 | 加古川市

5ed71a3d  「播州鉄道」は、大正2年(1913)に加古川~西脇間で開業した。

  開業後、まもなく経営は困難になり、第一次世界大戦後の不況が、さらに追い討ちをかけた。

  大正12年(1923)、経営陣はかわり、名称も「播但鉄道」として、再スタートをきった。

  この頃から利用者も増え、経営も順調にのび、地域の重要な足となった。

  時代は太平洋戦争に突入し「播但鉄道」は国有化され、国鉄・加古川線となった。その後、民営化され現在にいたっている。

  「氷丘小学校60周年記念誌」に、播州鉄道の時代、氷丘小学校脇に中津駅があったことを取り上げている。

  「播鉄(播州鉄道)は、よく列車の故障がありました。当時、学校脇に中津駅というのがあって、学校の汐干狩の時だけ停車しました。この駅で降りるのは、氷丘小学校の先生二人だけだったんです」とA氏は話しておられる。

  当時の、のどかな風景が浮かぶようである。

  中津駅について、加古川駅に問い合わせところ、調べてくださった。駅があったことは確認できたが、それ以上のことは、分からなかった。さらに、調べてみたい。

*絵は娘が書いてくれた。

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ボーダーの地域・加古川

2006-07-27 07:54:54 | 加古川市

_050_1   律令制度下で、直接に都の勢力が及ぶ範囲を畿内といった。

  大和(奈良)・河内・和泉・山城(京都)・摂津がそれである。

  播磨は摂津に接しているが、畿内ではない。播磨はボーダー(接点)の位置にあった。

  律令制度に先立つ古墳時時代、播磨の石棺や古墳からの出土品は畿内と似ており、明らかに西日本のものとは異なっていた。

  この時代は、播磨は畿内の勢力下にあったが、都からは周辺部である。

  この位置にある地域は、常に緊張した政治的状況にさらされていた。自らを維持するためには、湧き上がるエネルギーを必要としたのである。

  加古川地方は、古代より都の勢力と結びつきの強い地域でありながら、四国・吉備(岡山)の勢力と対峙する場所にあった。

  都にとって加古川地方は、自らの安全を守るための最前線であった。

  加古川地方の有力者は、自らの権威を高めておくために、また、戦闘の場合は援助を求めるために、中央との結びつきを求めたのである。

  加古川は、鄙(ひな)の場所では決してなかった。

*写真は加古川のながれ。古代より加古川あたりがボーダーの地域となった。

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石棺仏(せっかんぶつ)

2006-07-26 09:55:25 | 加古川市

_040   加古川には不思議な石仏がたくさんある。石棺に刻まれた仏像、石棺仏である。

  これらの石棺仏は鎌倉時代から、室町時代にかけて多くつくられたが、その後はプッツリと姿を消した。

  鎌倉時代は、水田の開発が盛んで、土地が新たに開墾された。この時、多くの古墳もこわされた。

  出土したした石棺は、「手軽な材料?」として仏像をつくる石材として再利用された。

  しかし、単なる廃物利用ではなさそうである。当時の人々も、この石材は、死者を葬った石棺であることを意識していた。

  これらの石棺仏は全国で120基ほど確認されてるが、その八割が加古川市、加西市に集中している。その理由は、分からない。後の2割も、この地方と関係がありそうである。

  加古川市・加西市では、普通に見られる仏像であるが、大変珍しいものである。

*写真は、戦国期の神木(こうぎ)構居跡(加古川市平荘町)にある石棺仏

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私説:志方城の戦い

2006-07-25 09:30:40 | 加古川市

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  戦国時代、加古川地方の城主は、ほとんど毛利に味方した三木方につき、信長・秀吉方と戦った。

  まず、野口の城が落城した。神吉城が信長方の大軍に押しつぶされた。その後、信長軍は志方城へ攻め寄せた。その時の様子は、よく分からない。  

  志方城主・櫛橋伊則(くしはしこれのり)は、戦わずして落城したという説がある。

  また、志方城には1.000余騎が立て籠もり、勇敢に戦い8月10日、小城にもかかわらず20日間も抵抗し降伏したという説もある。

  志方城に先立つ神吉城の戦いでは、織田方の30.000の軍勢に押しつぶされ、城主(神吉頼定)も討たれた。この時、近隣の城からも、三木方からの援軍もなかった。神吉城の戦いに先立つ、野口の戦いでも援軍はなかった。 *天正6年(1578)

  志方城の戦いでも援軍は期待できなかった。負け戦は確実であった。唯、戦うとすれば「勇敢に戦ったという事実を歴史に残す」という美学だけが支えの戦争になる。

  志方城がそんな美学だけで、戦ったとは思えない。第一に、城主・伊則の娘は、敵の知将・黒田官兵衛の妻である。当然のこととして、説得はあったと思える。

  志方城は、戦わず落城した可能性が大きい。もし、激しい戦があれば、歴史にその事実を残しているが、志方城については、そんな話はない。

  これは、私の勝手な解釈である。

*写真は、志方城のあった観音寺(志方町)。城であった痕跡は、ほとんどないが、観音寺の山門脇の石垣の前に内堀跡がある。

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加印地方(加古郡と印南郡)

2006-07-24 09:12:45 | 加古川市

5a8ac8fd   現在、加古川市の中学生が使っている社会科(歴史)の教科書の一部を読んでみたい。

  ・・・・(奈良時代)地方は国・郡などにわけられれ、国には都の貴族を国司として派遣し、郡には地方の豪族を郡司に任じて、人々を治めさせました。・・・(p30)

  加古川地方において、国とは「播磨の国」であり、郡は加古郡と印南郡(いんなみぐん)である。

  この時、郡の境は、加古川の流れを基準とされた。つまり、加古川の東側を加古郡、西側を印南郡としたのである。

  私たちの地方は、川を挟んで、加古郡と印南郡とからなっており、加印地方と呼ばれ、一つの文化的、経済的地域を形成してきた。

  しかし、加古川は天下の暴れ川であった。洪水は、幾度となく川の流れをかえ、郡境と加古川の流れが、その都度一致しなくなった。

  地図は元禄播磨絵図である。川東の加古川村・木村村・友沢村・稲屋村は印南郡に属している。なにかと不都合が生じた。

  明治22年2月22日、印南郡に属していた加古川町、西河原村、友沢村、稲屋村、木村の一町四村が、地理的な関係から加古郡に編入した。

  その、印南郡も昭和52年、印南郡に最後まで残っていた志方町が、加古川市と合併し、奈良時代に誕生したその郡名も消滅した。

*図の「元禄播磨絵図」には、西河原村が出てこない。そして、高砂町あたりの郡境は少し不自然である。この課題は、後に考えたい。

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加古川震える(南海地震)

2006-07-23 09:47:53 | 加古川市

D0209654   突然の地震は昭和21年12月21日の早朝に発生した。死者は、1、300人をこえた。

  潮岬の沖合いを震源とするマグニチュード8.2の巨大地震・南海地震である。

  この時期、日本は敗戦により占領されていおり、マスコミの自由な報道も禁止されていた。

  そのためか、地震の被害・規模が大きかったにもかかわらず詳しく報道されていない。

  ある新聞は、加古川地方のようすを次のように伝えている。

  「・・・21日早暁、突如、加印(かいん)地方(旧:加古郡・印南郡を含む地方)を襲った強震は空前のもので、何れも戸外に飛び出し、酷しい寒気と異常な恐怖に震えつつ夜の明けるのを路上に待ったが、調査の進むにつれ損害は意外に大きく、加古川町では居屋河原町(いやがわらちょう)の洗濯業・入江源栄さん(40)、寺家町一丁目小間物商・三木さんの隣家の白木栄太郎さんが見るも無残。・・・」

  この時の南海地震のエネルギィーは、すべて放出されていないとのことである。最近、さらに大きな、次の南海地震が近いと、さかんに報道されている。

*挿絵:娘が描いてくれたもの

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首都・加古川(幻の遷都論)

2006-07-22 07:45:45 | 加古川市

67265c44   大正12年(1923)9月1日、東京を中心に未曾有の大震災がおきた。政府の一部に、壊滅した首都を東京以外の場所に移そうとする遷都論がおきた。

  「今村均・回顧録」(当時の参謀本部少佐、後に陸軍大将)によれば、国土防衛上の観点から首都移転を極秘に検討し、加古川の地を候補地の一つに挙げている。

  加古川が候補にあげられたのは、第一に災害が少ない地域であるということであったが、その他に「中国大陸への侵略に備え、日本の首都を西に移すべきである」との考えがあったようである。

  候補地として、加古川の他に八王子(東京都)はともかく、ソウル(韓国)が、あげられている。

  「遷都(八幡和郎著)」」(中公新書)では、加古川への遷都の理由を次のように述べている。

  「・・・(首都の候補地は)兵庫県加古川の平地である。歴史上、大地震にみまわれたこともなく、水資源も量・質ともに条件がよい。防空という観点からも理想的である。商工業都市としての機能は、阪神に任せ、皇室、政府機関、教育施設のみを移し、ワシントンをモデルに設計する・・・」

  この遷都論は、やがて各方面にもれ、動揺が起こり、立ち消えになった。

  加古川の地は、他にも一度首都の候補にあがったことがある。後日紹介したい。

*写真は、関東大震災での、日比谷の惨状

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養老(加古川市平荘町)

2006-07-21 11:19:24 | 加古川市

302921cd   右の地図で、「養老(ようろう)」を探して欲しい。江戸時代「養老村」はなかった。

  明治10年に新しく誕生した村である。村名のつけ方が、珍しい。

  「かこがわ万華鏡」(岡田 功著)から、引用してみたい。

  「明治10年12月、印南郡芝村と同郡中村が合併に伴い新しく設定した地名である。命名にあたって芝村の有力者・滝氏にちなんでいる。・・・・」

  それにしても、個人の名前にちなんだ村名とは珍しい例である。

  最近は、あまり語られなくなったが、昔は滝といえば華厳の滝、那智の滝と並んで、養老の物語が、すぐに思い浮かんだものである。

  「・・・貧しい百姓の孝行息子は、父に酒を飲ませたかったが、買う金がなかった。ある日、苔むした岩から(養老の)滝つぼに転落した。気がついたら滝の水が酒に変わっていた。老父は、この不思議な酒を飲み、すっかり若くなった。奈良の都の元正(げんしょう)天皇は、この話を聞き、年号を養老とした」という物語である。

  中村・芝村の人は、こんな親孝行と滝家を重ねて村の名前にしたのかもしれない。

*地図は、「兵庫県市町村合併史」参照

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