ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(329):「志方町を歩く」はしばらく休憩

2012-07-11 13:20:27 |  ・加古川市志方全般

   

  「志方町を歩く」は、しばらく休憩

011「稲美町探訪」は503号まで続きました。

その後「志方町を歩く」を企画したのは、生まれが志方町であったことが大きな理由でした。

「志方町を歩く」は、それだけの理由でスタートさせました。

企画したというものの、思いついたことを秩序なく並べただけですが、前号で328号になりました。

この間、志方町をよく歩きました。

志方町について新しいことをいっぱい知ることができました。

志方町が好きになってきました。

「志方町を歩く」では、それらをみなさんに押し付けただけのような気がしています。

お付き合いくださいました読者の皆様にお礼申し上げます。

ここで、このシリーズはいったん急停車します。

しばらく「お休み」です。

次のシリーズ「新野辺を歩く」の後に、このシリーズ「志方町を歩く」を再開したいと考えています。

その間に志方町についての新たな史料をあつめます。

「志方町を歩く」では、多くの志方町の方にご協力をお願し、ご迷惑をおかけしました。

本当にありがとうございました。そして、お詫び申し上げます。

*写真:円照寺(広尾)のノウゼンカズラ

  

   シリーズ「新野辺を歩く」スタート! 

「志方町を歩く」をお休みにした理由は、以前にも「新野辺探訪」を少し書いたのですが、もう少し「新野辺(しのべ)」(加古川市別府町)の歴史を続けてみたかったからです。

というのは、いま、新野辺の方が町内会を中心にした、新たな動きがあります。

その内容は、追って紹介します。

もちろん、シリーズ「新野辺を歩く」は、直接、新野辺の方々の運動とは関係はありません。

私からの一方的なお節介です。

しばらくお付き合いください。

志方町でも稲美町でも、身近な歴史を知ることの大切さを改めて知ることができましたので・・・

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志方町を歩く(300):「志方町を歩く」が300号

2012-06-11 08:27:20 |  ・加古川市志方全般

   「志方町を歩く」が300号に

011続けているだけで、いろいろな数字が生まれます。

先日(731日)、神戸新聞の記者が「ひろかずのブログ」の読者だったようで、ブログが1700号を超えたことを神戸新聞で大きく取り上げてくれました。

おかげで、以後一挙にブログへのアクセスが増えました。

その影響はまだ続いています。

先週は、アクセスが500を超えた日が二日もありました。

このブログは、アクセスに励まされて続いているようなものです。

    もう少し続けます

さて、「(シリーズ)志方町を歩く」も今日で300号になりました。

もちろん、志方町の歴史を知っているか書いているのではありません。

町を歩たり、本を読んでいると書きたいことや疑問が出てきます。

そんなことを、少しふくらませて紹介しているだけです。

私自身がけっこう楽しんでいます。

押しつけになって申し訳ありませんが、もうしばらくお付き合いください。

お暇な時に、コメントを頂ければ嬉しいです。

もちろん、お叱りでもけっこうです。

   ご迷惑をかけています

ただ、心配なのは話題がバラバラなことです。

気がついたことを気ままに書いていますので系統だっていません。

志方町を歩くも300号になりましたが、「500号ぐらいになったら整理して、少しは読みやすい『私説の志方町』のような冊子をつくってみたいな・・」と考えています。

ですから、しばらくは読みづらい文章が続きますがお容赦をお願いします。

500号に向けて!・・・・・

今日は、午前中ある小学校の歴史教室に出かけます。

今後は、小学校の先生方にもっと地域の歴史に興味を持っていただき、小学生にも広げたいとひそかな野望を持っています。

老化防止のために地域を歩きます。

そして善意の押しつけをしばらく続けます。Let’s go!

  *写真:宮山からの風景

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志方町を歩く(294):法道仙人⑦・腰かけ石

2012-06-05 07:45:51 |  ・加古川市志方全般

法道仙人の腰かけ石

004先日「志方町を歩く(290)」で法道仙人の手跡石(てあといし)と言われている石を紹介しました。

手跡石のある場所は、山陽自動車道の加古川北ICのすぐ南東に新しくできた札馬大歳神社(さつまおおとしじんじゃ)の境内です。

「知らない」とは、こわいことで、この札馬大歳神社の正面に堂々と置かれた法道仙人の「腰かけ石」(写真)には全く気づきませんでした。

ブログを読んだある人から「札馬神社には法道伝説の腰かけ石もあるよ」と教えてくださいました。

そのため、あらためて腰かけ石の写真を撮りに出かけました。

「腰かけ石」といわれれば、そのようにも見えてきます。

   「腰かけ石」の説明(板)がありません

この「腰かけ石」について、雑誌「Kako-Style(かこ・スタイル)」は、次のように書いています。

太字に注目してお読みください。

・・・・・・

 馬に乗って空を飛び回ったり、松を投げ飛ばしたりと、さまざまな伝説を残す法道仙人。

志方町大澤の法華山一乗寺に通じる道の畦端に、寺を建立する際、方位を決めるために腰掛けた石・腰掛石(こしかけいし)と、法華山に行く途中、法道仙人が飛び降りて、手を付いた時の手形が残ったとされる石・手跡石(てあといし)がありました。

現在、この石は札馬大歳神社の境内に移されています。(以上「Kako-Style」より)

<お願い>

札馬大歳神社を訪れた人も、「手跡石」については、少し説明がありますので気がつくのですが、「腰かけ石」については説明がありません。

私と同じく「腰かけ石」を知らないままに帰られる人も多いと思います。

できれば、簡単な説明板の設置をお願いできないでようか。

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志方町を歩く(265):長楽寺(30)・語り続けましょう、長楽寺のことを

2012-03-31 10:54:42 |  ・加古川市志方全般

私ごとで申し訳ありません。

私は西志方小学校の北東隅にあった幼稚園の卒園です。

そして、小学校の1年生の12月に加古川小学校へ転校しましたから、昭和25年の夏だったと思います。

小学校から長楽寺と道路の間にあった施設で一泊の林間学校がありました。

どんなプログラムであったのか、全く覚えていません。

学校の校舎とよく似ていた施設であったようです。

もうひとつ覚えています。

なぜか、西志方小学校の校章のある窓ガラスが数枚ありました。

小学校の古くなった窓ガラスの再利用だったのでしょうか。

もっとも、小学校の1年生の時で、今から60年以上も前の記憶ですから自信が持てません。

   無関心でした

Photo_2とにかく、私と長楽寺の関係は、ことしの2月まではそれだけでした。

昨年の94日、長楽寺が土砂でつぶれたことは新聞で知っていました。

でも無関心でした。

ブログで志方町を取り上げ、西志方を歩いている時でした。

原の仏性寺で取材した後、大藤山を見たんです。

ぱっくりとY字型に山肌がえぐられている風景が飛び込んできました。

「これは大変だ」と、その足で長楽寺へ出かけました。

お墓が修理されていました。

その時は、こっそりと数枚写真を撮っただけです。

   語り続けることの大切さ!

その夜、「いま、長楽寺を取り上げないで、何が地域史なんだ・・・」と思い、長楽寺さんへも何度か寄せていただきました。

今できることは、「広くこの事実を知らせ、広める」ことだと考え、とりあえずブログで長楽寺のことを書き始めました。

いつもより、少しではありますがアクセスが多かったようです。

しかし、長楽寺さんについては俄か勉強であったため不正確なこと、不適切な表現も多くあったことをお詫びします。

いったん「長楽寺」についての報告はお休みして、少し勉強してみます。

そして、長楽寺について、支援活動を含めて後日再開させたいと考えています。

 尚、今日の神戸新聞の朝刊に、「1000年の森をつくろう」の署名が林野庁に提出されたニュースが大きく報道されています。

*写真:長楽寺HPより

◇お詫びとお知らせ◇

ブログをお読みいただきありがとうございます。

4月は私用のためこのブログをお休みにします。ブログを始めて以来1ヵ月も休刊にすることは初めてです。再開できるか心配です。

ですから、「51日の再開」を宣言して、自分を縛っておきます。

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志方町を歩く(264):長楽寺(29)・長楽寺と西大寺

2012-03-30 11:10:26 |  ・加古川市志方全般

   加古川平荘山角の報恩寺の開基は慈心

Photo『加古川市史』を参考に推理します。

『加古川市史(一巻)』の「報恩寺流律宗のながれ」の項に、次のような記述があります。

 報恩寺のある旧印南郡平荘村山角(現:加古川市平荘町)の地は、もと印南荘内屏村といい、天文二年(1533)のある文書によれば慈心和尚開基の名刹です。

また、報恩寺の縁起では、和同六年(713)慈心の開基としています。

「縁起」も古い記録も共に報恩寺の開基を慈心としています。

記録と縁起では、慈心について混乱がありますが、慈心和尚が報恩寺の開基に関係しているようです。

*慈心は、慈心覚房(11701243)ことで、藤原長房がその人です。

 彼は、興福寺の中に常喜院を建て、律を起こした人です。

   長楽寺の開基も慈心

長楽寺には開基等に関する文書等の記録は残っていませんが、縁起では「和銅六年(713)慈心」の開基と伝えています。

報恩寺も長楽寺も開基は慈心和尚です。

これは、単なる偶然の一致でしょうか。

長楽寺についての詳細を調べたいのですが、長楽寺は、三木合戦で焼き打ちにあうなどで、文書等が焼かれ昔の長楽寺の歴史は全くわかりません。

ただ、境内に残る石造物などから鎌倉時代には相当の寺院であった想像できます。

   長楽寺は、もと西大寺・真言律宗の寺院か?

もうひとつ、長楽寺と報恩寺との共通点をあげてみます。

報恩寺には、花崗岩の層塔があります。

長楽寺にも十三重の花崗岩の層塔の残欠があります。

地元の歴史家は、「この花崗岩の層塔は、もと西中の寺にあったものである」と指摘されていますが、私はもと長楽寺にあったのではないかと想像します。

この層塔は、花崗岩製です。当時、かたい花崗岩を加工できたのは奈良西大寺の伊派の石工集団だけでした。

ですから、長楽寺も西大寺と関係があった寺院と考えられるのです。

西大寺は、旧印南郡に印南荘を経営していました。

報恩寺は、印南荘の内・屏荘(平荘)あたりの経営のための寺院でした。

とすると、長楽寺は印南荘の内「志方荘」を経営(支配)関わった中心の寺院であったと考えてもよさそうです。

 *きょうの記事は、素人が、それもかなり強引な想像で書いています。今後、志方荘について調べてみます。史料等詳細をご存知の方はご教授ください。

*写真:現在の西大寺本堂

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志方町を歩く(263):長楽寺(28)・池郷

2012-03-29 00:07:54 |  ・加古川市志方全般

地図で長楽寺の前のダンベ池・中池・皿池の場所を確認ください。

これらの池の水は、大藤山からの水を集めて、永室村の田畑を潤い続けました。

この地域は、土地が高く川がなかったので、これらの池の水にたよるより他に方法はありません。

ダンベ池・中池・皿池の水は、農民の命そのものでした。

    昔は助永村・比室村

永室村は、明治9年まで、それぞれ助村、氷村と呼ばれていました。

明治9年に両村は合併して、それぞれの村名の一字をとって永室村としました。

合併の理由は、両村はこれらの池を共同で利用していたからです。

助永村・氷室村の百姓は、勝手にこの水を使うことはできません。

そのため、池の水は厳格に両村で管理されてきました。

026両村は、水に関して互いに話し合い、取り決めをつくり、協力をしなければ村は成り立ちませんでした。

両村は、何かと村の枠を越えて、運営されたのです。

明治9年、両村の合併は、当然のように行われました。

   池郷(いけごう)

このように、池を通じて結びついた村々・地域を「池郷(いけごう)」と言います。

ダンベ池の堤防の北東隅に「蓮池再興の碑」があります。

その碑の其檀部に「池郷中」(写真:右から読みます)とあります。

助永村、比室村はお互いに池の水を共に利用し、利害を共にする池郷でした。

碑文は、干ばつのために、池の水が不足し、蓮池の改修を行った天明から天保に生きた庄屋の記録です。

◇ダンベ池◇

地元の人は「ダンベ池」を「蓮池」と呼んでおられます。

昔は、お盆の頃には蓮の花が咲き、長楽寺はいっそう華やいだことでしょう。

*碑文については『めんめらの生きた道』(磯野道子)を参照させていただきました。

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志方町を歩く(218):歴史が顔を見せている

2012-02-13 07:48:46 |  ・加古川市志方全般

歴史が顔を見せている

87ea7868「歴史が顔を見せている。

どの街角にも、どの草原にも、そしてどの川の流れにさえも・・・・

しかも、こちらがその気になって声をかけてさえすれば、歴史は必ず声を出して答えてくれる。

時にはこちらの問いかけを待ちかねているのかと思うほどでなめらかに、時にはなお沈黙を守っていたそうにしぶしぶと・・・・

とにかく返事をしてくれるのである。・・・・」

以上は、『物語 アメリカの歴史(猿谷要著)』(中央公論新社刊)の書き出しの文章です。

以下は、わたしの独り言です。とばしてお読みいただいて結構です。

68才になりました。読む本は歴史関係が多く、気がついてみると読書傾向はせまくなりました。それも日本史関係がほとんどです。

でも書棚には、むかしに買った様々なジャンルの本が「ごみ」のように雑然と並んでいます。

先週、その中から2冊の本を引っ張り出して読んでいます。

一冊は『アメリカ黒人の歴史(本田創造著)』で、他の一冊は上記の『物語 アメリカの歴史』です。

本には線がはいっていますから、今回は2回目読書です。

年をとるということは便利で線を引きながら読んでも、ほとんど忘れています。

もう一度読み返しても、おそらく、また忘れていると思います。

最初の『物語 アメリカの歴史』の書き出しの部分を再度お読みください。

   志方町の街並み石仏等を探索します

志方町の歴史散策をしていますが、志方町には古文書等がほとんど残っていません。

ですから、古文書を通しての歴史散策は難しいようです。

でも、猿谷(さるや)さんの言われるように、こちらが問いかければどの街角の風景も、どの草原からも、声をかければ歴史は必ず声を出して答えてくれます。

さいわい、志方町の歴史の古い歴史を持つ所です。残っている石仏・道標を探して歩こうと思います。それらは、歴史の語り部です。

どんな答えが帰って来るか楽しみです。

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志方町を歩く(200):コーヒーブレイク・「志方町を歩く」が200号に

2012-01-13 13:07:33 |  ・加古川市志方全般

志方町を歩くが200号になりました

Puaru_182 「志方町を歩く」が200号になりました。

100号で、稲美町探訪で書いた記事を引用して、200号になったら、おそらく他人に志方町のことを話たくなっているだろう」と書いています。

 どうやら、そんな気持ちになってきています。

 また、「300号になったら、いっぱしの専門家面をして志方町についての話をだれかに押し付けている」かもしれません。

400号になったら、もうずいぶん昔になった初恋のように、志方町が愛おしくなっている」かもしれません。

「もし、500号になったら、きっと分からない古文書等と格闘しながら、誰も知らない志方町を調べている」と確信します。

・・・・

「稲美町探訪」の後、古文書の勉強を始めました。

残念なことに、志方町では古文書の保存はまり多くないようです。

が、知られていない志方町の歴史をなんとかして掘り起こしてみたいと思っています。

史料等がありましたら是非御紹介ください。

   志方町の歴史を語りましょう

「ひろかずのブログ」は、まとまりのない地域史ですが、読んでいただいている方も増えてきました。

最近、このブログへのアクセスは、毎日平均250~300程あります。

先日は、このブログをもとに小冊子「国岡の歴史」(稲美町国岡)が出来上がり、国岡の全戸(1400戸)に配布されました。

国岡自治会・土地改良区・農産部の方にお世話になりました。ありがとうございました。

また、いまある小学校から「職員研修に来てください」と頼まれています。

公民館の歴史講座に出かけることも増えました。

明日も尾上公民館(テーマ・尾上町の歴史)へ出かけます。午後、少し準備をします。

「シリーズ・志方町を歩く」も、今の調子では、しばらく続きそうです。

志方町を歩くは、もう少しまとまり、整理された段階で、お世話になった方へのお返しをしたいと考えています。

300号をめざして、押しつけになりますがよろしくお願いします。

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志方町を歩く(147):綿のある風景(7)

2011-11-10 08:18:18 |  ・加古川市志方全般

稲岡商店

3304bb44_2  右の表は、稲岡商店のタオル販売量の推移を示したものです。

日清戦争後の1896年(明治29)以降、タオルの販売が急増しています。

これは前回に述べたように、この時期、清(中国)への輸出が急増したためです。

この急増傾向は、その後も続き、日露戦争直後の1905年(明治38)には、販売量は前年と比較しても二倍近く伸びています。

しかし、この好調な輸出は、何時までも続きませんでした。

まず、日露戦争後の恐慌の影響を受けました。

そして何よりも、1915年(大正4)5月の「対華21か条の調印」後は、激しい日本商品の排斥運動により清国方面への輸出が危険な状態になったためです。

そのため、稲岡商店は、その後日本国内への販路開拓に方向転換していきます。

<対華21か条の要求>

第一次世界大戦が始まると、ヨーロッパ諸国は、清国の支配に対して余裕をなくし、権益の放棄を余儀なくされました。

日本は中国に山東半島のドイツの権益を要求し、満州・モンゴルで権益を広げ、日本人を軍事・経済顧問として採用することなどを要求しました。

中国は大部を受け入れました。これを知った中国人は日本の商品を買わないなどの排日運動をはじめました。

*『加古川市史(第三巻)」参照

<お詫び>

綿畑を見学に行ったため、志方町の綿作について、軽い気持ちで報告しようと思いましたが、先行研究も少なく詳細を報告できなかったことをお詫びします。

史料が見つかった時、志方町の綿作の続きを書くことにします。

「綿のある風景」は、稲岡工業でいったん終わります。

現在、稲岡工業は経営難のため操業を終えました。

<蛇足>

以下、個人的なことで申し訳ありません。

 戦死した父は、稲岡工業で働いていました。そして、私の名前を「ひろかず」とつけ、漢字を迷っていた時、工場の社員さんが「博一」がいいと薦めてくれ決めたそうです。

 そんな工場が操業をおえました。

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志方町を歩く(146):綿のある風景(6)

2011-11-09 17:58:07 |  ・加古川市志方全般

稲岡商店(志方町横大路)

Westshikata_045 江戸時代の後期の加古川市域は、木綿の一大産地でした。

特に、江戸時代後期には姫路藩の木綿専売制の下で莫大な生産高をあげました。

しかし、江戸幕府の終焉とともに専売制は終り、綿作は衰退します。

開国により、外来木綿の輸入が本格化し、木綿問屋の経営を圧迫し、ほとんどの問屋は没落してゆきました。

そんな中で、経営を存続させていくことのできたのは、横大路村(志方町西志方)の稲岡九兵衛(九平)家のように、大坂の有力問屋と強力な関係を結ぶことのできた一部の者に限られました。(写真は稲岡家)

大木綿問屋であった稲岡九平は、明治24年に稲岡商店(稲岡工業)を創業し、同39年には個人商店から会社組織に変更して、合名会社「稲岡商店」とし営業を拡大させました。

注目すべきことは、それまで木綿をあつかっていた稲岡商店は、次第にタオルの製造へと切り替えていきました。

日清戦争後に、タオルを清国(中国)へ輸出したことをきっかけに、タオル生産は急速に普及しました。

日露戦争以後は、広東・上海・香港・インドさらにオーストラリアまで市場を拡大させました。

 *『加古川市史(第二巻)』・『加古のながれ』(加古川市史編さん室)参照

◇以前に紹介した記事の再掲です◇

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志方町を歩く(145):綿のある風景(5)

2011-11-08 22:47:08 |  ・加古川市志方全般

姫路藩の木綿の専売制度により、大いに利益をあげました。

これは厳しい専売制度ではなく緩やかな専売制度であったからこそ、下からの反対も少なく成功したといえます。

江戸で売る際の手数料は、取引高の1.5%を藩が手にするという控えめなものでした。

それでいて、姫路藩は天保初年にはほとんど借金をすることができました。

   

    一橋領での木綿の専売制度

Photoこれを見ていたのが渋沢栄一でした。

渋沢は、当初徳川慶喜から、一橋領で農兵を集める仕事を命じられますが、農村をめぐる間に、財政面に興味を持ち、いくつかの経済政策を考えるようになりました。

その一つが、播磨における木綿の専売制度でした。

印南郡にある一橋領では姫路藩なみに綿作・綿織物が展開していましたが、渋沢により慶応元年(1865)「姫路藩以上のものを・・・」と一橋領で綿の専売制を実施するようになりました。

一橋領の木綿預かりの札(切符)は、いつでも通貨にかえることができる信用ある貨幣として通用させたのです。

通貨の流通量を増やし、木綿の買いつけを盛んにさせました。

そして、農民からなるべく木綿を高く買い、大坂へ持って行ってなるべく安く売ることを始めました。

いちじ、姫路藩内でも一橋木綿預かり札(切符)が流通し、姫路藩から一橋領への木綿の流出がおこり、姫路藩の専売制度を動揺させるほどになりました。

しかし、すぐに江戸幕府は崩壊し、渋沢栄一の木綿の専売制度は幕を閉じることになりました。

*地図:一橋領(志方町東志方)

 『花盛りの城下で』(姫路獨協大学播磨学研究会編)参照

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志方町を歩く(144):綿のある風景(4)

2011-11-07 11:18:48 |  ・加古川市志方全般

一ツ橋領(東志方)の木綿商人

1_039加古郡・印南郡で生産される白木綿を「長束木綿(ながそくもめん)」といいました。

姫路木綿は、二つのルートを通じて江戸・大坂へ出荷されていました。

一つは、姫路周辺の木綿・綿布で、国産木綿問屋をとおして、他は長束木綿問屋を通して、江戸の三井・白木屋・大丸といった木綿問屋に売り渡し販売されました。

姫路城周辺の木綿問屋は、江戸積に積極的でした。

しかし、長束木綿問屋は、今までの取引の関係もあり、必ずしも江戸積み一本にまとまっていませんでした。

そんな状況下で、姫路藩の木綿の専売制度を実施したのです。

そのためか、姫路藩の専売制は綿を作るにしても、織るにしても規制はなく緩やかなものでした。

綿布などでは幅不足などの品もたくさん生産されるようになり、藩側は、江戸積み重視の立場から、幅・長さ等の規格を厳しくしました。

ともかく、姫路藩内では「規格外の商品は、江戸積みとして認めない」というのです。

東志方は、姫路藩にあらず

一方、綿布の織りにも寸法不足な不良品の流通も減少しません。

藩は、規格を守るように取締りを強めたのですが、取り締まれない事情があったのです。

印南郡の一部は、一ツ橋領(天領)で姫路藩ではありません。

東志方(一橋領)では姫路藩なみにしていましたが、姫路藩が規制を強制し始めると、東志方一橋領の仲買商は姫路藩から規格外の品を盛んに買い取って姫路藩の専売制に影響が出るほどになりました。

東志方は姫路藩ではありません。姫路藩としても、他領の取り締まりはできません。

そんな事情で、東志方(一橋藩)の商人は姫路藩では認められていない規格外の綿布も、盛んに取り扱いました

とりわけ、この傾向は、細工所の木綿商人より、同じく一橋領であった今市・中島・曾根(現:高砂市)の村々の木綿商人にこの傾向は大きかったのですが、彼らはひと儲けをしたというわけです。

*写真:東志方の風景(城山から)

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志方町を歩く(143):綿のある風景(3)

2011-11-06 09:12:26 |  ・加古川市志方全般

 今日も志方町が登場しません。姫路藩の「綿の専売制」の話です。

木綿は藩の専売品に!

 Photo江戸時代の後期、姫路藩は73万両という膨大な負債に苦しんでいました。

 家老・河合道臣(後の寸翁)の仕事は、なによりもこの負債を少しでも減らすことでした。

 道臣は、姫路木綿を大坂の商人を通さず、江戸へ直接販売できないかと考えました。

 しかし、姫路藩は大坂商人から膨大な借金を重ねていました。

そのため、姫路藩は、大坂商人を通さないで自由な商業活動はできなかったのです。

 江戸は大消費地であり、姫路木綿は品質もよく大量の販売が見込まれました。

 しかし、多くの地元の木綿業者や藩の役人は、大坂商人を恐れて、不満を持ちつつもなかなか道臣の案に協力しませんでした。と、言うよりも協力できなかったのです。

江戸へ綿布の販路を求める

しかし、それを押して姫路藩は、江戸への綿(布)の販売をはじめました。

大坂の問屋筋は、さっそく反応しました。

 姫路藩への新たな借財への金利があがりました。

 道臣は、藩内の木綿業者に粘り強く協力を求めました。

 やがて、大坂商人に対する不満が出るようになりました。

 さらに、風は姫路藩に味方しました。

 十一代将軍・家斉には一妻二十妾(しょう)の間に、五十五人の子どもをもうけましたが、四十三人目の喜代姫が、姫路藩の忠学(ただひろ)との結婚の儀がなったのです。

 姫路藩は、徳川家と親戚になりました。

 姫路木綿を専売品として直接江戸へ卸す話は一気に進み、姫路藩の綿布の専売制度は軌道に乗りました。

 そして、志方も含めて加古川地域は、綿の一大産地となりました。

*『姫路藩・凍って寒からず(寺林峻)』(東洋経済新報社)参照

 写真:河合寸翁像(姫路神社)

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志方町を歩く(142):綿のある風景(2)

2011-11-05 08:26:08 |  ・加古川市志方全般

綿のある風景(2)

354fc29f前号の「綿のある風景」を(1)としておきます。

今日の「綿のある風景」は(2)です。

志方地方の綿のある風景を描いてみたいのですが、史料がありません。そして先行研究もあまりないので、わかる範囲で、そして、想像を交えて描くことにします。

史料がなくて、先行研究がなくても志方地方では江戸時代の後期、綿は重要な作物であり、盛んに栽培されたことは間違いありません。

西志方の横大路には、かつて加古川市を代表する稲岡工業がありました。

この工場は、この地方の綿作の延長上にあった工場です。

それでは、志方の「綿のある風景」を探しに行きましょう。

本号と次号は姫路藩の綿作と専売制の話です。志方町は登場しません。

   

 加古川地方の綿作は姫路綿の中心地

綿が日本に伝わったのは古く、延暦18年(799)に三河伝えられたのが最初であるらしいのですが、その時は栽培技術が伴わず絶滅しました。

その後、綿作は、文禄の頃(159296)大和・河内・摂津に広まり、ほぼ同時に姫路地方も一大木綿産地になりました。

木綿は、それまでの麻と比べ、柔らかく、染めても美しく、それに何よりも暖かく、冬の寒さには大いに役立った。

江戸時代、大阪・江戸等の巨大消費都市が生まれ、また交通も発達し、商品は大いに流通し、綿も商品作物として栽培されるようになりました。

姫路木綿は「玉川さらし」、「姫玉(ひめたま)」と呼ばれ、江戸で大好評を得ました。

この姫路木綿の原料は、加古川地方が主な産地であったことは案外知られていません。

*「玉川さらし」は、木綿商の天下原(あまがはら・加古川市東神吉町)の金川甚左衛門がつけた商標であり、玉川とは加古川のことです。

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志方町を歩く(141)・綿のある風景

2011-11-04 07:31:35 |  ・加古川市志方全般

 昨日(113日)、近所(加古川市粟津)で、「播磨の綿まつり」が開かれました。

これは、江戸時代、加古川地域が綿の産地だった歴史を知ってほしいと地元の人が企画されたものです。

会場では、綿摘み・綿繰機を使った種とり作業・糸車を回す糸つむぎの体験もおこなわれました。

 江戸時代の後半、私たちの地域の秋は、白い綿の花で埋まりました。

 少し木綿(綿)について調べてみましょう。

綿のある風景

015綿の栽培が始まったのは、室町時代の中ごろです。

やがて、庶民の生活に入ってきました。

それまで着ていた肌ざわりの悪い麻布と比べて,柔らかく、染めても美しく、それに何よりも暖かく冬の防寒には最適でした。

江戸時代に入り、江戸や大坂等の巨大な消費都市が生まれ、交通も発達しました。

姫路領内では文化年間(180417)以来、畑地に綿の栽培が奨励されていました。

特に、綿作の中心となったのは加古川地域で、広く木綿畑がみられました。

綿は商品作物として栽培され、急速に生産を増やしました。

姫路木綿は品質が良く、薄手でやわらかく、その上、加古川の水質が木綿を晒す(さらす)のに適していました。

特に、綿布は白く「姫玉」とか「玉川さらし」と呼ばれて、江戸で大好評を得ました。

現在の志方町東志方は、天領(幕府領)でしたが事情は同じでした。

    

  夜なべ

綿栽培は、同時に木綿織等の副業をもたらしましたから、綿は米に匹敵する大切な作物でした。

『加古川市史(第五巻)』に、「一橋家領村々様子大概書」があります。

これは一橋領内の各村々の明細書ですが、東志方の各村々の記述には、決まったように「農業の間、男は薪を取、草を刈、女は木綿を織」の記述があります。

自分の家の畑あるいは、木綿問屋からの木綿で綿布を織っていたのでししょう。

江戸時代の東志方の村々の夜を想像しましょう。

あたりは静かです。

そして、どの家からも、遅くまでほのかな光が洩れています。

そして、コトン・コトンというリズミカルな機織りの音がありました。

山では、フクロウがホーホーと鳴いています。

*写真:綿(綿祭りの会場の綿)

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