ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(117)  米田天神社・天満宮にあらず

2015-01-15 08:16:36 |  ・高砂市米田町

  米田天神社は、菅原道真を祭る神社にあらず

 「・・・米田天神社の旧社殿は、江戸時代のはじめに、宮本伊織が泊神社の古宮を遷したものであった。米田天神社の建設は、承応二年(1653)に完了している。

 ・・・・・また、米田天神社の主神は少彦名命(スックナヒコナノミコト)であるが、天神社の名称のためか、古くから誤って天満官と称されることもあって、天満宮と称されることもあった。

 (宮本)伊織も、泊神社の棟札で祭神を菅神すなわち菅原道道真と記している。・・・・」

 以上が、『高砂市史(第二巻)』にある米田天神社についての説明の一部です。

 つまり、米田天神社は、現在の加古川市木村の泊神社を江戸時代の初め伊織がこの地に遷したのがはじまりです。

 そのため、泊神社と米田天神社の祭神は、まったく同じであり、菅原道真ではありません。

 しかし、なぜか誤解され天神社と呼ばれ菅原道真を祭る天満宮とされていたようで、拝殿の前に菅原道」を祭る天満宮のシンボルである臥牛(がぎゅう)がどっかりと鎮座しています。

 さすがに現在は、臥牛があるものの米田天神社は天満宮としていませんが、菅原道真に寄せる当時の村人の願いを想像します。

    菅原道真は農業(水)の神

 ここからは、勝手な推測です。

 江戸時代の初め、しばしば大旱魃に襲われました。特に、米田天神社がつくられた少し前の承応3年(1654)の旱魃は、ひどいものでした。太陽が大地を容赦なく照りつけました。秋の収穫は何もありません。人々は餓えてさまよいました。

 こんな時、人々は、神に祈るより方法はありません。雨の神・菅原道真にいのりました。

 菅原道真は、学問の神様であるとともに、百姓にとっては農業の神様でした。

菅原道真についての詳細な物語は、ここでは省きますが、道真は藤原氏の讒訴(ざんそ)にあい、突如大宰府に流されました。

 道真は、延喜3年(903)、失意のうちに大宰府で亡くなります。59才の人生でした。

 道真の死後、京都では天変地異がしきりに起きます。

 旱天・流星・大地震、そして疫病などが続き、貴族たちは道真の怨霊が京の空に舞い戻って来たのではないかと噂し、動揺ははなはだしいものがありました。

 このため、朝廷は神社を建立して道真の霊を慰めようとしたのです。

 道真の怒りが雷神として現れたと信じた藤原貴族たちには恐怖でしたが、道真は農民にとって雷は雨と水をもたらし、稲の実りをもたらす神として全国にひろがりました。

 江戸時代の始め、米田村の百姓が菅原道真にかけた思いを想像してしまいます。

 *写真:米田天神社の拝殿と臥牛

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高砂市を歩く(116) 米田新村・古新・六ヵ井

2015-01-14 07:39:39 |  ・高砂市米田町

  米田新村・古新(こしん)・六ヵ井

  加古川から取水する農業用水に船頭村(加古川市)と米田新村付近で取水して古新村、小松原村、荒井村、高砂村に流す「四力井」と、中島村、今市村に流す「二カ井」があって、合わせて「六力井」ともいわれています。

 「六力井」に依存している米田新村も17世紀前半に開発された新村です。

 古新村は、それより以前の天正十四年(1586)に開発されたという伝承を持っていますが、(『増訂印南郡誌』)、いずれも米田村の住人が加古川の河川敷を開発した新田です。

   古新、もとは「新村」

 「古新村」は、最初はたんに「新村」と呼ばれていたととろ「米田新村」が開発されたことにより、古い新村という意味で区別して「古新村」と言われるようになりました。

 『増訂印南郡誌』には、古新村の三好家に伝わる文政五年(1822)の記録が引用されており、それによれば天正八年(1580)三木落城に際して懐妊していた別所長治の側室が郷里の米田村に戻ったが、付き従った三好三郎兵衛はじめ八人の家臣が天正十四年に開発した村で、当初は八ツ家村を称したが、後に古新村になったといいます。

 史実として、別所長治の側室の話は別として、三木城合戦の頃開発された村と想像されます。

   米田新田(米新)は、慶長十三年(1680)に成立

 一方、「米田新村」については宝暦七年(1757)の村明細帳に慶長十三年(1680)の新田検地により村が成立したことが明記されており、四力井と同時に慶長年間に開発されたことは確かなようです。

 米田新村は、当初米田村の枝郷として単に新村と呼ばれていましたが、寛文年間の頃から独立行政村として米田新村になったようです。

 *『高砂市史(第二巻・通史編近世)』参照

 *写真:六カ井用水路(米田新の水源地あたり)

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高砂市を歩く(115) 古新堰堤

2015-01-13 08:51:43 |  ・高砂市米田町

   古新堰堤(こしんえんてい)

 加古川は大きな川ですが、特に米田町古新辺りから川幅を広げて、瀬戸内海に流れ込みます。

 むかしから加古川は、大量の土砂が河口辺りで堆積させ、その流れを妨げてきました。

 そのため、浅くなった川底のためにしばしば氾濫し、水害を引き起こした暴れ川でした。

 特に、江戸時代、河口の高砂港は、この堆積により港が浅くなることが最大の問題でした。

 この堆積作用は現在も続いており絶えず川底をさらえる必要があります。

 現在、相生橋を運転する時、海側に大きな不思議な船が川の中央辺りで止まっていることに気がつかれた方も多いではないでしょうか。

 川底を浚えている浚渫船です。

   塩 害

 河口あたり水のもう一つの問題は、塩水が混じった気水域であることです。

 塩水を含んだ水は直接、田畑に利用できませんし、飲料水にも適しません。

 河口から少し離れた米田町古新辺りでは塩も薄くなっているのですが、大潮のときなどは、ここで塩水を防ぎ、加古川の水をその堰の上流から取水する必要がありました。

 この塩水を防ぐために「古新堰堤」がつくられました。

   東はりま加古川・水の新百景

 写真の古新堰堤について、「東はりま加古川・水の新百景」として説明板があったので以下に記しておきます。

  「古新堰堤(こしんえんてい)」は、河口より3.8km地点にある加古川最下流部の河川構造物です。

 河床の低下を防止するとおともに、高砂町の水源に対する塩水遡上防止のために作られました。

 この堤防は、昭和4年(1929年)に起工され、翌年竣工されましたが、丸太が基礎になっており、後に加古川を襲った度重なる出水により被害を受けました。

 現在の堤防は、上下流に鉄矢板を用いた新しい広報により、昭和32年(1957)から3年間を経て改築されたものです。

 これによって地下水の逸散を止め、防潮の役目を果たすものとなりました。

 *写真:古新堰堤

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高砂市を歩く(114) 雁南(がんなん)

2015-01-12 08:03:29 |  ・高砂市米田町

   雁南(がんなん)

  加古川市・高砂市の歴史を調べていると「雁南(がんなん)」という地域名がしばしば登場します

 例えば、江戸時代に書かれた「加須屋氏文書」によれば、「(加古川城主・糟谷氏)の祖先は、相模の国・糟屋荘に住んでいたが、承久三年(1221)、糟谷氏の先祖が宇治川の合戦で功績をあげ、雁南荘を与えられたのが始まりという」と記録しています。

 今ここでは、糟谷氏のルーツを捜すのが目的ではありませんが、このように雁南(荘)という地名が登場します。

 加古川城のあったのは今の加古川町ですから、加古川町辺りは江戸時代以前「雁南」と呼ばれていたのは確かなようですが、「雁南」はどの地域をさしていたのでしょうか。

 加古川史学会の岡田功氏が雁南荘につて書いておられます。一部をお借りしました。

   雁南(荘)はどこ?

 「加古川町本町は、江戸時代には「加古川宿」であり印南郡(いんなみぐん)加古川村ですが、神社や寺院などの資料に「雁南荘」や「岸南荘」「河南荘」などの文字での荘園名を見かけます。

 すべて「がんなん(の)しょう」と読むのですが、近世では単なる呼び名にすぎません。

 『印南郡誌』などによると、「雁南荘」は加古川町木村の泊(とまり)神社を氏宮とする「木村・稲屋・友沢・加古川(本町)・船頭(ふなもと)・西河原」(加古川市)と「古新・米田・塩市・今市・中島」(高砂市)の地域とあります。

(とすると)雁南地方は遡れば奈良時代の『播磨国風土記』の「六継里」とも考えられます。

 *写真:がんなんはし(雁南橋)、きのう(1月11日)の午後、高砂の法華山谷川が新幹線と交わる場所から南へ二つ目の橋へ出かけました。写真の「がんなんはし」です。雁南(地域)は、米田を中心にして南はこの橋のあたりまで広がっていたのでしょう。

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高砂市を歩く(113) 米田村誕生

2015-01-11 08:06:50 |  ・高砂市米田町

  「米田村」誕生・明治22年4月1日 

 江戸時代、現在の米田地区には米田村・米田新村・古新村・塩市村・島村・神爪村・平津村・高畑村・船頭村の9ヵ村がありました。

その内、明治初年に平津村と高畑村が合併して平津村となり、それらの村々は、明治22年4月1日、新しい村制により合併し、拡大した米田村が誕生しました。

 したがって、例を塩市村(しおいちむら)にとると、明治22年4月1日より塩市村は、米田村塩市となり「塩市村」という名称はなくなりました。

 島村・神爪村等も同じで、それぞれ米田村島・米田村神爪となったわけです。

 島村・神爪村・・・等の名称は、この時、行政上はなくなったのですが、人々はいままでどおり従来の名称の島村・神爪村と呼んでいました。

 その後、米田村は、昭和3年2月10日、町制施行により米田町になりました。

 昭和29年(1954)7月1日、高砂町・荒井町・曽根町・伊保町が合併し、高砂市が誕生し、2年後の昭和31年(1956)9月30日、米田町(船頭・平津を除く)、阿弥陀村は高砂市に合併し現在にいたっています。

 なお、北浜村が、高砂市に合併したのは昭和32年(1957)3月10日のことでした。

 ここに明治38年の米田村の人口調査がありますので掲載しておきます。

 <米田村(明治38年12月)>

 男:1398人 女:1384人 合計:2782人 戸数:583軒

 *図(米田村)は、『兵庫県市町村合併史・上』(兵庫県総務部地方課)(昭和37)より

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高砂市を歩く(112) 合併の後遺症③・宝殿駅前境界変更問題

2015-01-10 07:05:54 |  ・高砂市米田町

    合併の後遺症③・宝殿駅前境界変更問題
 いま、住宅地図を見ている。JR宝殿駅の周辺は、なるほど不思議な地割である。
 宝殿駅の駅舎は高砂市であり、その南一帯の商店街は、加古川市に属している。
 駅から南に伸びる道を行くと国道2号線にでるが、さらに行くとすぐ高砂市になる。
 JR宝殿駅前周辺の開発の話がおこれば、加古川市と高砂市の利害が対立しそうな配置にある。
 昭和32年、米田町合併問題の余波があった。
 米田町が分裂して、それぞれ加古川市と高砂市に合併した直後から、平津地区特に国鉄(当時)宝殿駅前商店街を中心として、再度分市を求める動きがおきた。
 昭和32年5月、主に宝殿駅周辺の住民が高砂市長と議長に「平津地区を高砂地区に編入して欲しい・・・」と申し入れた。
 高砂市は「地元の福祉を守る」と言う立場で県の調停を求めた。
 これに対して、他の平津地区の住民は「先に高砂市に出された陳情はデタラメである」と県当局や加古川市に申請書を提出した。
 4月8日、加古川市議会も「再分市絶対反対」の決議をした。
 県は「・・・米田地区を分離した際、住民の多数意見によって加古川市に編入したばかりであり、調停にかかったからといって境界変更を認めることにはならない」と、分市を考えていないことをほのめかした。
 その後の話し合いで、加古川市は平津地区の要求を尊重すると言うことで、分市の動きは、おさまっていった。
*写真:宝殿駅前商店街

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高砂市を歩く(111) 合併の後遺症②・越境入学

2015-01-09 08:20:51 |  ・高砂市米田町

      合併の後遺症② 米田小学校問題・越境入学
 昭和33年4月の新学期、84名の児童は、米田小学校へ通学した。
 5月に入っても77名の児童が越境入学した。
 6月22日、加古川市教委から、米田小学校へ通学している児童は、川西小学校へ復帰するよう文書が配られた。
 このままの状態が続けば、進級できないことも予想された。
 高砂市教委から、ニ学期から川西小学校へ復帰すれば出席・成績等は考慮すると言うことも提案された。
 二学期が始まった。依然として73名の児童が米田小学校へ登校した。
 机・椅子等が用意されていない。そのため廊下で待機した。
 事態を重視した両教委は、緊急会議を開き「当初の方針どおり、米田小学校へ通学を認めない」ことを確認した。
 保護者との話し合いは、もめにもめたが、結局「二学期は、現状維持」とする暫定措置で了解した。
 10月はじめ、高砂市から三学期からの米田小学校への越境を絶対に認めないことの申し入れがあり、加古川市も了解した。
 やがて、三学期の始業式(1月6日)がはじまった。
 73名のうち56名が川西小学校へ登校したが、残る17名は依然として米田小学校へ通学した。
 これらの児童は、学校から拒否されながらも9日まで強引に登校を続けた。
 17名の保護者は、10日に「盟休声明書」を関係当局にくばり、「寺子屋授業」を始めた。
 その後、各方面からの説得もあり、3月半ば問題は急転直下解決となり、17名全員は川西小学校へ登校することになった。
 ようやく、川西小学校問題は解決した。
 なお、幼稚園や中学校についても問題はあったが、大きな問題にはならなかった。
*『加古川市議会史(記述編)』参照

*写真:川西小学校の円形校舎(HPより、現在は、老朽化のため建てかえられた)

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高砂市を歩く(110) 合併の後遺症・米田小学校問題①

2015-01-08 08:06:10 |  ・高砂市米田町

   合併の後遺症、米田小学校問題①

 昭和31年9月、米田町は、船頭・平津地区は加古川市へ、その他は高砂市へ合併することを決議した。
 合併問題は、解決したかに思えたが、大きなしこりを残していた。
 高砂市長は、「米田小学校は、高砂市に編入されたのであり、同校の財産・所有権はすべて高砂市にある」と主張して、船頭・平津地区の児童の米田小学校への通学を拒否した。
 加古川市としては、小学校は当然組合立で運営されるものと考えていたので、あわてた。
 高砂市の態度は強硬で、「昭和32年度は、米田小学校への通学を認めるが、新校舎の完成が可能な昭和33年度以降は認めない」と主張した。
 話し合いは難航した。加古川市は新校舎の建設を考えざるをえなくなった。
 新校舎の建設は、昭和32年12月に認められ、急ピッチの突貫工事にかかわらず、完成は新年度にずれ込んだ。
 高砂市は、新校舎完成までの米田小学校への通学を認めた。
 加古川市立川西小学校は、昭和34年4月、新しくスタートした。
 しかし、スムーズな門出とはならなかった。
 米田小学校へ通学していた児童675人のうち80人余の高砂市との合併を要求していた親は、川西小学校への通学を拒否した。
 84人の児童は、米田小学校へ出席し、約70人の親も「越境通学」を求めて同小学校へ押しかけた。
*『加古川市議会史(記述編)』参照
*写真:米田小学校

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高砂市を歩く(109) 合併物語③・そして分裂

2015-01-07 07:45:08 |  ・高砂市米田町

      米田町の合併③・そして分裂
 米田町をめぐって、高砂市と加古川市との綱引きが強まる中で、新たに「印南郡中部ブロック案」が県から提示された。
 つまり、西神吉村・東神吉村、そして多くの米田町民が生石神社の氏子を同じくしている関係から阿弥陀村との合併案である。
 しかし、中心となる米田町の態度がいつまでもはっきしなかった。
 そのため、西神吉村・東神吉村が加古川市との合併に傾いた。
 これと同時に、米田町船頭地区も加古川市に合併したい趣旨の要望書を米田町会に提出した。
 高砂町は、阿弥陀村に急遽合併を申し入れ受け入れられた。
 米田町は、住民投票で住民の声を聞くことにした。
 合併の条件は、有効投票の55%以上の賛成が必要と言うことに決めた。
 投票に先立って米田町長は、「住民投票の結果を参考にするが、町会においても慎重に審議して決める」とも述べていた。
 結果は、賛成2574票(55.4%)で、からくも賛成に必要な55%を0.4%上回っただけだった。
   米田町は高砂市へ、
      船頭地区・平津地区は加古川市へ

 町会はますます混迷し、合併問題は県に委託された。
 県会議長は、次のように述べている。
 「・・・難航している両市が米田町にテコ入れしているためで、このままでは何時までたってもラチがあかない。
 この際、県に一任してもらうことになったが、町村合併促進法が切れる9月までに、合併審議会でよく検討して解決したい(神戸新聞)・・・」
 そして、県の裁定がでた。
 印南郡米田町は、高砂市に合併するものとする。ただし、その際同町船頭及び平津の地区は、加古川市に編入するものとする。
 米田町は、県の裁定案をのんだ。しこりを残した合併劇は終わった。
 *『加古川市議会史(記述遍)』参照
 *写真:高砂市、米田町および阿弥陀村との合併(昭和31年)・提供高砂市

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高砂市を歩く(108) 合併物語②・船頭地区は加古川市との合併を

2015-01-06 08:43:00 |  ・高砂市米田町

      米田町の合併②

  昭和25年、米田町・西神吉町・東神吉町は、旧加古川町を中心とする合併に参加を申し入れ、これら3町との間で仮調印までおこなっていた。
 しかし、米田町は、加古川市への参加に反対するグループが町長のリコール運動をおこす内紛もあり、結局3町の合併は実現しなかった。
 その後、米田町では、高砂町との合併を望む声が高まり、加古川市との間で板ばさみの苦しい立場に立たされることになった。
 この時、加古川市の態度は「加古川市と高砂地区が大同合併して、一大産業都市を建設したい」という理想を掲げた。
 米田町内の事態は、ますます悪化した。
 合併のこじれから端を発した町政の紛糾は、町長の不信任案の提出からリコール寸前へ、さらに町会の正副議長の辞職を申し入れるまでにいたった。
 加古川市でも、もっと積極的に米田町に働きかけるべきとの意見が高まった。
 昭和29年1月16日の米田町会は、議員16名中7名の欠席の中で高砂への合併に同調することを決定した。
 ここに激震が走った。
   船頭地区は加古川市との合併を
 米田町船頭地区は、「分町してでも加古川市に合併する」とする爆弾宣言が飛び出し、陳情書を県当局ならびに議会筋に申し入れた。
 米田町の合併問題は、県を巻き込んだ合併劇となっていった。
 *『加古川市議会史(記述遍)』参照。

*写真:米田町役場(現:米田公民館・『加古川市議会史・記述遍』より)

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高砂市を歩く(107) 合併物語①・米田町の分裂

2015-01-05 07:42:13 |  ・高砂市米田町

   米田町の合併①・米田町の分裂

*予定(6日)より、1日早いですが、今年のブログを始めます。よろしくお願いします。昨年の米田町の続きです。

 米田町の話は、どうしても米田町の合併問題を抜かすことができない。米田町の合併問題は大事件であった。
 昭和25年6月15日、加古川市は加古川町・神野村・野口村・平岡村・尾上村が合併して誕生した。
 その後、別府町(昭和26年10月)、八幡村・平荘村・上荘村(昭和30年4月)、東神吉村・西神吉村・米田町船頭・平津地区(昭和31年9月)を加古川市に編入した。
 そして、志方町を昭和54年2月に編入し、現在にいたっている。
   米田町の分裂
 そのうち、米田町との合併は、もめにもめた。結果、米田町は分裂した。
 この経過を見ておきたい。
 高砂市は、昭和29年高砂町・荒井村・曾根町・伊保村が合併して誕生したが、それに先立って米田町との合併を望んだ。
 加古川市も同じで、米田町との合併を希望した。
 米田町にあるニッケ印南工場と加古川工場は密接な関係にあった。
 ニッケ工場は、行政が異なり、何かと不便があった。
 また、ニッケ印南工場は、米田町と東神吉村にまたがっている。
 さらに、西神吉村・東神吉村と米田町は、宝殿中学校を共同経営していた。
 この外にも西神吉村・東神吉村・米田町は緊密な関係を持っていた。
 米田町は、高砂市と加古川市の狭間にあり、そのため合併問題で翻弄されることになった。
 米田町の住民は、加古川市との合併派、高砂市との合併派に分裂し対立してしまった。
*『加古川市議会史(記述遍)』参照、地図の緑の地域が高砂市米田町

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高砂市を歩く(106) 宮本武蔵③・泊神社

2014-12-27 08:03:45 |  ・高砂市米田町

   泊神社(加古川町木村)
 ここで加古川町木村にある米田の氏神・泊神社について少し触れておきたい。
 『播磨鑑』の記述に「泊神社には4人の神官がおり、真言宗に属した神宮寺の僧と神人(みこ)一人がいた」とある。
 かなりの大社であったようだ。泊神社の氏子に注目したい。
 泊神社の氏子は、地元の木村・稲屋・友沢・西河原・加古川の五ヵ村が祭礼の世話をするが、さらに塩市・米田新・古新・米田・船頭など加古川右岸(西側)一帯に広がっていた。
 現在、泊神社の氏子は、加古川の東岸・西岸に広がっている。すこし不思議である。
   もと、加古川本流は米田村の西を流れていた?
 江戸時代の絵地図で、加古郡と印南郡(いんなみぐん)の境界を見ている。

  「郡境」が、少しおかしい。「郡境」は川・海・山・道などを目印にするのが普通である。
 加古郡・印南郡の境界が決められた頃(奈良時代)、加古川の本流は、現在の加古川村(現在の本町)・木村・友沢村・稲屋村の東をながれていたと思われる。

  (上記の加古川村・木村・友沢・稲屋は明治22年4月1日、加古郡に編入された)

  加古川は、暴れ川である。

  武蔵の時代、加古川の本流は米田の西を流れていたようである。

  現在の加古川は、加古川の本流でなかったようだ。

  とすると、米田の氏神である泊神社が現在の加古川本流の西あることも理解できる。

 *蛇足

  前号でみたように、泊神社には宮本武蔵・伊織(武蔵の養子)の影がちらつく、吉川英治は、「宮本武蔵の宮本は、作州・宮本村からつけた」としている。吉川英治の小説「宮本武蔵」は、あまりにも有名になり、これが一般的に流布されている。

  泊神社の所在地を紹介しておきたい。

  泊神社の所在地は、「兵庫県加古川市加古川町木村宮本」である。武蔵は、こちらの宮本から「宮本」と名付けたとしても不思議はない。

  *写真:泊神社(加古川町木村)

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高砂市を歩く(105) 宮本武蔵②・伊織(武蔵の養子)奉納の棟札

2014-12-26 08:39:59 |  ・高砂市米田町

    伊織奉納の棟札
 吉川英治の小説『宮本武蔵』は、大好評をはくした。

 吉川英治は、武蔵の生誕地を「作州大原(岡山県)」とした。
 そのため、武蔵は作州人だと信じられている。
 近年、この説に異議が唱えられている。
 つまり、「宮本武蔵は高砂市米田町生まれである」とする説である。
 その根拠になったのは、泊神社(加古川市加古川町木村)の宮本伊織(武蔵の養子)が奉じた棟札(写真)の発見である。
 棟札について、少し説明を加えながら紹介したい。・・・・武蔵は赤松一族の出身である。武蔵誕生の250年ほど前のことである。
 赤松持貞は、こともあろうか将軍の側室に手をだしてしまった。

 持貞は切腹を命じられ、嫡男の家貞等一族は、印南郡の米田に追放になった。
 姓も田原に変え、地侍として勢力を伸ばした。
 そして、家貞から五代目に名前も同じ家貞の時、二人の男子がいた。その弟の武蔵玄信は、作州・新免(しんめん)氏の養子になった。
 新免氏は、後に宮本と名を変えた。宮本武蔵の誕生である。
 武蔵にも子どもがなかったので、伊織を養子とした。
 武蔵は、明石藩の小笠原に仕えていたが、豊前の小倉に移ったので伊織もそれに従った。伊織15歳の時であった。
 伊織は、小倉藩で家老にまでのぼりつめた。
 武蔵の死後8年目の承応二年(1653)、伊織は武蔵の出身地・米田の氏神である泊神社の老朽化がひどく、田原家の祖先供養のために社殿を新しくした。
 発見された棟札に武蔵の出自を書いている。

 武蔵の生誕地「播磨の国・米田説」は、俄然説得力を持ってきた。

 *写真:伊織奉納の棟札(泊神社)。なお、伊織奉納の灯篭が社殿の裏にある。

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高砂市を歩く(104) 宮本武蔵①・生まれは米田

2014-12-25 08:28:04 |  ・高砂市米田町

      米田は宮本武蔵誕生の地
  武蔵の出生地のことである。

 『高砂市史(二巻)・近世』から、武蔵の主要な生誕地を紹介しておきたい。
  生国は播磨(『五輪書』)
 まず、唯一、武蔵が著したとされる兵法書である『五輪書』には、はっきりと「生国播磨」と書いている。
  ・太子町宮本村
 次に、18世紀中頃に宮本伊織の出生地に隣接する平津村の平野庸脩(つうさい)が編んだ『播磨鑑(はりまかがみ)』がある。
 ここには、「宮本武蔵、揖東郡鵤ノ邊、宮本村ノ産也」と明記している。この宮本村は、現在の揖保郡太子町宮本村である。

ただし、『播磨鑑』には、もうひとつ佐用郡平福の説があるとしているが、その内容はない。
  ・生国は播磨(『二天記』豊田景英)
 そして、安永五年(1776)に豊田景英が著した『二天記』がある。
 新免玄信すなわち宮本武蔵の伝記である同書には、武蔵が播磨生まれであることを記している。
 豊田景英は、熊本藩細川家の筆頭家老である。
 『二天記』は、武蔵の晩年の弟子たちからの聞き覚書をはじめとする史料を、わかりやすくまとめたものであり、武蔵を知るうえで重要な著書である。
  ・作州宮本村(東作誌)
 さらに、文化12年(1815)に津山藩士正木輝雄が著した作州東部六郡の地誌『東作誌』には、武蔵が作州宮本村の平田無二の子であることを記している。
  ・米田村(宮本家系図)
 また、武蔵や伊織の子孫である豊前小倉の宮本家の系図を基にしたものがある。
 この系図は、19世紀中頃に作成されたと考えられるもので、武蔵が印南郡米田村の田原甚右衛門家貞の二男とある。
 甚右衛門家貞の長男は、伊織の父の甚兵衛久光である。
 つまり、武蔵は、伊織の父の弟、すなわち叔父というのである。
 *写真:「武蔵之生誕地」と刻んだ石碑。揮毫は、元首相の細川護煕氏のお父さんの護貞氏。
 *『高砂市史(第二巻)・近世』参照

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高砂市を歩く(103) 六継里(むつぎのさと)

2014-12-24 08:34:54 |  ・高砂市米田町

      六継里(むつぎのさと)
 『風土記』は、奈良時代の国ごとの産物・伝承・土地の質などをまとめた地理・歴史書である。
 米田(米堕)は、『風土記』に六継里(むつぎのさと)として登場する。
 もっとも、古代の里は、はっきりとした境界で分けられた地域ではなかったようである。
 六継里は、いまでは高砂市と加古川市が入り組んでいる里で、米田辺りから加古川東岸の稲屋辺りに及んだ地域らしい。
 10月上旬から中旬にかけて甘茸というめずらしい茸が生えたと『風土記』にはある。しかし、現在では現存しない植物だと言われている。
 当時の六継里の風景を想像したい。
 加古川の本流は、この里の西を流れていたと想像されている。
 稲屋(加古川市)を含んでいることから考えると、加古川の分流はあったものの、米田と稲屋は続いた地域であったのだろう。
 加古川本流は、六継里から海に流れ込んだ。そして六継里は、海岸に近い地域だった。
 目の前の海には、ナビツマ島が横たわり、さらにその先が瀬戸内海であった。
 ナビツマ島は、加古川の流れがつくった三角州で、今は陸続きになって高砂市内を形成している。
 *『播磨の国風土記を歩く(寺林峻)』(神戸新聞総合出版センター)参照

 *「六継里」を示す碑(米田天神社南の桜公園の西、約5メートル)

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