ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

平岡町二俣探訪:木綿問屋、坂田藤蔵・坂田最一兵衛

2009-05-31 06:56:00 |  ・加古川市平岡町

B215c523_2 長束木綿(ながそくもめん)の話からはじめます。

長束木綿とは、加古川地方(加古郡・印南郡)で生産される綿のことです。

 文政年間から姫路藩は、木綿の専売制度では藩の特産物として重要な位置を占めていました。木綿の生産の中心地は加古川地域でした。

ですから、姫路木綿の歴史は、加古川地方の歴史としてとらえることができます。

◇木綿問屋、坂田藤蔵・坂田最一兵衛◇

 図は天保7年(1836)、姫路藩の大阪や江戸積問屋へ売り渡す長束木綿の生産地問屋の所在を表しています。

 当然の事ながら木綿問屋は加古郡・印南郡内に位置しています。

中でもその大半が、現在の加古川市域に含まれています。

 木綿を生産した農民は糸にし、また反物に織りあげました。

木綿商人がそれを買い集め、生産地問屋から、姫路城下の江戸積問屋や大坂積問屋(一部、大坂積も認められていた)へ売り渡されました。

 図の10・11の木綿問屋に注目してください。

 10の木綿問屋は二俣の坂田最一兵衛で、11は二俣の坂田藤蔵です。

現代の平岡町で、木綿問屋と認可されていたのはこの二名だけです。

(図はみにくいので、クリックして拡大してご覧ください)

 鑑札をもって商売することは、競争相手が少なく安定した経営ができました。

 これら木綿問屋の内でも、二俣の藤蔵はどの木綿商よりもとびぬけて多くの木綿を扱う大商人でした。

 坂田藤蔵・坂田最一兵衛の活躍をさらにみてみましょう。

 *図は「加古川市史(第二巻)」より

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平岡町二俣探訪:河合寸翁(かわいすんのう)

2009-05-30 07:09:03 |  ・加古川市平岡町

012  二俣の木綿商・坂田藤蔵についてしばらくお待ちください。河合道臣の話を先にしておきます。

河合道臣(みちおみ-後の河合寸翁・すんのう)は姫路藩の家老です。

 藩主・酒井忠道(ただひろ)の文化5年(1808)、藩には73万石の借財がありました。

 河合寸翁は、播磨地方が木綿の産地であることに着目して、綿布の姫路藩の専売にし、藩の財政改革に取り組み、みごと借金ゼロを成し遂げまあした。

 全国的にも稀有な例です。

 当時、姫路綿()の主な送り先は大坂(江戸時代「坂」の字を使っていた)でしたが、寸翁は、綿を藩の専売品として、江戸への直送する方法をとりました。

 勿論、さまざまな妨害がありました。

020 小説「姫路城・凍って寒からず(寺林峻著)(東洋経済)に詳しく紹介されています。

江戸直送には、妨害もあり困難をきわめました。それまでの商の慣習を壊すのですから当然です。

しかし、綿密な調査・江戸問屋や幕府役人への説得により、文政6年(1823)やっと江戸への木綿専売が幕府に認められました。

 これは、「藩主・忠学(ただひろ)の妻・喜代姫(きよひめ)が将軍・家斉(いえなり)の娘であったためでもあった」ともいわれています。

 ともかく、姫路綿の江戸での販売は好調で、藩の借金は、短期間に返済し終えることができました。

 木綿(布)は藩専売制度ですから自由に売り買いできません。

藩から木綿()を買い集めることができる問屋には許可証が与えられました。そのうちの最大の木綿商人が二俣の坂田藤蔵でした。

*写真上:河合寸翁像、写真下:(河合)寸翁神社共に姫路神社内

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平岡町二俣探訪:加古川地方の綿作

2009-05-29 08:54:26 |  ・加古川市平岡町

2dbaa6c3 文化5年(1803)姫路藩は、73万両という膨大な負債を抱えていました。

これは、米に換算すると62万石にもなります。姫路城下の収穫高のうち5割が税金として、年貢米は7万石となります。

そっくり負債にあてても7年を要します。

小手先を弄するぐらいではどうにもならない数字です。

しかし、藩は綿布の専売制度でこれを完済しました。全国的にも珍しい例でした。

この大事業に、平岡町二俣の坂田藤蔵が大きな役割を果すことになります。

坂田藤蔵・綿布専売制度については、後に述べます。

そのまえに、加古川地方の綿作について、少し述べておきます。

◇加古川地方の綿作◇

A9f47c0e_2 綿が日本に伝わったのは古く、延暦18年(799)に三河に伝えられたのが最初であるといわれていますが、栽培技術が伴わずその時は絶滅しました。

 その後、綿作は、文禄の頃(159296)大和・河内・摂津に広まり、ほぼ同時に姫路地方も木綿産地となりました。

 木綿は、それまでの麻と比べ、柔らかく、染めても美しく、それに何よりも暖かく、冬の寒さには大いに役立ちました。

 江戸時代、大阪・江戸等の巨大消費都市が生まれ、また交通も発達し、商品は大いに流通し、綿は商品作物として栽培されるようになります。

 姫路木綿は、品質がよく、加古川や市川(姫路)の水質が木綿を晒すには適していました。

 姫路木綿は「玉川さらし」、「姫玉(ひめたま)」と呼ばれ、江戸で大好評でした。

この姫路木綿の原料は、加古川地方が主な産地であったことは案外知られていません。

 二俣の近辺の田畑でも、江戸時代の終わりの頃、秋には真っ白な綿のある風景が一面にひろがっていました。

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平岡町二俣探訪:紺屋さんの型紙発見

2009-05-28 09:43:32 |  ・加古川市平岡町

紺屋さんの型紙発見

48eb2460 昨日のブログ「平岡村二俣は、商業のさかんな集落」で、明治20年ごろの二俣の商人の名をあげておきました。

その中に、「紺屋職・坂田栄太郎」があります。

この紺屋さんの坂田栄太郎は、現在の坂田保孝さんのご先祖です。

二俣町内会のHP(平成2153日)に、坂田保孝さん宅から発見された藍染の型紙について、まとめておられます。

きょうは、その記事をお借りします。

  ◇平岡町二俣町内会HPより◇

131efd02_2 ▼一昨年(2007年)3月に二俣の坂田保孝さん宅(一般に「紺屋さん」と呼ばれているお家)で、土蔵の解体中に700枚の藍染の型紙が発見された。

▼その内の一枚に、将棋の駒柄があり、徳島の業者で伝統的な藍染手法で再現され、本年11月に加古川市が行う「将棋の日のイベント」の記念品として使用される予定です。

▼和紙3枚を渋柿で張り合わせた型紙や二枚以上の型紙で一つの柄を染める追掛型も多数あり、本年の春先に浴衣用連続染めも再現されております。                                

*写真は、いずれも発見された藍染の型紙の一部

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平岡町二俣探訪:二俣村の商い

2009-05-27 10:09:32 |  ・加古川市平岡町

平岡村二俣は、商業のさかんな集落

9cd5b5b3二俣の職業調べは「加古郡西谷新村外八ヵ村戸長役場」と印刷された用紙を使っており、西谷新村外八ヵ村それぞれの住人の商業、工業など課税等級を書き上げた書類です。

「○○村外何ヵ村役場」という言い方は、明治22年3月まで続いているので、この書類も、おそらく明治20年前後のものと思われます。

別の史料では、明治15年、二俣村には64軒ありました。

兼業農家も多かったと思われますが64軒中35軒が農業以外の何らかの仕事を持っていたという数字は驚きです。

二俣村は、商業が随分とさかんな集落でした。

これらの職業調べから明治20年前後の二俣村の風景を想像してください。

(明治2241日までは二俣村、以後は平岡村二俣)

 肥料小売  坂田好三郎    篠巻製造  森田伊三郎

 穀物仲買  森田伊三郎   篠巻製造  高橋文次郎

 質屋商   坂田 嘉平   素麺製造  大西杉次郎

 木綿仲買  坂田勝三郎   穀物仲買  山口時三郎

 肥料小売  坂田 栄次   諸品小売  中谷林太郎

 油小売   大西 休蔵   木綿仲買  坂田安太郎

 小間物小売 大西儀太郎   豆腐小売  田中久太郎

 菓物小売  小西 友七   穀物仲買  小西 友七

 米小売   田中 茂吉   穀物仲買  田中 茂吉

 小間物小売 坂田宇一郎   酒類小売  坂田最市平

 米小売   中嶋市太郎   小間物小売 大西 卯吉

 筆墨小売  稲田 為吉   芋小売   馬場平三郎

 小切小売  二川次三郎   毛織仲買  坂田粂次郎

 干魚小売  南澤 休次   油小売   南澤 岸松

 豆腐小売  石本 寅蔵   菓物小売  東谷 かつ

 小切小売  金古源之吉   塩物小売  岸田相太郎

 生魚小売  岸田相太郎   酒類小売  小林 権吉

 紺屋職   坂田栄太郎   畳職    東谷 友吉

 綿打職   南澤 石松   綿打職   馬場松次郎

 理髪    田中 ヒサ

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平岡町二俣探訪:平岡二俣誕生

2009-05-26 12:55:49 |  ・加古川市平岡町

 ◇ 平岡村二俣誕生 (明治2241日) ◇ 

C8987dc9  今日から、しばらくは平岡町二俣の探訪です。

 では、さっそく出かけましょう。

 江戸時代、平岡の地には、西谷新村・野辻(のうつじ)新村・寺田新村・新在家村・高畑村・土山村・一色(いっしき)村・中野村・山之上村・八反田村そして二俣村の11か村がありました。

 それらの村々は、明治2241日、新しい村制により合併し、「平岡村」(図参照)を誕生させた。

 したがって、平岡の名称は、この時につけられました。

江戸時代、平岡村という名称はなかったのです。

 この合併に先立ち、明治初年に野辻新村・寺田新村・新在家村がひとつになり、新在家村となり、西谷新村は、明治22年の合併の時、名称を西谷村に変えました。

 なお、昭和25年6月15日、加古川町・神野村・野口村・尾上村そして平岡村が合併し、加古川市が誕生しました。

二俣は、加古川市平岡町二俣となりました。

なお、明治2241日に平岡村が誕生しましたが、二俣の有力者・坂田啓太郎氏が明治22年の6月から明治22年の10月までの53ヵ月の長い間、平岡町の初代町長を勤めました。

     図は、『兵庫県市町村合併史・上』(兵庫県総務部地方課)(昭和37)より

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上荘町・平荘町探訪:かみそう・へいそう

2009-05-26 10:32:06 |  ・加古川市上荘・平荘町

 かみそう・へいそう    2006・8・3のブログより

Cff397c4  正和5(1316)の「報恩寺の文書」に、「播磨国印南荘屏村(へいむら)」とある。

 印南荘(奈良・西大寺の荘園)には屏・都染・益田などが含まれており、屏とは平で、後に平之荘(へいのしょう)と呼ばれ、平荘町の語源にもなっている。

 とすれば、平荘は「へいしょう」と読むのが自然である。

交差点の案内板(写真)を見てほしい。ローマ字で「Heisocho」とあり、「へいそうちょう」と読ませている。

 市役所で正式な読み方を訊ねてみた。

 読み方は、「日本行政区画便覧によって、それぞれへいそう・かみそうと読むのが正式である」との答えであった。

 平荘小学校に訊ねると学校名は「へいそうしょうがっこう」であり、上荘小学校に問い合わせると「かみしょうしょうがっこう」で、校歌も「かみしょうしょうがっこう」と歌っているとのことであった。

 住民の方に尋ねても、どちらともはっきりしない。

 原因は、昔「かみしょう」「へいしょう」と呼んでいたが、行政が書類・刊行物で「へいそう」「かみそう」と読ませて、徹底しないまま、今に至っているというのが真相ではないだろうか。もちろん、これは勝手な推論である。

 歴史的には「へいしょう」「かみしょう」が正しい読み方だと思うのだが・・・

  上荘町・平荘町探訪」を、この辺で一休みとします。まだ外に、紹介したい場所出来事は後日、続けることにします。

お読みいただきまして、ありがとうございました。ご批判・ご感想をいただければ幸いです。

次回からは、加古川市を飛び出して稲美町の探訪と加古川市のより小さい町・平岡町二俣を集中して散歩しようと考えています。史料があっての探訪ではありません。どんな結末になるか私にも分かりません。

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上荘町・平荘町探訪:国包村の商工業(江戸時代)

2009-05-25 22:25:34 |  ・加古川市上荘・平荘町

 国包村の商工業  2006818のブログより

012  江戸時代の国包村のようすを見ておきたい。

 国包村は、湯乃山街道(ゆのやまかいどう)と加古川が交わり、美の川にも近く、交通の要所に位置していた。

 そのため、近在ではめずらしく、町場化が進んでいた。

 元文2年(1737)の同村の明細帳には、家数125軒の内、本百姓74軒、水呑50件と水呑(田畑を持たない小作)の割合が多い。

 具体的な職種として、大工4人、桶屋2人、医者3人、木挽6人、紺屋1人、材木屋3人、陸塩売4人、旅籠屋5人、川舟宿6人、殺生人(川漁師のこと)6人、蚕種商2人、そのほかに、高瀬船3艘、舟主2人と明細帳にある。

 これらは専業ではなく、百姓の兼業が含まれていると思えるが非農業的な職業が多いく、全体に加古川の舟運に係わる職業が多いのが特徴である。

 確かに、国包村は、近在では珍しく町場が進んでいたが、別の理由もある。

 4月30日のブログ(畑平左衛門と亀之井用水)の文章の一部を読んでみたい。

「・・・国包は、5日も日照が続くとツルベで朝・夕灌漑をしなければならず、他の村からの嫁入りも嫌われたと言う。

 そんな、窮状を救うため、文化13年(1816)、畑平左衛門(応親)が、美濃川が加古川に注ぎ込む手前から取水する用水(亀之井用水)をつくった。・・・」

つまり、国包村は水田のための水が得にくい土地であった。農村としても発達できたのは亀之井用水が完成して以後の、江戸時代も終わりの頃からである。

*写真:加古川の堤防からみた国包

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上荘町・平荘町探訪:金のイヤリング(カンス塚古墳出土)

2009-05-25 19:42:09 |  ・加古川市上荘・平荘町

 金のイヤリング(カンス塚古墳出土) 2006・8・11ブログより

Fcbb28e8  平荘湖古墳群のほとんどの古墳は7世紀のものである。その中にあって、カンス塚古墳は5世紀後半にさかのぼる古いものである。

 カンス塚古墳は、平荘湖の建設に伴い湖底に沈んだ全長30メートルの古墳である。

 一部盗掘されていたが、玉類などの装身具・刀剣・鉾・やじり・鎌・斧・砥石・須恵器それに鉄鉗(かなはし)・槌などの鍛治具など多くの種類の出土品があった。

 なかでも一対の金のイヤーリング(写真)は注目を集めた。

 県下でも、加古川市の他に2例(姫路市と龍野市の古墳)があるだけである。全国でも、50ほどの出土例しか知られていない。

 朝鮮半島からもたらされたものである。この古墳の主とその交易関係に興味がわく。

 それにしても、カンス塚の「カンス」とはどんな意味だろうか。前々から気になっていた。

 この古墳から出土した鉄鉗(かなはし)に注目して欲しい。この鉄鉗の形がカンス塚古墳の形(帆立貝式古墳:前方後円墳の前方部が短いもの)に似ているという。つまり、カンスはカナハシが変化した単語であるというのである。

 また、「カンスは鉄・銅で作った湯沸かし器や茶の湯で用いる茶釜をいう」と辞書にある。ホタテの形に似ていなくもない。

 定説はない。不思議な名前のままでよい。

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上荘町・平荘町探訪:山角廃寺

2009-05-25 16:04:53 |  ・加古川市上荘・平荘町

  山角廃寺  2006・8・10のブログより

E5e2eb65  平荘小学校の校庭の隅に、塔の心礎(写真)がある。中心に円形の孔が彫りこまれている。

 かつて、山角(やまかど)に寺があったことを物語っている。

 この寺の元の位置についてははっきりしないが、近くに古瓦の散布が見られたという報告もあり、おそらく、この付近にあったのであろう。

 仏教は6世紀に朝鮮よりもたらされた。そして、白鳳時代(645710)に、非常な勢いで全国各地にひろがった。

 山角にある古代寺院もその一つである。

<msnctyst w:st="on" address="加古川市" addresslist="28:兵庫県加古川市;"></msnctyst>

 加古川市には、同時期の寺院として、野口・西条・中西(西神吉町)・石守(神野町)等でも確認されている。

 この寺院を建設したのは、どんな人物であろうか。

 時代は仏教文化が、古墳文化にとって変わろうとする時期であった。とすると、この寺院を建設したのは、それまで古墳を築いていたこの地域の豪族であったとも想像できる。

 平荘は、加古川右岸では古墳の発達した場所であった。

 山角廃寺のすぐ東隣に報恩寺がある。山角廃寺との連続性を考える向きもあるが、この点について<msnctyst w:st="on" address="加古川市" addresslist="28:兵庫県加古川市;"></msnctyst>

(山角)

 荘園時代、山角辺りは、印南荘屏村と呼ばれていた。屏は塀であり、西と北を山()で囲まれた地形である。

 慶長時代の絵図では、山角は山門の字を当てており、村の名前は、山()の前にある村の意から来ているのかもしれない。

 加古川市史(第一巻)は「・・今後における資料増加に期待するとして、ここでは7世紀末から8世紀はじめのころに創建された山角廃寺の存在を推測することにとどめておきたい・・・」としている。

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上荘町・平荘町探訪:三つの益気神社

2009-05-25 15:47:38 |  ・加古川市上荘・平荘町

三つの益気神社  2006・8・6のブログより

Taira_283_2 事件は、文禄3年(1594)年、平ノ荘神社16ヵ村の代表者の参詣の時におきた。

(16ヵ村:益気郷3ヵ村、平ノ荘13ヵ村)

 (益気)・・・・平の面々、益気の中にも御歴々(おれきれき)がいるのだが、毎年益気の者は、下座に座っている、座を改めて我々を上座にすればどうか。

 (平ノ荘)・・・御歴々であることは承知しているが、益気の人の中には、殺生を仕事とする者がいる。・・・ケガラワシイ!(益気の者に川漁の権利が認められていることを指す=秀吉の免状)

 売り言葉に買い言葉、日ごろの不満が燃え上がった。その勢いは、すさまじいものであった。

 この時、近郷からこの喧嘩を見ようと数万の人が押しかけたと言う。

 この事件のあと、慶長4年(1599)益気郷は、益田山(加古川市東神吉町)に益気神社(ますけじんじゃ)を建てた。

 その後、池尻村も平ノ荘の氏子から抜け池尻村に、益田新村(出河原村も益気神社が創建され、3つの益気神社が誕生した。

 益気神社という名称から、奈良時代の創建を想像してしまうが、平ノ荘神社から分かれた比較的新しい神社である。

*写真は、池尻の益気神社

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上荘町・平荘町探訪:神仏分離(平之荘神社の板碑にみる)

2009-05-25 12:35:04 |  ・加古川市上荘・平荘町

神仏分離(平之荘神社の板碑に見る) 2006・8・8のブログより

088 平荘神社(加古川市平荘町山角)の正面の石段上り口の左右に各一面の板碑(いたび)がある。

 いずれも、この付近の古墳から掘り出された組み合わせ式石棺の側石を利用したものと思われる。

 向かって、右側(写真)の板碑には、梵字で、マン(文殊菩薩)・バク(釈迦如来)・アン(普賢菩薩)の釈迦三尊が、左側の板碑にはサ(観音菩薩)・キリーク(阿弥陀如来)・サク(勢至菩薩)の阿弥陀三尊と弘安二の記銘がある。

 弘安二年(1279)といえば、現在確認されている加古川市内の石造物記銘としては最も古いものである。

 ここは、平之荘神社である。現代人の感覚からすると神社に釈迦三尊・阿弥陀三尊とは少し不思議な感じもする。

 このことについて「知っておきたい日本の神様(武光誠著)」の一部を読んでおきたい。

 「・・・・6世紀のなかば、仏教が伝わった。そこには有益な知識や技術がふくまれていた。

 平安時代の初めになると、神社側では『このままでは、自分たちは時代遅れになるぞ』という声がひろまった。

 そのため、神社を支配する豪族や武士が、僧侶をやとって神前で仏事をおこなわせた。・・・また、仏教側力のがわも、庶民に慕われている神道と結びつくことによって布教を有利に進めた

 中世以降、本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)によって、日本の主だった神様は仏が仮の姿であらわれたものだとされた・・・」

 このように、日本では仏教と神道が争うことなく融合していた。

しかし、明治初年に、政府は、仏教と神道を分離させることを命令した。神仏分離である。

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上荘町・平荘町探訪:天坊山(てんぼうさん)

2009-05-25 12:05:18 |  ・加古川市上荘・平荘町

 天坊山(てんぼうさん) 2006・8.2のブログより

117  写真中央の山(右の尾根)は天坊山(てんぼうさん)である。名前の由来は分からないが、近くの山角(やまかど)の名刹、報恩寺と関係があると思える。

 報恩寺は明徳2年(1391)、奈良・西大寺の末寺であり、多数の塔頭寺院を擁していたことが知られている。

 昭和43年、天坊山は注目を集めることになった。山頂に関西電力が鉄塔工事をしたが、その途中で古墳が発見されたのである。

 直径16メートルの円墳で古墳時代前期(45世紀)の古墳であった。

 一基の石室から、壮年男子の人骨が見つかった。

その他の出土品は刀・ヤリガンナ槍・くさび形鉄器・鎌・クワ・土師器の壷など多いが、それぞれの量は少ない。

東側の石室は一回り小さいが、鏡(画文帯神獣鏡)などを出土している。

 埋葬されたのはこの地域を治めた有力者であろう。それにしても発見された場所は、標高163メートル山頂にある珍しい古墳である。

 ブログを書く前には、現地へ出向くことにしている。でも、天坊山にはまだ登っていない。最近、とみに体力の衰えを感じる。

 でも、近いうちにチャレンジしたい。そして、古代人が眺めた、平荘・上荘の地形を眺めてみたい。

 *天坊山の所在地は、加古川市上荘町小野であるが、写真は上原(かみはら)から見た天坊山。

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上荘町・平荘町探訪:里村の騒擾

2009-05-24 17:25:00 |  ・加古川市上荘・平荘町

<msnctyst w:st="on" address="里村" addresslist="46:里村;"></msnctyst>

里村の騒擾 (2006年8・16日のブログより)

96b7ca2d 江戸時代も後半になると、多くの村々がそうであったように、里村でも農民と庄屋の対立がおきた。そのようすをみたい。

宝暦10年(1760)、明和5年(1768)に里村の庄屋・彦九郎に対し10か条の訴えが藩に出された。二件ともほとんど同じ内容である。

 紙面の都合で一つだけ紹介したい。

 (農民)・・・「村方諸入用はなるだけ簡略にしてもらいたい」と庄屋に願ったが、全く聞いてくれない。

(庄屋)・・・村方の諸入用については年々増額しているが、随分倹約している。村では、7・8人が徒党を組んで、「庄屋が使い込んでいる、生活の困窮しているものに返せ」と偽りを触れ、村方をそそのかしている。

 この騒擾の詳細については「加古川市史(二巻)」p442~9を参照されたい。

 享和元年(1801)にも庄屋は農民から追求を受けている。

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 里村では、庄屋と農民の騒動が40年も続いた。

 この騒擾から、庄屋の仕事内容、村政と農民の生活、そして農民の関心ごとなどを知ることができて興味深い。

<msnctyst w:st="on" address="里村" addresslist="46:里村;"></msnctyst>

 里村は、天文元年(1532)の「報恩寺文書」に「里村」の名前がある。それより以前にできた古い村である。

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上荘町・平荘町探訪:築山・2

2009-05-24 16:42:06 |  ・加古川市上荘・平荘町

   築山・2  (2006・7・19のブログより)

002 今週は、激しい雨が降り続いている。午前中(2006・7・19)、兵庫県南部に大雨警報がでていた。昔なら、こんな時は、洪水の心配をした。

 特に、国包のあたりは、しばしば大洪水を経験している。

 特に、鎌倉時代の嘉禄(かろく)元年(1225)の大洪水は、すさまじく、国包村の東を流れていた加古川が村を全滅させ、河原にしてしまった。

 ムクとエノキが目立つ場所は、高さ3メートルあまりの小高い丘になっている。

 地元では「国包の築山(くにかねのつきやま)」と呼ばれ、洪水の時の避難場所であった。

 築山(つきやま)は、宝暦6年(1756)、国包出身の長浜屋新六郎という人物が、加古川の洪水で毎年のように被害にあっていた住民の避難場所として私財を投げ出して築いた丘だと伝えられている。

 大正から昭和にかけて行われた加古川の大規模な改修以来、この地域は、やっと大きな洪水からまぬがれている。

 昔は、洪水の避難場所であったが、今は子供の遊び場所であり、信仰の場所として、社(築山神社)におまいりに来る人も多い。

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