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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(369):加古を歩く(24)・大庄屋、沼田家④

2010-12-28 00:23:38 |  ・稲美町加古

  今日の話題は、従来の加古新村の歴史を壊すような内容です。史料にもとづく解釈ではありません。

関係する方々には、迷惑な話と思います。私も、恐るおそる書いています。

    

   二つの不思議

  

    ◇一つ目の不思議・頭百姓の名前の順◇

Db7ce8e7開発許可から2年後の寛文三年(1663)の「村方万事議定證」の末尾をみています。

一つ目の不思議は、加古新村に入植した143人が署名の最後に書かれた三名の頭百姓の名前の順序です。

加古新村頭御百姓

         喜平次様

  同

         才兵衛様

     同

         治兵衛様

この、名前の順番をみていると、どうしても納得できないのです。

入植した百姓は、三人の頭百姓の順番を適当に、また「アイウエオ順」にでも並べたのでしょうか。

そんなことはないはずです。江戸時代は、地位がものをいう社会です。

まず、才兵衛と治兵衛は庄屋をしていました。喜平次は組頭です。

そして、才兵衛は新田開発の中心となり、村の名前も自分のもとの苗字を付けたほどです。

となると、当然署名した百姓は、才兵衛・治兵衛・喜平次の順に名前を並べるのではないでしょうか。

そうはなっていません。

    二つ目の不思議・「議定證」は農民の自発的なものか?◇

もうひとつ疑問は、この議定證は入植百姓たちの意思で書いたのだろうか、ということです。

9764d219こんな入植農民に不利な証文を自分たちの意思で作るでしょうか。

これは、頭百姓あるいは大庄屋・沼田与次太夫からの提案ではなかったか、と想像してしまいます。

「議定證を農民から提案と言う形で姫路藩に申しいれ、了解を得たのではないか」と思うのです。

姫路藩とのパイプは、大庄屋・沼田与次太夫です。

その際、自分を有利にする契約証では、あまりにも露骨にすぎます。

自分の名前は省きます。

しかし、議定證をつくる時に、才兵衛・治兵衛の前に喜平次の名前を入れ、喜平次の地位を才兵衛・治兵衛と対等にしようとしたのではないかと思えるのです。

二人は、与次太夫に感謝を表したのかもしれません。

というのは、再度、書いておきます。喜平次は大庄屋・与治太夫の倅でした。

倅・喜平次をしっかりと頭百姓に認めさせ、沼田家の地位と利益を確実にしたのではないかと邪推するのです。

いまのところ『稲美町史』は、「喜平次は、与次太夫の倅であった」という説はとっていません。

*次回の「稲美町探訪(370)」は、16日(木)から再開します。

今年もつまらない、歴史もどき文章をお読みくださいまして、ありがとうございました。感謝申し上げます。

2011年が皆様にとって、素晴らしい一年になることをお祈り申し上げます。 

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稲美町探訪(368):加古を歩く(23)・大庄屋、沼田家③

2010-12-27 10:50:49 |  ・稲美町加古

   

大庄屋・沼田与次太夫の役割

Ff1483db『稲美鑑(いなみかがみ)』(山口元治著)は、加古新村の開発について次のように記しています。

・・・・

万治元年(1658)、大庄屋・沼田与次太夫は、印南野の開発を思いつき、心を凝らして藩主(姫路)に幾度となくお願いしました。

翌春、許可が出たので縁者の中西条村の庄屋・才兵衛、上西条村の組頭・喜平次、下村の庄屋・次兵衛と協力して指導に当たりました。

与次太夫は、公務に忙しいこともあり三人の後見人として上西条村・中西条村・下村から黒鍬人足(くろくわにんそく・土木作業員)を揃え、開墾に取りかかりました。

寛文元年(1661)の暮れには432石の収穫がありました。(以上『稲美鑑』より)

 『稲美鑑』の記述のもとになった史料が明らかでないのが残念ですが、加古新村の開発における大庄屋・沼田与次太夫の果たした役割を認めています。

そして、頭百姓の3人は、与次太夫の縁者であるとしています。

今後のさらなる研究に待たねばなりませんが、再度付け加えておきたいことがあるんです。

それは、「沼田家譜によると喜平次は、与次太夫の倅(むすこ)となっている」ことです。

とすると、加古新田の開発は、それぞれの記録には名前が見えなくても、実質は三人の頭百姓と大庄屋・沼田与太夫の四者体制で行われたことになります。

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稲美町探訪(367):加古を歩く(22)・庶民の苗字(江戸時代)

2010-12-27 10:23:25 |  ・稲美町加古

江戸時代の庶民(百姓)に苗字はなかったか

 きょうの話題は、少しだけ寄り道となります。 

Db7ce8e7  「江戸幕府成立いらい、身分は固定し苗字帯刀は、武士以外は禁止された」と学校で習いませんでしたか。 すこし、江戸時代の苗字について、触れておきます。

  「苗字の歴史(豊田武)」(中公新書)は、庶民の苗字について、次のように説明しています。(文章は、少し変えています)

 ○農村において苗字を持つ者は武士だけではなく、個々の小作人でも特定の土地に居住し、耕作地とする以上は、地名を家の名とすることはありました。

 ○「各地から(庶民も)苗字を持っていたという各種の例が寄せられています。

 ○庶民も、従来からの苗字を有していた場合が多いのです。・・(しかし)苗字を公に名のることが許されなかっただけのことです。

 ○一般的に、神事に関する場合は、苗字を使用することができました。

  「加古を歩く(21)」で、「大庄屋は、苗字・帯刀が許されていた」と書きました。

議定證(古文書)をみても加古新村頭百姓(とうびゃくしょう)は、大庄屋ではありません。

ですから、喜平次様、同才兵衛様、同治兵衛様とあるように、三名の頭百姓に苗字は書かれていません。

でも、当時、それぞれ沼田喜平次、沢才兵衛、本岡治兵衛という名前を持っていました。

江戸時代、農村では大庄屋だけでなく多くの庶民も私的に苗字を持っていました。

ただ、神事を除いて、公式に使えなかっただけです。

神社の江戸時代に造られ、神社に寄贈された灯籠などで、大庄屋でない寄進者の苗字などを良く見かけます。

それ(神事)以外は、苗字を使うことは許されなかったのです。

*古文書:「村方万事議定證」(部分)

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稲美町探訪(366):加古を歩く(21)・大庄屋、沼田家②

2010-12-26 00:58:07 |  ・稲美町加古

藩の農村支配の仕組みをみておきましょう。

藩は、軍事・治安・徴税などの権力の根幹と藩経済にかかわる仕事にかかわりました。

村の支配は、大幅に大庄屋・庄屋などに任せ、小さな犯罪・農作業・宗教にかかわる事は、基本的には村の扱いとしました。

そして大庄屋の何より大切な役割が、藩との連絡でした。

   大 庄 屋

035一般的に数ヶ村から十数ヶ村を束ね、藩への窓口となったのが「大庄屋(おおじょうや)」でした。

大庄屋が取り仕切る村々を「組」といい、姫路藩で28組がおかれました。

組の名前は、大庄屋が居住した村名から付けられています。

江戸時代前期、加古新村は西条組の大庄屋・沼田氏が支配した村でした。

(*西条・・・現:加古川市八幡町)

西条組の村々は、次のようです。

下草谷村・野寺村・岡村・野谷新村・草谷・加古新村(以上が稲美町域)

船町村・野村・下村・野新村・宗佐村・下西条村・福留村・西野山村・二塚村・石守村・手末村・中西条村(以上が加古川市域)

村から藩への請願等は、村人⇒村役人⇒庄屋⇒大庄屋⇒藩という順に行われ、これを無視した訴え等は、犯罪として厳しい取り締まりの対象でした。

大庄屋は、一般の百姓にとっては雲の上の存在で、彼らは村に住むものの、元は土豪などが多く、「苗字・帯刀」が許され支配者同様の存在でした。

   加古新村と姫路藩の太いパイプに

加古新村の開拓の場合、藩は協力を惜しみませんでした。

つまり、藩との村とのパイプになる大庄屋の役割が、とりわけ大きかったと想像できます。

そのため、「大庄屋・沼田家」を取り上げています。

 *写真:北新田沼田家(北新田沼田家と大庄屋沼田家の関係は、後に説明します)

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稲美町探訪(365):加古を歩く(20)・大庄屋・沼田家①

2010-12-25 08:04:16 |  ・稲美町加古

「加古新村の歴史」を調べていると、大庄屋・沼田与次太夫の人物像がすっきりしません。

『稲美町史』もはっきりと書いていないようです。沼田氏の姿をできるだけ追ってみようと考えています。

   沼田氏は、新田義貞の系統 

007まず『稲美町史』(p137138)から沼田氏を調べます。

*文体を少し変えています。

 ・・・

沼田氏の家譜によると、沼田家の初代・朝定(ともさだ)は新田義貞氏の系統です。

新田義貞が鎌倉攻めにおける功績で播磨国守に任じられたのは元弘三年(1333)十月のことでした。

この時、鎌倉攻めに功績のあった一族の新田朝定は目代(もくだい・代官)として播磨に派遣されました。

そして、西条(現:加古川市)に城を築き、沼田の姓を名のるようになりました。

朝定は、上野国(こうずけのくに・栃木県)の沼田に住んでいたところから沼田を名のったものと思われます。

『太平記』には、新田義貞が赤松円心を攻める時に、加古川に7日間逗留したのは、ここ朝定の居館(城)があったためだと思われます。

朝定はのち、延元元年(1336)五月、里人により毒殺されたと伝えています。

ちょうどこの時は、足利尊氏が九州から再度上陸し、湊川の戦いに楠木正成を破ったころです。

尊氏あるいは赤松円心の手がまわっていたのでしょう。

以上が『稲美町史』の記述です。

今回は、『稲美町史』の説明をここで終えておきます。

なお、「西条に居館(城)を築き」とあるその場所は、城山(じょやま)であろうと思われます。

 *写真:城山(中西条側から撮影)

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稲美町探訪(364):加古を歩く(19)・三、四・・・八軒屋

2010-12-24 10:32:07 |  ・稲美町加古

三、四・・・八軒屋

*この記事は稲美町探訪(193の)再掲です。

加古地区の地図を見ています。三軒屋・四軒屋・五軒屋・六軒屋・七軒屋・八軒屋などの集落名が目につきます。

これらの集落名について『稲美町史』を読んでみることにしましょう。

  「三・四・五・六・七・八軒屋」は最初の入植者の戸数

Hirokazu_063 これは、この地に最初に入植した戸数のなごりと思われます。

もちろん、これらの集落名は、最初は非公式な名前であったのでしょうが、それが習慣化し公式な名前になったものでしょう。

  歴史家:稲見悦治氏の意見

加古新村の集落成立の状況は、一年前後の間に一挙に各が形成されています。

その戸数の変動も大きかったことから、「三軒屋、四軒屋などの集落名は、集落発生以前から台地開発当時に入植予定数をすでに計画していたのではないか」と、歴史家・稲見悦治氏の考えを記しています。

このことについて『稲美町史』を続けます。

この加古新村の形成は、たしかに寛文2年(1662)のほぼ1年間だけでほとんどできあがっています。

しかし、実際にはそれ以前、即ち姫路藩による公式許可の出た万治4年(1661)以前にすでに入植があったと考える方が、その後の急速な開発、集落形成を説明するのに無理がないようです。

そして、それらの入植者の戸数が、後に正式な集落名になったと考えられます。

*写真:六軒屋池のオニバス(六軒屋池のオにバスについては、のちに「加古を歩く」で紹介します)

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稲美町探訪(363):加古を歩く(18)・加古新村は上新田より開拓がはじまる

2010-12-24 00:01:48 |  ・稲美町加古

  

加古新村は、上新田より開拓がはじまる

2d4d90f5「加古を歩く(5)」でも紹介したように、万治元年(1661)に加古新田(村)の正式な開拓許可状が下りました。

そして、開拓がはじまりました。

「加古新村由来記」によれば、寛文二年(1662)、23軒により形成されたのが上新田だといいます。

次のような記述が続きます。

一、加古新田の内、最初に上新田に23軒ができました。

その時、三人の者にご褒美として屋敷地として3反ずつ与えられました。

沼田与次太夫にも屋敷1反1畝5歩が与えられました。

もちろん、3人の者とは才兵衛・喜平次・治兵衛で

才兵衛・喜兵次・治兵衛は右図にあるようにそれぞれの場所に居住しました。

  

    加古新田の地割図(寛文26月)

上記の加古新田の地割図(寛文二年・1661)の現在の場所は、お分かりになるでしょうか。

図の上の与次太夫屋敷(北新田)は、加古大池のすぐ西の森に囲まれた大きな屋敷です。

図下の三軒(上新田)は、西(図左)から喜平次、才兵衛、次兵衛門の屋敷です。

才兵衛の屋敷は、「加古を歩く(17)」でも紹介したように、現在の沢陽三氏宅です。

この地割は、宅地の南側に溝、竹やぶ、北側に道を配した、たんざく型のもので、地下水位の浅い1等地に与次太夫の屋敷があます。

その南に才兵衛ら3人の屋敷が配されています。

*地割図:「近世の新村成立途状上に於ける諸紛争」(稲見悦治)より

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稲美町探訪(362):加古を歩く(17)・加古新村の開発の当時の経過

2010-12-23 08:26:06 |  ・稲美町加古

古文書「村方万事議定證」を読みました。

お疲れさまでした。

議定證の解説の文章だけお読みいただければ結構です。

加古新村の開発当時の万治元年(1658)~寛文六年(1666)の加古新村の発展の経過を整理しておきます。

「加古を歩く」では時代ごとに順序立てて説明していませんので、話が混乱するかもしれません。そんな時は、次の年表で整理ください。

*加古大池等まだ紹介していない歴史は、後に取り上げます。

    加古新村の開発当時の経過

万治元年(1658)・・・開発を上申する

〃 二年(1659)・・・藩主より、領内の者に出稼ぎすべしとのお達し

〃 三年(1660)・・・加古大池の元となる五つの池の築造

024〃 四年(1661)・・・正式の開発許可が下りる

寛文二年(1662)・・・23軒が上新田にできる。

            加古新田となづける

            用水確保のため流水溝掘り

寛文三年(1663)・・・15軒が中新田にできる

           *後は数軒ずつあちこちにできる

(三軒家・五軒家・七軒家など)

            入植者(下百姓)146人が「村方万事議定證」を差し出す

寛文四年(1664)・・・姫路藩による最初の検地

寛文六年(1666)・・・930

 *写真:沢才兵衛屋敷(上新田・沢陽三氏宅)

  『稲美町の歴史』(伊賀なほゑ著)参照

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稲美町探訪(361):加古を歩く(16)・村方万事議定證研究⑦

2010-12-22 00:07:03 |  ・稲美町加古

  

どこから加古新村への入植か?

開発が3人(才兵衛・治兵衛・喜平次)の開発百姓の手で始まると、西条組の百姓だけでなく姫路藩近辺からも次々と移住してきました。

開発許可から2年後の寛文三年(1663)の文書(もんじょ)「村方万事議定證」の末尾には146人の名前があります。

議定書に署名したこれら146名の入植者の内に次のような屋号が見られます。

・薬栗屋(くすくりや・加古川市上荘町)

・米田屋(加古川市米田町あるいは高砂市米田町)

Efb0fe54_2・加古川屋(加古川市加古川町)

・下村屋(加古川市八幡町)

・福留屋(加古川市神野町)

・石守屋(加古川市神野町)

・稲屋(加古川市加古川町)

・鳥町屋(三木市鳥町)

・姫路屋(姫路市)

・草谷屋(稲美町草谷)

・栗生屋(あおや・小野市栗生町)

・神出屋(かんでや・神戸市西区)

・上西条屋(加古川市八幡町)

・見土呂屋(加古川市上荘町)

これらの屋号から、加古新村への入植者は近くは印南野台地周辺から、遠くは小野市栗生、さらに姫路市辺りからも入植していることが分かります。

*文書:「村方万事議定證」の末尾の一部(屋号に注目ください)

『稲美町史』『稲美町の歴史』(伊賀なほゑ著)参照

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稲美町探訪(360):加古を歩く(15)・村方万事議定證研究⑥

2010-12-21 13:00:47 |  ・稲美町加古

 才兵衛・治兵衛・喜平次の旦那寺に

F44966bf (議定證:第5項)

一 宗旨の件ですが各々様(才兵衛・治兵衛・喜平次)と同じ禅宗になり、旦那寺も同じにしたいのでよろしくお願いします。

神社や寺の守り札をいただいたりするのも、こちらからは一切口出しせず、三人様の指図どおりに致します。

勝手に跡目を入れて、引っ越しをするようなことは致しません。

これは兄弟・下人であってもお断りをし、帳面に書かれている外に、他所から一人も家に置いたりしません。

議定證は、入植した百姓たちの自発的意思で作成されたものか不明です。

ともかく、頭百姓に非常な特権を認めています。

 加古新村には寺院がない

第5項は、百姓は全て開発百姓の出身である、中西条・上西条・下村(現:加古川市八幡町)の3寺院の檀家になることも認めています。

そのために加古新村には、今に至るまで寺院がありません。

 加古新村のような大きな集落で、寺院のない集落の例は外に知りません。

   

違反する者には処分を! 詫び言は言いません!

そして、五項目の後は次のように続きます。

 (*五項目以後の文書は、掲載していません)

右の通り、すべての下百姓は残らず連判を記した上は、末世末代、子々孫々にいたるまで毛頭(もうとう)反するようなことはありません。

もし、一人でも異議を申し唱えるものがいたならば、下され田畑・家屋敷・農具にいたるまで取り上げてください。

右のように決めましたので、詫び言も言いません。

その上で御公儀様に仰せになり、どのようなことを仰せつけられても一言も恨み申し上げません。

後日のため連判証文をしました。

*『知っておきたい・稲美町の歴史』(伊賀なほゑ著)参照

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稲美町探訪(359):加古を歩く(14)・村方万事議定證研究⑤

2010-12-21 00:07:37 |  ・稲美町加古

  

開発人の特権を認める

B9020e36 では問題の第4項を読むことにします。概略は次のようです。

 (議定證:第4項)

加古新村へ各々様(才兵衛・治兵衛・喜平次のこと)の村の百姓となり、開発された新田畑を私どもに、その身代相応に誰にでも割り付けくださり、感謝しております。

その恩にむくいるため、各々様の持っておられる田畑の持ち高がどれほどであっても、各々様の諸役はもちろん、米銭の入用等は末世末代まで少しもお出しにならないで下さい。

村中の者が持ち寄って負担します。

もし、百姓が困るようなことがあっても、「協力してください」というような訴訟がましいことは、いっさい言いません。

  

子孫には負担となるが、

    明治39年まで続く

この百姓の才兵衛らに対する約束も、時代がたち開発当初の事が遠い過去となった江戸時代の末期から明治時代になると、子孫にとっては大きな負担と感じるようになり、開発百姓の子孫との間で訴訟がおきています。

この誓約書について、『元気まち ふるさと いなみ』(稲美町商工会)に、説明がありますのでその一部をお借りします。

「・・・また、この文書によって、開発人の子孫と村の間で、明治10年から“約定違背の裁判”が起こり、明治13年に大審院で村側が敗訴し、開発人の子孫の公租公課が村の負担となりました。

ところが、明治37年その取り扱いが問題となり、再度裁判となりましたが、明治39年に双方で円満に和解ができました。

その時以来、この文書(村方万事議定證)は旧加古村役場で保存されてきましたが、稲美町制ができた時からは、加古土地改良区に引き継がれ保存されています」

*文書:議定定第4項

解読文は『元気まち ふるさと いなみ(p3536)』(稲美商工会)をご覧ください。

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稲美町探訪(538):加古を歩く(13)・村方万事議定證研究④

2010-12-20 11:29:28 |  ・稲美町加古

B696ba6a_2

(議定證:第3項)

 田畑がまだ開発されずになっている土地は、検地までに開拓し、年貢米は三年目より規則どおりに収めること。

    

   議定證(第3項)を

  読んでみましょう

3項も、加古新村に特別なものではなく、一般的規則です。

ですから、今日は史料として、また、古文書の読みの練習をしましょう。

読み飛ばしていただいて結構です。次号の4項は、ぜひお読みください。

 (3項:解読文)

一 新田畑尓(に)可成之処(ところ)、芝とこ尓(に)て割符(わりふ)被成致候通者(は)、御検地以前ニ不残(のこらず)、急度(きっと)開発仕り立可申上(もうしあぐべく)候、勿論、御年貢米之儀者(は)三年目より御見付之指上可申候事

 先にも紹介したように『元気まち ふるさと いなみ』(稲美商工会発行)に解読文ならびに説明がありますのでご覧ください。

 古文書を通してみると当時の人々の息づかいが直接感じられます。読める程度に拡大して『議定證』をのせておきますので、チャレンジください。

 なお、写真はクリックするとよりより拡大します。

 

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稲美町探訪(357):加古を歩く(12)・村方万事議定證研究③

2010-12-20 10:13:41 |  ・稲美町加古

D0154dee_4加古新田(村)の開発が沼田与次太夫と3人の開発者の手で始まると西条組の百姓だけでなく近隣からも次々に移住してきました。

加古新村の開発が始まった万治2(1659)から4年後の寛文3(1663)には入村してきた人たちで一村ができあがりました。

この時149軒を数えました。

そして、移住した百姓たちは、才兵衛・喜平次・治兵衛に誓約書をだしました。

これが『議定證』です。 

  頭百姓の特権を認める

その誓約書は、5項目からなり、3名の百姓は、その後村内では「頭百姓(とうびゃくしょう)」として、特権的な地位をもつことになりました。

特に、誓約書の第4項目は、頭百姓の特権を保障しています。

今日は1・2項目をみておくことにします。

(議定證:第1項)

御公儀様より出された規則をよく守り、山林・竹林も勝手に取ったりしません。旅人に一夜の宿も貸しません。また、許可なく狩猟・漁業はしません。

(議定證:第2項)

   家は、指図の図面どおり長さ5間、横3軒を守り、念を入れてつくります。

    

加古新村・藩の支援

 第1項目は、加古新村に限ったことではなく、一般的な決まり事です。

 第2項目は、加古新村にとって非常に有利な条件で、少し説明が必要のようです。

 その説明を『稲美町史』(159p)に見ておきます。(文章を簡略にしておきます)

 ・・・(加古)新田村への入植をすすめるため、姫路藩は家を作るために百姓たちに家一軒につき木50本、竹3束、縄3束を支給しました。

 頭百姓には、木100本、竹10束を支給しています。

そして、一軒当たり米三俵が貸し付けられました・・

といったように、入植者の身分に応じて建築資材を、また食料を貸し付けています。

姫路藩の加古新村の開発に対する並々ならぬ意気込みが感じられます。(『稲美町史』より)

・・・加古新田(村)のような、藩の有利な条件は、同じころ開発された印南台地の他の新田村では、見ることはできません。

 議定證の第2項目は、「藩から支給された資材で、決められた図面通りの家をつくりなさい」という指示です。

 どうして、加古新田にだけ、このような特権が与えられたのでしょう。

このシリーズで考えることにしましょう。 

 ☆古文書は、議定證の12項です。史料として2項の解読文をつけておきます。

  頭の体操としてお読みください。(もちろん、飛ばしていただいて結構です)

 一 家作り申儀、御公儀様より御材木仰被下候上者御指図之通長五間、横三間二念ヲ入作り立可申上候事

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稲美町探訪(356):加古を歩く(11)・才兵衛、加古新村の誕生

2010-12-19 09:47:10 |  ・稲美町加古

才兵衛・加古新村の誕生

027万治四年(1661)、開拓が認められた時、才兵衛は「才兵衛の祖先よりの苗字・加古から“加古新村”と名づけたい」と申し出ました。

しかし、「個人の苗字を村名にすることはできない」と認められませんでした。

 そこで、才兵衛は、新村では「沢」の名前に改めると述べ、村名を「加古新村」と名づけることを許されました。

 加古新村、沢才兵衛の誕生です。

才兵衛・次兵衛・喜平次は、加古新村の「頭百姓(とうびゃくしょう)」として新村に居住しました。

 開発がはじまって6~7年のうちに家数163軒、人口800人あまりの村となり、延宝八年(1680)、上西条の氏神・八幡宮を加古新村に勧請しました。

姫路藩は、この新村の開発を進めるために援助をおしみませんでした。

新田村の池溝普請の人夫として10.217人を動員し、これを完成させました。

藩は、この時、人夫一人一日に7合5勺宛を支給しました。これにより加古大池のもとがつくられました。

*写真:加古八幡神社

記事は、稲美町探訪(17)の再掲

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稲美町探訪(355):加古を歩く(10)・村方万事議定證研究②

2010-12-19 00:29:20 |  ・稲美町加古

  村方万事議定證

     才兵衛・治兵衛・喜平次と入植者との契約書

8c05ab8再度、『稲美町歴史(156p)』から下記の文章をお借りしています。

・・・

沢兵衛は、上西条(現:加古川市八幡町)の喜平次(現:加古川市八幡町)に印南野台地の開拓を熱心に説きました。

*沢兵衛は、後に才兵衛と改名します。混乱しますので、以後、「才兵衛」で統一します。議定證にも才兵衛の名で登場します。 

 喜平次も賛同はしたものの、開拓のための資金を心配していました。

 才兵衛は、資金のことを親類の下村(現:加古川市八幡町)の治兵衛にも相談しました。

 彼も同意し、三人は印南野台地の開拓を固く誓い合いました。

 そして、大庄屋・沼田与次太夫に願い出たのです。

与次太夫は、姫路藩の奉行、富塚久右衛門・安藤左近右得門に開拓願いを提出しました。・・・(『稲美町史』より)

「加古を歩く(8)」では、加古新村の開発に大庄屋・沼田与次衛門の果たした役割を述べてみました。

大庄屋を抜きにしては何事も事は運びません。大庄屋・沼田与次衛門も、この計画に最初から関わり、姫路藩に積極的に働きかけました。

その後も、何かにつけて才兵衛等とも開発の進め方について相談・指示をしたことでしょう。

しかし、彼は大庄屋としての仕事が多く、実際の村づくりの仕事は才兵衛、次兵衛それに喜平次に任せたものと思われます。

なかでも、その後の経過からみて、才兵衛がその中心となったようです。

加古新村の開発がはじまった万治二年(1659)から四年後の寛文三年(1663)には入村してきた人たちで一村が出来上がりました。

この時、149軒を数えました。

移住してきた百姓たちは、入村に当たり(沢)才兵衛、(沼田)喜平次、(本岡)治兵衛と誓約書を交わしました。

それが「議定證」です。五つの誓約をしています。

次回からさっそく議定證を読みたいのですが、その前に「才兵衛」の話を紹介しておきます。

*写真は、議定證の前の部分、後半は加古新村へ入植し、誓約した百姓の名前が続く

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