今日の話題は、従来の加古新村の歴史を壊すような内容です。史料にもとづく解釈ではありません。
関係する方々には、迷惑な話と思います。私も、恐るおそる書いています。
二つの不思議
◇一つ目の不思議・頭百姓の名前の順◇
開発許可から2年後の寛文三年(1663)の「村方万事議定證」の末尾をみています。
一つ目の不思議は、加古新村に入植した143人が署名の最後に書かれた三名の頭百姓の名前の順序です。
加古新村頭御百姓
喜平次様
同
才兵衛様
同
治兵衛様
この、名前の順番をみていると、どうしても納得できないのです。
入植した百姓は、三人の頭百姓の順番を適当に、また「アイウエオ順」にでも並べたのでしょうか。
そんなことはないはずです。江戸時代は、地位がものをいう社会です。
まず、才兵衛と治兵衛は庄屋をしていました。喜平次は組頭です。
そして、才兵衛は新田開発の中心となり、村の名前も自分のもとの苗字を付けたほどです。
となると、当然署名した百姓は、才兵衛・治兵衛・喜平次の順に名前を並べるのではないでしょうか。
そうはなっていません。
◇二つ目の不思議・「議定證」は農民の自発的なものか?◇
もうひとつ疑問は、この議定證は入植百姓たちの意思で書いたのだろうか、ということです。
こんな入植農民に不利な証文を自分たちの意思で作るでしょうか。
これは、頭百姓あるいは大庄屋・沼田与次太夫からの提案ではなかったか、と想像してしまいます。
「議定證を農民から提案と言う形で姫路藩に申しいれ、了解を得たのではないか」と思うのです。
姫路藩とのパイプは、大庄屋・沼田与次太夫です。
その際、自分を有利にする契約証では、あまりにも露骨にすぎます。
自分の名前は省きます。
しかし、議定證をつくる時に、才兵衛・治兵衛の前に喜平次の名前を入れ、喜平次の地位を才兵衛・治兵衛と対等にしようとしたのではないかと思えるのです。
二人は、与次太夫に感謝を表したのかもしれません。
というのは、再度、書いておきます。喜平次は大庄屋・与治太夫の倅でした。
倅・喜平次をしっかりと頭百姓に認めさせ、沼田家の地位と利益を確実にしたのではないかと邪推するのです。
いまのところ『稲美町史』は、「喜平次は、与次太夫の倅であった」という説はとっていません。
*次回の「稲美町探訪(370)」は、1月6日(木)から再開します。
今年もつまらない、歴史もどき文章をお読みくださいまして、ありがとうございました。感謝申し上げます。
2011年が皆様にとって、素晴らしい一年になることをお祈り申し上げます。