ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

わたの里通信誌(8)タオル工場(昭和30年代の稲岡工業)

2015-11-30 08:11:44 | わたの里通信誌

 引き続き、『わたの里通信誌』の内容を続けるべきですが、少し次の話題を挟んでおきます。

 書斎に、昭和30年代に使用した、小学3年か4年生が使った社会科の副読本『わたしたちの加古川』(加古川市教育委員会)があります。

 それには「のびゆく工業」として、タオル工場(稲岡工業)が紹介されています。

 この文章から、当時のタオル工業の繁栄が読み取れます。

   タオル工場(中西さんの見学)

 一ばんはじめに見たのは、タオルをおっているところです。

 180台もあるきかいが動いているので、耳がワァ~ンと、なってしまいました。

 何枚もつづいたタオルが、おられていきます。

 がすごいなあ、と見とれていると、「この工場では、日本でつくられているタオルの十分の一が、できるのだよ」と、おしえてくださいました。

 一年間に百万ダース、お金にすると5億円だそうです。

 おったタオルは、けんさしてから、ついているのりを、あらいおとすのです。

 長くつづいたタオルをきかいの力であらうので、水をとんどんつかぅています。

 こんどは、あらったタオルをまっ白にさらすのです。

 くすりの入った、きかいが、何台もあって何百枚もつづいたタオルが、さらされて、美しくなって出てきます。

このきかいは、アメリカから買った,オートメーションのきかいだそうです。

 なかなかべんりで、よいなあと思いました。

 かわかして、おりたたんだタオルに、字を入れたり、しるしをつけたりしているところもありました。

 こうしてできたタオルは国内にうりだされるだけでなく、カナダ・ホンコン・ビルマ(現:ミャンマー)、南アフリカ・オーストラリアなどの国々に、送り出されます。

 加古川市でできたタオルが、そんな遠い国までいくのかと、びっくりしました。

 工場の人のお話しを聞くと、タオル工場では、よい水がたくさんいるそうです。

 加古川の水は大よくて、たくさんあるから、つごうがよいということです。(no3035)

 *タオルのできるまで『わたしたちの加古川』(加古川市教育委員会)参照

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたの里通信誌(7) 綿繊維産業の発展へ(2)

2015-11-29 08:35:10 | わたの里通信誌

  わたの里について

    綿繊維産業の発展へ(2)―明治時代から現代―

  第二次世界大戦以前は、くつ下もタオルもつくっただけ売れると言われるほど、繊維産業が飛躍的に発展した時代でした。

 国内だけでなく、神戸港に近い地の利を活かして海外へもたくさん輸出したため、対外貿易摩擦も生じました。

 地元出身の女子工員も多数雇用され、三交代制で働くことも珍しくはありませんでした。

 戦後の復興期、産業としていち早く復興したのも、くつ下やタオル産業でした。

 くつ下産業は新たな技術と素材の導入により丈夫になりましたが、「戦後強くなったのは女性とくつ下だ」という言葉も時代の流行語になりました。

 タオル産業も朝鮮戦争特需を契機に再び活気づき、高度経済成長期からバブル景気にかけては好況に沸いたといわれています。

 しかし、その後、アジア勢の安値攻勢や国内の消費不振で稲岡工業の業績は悪化し、負債を抱えるようになっていきました。(no3034)

*写真:昭和30年代の本社工場

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたの里通信誌(6)綿繊維産業の発展へ(1)

2015-11-28 07:28:18 | わたの里通信誌

 わたの里について

   綿繊維産業の発展へ(1)―明治時代から現代―

 幕藩体制が終わり明治時代になると、綿作を取り巻く環境も一気に変わりました。

 明治の初め、姫路藩が廃藩したことで、藩の後ろ盾を失った木綿生産の現場は混沌とします。

 さらに、安い輸入綿糸を原料とした木綿が国産木綿の生産縮小に追打ちをかけました。

 明治時代になると、かつて木綿の生産地は転業が始まります。

 稲美町では、淡河川疏水工事事業が始まり、水利開発で綿作から米作への転換を模索していました。

 加古川の右岸(西側)では煙草栽培へ転業する農家も出始め、また加古川の浜手では肥料問屋から肥料産業が発展しました。

 木綿の生産地、志方郷でも様々に転業が模索されました。

 明治時代中頃、新しい織機を用いた、くつ下の生産が始まると、志方を中心に綿繊維産業が盛んになりました。

 初期の頃はまだ伝統的な家内製造が中心で、くつ下やメリヤスなどが主製品でした。その後、くつ下産業は、集落全体で分業しながら生産する家内制工業(機場生産)として発展します。

 一方、工場制工業(自家工場生産)として歩み始めたのが、稲岡商店(後の稲岡工業株式会社)です。

 稲岡工業は我が国の近代殖産興業をリードしたタオル製造業界草分けの名門で、我が国唯一のタオル一貫製造工場として発展しました。

 操業初期は、我が国の女子工員の手工が先天的に優れていたので手織りも重視されましたが、やがて力織機(りきしょっき)が改良されるにつれて、工場では機械化が進みました。(no3033)

 *図:わたのとれ高(『わたしたちの加古川』より)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたの里通信誌(5)東郷は綿の生産地(2)

2015-11-27 09:30:18 | わたの里通信誌

   わたの里について

        東郷は綿の生産地(2)―江戸時代―

 江戸時代後半の綿作は、農家の副業として浸透し、全耕作地の過半を占めるまでに栽培されていました。

 「男は塩俵編み、女は木綿織りに勤しみ・・・」という言葉がありますが、農家も年貢のみならず、次第に商品経済の影響を受け始めていました。

 綿の栽培には大量の肥料が必要とされます。廻船によって運び込まれた肥料が舟運を利用して加古川流域に流通したことも、綿の生産には好条件だったといえそうです。

 加古川の浜手の地域では肥料問屋が軒を連ねていました。

 姫路藩の特産品である木綿は「姫路木綿」といいますが、東郷で生産された木綿は特に「長束木綿(ながそくもめん)」というブランド名で流通していました。

 綿作は商品経済に組み込まれ、綿の生産だけでなく、綿の加工品である「しの巻き」や「かせ糸」から、白木綿の「玉川さらし」や染物の「高砂染」に至るまで様々な木綿商品が生産・加工され、流通するようになりました。

 江戸時代後期、姫路藩が財政難を脱することができたのは、東郷の長束木綿に負うところが大きいといわれています。

 姫路藩は、木綿の生産を奨励して木綿の専売制を実施することで、藩の財政を立て直すができたようです。(no3032)

 *写真:玉垣(高砂神社)の「干鰯仲間」の文字からも、綿の肥料である干鰯問屋が栄えていた様子を知ることができます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたの里通信誌(4) 東郷は綿の生産地(1)

2015-11-27 08:57:39 | わたの里通信誌

      わたの里について

         東郷は綿の生産地(1)―江戸時代―

 播州地方では早くから綿が生産されていました。江戸時代前期の宮崎安貞著『農業全書』には、綿の産地が河内、和泉、摂津、播磨、備後・・・であること、木綿は大和、河内、津の国、播磨が有名であること等が記されています。

  江戸中期頃になると、地誌播磨鑑(はりまかがみ)に「・・・印南、加古両郡は播州木綿の名産地」と記され、播磨の中でも加古川下流域が綿の一大産地(本場)であったことを知ることができます。

 現在の東播2市2町とほぼ重なる印南、加古両郡は、姫路藩からみて「東郷(とうごう)」と呼ばれていましたが、この地方で生産される木綿は「播州三白」(米、塩、木綿)の一つとして、姫路藩の重要特産品でした。

 東郷、つまり加古川下流域には、かつて「綿(わた)」にちなんだ名称があちこちにあります。例えば、高砂(之)浦は別名「木綿崎」と呼ばれていましたし、尾上村には昔「綿里小学校」がありました。

 まちには「綿座」という場所があり、「綿屋」や「木綿屋」という屋号の商家もありました。このように東郷は、綿と何らかの関係があった「わたの里」でした。(no3031)

 *写真:加古川あたりで綿をつくる図(「綿圃要務」より」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたの里通信誌(3) 稲岡工業の思いで

2015-11-26 09:16:05 | わたの里通信誌

  わたの里通信誌(3)

              稲岡工業の思いで    元社員、織田正樹

 稲岡工業株式会社の創業は1891年(明治24)です。

 江戸時代後期、姫路藩が進めた「米・塩・綿」の三白行政の中で、加古川・志方地区は、木綿の一大生産地でありました。

 木綿問屋であった稲岡家は、タオルの製造に転換しイカリタオルの稲岡商店を創業しました。

 戦禍を乗り越え1962年、稲岡工業株式会社と社名を変更。

 プリントの機械化により、タオルを販促・宣伝用の道具からファッションタオルへの転換を図りました。

 創業百周年の、1991年頃には、バブル経済の影響もあり高級ブランドタオルが飛ぶように売れ、受注に対応すべく、本社工場の増築、宝殿配送センターの新築等の設備投資を行いました。

 しかし、バブル崩壊で個人消費の落ち込みに加え、定番であった中元・歳暮の需要も落ち込みました。

 さらに、デフレ不況により、中国を初めとする東南アジアからの安価な輸入商品が売り場の大半を占めるようになり、価格競争は激化しました。

 2002年に宝殿工場での生産を停止、2007年には池尻の加工工場を閉鎖するなどリストラを進めました。

 これにより、製織・漂白・加工という一貫生産は崩壊し、品質面での優位性はなくなりました。その後、リーマンショックの追い打ちもあり、従業員の必死の思いもかなわず、約120年の歴史を閉じることになりました。

 破産処理もほぼ終わり、稲岡工業の歴史は閉じようとしておりますが、残された資料が有効に活用され、地域の歴史さらには綿産業の歴史を探る手助けとなることを祈念いたします。(no3030)

 *写真:稲岡工業元社員・織田正樹

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたの里通信誌(2) ワークショップを終えて

2015-11-26 09:03:57 | わたの里通信誌

 わたの里通信誌(2)

  「稲岡工業株式会社文書」ワークショップを終えて

                  保存会会長・妙正寺住職 鹿多証道

 多くの皆さんがお越しくださいました。

 有意義な時間を過ごすことができました。

 平成26年11月16日、午前中は文書保管状況の見学と保存のための事項確認など。午後は地域産業振興センターに会場を移してのワークショップでした。

 来場者には、かつて工場に勤務されたご年配の面々も多く、懐かしい思いでご一緒くださったと思います。

 当地の綿産業は江戸時代、姫路藩主の保護を受けて発達しました。「播州三白」と呼ばれた米と塩、そして綿です。  

 綿産業はタオルや靴下製造に発展し、全国にも名だたる歴史を残しています。稲岡工業がその歴史を閉じて数年、膨大な資料が手づかずになっていました。

 あらゆる見地から資料を点検し、地域産業・工業面はもちろん、地域の歴史を物語る史料として整理・保存、そして活用されなければなりません。

 当日、西向井宏介先生からは「地域史料として」、渡辺千尋先生には「近現代日中関係の実態に迫る史料として」、それぞれ稲岡工業株式会社文書の意義を講演いただきました。

 大変に興味深く、参加者一同、貴重な時間を共有できたと確信しています。まだまだ作業は始まったばかりです。

 一人でも多くのご協力を要します。引き続きお支えください。

 当初から、稲岡鉄工株式会社には資料の保存や作業に格別のご理解とご協力をいただいています。

 また、加古川市教育委員会、神戸新聞社、BAN-BANネットワークス株式会社のご後援にも心から感謝申し上げます。

 稲岡工業株式会社文書保存会によるワークショップには多数ご参加いただきありがとうございました。(no3029)

 *写真:保存会会長・妙正寺住職、鹿多正道

 ≪お詫び≫

 保存会の「わたの里通信誌」は、操作の都合で、不都合が生じています。早急に修理して、後日改めて開始いたします。しばらくお待ちください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたの里通信誌(1) 「わたの里通信誌」をはじめます

2015-11-25 14:39:38 | わたの里通信誌

 わたの里通信誌(1)

  稲岡工業破産・明治24年(1891)操集開始

  『わたの里通信誌』は、寂しいニュースから始めなければなりません。

  ・・・・現在の加古川市域やその周辺は江戸時代から木綿の生産が盛んでした。

 稲岡工業の創業者・稲岡久平は、木綿の加工品としてタオルに着目し、調査・研究を重ねて1891(明治24)年に生産を開姶しました。

 海外輸出や、中国にも工場を展開し、戦後も最新鋭技術を積極的に導入。百貨店向けの高級品が好調で、1991年には売上高26億円を計上しました。

 しかし、バブル崩壌後は、中国を中心とするアジア製品の安値攻勢と国内の消費不振のため業績が悪化し、2008年2月に民事再生法の適応を申講して経営破綻しました。

     残された記録

 稲岡工業には、地域を支えてきた江戸時代からの綿・および綿工業の貴重な記緑が残されました。

 学術的にも貴重な史料です。地域の有志の方々、研究者はこの貴重な記録の保存運動に立ちあがり「稲岡工業株式会社文書、保存会」が結成されました。

 「保存会」では、その活動の一つとして 経過、文書の現状と課題を広くお知らせし、この問題をともに考えいただくために、『わたの里通信誌(創刊号)』を発行しました。

  しかし、発行部数が多く発行できていません。

 そのため、まず『わたの里通信誌』を再度ここに紹介し、引き続きより広く「カテゴリー」にある内容等を紹介したいと考えています。よろしくお願いします。(no3028)

*写真:『わたの里通信誌(創刊号)』表紙

  ≪お知らせ≫

 「わたの里通信誌」を「ひろかずのブログ」と「わたの里通信誌」で、当面は同じような記事を紹介します。

 理由は、「ひろかずのブログ」は、毎日アクセスが1500ほどありますので、広く読んでいただけるのではと考えためです。

 「わたの里通信誌」の読者が増えた段階で独立させる予定です。

 「ひろかずのブログ」の右上にブックマークの欄に「わたの里通信誌」があります。

ここをクリックしていただくと、「わたの里通信誌」にアクセスできます。ここでは、今後より詳しい、独自のニュース等をお届けできるようになる予定です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(東神吉町)真宗寺(2) 梶原冬庵

2015-11-25 08:27:12 |  ・加古川市東神吉町

   梶原十衛門(冬庵)神吉城の援軍に

 (神吉)頼定は、兄・信烈の臨終の時に、次の約束をしました。

 「(神吉城の)次の領主は、一端は自分が継ぐが兄の遺児・信常が成人した時には、信常を城主とする」と。

 頼定は、なやみましたが、その次代の神吉城主・信常を三木へ送りました。信常は、この時まだ13歳でした。

 この入城には、反対の者も少なくありませんでした。

 頼定は、信常の守役として、三枝晴重ら12名を付けました。

 一方、信常の入城に応えて、三木城より神吉城への加勢がありました。

 この時、神吉城に入ったのは、梶原十右衛門冬庵ら41名の歴戦の武将でした。

   梶原十右衛門(冬庵)真宗寺に眠る

 たぶんに伝承の域を出ませんが、梶原冬庵(かじはらとうあん)の話を付け加えておきます。

 冬庵は、身の丈六尺余り(182cm)の大男で、13才の時に親の仇討ちで大力の者を組み討ちして以来武勇が知れわたったといいます。
 冬庵の館は、加古川市大野の中津居構跡がそれだと言われ、現在は権現神社が建っています。『別所記』は、冬庵の勇ましい活躍のようすを詳しく記しています。

 梶原冬庵の墓碑(写真)が、真宗寺にあります。

天保3年(1832)、真宗寺の境内に飲用水のために井戸を掘っていた時のことでした。

 地下3間半(約6.3メートル)の所に頭蓋骨・鎧の片袖・割竿・鉄丸等が出てきました。

 鎧の袖の銀の紋は矢羽根であったので、これは梶原冬庵の首であるとして、五輪塔をつくりました。これがいまある墓で、お骨を納めています。(no3027)

 *写真:梶原冬庵の墓(真宗寺)
 *『神吉村の記録(うもれた)‐村誌を掘り起こす‐』(神吉町内会)参照

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(東神吉町)真宗寺(1) 神吉城跡の寺

2015-11-24 08:01:38 |  ・加古川市東神吉町

 常楽寺の西隣りに「真宗寺」があります。真宗寺も常楽寺と同じ時期に、旧神吉城跡に建立されました。

   縁起にみる真宗寺

 真宗寺の縁起(伝承)では、「伝教大師が唐(申国)から帰って来られ、高砂の洪に船をつけられた時、北の方の山上に白雲がたなびいているのを見られました。

 さっそくこの山に昇られて、この場所こそ仏法を広めるのによい場所であると、高御位山南の谷合に堂を建てられ、白雲山信受院と称され、天台宗をひろめられる道場とされた」とされています。

  天台宗から浄土真宗の寺へ

 天正年間(1573~1591)に、この寺は焼失してしまいました。

 時の住職・宗海法師が本尊を守り、魚橋村(現:高砂市阿弥陀町)隠れ住んだといいます。

 その後、本顧寺第12世・教如上人が播磨の国を巡教され、教えを伝えられました。

 その時に、住職は真宗(浄土真宗)に帰依され、魚橋村に正蓮寺(しょうれんじ)の末寺・真宗寺と改められました。

 天和年間(1615~1623年)に、神吉城の西の丸跡に現在の寺を建立され、以後明治4年本願寺の末寺となりました。

 この寺の鐘は、明治7年加古郡野添(現:播磨町野添)にある寺より買い受け、改築したものです。(no3026)

 *『神吉村の記録‐埋もれた村誌を掘り興す』(神吉町内会)参照

 *写真:改装中の真宗寺(11月22日撮影)

 

 ≪お知らせ≫

 常楽寺・真宗寺に続いて「わたの里通信誌」の連載を木曜日(11月26日)から始めます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(東神吉町)常楽寺(9)  頼定と共に戦死した一族の墓

2015-11-23 08:08:44 |  ・加古川市東神吉町

      頼定と共に戦死した一族の墓(写真)

 求生院観空還性居士 

    *神吉頼定の従弟  上野次郎定行  46歳    

 願往院印空達性居士

    *定行の長男    藤左衛頼之   25歳

 浄住院達空通性居士

             *定行の二男    与四郎定久   20歳

  戦 死 諸 臣 之 霊

   上野定行(頼定の従弟)

 (天正6年)7月15日、神吉城の戦いは最後の時を迎えていました。

 上野次郎(定行)の最後を、小説『信長の蛩(あしおと・神吉修身著)』から引用します。

 ・・・

 城主・頼定が目にしたのは視界一面に広がる松明の灯であった。

 火の帯は、何重にもなって「二の丸」を囲み、漁火のように揺らめいていた。

 その松明の動きで、敵(織田軍)は「二の丸」へ集中攻撃を加えていることが分かる。ものすごい減声が天守へ立ちのぼった。この時、すでに「中の丸」と「ニの丸」は、今や橋桁一本で結ばれている状況にあった。

 「二の丸」の守将定行は「二の丸」が焼け落ちる前、引き橋を渡り生き残った将士とともに「中の丸」に引き上げた。

 定行は、血と泥にまみれた乱髪を細かに震わせ、「……無念で.こざる……」

 ただ一言発した。荒い息づかいの定行(上野次郎)は、必死に悔しさを押さえてはいるが、その両肩が激しく上下していた。

 頼定は、叔父の手を取り、ねぎらいの言葉をかけた。・・・・

 神吉勢は、開戦当時の十分の一と激減していた。

 (次の日、7月16日)頼定は、自刃した。(no3025)

 *写真:頼定と共に戦死した一族の墓

 ≪お知らせ≫

 ここで、次の話題「わたの里通信誌」の予定でしたが、常楽寺と同じく神吉城跡(常楽寺の西隣り)にある真宗寺について書いておきます。従って「わたの里通信誌」は、木曜日から始めます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(東神吉町)常楽寺(8) 駕籠は、江戸への大旅行をしたのか?

2015-11-22 11:11:20 |  ・加古川市東神吉町

 本堂の外陣の西側の天井に駕籠(写真)が吊り下げられています。

 この駕籠については、詳しいことは分からないため若干推測で紹介をします。

    この駕籠は江戸への大旅行をしたのか?

 先に紹介したように、常楽寺は朱印状で18石4斗ぶんの寄付を受けた寺です。

 つまり、朱印領を持つ寺でした。

 しかし、将軍の交代するたびに朱印状を新規に交付してもらうために住職は江戸まで駕籠で出かけました。

おそらく、この駕籠がつかわれたのでしょう。この駕籠は、江戸まで何回も往復したと想像されます。

     往復2か月の大旅行

 江戸から大坂の距離は約600キロ。

 一日30キロ(約5万歩)毎日進んでも20日が必要となります。1日30キロは、きつすぎます。

ですから、加古川(神吉)から江戸へは、順調に行っても約1ヵ月が必要したと考えられます。

 とんぼ返りそれしても、往復2ヵ月の大旅行でした。

 家光からの朱印状の場合は、日付は、「8月17日」となっています。

 旧暦とはいえ、夏の暑い太陽の下を2ヵ月の旅とは、難行苦行の旅だったに違いありません。

 それに、雨の日もあったでしょう。風のきつい日もあったでしょう。

 この駕籠は、そんな大旅行をしたようです。

 以上は、記録が無いために、想像で書いています。

 それにしても、この駕籠の内部は綺麗な絵で飾られた、すばらしい駕籠です。(no3024)

 *写真:本堂の駕籠

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(東神吉町)常楽寺(7) 大庄屋・神吉家の玄関を飾った七福神

2015-11-21 07:55:37 |  ・加古川市東神吉町

         神吉組大庄屋

 江戸時代、各村には村を治める庄屋が置かれていました。

 大庄屋とは、それらの庄屋をまとめて支配する庄屋のことです。

 つまり、庄屋の中の庄屋という性格を持ち、ふつう大庄屋の治める村は、10数ヵ村程度で、それを「組」と呼んでいます。

 庄屋と違い、ふつう大庄屋は苗字・帯刀を許され、農民の代表と言うより、藩(姫路藩)の役人的な性格をもっていました。

 そして、組の名前は、大庄屋が置かれた村の名前が付けられました。

 神吉組は、万治2年(1659)からは、畑組に属していましたが、寛文年中(1661)~明治4年までは、神吉村の神吉氏が神吉組の大庄屋を勤めました。

     神吉組の村々

 神吉組には、以下の村々が含まれていました。

神吉・宮前・宮前新・西(村)・下冨木・畑・雑郷新・志方東町・志方西町・西飯坂・西飯坂新(以上現、加古川市)

北野新・大釜・大釜新・清住新(以上現、姫路市)

   大庄屋・神吉家の玄関を飾っていた七福神

 大庄屋の神吉家は、立派なつくりでした。

 が、大庄屋・神吉五郎太夫家は、明治維新以降衰え、神戸へ移られました。

 そして、神吉家の玄関は、常楽寺に移築されました。

 玄関を飾っていた屋根瓦の七福神(写真)から神吉家の豪勢さが偲ばれます。(no3023)

 *写真:大庄屋・神吉五郎太夫家の玄関(一部)と七福神の瓦   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(東神吉町)常楽寺(6) 将軍たちの位牌

2015-11-20 08:37:12 |  ・加古川市東神吉町

      将軍たちの位牌

 前号で、3代将軍・家光の朱印状を紹介しましたが、現在常楽寺の保存されているその他の朱印状も紹介しておきましょう。

    常楽寺に保存されている朱印状

 慶安 1年(1648)   

     3代家光の朱印状

 貞享 2年(1685)  

     5代家綱の朱印状

 享保 3年(1718)  

     8代吉宗の朱印状

 延享 4年(1747) 

     9年家重の朱印状

 宝暦12年(1762)  10代家治の朱印状

 天明 8年(1788)  11代家斎の朱印状

 天保10年(1840)   12代家慶の朱印状

 安政 2年(1855)  13代家定の朱印状

 これらの朱印状が幕府から交付されました。

 それに対し、感謝のしるしに寺では、それぞれの将軍の戒名を刻んだ位牌がつくられました。

 これら将軍の位牌(写真)が、本堂におまつりされています。

 将軍たちの位牌が、常楽寺に安置されているのを、不思議と思われた方もあると思いますが、 こんな事情のためです。(no3022)

 *写真:本堂にまつられた徳川将軍たちの位牌。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(東神吉町)常楽寺(5) 朱印領の寺

2015-11-19 08:09:19 |  ・加古川市東神吉町

        朱 印 領

 説明の前に、常楽寺に保管されている「朱印状」(8枚の内1枚)を紹介しておきます。

  (解読文)

 播磨国印南郡常楽寺領

 同郡神吉村之内十八石四斗事

 任規寄附之訖全可収納并

 寺中山林竹木諸役等免許

 如有来永不可相違者也

 慶安元年(1648)八月十七日

 ㊞(家光の朱印)

     朱印状の寺

 天正6年(1578)7月、神吉城主神吉頼定が織田信忠の軍のために滅ぼされ、その戦いで神吉城は焼失してしまいました。

 住職の性春は、神吉頼定の亡きがらを神吉城跡に埋め、その側に御堂をたて冥福を祈りました。

 これが常楽寺のはじまりです。時代は、江戸時代に変わりました。

 慶長18年(1613)11月、姫路城主池田輝政が寺領を寄付しました。

 また、慶安元年8月(1648)、三代将軍徳川家光が寺領18石4斗分の土地を「御朱印状」で寄付をしています。

 少し説明が必要です。藩の大名から保障された土地は「黒印領」と言い、将軍から保障された土地を「朱印領」と言います。印の色が違いました。

 ですから、池田輝政からもらった寺領は黒印領であり、将軍から寺に保障された18石4斗分の土地は朱印領です。

 朱印領を持つ寺院は、位が高いとされ、あまり多くありません。

 朱印状は、将軍が代替わりのたびごとに、朱印状を交付してもらうため、住職が江戸へ駕籠で出かけました。

 常楽寺には8枚の朱印状が保管されています。(no3021)

 *写真:(徳川)家光の朱印状

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする