北条直正については「稲美町探訪50・水を求めて⑪」で一度紹介していますので、あわせご覧ください。
義に生きた人・北条直正
北条直正は、播州揖保郡林田藩に代々仕えてきた藩士の家柄でした。
明治12年1月8日、郡の役所(写真)が加古川の寺家町に置かれました。
北条直正は、10日、初代郡長として着任しました。
疎水計画が具体化しようとしていた時でした。
(淡山疎水に関する経過については「稲美町探訪」の「水を求めて:40~60」をご覧ください)
北条は、郡長の職にありながら、母里地区の農民に同情し農民が不利益を受けないようにいろいろ画策しました。
そして、県令(県知事)をはじめ、租税課長ともしばしば対立し、ついに明治15(1868)年4月、郡長を突然解任されます。
これに憤った石見厚一郎県議は、義侠心から県議を辞し、北条氏を補欠選挙に推薦し、北条直正は、県議に当選しました。
その後、県議をやめて大阪に居を構えていましたが、請われて、岩本須三郎の後任として、明治27年4月から同39年3月まで3期12年間母里村第2代目村長としての職にありました。
退職後8年をかけて『母里村難恢復史略』(もりそんなんかいふくしりゃく)を書き上げます。
大正9年6月15日没 85才(妻、か弥、大正10年5月30日没 70才)
彼の波乱の生涯の重要な部分は、ほとんど母里村に関係しました。
母里村二代目村長・北条正直
北条直正にとって、母里村に対して、よほどの思い入れと、責任を感じていたようです。
請われたとはいえ、普通郡長・県議の経験者が貧しい母里村の村長に就任するなど考えられません。
地位や名誉でなかったことは、確かです。
北条の頭にあったのは、果たせなかった「責任」の二文字であったのかもしれません。
農地を手放した農民に対する「お詫び」であったのかもしません。