ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(129):いなみ野フットパス⑱・再び北条直正

2010-02-28 21:57:52 |  ・いなみ野フットパス

北条直正については「稲美町探訪50・水を求めて⑪」で一度紹介していますので、あわせご覧ください。

義に生きた人・北条直正

1bb9fcb0 北条直正は、播州揖保郡林田藩に代々仕えてきた藩士の家柄でした。

明治1218日、郡の役所(写真)が加古川の寺家町に置かれました。

北条直正は、10日、初代郡長として着任しました。

疎水計画が具体化しようとしていた時でした。

(淡山疎水に関する経過については「稲美町探訪」の「水を求めて:4060」をご覧ください)

北条は、郡長の職にありながら、母里地区の農民に同情し農民が不利益を受けないようにいろいろ画策しました。

そして、県令(県知事)をはじめ、租税課長ともしばしば対立し、ついに明治151868)年4月、郡長を突然解任されます。

これに憤った石見厚一郎県議は、義侠心から県議を辞し、北条氏を補欠選挙に推薦し、北条直正は、県議に当選しました。

その後、県議をやめて大阪に居を構えていましたが、請われて、岩本須三郎の後任として、明治274月から同393月まで3期12年間母里村第2代目村長としての職にありました。

退職後8年をかけて『母里村難恢復史略』(もりそんなんかいふくしりゃく)を書き上げます。

大正9615日没 85才(妻、か弥、大正10530日没 70才)

彼の波乱の生涯の重要な部分は、ほとんど母里村に関係しました。

    母里村二代目村長・北条正直

A2dc4cac_2 北条直正にとって、母里村に対して、よほどの思い入れと、責任を感じていたようです。

請われたとはいえ、普通郡長・県議の経験者が貧しい母里村の村長に就任するなど考えられません。

地位や名誉でなかったことは、確かです。

北条の頭にあったのは、果たせなかった「責任」の二文字であったのかもしれません。

農地を手放した農民に対する「お詫び」であったのかもしません。

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稲美町探訪(128):いなみ野フットパス⑰・広谷池の亀の石碑

2010-02-26 21:26:42 |  ・いなみ野フットパス

140 中流を上流から溝ヶ沢池まで歩き、帰りは広谷池まで歩きました。

「いなみ野フットパス」の「印南の道2」で「亀の石碑」(写真)とある場所です。

亀の背に乗った堂々とした石碑です。

この石碑については、『稲美町史』詳しい説明がありますので、ご覧ください。

その要点は次のようです。(少し、簡略化しすぎています)

    亀の石碑は語る

加古郡東部は、土地が高くて水に乏しい。特に、この蛸草新村はそれがひどい。

明治維新前の頃、旱害がしばしばおこり、田畑は荒れ果てました。

それに、明治9年の地租改正は、はなはだしい重税となって、土地を売って地租を払うようなことも多く、村は衰えました。

村の先輩たちは、これを心配して、手を尽くして水源を捜し求めました。

・・・

この頃、岩本須三郎、松尾嘉一郎等が中心となり広谷池を拡大し、疎水を引いて荒地を開墾しようとしました。

・・・ところが、その敷地になるところは、村社、官林、県道、学校、村庁舎、墓地、民有地などが入り混じり、建物の移転、官有地の買い入れあるいは借り入れ、民有地の買収などまことに困難が多く、三年かってようやく落着ました。

・・・工事は農閑期に行うのでしたが、委員はこの間、朝家を出て夕方に帰るという状態が続きました。この時、松尾氏が中心になり取りくみました。

・・・村を挙げて、老いも若きも一生懸命励みました。

広谷池の完成により新田は、旧田の2倍になりました。・・・(明治)245月、疎水の初めての水は、先ず広沢池に注入され広谷池に流れました。

・・・工事の起工が早かったので、官有地等は無料で貸付の特権を得るなど工費は軽くてすみました。

工事をいま行うとすれば、恐らく倍以上かけてもできなかったでしょう。

・・・

加古郡母里村長 北条直正謹んでこの文を記す。

   北条直正、この文章を記す

一般的に石碑等の文言は、美辞麗句が多いのですが、この亀の石碑の文章は、事実と歴史知る人物が客観的に書いています。

彼は、北条直正です。

北条直正の母里村への愛おしい気持ちが伝わってきそうです。

北条直正について、もっと知りたくなりました。

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稲美町探訪(127):いなみ野フットパス⑯・掌中流(4)・伝えよう楽しい、想い出を!

2010-02-26 08:50:38 |  ・いなみ野フットパス

39233ab3 最初に地図は小さくて見にくいことをお詫びいたします。

地図の部分をクリックください。地図は拡大します。

    まるで滝!

地図の14の池を結ぶ赤い線が掌中流(てなかりゅう)で、番号の14は、それぞれ溝ヶ沢池、内ケ池、中場池、手中池です。

そして、溝ヶ沢池の西の大きな池は天満大池です。

掌中流は手中池より、さらに上流の雌岡山を水源としていますが、今日は手中池から天満大池を歩きます。

4の手中池の辺りは約90メートルの等高線の辺りにあります。

溝ヶ沢池は、海抜約65メートルです。

この間、直線にして約2キロメートルです。つまり2キロメートル流れ下る間に約25メートル土地は低くなっています。

天満大池の高度は約50メートルですから、約3キロの間に30メートル低くなっているのです。

この落差は、もはや滝といえるかもしれません。

降った雨は、急流となり一気に流れ下ります。

そのため、雨の時は急流となりそれ以外は、あまり水がたまりません。

この急流は底を削り、流の幅を広げてきました。

もっともいまは、流コンクリートで武装して、その作用がとまっています。

    昔の思い出を聞かせてください

659b0002 その代わり、流(小川)には生物の姿を見ることがほとんどなくなっています。

昔、それもそんなに遠い昔ではありません。

おじいさんの子供の頃の話を聞かせてください。

魚を捕まえたり、蛍を追いかけた想い出がいっぱい詰まっているのではないかと想像します。

この記事を読まれた方で、そんな想い出をお持ちの方は一報ください。

子どもたちにそんな楽しかった風景を話していただけませんでしょうか。

流をたどり、そんなことなどを想像しながらの散歩になりました。

やっと、溝ヶ沢池に着きました。

帰りは、広谷池の「亀の石碑」まで歩き、「印南の道2」のコースを歩き、掌中橋まで帰ってきました。

メッチャ疲れました。

「いなみ野フットパス」のコースを少しそれ、流も歩いてください。足場も悪いですが楽しいものです。

もっとも、これからは蛇にであうかもしれませんが・・・

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稲美町探訪(126):いなみ野フットパス⑮、掌中流(3)・水争い

2010-02-25 12:43:45 |  ・いなみ野フットパス

189_3 天満大池の水源は、神出の天王山(雌岡山)あたりの水を集めた掌中流です。

掌中流の水は、蛸草郷の村々の命の水でした。

それだけに、この流をめぐる争いは古くからあいつぎました。

蛸草郷は、中村・森安村・六分一村・国安村・北山村・岡村の六ヵ村の村々です。

    岡流

掌中橋から約1キロ掌中流を上流に歩くと手中池に着きます。

掌中流は、手中池に沿ってさらに雌岡山の方へ続いています。

掌中流は幅が広く、深い流です。

この流(りゅう)は、手中池から一気に内ヶ池に沿って流れ、溝ヶ池に集まります。

そして、岡の田畑を潤し天満大池に再び集まります。

天満大池の水は、古くから蛸草郷の村々の水源です。

掌中流は、印南新村を突っ切りながら、印南新村を潤す水ではありません。

印南新村が、この水を使ったり、池を造ろうとした時には蛸草郷の村々から抗議がありました。

「いなみ野フットパス」では掌中流を岡流と書いています。つまり、岡村・岡の大池(天満大池のこと)への流でした。

   明石藩の村々との水争い

194_3 困ったことが起こりました。

手中池は、現在は神戸市西区です。江戸時代は明石藩に属していました。

印南新村と同じで、手中池の辺りは高台で水が十分ではありません。

元和7(1621)この掌中流をめぐって争いがこりました。

掌中流の上流の百姓は、新池を築いたのです。

これに対して蛸草郷の村々は「新池を造られては、蛸草郷に水がこないので中止して欲しい・・・」と抗議をしました。

他藩とのもめ事の解決は、しばしばこじれます。

しかし、この時は蛸草郷の要求は、すんなりと認められました。

これは、姫路藩主と明石藩主が義理の親子関係があり、話は比較的スムーズに進んだためと思われます。

しかし、いつもそのようにうまく事が運ぶわけではありません。

その後も堰を築いたり、それを壊したりの事件が、くりかえされています。

しかし、大体において蛸草郷の要求(水利権)が通っています。

   野谷新村・草谷村との水争い

また、野谷新村・草谷村との間でも掌中流をめぐり争論がおきました。

水をめぐる争いは、ときには実力行使をともなう切実なものでした。

掌中流をめぐる水争いについては『稲美町史』(p1751881)をご覧ください。

*写真上:掌中流(掌中橋と手中池の中間辺り)、写真下:手中池(雌岡山が見える)

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稲美町探訪(125):いなみ野フットパス⑭、手中流(2)・散居集落

2010-02-25 12:31:59 |  ・いなみ野フットパス

   良質の地下水はあるのだが

・・・(印南地区は近隣の他地区より飛びぬけて酒造業者が多かった。これは)この地方は、古来良質の水量が豊富であったことによると思われる。

ただ、水量のことは、この地方が洪積層の台地に属し、灌漑用水に古来乏しい地であったということと矛盾するようであるが、水田に適するほど地上用水は豊富ではなくとも、地下水が豊富であったことを窺わせせる。・・・

以上は、『稲美町史』からの引用です。

つまり、印南台地では雨が少ないうえに、雨は伏流水となり地下に浸み込んでしまいます。

その伏流水も、水田を潤すに十分な水量ではありません。

それに、江戸時代、印南新村にはその水を補う池がなかったのです。

    散居集落

1 池がなく、水が少ないとなると、家々が1ヶ所に集まって集落をつくれば、その周辺の田畑の水はたちまちに水不足になり、田畑は集落から遠くにまで広がります。

田畑の耕作には非常に不便になります。

そのために、水を得るには分散して井戸を掘たり、水の得やすい小さな流の側などに家が分かれて住居を構えることが必要となります。

家の周辺に田畑があると農作業が楽です。

このような事情で、印南地区では田畑の中にポツリポツリ家が点在している風景をつくりあげました。

このように点在している集落を散居集落(さんきょしゅうらく)と呼んでいます。

掌中流の上流部で、写真のような散居集落の風景を見ることができます。

いなみ野フットパスでも「入が池の道1」と「印南の道1」の間に「印南の散居の集落が特徴的」と説明しています。

母里地区の水の無さがつくりあげた風景といえます。

<一口メモ>

 集居集落・・・散居集落に対して一箇所に集まっている集落のこと。

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稲美町探訪(124):いなみ野フットパス⑬・掌中流(1)

2010-02-23 09:05:36 |  ・いなみ野フットパス

099 枯川流と八重流を歩きました。

次に、その北を流れる掌中流(岡流)を歩きます。

先日、地図にある掌中橋から手中池(神戸市西区)までを歩きました。

今日は、その日の出発点の掌中流に架かる掌中橋の説明です。

説明は、「掌中橋」の文字のあるボードの裏にある説明をそのままお借りしています。

掌中橋(てなかばし)

掌中橋は、大正3年9月に架けられ淡河川・山田川疎水、森安支線の水路です。

橋の下には掌中流(てなかりゅう)(別称、岡流)が流れています。

この橋は、石造アーチにレンガを積み上げて作ったものであり、平成10年度に印南地区圃場(ほじょう)整備事業によって、用水がパイプライン化されるまでの80数十年間、水路橋として重要な役割を果たしてきました。

102_2 この石造アーチにレンガ積みの水路は、全国でも数例しかなく、今では貴重な歴史遺産となっています。

この掌中橋を、地域の遺産として未来に残すため、平成19年度、ため池ミュージアム事業により、掌中橋を保存することを目的として、周辺に公園施設が造られました。

当時、用水は橋の北から南へ流れていましたが、現在は公園内の池に水を流すため、逆に流れるようにしています。

*写真上:掌中流に架かる掌中橋

写真下:建設時の掌中橋(大正13年)

<メモ>

掌中橋は、中場池の北の堤の中ほどを数メートル北へ歩いたところの流(りゅう)に架かる橋です。

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稲美町探訪(123):いなみ野フットパス⑫・二人の農学者(2)

2010-02-22 08:50:03 |  ・いなみ野フットパス

余話から話をはじめます。

会社「グンゼ」は、よく知られた会社です。漢字では「郡是」と書きます。

では、意味をお考えになったことがあるでしょうか。

   グンゼとは

郡是の「是」とは、方針や計画のことです。「郡」は、加古郡などの郡のことです。

ですから、郡是は「郡の方針」のことで、これに対する言葉は、国の方針である「国是」です。

言葉を変えると、郡是とは地方分権であり、国是とは中央集権です。

グンゼ株式会社は、さしずめ「地方分権株式会社」ということになります。

この社名の由来からも、創業者(波多野鶴吉)はグンゼを創業の地(現:京都府綾部市)の地域振興の一貫として捕らえていたことが分かります。

なぜこのような社名を採用したのでしょう。

   前田正名(まえだまさな)

Masana この社名に深い影響を与えたのが前田正名でした。

前田は、地方産業振興運動を提唱していました。

つまり、「地域の産業は、国是ではなく、地域の実情にあわせて、会社と地域が共に共通の目標に向けて取り組む郡是であるべきである」という郡是運動を提唱していました。

つまり、「地域あっての会社」という運動です。

創業者は、この前田の郡是運動の考えに共鳴して、社名を郡是としました。

当然、前田の郡是運動は、国の方針(国是)と対立することがありました。

明治23年(1898)前田は、農省務次官となるのですが、陸奥宗光と対立して下野します。

福羽と前田

推測で書くのですが、福羽は、フィロキセラの被害を受けた農園の建て直しを前田に託したのではないか?

また、前田は播州葡萄園を郡是の実践の場にしようと考えたのではないか?と考えたいのです。

 前田正名は福羽逸人より5才年上です。

没年は共に大正10年でした。二人はお互いをよく知る仲であり、共にヨーロッパをよく知る農学者でした。

播磨葡萄園が、前田に払い下げられましたが、前田の経歴・言動から考えて利潤(私腹)につながる民間への払い下げとは考えられません。

前田への身びいきでしょうか。

『稲美町史』の前田への評価(前号)は、やや冷たいように思えるのです。

*なお、別府の多木久米次郎も若い頃、前田に影響され肥料会社を始めたといわれています。

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稲美町探訪(122):いなみ野フットパス⑪・二人の農学者(1)

2010-02-21 08:52:32 |  ・いなみ野フットパス

枯川流と八重流を歩き、途中「播州葡萄園跡」へ寄りました。

葡萄園に関係した二人の農学者を紹介します。

福羽逸人(ふくばはやと)と前田正名(まえだまさな)です。

少し長くなるので2回に分け掲載します。

  福羽逸人(ふくばはやと)

Fukuba2 明治12年(1879)、当時の内務省農政局の福羽逸人(ふくばはやと)は、国営の葡萄園設立のための土地を求め、明治13年(1880)、印南新村の土地30ヘクタールを買収しました。

この間の事情は「稲美町探訪54~56」をご覧ください。

明治13年、「播州葡萄園」づくりは、3年計画でスタートしました。

明治16年には11万本の苗木が植えられ、ワイン・ブランデーづくりも始まりました。

この事業の中心になったのは福羽逸人(ふくばはやと)でした。

彼の経歴を紹介しておきます。

(福羽逸)

安政3年(1856)島根県に生まれる。

明治11年(1879)勧農局試験場に入る。

明治13年(1880)「播州葡萄園」開園に伴い中心となる。

明治19年(1889)欧州園芸研究のためにイタリアとフランスに留学

明治20年(1990)農商務省技師補に就任、東京農林学校(後の東大農学部)兼務。

明治35年(1902)~明治401907)新宿御苑を完成させる。

 福羽は官僚であり、ヨーロッパに憧れをいだいた農業学者でした。

「播州葡萄園」は、経営が安定した後、安価で地元に払い下げ、民営に移す計画でした。

しかし、葡萄の天敵である害虫・フィロキセラと台風により大被害を受けます。

政府の政策転換と経費節減などにより、明治19年(1889)に前田正名(まえだまさな)に経営委託され、その後前田に払い下げられました。

結局、葡萄の大敵・フィロキセラには勝てず、葡萄園は明治29年(1895)に閉園となります。 

   前田正名に払い下げ

『稲美町史』では、播州葡萄園の前田への払い下げを次のようにまとめています。

「明治19年に至り、経費節減のため、一ヵ年金4,000円の補助金を与えて前田正名に3ヶ年間委嘱することになった。

さらに、212月には同人から払い下げの出願があり、許可されてしまった。

福羽逸人は渡仏、北条直正は退職、丸尾茂平次は病気で失意のうちにどうにもならなかったようである」

やや前田正名に対して冷たい説明となっています。

前田は、官僚であるが、私腹を肥やすような人物とは思えません。

明日のブログでは前田について私見を少し書いてみます。

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稲美町探訪(121):いなみ野フットパス⑩・枯川流を歩く

2010-02-20 09:28:54 |  ・いなみ野フットパス

前号の地図で枯川流を確かめてください。

印南寺の東で八重流と合流しているのが枯川流です。

今回は、枯川流を中場池の東から八重流の合流点までを歩きました。

   トトロの森

165 中場池の北の堰堤に添って流れる枯川流は、すぐ西で原生林(写真上)に沿うように流れます。

開拓前の印南は、地域全体がこのような原生林に覆われていたのでしょう。

林に入ると、天気がよいせいか、繁っている割には明るい林間です。

「以前に、こんな林間に入ったのはいつの頃だっただろう?思い出せません」心地のよい空間です。

もっとも、夏は蚊の襲来を覚悟しなければならないのかもしれません。

この空間は壊さないで残ってほしい。

散歩の途中に緑のトンネルはいいものです。

印南野という大地の歴史を語る証人のような気がします。

稲美町のトトロの森です。

   水神さん

172 枯川流は、トトロの森を離れ、県道大久保・稲美・加古川線と交わり印南寺の手前で八重流と交わり、名前を長法流と変え、やがて喜瀬川となり瀬戸内海へ流れ下ります。

枯川流が県道と交わるところに、「いなみ野フットパス」では若宮とある小さな神社(写真下)があります。

祭神を予想してみました。でも、神社の名前がどこにも見当たりません。

2基の燈籠にかすかに、3柱の祭神の銘がありました。

この神社の祭神は、池大明神・天満大自在天神・弁天女です。

弁天さんを予想していました。

というのは、弁天さんは水の神様です。

池大明神・天神さんも水の神様です。

予想が当たると年がいもなく嬉しくなるものです。

『稲美町史』で確かめると、この神社は「十七丁天満神社」です。役割は、まさに水神さんです。

水神さんは、印南台地の神様としてはよく似合います。

もっとも、この天満神社は行政的には岡に属しています。その隣の溝を越えると印南です。

印南野台地の水神さんをフットパスで歩きながら探してみたい。

楽しみが、また一つ増えました。

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印南町探訪(120):いなみ野フットパス⑨・池が造れない

2010-02-18 20:57:18 |  ・いなみ野フットパス

7781aadd_2  地図はフットパスの「③印南の道と天満の道ルート」(部分)のを使わせていただきました。

ため池へ流れる水路のことを流(りゅう)と呼びます。

印南寺の東で枯川流(ピンク)と八重流(黒)が合流し、印南寺の横から長法池(ながのりいけ)に沿って流れています。

この流は長法流です。

長法池を過ぎると、長法流は名前を変え、喜瀬川となります。地元では、長法池から天満大池までを枯川(かれかわ)と呼んでいます。

   八重流を行く

先日、八重流を東に歩きました。けっこう深く大きな流(りゅう)です。

フットパスでは、八重流は稲荷池の北を流れていますが、稲荷池の南の流の方が大きいのでそちらの流をどんどん歩きました。

稲荷池を過ぎると、神戸市西区になります。

好奇心の虫が騒ぎました。年がいもなくこの流を追いました。

最後は、雌岡山に到着してしまいました。さすがに疲れました。

この話は、後日どこかで報告したいと思います。

    池が造れない

話を変えます。

この地図の長法池(地図の左端に一部見える池)は岡の池であり、広谷池は蛸草の池です。

そして、印南の宮池・中場池・稲荷池は明治時代に築造されています。

その他、印南の池の築造については『稲美町史』(p537541)をご覧ください。

全てといってもいいくらい明治時代、淡河疎水の完成にともない築造されています。

ということは江戸時代、印南新村には流の水を貯めておく池がなかったのです。

印南新村の百姓は、喉から手が出るほど池をつくりたかったのですが、池を造ろうとすると、その都度、下の村から抗議を受けました。

岡に残る古文書「乍恐奉差上口上書の事」(おそれながら、さしあげたてまつる、こうじょうしょのこと)」に「このたび印南新村が新池のお願いをされていることをお聞きしました。この新池ができましたら岡の水が少なくなり、迷惑をします」とあります。岡村からの抗議です。

これまでの用水権に入りこむことは容易なことではなかったのです。

この辺りの事情は、江戸時代のはじめ頃に姫路藩の強力な支援のもとに用水を確保した加古新村と決定的な違いでした。

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印南町探訪(119):いなみ野フットパス⑧・切留地蔵尊

2010-02-18 07:38:34 |  ・いなみ野フットパス

   印南新村の開発が進む正徳のころ)

084 印南の住吉神社の西を走る県道大久保・稲美・加古川線(148号線)を北へ50メートルほど坂を下ると東側の道沿いに小さな地蔵堂があります。

ここの地蔵さんは「切留地蔵(きりとめじぞう)」(写真上)と呼ばれています。

「切留地蔵」について、『稲美町史』は次のように紹介しています。

・・・

正徳の頃、印南野開発をこの地点までとして切止め、開発の労をねぎらい、また地域将来の発展を願って建立した。

・・・

元文2年(1737)の明細帳には、「加古郡蛸草庄印南新村、当御代御鍬初メ正徳二年辰ノ六月とあって、正徳2年(1712)に印南新村の開発が始まったとしています。

「稲美町探訪(117)」で、印南新村の開発は、それに先立つ宝永年間に堺の商人・嘉右衛門による開発としましたが、明細帳では、少し事情が異なり印南新村は正徳2年に開発が始まるとしています。

ともかく、正徳のころ、印南新村の百姓の手により本格的な開発が進められいたと思われます。

しかし、開拓しやすい場所の開拓は終わり、水の得にくい斜面のきつい土地が残されたのでしょう。

    

水がない・土地が高くなる

109 切留地蔵の近くに印南住吉神社があります。

その横の宮池は、明治時代に造られた池で、正徳の頃にはありません。

すぐ北には長法池に続く「八重流」(写真下)が、林をつくり流れていますが、深い上に普段は水がありません。

先日も歩いてみましたが、わずかな流れがあるだけでした。

この水を利用するためには、池をつくり、水を貯めておかなくては利用できません。

この辺りの南は高い岡になっています。東は徐々に高くなる地形が続きます。

粘り強い江戸時代の百姓にとっても、「これ以上の開発は無理である」との判断をせざるをえなかったのかもしれません。

印南新村の百姓は「開発は、ここまでとします。これまで開発した土地をお守りください」と「切留地蔵」にお願いをしたのかもしれません。

以上は、かなり推測を交えて書いています。

地蔵堂へ寄りました。そっと扉を開いてみました。

先ほどまで、誰かがお参りをされたようでした。

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稲美町探訪(118):いなみ野フットパス⑦、臨済宗・光徳山印南寺

2010-02-17 10:45:19 |  ・いなみ野フットパス

070 印南新村の開発は、加古新村の開発と異なり民間資本による開発でした。

前回のブログで紹介した泉州堺の商人・嘉右衛門が印南新村の開発にあたりました。

「稲美町探訪(21)」をご覧ください。

一部を再掲します。

・・・・

17世紀の新田の開発は、多くの場合藩の援助で行われました。

やがて藩の財政は、火の車となり開発の援助どころではなくなりました。

18世紀の新田開発は、もっぱら商人の財力による開発にたよるようになります。

今日の言葉では民間委託です。

印南新田も、このような新田開発の一つでした

嘉右衛門は、印南新田開発の345年後、おごり増長し、金品を取り込んで不正を働き、藩主から問い詰められ、追放されました。

   加古新村の利平治、印南新村の庄屋になる

印南新村から庄屋がいなくなりました。

印南新村の百姓は、話し合いました。結果、加古新村の利平治(理平治)を印南新村の庄屋として迎えることを決めました。

利平治は、加古新村開発に当たった頭百姓の一人・喜平次の弟です。

なぜ、隣村から庄屋を迎えたのかはっきりしません。

貧しい印南新村としては、経済的な援助を加古新村に求める必要があったのかもしれません。

利平治が印南新村の庄屋になったのは元文2年(1737)のことではないかと考えられています。

繰り返します。最初に加古新村開発に当たった3人の百姓である頭百姓の一人喜平次は上西条(現:加古川市八幡町)の出身です。

新たに印南新村の庄屋になった利平治は喜平次の弟です。

当然、利平治は上西条の出身です。

加古新村は、頭百姓の出身の村との結びつきが強く、加古新村には寺はありません。

すべて頭百姓の出身である中西条・下村・上西条の3寺院の檀家になりました。

現在でも加古新村には寺院がありません。

   利平治、印南寺創建

話を印南新村にもどします。

印南新村の庄屋になった利平治は寛保2年(1741)、印南寺を建立しました。

光徳山・印南寺です。臨済宗の寺院です。

利平治が庄屋になって4年後のことでした。

印南寺は稲美町域内でただ一つの臨済宗の寺院です。

これは印南寺を創建した利平治の菩提寺が、上西条の臨済宗の成福寺だったためです

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稲美町探訪(117):いなみ野フットパス⑥・印南住吉神社

2010-02-16 22:01:13 |  ・いなみ野フットパス

「いなみ野フットパス」を片手に、「印南の道3」の印南寺・切留地蔵尊・住吉神社の辺りを歩いています。  

 東播磨に多い住吉神社

播磨町の郷土資料館館長の田井先生が『東播磨の歴史2・中世』(神戸新聞出版センター)で、近隣の住吉神社について書かれています。

その内容の一部を紹介します。

・・・播磨の国には住吉神社が多いが、そのほとんどが東部に偏っており、一つは明石市の魚住町や大久保町周辺。

次の一つは、加古川市平岡町とその海岸よりの地域。

そしてもう一つは、加古川上流から中流のかなり広い地域です。・・・

そして、終わりに、次のようにまとめておられます。

・・・古代の神社は地域の人々の信仰の対象だけでなく、お宮や船を作る材料の供給地、木材供給地を管理するための、今で言う会社の支店でもあったわけです。

だが中世になると、中央の住吉神社は弱体し、末端の神社を管理できなくなります。

そのため、地域の一族の力で各地の神社を維持するようになってきたと考えられます。

・・・・

住吉神社の弱体の原因等の詳しい内容は、『東播磨の歴史・2』をお読みください。

  住吉神社は、泉州堺からの勧請

096 近隣に多い住吉神社は、信仰の対象であり、大阪の住吉神社の支店のような役割を果たしていました。

が、印南住吉神社は古くからの地元の信仰の対象であった神様でなかったようです。

印南地区の開発は、宝永年間(170410)に泉州堺の商人である嘉右衛門、大和国から藤十郎、旧武庫郡から喜平治・喜平等があいついで移住して開墾を始めました。

印南住吉神社は、嘉右衛門の自らの氏神をこの地に勧請したのです。

しかし、以来、印南の住吉神社は、地区の神社として大切にされてきました。

ここでは、近辺の住吉神社と成立の事情が違っていたことを言いたかっただけです。

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稲美町探訪(116):いなみ野フットパス⑤、土手焼き・割れた石碑

2010-02-15 23:09:21 |  ・いなみ野フットパス

「いなみ野フットパス(印南の道・3)」を東に歩いていますが、ちょっと寄り道をして長法池の北の土手を石碑のところへ向かっています。

   土手焼き

059 春先のまだ草の新芽が出ない今の時期に池の土手の枯れ草を焼きます。

14日(土)の昼前でした。

長法池(ながのりいけ)の堤のあちこちで煙が上がり、土手焼きが行われていました。

土手の草は、ほっておくと、やがて草地に木が生え、やがては林へと遷移し土手が傷んでしまいます。

土手焼きをすることで、この遷移がとまります。

また、焼けた草は灰になり、新たに出る草の肥料となります。

そして、害虫を焼き殺す効果もあります。

そのために、春先のこの時期に、古くから草の土手を維持するために土手焼きが行われます。

灰の下で、土筆(つくし)が芽を出す準備をしています。

春は、もうすぐです。

   二つに割れた「長法池碑」

060 長法池の北東の隅に、長法池の石碑があります。

『稲美町史』(p775)に、堂々とした石碑の写真が紹介されています。

碑の文章は漢文ですが、現代文で一部を紹介します。

 ・・・・

岡村はもともと土地が高台で川がない。

日照り続きには救いようがない。

そこで村民たちが相談して山田川の水を引こうとしたが地勢が不利である。

・・・淡河川の水を引いて長法池を造った。(『稲美町史』より)

この堂々とした碑が、現在ぷっつりと二つに折れて別々に建っています。(写真下)

少しはなれて、新しい「長法池之碑」があり、碑のプレートに「平成七年一月十七日、兵庫県南部地震新設」とあります。

元の「長法池碑」は地震で二つに割れたらしい。

近い将来、南海地震が予想されています。

池は一般的に地盤が弱い。特に、地震では池の土手は要注意です。

この碑は、「地震と池」という問題を提起しているのかもしれません。

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稲美町探訪(115):いなみ野フットパス④・麦秋

2010-02-14 23:10:08 |  ・いなみ野フットパス

稲美町を歩いていると、外の地域では、すっかり姿を消した麦畑が多いのに驚きます。

この麦(大麦)は、ほとんどお茶の原料になるそうです。

麦畑をみながら、新仏池から長法池(岡→印南)へ歩いています。

    麦 秋

017 時代は、江戸時代とそれ以前です。

456月の3ヶ月は、冬作麦の刈り取りの時期に当たります。

農繁期です。

特に5・6月ごろは麦の収穫期で、この時期を「麦秋(ばくしゅう)」と呼んでいます。

現在では、麦秋というと、どこか「ロマンチック」にさえ感じる言葉です。

が、麦秋の頃は、食料の端境期に当たるため飢えの季節です。

さらに、この時期は梅雨のために疫病が流行する時期です。

農繁期の過酷な労働と飢えと疫病とが重なって農民たちにとっては厳しい季節でした。

死者が多かったのもこの季節でした。

この夏の飢えを乗り切るための食料が畑作であり、特に56月に収穫する麦でした。

つまり、麦は、飢えを乗りきるための重要な食料だったのです。

その証拠に、7月になると死亡率は減少しました。

     印南新村の裏作は?

3b6fe8a8 こんな予備知識で『稲美町史』(p1000)、「印南新村における寛政2年(1790)と文政2年(1819)の作物栽培状況」をみると、ほとんど米がありません。

印南新村は、畑の面積が圧倒的に多く97%を占めています。

麦に関して『稲美町史』は、他の村については麦についても述べているのですが、印南新村に関しては、「裏作物の名もあらわれていない」と書くのみです。

「(印南新村では)畑作物で5・6月の農民の飢えを補うことができたか」というと、そのようには思えません。

十分な麦の生産があったのなら記録したことでしょう。

印南新村の百姓の厳しかった生活ぶりが想像できます。

なお、グラフの大角豆は「ささげ」のことです。

*図・写真は、クリックすると拡大します。

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