ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(110):曇川⑭・中一色水揚げ場(2)

2010-02-10 08:42:17 |  ・曇川(くもりがわ)

前号の続きです。

『稲美町史』は「一色の水揚げ場の新しい伝承」を載せています。

文章は少し書き換えています。

   こま徳さん

A6592e67 村の人たちは機械の操作がよく分からなかったので、舞鶴から田久保さんという人を頼んで、池のそばに小屋を建てて住んでもらっていました。

田久保さんの下に、石炭をくべる大徳さんと、こま徳という二人の男の人が働いていました。

二人は、昼夜交代でよく働きました。

大徳さんは体が大きく、こま徳さんは少し小さかった。

村の子どもたちはよくサツマイモを持って行って、こま徳さんに焼いてもらっていました。

こま徳さんは、面倒がらずサツマイモを焼いてくれました。

こま徳さんは気が優しく、男前で子供たちは「こま徳さん・・・こま徳さん・・・」とよくなついて、機械場で遊んでいました。

こま徳さんは、水揚げ所の近くに住んでいました。

ある日のことでした。

交替の時間が来て、こま徳さんはうす暗い中を帰っていきました。

別れてまもなく、子供どもたちが振り返ると、こま徳さんは女の人と並んで歩いていました。

「あの女の人どこから来たんやろ・・・」と不思議に思いながら、子供たちは家に帰りました。

その日の翌日、こま徳さんは林の側の溝に落ちて死んでいました。

村人は、「あの女の人は狐やで、男前のやさしいこま徳さんをたぶらかし、溝へつきおとしたんや」と話していました。

子どもたちは「こま徳さんが死んだのは狐の仕業だったのだろうか」と、不思議に思うばかりでした。

ついに、女の人の正体は誰にもわかりませんでした。

ただ、それまで毎日機械場から聞こえていたキレイな笛の音が、こま徳さんが亡くなってからは、いつも悲しげに尾を引いているように聞こえたといます。

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稲美町探訪(109):曇川⑬・中一色水揚げ場(1)

2010-02-09 09:29:54 |  ・曇川(くもりがわ)

曇川から万歳池・凱旋池に水をポンプアップした話が『稲美町史』にあるので、2回に分けて紹介します。文章はそのままお借りしました。

    万歳池・凱旋池を造る

E696f8c_2 明治378年の日露戦争も大勝利に終わって、国中が感激に渦中にある時分のことだった。

大体この中一色では稲作田は少なく、畑がわりあい多かった。

土地が高くて水が入らなので、主に綿などを作っていたが、これだけでは収入が少ないし、と言って他に働くにも職はなかった。

これではいつまでも貧乏から逃れないというので、村人たちが協議して、高い畑に水を入れて稲作をするために池を造ることを考えた。

若い者はもちろん、老いた者も、それから何とか働ける子供までも、村中総出でみんな畚(ふご、「もっこ」のこと)を担いで土持ちに出た。

こうして全員が一心になって努力した結果、立派な堤防もでき、池が完成した。

隣村の福沢と共に同時に二つの工事にかかったのだが、先にでき上がった福沢の池を「万歳池」と名づけ、あとからできた中一色の池を「凱旋池」と言った。

いずれも戦勝にちなんで名付けたのである。

 (凱旋池の一部を埋め立て、東播磨高等学校が建てられます。挿絵は畚)

    曇川から高台に水をポンプアップ

24464ee8_2 ところでこれらの池は、高い所にある畑を田にして水を入れるために造ったものであるから、当然池も高所にある。

そこで水が下から上の池へ上げなければならず、自然の降雨でたまる水だけでは間に合わない。

そこで数百㍍離れた曇川から水を引いて来て千馬力という強力なポンプを買い入れ、石炭をくべてボイラーを焚くことにし、ようやく水が上がるようになった。

村人たちはこれで綿を作っていた畑も田になって米が取れると喜んだ。

ポンプで揚げた水は、かかり田のおおい「万歳池」へは7分と、少ない「凱旋池」へは3分という具合に配分した。

*写真:中一色の水揚げ場

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稲美町探訪(108):曇川⑫・寺田用水

2010-02-08 12:55:01 |  ・曇川(くもりがわ)

9bcffe35  今日は、曇川の上流に堰を造り、寺田池に水を流した寺田用水の話です。

江戸時代の初めのころ、寺田池の水源一帯に幸竹新田などの村々が誕生し、多くの池が造られました。寺田池に十分な水が集まらなくなりました。 

そのため、新しい水源が求められたのです。それが、曇川の上流から水を引くという計画でした。 

しかし、曇川の水を寺田池まで引くとなると、途中の小高い丘(東播磨高校の東あたり)を越えなくてはなりません。 

曇川は約26㍍のところを流れています。その南にある東播磨高校のあたりは約38㍍です。 

この小高い丘を水は越えなければなりません。 

そのために、曇川の上流の比較的高いところに堰をし、東播磨高校の前あたりに深い堀(高堀)を掘りました。 

深い高堀の跡が残っていますので、見学ください。当時のお百姓さんの息が伝わってきそうです。 

万治元年(1656)、曇川に井堰を設けて用水(寺田用水)づくりがはじまりました。 

寛文3年(1663)、水は向山の高台を越えました。しかし、この寺田用水が曇川から取水できる期間は、曇川郷との取り決めで、毎年5月2日~6月23日までに限られました。 

そのため、一滴の水も無駄にできません。寺田池を中心に10ヵ所のため池は連結され、水は有効に運用されました。 

寺田用水高畑分水

この頃、平岡(加古川市平岡町)にも寺田村・野辻村・西谷新村が誕生しました。それに伴い、以前にもまして、水が必要になり、池が新たに造られました。 

しかし、雨水に頼っているだけでは不十分なため、寺田用水の手前から高畑村への分水(用水)が計画され、寛文2年(1672)完成しました。 

 寺田用水及び、(寺田用水)高畑分水づくりには、百姓衆の汗と苦難の物語があったはずです。 

記録が無く、何も語っていません。 

  *寺田用水物語は、平岡町寺田の松本仲夫氏の研究を参照にさせていただきました。

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稲美町探訪(107):曇川⑪・青野井用水

2010-02-07 23:54:40 |  ・曇川(くもりがわ)

7f2bdf34  右の地図ご覧ください。

 赤色の用水は、寛文四年(1664)に完成した青野井用水です。

<中一色村>

(中一色村は)隣村北山、中村の早くから開かれた地に続く谷地を占め、曇川が近くを流れるにもかかわらず、高地であったために、十分な水がなかった。

そのため、ずっと遅れて、江戸初期になって開拓された。

古い村がすでに用水を設けて、用水を得ることが至難で、開拓が不可能であったためである。・・・

以上が中一色村についての『稲美町史』の説明です。

   青野井用水

中一色村の人々は、新井用水の話を繰り聞き、「わしらの村でも、用水をつくろう・・・」と話しあったことでしょう。そこから、話が前に進みませんでした。

でも、曇川の水を中一色村で取水し、皿池(現:神野町)まで水路(青野井用水)をつくり、水を貯めて石守村等の神野の村々へ水を提供しました。

高堀溝

 青野井用水から分かれた青色の用水路にも注目してください。この溝が「高堀り溝」です。

 「高掘り溝」は、最近水足に移転した平木橋の下をとおり、さらに南の「戸ヶ池」に流れ、野口の北部を灌漑しました。

 皿池のある場所の標高は、約22メートルで、平木橋のあった辺りは標高約27メートルです。

 「戸ヶ池」の辺りは、約22メートルです。

 平木橋のあった辺りの土地が壁のように立ちはだかり、水は野口方面の田畑に流れてくれません。

 百姓は、そこに切りとおしの深い溝を掘りました。これが「高掘り溝」です。

 少し説明が必要のようです。

 「高掘り溝」とは、高いところを掘った溝の意味ではありません。「高掘り溝」は、村高(生産高)に応じて工事をした溝の意味である。

 「当時、石守村(神野町)が600石、水足村(野口町)が644石であったので、この割合で工事の負担をしてできた堀」という意味です

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稲美町探訪(106):曇川⑩・新井用水

2010-02-07 10:50:09 |  ・曇川(くもりがわ)

加古川市野口町や平岡町、さらに別府町から加古郡播磨町までの水田をかんがいしている新井用水(地元では「しんゆ」といっている)が明暦6年(1656)に完成しました。

大成功でした。この成功は、曇川流域の村々の人々に大きな影響を与えました。

そのため、曇川の用水の話の前に、新井用水について簡単に触れておきます。

  新井用水

Ca8af6ed  新井用水は、加古川市野口町・平岡町を流れ、古宮(播磨町)の大池に達する14kmの用水です。

 承応3年(1645)の旱魃は、ひどいものでした。

太陽が大地を容赦なく照りつけました。秋の収穫はありません。

 溜池にたよる村々の百姓は、種籾はもちろん木の実、草の根、竹の実を食べつくし餓死する者も少なくありませんでした。

 それに比べて、加古川の水で灌漑している五か井郷(現在の加古川町・尾上町)は、ほとんど被害がなく、水田は夏の太陽をいっぱいに受け、むしろよく実っていました。

野口・平岡・播磨の村々の百姓は、食べるものがありません。

五か井郷から食料と種籾を分けてもらって、やっと生活をつなぐことができました。

 古宮村(播磨町)の大庄屋の今里伝兵衛は、「加古川から用水を引くことができないものか」と調査をしました。

 城山(じょやま・神野町西条)のすぐ北の加古川から取水する用水路の調査です。

取水口は、五井用水の取水口と同じ場所です。

 ですから、解決しなければいけない問題が二つありました。

一つは、「五か井用水の取水口の近くになりますから、五か井郷の村々は了解しないだろう」ということです。

 もう一つは、「藩の許可が得られるか」ということでした。

しかし、藩主・榊原忠次の全面的な協力を得ることができました。

藩が許可を出したとなると、五か井郷の村々も反対はできません。

難問は一挙に解決し、新井用水の工事は明暦元年(1665)正月に始にはじまり、急ピッチで翌年の3月に完成しました。

工事は成功でした。これにより、加古川市東部・播磨町は豊かな収穫が確保できるようになりました。

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稲美町探訪(105):曇川⑨・井堰

2010-02-05 22:51:48 |  ・曇川(くもりがわ)

「入が池」も「天満大池」もない、はるか昔の話です。

野寺あたりの水を水源として曇川は北山の集落を流れくだりました。

そして、「小池」あたりの水は国安川となり、下沢の谷口で曇川と合流しました。

「天満大池」辺りに流れ出た水も、曇川に流れ土砂を運び沖積平野をつくりました。

何万年か前からの大地の営みです。

天満の大池の西から加古川方面に沖積平野が広がっています。

    稲美地域最大の穀倉地帯

299836bc 以前にも書きましたが、稲作の技術を持った弥生人が、まず加古川をさかのぼって最初に農耕を始めたのが、曇川の河口、神野町(加古川市)の二塚あたりであったと考えられています。

やがて、稲作はこの沖積平野に広がり、人々はここに田畑をひらき稲美地域では最大の穀倉地帯をつくりました。

しかし、普段はおとなしい静かな川も、曇川周辺の沖積平野ではしばしば洪水の被害を受けることもあり、曇川の流路もかわったようです。

*写真手前の集落は六分一で、その上の集落は森安です。写真の川は曇川・国安川です。(左手方面に流れている)

   井堰をつくる

天満大池から加古川に広がる集積平野の両側に台地が広がります。

その南の台地上には六分一・森安・中村・向山・中一色等の集落があり、神野町から日岡山に続いています。

北側の台地上には、国安・北山の集落があり、西条(加古川市)の城山(じょやま)へと続いています。

この二つの台地にはさまれた沖積平野は、洪水・旱魃の被害にもあいながらこの地方では比較的恵まれた穀倉地域でした。

そして、時代が下り農業技術が発達した江戸時代にもなると、人々は沖積平野ばかりでなく、台地上の土地や台地にいたる斜面の開発を考えつきました。

ここを耕やせば水害の被害はありません。

でも、水もありません。

そのため、曇川の上流に堰をつくり、斜面や台地上の土地まで水路をつくり水を引いたのです。

沖積平野の農業と共に、少し高みの場所を耕して収穫を増やし、確実にしました。

曇川には井堰が多く造られました。

そんな曇川の井堰・水路を調べましょう。

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稲美町探訪(104):曇川⑧・源流

2010-02-05 08:55:49 |  ・曇川(くもりがわ)

 源 流(どうでもよい話②)

093 「源流」という言葉は、あるイメージを持っています。

誰も知らない山の奥で、人知れず静かに染み出す水のイメージではないでしょうか。

こんな思いは、時々無残に壊されるものです。

先日、曇川を下沢から源流の満溜池まで歩きました。

その日は、冬にしてはめずらしく暖かな日で、ゆっくりと一時間ばかりの散策となりました。

曇川は「(曇川の)源流」の手前で土山から八幡町に抜ける道と交わります。

その道を越えたところが満溜池で、曇川の源流(写真上)です。

「源流」のイメージは、まったくありません。

満溜池の流を調節する無機質なゲートとコンクリートの構造物があるだけです。

もっとも、満溜池は明治になり造られた池であり、それ以前はその東に繋がる長府池が源流でした。

長府池もそんなに古い時代に造られた池ではありません。

長府池がなかった時代は、「入が池」が曇川の源流でした。

入が池は、奈良時代にできたとすると、それ以前は風呂谷辺りが曇川のもともとの源流だったはずです。

曇川の源流の原風景は、イメージどおりの「源流」だったと想像します。

曇川は、故郷(源流)を失ってから久しくなりました。

そして、その姿もだんだん無粋(機能主義)になっているようです。

    曇川ファブリダム

019  散策を楽しんでいると、時々面白いものをみつけます。

 川上真楽寺(しんぎょうじ)のすぐ上流の曇川に小規模なファブリダム(写真下)をみつけました。

「ファブリダム」という用語をはじめてお聞きになった方もおられるかと思います。

川をせき止める時、鋼鉄製のゲートで仕切るのが普通です。

ファブリダムというのは、この鋼鉄製のゲートをゴムと布を貼り合わせたチューブ状にしたものです。

水を田畑に引く時の堰として、また緊急時に水をせき止めたり、放流する時に、このチューブに空気を送ったり、抜けばよいのです。

ダムの横に空気を送る小屋があります。空気の調整によりチューブは、たちまちに膨らんだり、しぼんだりします。

加古川に流れ込む美の川(三木市)の河口堰は、大きなファブリダムです。

田植えの時期には、膨らんだ規模の大きなファブリダムは壮観です。

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稲美町探訪(103):曇川⑦・小さなグランド・キャニオン

2010-02-04 09:57:42 |  ・曇川(くもりがわ)

22b90690 国岡(新村)をとりあげましたが、国岡については後日続けることにします。

話題を曇川に戻します。

今日と次回は、どうでも良い話題です。気軽にお読みください。

地図をご覧ください。

曇川が下沢で二つに分かれています。

下沢で北へ向かうのが曇川で、真っ直ぐ東へ向かい、途中から小池につながる川が、国安川です。

 これはグランド・キャニオン

北山集落と国安川周辺の集落では、北山集落の方が早く集落ができたようです。

北山集落は、奈良時代には集落があったといわれています。

国安川周辺は、はっきりしませんが、それより後のようです。

国安川周辺の開発について想像してみます。

小池から平地部までの国安川を歩くと、川は地図を見て想像していた時より深い谷を刻んでいます。

123  話は、すこし(だいぶかな?)飛躍するようですが、国安川の堤を歩きながらグランド・キャニオンのことを考えました。

グランド・キャニオンは、大陸の高いところを流れている川です。

川は大地を浸食し、深い谷をつくっています。

当然のこととして堤防の必要がありません。

国安川も、普段は水が少ない川ですが、豪雨の時は風景を一変させ、大地を削り、深い谷をつくってきました。

堤防の必要はありません。(平野を流れる川は堤防がいる)

この辺りで田畑を耕作する場合、深い谷底から取水しなければなりません。

そのためには、上流に堰をつくり、そこから水を引くことが必要となります。

国安川が低地部にいたるまでの距離はあまりにも短かいために、堰の築造も困難になります。

ということは、小池から低地部までの国安川ぞいで農業をすることは、条件としてはあまり良くありません。

したがって、国安川の周辺に集落ができたのは、北山集落より遅れたと想像します。

    どうでもよい話(1)

  *どうでもよい話(2)は次号 

北山集落の先人は、下沢より北へ向かう流れる川を当然のように、「こちらが本流だ」とでもいいたいのか、曇川と呼んだのでしょう。

どうでもよい事ですが、国安川を歩きながらグランド・キャニオンのこと、「なぜこちら(国安川)が曇川ではないのか」などを考えながらの散策になりました。

豪雨の時は、滝のような激流をつくり谷を刻んだ国安川も、すぐに低地部に達し、下沢で曇川と合流します。

昨日(3日)は、よく晴れていました。小池から低地部まで散策すると、一挙に視界が広がりました。

遠くの白い雲の下に淡路島がみえていました。

土手には、カラシナの黄色の花が風に揺れています。

春はもうそこ。

今日は、立春。

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稲美町探訪(93):曇川⑦・入が池の水は北山のもの

2010-01-25 18:23:04 |  ・曇川(くもりがわ)

きょうのブログは、前号「探訪(92):北山集落と曇川」の復習になります

   「入が池」周辺に水は集まる

005_2 「雌岡山(めっこうさん)は標高241メートルの低い山だが、ぐるりに高い山がなく視界はぐんぐん開けている。

印南野台地は大まかに言えば、雌岡山あたりを頂点にして南西に地徐々に低くなる地形です。

稲美町の域には草谷川・曇川・国安川・喜瀬川の4つの川が流れています。

古代の集落は、この川の周辺ではじまりました」

以上は「稲美町探訪(74)・水は天満大池に集まる」の一部の再掲です。

*草谷川周辺の開発については後日取り上げます。

ここでは、印南野台地の水は、ほとんど天満大池に集まったような書き方になっていますが、天満大池と同じように、水は「入ヶ池」辺りにも集まりました。

きょうの「曇川」も、入が池から国安川と曇川の交わる地点までの曇川です。

そこに「入が池」が築かれたのは、伝承では天平の頃(奈良時代)と伝えられています。

004 雌岡山さん辺りからの水は、幾筋もの流(りゅう)をつくりここに集まりました。

さらに、草谷地区の風呂谷あたりの水も集めました。

その水は、曇川となり、とちゅう国安川と合流して曇川は水かさをまし、加古川へと流れました。

時代は、奈良時代です。

先人は、ここに土手を築き「入が池」をつくりました。

「入が池」がつくられる少し以前に、天満大池が完成していましたから、よいお手本になったと想像します。

しかし、「入が池」は現在のような大きな池ではなかったようです。

   荒地「国岡」

当時(奈良時代)「入が池をつくり、わが村に水を引こう」と計画したのは北山集落の人でした。

以来、入が池の水は、北山の曇川流域を潤し続けました。

稲美町役場・商工会議所のある「国岡」あたりの地形は少し高く、曇川の水は利用できません。

それに、入が池・曇川の水は北山集落のものでした。

「国岡」あたりは、長い間、荒地のままでした。

開発は江戸時代を待たねばなりません。

 しかし!・・・

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稲美町探訪(92):曇川⑥・北山集落と曇川

2010-01-24 19:21:15 |  ・曇川(くもりがわ)

  北山集落と曇川

012 きょうの話題の曇川は、入が池から国安川と曇川の交わる箇所までの曇川です。

曇川と国安川が交わる地点から、曇川を少し北へ歩くと川上真楽寺(しんぎょうじ)があります。

この辺りが北山集落です。

北山は、古くから開発された集落で、そのルーツをたどると、奈良時代にたどりつくといいます。

すぐ北隣の加古地区が江戸時代に開発されたのと比べて、その歴史の古さが際立っています。

伝承ですが、真楽寺も天平11年(738)に建てられたといわれています。

014_2  この古い歴史は、みんな北山を流れる曇川の恵みによるものです。

でも、北山あたりの地形は斜面をつくっており、わずかな水もたちまちにながれ下って普段は水があまりありません。

そこで、曇川の上流に「入が池」を築き、水の必要な時に曇川にながし、堰をつくり、村の田畑に水を取り入れました。

「入が池とお入さん」の伝承については、「稲美町探訪(13)・入ヶ池の伝承」をご覧ください。

入が池は北山集落の池です。

いま、稲美町の住宅地図で真楽寺あたりから曇川をたどり入が池までを見ています。

かたくなまでに、入が池、そして曇川の川沿いは北山に属しています。

地図を眺めながら「既得権」という言葉が浮んできました。

入が池に集まった水は、長い期間、当然のように曇川をながれ北山集落の田畑を潤し続けてきました。

まさに、曇川の水は北山集落の既得権として認められていました。

   国岡地区に延びる開発

江戸時代になり、事情は少し違ってきます。

北山と入が池の間に広い未開発地がありました。

現在の地名で天満国岡地区です。

少し、次号からの予告をしておきます。

「とうぜん、ここを開発しよう」人々があらわれます。

しかし、水がない。

水は完全に北山の支配下にありました。

さあ、どうして水を得るかいうのが次の問題になります。

*写真は、川上真楽寺

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稲美町探訪(91):曇川⑤・蛸草庄 vs 加納庄

2010-01-23 22:43:49 |  ・曇川(くもりがわ)

  蛸草庄

再度、蛸草について書いておきます。

蛸草の語源については、『稲美町探訪(78)』で、「開発当時、“高い草”が茂っていたところから、名づけられたというのが有力な説である」と書きました。

さらに、蛸草について『稲美町史』(p9789)の記述をお借りします。(一部書き換えています)

「・・・平安末までには、北山、岡、国安、六分一、森安、中村、野寺、草谷などの村々が、川に沿った丘陵の麓や、台地の斜面に集落を形成していったようである。

これらの村々のうち北山・岡・国安・六分一・森安・中村等の村々を総称して、南北朝時代の初期までは蛸草村と呼んでいた」

また、天正17年(1589)のある記録では、「蛸草庄」は「蛸草村」とも呼ばれています。

蛸草庄の村々は、まだ完全に独立していなかったようです

  加納庄002_2  VS 蛸草庄

曇川の下流の現在の神野地域は「加納庄」と呼ばれていました。

現在の神野(かんの)の呼称は、この「加納(かのう)」からつけられました。

つまり、曇川の上流部(現稲美町天満)は蛸草庄であり、下流部(現加古川市神野町)は加納庄でした。

曇川は、この二つの地域を潤した川です。

古代であれば、この二つの地域は、人口も少なく田畑の水は曇川の水で十分とはいえないまでも、お互いに水争いも少なく共存できたのでしょうが、集落が大きくなり田畑が広がると、たちまちに曇川の水の争奪戦が始まったと考えられます。

しかし、ほとんど記録がありません。

  蛸草は、池郷の村

伝承では、蛸草大池(天満大池)は、白鳳3年(675)に築かれたとあります。

伝承はともかく、古い時代に築かれたのは確かです。

蛸草庄は、蛸草大池の水を共に使用する池郷(いけごう)としてのまとまりがありました。

約束事に違反したら制裁も伴いました。

曇川の水をめぐって下流の加納庄との争いでは、一歩も引かない強力な大池郷の村であったと想像されます。

幾多の水争いの後、室町時代になると、それぞれの村々は独立して、村の権利として水利権を獲得するようにもなりました。

この水利権は、水利組合・土地改良区の名前で現在にまで引き継がれています。

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稲美町探訪(90):曇川④・曇川流域の支配者

2010-01-22 21:38:20 |  ・曇川(くもりがわ)

020_2 ある夏の日、稲根神社の裏にある二塚古墳の写真を撮りに出かけました。

午後の3時ごろでした。強烈な薮蚊の襲来をうけました。

 縞々模様の蚊が数匹、尻尾を高くして脚に止まっているのです。早々に退散したことを思い出しました。

     二塚古墳

 神社の裏の小さな丘に、二つの円墳(はっきりしない)があります。

063  二基の古墳が近接しているところから考えると夫婦塚とも考えられます。

2号墳(写真上)は、1号墳(写真下)よりやや高いところにあり、石造りも若干丁寧です。

どうやら、2号墳の方が1号墳よりも若干早く造られているようです。

2号墳の築造時期は、石室の形態や見つかった須恵器などから6世紀後半の古墳と思われますが、1号墳もあまり時期は違わないと考えられます。

6世紀、曇川流域を支配した豪族がいたことをいいたかっただけです。

 江戸時代、稲根神社のあるこの集落は、この二つの古墳にちなみ二塚村と呼ばれていました。

    余話「手末村」

 明治9年に二塚村は、手末村と合併して神野村となりました。

 しかし、二塚村は「元禄郷帳」に「古ハ手末村」と記しているところから判断すると元は一村で「手末村」あったようです。

 「手末村(てずえむら)」という村名を考えてみます。

 溜池の水源である水路のことを「流(りゅう)」と呼びます。

「流(りゅう)」については、後に取り上げますが、印南野台地を流れる重要な流に「手中流(てなかりゅう)」があります。

手末とは中流の端という意味です。

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稲美町探訪(89):曇川③・稲根神社の語ること

2010-01-21 19:06:50 |  ・曇川(くもりがわ)

「稲美町の歴史探訪」をしていますが、曇川に関しては、加古川市の一部地域の説明を含みます。ご了承ください。

稲根神社(加古川市神野町)

016 明治9年に、加古郡手末村と二塚村が合併して神野村となりました。

 その旧二塚村に稲根神社があります。曇川の河口の近くの神社です。

 稲根神社(写真)の裏に、二つの後期古墳があります。

旧二塚村も、この二つの古墳から名づけられています。二塚古墳に関しては、次号で紹介する予定です。

 郷土史家の石見完次氏は『東播磨の民俗』(神戸新聞出版センター)で、稲根神社について、次のように語っておられます。

 「・・・その塚(二塚古墳)に葬られていた豪族が、実は水と平地を求めて神野の里に来て、最初にこの地に稲を作った部族の長であると考えられ、そしてその有難い稲の御魂を祭ったのが稲根神社であると考えられる・・・」と。

 また、稲根神社の由来は次のようである。

 ・・・太古、人々が食べ物を失ったとき、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)がこれを憐れみ、高天原から稲穂を降らせた。

 そのとき、この地に三粒が落下して、これが実って、世の中に米が満つようになった・・・

 本来、神社の由来と言うものは、怪しげなものが多く検証が必要です。

 でも、稲根神社の由来は、二塚古墳・曇川・稲作、そして何よりも神社の名前(稲根)をつなげてみると考えてみる価値がありそうです。

 まず神野の地で稲作が最初に始まり、やがて播磨の地に広まったことを語っているのでしょうか。

そう考える学者も多くおられます。

 ともかく、曇川河口で始まった稲作は、まず神野の地(賀意理多の谷)それも曇川沿いで早い時期に始まったようです。

 *『東播磨の民族(石見完次)』(神戸新聞出版センター)参照

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稲美町探訪(88):曇川②・なぜ曇川?

2010-01-20 20:18:15 |  ・曇川(くもりがわ)

曇 川 (くもりがわ)

008  曇川(写真)は、加古郡稲美町の野寺を源にする流れと、同町岡の大池・小池からの流れが、下沢あたりで合流して神野の平野を潤し加古川へと流れています。

(写真:国安川と曇川の合流点。左・曇川、右・国安川)

 加古川の本流は、古代より「暴れ川」であり、古代人にとって、本流に沿った土地を直接水田等に利用することは、技術的に無理でした。

 稲作の技術を持った弥生人は、加古川をさかのぼりました。

 加古川の本流に続く、曇川の河口あたりの地形は、稲作に最適な土地であることを発見しました。

 古代人は、曇川の流れに沿った湿地で稲作をはじめました。

 それにしても、曇川とは不思議な名前です。

 「・・・雨の時だけ、その流れを見ることができるという水なし川で、曇ったら流れるところから曇川というんや・・・」と、ある近くの人は教えてくださいました。

 地元の歴史家、石見完次氏は「林に覆われ、籠った谷川のことで、籠り川が正しいと思っている・・」と主張されています。

 昨日(20日)、曇川の土手を歩きました。大寒にしては暖かな日で、黄砂で空がボートして春のようでした。

二羽の水鳥が、忙しく水浴びをしていました。

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稲美町探訪(87):曇川①・賀意理多・舟引原

2010-01-19 21:04:08 |  ・曇川(くもりがわ)

Photo_4  話題は一挙に、古代へ遡ります。

 右の地図は、石見完次氏が、加古川史会の「会報(第36号)」に発表された論文「播磨風土記研究・舟引原はあった」から、必要な部分だけを引用させていただきました。

 播磨風土記に次のような記述があります。

  舟引原(ふなひきはら)

 ・・この里に舟引原(ふなひきはら)がある。昔、神前村に荒ぶる神がいて、つねに航海を妨害して通さなかった。

 ここを往来する舟は、すべて印南(加古川)の大津江にとまり上流へと上り、賀意理多之谷(かおりだのたに)から舟を運搬し、赤石(明石)郡の潮(みなと)まで通行させた。だから、舟引原という・・・

 上記の神前村は古宮あたりの浜で、大津江は現在の加古川町稲屋あたりだとされています。

 しかし、『風土記』にある賀意理多之谷・舟引原については、学会でも不詳とされていました。

 加古川史学会の石見完次氏は、加古郡稲美町六分一(ろくぶいち)の古い字限図に「舟引」を見つけられ、舟引原の場所を確定されています。

  賀意理多(かおりだ)

舟引原の場所から判断して、奈良時代、曇川は 賀意理多(かおりだ)と呼ばれていたようです。

 古代は、地図の赤い線にそって舟を魚住の泊(名寸隅・なきすみ)へと運こび、明石の林まで航海したと想像されます。

 それにしても、荒ぶる神の正体は何でしょうか。多くの書物は「海賊説」をとっていますが・・・

*「会報36号」(加古川史学会)・『播磨国風土記への招待(浅田芳朗)』(柏書房)参照

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