ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

豊沢団平さんのこと(13) 豊沢団平年譜(2)

2019-02-09 08:51:36 | 豊沢団平さんのこと

  豊沢団平のことを年譜(1)・(2)で整理しておきます。

    豊沢団平年譜(2)

 明治10年      58才  文楽座を去り彦六座に移る

 明治26年      67才  11月千賀死去 享年53才

 明治31年      72才  4月1日 団平稲荷座の舞台に倒れ死去

                 阿倍野に葬る

 昭和19年             長男・平三郎が死去、遺族が常徳寺石碑に団平の名を刻 む(no4633)

 *写真:豊沢団平

 ◇きのう(2/8)の散歩(10.687歩)

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豊沢団平さんのこと(12) 豊沢団平年譜(1)

2019-02-08 09:36:35 | 豊沢団平さんのこと

 豊沢団平のことを年譜(1)・(2)で整理しておきます。

     豊沢団平年譜(1)

 文政10年3月21日  誕生  団平寺家町西の町の醤油屋に生まれる

 天保6年       9才   入門

 天保9年        12才  三代目広助に入門、力松を名乗る

 天保11年       14才  天満の芝居に出演、初めて一場を持つ

 天保13年       16才    丑之助と改名

 天保14年       17才  三弦の横綱格となり、若太夫を弾く

 弘化元年        18才  豊沢団平を襲名 長門太夫の合三味線となる

 嘉永2年       21才  母もと女死去(65才)

 安政元年        28才  妻、八重を娶る

  〃           〃   養父、安次郎死去(68才)

 万延元年        34才  初めて女児を得たが死産

 文久2年        36才  長男が生まれたが死去

 文久3年        37才  父平蔵作州にて死去(81才)

 慶応元年        39才  平三郎誕生

 慶応3年        41才  国吉誕生

  明治2年       43才  母八重死去

    八重死去後、千賀を娶る(no4632)

 *写真:豊沢団平

 ◇きのう(2/7)の散歩(11.461歩)

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豊沢団平さんのこと(11) 院号は「調音院」

2019-02-07 08:45:07 | 豊沢団平さんのこと

       団平の墓碑

 一代の名入団平が大往生をとげたのは明冶31年4月1日のことで、時に72才でした。

 安倍野の禅林寺に葬られました。

 団平はそこに眠っているのですが、団平の没後、襲名のことで問題をおこした仙左衛門が、明冶43年頃高野山に団平の墓碑を建てたとのことです。

     院号は「調音院」

 団平の長男平三郎が亡くなった後、昭和19年に遺族門弟衆が加古川常徳寺の父祖の墓畔に加古家霊位の碑を建て、これに団平の名を刻んでいます。

 法名は、大違絲道居士でした。

 団平の左は長男平三郎の法名です。(no4631)

 *写真:団平の墓碑(常徳寺)

 ◇きのう(2/6)の散歩(10.698歩)

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豊沢団平さんのこと(10) 団平逝く

2019-02-06 09:14:55 | 豊沢団平さんのこと

       団平逝く

 明治31年4月1日の舞台でした。

 団平の三味線の音はことに美しく、聞くものを感動せしめずにはおかなかったといいます。

 すでに、台本も残り一枚余となった8時30分頃のことでした。

 団平は、撥を持ったまま弦を弾こうともしません。

 その様子が尋常ではなかったので大隅太夫が「代り・・・代り・・・」と声をかけ、楽屋にいた門弟の豊沢龍助が羽織のまま舞台にかけ上って後を弾き継ぐ間に、門人が団平を左右より抱きかかえて楽屋へもどってきました。

 すぐに、診察をうけました。

 容体は急性悩充血ですぐに病院につれてゆくことになったのですが、運ばれていく途中、三休橋北詰派出所前で全く絶望となってしまいました。時刻は、10時30分でした。

   門弟等は涙ながら遺骨を清水町の自宅に運びました。

 団平はかねてから「撥をもったまま死にたい」と語っていましたが、まさにその通りになってしまいました。

 本懐であったのかもしれません。

  葬儀は5日午前9時から安倍野で営まれました。

 その日、稲荷座は休業しました。市内の大勢の義太夫芸妓が全部参加した盛儀になりました。(no4630)

 *写真:大根(近所の畑で)

 ◇きのう(2/5)の散歩(11.690歩)

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豊沢団平さんのこと(9) 逸話(2)・テンの音

2019-02-05 10:08:41 | 豊沢団平さんのこと

    逸話(3) 「テン」の音

 伊勢の桑名に二代目鶴沢寛治という三味線の名人がありました。

 団平が、まだ丑之助を名乗っていた時代のことです。

 寛治が、丑之助に三味線の秘訣を教えました。

 丑之助はさっそく、二挺の三味線をもって来ると寛治は、双方の調子を合わせて三味擦を下に置き、しばらく目つぶると「この音色をよく聞くように」といいながら、三の糸を指につまみ、手をはなすと、まことにさえてテンという音が生まれました。

  「若しこの音色が出る様になったら天下の名人級である。何度も、この音の出る様に工夫しなさい」と言って、その時は別れました。

 丑之助は、その後一心にこれ練習をしました、そのテンの音色は、なかなか出ません。

 より一層の練習に打ち込みました。

 それから、七年がたちました。桑名へ興行に行った折、団平は寛治を訪ねました。

 その時、寛治は自分の教えた三味線の音は、もはや団平の足者にも及ばないと絶賛したということです。

   (逸話4) 団平の葬儀

      納棺はキリスト教で、儀式は仏式で

 団平は、遺言により仏式で送られるはずでした。が、長男平三郎がキリスト教信者であったため、キリストの福音により天国へ送りたいと主張し、一番弟子たちの抗議もむなしくキリスト教儀式により行われようとしました。

 芸妓たちは。それを認めませんでした。声を上げて喚く者も出てきました。

 そのため、納棺はキリスト教により、葬式は仏式で行うことになり団平は天国へ往生したのです。(no4629)

 *写真:ネギ(近所の畑で)

 ◇きのう(2/4)の散歩(10.614歩)

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豊沢団平さんのこと(8)  逸話(1)

2019-02-04 14:16:37 | 豊沢団平さんのこと

 名人豊尺団平については多くの逸話が残っています。そのうち二・三をここに紹介しておきましょう。

   (逸話1)船頭の教え

 若い20才前のころでした。

 団平は、義太夫の修行にたえきれずに、故郷の加古川へある日逃げて帰りました。そして再び大阪へ行く気力もなくて、ある日、加古川の渡し舟のりました。

 するとその老船頭が舟こぐ竿を使いながら、「今日は工合が悪い。きのう怠けて一日休んだらもう竿が思うように使えない」と呟く(つぶやく)のでした。 

 それを間いた彼は、船頭でもそうだ。

 「浄瑠璃は、毎日の仕募で、一日休んでも腕が下る…」と反省し、再び大阪へ帰って修業を始めたということです。

      (逸話2)勝手に計算して持って帰ってんか

 団平は、稽古にいそがしい日日を送ったので借金取が来ても稽古が済むまで待ってもらっていました。

 そのうち借金取も何人かにふえました。

 団平は、一同に一尺ばかりの箱を持ち出して、めいめい勝手に計算して持って帰ってもらいました。

 その箱というのは中には紙屑も手紙も金も一緒に放り込んでありました。

 これは八重に死なれて家人のなかった頃の事の話ということです。(no4628)

 *写真:ミズナ(近くの畑で)

 ◇きのう(2/3)の散歩(11.913歩)

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豊沢団平さんのこと(7) 仁兵衛と改名

2019-01-31 10:07:19 | 豊沢団平さんのこと

 

    仁兵衛と改名

 団平は叔父安次郎方へ養子に入っていましたが、加古川の生家はいずれも他家へ養子に行ったものや、若くして亡くなる者が続出しました。

 母は、嘉永二年(1849)、姉は嘉永四年に亡くなり、父も作州(岡山県)に帰ってしまいました。

 加古家の血統も絶えてしまうようになりました。

 そのため、自らは大阪に住みながら、養家を辞して加古家を立てることとし、加古家の代々が仁右衛門を襲名したことから、その一字をとって仁兵衛と改名しました。

 もっとも、同音であるため仁平とも書かれたこともあったようです。

 芸界では、もっぱら仁兵衛でした。(no4624)

 *写真:自宅のタカサゴ・ユリ(1/31撮影)

 ◇きのう(1/30)の散歩(12.848歩)

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豊沢団平さんのこと(6) 千賀女との再婚

2019-01-30 09:25:55 | 豊沢団平さんのこと

     千賀女との再婚

 千賀女(ちか)は、西陣の染物業沢田安兵衛の二女で備中松山の城主板倉周防守につかえ、一人の男子をもうけたが、周囲の妬みがきびしいので、暇を乞うて京都に帰り、茶屋家業を初めていたといわれています。

 しかし、千賀女の素性については異説もありはっきりしません。

 しっかりした真の強い人であったことは間違いなさそうです。

 

 当時、大坂義太夫弾の名人といわれる団平が妻を失い子供をかかえて困っている話を知って、団平の性行を承知の上で、自分の仰くべき人はこの人の他にはいないと自ら進んで団平の後妻に押しかけています。

 千賀女が家に入ってからは、二児の教育は元より、家事一切を引受けて世話をしました。

 そのため、団平は、安心して心のままに芸道に専念することができました。

 千賀女には、創作の才がありました。

 壷坂の台本は千賀女の手になるものです。

 その他にも彼女の作は多数あるらしく大和錦・猿ケ島・松前屋五郎兵衛・親鸞記などは団平との合作として知られています。

 

 千賀女の人柄の一端は、映画:浪花女にもえがかれて、想像はできます。

 むかし、文楽座関係の人を煩わし写真を見た人の言によれば「千賀女はよく肥った頗すこぶる大柄な女で気品もあり、十人並以上の美人」であったと伝えています。

 

 千賀女の死は、今で言う疫痢で、死に瀕しても便をとってもらうことを承知せず、自ら便所に通うような無理を重ねたそうです。

 また、性質は「極端な神経質で、非常に敏感な女性で、小心なところもあり、はにかみや」であったと伝えられています。(no4623)

 *写真:今朝(1/30)の我が家の梅

 ◇きのう(1/29)の散歩(11.749歩)

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豊沢団平さんのこと(5) 団平、妻・八重を亡くす

2019-01-29 08:17:24 | 豊沢団平さんのこと

 

     団平、妻・八重を亡くす

          そして、「ちか」と再婚

 若年ながら太夫の三味線弾きなったことで、女性からいろいろもてはやされました。

 しかし、なんとしても三味線いっさいの技能を極め、誰にもまけぬ境地に達したいと決心していたので女性のことで気をつかうようなことはあまりなかったようです。

 安政四年(1857)31才の時、高砂清水町に住んでいた佐藤市次郎の二女八重を娶りました。

 団平には、八重との間に平三郎と国吉の二人があったことに明かになっています。

 愛情は細やかで、常徳寺におさめられている位牌によれば、6人の子供をなしています。

 六人目に生れた女児の出産のために八重は31才で落命して母子ともなくなりました。

 八重がなくなった時、平三郎は5才、国吉は3才でした。

 団平は、芝居の出勤にも、弟子達の指導にも困って、その年は不明であるが贔屓の旦那衆より種々すすめもあったのですが、京都祇園の茶屋の女主人・沢田「ちか」を迎えて後妻としています。

 次回は「ちか」の紹介です。(no4622)

 *写真:今朝のスイセン(今回も文章と関係がありません。我が家の近くに咲くスイセン)

 ◇きのう(1/28)の散歩(10.926歩)

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豊沢団平さんのこと(4) 18才で文楽座に出演、 そして豊沢団平を襲名 

2019-01-28 09:33:34 | 豊沢団平さんのこと

       弘化元年(1844)18才で文楽座に出演

                  そして、豊沢団平を襲名    

団平は、平蔵の末っ子として文政10年3月21日、寺家町の醤油屋に生まれました。

幼名は、丑之助とも力松といわれました。

芸界に入った初めの名が力松で、常徳寺の記録は全部、丑之助です。

竹本千賀太夫の養子となりましたが、千賀太夫のすすめで三代目豊沢広助に入門して三弦を始めました。

そして、天保9年12才の春に力松を名のりました。

一度三弦を習い始めると、人に倍して熱心であったので上達もいちじるしく、天保11年の春に天満の芝居に出、初めて三段目を弾く身になりました。

弘化元年18才で文楽座に出て、豊沢団平を襲名し、長門太夫の合三味綜であった清七の代役をつとめています。

清七が、遂に病に倒れたので長門太夫の所望とあって、多くの先輩をこえて名人長門太夫の合三味線となったのです。

長門太夫の死後は、五代目竹本春太夫、また名人染太夫も弾き、明治浄瑠璃会の偉人、摂津大掾をも仕込みました。

しかし、摂津の養女と団平の妻との不仲から団平は摂津をはなれ、彦六座に出て文楽座と対立して紋下大隅太夫を養成して文楽の全盛時代をつくりました。(no4621)

*写真:明治浄瑠璃会の偉人、摂津大掾

◇きのう(1/27)の散歩(10.316歩)

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豊沢団平さんのこと(3) 団平の兄弟関係

2019-01-27 08:15:21 | 豊沢団平さんのこと

          団平の兄弟関係

 団平の父平蔵は、当時の記録によると放埒で大酒を呑みでした。

 そして、遊興にふけって京の島原、大阪の新町あたりで名が知られた人物でした。

 その上に、義太夫浄瑠瑠を好み、多くの芸人を愛して、これがために家産は遂に散逸してしまったといいます。

 ですから、晩年尾崎村(岡山県)に帰って暮らしたのは、妻に先立たれ、我が身ひとりになったためばかりではなさそうです。

 団平の死亡当時の朝日新聞に書かれているのですが、団平の手記によると兄弟は二女であったと思へます。

 上の二人は女で、男は為次(為冶郎)と団平でした。

 

 為次郎は長男ではあったのですが、淡路の正井家に養子として行き、団平は叔父安次郎の養子となっています。

 嘉永四年四十八才で亡くなった二女の和佐のみが平蔵のもとにとどまっていたようです。(no4620)

 *今日は適当な挿絵・写真がない為、円照寺(東志方広尾)の現在のロウバイです。きれいですよ。お時間がある時にでもお出かけください。

 ◇きのう(1/26)の散歩(10.870歩)

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豊沢団平さんのこと(2) 団平は、寺家町で生まれる

2019-01-26 08:49:26 | 豊沢団平さんのこと

      団平は、寺家町で生まれる

 団平は家寺町に生まれました。

 家は代代醤油屋であったといわれています。

 今の寺家町330番地を含む一角です。

 昭和39年当時、玉岡昌二氏によると四代前の健蔵氏の代に寺家町に出て来て、初めはその家の一部を借りて住居を初めたのですが、間もなくその家を買取ったとのことです。

 この家の裏に近年(昭和39年)まで醤油蔵であったかと思われる建物が残っていたのですが、腐朽のため倒壊して、今それをしのぶものは残っていません。

 父平蔵は作州(岡山県)尾崎村の竹内氏の次男として生まれ、加古家に入り養子となって仁右衛門を襲名しました。

 平蔵は、晩年尾崎村に帰っています。

 父、平蔵が作州へ帰った理由は、次号で考えましょう。 

 団平の養父、加古安次郎の代になって、隣なる加古川町(寺家町)へ移転しました。

 その家は立派な大きな家でした。

 その家が、安次郎氏が加古川へ来て住んだ家、そして団平が生れた家です。

 最近(昭和39年当時)、団平の養父であった安次郎が嫁を貰った当時のものと思える紙片が見つかりました。

 それによれば、播州加古駅寺家町西ノ町とあり、嫁は寺家町東ノ町南浦とありました。(no4619)

 *写真:「豊沢団平誕生之地」の碑

 ◇きのう(1/25)の散歩(10.530歩)

 

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豊沢団平さんのこと(1) 「三宅周太郎さんのこと」の続きです

2019-01-25 10:19:16 | 豊沢団平さんのこと

 *「三宅周太郎さんのこと(27)~(32)」の続きとしてお読みください。

     豊沢団平さんのこと(1)

 前回の「三宅周太郎さんのこと(32)・団平の死」で、このシリーズを終えました。

 そして、きのう(1/24)、次のブログの話題を計画していました。

 そんな作業中でした。

 「どこかで、豊沢団平さんのことを書いておられた方がおられた・・・・」と、ぼんやりと思い出しました。

 その時は、それ以上に記憶は戻ってくれませんでした。

 「75才のお爺さんじゃ仕方がない・・・」とあきらめていたのですが、昼すぎでした。

 突然、「ア!」「もしやして、永江幾久二さん(故人)の著書ではなかったか・・・」とひらめいたのです。

 というのは、永江さんは、生前、三宅周太郎さんと親交のあった方で、長らく加古川郷土文化協会を主宰されていた方でした。

 さっそく、永江さんの本を探しました。ふしぎなものです。離れの本箱の隅っこから、誇りをかぶった『考史遊記 (兵庫タイムス刊)』が顔をだしました。

 1964年4月21日発行の本です。

 ページをめくると、(2)名人と豊沢団平、(3)団平記念行事(4)団平と文学として団平さんが紹介されているではありませんか。

 少しだけ、「三宅周太郎さんのこと」の続きとして「豊沢団平のこと」と題して「団平さん」のことを付け加えましょう。

 なお「三宅周太郎さんのこと」の団平さんの紹介と若干内容が重なりますが、復習としてお読みいただければ幸いです。(no4618)

 *写真:二代目豊沢団平

 ◇きのう(1/24)の散歩(11.648歩)

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