千賀女との再婚
千賀女(ちか)は、西陣の染物業沢田安兵衛の二女で備中松山の城主板倉周防守につかえ、一人の男子をもうけたが、周囲の妬みがきびしいので、暇を乞うて京都に帰り、茶屋家業を初めていたといわれています。
しかし、千賀女の素性については異説もありはっきりしません。
しっかりした真の強い人であったことは間違いなさそうです。
当時、大坂義太夫弾の名人といわれる団平が妻を失い子供をかかえて困っている話を知って、団平の性行を承知の上で、自分の仰くべき人はこの人の他にはいないと自ら進んで団平の後妻に押しかけています。
千賀女が家に入ってからは、二児の教育は元より、家事一切を引受けて世話をしました。
そのため、団平は、安心して心のままに芸道に専念することができました。
千賀女には、創作の才がありました。
壷坂の台本は千賀女の手になるものです。
その他にも彼女の作は多数あるらしく大和錦・猿ケ島・松前屋五郎兵衛・親鸞記などは団平との合作として知られています。
千賀女の人柄の一端は、映画:浪花女にもえがかれて、想像はできます。
むかし、文楽座関係の人を煩わし写真を見た人の言によれば「千賀女はよく肥った頗すこぶる大柄な女で気品もあり、十人並以上の美人」であったと伝えています。
千賀女の死は、今で言う疫痢で、死に瀕しても便をとってもらうことを承知せず、自ら便所に通うような無理を重ねたそうです。
また、性質は「極端な神経質で、非常に敏感な女性で、小心なところもあり、はにかみや」であったと伝えられています。(no4623)
*写真:今朝(1/30)の我が家の梅
◇きのう(1/29)の散歩(11.749歩)
〈お願い〉
「ひろかずの日記」 http://blog.goo.ne.jp/hirokazu0630b
時々、上記の「ひろかずの日記」のURLもクリックください。