ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

大河・かこがわ(181) 播磨地方と赤松氏(2)・中道子山城の城主は誰?

2020-02-29 08:02:28 | 大河・かこがわ

 中道子山城は立派な山城です。

 それでは、①誰がこの城を築いたのか、②その時期はいつか、③いつまで続いたのか、ということが知りたくなります。

 まず、①の城を築いた人物を調べてみます。

    城主は誰?

    赤松氏則(赤松円心の四男)か? 橋新五郎か?

 城の築城者は、はっきりしているのが普通です。

 でも、志方の城山の場合は、はっきりしません。謎の城です。

   ◇『中道山城跡発掘調査報告書』より

 「・・・中道子山城跡の城主は、二つの城主説が考えられてきている。

 その一つは赤松氏則築城説であり、もう一つは孝橋(新五郎)繁広(たかはししげひろ)説である・・・」

       ◇『志方町誌』より

 「・・・中道子山は俗になまって「ちゅうどうさん」と呼び、城山と呼ばれる場合が多い。(中略)『志方荘古城図附註』のみは、「至徳中、赤松円心の四男氏則(うじのり)、始めて之を築く」としているが、その他の諸書はみな、孝橋新五郎繁広の築くところとして天正の頃まで四代相続したとしている。(中略)

 氏則がこの城に入ったのは至徳年間(1384~86)あるいはそれ以前で、天神城(志方町西飯坂)を築いて、しばらくそこにいて後、この中道山子山城を築いて入ったものと思われる。

 (中略)至徳から応仁までの80年間の城主については詳しくはできないが、おそらく赤松の一族のたれかれが、たちかわり住したと思われる。

 孝橋(たかはし)新五郎この人が、中道子山城を築いたという記録は『播州諸城交替連綿記』以下諸書の一致するところである・・・」

 二書とも「中道子山城の築城者は赤松氏則か孝橋新五郎と考えられる」としています。

 『志方町誌』では、赤松氏則に若干分が悪い。

 さらに、この二人を追うことにしましょう。(no4888)

 *写真:城山山頂の「赤松城址」と刻む碑

 

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大河・かこがわ(180) 播磨地方と赤松氏(1)・中道山子城

2020-02-28 10:02:51 | 大河・かこがわ

 東播磨の中世史は赤松氏なしには語ることはできないのですが、かんじんの赤松氏の東播磨にいての活動は、はっきりわかりません。

 語られている少しだけを紹介しましょう。

    赤松氏と中道子山城(1)

 志方の城山は、標高271.6㍍の山で、特に登るのに躊躇するほどの山でもありません。

 東播磨の中世の歴史を語るとき、赤松氏を抜きには語れません。

 中世ここに赤松氏のお城がありました。

 いろいろの書物をあさってみました。

 が、「中道子山城」の名は知られているわりに謎だらけの城です。

     中道子山

 この270㍍の城山の名前本当の名前は「中道子山(ちゅうどうしさん)」です。

 中道子の「子」は「寺(字)」が変化した読み方だといわれています。

 もともと、この城山の頂上の一角に「中道寺」という寺があったようです。

 安楽寺(細工所)の由来に「西暦811年、弘法大師(空海)の孫弟子の真詔上人が詔勅を受け、大日如来像を彫刻し中道子山上(今の城山)に一宇を設立し、真言宗無量寿院と号す」とあり、安楽寺は、無量寿院から始まるとしています。

 安楽寺さんにお叱りを受けそうですが、安楽寺だけでなく、寺伝は一般的に「あやしげな」記述が多いので、数字・固有名詞はここでも若干疑っておきます。

    志方町の大パノラマ

 城山は、東志方の東北部に位置し、南は平野をへだてて飯盛山、高畑の前山に対しています。

 北は札馬(さつま)の谷をへて、大沢、畑の山に伸びています。

 志方城に登ると志方の大パノラマが広がっています。

 戦略上、絶好の位置にあったことが想像されます。(no4887)

 *写真:城山(中道子山城)から南方のパノラマ

 

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大河・かこがわ(179) 播磨地方の中世・太子信仰(2)

2020-02-27 07:38:04 | 大河・かこがわ

     播磨地方の中世  太子信仰(2)

 前号で「鶴林寺は聖徳太子の創建ではない」と書きました。

 「聖徳太子は重要な寺ではない」ということでは決してありません。中世における当地方の精神的な支えとなった大切な寺です。

 『加古のながれ』(加古川市)が言うように「鶴林寺は庶民に支えられていた寺」でした。

 鶴林寺の江戸時代以前の歴史は、日本史上でも地震・飢饉・戦争は引き続きた時代でした。その上に重い税金がありました。

 庶民の生活は、ますます厳しさを増し、まさに末法の世のようだったのです。

 こんな時代では、人々は仏様に救いをもとめます。

 この時期、いろいろな仏様に救いを求めましたが、「聖徳太子は観音の生まれ変わりであり、この世を救ってくださるのだ」という太子信仰も大きな広がりました。

 私たちの地域の太子信仰の中心が鶴林寺でした。

 そのため、鶴林寺に一部には富裕な土豪の援助があったものの多くは庶民からの浄財が集まりました。

    鶴林寺は太子信仰の中心の寺

 その浄財により鶴林寺は支えらました。

 鶴林寺が国宝の本堂・太子堂をはじめとする文化財の宝庫であることはいうまでもありません。

 常行堂・行者堂・鐘楼・護摩堂・三重塔など主要な建造物のほとんとすべてが国または県の文化財に指定されているほか、アイタタ観音の名で親しまれている金銅仏の聖観音立像、釈迦三尊像とそれを守護する四天王像・重厚な一木造りの十一面観音像などの仏像彫刻や・扁額.天蓋.朝鮮 鐘・太鼓縁・厨子から聖徳太子像・慈恵大師像・弥陀三尊像・聖徳 太子絵伝などの絵画類に至るまで、その種類か多種多様であることは特筆に価します。

 播磨の中枢の要地を占め、古来何度か近隣で戦争があったにもかかわらず、幸いにも兵火を免れてきたのは、本当に奇跡的なことといってよいでしょう。

 写真の本堂は国宝ですが、太子信仰の絶頂期の室町時代につくられた建築です。

 庶民の浄財がつくりあげた宝物と言えます。

 鶴林寺は聖徳太子と結び付けて紹介されるのが一般的ですが、庶民の信仰である「太子信仰」との関連で市民に紹介されるべきでしょうね。(no4886)

 *写真:国宝・鶴林寺本堂(室町建築)

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大河・かこがわ(178) 播磨地方の中世・太子信仰(1)

2020-02-26 09:30:49 | 大河・かこがわ

   

播磨地方の中世   太子信仰(1)

 鶴林寺は、法隆寺ではなく四天王寺(写真)から勧請し、創建された寺です。

 四天王寺は、法隆寺がもっぱら学問の寺であったのとは異なり、国家を守るという信仰と慈善事業済活動を中心として、実践的救済を展開することに力を注ぎつづけてきた寺院でした。

 四天王寺は、難波(なにわ)の港湾に面した立地に建つことから、外敵から守るという護国の大寺の役割をもっていました。

 その一方で、悲田院・施薬院・療病院を併設するなど慈善活動にも熱心に取り組みました。

 それが太子の理想の下に実現されていたことを考えるとき、鎮護国家思想の具現者としての太子の他に、太子は「観音」の再来であるという考えが大きなうねりとして広まりました。

 これが「太子信仰」です。この太子信仰が、大きなうねりとして広まったのは鎌倉・室町時代です。

 先に、鶴林寺を次のように紹介しました。

     鶴林寺は、聖徳太子の創建ではない

 鶴林寺は、その縁起によれば用明天皇二年(587)聖徳太子が秦河勝に命じて、ここに三間の精舎を建立し、高麗の僧恵便(えべん)を住持せしめ、百済の日羅(にちら)も当寺に住んだと伝えています(鶴林寺縁起)。 

 *用明天皇:聖徳太子の父

 「刀田山(とたさん)」という珍しい当寺の山号は、百済に帰国しょうとする日羅を聖徳太子が神通力で田に刀を林立させて妨げ、怖れをなした日羅に帰国を断念させたことによるといいます。 

 用明天皇二年といえば聖徳太子は15歳ばかりのころです。

 幼児から聡明をもって聞こえた太子にしても、大和から遠いこの地(加古川)に伽藍を建立させたとは思えません。

 現在の鶴林寺の寺域からは、飛鳥時代はおろか奈良時代にまで遡りえる古瓦は全く発見されていません。

 このことは、現在の鶴林寺域には奈良時代以前に寺院が存在しなかったことと考えられます。鶴林寺は平安時代の創建と考えられています。

 とすると、時代が合いません。

鶴林寺の寺伝(縁起)・鶴林寺の創建・太子信仰の広がりをもう少し整理する必要があります。(no2885)

 *写真:現在の四天王寺

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大河・かこがわ(177) 中世の石造物(19)・水主供養塔

2020-02-25 11:10:36 | 大河・かこがわ

  前回の「黒岩摩崖十三仏」で、「中世の石造物」を終える予定でしたが、高砂市の十輪寺の境内にある、水手供養塔(かこくようとう)を付け加えておきます。

    水手供養塔(かこくようとう)

 十輪寺(高砂町)を訪ねます。

 本堂の東側に、多数の石塔に囲まれた一基の大きな宝篋石塔(写真)があります。

 これは、1592年(文禄元)、秀吉の朝鮮侵略の際にかりだされて溺死した水手の供養塔です。

 この戦いに、高砂から100人が徴発され、帰国途中に96人が溺死したといいます。

 「文禄・慶長の役」とよばれる朝鮮侵略では武士のみでなく、多くの民衆が動員されました。

 「高麗へ渡り候へば、二度と帰らぬ・・・」とまでいわれ、多くの水夫・武士が死亡しました。

 この供養塔は、全国的にも貴重な民衆側からの朝鮮侵略を記録する石造物です。

 96の石塔群は、1730年に建てられた宝篋印塔より古いもので、村人が水手の死を供養するためにつくったものではないかといわれています。(no4884)

 *写真:水手供養塔(十輪寺)

 

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大河・かこがわ(176) 中世の石造物(18)・黒岩磨崖十三仏

2020-02-24 09:10:59 | 大河・かこがわ

 他に紹介したい中世の石造物はたくさんありますが、高砂市曽根町にある珍しい黒岩磨崖十三仏を最後に紹介して、シリーズ「中世の石造物」を終えることにします。

    黒岩磨崖十三仏

 自然に露出した岩壁に仏像を彫ったもので、山間の岩面に各種の仏像が彫られ、密教の影響があるといわれています。

 「十三仏」の磨崖仏です。

 曽根町の日笠山東麓の、いわゆる「黒岩磨崖十三仏」は、磨崖仏(まがいぶつ)としては、山間でなく、人家近くにあるということや、銘が彫られているという点が珍しく、しかも、十三仏が麿崖仏として刻まれているのは他にあまり例がありません。

   一人の尼が逆修供養のために刻む

 日笠山麓の黒昧がかった岩の一面を二段に長方形に分け、上段に勢至(しせい)、阿弥陀、阿閦(あしゅく)、大日、虚空蔵(こくぞう)の五尊像、下段に不動、釈迦、文殊、普賢、地蔵、弥勒、薬師、観音の八尊像を浮彫しています。

 左端に「十一月二十八日干時永正二年丑建施尼敬白」と銘文があり、永正二年(1505)の年号から室町時代中期の作とわかります。

 十三仏とは、死者の追善の法事を修めるとき、その年に配当された十三仏菩薩をおがむもので、日本独特の民間の一つです。

 十三仏は、室町時代に最も多くつくられており、この十三仏信仰が完成したのは南北朝時代といわれています。

 室町時代中ごろに一人の尼が逆修供養(注)のため、一生かかって刻んだものと考えられます。

  注:逆襲供養(ぎゃくしゅうくよう)

 「逆修」は、「死の前に、あらかじめ自分のために仏事を修めて、死者の冥福を祈ること」です。(no4883)

 *写真:黒岩磨崖十三仏

 

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大河・かこがわ(175) 中世の石造物(17)・こけ地蔵

2020-02-23 07:58:50 | 大河・かこがわ

 今回は平荘・上荘町の石造物を離れて東神町(天下原)の「こけ地蔵」とその伝承を紹介しましょう。 

   こけ地蔵

 平安時代は、「鬼」や「もののけ」が信じられ、呪詛(じゅそ)が広く行われていました。

 その役割を担ったのが陰陽師でした。

 良く知られている陰陽師は、阿部清明(あべのせいめい)であり、それに対抗した陰陽師は、西神吉町岸に生まれたという蘆屋道満だったのです。

 道長との対抗に敗れた道満は播磨へ流罪となり、晩年は西神吉町岸の近くで余生を過ごし、亡くなったといいます。

 道満は、式神たちを井戸に閉じ込めて上京したままでした。

 主人の死も知らず井戸から式神たちは、赤い火の玉となり飛び出し道満を探しました。

 ある夜、井戸から飛び出した火の玉は、天下原(あまがはら)の空を横切り、むかし修業をした古墳に近づきました。

 *式神(しきしん・しきがみ)・・・陰陽師の命令に従って、呪詛・妖術などをおこなう鬼神

 式神は、そこに懐かしい石棺の蓋があるのに気づきました。

 石棺の蓋には、地蔵の姿がありました。

 式神と地蔵は、「お前は石棺だ・・・」、「俺様は、地蔵だ・・・」とお互いに言い争ったのです。

 火の玉は、地蔵に体当たりし、地蔵は、前に傾きました。

 村人は「お気のどくに・・・」と立て直すのですが、朝になるとまた地蔵は倒されているのでした。

 こんなことが繰り返され、地蔵は前に少し傾いたままの姿となったといいます。

 そのため、この地蔵は「こけ地蔵」と呼ばれるようになりました。(no4882)

 *『郷土のおはなしとうた(第3集)』(加古川市教育委員会)参照、写真は天下原にある「こけ地蔵」

 

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大河・かこがわ(174) 中世の石造物(16)・地蔵寺の石仏

2020-02-22 08:34:11 | 大河・かこがわ

    地蔵寺の石仏

 池尻(平荘町池尻)の集落の西に接する山麓に、一段高く地蔵寺があります。

 山門を入ると左側に、二基の石棺仏(写真)が並んでいます。

    大日一尊種子板碑

 向かって右の石仏は地蔵像です。

 この地蔵像の背面に大日如来を表わす図のような梵字が彫られています。

 それが大日一尊種子板碑です。

 写真では、はっきりしないので、石仏の散策の時にでも確認してください。

 この梵字の下に、弘安四年(1281)四月廿日の銘があります。

 前回紹介した西山の「阿弥陀一尊板碑」とおなじ年の造立です。

 同じ製作者の作だろうか?

 写真の右側の地蔵像は、その板碑の背面に彫られている。

 時代は鎌倉後期です。

 石棺の部材を利用した板碑の裏に他の石仏刻んだ例は他にありません。

    六地蔵立像

 写真左側の石仏は六地蔵です。八体であるのに六地蔵とは不思議に思えますが、下の男女二体の像は、供養者の像です。

 銘はないが、これも、鎌倉後期の石仏といわれています。

 供養者は、どんな人物でしょうか。このような立派な像は宗教心だけではできるものではありません。

 当時、この近辺に経済力をもった人物がいたことを知ることができます。(no4881)

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大河・かこがわ(173) 中世の石造物(15)・西山(平荘町)の板碑

2020-02-21 09:32:02 | 大河・かこがわ

      西山の板碑 

 西山(加古川市平荘町)の地蔵堂の奥に二枚の板碑(写真上)があります。 

    阿弥陀一尊板碑

 まず、向かって右の小さい方の板碑に注目してください。写真では、はっきりしないので、拓本(写真下)で確認します。

 組み合わせ式石棺の底石に、阿弥陀を表わす梵字を刻んでいます。

 そして、左中央に弘安四年(1281)の銘があります。

 弘安四年は、二回目の元寇(弘安の役)の年です。 随分古い年代の板碑です。

     阿弥陀三尊板碑 

 この板碑に向かって左の大きな板碑は、組み合わせ式石棺の底石に梵字で阿弥陀三尊を刻んでいます。

 時代を確認できる銘がないのですが、右の板碑と同じ形式で彫られており、同年代の板碑としてほとんど間違いがないと思えます。

 地蔵堂の奥にはこれらの板碑だけでなく、板碑や石仏の残欠がたくさん集められています。

 どれも時代を感じます。それにしても西山から里の山条にかけての高台に古い時代の石造物が多いのには驚かされます。

 これは何を意味するのでしょうか。(no4880)

*拓本は、『加古川市史(第七巻)』より引用

 

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大河・かこがわ(172) 中世の石造物(14)・常楽寺(上荘町井ノ口)の笠塔婆の阿弥陀さん

2020-02-20 09:59:14 | 大河・かこがわ

    常楽寺(上荘町井ノ口)、笠塔婆の阿弥陀さん 

 常楽寺(上荘町井ノ口)は、日光山の霊園の近くにある古刹です。

 常楽寺の参道の入り口近くに、たくさんの石造物(写真)があります。

 この付近で見つかった石造物がここに集められているようです。

 写真の笠塔婆(前列向かって左から二番の石仏を彫った石造物)を見てください。

 この石造物は町石笠塔婆(ちょうせきかさとうば)と呼ばれています。

 *町石(丁石)・・・路傍に立てて目標物までの道程を何丁と記した石

  笠塔婆・・・塔身と笠の二部よりなる、後に笠の上に宝珠を飾るものが普遍化する。

 この笠塔婆のそばに次のような説明があります。読んでおきます。

 ・・・中央部の阿弥陀坐像を刻んだ笠塔婆は、日光寺(常楽寺)より一丁の距離であることが刻まれている。

 この笠塔婆は、元ここから一丁(約109㍍強)のところにあったらしい。

 阿弥陀さんの下に銘文がある。

    自日光寺一丁

    永徳二八廾南阿

 「永徳二八廾南阿は、永徳2年8月20日、南無阿弥陀仏」のことで、珍しい刻み方である。

 

 永徳2年は、1382年で南北朝時代の石造物です。

 日光寺とあるのは、常楽寺は、もと日光寺と呼ばれていたのでしょう。

 それにしても、中世にさかのぼる古い石造物が上荘町・平荘町には、表現は悪いがゴロゴロしています。(no4879)

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大河・かこがわ(171) 中世の石造物(13)・長楽寺(小畑)の石棺仏

2020-02-19 09:37:37 | 大河・かこがわ

    長楽寺(小畑)の石棺仏

  小畑(平荘町小畑)の長楽寺を訪ねた時は、暖かな日差しの中にありました。

 本堂が南面しています。

 その左側が墓地で、墓地の南に手入れの行き届いた竹林があり、竹をわたる風の騒ぎがここちよい。

 

 墓地の西端に六地蔵(写真)があります。

 下部を埋めて建っています。

 家型石棺の蓋の内側に彫られ、地面からの高さ183センチの堂々とした石棺仏です。

 石棺の蓋の外側は写真下のようです。 

 正面の縁取りした内部の平面に、二列三段に六地蔵を配しています。

 それにしても、六地蔵の刻み方は複雑で、坐像、立像そして上部の二体だけが蓮華座であり、光背部も二種の違った形式で刻んでいます。

 説明板(加古川市教育委員会)は、南北朝時代の石仏であると説明しています。

 なお、石仏の前に小形の「くりぬき石棺」の身の部分があります。(no4878)

 

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大河・かこがわ(170) 中世の石造物(12)・「見土呂姫」の伝承

2020-02-18 07:47:16 | 大河・かこがわ

     見土呂姫(みとろひめ)の伝承

 上荘町見土呂(みとろ)山条のお堂の横にみごとな石棺仏(写真)があります。

 この三体の石仏には、次のような話が伝えられています。

 お堂にその説明があるので読んでおきます。

 (注:一部書き変えている)

     「見土呂(みとろ)」姫

 赤松円心の砦として室町時代の初めに井口城がつくられた。

 その後、井口城は、赤松満祐(みつすけ)の支配下におかれた。

 当時、城主は井口家治(いえはる)であった。

 家治の娘は、心やさしい美しい見土呂姫だった。

 井口家に出入りしていた若者は、姫のあまりの美しさに心を奪われた。

 ある年の「月見の祝」の時だった。

 若者は、やっと姫に近づくことができ、思いを告白したが、断られてしまった。

 絶望のあまり若者は、姫を殺してしまった。そして、裏山に埋めた。

 しばらくして、そのことを知った村人は姫の死を悼み、この石仏を立てたという。

 

 実話と思えませんが、こんな見土呂姫の悲話を伝えています。

 現在の「みとろ荘」のある場所に井口城はありました。

 南北朝時代、この地域は赤松氏の支配する地でした。(no4877)

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大河・かこがわ(169) 中世の石造物(11)・ほほえみ地蔵

2020-02-17 07:39:25 | 大河・かこがわ

     ほほえみ地蔵

 昭和54年、西山(加古川市平荘町)の墓地で二基の仏たち(写真)は発見されました。

 見つけたのは西山在住の藤原良夫さんで、ウルシやツタが生い茂った中で見つけられました。

 二基のうち写真右の一基は、「ほほえみ地蔵」として知られています。

 お祭りの夜、ゆれる灯明の明かりに照らされると、お顔が、にっこりと笑っているように見えたところから名づけら

れたと言います。

 ほほえみ地蔵は、「線刻地蔵板碑」という厳しい名前を持っています。

  像は線刻のため写真では、はっきりしないため拓本で確かめください。

 説明板(加古川市教育委員会)を読んでおきます。

「この板碑は、古墳時代の家形石棺の身の底の部分を再利用し、線刻で蓮華座上に立つ地蔵菩薩を彫り出した珍しいものです。

 地蔵像の左右に銘文があり、応長元年(1311)9月に造られたことが分かります。

 ・・・(一部略)・・・

 制作年代が明らかなこの板碑は、この地域の特徴である、いわゆる石棺仏であり、線刻で仏像が表現された鎌倉時代の石造品としては県内唯一の例と考えられるものです。「ほほえみ地蔵」と呼ばれ、親しまれています。・・・・

 口元がかすかに笑っておられるようです。

 それにしても、この地域(平荘町)に古い石造物が多いのは驚きです。(no4876)

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大河・かこがわ(168) 中世の石造物(10)・双石仏と四尊石仏残欠

2020-02-16 08:57:28 | 大河・かこがわ

      双石仏と四尊石仏残欠

 前号と同じ敷地内にある地蔵堂の隣の地蔵堂の石仏を訪ねます。

 二基の石仏があります。

 左側の石仏(写真上)には、高さ50cm・幅53cmで立像(地蔵)と坐像(阿弥陀)が彫られています。

 右側一基(写真下)には、高さ約63cm・幅53cmの石棺に四体の阿弥陀坐像が彫られています。

 これらの石仏について、説明板(加古川市教育委員会)を読んでおきます。

 ・・・堂内にある二面の石仏も石棺の側石にそれぞれ仏像を彫ったもので、一面は阿弥陀像と地蔵、もう一つには阿弥陀三体(欠けたた部分に一体があり、本来は四体)が彫られており、造られたのは二面とも南北朝から室町初期と思われます・・・

 説明板にあるように、これらの石仏は、隣の地蔵堂の四体石仏も含めて、全て一枚の石板に数体の仏像を刻んだ石棺仏です。

 この特色を持つ石仏は平荘町に多く分布しており、この地域の特色です。

 養老の地蔵堂の石仏たちは、近くで見つかった仏たちを寄せ集めたようです。

 一時は橋に利用されたり、長い間忘れ去られたりで、数奇な運命をたどっているようです。

 現在、養老の石仏たちは地域の人々に見守られています。

 〈余話〉

 かつて、これらの石仏は「中村の地蔵様」として親しまれていた。

 明治10年12月、中村と芝村が合併して新しい村「養老」が誕生しました。

 命名にあたり芝村の有力者・滝氏にちなんで養老としました。(no4875)

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大河・かこがわ(167) 中世の石造物(9)・四尊石仏(平荘町養老)

2020-02-15 08:35:06 | 大河・かこがわ

    四尊石仏(平荘町養老

 平荘町養老の西の端に、同じ敷地内に二つの地蔵堂があります。

 きょうは、地蔵堂に向かって左の四尊石仏(写真)を訪ねてみます。

 こんな話があります。

 ・・・ある時、村人が牛(馬)を引いて、この石橋を渡ろうとすると必ず急に牛(馬)の足が動かなくなってしまう。

 村人は、不思議に思いました。

 ある時である、村の女の人が洗濯をしていると、小川に架かる橋の下の辺りの水面に仏様の姿をみつけました。

 村人は、驚いて石橋を起こしてみると、この四体の像を刻んだ仏様のお姿があらわれました・・・・

 『加古川市史(第七巻)』でも、「この石仏はもと西山から養老に通じるあぜ道の橋にしていたのを仏様の像があるので、現在の場所へ移したものである。

 正面が黒色を帯びているのは、長い間祀られたもので、香煙によるものである」と記述されています。

 説明板(加古川市教育委員会)によれば南北朝(14世紀)としていますが、田岡香逸氏は、『加古川市史(七巻)』で「おそらく室町時代のものとしてもおそく、1550年をさかのぼるものではない・・・」と述べておられます。

 四体は、阿弥陀像です。

 次回は、向かって右の地蔵堂の石仏を訪ねてみましょう。(no4874)

 

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