ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(129)ここは、ナビツマの島

2015-02-19 10:01:07 |  ・高砂市荒井町

   ここは、南批都麻の島(御所殿神社)

 奈良時代に書かれた『風土記』に、南批都麻(なびつま)島が登場します。そして、そこに住んだ印南別嬢(いなびのわきいらつめ)を祭ったのがこの御所殿神社(ごしょどのじんじゃ)であるといいます。

 場所は、荒井町3丁目小松原ですが、なにせこの辺りは迷路のようで捜しにくい場所で、見学するには住宅地図が必携です。

 神社に説明板がありましたので一部を読んでおきます。

 「・・・風土記に見える景行天皇(こうこうてんのう)が印南別嬢命(いなびのわきいらつめのみこと)を求婚される舞台となった南批都麻という島が荒井を中心とするこの地である。・・・」

  南批都麻島と印南別嬢のロマンス

 「ナビツマの島」の物語です。

 奈良の都から一人の役人が、加古の里に派遣されてきました。

彼は、里の女性と結ばれ、女の子をもうけました。

 名を印南別嬢といい、美しい女性に成長しました。

 噂は、時の天皇(景行天皇)にも聞こえ、妻に迎えるため加古の地へやって来ました。

 別嬢の胸が高なりました。どうしてよいか分かりません。“南批都麻島”に身を隠しました。

 加古の松原に着いた帝は、別嬢を探したが見当たりません。

 そのときです。島に向かって、一匹の白い犬が寂しげに鳴いていました。天皇は「誰の犬か」とたずねると、土地の人は「別嬢の犬である」と答えました。

 天皇は、舟をつくり島に渡たり、そして別嬢と幸せな生活を始めました。

 これは物語ですが、研究者は、ナビツマの島は実在し「加古川の堆積により出来た三角州であろう」と結論づけています。

こんな物語を読んで、御所殿神社を訪れるのも楽しいですよ。(no2704)

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高砂市を歩く(128) どろま地蔵

2015-02-18 07:13:19 |  ・高砂市荒井町

   どろま地蔵

 この地蔵堂(どろまさん)は、荒井町小松原の集落のど真ん中にあります。

 特別な意味がありそうです。

 それにしても、「どろま地蔵」とは不思議な名前です。

 「どろま地蔵」を調べようしましたが、何も分かりません。

 「紹介するのをやめよう」と思ったのですが、なぜか名前にひかれてしまいました。

 この地蔵さんについてご存知の方は一報ください。

   小松原の人々と苦楽を共に

 「どろま」というのであるから、「泥」に関係しているのでしょう。

 連想ゲームではないのですが、小松原・泥(どろ)の次には、自然と「洪水」のことを考えてしまいます。

 「高砂市を歩く(126)」の地図をご覧ください。

 小松原の東に加古川が流れ、北には洗川が流れていました。そのうえ、西には法華山谷川があります。

 小松原は、「水に恵まれていました」が、同時にこれらの川は暴れ川でしばしば氾濫し、小松原の集落を襲いました。

 そんな時、集落は泥「どろ」に埋もれてしまいました。でも、小松原の先人は負けませんでした。

 しかし、へこたれそうになったこともありました。

 そんな時、人々は、地蔵さんにお願いをしたに違いありません。

 地蔵さんは集落の真ん中で、いつも小松原のひとびとをやさしく見守っていたのでしょう。

いつとはなしに、この地蔵さんを「どろま地蔵さん」と呼ぶようになりました。

 「どろま地蔵さん」は、小松原の人と共にあった地蔵さんだったのでしょう。

 これは勝手な想像です。この地蔵についての伝承等をご存知の方はお知らせください。(no2703)

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高砂市を歩く(127) 大福寺の石塔

2015-02-17 07:40:58 |  ・高砂市荒井町

   大福寺の十三重の石塔

 小松原に根づいた赤松次郎は、小松原兵庫守則時(盛忠)と名のり、その菩提寺を大蔵寺(今の大福寺)にしたといいます。

 山門すぐ左の鐘楼脇にある石塔は鎌倉末期の作といわれ、現在欠落して十二層になっています。

 しかも、地震か兵火で倒れたのか、上半分の傷みが目立ち、風で笠石の角々は丸味を帯び、項部の相輪は崩れています。

 でも、堂々とした風格を持つ石塔です。

    奇数・偶数

 今日は、奇数を偶数について考えてみます。

 昔、中国では奇数を偶数(陰数)に対し、陽数つまり、良い数字とし、そして月と日が重なる日を特に縁起の良い日としました。

 3月3日(ひな祭り)、5月5日(子供の日)、7月7日(七夕)とみごとに奇数のオンパレードです。

 奇数のうちでも9は最高の陽数であり、9月9日(重陽)は、1年中でもっとも縁起の良い日とされた。

 石塔も例外ではありません。すべて奇数で、偶数の塔はありません。(no2702)

 *写真:大福寺の十三重の石塔

 

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高砂市を歩く(126) 喧嘩島

2015-02-16 09:00:34 |  ・高砂市荒井町

   喧嘩島(けんかじま)

  右の地図(明治28~31頃)をご覧ください。

 伊保村と荒井村の間に島があります。

 この島が今日の話題の喧嘩島です。

 洗川の河口近くに小さな砂州が生れ、それは、やがて小さな島となりました。

 後に、この場所に高砂市役所が建てられました。

 砂州であるこの島をめぐって荒井村・伊保崎村と今市村の人々は、自分たちの土地であると主張し争いになりました。

 寛文七年(1667)、荒井・伊保崎両村のものとする裁定で結着したといわれますが、喧嘩島の名は、その後も地名として残りました。

 昭和二九年(1954)七月、町村合併で高砂市が誕生。

 三年後、洗川廃川敷の埋立てで荒井と地続きになったこの島に、市庁舎が完成しました。

 洗川を境に加古郡と印南郡が永らく分れていた関係もあり、地理的にも中央部にあたることもあって、この地に決めたといいます。

 荒井と小松原の北を流れるのが洗川です。

 これからもしばしば出てきますので、ご記憶ください。(2701)

 *画文集『高砂の史情(森村勇著)』参照

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高砂市を歩く(125) 荒井神社東の道標

2015-02-15 08:28:51 |  ・高砂市荒井町

   荒井神社東の道標

 「道標」は、町や村の辻や街並の分かれ口にみられる石造りの道路標識です。

 江戸時代になり、庶民の往来は盛んになり、交通の手助けになっていました。

 また、高砂は、松の名称地としてよく知られた所で、多くの旅人もここを訪れました。

 そのため多くの道標は造られています。

 なによりも、道標の材料になる石(竜山石)の産地ですから多いのは当然かもしれません。

 しかし、最近では交通の妨げになるとか、道路の付け替えの度に、多くの道標は潰されたり、移転されたり、その数はずいぶん少なくなっています。

 「高砂を歩く」で散歩中に見つけた、今に残るそんな道標も紹介することにします。

写真の道標は、荒井神社東の道にある道標です。

    読んでみましょう

(銘) 右 太可左ご

       を乃へ

      多衣之さん

   左 いし能宝天ん

     そ禰乃末門

 以上の道標の銘はどう読むのでしょうか。

 赤い字のように読んでください。まるで、クイズのようですね。

  (右)太可左ご(たかさご

     を乃へ(おのえ

    多衣之さん(たえしさん・鶴林寺のこと)

  (左)いし能宝天ん(いしのほうでん

    そ禰乃末門(そねのまつ

 *写真:荒井神社東の道標

   「ひろかずのブログ」が2700号になりました!

 「OCNブログ」は会社の都合で、去年の11月の終わりで終了してしまいました。

 ITに弱いお爺さんが始めた「ひろかずのブログ」ですが、昨年の10月の終わりで2.575号になっていました。

 そこで、「ひろかずのブログ」は、「goo」ブログに乗り換えて「高砂を歩く」を続けています。

 それも、125となりました。つまり、今日のブログで通算2.700になりました。

 もう少し続きますので、よろしくお願いします。

 

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高砂市を歩く(124) 小松原城址

2015-02-14 07:29:37 |  ・高砂市荒井町

 いま(13日・金)、三社大神社(荒井町3丁目)に来ています。

 風が、少しあります。それにしても冷たい。

 こんな日は、北の地方は大雪でしょう。

   小松原城址

 まず、右の図で三社大神社をさがしてください。

 この場所は、弘長元年(1261)、赤松次郎(小松原盛忠)が居を構え、その後一族は荒井、高砂をはじめその周辺に君臨した豪族の「小松原城址」です。

 城と言っても鎌倉、南北朝時代の城郭集落で、加古川と洗川を天然の外堀とし、集落の周囲に掘った人工の濠が内堀で、掘り上げた土の土塁が城壁の役をする程度のものであったと思われます。

 この図は、神社にある説明板からです。

 ここに「小松原城址」の大きな石碑と説明板がなければ、「小松原城があった」ことさえもわかりません。

 さいわい、石碑の横に、小松原城の説明と城を中心とする集落の図があります。

 発達した周濠や、迷路のように折れ曲がった狭い集落内の道が描かれています。

 寒かったのですが、思いきって、図の迷路になっている辺りを歩きました。

 確かに、ここは小松原の城があったことを今に伝えています。

 でも、この場所は、北に洗川、東に加古川に挟まれ、水には恵まれた土地ですが、洪水にやられやすい地形のようです。

 *図:三社大神社の境内の説明板より

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高砂市を歩く(123) 洗村から荒井村へ

2015-02-13 09:31:20 |  ・高砂市荒井町

  「荒井村」誕生・明治2241日 

 江戸時代、現在の荒井地区には荒井村と小松原村がありました。

 特に、荒井村は、江戸時代前半は塩業が随分盛んで、後半は綿作が盛んになった村でした。

 これらの2村は、明治22年4月1日、新しい村制により合併し、荒井村が誕生しました

 少し付け加えておきます。

   洗村から荒井村へ

 「アライ」の地名は、この土地が加古川の支流・洗川(あらいがわ)の末流左岸に位置したことから中世以降もっぱら「洗村」と呼ばれるようになり、後に「荒井村」に転化したようです。

 明治22年、村制施行に当たり旧名称をとり「荒井村」としました。

 そして、昭和29年(1954)7月1日、高砂町・荒井村・曽根町・伊保村が合併し、高砂市が誕生し、2年後の昭和31年(1956)9月30日、米田町(船頭・平津を除く)、阿弥陀村は高砂市に合併し現在にいたっています。

 なお、北浜村が、高砂市に合併したのは昭和32年(1957)3月10日のことでした。

 ここに、明治38年の荒井村の人口調査がありますので掲載しておきます。

 <米田村(明治38年12月)>

 男:1221人 女:1172仁 合計:2393人 戸数:420軒

 *図(荒井村)は、『兵庫県市町村合併史・上』(兵庫県総務部地方課)(昭和37)より

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高砂市を歩く(121) チドリ(1)・千鳥橋

2015-02-11 09:16:30 |  ・高砂市荒井町

  咳がひどかったのですが、9日(月)、午後ブログの取材で荒井神社へ出かけました。

 折悪しく、風は、あまりないが冷たい一日でした。

 そのためか、夜は咳きで寝つけませんでした。

    千鳥橋

 荒井神社の前の道は、西への一方通行のためその方向へ運転すると、すぐに、法華山谷川に到着です。

 そこに架かる橋の名前は「千鳥橋」です。

 なるほど、荒井神社の住所は荒井町千鳥であるから「千鳥に架かる橋からついた名前だろう」と、「ボー」と、無感動に橋のプレートを見ていました。

 体がしんどいため、こんな無感動なことを考えていましたが、ふつう、命名とはそんな感動のないものでもないはずです。

 ここに千鳥橋が架けられたのはそう昔ではないであろうと想像しますが、その頃はチドリがこの辺りに、いっぱいいたのでしょう。

    さしのぼる加古の湊の夕汐に

            松原こして千鳥なくなり

 と新続古今和歌集にも詠まれています。

 水門(みなと)と呼ばれた川岸は格好の餌場で、潮の干満でチドリは移動しました。

 洗川の広い河川敷や散在する池・沼に隣接した荒井には、持にチドリが多くいたので、町の象徴になったと想像します。

 浜も町の様も大きく変ってしまった。

 チドリは、工場の群れに追い出されたのです・・・そんなに遠い昔の話ではない。

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高砂市を歩く(120) 荒井千軒

2015-02-10 09:14:53 |  ・高砂市荒井町

     荒井千軒

  〝荒井千軒 塩焼く浜は………〝。

 とうたわれる荒井は、寛延二年(1749)の調べでは家数915とあるから、まさに荒井千軒で塩浜も広かったと想像されます。

 きのう(9日)、風邪で咳きこみながら、荒井神社に荒井村の「塩」の痕跡を見つけに出かけました。

 塩で栄えた昔の面影はとこにも見られません。

 説明板には祭人等の神社の由来はあったのですが、塩に繋がる説明がありません。

 少し寂しい。

  荒井神社は、塩で栄えた村の鎮守さん

 荒井城主(第7代)・杉岡惣太夫(道西)は、叶屋と称して、塩田の開発と製塩技術の向上に努めたといいます。

 その孫・叶屋宗閑の頃は江戸でも名の通る上質の“荒井塩”で村も繁栄しました。

 塩浜に向って建つ荒井神社は塩で栄えたこの村の、鎮守の神様であったのでしょう。

 荒井神社の周辺の南北の道の先は塩田に通じていたようです。

 その広大なむかしの塩田跡は、今はすべて工場となり、塩焼く煙に代って大小の煙突ばかりです。

 塩田に建つ工場の中で、塩とかかわりの深い醤油工場が早くから進出し、今なお活動しているのが塩浜に対してせめてもの慰めです。

 *『高砂の史情』森村勇

 *写真:荒井神社

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高砂市を歩く(119)  高砂塩の盛衰

2015-02-09 09:02:12 |  ・高砂市荒井町

   高砂塩の盛衰

 荒井の塩業は、ずいぶん盛んであったのですが、18世紀の前半より急速に衰えていきました。

 その原因として、次のような理由が考えられます。

 そのもっと大きな原因としては、加古川の水流と堆積作用により、塩の付き具合が悪くなり、塩の生産効率が低下したためです。

 そのため、塩田経営の中心地は、しだいに加古川の影響の少ない曽根・大塩・的形に移っていきました。

 そして、荒井の塩田は、宝永年間(1704~11)までに大半が田畑になっていきました。

 高砂から、多くの塩浜が消えていったのですが、衰えたとはいえ18世紀後半においてもわずかであるが続いていました。

曽根町では、わずかですが昭和20年代まで残っていました。

   塩田(荒井村)の発達した理由

 荒井村で、比較的に早く塩田が開発されたのは高砂の浜が遠浅で地理的な条件が良かったともさることながら、荒井村で開発された入浜式塩田の構築技術にありました。

①    塩田の堤の用材として、竜山石の入手が容易であったこと。

②    姫路城の築城の技術活用されたこと。

③    加古川流域含め、塩の市場が拡大したこと。

 以上のようなことがその理由です。

 それでは、消えた多くの塩田の跡はどうなっていったのでしょう。

 これは、後に詳しく述べますが、姫路藩の経済方針と関わってきます。

 その多くは、綿作地に変わっていきました。

 *写真:曽根町の塩田風景(昭和20年代)

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高砂市を歩く(118)  高砂の塩業

2015-02-08 10:17:46 |  ・高砂市荒井町

   高砂の塩・塩物

  江戸時代の高砂は、加古川河口の商品の集散地として栄えました。

 もともとは、蔵米(年貢米)の積み出し地として建設された港町であったため、取扱品の中心は年貢米でした。

 これら年貢米は、高砂の大蔵元を通じて売りさばかれました。

 ところで、米に次ぐ高砂港の主要作物は、何だったと想像されますか。

 ある時期まで、なんと塩と塩物でした。

 『高砂雑』によると、「・・・赤穂の人・赤穂屋徳兵衛は塩業に精通しており、領主・池田輝政の命によって高砂に来て塩の問屋をいとなみ、江戸時代初期の頃、荒井・小松原の一帯はほとんど塩田になり、販路を京阪の地に求めて、荒井塩の名は名声を高めた・・・」と記しています。

 やがて、高砂における塩業は加古川の舟運と共に加古川の奥地にまで広がっていきました。

  元文年間(1761~73)に高砂に塩座が置かれてからは、ますます塩業は盛んになりました。

 『赤穂塩業史』によると、輝政は慶長5年から同9年までの間に播州・荒井塩を開発した・・・」と書いています。

   荒井の塩業技術、赤穂塩の改良に

 その後、「六右衛門という人物が荒井で塩業を開き、その後赤穂・撫養(徳島県)に塩業を伝えた」と『印南郡史』は、記しています。

 これを裏書きするように、『赤穂塩業史』にも、荒井の技術が赤穂に伝えられた・・・」と書いています。

 荒井では、塩田の技術が進んでいたようです。

 *写真:塩田の風景

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