不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(175) 県重文の「旧入家」、4・5日一公開

2017-11-04 18:07:13 |  ・高砂市曽根・北浜町


 

 

 

 今日と明日、旧入江家が一般公開されています。

   行ってきました。なお、図は現地で頂いた旧入江家の見取り図で、写真は、新聞と異なり、現地で撮影したものです。

   県重文の「旧入家」、4・5日一公開

 兵庫県指定重要文化財の「旧入江家住宅」(高砂市曽根町)が4、5日、一般公開される。公開は年1回で、今年は「かほうのびょうぶ展」と題し、地元出身の日本画家梅谷華邦の屏風など計約10点を展示する。

 塩田経営で栄えた入江家が住んでいた同住宅は、江戸時代後期の建物で、主屋は1785年に建築された。2001年に入江家が土地と建物を市に寄贈し、市教委が7年前から毎年公開している。

 今回が初公開となる梅谷の屏風2点は、親族が今年7月に市に寄贈した。コスモスとあでやかなクジャクがモチーフの作品と、初夏に赤く色づいた桜の葉とスズメを描いた作品。ほかに入江家で使われていた屏風や茶わんなども展示される。

 無料。午前10時~午後4時。曽根天満宮の駐車場が利用できる。旧入江家住宅TEL079・447・0224(会期中のみ)(小尾絵生)(no3772)

 *写真:味わい深い展示される旧入江家(住宅)

 *図:入江家配置図

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なんなる(めずらしいお正月の行事)

2016-01-05 08:07:26 |  ・高砂市曽根・北浜町

     明けましておめでとうございます

 ことしも、「ひろかずのブログ」にお付き合いください。よろしくお願いします。

 今年は、楽しい(めずらしい)話題からブログ始めることができました。

 昨年の3月10日のブログで高砂市北浜町西浜の「なんなるの宮」を訪ねました。そのとき、1月3日に行われる楽しそうな(めずらしい)行事をのことを知りました。

 今年の1月3日には、ぜひ訪ねたいと計画していたところ、地域の自治会の役員の方のお世話で、この行事に参加させていただくことができました。

 参拝の方に写真の許可までいただくことができました。ありがとうございました。

 以下の「なんなる」の説明文は、役員さんからいただきました。

     なんなる(めずらしいお正月の行事)

  (高砂市北浜町)西浜では、昔から正月3日に大歳神社で「なんなる祭り」が執り行われる。

 前年に生まれた男の子を、大塩天満宮の宮司にお祓いをしてもらった後、鼻をつまんで泣かせ、「泣き声」を神様に聞いてもらい、ご加護を授かるという伝統行事である。

 古老の言い伝えによれば、西浜村に男の子が生まれると、この神社の境内に棲む魔物にさらわれるため、村民一同、困惑していた。

 よって、正月3日に、前年に生まれた全てのお男の子を参詣させ、鼻をつまんで泣かせて帰ることにしたら、その後、この災難は無くなったという。

 古来より村人はこの風習を「なんなる」と呼んで継承している。

 名の由来は、「泣き声を神様に聞いてもらい守ってもらったら災難がなくなるということから、縮めて「難が無くなる」、訛って「難無(なんのう)なる」、それを村人はさらに言いやすく「なんなる」と呼んだものと思われる。(no3072)

 *写真:「なんなるの宮」での行事。宮司(中村要さん)が、昨年生まれた赤ちゃんの鼻をつまみ泣かせているところ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高砂市を歩く(173) 松村川の桜

2015-04-03 09:48:36 |  ・高砂市曽根・北浜町

   松村川の桜

 4月に入り、「高砂を歩く」では阿弥陀町の歴史散歩を始めました。

 今回に限り、もう一度曽根町に戻ります。

 というのは、きのう松村川の土手を歩きました。桜が見事でした。桜は満開です。

 が、でも少し変なんです。

   松村川

 松村川は、伊保町と曽根町の境界になっている川です。

 昔、梅井(伊保町)と松村(曽根町)の境界は低湿地で、川には「渡し」があったといいます。

 また、この近くに沼田(松陽1~3丁目)とか古沼(伊保崎2丁目)という地名が残っていたことから、流れもゆるく、けっこう広い川尻の湿地帯だったようです。

 いまは、川をまたぐ発電所からの高圧線鉄塔が川をまたいで林立した、味気ないまっすぐな川で曽根港に通じています。

 そんな松村川も、一瞬輝きます。

 それが、いまの時期で、みごとな桜並木です。

   ミスマッチな風景

 でも少し変なんです。

 この桜の辺りで弁当をひろげて花見をしようとする人は少ないようです。

 きのう(2日・木)は、20度を超えて絶好のお花見の陽気でした。

 道行く人もなぜか、「わあ!綺麗・・!」という感じではないんです。

 高圧線の鉄塔が、桜の風景を壊しているようです。

 あまりにも人工的な構造物(鉄塔)が桜と溶け合っていません。(no2750)

 *写真:松村川の桜と高圧線の鉄塔

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高砂市を歩く(170) 松村の地蔵

2015-03-31 08:25:37 |  ・高砂市曽根・北浜町

   松村の地蔵さん

  松村(曽根町)の大歳神社の東隣に地蔵堂があり、そこに、写真のような像の地蔵様が祀られています。

 正面からは、後背がとがって屋根型となり、その下は、廂(ひさし)のように張り出しています。全体として板碑のような感じです。

 総高95センチ、像高30センチの像で、南北朝から室町初期ごろの造建といわれていています。

 この地蔵さんは珍しいことは、本尊の下にさらに「二体の坐像合掌仏」が刻まれています。

 『高砂市の文化財(石造篇)』は、下の二体のお像を仏像とされていますが、この二体は、仏ではなく信心深い夫婦と考えるのです。

 つまり、この二体の像は、自分たちの祖先を供養するために、この像を創建した夫婦の像と考えます。

 供養者はどんな人物でしょう。このような立派な像は宗教心だけではできるものではありません。

 当時、この近辺に経済力をもった有力者が創建したのでしょう。

 (*間違っていましたらご指摘ください)

   エノキの老木は枯れた

 なお、この地蔵堂の西隣りに、安産の神として信仰を集めた大歳神社があます。

 大歳神社には、最近までエノキの老木があり、近在によく知られていたのですが、いまは枯れて、その後に松が植えられています。(no2747)

 *『高砂の史情(森本勇著)』・『高砂市の文化財(石造篇)』参照

 *写真:松村(曽根町)の地蔵

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高砂市を歩く(169) 五間道(曽根町)

2015-03-30 07:22:18 |  ・高砂市曽根・北浜町

   鉄道、加古川・宝殿・阿弥陀を走る(明治21年) 

 明治21年に開通した山陽鉄道(現:JR山陽線)は、最初から加古川を通るように計画されていたものではありません。

 当初は、東二見(明石市)・高砂・飾磨(姫路市)・網干(姫路市)の海岸線を通過する予定でした。

 しかし、高砂は、当時海運業を中心に発展した町で、彼らを中心に「鉄道敷設」に反対しました。「鉄道が敷かれると海運が衰える」というのが主な理由です。

 その結果、海岸に予定されていた鉄道は、加古川・宝殿・阿弥陀を走ることになりました。

 そして、大正2年(1913)加古川線・高砂線が開通し、今まで高砂に集まっていた物資が、加古川の町に集まるようになりました。

 鉄道を拒否した高砂の町の衰退は決定的になりました。

    五間道

 南の塩浜に向って発展した曽根村も、明治21年(1888)の山陽鉄道(山陽線)開通とともに、北に活路を求めました。

 明治35年(1902)には阿弥陀駅を曽根駅に改めさせました。

 大正から昭和にかけて県会議員であり医師でもある井内中正は、町内だけですが、道幅が5間(9㍍)という道路(写真)をつくりました。

 当時にしては驚くほど広い道であったのか、「五間道」の名が、今も残っています。(no2746)

 *『高砂の史情(森本勇著)』参照

 *写真:五間道(曽根町内の国道250号線)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高砂市を歩く(168) 寺の町・曽根

2015-03-29 08:45:49 |  ・高砂市曽根・北浜町

   寺の町

 曽根神社の北で、浜国道(県道718号線)の北辺りを歩きました。

 まちなみは複雑です。

 狭い道にそって沿いに高い塀や倉が続いている風景は、豪商の家屋敷の存在を感じます。

 そして、通りを歩いていると、いきなり山門が現われ寺があります。

 曽根は、もとともと産業・交通の要地でした。

 寛永16年(1639)以降姫路藩から離れ幕府直轄領・一橋などとなったためか、富と権力をもつ庄屋、商人が多い町でした。

 それらの寺は、豪商の信仰心と財力が結びつき、彼らにより建てたといわれる寺がたくさんあります。

 本荘宗固の臨川寺(りんせんじ)、河野天佑の周徳寺(しゅうとくじ)、入江宗庭の瀧沢寺(りゅうたくじ)、河野八蔵の光照寺(こうげんじ)などです。

 今でも、狭いこの町内に八ケ寺もあるというのですから驚きです。元はさらに多かったようです。曽根は寺の町です。

   臨済宗のお寺

 それらの寺のほとんどがこの近辺では少ない臨済宗のお寺です。

 なぜ、このような禅宗寺院が多いのでしょう。

 『高砂市史(第二巻・通史編近世)』は、次のように記しています。

 「・・・現段階では、臨済宗のお寺の多い理由は不明とせざるを得ないが、共同体への布教を中心に勢力を拡大した(浄土)真宗などの宗派とは異なり、本来的に禅宗の地方への展開は土豪など各地域の有力者を護者とするものである。

 曽根地域の土豪的存在による禅宗帰依と永源寺派や妙心寺派の播磨進出が重なったところに、こうした状況が展開したのであろう。

 いずれにせよ、その詳細は後日を期さねばならない。・・・」(no2745)

 *『高砂市史(第二巻・通史近世編)』・『高砂の史情(森本勇著)参照

 *写真:円通寺(曽根町・臨済宗)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高砂市を歩く(167) ぐし谷

2015-03-28 09:21:20 |  ・高砂市曽根・北浜町

   「風 景」を読む

 「ひろかずのブログ(165)」で、北浜町北脇に残る道路元標を紹介しました。

 道標の写真を獲りに出かけた日は暖かい日で、少し足を伸ばして散歩をしてみました。

 北の方へ行くと、池(新池)があり、その南すみに北脇の共同墓地がありました。

 墓地は、明るい感じの場所です。

 そのはずです、墓地は山麓の南面で、前に池があり、広々とした空間のある場所でした。

 そこで見つけたのが前号「ひろかずのブログ(166)」で紹介した六地蔵を地蔵像です。

 帰りに、池の土手でお婆さんにであいました。

 「こんにちは、・・・」すると、深々とお辞儀してくださいました。恐縮してしまいます。でも、気持ちのいいものです。

 池の西側の土手で少し休みました。

 コンビニで買ったお茶を飲みながら東側の山頂(写真)を見ると、面白い形をしていることを発見しました。

 山頂が平らです。こんな特徴のある山は、特徴のある名前を持っているものです。

 近くに誰もおられませんでしたので、帰って調べることにしました。

    ぐし谷

 『ふる里の山名復活』に、この山の名前は「ぐし谷」と紹介されています。

 「ぐし谷」とは不思議な名前です。

 説明を読んでみます。

 「・・・入母屋式民家にそっくりな山型のほぼ中央にある谷なので名付けられた“ぐし谷”です。「ぐし」とは(民家の)尾根の棟を意味する方言です。

 しかし、このような「わら屋根の中央が少したわんだ入母屋式民家」がこの地域の代表的な民家でしたが、最近はほとんど姿を消してしまいました。

 そこで古きよき時代のふる里の生活景観でもあったこの民家の型を、せめて山名にだけでも残しておき、昔をしのびたいものです。・・・」(no2744)

 *『ふる里の山名復活』(松本文雄著)参照

 *写真:ぐし山(北浜町北脇)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高砂市を歩く(166) お地蔵さん

2015-03-27 10:50:24 |  ・高砂市曽根・北浜町

  この話が好きなんです。「かさこじぞう」」の話です。またここで書いておきます。

       かさこじぞう 
 (おじいさんは、年こしの晩に「かさ」を売りに行きました)
 いつの間にか、日も暮れかけました。じいさまは、とんぼり、とんぼり、町を出て、村の野原まできました。
 風が出てきて、ひどい吹雪になりました。ふと見ると道ばたに地蔵様が六人立っていました。
  ・・・・・・
 「おお、気のどくにな。さぞ、冷たかろうのう」
 おじいさまは、地蔵様のおつむの雪をかき落としました。
 じいさまは、ぬれて、冷たい地蔵様の、かたやら背中をなでました。
 「そうじゃ、このカサコを、かぶってくだされ・・・・」・・・・・・
 
そうです。小学生が国語の時間に学習する「かさこじぞう」の一節です。
   死者の仏たち
 この「かさこじぞう」は、たいていの墓地の人口に立っている「六地蔵」がそのモデルです。
 北脇の墓地にも、大切に祀られている六地蔵(写真上)があります。

 仏教では死者は生前の行いにより、死後次の六つの世界(六道)にふり分けられるといいます。
 それは、地獄(じこく)‐畜生(ちくしょう)‐餓鬼(がき)‐阿修羅(あしゅら)‐人間(にんげん)‐天国(てんごく)の六道です。
 あなたは、どの世界に生まれ変われそうですか。「きっと天国ですね」
 六地蔵は、それらの六道のどれかを担当されています。
 仮に地獄に生まれた人でも、心配はいりません。地獄係の地蔵様にいっしんにすがり、悔い改めれば救われるといわれています。
   やさしいお姿のお地蔵さん

 なお、北脇共同墓地(北浜町)には、右手に宝珠、左手に錫杖(欠落)をもった、やさしいお姿の地蔵さん(写真下)が墓地の中央にあります。

 古い歴史的に貴重なお地蔵さんではないのですが、宗教心のない私でさえ、しばし見とれてしまう地蔵さんです。(no2743)

 *写真上:北脇共同墓地の六地蔵、下:同墓地の地蔵像

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高砂市を歩く(165) 道路元標

2015-03-27 08:03:02 |  ・高砂市曽根・北浜町

 写真は北浜町の道路元標です。

 この道路元標は、北浜小学校の前の道を東に突き当たり、北へ50メートルほど行った交差点に、遠慮がちに残っています。

    道路元標

 道路元標(どうろげんぴょう)は、旧道路法(1919)により各市町村に1個設置することとされ、その位置は知事が定めるものとしていました。

 ほとんどは市町村役場の前か市町村を通る主要な道路同士の交叉点に設置されています。

 道路の起点・終点を市町村名で指定した場合は、道路元標のある場所を起終点としていました。

 大正11年(1922)の内務省令は、道路元標の材質について、石材その他の耐久性のものを使用すること、正面に市町村名を記すことを定めるとともに、寸法なども明示していました。

    消える道路元標

 が、現行の道路法(昭和27年法律180号)では、道路の付属物としているだけで、設置義務、材質、様式などについての定めはありません。

 現在、設置義務がなくなりました。

 また、道路の拡張・その他開発のために多くの道路原票は姿を消してしまいました。

 現在高砂市域では、曽根町・伊保町・米田町・阿弥陀町、それに北浜町の道路元標が残っているだけです。

 役割を終えた道路元標ですが、歴史を語る証人です。

 保存しておきたいですね。

 北浜の道路元標の「北濱村」の文字を読むとき、歴史の重みを感じます。(no2742)

 *写真:道路元標(高砂市北浜町北脇)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高砂市を歩く(164) 「キリシタン燈籠」再考

2015-03-26 06:56:05 |  ・高砂市曽根・北浜町

     「キリシタン燈籠」再考
 高砂市教育研修所の前庭に織部燈籠・キリシタン燈籠(写真)が保存されています。

 織部燈籠は、一般的な燈籠に比べてやや小ぶりで、派手さを好まない点で、庭園等に好まれていたようです。

 形に特徴があり、竿の部分の上部が横に張り出しているため十字架のようにも見えます。

 また、竿の上部に十字の文様やローマ字のような記号めいたもの、また下方に、地蔵または宣教師のようにも見える像が彫られているものがあります。
 大正末期から昭和の初期にかけて、一部の研究者や郷土史家によるキリシタン遺物の研究熱が高まりました。

 その折、織部燈籠に彫られた像がマントを羽織った宣教師に似ていることなどから、織部燈籠の一部を「キリシタン燈籠」と称するようになりました。

 織部燈籠のうち「キリシタン燈籠」として、地方自治体で文化財指定された燈籠が、全国に21基存在するといいます。

    キリシタン燈籠ではない?

 高砂市では、写真のキリシタン燈籠のほかに曽根町の入江家、高砂町の岸本家、そして延命寺にも「キリシタン燈籠」といわれている燈籠があります。

 江戸時代は、厳しいキリスト教の禁教の時代です。

 高砂は、経済の町で開明的な土地であるとはいえ、地域の豪商や寺などは、あえて見つかれば、「あぶない」燈籠を堂々と設置したのでしょうか。

 考えられません。

 これらの「キリシタン燈籠」は、キリシタンとの関連が希薄であると考えられるのです。

 松田毅一は、『キリシタン史実と美術』(昭和44年)で、「キリシタン燈籠説」を否定されています。

 が、現在も「キリシタン燈籠説」が世間に流布されたままとなっているようです。

 みなさんはどう考えられますか。(no2741)

 *論文「キリシタン燈籠再考(西村宗利)」(HPより)参照

 *写真:高砂市教育研修所前庭にある「キリシタン燈籠」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高砂市を歩く(163)  黒岩磨崖十三仏

2015-03-25 08:10:08 |  ・高砂市曽根・北浜町

   黒岩磨崖十三仏

 自然に露出した岩壁に仏像を彫ったもので、山間の岩面に各種の仏像が彫られ、密教の影響があるといわれ、平安時代に多くつくられました。

 時代は下るのですが、曽根にも磨崖仏があります。

 「十三仏」の磨崖仏です。

 曽根町の日笠山東麓の、いわゆる「黒岩磨崖十三仏」は、磨崖仏(まがいぶつ)としては、山間でなく、人家近くにあるということや、銘が彫られているという点が珍しく、しかも、十三仏が麿崖仏として刻まれているのは他にあまり例がありません。

   一人の尼が逆修供養のために刻む

 日笠山麓の黒昧がかった岩の一面を二段に長方形に分け、上段に勢至(しせい)、阿弥陀、阿閦(あしゅく)、大日、虚空蔵(こっくぞう)の五尊像、下段に不動、釈迦、文殊、普賢、地蔵、弥勒、薬師、観音の八尊像を浮彫しています。

 左端に「十一月二十八日干時永正二年丑建施尼敬白」と銘文があり、永正二年(1505)の年号から室町時代中期の作とわかります。

 十三仏とは、死者の追善の法事を修めるとき、その年に配当された十三仏菩薩をおがむもので、日本独特の民間の一つです。

 十三仏は、室町時代に最も多くつくられており、この十三仏信仰が完成したのは南北朝時代といわれています。

 室町時代中ごろに一人の尼が逆修供養(注)のため、一生かかって刻んだものと考えられます。

  注:逆襲供養(ぎゃくしゅうくよう)

 「逆修」は、「死の前に、あらかじめ自分のために仏事を修めて、死者の冥福を祈ること」です。(no2740)

 *『高砂市の文化財(石造編)』(高砂市教育委員会)参照

 *写真:黒岩磨崖十三仏

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高砂市を歩く(162) 曽根村

2015-03-24 07:43:49 |  ・高砂市曽根・北浜町

 曽根地区は、古くは「大国郷」に属していましたが、鎌倉時代の荘園制の発達により、大国郷が伊保・雁南・平津の3荘に発展し、曽根は、そのうちの「伊保荘」に含まれました。

   「曽根」の名称は「磯根」か?

 村名の起源は、はっきりとしていません。

 もと天川の西岸の日笠山の麓に居住していた曾根が天川の大洪水により家屋が流失したため、東岸の本庄に移住したので、次第に本庄の呼称から曾根の呼称に変ったといわれています。

 曾根の語源は、海辺にあったことから磯根、または石根の転化したものと想像されています。

  江戸時代の曽根村一村で、明治時代の曽根村へ

 明治22年の村制施行にあたり、曽根村一村が従来の名称のままで「曾根村」が誕生し、後大正2年4月1日町制を施行しました。

 その後、昭和29年(1954)7月1日、高砂町・荒井町・曽根町・伊保町が合併し、高砂市が誕生し、2年後の昭和31年(1956)9月30日、米田町(船頭・平津を除く)、阿弥陀村は高砂市に合併し、翌年の3月10日北浜村が、高砂市に合併し、現在にいたっています。

 なお、ここに明治38年の曽根村の人口調査がありますので掲載しておきます。

  <曽根村(明治38年12月)>

  男:1739人 女:1681人 合計:3420人 戸数:609軒

 *図(曽根村)は、『兵庫県市町村合併史・上』(兵庫県総務部地方課)(昭和37)からお借りしました。非常にシンプルで江戸時代の曽根村(大字)が、そのまま明治の村制で曽根村になっています。

 ところが、江戸時代、曽根村は姫路藩領、鳥取藩領、小田原藩領、そして一ツ橋藩領等と複雑な経緯をたどりました。後日紹介しましょう。(no2739)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高砂市を歩く(161) 天の磐船(あまのいわふね)

2015-03-23 07:18:09 |  ・高砂市曽根・北浜町

 以下の文章は、昭和55年12月日の神戸新聞に掲載された「天の磐船」を参照させていただきました。(一部書き変えています)

    天の磐船

 「天の磐船(あまのいわふね)」(写真)は、阿弥陀町伊保山の南面、頂上から20㍍の地点で、半ば埋もれていました。

 この大きな石棺の「縄掛け」は円盤状です。

 天の磐船は、ひっくり返っていると、ちょうど船のように見えたのでしょう。

 加古川下流城の家形石棺の中で「縄掛け」が円盤状のものは珍しく、これが唯一の例です。

 古い形式の長持ち形石棺の伝硫を受け継いでいるようです。

 大きさは、加古川下流で一番大きく、全長3㍍、幅1.3㍍ 、厚さ60㌢、推定重量は4㌧もあるといいます。

 近辺で、この石棺にふさわしい大きな古墳は知られていません。古墳は、完全に破壊されてしまったのかもしれません。

 石棺のあった伊保山は有名な「竜山石」を産する竜山のとなりにあり、伊保山も山全体が「竜山石」でできています。

 ここで、多くの石棺が古墳時代(3~6世紀中ごろ)加工されていました。

 天の磐船について、加古川史学会の田中幸夫氏は、次のように考えておられます。

 「・・・頂上付近には石棺を加工するのに適した岩が露出していた。そこで石工が、加工して石棺を完成させた。しかし、石棺を移動させようとした時に、事件が起きた。戦争がおきたのかもしれない。神の祟りがあったのかもしれない。なによりも、急斜面のために断念したのかもしれない。・・・・」

 いずれにしても、この石棺は山頂付近で加工されたと考えられます。

 平地で加工して標高100㍍の高さまで運搬したとは考えられません。

 近年、伊保山は、石材を採るため山が削られて、「磐船」の際までガケが接近してきました。

 危険な状態になったので、昭和38年に山から降ろされ、現在は、高砂市教膏センターの庭に置かいます。 (加古川史学会・田中幸男)(no2738)

 *『郷土の石彫⑤・田中幸夫』(神戸新聞)参照

 *写真:天の磐船(石棺)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高砂市を歩く(160) 力士・陣幕島之助

2015-03-22 08:39:28 |  ・高砂市曽根・北浜町

   力士・陣幕島之助

  石宝殿から加茂神社へと向かう道沿いに、江戸時代に大坂相撲で活躍した力士の家が最近まで残っていました。

 この家は、平成23年に解体されました。

 白壁に浮き出た「陣幕」の漆喰文字で、三代目、陣幕島之助の家でした。

 彼は伊保崎村に生まれ、22才で相撲の道に入り、姫路藩主酒井忠道に可愛がられていたといいます。

 文化2年(1805)に入幕、同11年に西の関脇に昇進、文政5(1822)年高見山から「陣幕島之助」と改名しました。

 初代の陣幕は、相撲史上最強の大力士といわれる雷電為右衛門(らいでんたえもん)を破ったことで知られています。

 その名を継いだのだから、なかなかの名力士であったに違いありません。

 三代目の陣幕は、文政12年(1829)に亡くなっています。

   臥牛の台座に残る陣幕一門の銘

 写真は陣幕の死に際して一門の奉納した石の台座(上に鎮座する臥牛は後のもの)が、曽根天満宮に残っています。

 竜山石製の台座は文政12年(1829)、陣幕が亡くなった年に奉納されています。

 「東西関取 陣幕門□」の文字を読むことができます。(□には「弟」の字が入っていたのでしょう)

 陣幕の死に際して、門弟たちが奉納しています。

 石工は、生石村瀬助です。(no2737)

 *『はりま(歴史見て歩き)・埴岡真弓著』(神戸新聞出版センター)参照

 *写真:陣幕一門の銘のある臥牛のある台座(曽根天満宮)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高砂市を歩く(159) 穴のあった梵鐘

2015-03-21 08:08:14 |  ・高砂市曽根・北浜町

   穴のあった梵鐘

 はっきり覚えていません。写真は、10年以上前に撮影したものです。

  曾根町天満宮の西隣りの観音堂の梵鐘です。

 現在の梵鐘とは少し違ったカ所があります。現在の梵鐘には、写真のような穴がありません。現在の鐘の穴は埋められ、修復されています。

 曾根天満宮横の観音堂は、もと天満宮の北東部にあったのですが、神仏分離により、今の場所に移されました。

鐘には、元禄十年(1697)の銘があります。

   梵鐘の穴は、戦争の傷跡!

 写真の修復前の鐘をよく見てください。5つの直径1センチほどの穴があけられています。

 この穴こそ、かつての戦争の名残でした。

 戦争の末期、金属不足のため、寺社の金属類も供出を命じられました。この鐘も、お国のために、供出されました。

 これら5つの穴は、供出された後、材質検査のためにあけられたものです。

 さいわい、鋳潰される前に終戦になり、集積地に放置されていたものを、かつての住職が取り返されました。

 梵鐘の供出は、全国各地で行われました。中には、これに抵抗した住職や檀徒もあったようですが、ほとんどは進んで名誉の応召に応えたようです。

 平和のシンボルである梵鐘までを人殺しの武器にしたのです。

 水田全一氏は、このような日本の仏教の転落を指摘し、「過去の過ちを再び繰り返さないための戒めとして、観音堂の梵鐘に開けられた穴は記憶されるべきである」と主張されています。

 この梵鐘は、「戦争の語り部」として、穴のあいた金のまま保存してほしかった気持ちも残ります・・・(no2736)

 *『靖国の真実-玉砕・飢餓・刑死(兵庫人権問題研究所)』(水田全一著)参照

 *写真:かつての穴のあいた梵鐘(天満宮隣りの観音堂)

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする