ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんの語る郷土の歴史(17) 弥生時代(2)、大中遺跡(2)・タコツボ

2017-10-22 08:17:56 | お爺さんが語る郷土の歴史

                   (大阪湾・播磨灘沿岸のイイダコつぼ型土器分布図)                

   弥生時代(2) 大中遺跡(2)‣タコツボ

       大中は絶好の生活の場
 大中の集落は、絶好の場所に営まれていました。
 播磨平野のほぼ中央部で、北から張り出した低平な丘陵は、国道二号線のあたりで切れ、海岸線沿いの低地へとつながっています。大中の弥生集落はこの台地の南端部に築かれます。
 高台であるため加古川の氾濫の影響もあまりなかったようです。
 台地の南は低湿地で、米は十分な収穫があったことでしょう。
 さらに、すぐ近くを喜瀬川が流れ、伏流水も豊かで飲み水の心配もなかったようです。
 大中の人々は、こうしたすばらしい環境の中で生活していました。
   
  イイダコ漁
 大中の各住居跡から、小型の土器が百数十個出土しています。
 高さがせいぜい15センチで、口の部分または底部に小さな穴があいており、単なる貯蔵用の容器ではないことは確かです。
 この土器は大阪湾沿岸、播磨灘北九州の博多湾沿岸からも多数の出土例があり、用途不明の土器として長く放置されてきましたが、最近になってイイダコ漁のための土器であることがわかりました。
 今から1100年前、大中の人々はすでにイイダコの習性を知って、特殊な漁獲法を工夫し、そのうまさを味わっていたのです。
 イイダコは、体は小さいのに大きな卵を産みます。その味は絶品です。
 春から秋にかけてのイネ作りが終わった時期、大中の人々は、比較的ひまでした。
 この時期、彼らは北西の寒風に吹かれながらイイダコ漁していたに違いありません。
 *図:大阪湾・播磨灘沿岸のイイダコつぼ型土器分布図(『兵庫探検・歴史風土編(神戸新聞社)』)より(no3756)
 ◇きのうの散歩(2430歩) 台風接近による雨のため 


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1 コメント

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マルテンサイト千年 (グローバルサムライ)
2024-04-11 10:20:37
最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタイン物理学のような理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズム、人間の思考を模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。こういうのは従来の科学技術の一神教的観点でなく日本らしさとも呼べるような多神教的発想と考えられる。
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