この飛行場については、人々の記憶から徐々に忘れ去られようとしています。
丸尾嘉宏氏は、「三木(相野)飛行場に関する調査」と題して稲美町にあった「三木(相野)飛行場」についてHPで報告されておられます。
「稲美町探訪」でもぜひ紹介したい研究です。
まず、丸尾氏の研究を紹介し、多くの方々から資料をお借りし、お話を集めさらに稲美町の戦争の歴史を掘り起こしたいと考えています。
今日はその一回「相野飛行場」の位置についての報告です。
*稲美町のほとんどの方はこの飛行場を「相野飛行場」と呼んでおられます。このシリーズでも「相野飛行場」として話を進めます。
稲美町の飛行場はどこに?
二枚の地図をご覧ください。場所はおわかりになるでしょうか。
(*地図はダブルクリックすると拡大します)
稲美町にお住まいでない方には少しわかりにくいと思います。
地図について少し説明します。
もうすぐ、桜の季節です。稲美町にはサクラで有名な「桜の森公園」があります。
そこから少し西へ行くと下草谷集落の愛宕神社があります。
愛宕神社の辺りは、急な坂になっていますが、その坂を上がるとすぐに平らな台地上に出ます。
台地というのは高い所にある比較的平坦な土地のことですが、それにしても「まっ平」な地形です。
このあたりの地形については、次号で散策してみましょう。
地図を見る
「飛行場跡(右から書いてあります)」を赤く囲んでおきました。
ここに戦時中、「相野飛行場」が稲美町と三木市にまたがって建設されました。
下の地図は大正12年の測量で、上の地図とほとんど同じ範囲の地図です。
大正12年の地図には「飛行場跡」の場所には多くの池がありあます。
飛行場は、これらの池を埋め立て飛行場としたようです。
丸尾氏の調査によれば、戦前、ここには米(ごく少量)や野菜と共にタバコなどが栽培されていたそうです。
さらに丸尾氏の研究を続けます。
戦火が強くなり始めた昭和19年2月初めのころ、ここの土地を所有していた人々が、突如陸軍から召集がかかりました。
「その時、初めて飛行場建設の話を耳にした」といいます。
そして、1ヵ月の猶予と共に立ち退きの命令がだされました。