ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(449):相野飛行場①、飛行場はどこに?

2011-03-31 07:51:37 |  ・相野飛行場

B3f53ce2稲美町には戦時中、陸軍の飛行場がありました。

この飛行場については、人々の記憶から徐々に忘れ去られようとしています。

丸尾嘉宏氏は、「三木(相野)飛行場に関する調査」と題して稲美町にあった「三木(相野)飛行場」についてHPで報告されておられます。

「稲美町探訪」でもぜひ紹介したい研究です。

まず、丸尾氏の研究を紹介し、多くの方々から資料をお借りし、お話を集めさらに稲美町の戦争の歴史を掘り起こしたいと考えています。

今日はその一回「相野飛行場」の位置についての報告です。

*稲美町のほとんどの方はこの飛行場を「相野飛行場」と呼んでおられます。このシリーズでも「相野飛行場」として話を進めます。

     

稲美町の飛行場はどこに? 

二枚の地図をご覧ください。場所はおわかりになるでしょうか。

 (*地図はダブルクリックすると拡大します)

稲美町にお住まいでない方には少しわかりにくいと思います。

地図について少し説明します。

もうすぐ、桜の季節です。稲美町にはサクラで有名な「桜の森公園」があります。

そこから少し西へ行くと下草谷集落の愛宕神社があります。

愛宕神社の辺りは、急な坂になっていますが、その坂を上がるとすぐに平らな台地上に出ます。

台地というのは高い所にある比較的平坦な土地のことですが、それにしても「まっ平」な地形です。

このあたりの地形については、次号で散策してみましょう。

     

地図を見る

45144095まず上の地図を見てください。昭和22年の地図です。

「飛行場跡(右から書いてあります)」を赤く囲んでおきました。

ここに戦時中、「相野飛行場」が稲美町と三木市にまたがって建設されました。

下の地図は大正12年の測量で、上の地図とほとんど同じ範囲の地図です。

大正12年の地図には「飛行場跡」の場所には多くの池がありあます。

飛行場は、これらの池を埋め立て飛行場としたようです。

丸尾氏の調査によれば、戦前、ここには米(ごく少量)や野菜と共にタバコなどが栽培されていたそうです。

さらに丸尾氏の研究を続けます。

戦火が強くなり始めた昭和192月初めのころ、ここの土地を所有していた人々が、突如陸軍から召集がかかりました。

「その時、初めて飛行場建設の話を耳にした」といいます。

そして、1ヵ月の猶予と共に立ち退きの命令がだされました。

コメント

稲美町探訪(448):加古を歩く(98)・「加古を歩く」終了

2011-03-30 08:28:11 |  ・稲美町加古

「加古を歩く」を書きました。

まとまりのある話になりませんでした。

さらに、時間の流れもバラバラです。

ただ、やさしく読めることだけを心掛けました。

しめて97の話題。

このあたりで「加古を歩く」をしばらく休みにします。

時間をおいて再開させようと思います。

なぜなら、加古土地改良区には、膨大な古文書が保存されています。

加古の歴史をゆっくり読んでみます。

   

加古(新村)は、加古の大池の水と共に

023 きのう加古大池へ行ってきました。

堤防に寝転んで、北大池から西の風景(写真)の方向を眺めました。

まず、森のあるお宅が目にとまります。北新田の沼田家です。

左の方が加古新村の開発百姓(上新田)の家のある辺りです。

この、北新田・上新田あたりから開発はじまり、西に南に加古大池の水と共に進められました。

   

加古は、どのように進むのだろう

加古(新村)は印南野台地の端にあって、その向こうは坂となっておちこんでいます。

加古新村は、広い海に浮かぶ島のような集落です。

空が広い集落です。明るい風景の集落です。

それに、池の点在する落ち着いた集落です。

そんな風景の中の加古の歴史は、いまガラガラと音を立てて変化しています。

歴史は教科書の中だけにあるものではないはずです。

時には、「今」を歴史の流れの中でお考えください。

コメント

稲美町探訪(447):加古を歩く(97)・稲実鑑(いなみかがみ)

2011-03-29 08:49:14 |  ・稲美町加古

1e984323  このあたりで「(シリーズ)加古を歩く」を、ひと休みして稲美町の他の地域の散策に出かけましょう。

 「加古を歩く」は、独断的な内容になっていることをお詫びします。

後日追加・訂正したいと考えています。

 幸い「加古」には、すばらしい歴史書があります。

 山口元治氏編集の『稲実鑑』です。ぜひ参考にして加古(新村)のイメージを膨らませてください。

 神栄宣郷氏(姫路市的形・湊神社宮司)が、序文を寄せておられますので、その一部をお借りして、『稲実鑑』の紹介に変えます。

    稲実鑑(いなみかがみ)

 ・・・・広い印南野の中に発達したのが印南郡であり、明石郡であった。

かつては、ぬすびとやお化けの飛びまわった草原が、鎌倉時代や室町・徳川時代を経るうちに見るみる人家が建ち並ぶ町や村々になってしまった。

その村々のうちの一つに加古村があった。

はじめは、加古新村と称したのだから古村とはいえないが、由緒ある村落であり、加古郡内でも大いに歴史を持つ土地柄なのである。

こんど、天満・母里戸の三村で稲美町を作った記念に村誌を編むこととなり、山口元治氏がその任に当たられたことはまことに当を得たことであった。・・・・

・・・乏しい中から鋭意資料探索し、今ここにこれを完成させたことは大いなる功績である。

   編集者・山口元治のことば

また『稲実鑑」の編集者、山口氏は次のように書かれています。

 (文章を少し変えて内容を紹介します)

一、        万治元年、加古新村当時より、昭和303月末、町制に至るまで明らかにされたことをまとめ、後の世の研究資料として伝えたい。

二、        加古(新村)について研究する者多いが、郷土史の書籍がない。

町制記念にそれを『稲実鑑』(いなみかがみ)としてまとめて村誌としたい。

三、        郷土誌『稲実鑑』は過去の成果のまとめであり、未来の播種である。

そして、最後に「後世の研究家は、新たなる観察のもとに本書を補い完成せられんことを希望します」と結んでおられます。

コメント

稲美町探訪(446):加古を歩く(96)・加古新村の人口動態

2011-03-28 11:12:18 |  ・稲美町加古

11072fab_2万治四年(4月25日より寛文元)23戸で始まった加古新村の開発も、6~7年のうちに家数163軒、人口800人と急速に増加しました。

その後も人口・家数は順調に伸ばしています。

さらに詳細な数字を調べ加古(新村)の歴史を調べる必要がありますが、今日は以下の数字から村の発展のようすを想像ください。

 加古(新村)の戸数・人口動態

寛文元年(1661)     23戸

寛文3年(1663)    149戸

寛文9年(1669)     不明       600人余

天明7年(1787)     不明      2002人  

明治14年      445戸    2148人 

明治22年      476戸    男:1210人  女:1191人

    合計:2401人

大正9年       547戸    男:1399  女:1362 

                     合計:2761人

昭和5年       590戸    男:1445  女:1423

                     合計:2868人

昭和10年      583戸    男:1474  女:1433

                     合計:2907人

昭和15年      602戸    男:1566  女:1485

                     合計:3051人        

昭和22年       不詳     男:1728  女:1816人

                     合計:3544人 

昭和25年      695戸    男:1752  女:1821  

                     合計:3573人

平成17年     1532戸        4845人  

コメント

稲美町探訪(445):加古を歩く(95)・加古新村の地租改正

2011-03-27 11:17:48 |  ・稲美町加古

    

      加古新村の地租改正

『播磨地種便覧』から明治時代の加古新村の税をみておきます。

同書の前書きに「一、戸数人口は明治14年1月御調ヲ以載ク」とあるので、明治14年の数字です。

 明治新政府は、明治6年(1873)から「地租改正」を行い、米を納める年貢をあらため、土地の所有者から貨幣で定額の地租を取ることにしました。

地租改正では、耕地の面積をはかりなおし、新たに地価を定め、その3%を地租としました。

一般的に、新政府の収入が減らないように高めに設定されたため、農民の負担は江戸時代と比べても軽くなりませんでした。

そのため、各地で「地租改正」に反対する激しい一揆が起こり、これに押された政府は、地租を地価の2.5%(明治10年)に切り下げました。

『地種便覧』は、各村の人口、家数、田、畑の面積ならびに地租の額等を記録した本です。

  <加古新村の人口、戸数、地租>

(『地種便覧』明治141月調より)

Fd58cb38   戸数     445戸

   人口   2.148人

  田 223445

     地価  112.73973

     地租  2.818521

  畑 1994413

                   地価    55.3869

      地租    1.382615

   (藪地・芝地・草生地の地租・地価省略)

  合計 反別、4768反8畝16

       地価 180.365186

                    地租   4. 509193

明治910年、この地方を旱魃が襲いました。

田畑の植えつけは大幅な減少になったことでしょう。

こんな年には、旧藩なら当然減税の上、救助米が支給されました。

新しい税制(地租改正)は、凶作による税の減収をなくすことを目的にしていましたから、凶作でも減税はありません。

お救い米もありません。

その上、当地方の経済を支えていた綿作が、神戸港開港にともない安い、良質な外国綿の増加で、綿作は急激に衰退します。

 厳しい経済状態は、特に水の少なかった母里地区だけではありません。

 でも、加古地区の具体的な村の生活状態を調べていません。後日報告ができたらと考えています。

コメント

稲美町探訪(444):加古を歩く(94)・三十三観音霊場めぐり③、三軒屋観音堂

2011-03-26 08:07:36 |  ・稲美町加古

三軒屋の観音堂は、郡秩父観音八番霊場

001中新田の公会堂の敷地内にある「郡秩父観音霊場」を訪ねました。

そして、公会堂の一室に移された如意輪観音(にょいりんかんのん)を参拝することができました。

加古(新村)にはもう一か所秩父観めぐりの霊場があります。

三軒屋の公会堂の横の観音堂です。

撮影に出かけたのですが、地図を忘れてきたため場所が分かりません。

「三軒屋池の近くだった」と出かける前に地図で確認したのですが、見当たりません。

池の近くを歩いていると、少しこわそうな風貌のおじさんに出あいました。

「三間屋の観音堂をご存じありませんか・・・」とたずねました。

風貌とは違って、おじさんのソフトな声がかえってきました。

「ちょっと来てみな・・・ここから観音堂(写真上)は見えへんけど、あの大きな家の向こうや・・・」と、もと来た道を引き返し、見通しの良い場所まで案内してくださいました。

そして、「近頃は、観音さんを祀る人も少のうなって、観音堂(写真)はだんだん荒れてきよるんや・・・」と話してくださいました。

おじさんの響きのいい声を聞いていたら「観音さんのお使いかな・・・」と思ってしまうほどでした。

観音堂の横には「加古郡西国八番三軒屋観音堂」の石柱があります。

このお堂は、前号でも紹介したように「(加古)郡秩父観音霊場の八番札所」です。

〈三軒屋観音堂について(『稲美町史』より)〉

   本尊:十一面観音菩薩(木像)

   合祀:地蔵菩薩・役行者 

   創建:万治元年(1658)~寛文二年(1662

  加古新村の3旦那寺は、「(加古)郡秩父観音めぐり札所」

  (昌岩寺・成福寺・万福寺:いずれも現加古川市八幡町)

Ced6966bさて、加古新村の百姓は開村時に、開発百姓(頭百姓・とうびゃくしょう)の出身である、中西条・上西条・下村(現:加古川市八幡町)の寺院の檀家になることを誓約しました。

その三寺院は、図にある昌岩寺(加古川市八幡町中西条)・成福寺(同上西条)・万福寺(同下村)です。

そのために加古新村には、今に至るまで寺院がありません。あるのは、お堂ばかりです。

 加古新村のような大きな集落で、寺院のない集落の例を外に知りません。

 加古新村の旦那寺は、それぞれ「(加古)郡秩父観音霊場」の三番・四番・五番札所です。

旦那寺と加古(新村)の札所は関係があるのでしょうか。

今回は「(加古郡)坂東観音霊場巡り」については説明を省きましたが、稲美町内では郡坂東観音霊場・郡秩父観音霊場がたくさんあります。調べてみたい。

*図(加古川市八幡町・と加古川の一部を含んでいます)をご覧ください(図はクリックすると拡大します)

図の赤い丸は郡秩父観音めぐり札所、緑の三角は郡坂東観音めぐり札所。なお、高薗寺は「播磨西国(二十四番)札所」を兼ねており、円光寺は郡西国(十八番)札所です。

コメント

稲美町探訪(443):加古を歩く(93)・三十三観音霊場めぐり②、秩父巡礼

2011-03-25 08:28:21 |  ・稲美町加古

 

 秩父・坂東(関東)三十三観音霊場めぐり

011これらの三十三所めぐりは、西国三十三観音霊場めぐりだけではありません。

坂東(関東)・秩父をはじめ全国各地に三十三観音霊場を誕生させました。

その内、坂東(関東)・秩父観音霊場めぐりは盛んとなりました。

秩父霊場めぐりは、とりわけ多くの巡礼者を集めました。

それは、百万都市・江戸に近かったこと、霊場が西国・坂東のように広範囲でなく巡礼の苦行が比較的少なかったことがまず考えられます。

それに、秩父観音巡礼は風光明媚な場所が多く、江戸町民の多数ひきつけたようです。

  

中新田の観音堂は、郡秩父観音七番霊場

秩父巡礼は、流行となったとはいえ、加古郡から手軽に巡礼ができる場所ではありません。

019 そこで、加古郡内に秩父巡礼の霊場が成立しました。

それらをめぐれば秩父巡礼をしたとのと同じ功徳があるとされたのです。

先日、中新田の公会堂の敷地内にある観音堂を訪ねました。

祠の前に「郡西国七番霊場」とありました。

これは「(加古)郡秩父観音第七番霊場」のことです。

その時は、公会堂で奥さん方の集会が行われていました。

外で、観音堂の写真を撮っていたら、話しかけてくださいました。

祠には観音さん(如意輪観音・にょいりんかんのん)は安置されておらず、公民館の新設に伴い館内の一室でお祀りされているとのことでした。

如意輪観音さん(写真下)を拝見させていただきました。

*如意輪観音:如意は全てのことを意のままにできる如意宝珠、輪は煩悩を打ち砕く法輪を意味し、物質的・精神的な願望を成就させる観音。

コメント

稲美町探訪(442):加古を歩く(92)・三十三観音霊場めぐり①

2011-03-24 07:33:02 |  ・稲美町加古

      西国三十三観音霊場めぐり

西国三十三観音霊場めぐりは、平安時代中期ごろ、庶民の間に流行しはじめて、後に貴族たちがまねるようになりました。

人々は病気の平癒(へいゆ)を願い、病気が癒えると、お礼のために、また亡き人の供養のために、罪を犯した者は滅罪のために、さらには自らの死後の平安を求めて、人々は西国三十三観音めぐりにでかけました。

F75aa9c0 第一番の札所、那智山西岸渡寺(和歌山県)から最後の谷汲山華厳寺(岐阜県)までの旅は、現在と違い苦行そのものでした。

江戸時代になり治安も確立し、交通機関も整備され、三十三所めぐりも比較的やりやすくなり、かつての苦行巡礼は、今で言うレクレーション的な性格さえ持つようになりました。

     

播磨西国三十三霊場めぐり

しかし、生活の苦しい庶民にとって西国巡礼は誰でも気軽にできる巡礼の旅ではありません。

そこで考えられたのが播磨の中に、三十三霊場を定めて、それらの寺を巡礼すれば「西国三十三霊場めぐり」と同じ功徳があるとする「播磨西国三十三霊場めぐり」です。

このような巡礼がはじまったのは、江戸時代の初めの頃です。

稲美町では、播磨西国霊場として、高薗寺(二十四番)が選ばれています。

    郡西国三十三霊場めぐり

Inamimachi7_002さらに、巡礼しやすいものとして、加古郡内に三十三の霊場(寺)が決められました。

これが「郡西国三十三霊場(郡西国とも言う)」です。

稲美町では、円光寺(中村)が郡西国十八番霊場に選ばれています。

≪円光寺≫    

円光寺は、明治初年の神仏分離令により国安の天満神社の地から中村の地に移りました。

写真上:十一面千手観世音菩薩(高薗寺) 下:円光寺山門

「三十三観音霊場巡り」は、少し説明が長くなりますので3回シリーズで紹介します。なお、説明の都合上、今日のブログを「加古を歩く」に含めておきます。

コメント

加古川地方の津波

2011-03-23 08:46:57 |  ・コーヒーブレイク・余話

Photo_2 東北地方太平洋沖地震では、過去に例をみないマグニチュード(M)9.0の大地震による津波が、東北地方全域を一瞬に飲みこんでしまいました。

津波の高さは10メートルの堤防を軽々と越えてしまいました。

津波は1020メートルとかいわれていますが、被害状況をみているとそんなレベルではないようです。

リアス式海岸を襲った津波は、せり上がり、50メートルという高さまで到達したところもあったようです。

  

 加古川地方の津波

では、加古川地方(瀬戸内地方)は、かつて津波の襲来どのようであったのでしょう。

瀬戸内海沿岸に来襲した地震津波に関しては、被害が少なかったためか関心も薄く、その実態はほとんど研究されていません。

それでも、津波に関する古記録がわずかに残されています。

それらから推測されます。

宝永地震(宝永四年・1707)による津波

宝永地震による瀬戸内海沿岸各地の津波は、大阪府で2.53㍍で、兵庫県では赤穂で最高の3㍍を記録しています。

岡山県でも最高3㍍を記録しています。

広島県では1.22㍍と、津波の高さは東高西低の傾向が見られます。

これらの記録から、加古川地方でも最高3㍍の津波があったのではないかと推測されます。

安政地震(安政元年・1854)による津波

安政地震では、大阪府で2.43㍍、兵庫県23㍍で、神戸では2㍍、赤穂では最高3㍍の津波を記録しています。

この時は岡山県では12㍍程度の津波でした。

このような状況から加古川地方の津波は22.5㍍程度の津波があったのではないかと想像できます。

なお、先に紹介した昭和211946)の南海地震の津波は0.81.2と低い津波でした。

残された記録等による推測によれば、加古川地方では津波による被害はほとんどなかったようです。

しかし、次回は東海・東南海・南海地震が同時におきるのではないかと危惧されています。

そうなれば、歴史の記録だけでは安心はできません。

*論文:「瀬戸内海の歴史南海地震の津波について」(山本尚明)参照

コメント

稲美町探訪(441):草谷断層

2011-03-22 08:17:30 |  ・稲美町加古

   草谷断層

7834bfef右の地図をご覧ください。

草谷断層は、山崎断層が三木市の方へ走り、そこから南へ向きを変えて伸びる山崎断層の一部であるといわれています。

草谷断層は、三木市から稲美町を貫き、加古川市へ分布する断層で、東北東-西南西方向に延びており、右横ずれの断層です。

もう少し詳細に言うと、この断層は稲美町内では野寺辺りから入ヶ池(にゅうがいけ)にかけて割れ、千波池(国岡)の南の岸から南西へ、そして加古川市平岡町へ伸びる断層です。

草谷断層は、今後30年以内に動く確率は0%といわれており、当面は地震の心配の少ない断層です。

でも、最近は想定外の事例が多すぎます。

☆あるHPに稲美町の池と草谷断層についての最悪のシナリオがありました。

無断でお借りします。

(文末を「です・ます調」に変えています)

  最悪のシナリオ 草谷断層動く!

433ebb36田植えを控えた五月中旬でした。

稲美町の約九十のため池は、どこも満々と水をたたえています。

普段は水利組合や自治会が適度な水位に管理しているが、はや梅雨本番を思わせる長雨が、一週間近くも続いていました。

昼前、Hさん(41)は自分の田へと水を引く池で洪水吐(こうずいばけ)のようすを見ている時でした。

大地がごう音とともに揺れ、たまらず倒れ込んだHさんが顔を上げると、約二百メートル先の高地の池の堤が引き裂さかれ、濁流が一気に迫ってきたのです。

必死で電柱に登りました。

足下を通過した濁流は勢いを増して約三キロ下流まで進み、集落を水びたしにしました。

二時間後、町災害対策本部に入った情報では、町を貫く草谷断層が動いたとのことでした。

「危険度0%」。住民の誰もが、断層についてそう思いこんでいました。

だが、断層に近接したため池はほとんどが決壊し、国岡、森安など高台の地区を除き町の大部分が浸水したのです。

町はまるで、大きな水たまりのようになってしまいました。

 〈追記〉

  稲美町は町面積の一割以上を占めるため池の危険度を示す地図を作って全戸配布しました。全国初の試みです。

  地図の作成に携わった明石工業高等専門学校の神田佳一教授は、「考えられる最も危険な状況から作ったが、想定外の地震や降雨も起こり得ます。ため池が決壊するかもしれない、という日常からの意識こそがその時に役立つ」と言われています。

HPより)

コメント (1)

山崎断層

2011-03-21 07:50:22 |  ・コーヒーブレイク・余話

   山 崎 断 層

C90d009d兵庫県南部を東西に走る中国自動車道には、福崎から佐用までの間にトンネルがほとんどありません。

谷がつながる地形が東西に伸びています。その上を中国自動車道が走っています。

この谷がまさに山崎断層です。中国自動車道は、山崎断層の真上を走っているのです。

自動車道の工事の為に山崎断層の地形はかなり損なわれましたが、それでも注意すれば、いたるところに活断層でできた地形を見ることができます。

山崎断層は大地震のたびにずれ、谷や尾根に特徴的な地形を作ってきました。

山崎断層は左ずれの断層です。

写真は、昭和46年の撮影(夢前町四辻付近)です。現在はこの道に沿って中国自動車道が走っています。

尾根の先端部分をご覧ください。

尾根の先端部分が左(写真にむかっては右)にずれています。

山崎断層はおよそ500㍍左にずれています。これらの地形は、「左横ずれ」という水平方向の断層運動でつくられたものです。

この断層運動はまた,「破砕帯」とよばれる軟弱な岩盤を活断層にそって帯状に発達させました。

破砕帯は侵食されやすく,それにそって谷がのびたり,谷幅が広がったりするため,直線的に続く起伏の小さな地形をつくります。

トンネルのない中国自動車道は,まさに山崎断層がつくりだした景観です。

  30年以内に山崎断層でおきる地震の確率:5%

先に紹介した「貞観10年(868)の播磨大地震」は、山崎断層が震源であった可能性が高く,山崎断層の小規模な地震はしばしばおきているものの、その後千年以上、大地震を起こしていないことが注目されています。

播磨地震から1,100年以上が過ぎた現在、山崎断層西部が近い将来に大地震を起こす可能性は大きいといわれています。
 一方、山崎断層系東部の東端の私たちの地方は、今後30年に山崎断層を震源とする地震(M7.3程度)が発生する確率は5%と予想されています。

コメント

関東大震災と加古川遷都論

2011-03-20 08:07:04 |  ・コーヒーブレイク・余話

首都・加古川(幻の遷都論)

Photo  大正12年(192391日、東京を中心に未曾有の大震災がおき、政府の一部に壊滅した首都を東京以外の場所に移そうとする遷都論がおきました。

 「今村均・回顧録」(当時の参謀本部少佐、後に陸軍大将)によれば、国土防衛上の観点から首都移転を極秘に検討し、加古川の地を候補地の一つにあげています。

加古川が候補にあげられたのは、第一に災害が少ない地域であるということであったようです。

が、その他に「中国大陸侵略に備え、日本の首都を西に移すべきである」との考えがありました。

 候補地として、加古川の他に八王子(東京都)はともかく、ソウル(韓国)が、あげられていました。

 ソウルを日本の首都に候補に挙げたのは、露骨な中国大陸侵略に備えた遷都論です。

12  「遷都(八幡和郎著)」(中公新書)では、加古川への遷都の理由を次のように述べています。

 「・・・(首都の候補地は)兵庫県加古川の平地である。歴史上、(大きな)大地震にみまわれたこともなく、水資源も量・質ともに条件がよい。

防空という観点からも理想的である。

商工業都市としての機能は、阪神に任せ、皇室、政府機関、教育施設のみを移し、ワシントンをモデルに設計する・・・」

 この遷都論は、やがて各方面にもれ、動揺が起こり、立ち消えになりました。

 加古川の地は、他にも平清盛の時、日本の首都の候補にあがったことがあります。

*写真:線路上を進む避難者の群(上)・壊れた浅草凌雲閣(下)

コメント

南海地震(昭和21年12月21日)

2011-03-19 07:53:13 |  ・コーヒーブレイク・余話

加古川地方震える(南海地震)

Photo突然の地震は、昭和211221日の早朝に発生しました。

死者は、1.300人をこえました。

 潮岬の沖合を震源とするマグニチュード8.2の巨大地震・南海地震です。

 この時期、日本は敗戦のため占領されており、マスコミの自由な報道は禁止されていました。

 そのためか、地震の被害・規模が大きかったにもかかわらず詳しく報道されていません。

 ある新聞は、加古川地方のようすを次のように伝えています。

 「・・・21日早暁、突如、加印(かいん)地方(旧:加古郡・印南郡を含む地方)を襲った強震は空前のもので、何れも戸外に飛び出し、酷しい寒気と異常な恐怖に震えつつ夜の明けるのを路上に待ったが、調査の進むにつれ損害は意外に大きく、加古川町では居屋河原町(いやがわらちょう)の洗濯業・入江源栄さん(40)、寺家町一丁目小間物商・三木さんの隣家の白木栄太郎さんが見るも無残。

このため逃げ遅れた入江さんらは家屋の下敷きになって重傷。

・・・加古川旧本町の商店街は・・・損害を蒙らないところは皆無の状態であり、湯屋数軒の煙突は途中から損傷、旧日本毛織工場の大煙突は亀裂を生じ、レンガ塀の一部が損傷した・・・」

 専門家の意見では、この時の南海地震のエネルギィーは、すべて放出されていないとのことです。

最近、「さらに大きな次の南海地震が近い」と予想されています。

南海地震・東南海地震・東海地震が同時に発生したらどうなるのでしょうか。

「想定外」の地震・津波が恐ろしい。いま何をしておくべきなんでしょう?

コメント

播磨の大震災

2011-03-18 14:51:05 |  ・コーヒーブレイク・余話

  

 貞観10年(868)播磨大震災

播磨に大地震の記録があります。

その記録は『類聚国史(巻・一七一)』で、「・・・(貞観十年七月十五日の条に)播磨の国に地震があり、大地震。郡の官舎・諸寺の堂塔みなことごとく崩れた・・」と播磨に大地震があったことを記録しています。

地震が発生したのは、七月八日のようで、被害の状況を調査し、一週間後に報告しています。

この大地震が播磨に与えた影響は甚大なものだったようです。

郡の役所や寺の堂塔はことごとく大破しています。

死者等の記録はないものの多くの人々が犠牲になったと想像されます。

余談になりますが、播磨には貞観十年(868)年以前の建物がほとんど残っていないのは、この地震のためであると思われます。

米田に大地震(応永19年・1412)の記録

Photo また、中世の 加古川地域を記録した鎮増の書いた『鎮増私聞書(ちんぞうしぶんしょ)』には地震について記録がありあます。

 記事は、次のようです。

 ・・・某年(応永19年)十一月十四日暁、大地震あり、他国は、去程はなしと云伝、播磨にては米田東西十里計、神舎・仏寺・人屋破くつ(崩)れ、人の打殺さるゝこと多かりけり・・・

 播磨では、米田を中心として周辺10里ほどの神社・仏閣等が殆ど倒壊したことを記録しています。

 米田の地震は、今で言う直下型の地震であったのかもしれません。

 加古川下流の沖積平野は、加古川の流れが運んだ土砂が表面を覆い、地下の構造が分かりにくくなっています。

 南海地震・山崎断層にともなう地震にはもちろん注意が必要でそうが、加古川地方には、あんがい私たちの知らない断層があり、それが動いて大きな被害をもたらすかもしれません。

この二つの記録には津波の記録はありません。

 その他の記録にも、加古川地域の津波の記録(歴史)はないようです。

 でも、『大震災の地下で何が』(神戸新聞社)で、津波に関して次のような記述があります。

「・・・遅くとも2040年までに、和歌山沖の南海トラフでM8クラスの大地震が起こる可能性が指摘された。

その時は、揺れはともかく津波の心配がある。地震の規模によっては4~5㍍にもなるという。・・・」

 もちろん、播磨灘に押し寄せる津波は若干弱まっているでしょうが、最近は「想定外」の出来事が多すぎます。

*いま、ブログを休んでいます。

 この度の東北地方の大震災は、あまりに犠牲が大きすぎました。のんきな文章(ひろかずのブログ)を書くのは失礼な気がしたからです。

 いまのところ「頑張ってください」・「支援します」としか言えません。

 ブログを休んでいた間にも「播磨の地震・津波について知りたいという」メールを何通かいただきました。

 もちろん、日ごろ研究していませんので詳しく知りません。とりあえず上記の内容を報告させていただきます。

 図:南海地震・東南海地震・東海地震が同時に発生した場合の震度予想です。

   加古川地方は「震度5強」と予想されています。

コメント (1)

稲美町探訪(440):加古を歩く(91)・コウシンさん

2011-03-11 08:16:33 |  ・稲美町加古

010_3  中新田の公会堂がある場所へ出かけました。

『稲美町史』を読むと、公民館地内に、観音堂があり「本尊 如意輪観音、郡西国第七番霊場」とあるので確かめたかったためです。

この中新田の観音堂については、後日報告します。

観音堂から10メートルほど離れて、誰にも注目されないような、小さなコンクリートの祠(写真)がありました。

覗いてみると、「青面金剛」のお像です。

「庚申(こうしん)さん」です。

先に、庚申信仰について報告しておきます。

稲美町は「庚申信仰」が、さかんな地域であったようです。

たくさんの「青面金剛像」を見かけます。

   庚申信仰

 青面金剛像(しょうめんこんごう像)を、人々は「コウシンサン・・・」と親しみをこめて、そう呼んでいます。

 江戸時代、ずいぶん盛んであった庚申信仰(こうしんしんこう)も現在では、すっかりその姿を消したようです。

Photo_4  庚申信仰は、平安時代に中国から日本に伝わり、一般民衆の信仰になったのは、室町時代のことで、特に、江戸時代に盛んに行われていました。

 コウシンさんは、庚申の夜(六十日に一回)、人体に住むというサンシチュウという虫が、人の寝ている間に天に昇り、天上の神にその人の罪を告げに行くという。

 そのため、庚申の夜は寝ずに、当番の家に集まり、庚申像を拝んだり、村の庚申さんにお参りに行くという行事です。

    コウシンサンの夜

 いつしか、この行事は人々が集まって、一晩中酒を酌み交わし、演芸を楽しむと言う行事に変っていきました。

 江戸時代、庚申信仰では、もっぱら青面金剛が拝まれるようになりました。

 中新田にこんな夜の賑わいがあったのはいつの頃までだったのでしょう。

コメント