瀧家は辻堂(別府町元町)のあたり
瀧瓢水は、貞享元年(1684)別府村に生まれました。父は、瀧新右衛門仲春、母は参といいました。
家は、現在の別府町元町にある辻堂(写真)のあたりで、約100m四方もある広大な屋敷でした。
家業は、叶屋と号し、別府港を拠点とし、大坂や西国と手広く商いをしていました。
千石船七艘を有したというから、その豪商ぶりを知ることができます。
瀧家は三木合戦で籠城し、落城(天正8年・1580)後は現在の加東市滝野町で暮らしましたが、新右衛門元春(天正六年生まれ)は、別府村に移りました。
三木合戦で最初に攻防のあった別府城のあった場所は分かっていませんが、戦況・地形から考えて瀧家のあった辻堂あたりがふさわしいと考えられます。
ともかく、三木合戦後、別府城は取り壊され、広い跡地が残ったと想像されます。
瀧家は、その場所に屋敷を構えたと想像します。史料があっての話ではありません。
そこは、船の出入りする別府川の河口に近いし、また住吉神社のあたりの海岸は、現在の地形と異なっていました。
住吉神社の西のあたりは、別府川がS字状にまがった湛保(たんぽ)という船溜まりであったという記録もあります。
瀧家は、そんな別府の港に目をつけたのでしょう。
三木合戦を最後に、戦争のない平和な時代へとかわりました。
農業は大きく発展し、それに伴い商業活動もさかんになりました。
別府の浜は賑わい、瀧家は海運業者として時流に乗り大いに繁栄しました。
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