ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(72):コーヒーブレイク・いなみちょう

2009-12-29 10:12:35 | 稲美町

    都市に囲まれた地域・稲美町

Photo_2 昭和30331日、旧天満村・加古村・母里村が合併し稲美町が誕生した。

それぞれの村会で合併を満場一致で決めた。

合併を急いだ三村の理由は何だったのだろうか。

稲美町は、明石市・神戸市・三木市そして加古川市に囲まれている。

「このままでは、(経済的に)取り残される」という不安感であったらしい。

合併の条件に「近い将来、近隣の都市との合併が条件にあった」ことを思えばうなずける。

   三村は、水で対立

三村は、歴史的にそれぞれ個性的な性格を持っている。

三村は、必ずしもお互いに協力的関係にある村ではなかった。

水を奪い合いながら、反発しあった長い歴史を持つ。

一方、壮絶な地租・疎水建設費用の問題等で地域が団結する大切さも学んだ。

しかし、不幸にも疎水完成後、人々は地主と小作に分裂し、今度は村内での対立の歴史がはじまった。

が、第二次世界大戦の敗戦により小作農は自作農になり、一挙に地域が平均化した。

かつての、わだかまりも消えた。

・・・・

気がついてみると、稲美地域は大都市に囲まれていた。

経済的に埋没しそうであった。

そのために「大都市との合併」を急いだといえよう。

   小は顔の見える空間

事態は簡単に進まなかった。神戸市の合併はならなかった。

早急な合併は外部からの反対ばかりではなかったのではないだろうか。

心の底に姫路藩、さらに古く加古郡からの意識がしみついていたのではないか。

「神戸市稲美町」では「なんとなく、しっくりこない気持ちが案外大きな理由ではなかったのではなかろうか」と想像する。

稲美町は、しばらくは大きな状況の変化がない限り独自の道を歩むだろう。

これからは、細やかな、やさしい、行き届いた政治が求められる時代である。

これらは小さいからこそできる課題でもある。

合併に関しては、小はいつでも大につくことはできる。大は小にもどれない。

小さいことは、お互いの顔を知ることができる空間である。

稲美町は、お互いの顔の見える小さな貴重な空間であるのかもしれない。

*今年も後3日になりました。ブログをお読みくださいましてありがとうございました。

明日から来年の6日(水)までブログを休刊とします。

平成22年が、皆様にとって良い年でありますようにお祈りいたします。

来年もよろしくお願いいたします。

*写真:稲美町の町花「コスモス」

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稲美町探訪(71):神戸市との合併、寸前でご破算

2009-12-28 09:43:15 | 稲美町

    神戸市との合併問題

昭和303月、旧加古・天満・母里三ヵ村が合併して稲美町が発足しました。

もともと、財政的に豊かでない村同士の合併で、合併条件にも「将来は大都市への合併」をうたっていました。

稲美町の誕生は、大都市との合併のワンステップといえる新町の誕生でした。

そのため、大西一雄町長は神戸市との合併に向けて、まっしぐらに合併を進めました。

七年ごしの交渉がみのり、昭和372月神戸市側が重い腰をあげ「稲美町合併」を決定しました。

    仮調印後にご破算

Bd1c45b6 稲美町と神戸市の合併がまさに実現しようとする時でした。

予想もしていない合併反対の火の手があがりました。

まず、兵庫県が反対を表明しました。

理由は、県は稲美町を含めた播磨総合改発計画を進めており、同町が神戸市と合併すると計画に大きな影響があるということでした。

ついで、加古川市が反対し、さらに播磨広域行政都市協議会、播磨工業地帯整備促進協議会、東播磨総合改発促進協議会などが続き、外部からの反対運動はエスカレートするばかりでした。

平静を装っていた住民も、次第に地区意識が頭をもたげ、合併のための住民投票を要求する声が日増しに強まりました。

住民は、住民投票の要求署名運動を展開し、町会に提出しました。

これが拒否されると、今度は民主政治を守る町民大会、町幹部、町会総退陣要求、町会解散請求署名、町税不払い運動へ発展し、町は真二つに割れ対立の溝を深めてゆきました。

この間、神戸合併の仮調印はすみ、町は基本どおり合併準備を進めました。

しかし、合併反対派の強い運動と外部の反対でついに大西町長が退陣し、新町長で決着をつけることで双方は合意しました。

つまり、合併派の町長が実現すれば、反対派住民も全面的に協力するというものでした。

結果は、55票の小差で合併推進の町長が誕生したものの、こじれた住民感情は解きほぐすことができませんでした。

結論を県にゆだねることになり、稲美町は新しい独立の道を歩むことになりました。

そして、現在にいたっています。

当時、総務課長だった元、福田幸夫町長は当時をふり返り、「あれだけもめたのは住民へのPRが不十分で町、町会の合併への取り組みが先行し、住民に真意が理解してもらえなかったからだ」と反省する。(神戸新聞より)

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稲美町探訪(70):稲美町誕生

2009-12-27 10:28:00 | 稲美町

   稲美町誕生(昭和30331日)

F729e242_2 昭和22年「日本国憲法」がつくられました。

「住民が自分たちの住んでいる地域は、住民が自主的に運営する」と言う原則の下に「地方自治法」が施行されました。

戦後、地方自治体の権限は大幅に強化されたのです。

そして、昭和28年(1953)適正規模の地方自体をつくる目的で、「町村合併促進法」が制定されました。

稲美地区は、当初近辺の都市との合併も考えられましたが、早急な合併の期待もないこともあり、しだいに加古村・母里村・天満村の合併により、強力な自治の確立をはかり、住民福祉の増進を期待する方向にまとまりました。

そして、昭和30年(1955)「三ヶ村促進協議会」が設置されました。

314日、加古村会・母里村会・天満村会は何れも満場一致で合併を決議し、3月31日、「稲美町」が誕生しました。

5月に町長選挙が行われ、初代町長に大西一雄氏が選ばれました。

町章(挿入の図)も定められました。

 昭和30年当時の人口と戸数は次のようでした。

加古村・・・3686人(683戸)

母里村・・・6324人(1184戸)

  天満村・・・8837人(1650戸)

  合 計・・1.8847人(3517戸) 

稲美町の合併は、神戸市・明石市・加古川市・三木市に囲まれ将来大きく伸びていくために適当な時期に他都市との合併を計ることを基本方針としていました。

稲美町誕生後、まもなく神戸市との合併問題が稲美町を二分する政治問題となりました。

明日のブログでは神戸市との合併問題とその経過を見ることにしましょう。

 *町章は稲美町の「い」を図案化して、「鍬」と「鍬」を著し、また中央部は「稲の籾」をしめし、本町の和と発展を象徴している。(『稲美町史』p319より

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稲美町探訪(69):東播用水

2009-12-26 12:51:04 | 稲美町

C9249f3d_2 「淡山疎水」完成後もため池による灌漑は、水利権の関係により、いちばん水の必要な時期に水が不足するといった状態が続いていました。

この状態を打開するために農業用水井戸(削泉・さくせん)を掘りましたが、l年間を通じて取水できる新たな水利開発が求められました。

また、播磨工業地帯の急速な工業化は発展し、工業用水の需要がたかまりました。

そのため、昭和38年度から篠山川からの導水を織り込んだ水利計画の調査が開始されました。

    東播用水

調査開始後、5年目の昭和42年に基本計画がつくられ、昭和45年10月、農林省によって国営東播用水事業が発足しました。

右の地図をご覧ください。

加古川の支流、篠山川に川代(かわしろ)ダム、東条川に大川瀬(おおかわせ)ダム、美の川に呑吐(どんど)ダムを建設し、取水することになりました。

この事業は、総合水資源計画で、農業用水・工業用水・水道用水などをまかなうものです。

「東播用水」の完成により長年の願いであった印南野台地の水不足は解消されました。

皮肉なことに、この間「米あまり」「減反政策」等がさけばれ、農業を取り巻く環境は大きく変わりました。

*写真:パンフ「いなみ野ため池ミュージアム」より

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稲美町探訪(68):小作争議

2009-12-25 00:23:16 | 稲美町

   地主と小作に分解

淡山疎水完成後の話を駆け足でしておきます。

「水を求めて」で、地租改正による重税、疎水建設費、そして天災などで、多くの百姓は土地を手放さざるを得なかったことを説明しました。

その間に小作化する農民も多数にのぼりました。

彼らに代わって土地を所有した不在地主や農民は大きな収益を得ることになりました。

疎水事業は「農民の救済をすくう」ことを目的としていたにかかわらず、結果的には小農から土地をとりあげるという一面も併せ持ちました。

つまり、不在地主の侵入、村民を地主と小作への分解という新たな問題を表面化させました。

    母里村小作争議・小作料三割減免を要求

3c8e3b6d  第一次世界大戦後、大正デモクラシーの高揚・社会主義思想の広まりの中で、小作人は農民組合をつくり、自分たちの権利を主張するようになりました。

大正13年(1922)賀川豊彦は「日本農民組合」を結成し、本部を神戸におきました。

高砂の河合義一は「日本農民組合東播連合会高砂支部」を結成しました。

加古郡・印南郡の農民がこれに加入して「小作料減免」などを要求して、小作争議が加古・印南郡の各地におこりました。

大正13年、母里村で小作争議が発生しました。

母里村は、稲美町域でも最も小作が多い地域でした。

大正13年は凶作に見舞われました。

そのため、母里村の小作は「小作料三割削減」を要求しました。

しかし、地主側はこれを認めないばかりか、小作人に貸している小作地への立ち入りを禁止してしまったのです。

これに対して小作側は、他の農民組合の支援うけ、夜間のうちに小作地の稲を刈り取るなどで対抗しました。

この小作争議は、「小作調停法」による調停(話し合い)にもちこまれ、地主・小作人から代表を出し、話し合いで小作料を決める慣行を誕生させました。

この母里村の小作争議は、天満村・加古村の地主・小作人にも大きな影響を与えました。

稲美地区の他の小作争議については『稲美町史』に詳しく紹介されているのでご覧ください。

     農地改革

日本は、第二次世界大戦で敗れました。社会は大きく変わりました。

農業部門では、自作農の創設を目指した「農地改革」が実施され、地主が持つ小作地を強制的に買い上げ、小作人に安く売り渡しました。

稲美町域では、加古村199町・母里村294町・天満村373町と、全体のうちの半数を占めた小作地が買い上げられ、小作は自作農となり、現在にいたっています。

 *写真:河合義一(日本農民組合東播連合会高砂支部会長)

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稲美町探訪(67):ため池が多い理由は?

2009-12-24 00:32:28 | 稲美町

  江戸時代初期は大開拓の時代

D3c521c6 「・・・天下分け目といわれた関が原の戦いを中心として、その前後6070年ほどの間、つまり戦国初期頭から4代・綱吉の治世半ばごろまでは、わが国の全歴史をとおしても、他の時代に類例がないほど土木技術が大きく発達し、それが日本の社会を変えた時代である。

・・・

戦国争乱を生きぬいて大をなした人は、すぐれた武人であると同時にまたすぐれた治水土木家でもあった・・・」

以上は『江戸時代(大石慎三郎著)』(中公新書)からの引用です。

つまり、戦国時代に発達した築城・鉱山の開発・土木などの技術が、平和になった江戸時代に農業に転用され、江戸の初期は一大開発時代をむかえます。

大石氏が説明するように、江戸時代の初期に、いままで手のつけられていなかった印南野台地にも人々が入り、多くの新田が開かれました。

新田(村)をつくるためには、何よりも水が必要になります。

当然のように池をつくりました。しかし、池をつくると今まであった下の村には水が少なくなります。

そのためたくさんの池はできません。草谷川などから水を引く時も下の人々の水利権が優先されます。新池の築造は大変難しかったようです。

でも、水がないと新田(村)はできません。

そのために、水を比較的使わない田植えの終わる時期から翌年の春さきまでの間に池に水を貯め、その水を使うことを考えました。

これが、江戸時代の初期、印南野台地に池がたくさんつくられた理由のその一です。

中期以降は、池をつくることは限界になり、あまりつくられていません。

   淡河川の水を貯えるために

印南野台地は水との戦いは続きました。

明治時代の印南野台地の村々の水事情は、「水がこない(印南町探訪:4066)」でみてきたとおりです。

淡河川が完成しましたが、取水できた時期は農業用水をあまり使わない920日から翌年の520日(のちに31日)の8ヶ月(「引水期限」という)の間に限られました。

このため、水を貯めるための池の整備と新たな築造が必要となり、明治26年(1893)から明治38年(1905)ごろまでは、ため池の築造と整備が急速に進みました。

まとめます。印南台地に多くの池がつくられたのは、江戸の初期と明治時代です。

この二つの時期をつうじて現在の印南野台地の池のある風景ができあがりました。

写真:池のある風景

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稲美町探訪(66):水を求めて(27)・水は稲美の大地をつくる

2009-12-23 08:48:30 |  ・稲美町水を求めて

420d7c47 明治24920日、淡河川からの水が本格的に印南野台地に流れました。

その喜びもつかの間でした。

明治25723日、降りだした雨は雨あしを強めました。

次の日も雨粒は凄まじい音を立てながら台地をたたきつけました。

村長の岩本は「疎水は、だいじょうぶか」「ケシ山のトンネルは・・」と不安になり見回りにでました。

心配は的中でした。

途中で野谷の(松尾)要蔵にあいました。

「どないや・・・」

「須三郎はんか・・えらいこっちゃ・・水路もケシ山のトンネルも、ぐちゃぐちゃにつぶれとてしもうて・・・」

須三郎は、その風景に呆然と立ちつくすばかりでした。まるで、白いヘビがのたうっているみたいでした。

被害は、サイフォンを除く全線で全滅でした。

・・・・

須三郎はへこたれるわけにはいきません。

「なんとかなるやろ・・・」

    逸治はん、国会議員にならへんか

話を少し前にもどします。

須三郎は、はかどらぬ疎水工事に政治力の不足を感じていました。

(岩本)「逸治はん、あんた国会議員に立候補せいへんか・・・」

(魚住)「やぶからぼうに、何いうねん」

(岩本)「立派な疎水つくらなあかん。そのためには政治力が必要や。わし等に欠けているのは政治力なんや」「さいわい、こっちには疎水組合がある。それだけ有利や・・・」

逸治は迷いましたが、逸治も政治のことを考えないことはなかった。

そして、立候補を決断しました。

逸治はみごと当選し、県では12名の衆議院議員の一人となりました。

   逸治はん大変や、疎水が潰れた・・・

 疎水が、大雨でこわれたという一報が須三郎から入りました。

逸治は東京で、方法は河川復旧工事に準じる方法しかないと考えました。

まず県会で地方補助費を決議し、ついで国庫補助を仰ぐ方法です。

知事は、この案を県会に提出しました。

県会では、「85.000円で造ったものを完全なものとは言いながら180.000円もの金を得て修理するとは合点がいかぬ・・・」

県会はじまって以来のさわぎとなりました。

時間切れの寸前に、やっと2票差で可決されました。

舞台は、国会にうつりました。

衆議院では、逸治が開会前から政府関係者への陳情・議員への説得にまわり、何とか可決されました。

国庫下渡金および地方補助金は65.015円で、組合負担金は324.714円でした。

借金は組合負担として残りましたが、疎水の修理もでき、台地の農業は大きく変貌しました。

以後、水の恵は大きく、村人は多くの畑や山林を水田に変えました。

   山田川疎水

水はたちまちに不足するようになりました。

そして、山田川からの疎水計画が再燃しました。

明治41年山田川疎水工事の起工を知事に願い出、用地買収や起工準備にかかり、28万円の借り入れを決め内務・大蔵大臣へ申請しました。

明治44年(1911)に着工し、大正4年(1915)に完成させました。

人々は、うめきながら印南野の台地を水田へ変えたのです。

印南の台地は、まさに稲の美しく育つ大地、稲美と大変貌をとげました。

   水は来たが・・・

不当な地租の負担に耐えられず土地を失った百姓も多かった。

水が来た時、彼らには耕す土地はなくなっていた。

・・・

(完)

写真:魚住逸治(『兵庫県淡河川・山田川疎水百年史』より)

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稲美町探訪(65):水を求めて(26)・岩本須三郎

2009-12-22 09:52:39 |  ・稲美町水を求めて

稲美町探訪(1・2)とあわせご覧ください。

明治2241日、蛸草新村・草谷村・下草谷村・野谷新村・印南新村・野寺村の6ヵ村が合併して母里村が誕生しました。

その時、江戸時代の新田をあらわす新村の名称はなくなり、それぞれ母里村蛸草・下草谷・野谷・印南となりました。

初代母里村村長として蛸草の岩本須三郎が選ばれました。

   

初代母里村村長・岩本須三郎

92cd42a9 蛸草新村の庄屋の家に生まれた須三郎は、父を早く亡くし12才で庄屋の家をついでいます。

戸長になってからは、納税の問題・疎水事業にと、おいたてられ続けの毎日でした。

あるとき、郡長が気の毒そうに、「岩本さんもえらいときに村長になってでしたな」となぐさめたほどです。

(岩本)「ほんまですな・・・でも、苦労が大きいほど、喜びも大きますし・・・」

静かに答える須三郎の声には重みがありました。

まさに、須三郎の人生観でした。

しかし、「村長の言うことよう分かるが、借金だけがぎょうさんできた。なんでこんな時に疎水つくるんや、もうちょうっと時期待てへんのかいな・・・わしら、土地売るしかしょうない」と不満をもらすものも多くいました。

(岩本)「土地売ったらあかん、もうじき水が来る。疎水の仕事や鉄道の仕事で日銭かせいで、もうちょっとがんばらなあかん」

こういうのが精一杯でした。

明治22年は、雨が多い年になりました。そして、秋には台風にも見舞われ、できたばかりの水路の一部も崩れました。

金が足りない。それだけではなかったのです。工事が始まると山陽鉄道の工事もはじまったため、人夫の賃金もあがりました。

でも地方の地元資産家は、出資には冷淡でした。

トンネルの工事の目途はついたのですが、工事費は、目途がつきません。

21ヵ村の惣代は「淡河川疎水工事費拝借」を国に願い出でました。

工費拝借願いは認められなかったが、借り入れ金の返済の延納は認められました。

   

水がきた・・・・

明治2447日ケシ山トンネルは貫通し、411日、検査のために水門が開かれました。

淡河川の水は、勢いよく疎水に流れ出た。

練部屋の配水所の周りは、水を迎える多くの人々の熱気があふれていました。

水は、ゆっくりと力強く5日をかけて練部屋に流れてきました。

うれしさのあまり、水路に跳びこむ者も大勢でした。

喜びは、練部屋からの支線水路やため池工事に大きな励みをあたえました。

須三郎の蛸草では早くから水路・広谷池の工事を始めました。

野寺の穴沢池の工事もさっそくはじまりました。

こうして各村々で相次いで工事にかかり、明治40年には印南17、下草谷6、草谷5、野寺4、野谷3の新池が築かれました。

野寺高薗寺の東がわにある「総池之碑」には、淡河川の疎水が通じて野寺村には4つの新池と5つ増築が行われたことを記録しています。新池分を紹介しておきます。

  (新築)

穴沢池  明治 25   9月起工

  野畑池  〃  27  4月 

  小出池  〃  2710

中 池  〃 2810

*写真:岩本須三郎(『兵庫県淡河川・山田川疎水百年史』より)

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稲美町探訪(64):水を求めて(25)・水は練部屋へ流れる

2009-12-21 10:27:58 |  ・稲美町水を求めて

幾多の試練をのりこえて、ついに夢が実現する日が来ました。

明治21127日、淡河川疎水工事の起工式が播磨葡萄園で行われました。

内海知事、田辺技師、県会議員、町村戸長、水利関係者らの顔がそろい、晴れた寒さ厳しい冬の日でしたが、ここばかりは華やいでいました。

「(魚住)完治はん、よう頑張りましたな・・・」

「皆さんのおかげです。百姓の思いは、みんなおんなじなんです・・・」

だれかれとなく、完治に声をかけてきました。

完治は、満ち足りたこの日の幸せをかみしめるのでした。

   難工事のケシ山隋道

Photo たやすく思われた淡河川の平地の工事は、岩は崩れやすく難工事となりました。

また、皮肉なことに工事は、しばしば雨にたたられました。

御坂では、水管(サイフォン)の工事が始まりました。

人々の疑いと心配の中を工事は予定通り進み2年間で見事に完成しました。

御坂を越えた疎水は、御坂の少し南のケシ山へと流れ下ります。

この部分の疎水の一部は、山を貫く隋道(682m)工事となりました。

*隋道(ずいどう)は、トンネルのことです。

ケシ山の隋道工事は、土地が軟弱で、湧水がおびただしく県の直営工事となったのですが、それでも一日60mを進めるのがやっとの難工事でした。

212月に取りかかり、貫通するまで34ヶ月を要しました。

ケシ山を越えた水は、ついに紫合村練部屋(ゆうだむらねりべや)の配水所に水は流下りました。

そして、配水所の噴水口から吹き上がり、5つの排水口からそれぞれのため池へ向かうのです。

工事費は、トンネルなどの難工事などのために大幅に増えました。

工事もさることながら地元負担金の徴収は難航しました。

長年の日照と重税のため、疲れきった村人とから集めることは限界に達していました。

*写真:現在の練部屋の配水所。写真中央部(配水所から東)の山は雌岡山

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稲美町探訪(63):水を求めて(24)・取水口を淡河川に

2009-12-20 09:13:34 |  ・稲美町水を求めて

地図で淡河川・御坂(サイフォン)・練部屋(ねりべや)を確認ください。

疎水工事は、淡河川の取水口から練部屋までの疎水です。練部屋から流れ出た水は、各支線を流れ、印南台地を潤すことになります。

取水口、山田川から淡河川に変更

39315311  疎水に対する国の動きに、近隣の村々も参加を願い出ました。

母里6ヵ村としても仲間が増えれば負担も軽くなります。

双方の利害が一致して水利組合の組織は大きくなりました。

19年には関係6ヵ村に加古新村、天満地区の10ヵ村、それに平岡の高畑村・土山村そして二見の東二見村・福里村が加わり21ヵ村となり、名前も「印南新村外20ヶ村水利組合」となりました。

内海県令(森岡県令は明治18年に中央へ転出)は、この疎水事業に意欲的でした。

県令みずから加古川まで出向き、21ヵ村の戸長(村長)と請願委員を郡役所に集めました。

「・・・・私は、前県令からこの計画を引き継ぎました。国に工事費9万円の借り入れを願ったのですが半額の4万5千円程度が限度と思われます。

それでも、この工事を受けるかどうか重大なことなので、よく考えて欲しい・・・・」

新しく組合に加わった村々の代表は、どのくらいの工事費になるのか不安でしたが、何とか各村々の負担も決めることができました。

内海県知事(明治19年度より県令から県知事に改称)は、水利土工費を国に申請しました。

   サイフォンって何?

015 内務省に、より精密な調査を依頼しました。

内務大臣の山県有朋(やまがたありとも)は、洋式土木を学んだ新進気鋭の田辺儀三郎技師を派遣してきました。

調査の結果は、人々を困惑させるものでした。

山田川線は、シブレ山が険しく岩がもろく、はじめに見積もった工事費ではとてもおぼつかない。

淡河村木津で取水すれば、平地を楽に掘り進めることができる」と言うものでした。

 地図をご覧ください。

でも、この路線は志染村御坂(しじみむらみさか)で、いったん低地(志染川)をこえなければならないので、いままで誰も注目した者はありませんでした。

田辺技師は、ここを鋼鉄のサイフォンで水を通すというのです。

人々は、「なんぼ世の中が変わったいうたかて、いっぺん下ろした水が上がるやなんて、そんなええかげんな話聞いたことがないわ・・・」と不思議がるばかりでした。

郡長は、サイフォンについて何度も何度も説明しました。

そして、新しい路線の工事が認められました。

*地図は『兵庫のため池』(兵庫県農林水産部)からお借りしました。写真:現在の御坂(みさか)サイフォン

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稲美町探訪(62):水を求めて(23)・牛の餌じゃ!

2009-12-19 10:52:36 |  ・稲美町水を求めて

  疎水計画は動き出したが

059 疎水建設は動き出しました。が、喜んでばかりはおれません。

いぜん未納地租は残ったままでした。

(明治19年)11月、鐘が鳴らされた。人々は役場へ急ぎました。

吏員が、地租不納処分のために村に来たのです。村人たちはたまった不満をぶちまけた。

「疎水ができるのに殺生や、水が来るまで待てんのかいな」

「土地買うた者が儲けて・・・、お前等金持ちの味方ばっかりするんかいな」

郡の吏員は何も言えませんでした。

怒りに檄した村人たちに、戸長の岩本もなだめようもなかったが、吏員と話してもらちのあく問題でもありません。

新郡長は「疎水の話が持ち上がって土地の値段もあがったし、売りやすくなったはずだ。売って納めるのがいやなら公売にするまで・・」と手かげんをしませんでした。

不納者440人の畑地140町が処分されてしまいました。

この時、6ヵ村730戸の農地7分の4以上の土地を奪われてしまったのです。

その、ほとんどが土地を営々として開墾してきた小百姓の土地でした。

    まるで牛の餌じゃ

この時(明治19年)のひとりの農民の様が、『母里村難恢復史略』に記されています。読んでおきましょう。

農民(農村)の貧困の話ばかりが続きましたが、最後の貧乏物語とします。

原文で紹介しまが、飛ばして読んでいただいても結構です。後の訳を参照ください。

・・・・

明治十九年地方税不納ニ付キ土地家屋ヲ公売二付セラレシモノ四百四十余名アリ此ガ施行ニ郡吏出張セリ此ノ不納者多キハ矢張地租改正重租ニ依リテ人民ガ窮迫シタルモノナリ其ノミギリ郡吏ガ出張ニツキ印南新村の極貧ニ寄リタルニ其ノ家ハ三畳敷許リノ藁小屋ニテ其ノ家ノ老父ガ土釜ニテ何カ食物ヲ煮キ居ルヲ郡吏ガ試ミニ其ノ土釜ノフタヲ明ケ見ントシタルニ老父ハ合掌シテ其ノ蓋ヲ明ケテクレナト止メオクニモカカワラズ郡吏ガ明ケ見レバ何ゾ図ラン其ノ食物ノ中ニ藁ヲ切リ交ゼアリ郡吏ハ此ヲ見テ憐然ニ絶ヘズ・・・(『母里村難恢復史略)』p69より)

(内容の一部の訳・『母里村難恢復史略』に記されてない内容も付け加えています)

・・略・・

3畳敷ばかりの藁小屋の隅で、年老いた農夫が釜でなにやらに煮物をしていました。

農夫は、突然の来訪者におどろいたようすでした。

「だれじゃいな」

「役所から来たんやが、だれもおらへんおかいな」

吏員は、釜の中をのぞいてみたくなりました。

老農夫は、あわててその手を押さえました。

「見たらあかん」「中のぞかんといてくれ」

悲鳴にも似た声でした。吏員は、一瞬ひるんだが蓋をはずしました。

煮えた釜には麦らしいものが浮かんでいましたが、ほとんどが藁でした。

「牛の餌やないか」

いくら貧乏でも牛並みのものを食べているとは知られたくなかったのでしょう。

税金の話どころではなくなりました。

郡吏は、だまってポケットから20銭を取り出すと、そっとかまちに置いて、「これで税金はろとけ」

そう言うと、後もみずに出ていきました・・・

 *小説『赤い土』小野晴彦氏は、この『母里村難恢復史略』(北条直正著)をベースに描かれています。

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稲美町探訪(61):水を求めて(22)・疎水計画が動く

2009-12-18 18:27:20 |  ・稲美町水を求めて

 品川農商務省大輔(次官)来る

200pxyajiro_shinagawa_2 (明治16年)1219日、農商務省大輔(次官)の品川弥二郎が、葡萄園の視察に訪れました。この視察に県から租税課長が同行しました。

葡萄園の園長の福羽(ふくば)は、葡萄園の苗の植え付けや生育のようすのほか、地域の百姓の生活のようすも話しました。

丸尾茂平次(印南新村戸長)は、地租を納めるために土地を売ったことを話しました。

品川は、さらに村の生活ぶりを聞きただすのでした。

・・・・・

(品川)「租税課長。人民が租税を納めるために土地を売ったと言っているが、知っているのか」

(租税課長)「はい、知っております」

(品川)「知っていてなぜすぐに止めさせなかったのだ。第一に、土地を売って納めなければならないほどの地租を課すとはなにごとだ」

租税課長への叱責はするどかった。

(品川)「・・・なぜ、適正な修正をしなかったのだ。郡長が土地売買の世話をしたということであるが、租税課長が修正していれば、せずに済んだはずではないのか」

そして、品川弥二郎からこんな発言が続きました。

(品川)「これからは、なるべく土地を売らないように。土地さえあれば、その内によいことがあるであろう」

戸長たちは、顔を見合わせるのでした。

「よいこと?・・・、ひょっとしたら国のほうで疎水計画が具体化しているのではないのだろうか・・」

その後も、魚住逸治さんの疎水の話に随分熱心でした。

・・・

租税課長は、おもしろくなかった。

「この恨みは必ずかえさせてもらう・・・」

百姓への、お門違いの恨みが、腹のそこで煮えたぎっているのでした。

    疎水計画が動く・・・

「国が、疎水を具体化させるのではないか」というウワサは、百姓の間で大きな波紋をよびました。

ウワサだけではなかったのです。

年が改まった(明治)16年、県は疎水線の実測を始めました。2月には県の土木課長と郡長が水源まで視察をしました。

突然、疎水計画をめぐる状況が変わってきました。

3月には、県の動きを追うかのように、農商務省の南市郎平が訪れました。

南は、安積疎水(福島県)を手がけた人物でしたから、疎水計画のウワサは、いっそう大きく広がりました。

県の土木課も加わり大がかりな調査もはじまりました。

7月10日には大蔵卿(大臣)の松方正義(まつかたまさよし)の巡視があり、続いて農商務卿の西郷従道(さいごうつぐみち)の視察がありました。

(明治)17年3月、関係村より新赤堀郡長の副申を添えて、水路開削起工願を提出しました。

疎水計画は、にわかに動き出しました。

*写真:品川弥二郎(農商務省大輔)

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稲美町探訪(60):水を求めて(21)・北条郡長辞任

2009-12-18 08:47:39 |  ・稲美町水を求めて

写真(北条加古郡長:「稲美町探訪50」と同じ)を見ながら今日の記事をお読み下さい。

   説得すれど

A2dc4cac 印南新村の百姓衆が、郡役所に直訴したあくる日、郡長は上庁しました。

なんとしても、土地の取り上げの件を県令に伝えたかったからです。

しかし、県令からの返事は、むなしいものでした。

(県令)「地価を修正し、増租分の延長も認めたのに、その上に郡役所まで押しかけるとはあまりにも強情者たちである。とんじゃくすることはない。処分は徹底して行なえ・・・」

・・・

郡長は、何を説いても分かってもらえぬ上司に言いようのない怒りを覚えました。

(郡長)「このままでは、村が潰れてしまう。当座、2000円でも納めたら急場をしのげるのだが・・・

郡長が租税の支払いのために畑を売らせる。こんなことが許されるのだろうか」

こんな考えが北条自身を苦しめるのでした。

ともかく、今を切り抜けるために2000円が必要でした。

北条は、大阪のYに、土地の購入を申し込みました。

Yは、葡萄園に興味を持ち、将来の疎水の話に目を輝かせました。

「いまは儲けにならへんが、疎水ができたら、この地はようなる。ええ買い物かも知れへん」と考えたのでしょう。

没収地のうち34町の契約がまとまりました。

価格は、葡萄園の時と同じ反当り6円でした。

その代金の2000円は戸長に渡され、そのまま地租未納分として納付されました。

なんとか急場をしのぐことはできました。

残った没収地は元の百姓に返されました。

    北条郡長辞任

(明治)154月。突然郡長に勧業課への転任が決まりました。

役人として好ましくない人物として、閑職へ追われたのは明らかでした。

悔しかった。北条は、自分の力のなさを骨身にしみて感じるのでした。

このままでは、百姓がかわいそうだ。

・・・・

しかたがなかった。北条は、役人を辞任した。

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稲美町探訪(60):水を求めて⑳・郡長は味方や

2009-12-17 11:25:50 |  ・稲美町水を求めて

   印南新村の百姓たつ

29f810f0_2 明治15年は、なんとも気の重い年明けとなりました。

240町の土地を農民から取り上げることは百姓の生きる全てを奪うことになる。営々として積み上げた苦労を、村を一気につぶすことになる。法の定めに従うとはいえ、人間として許されるのだろうか・・・」

郡長は、言いようのない悔いとおののきを覚えるのでした。

田舎の宿は、静かでした。冬の風だけが屋根でなっています。

しかし、怒りに火がついついてしまいました。

宿の主人が「お役人さま、村のもんが大勢で押しかけてくるそうです」

二人は、早々に裏口から抜け出し、役所へ逃げ帰りました。

・・・・

数日後、印南新村の男200人あまりが郡役所を目指しました。

郡長がその知らせを受けた時は、すでに加古川の町に迫っていました。

午前10時。一群は寺家町の役所に着きました。

さっそく、一群は郡長に直訴しました。

(百姓)「この度のこと(地券没収)は、人とも思えぬ仕打ちであり、あまりにもひどい。このような仕打ちをした県令は、おそらく真実を知らないとしか思えません。

我々は、直接県令に会って事情を説明し、処分を取り消すように嘆願することにしました。郡長には迷惑と思うが同行願いたい・・・

百姓も立たなあかん時があります。今がそのときやと思てます・・・」

(郡長)「皆さんはお願いに行くつもりでも県令は、一揆ととるでしょう。

その後にまっているのは、処罰だけです。立ち方、まちごうたらいけません。どないしたらよいか、よう考えてください。・・・皆さんでよう話し合ってください」

郡長は、いっとき部屋にこもりました。

    郡長は味方や

ややあって、郡長は呼びだされました。

(百姓)「・・・来る時、丸尾戸長(村長)は冷静に行動するように言われました。

そして、郡長はたとえ役人でも村のことを真剣に考えてくれはった。役人の中でたった一人の味方や。

わし等には、まだ大事な郡長や。郡長の話をよお聞いて欲しいといわれました。話はまだ、まとまっていません」

北条郡長は、熱いものがこみ上げてくるのでした。

「地券の取り上げの件は、なんとしても県令と話をつけます。そう丸尾さんにお伝えください」

百姓は、来た道をひきあげていきました。何の解決もないままで・・・

*以上は『赤い土』の「止むに止まれず」の要約です。挿絵も同書からお借りしました。

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稲美町探訪(58):水を求めて⑲・飴と鞭

2009-12-16 12:42:12 |  ・稲美町水を求めて

     飴(地租の見直し)

新祖額に対する不満は他の地域でもおきていました。

かたくなな態度をとっていた政府も、一部の祖額の修正に応じざるを得ませんでした。

14年にずれこんだ地価の修正作業でしたが、全国の15ヶ村で祖額の修正が行われることになりました。

15ヶ所のうち6ヶ所が兵庫県で、川辺郡の一ヶ村と蛸草新村を除く印南5ヵ村が対象となりました。

国は、正式に印南5ヵ村の祖額は適正な査定でなかった事を認めたのです。

しかし、森岡県令は国の財政確立のための職務に忠実のあまりの勇み足ということか、中央では高く評価されていました。

この修正される村の中に、なぜか蛸草新村の名前がないのでした。 

詳しいことは分かりませんが、これは隣り合う加古新村や国岡、国安、岡村への影響を考えてのことであったのかも知れません。

蛸草新村の戸長(村長)、岩本須三郎にとってはつらい決定でした。

「お人よしやから、甘う見られるんや」「村のもんは、えらい迷惑や」と言う者もいました。

ただし、この減税は14年から行われ、それまでの祖額はそのまま納めなければならなかったのです。

この特別祖額修正に続き、地租改正で増額になった910年の差額延納が次のように認められました。

  印南新村・野谷新村・野谷村・・・25

  下草谷村・・・20

  草谷村・・・・15年  

祖額は修正され、延納は認められたのですが、まだまだ納められる額ではありません。

・・・・

祖額を決めた県としては、祖額が間違いであると国に指摘されたことは、面白くありませんでした。

    鞭(より厳しい取立て)

E7ca43f7 県の租税課は、「減税は行われたのだからもはや文句はないはずである」と、地租未納の徴収は一段と激しさを増しました。

県の命令に郡長も従わざるを得ません。

郡長は、印南6ヵ村の主だった者に伝えました。

「先日、県令より命令がありました。印南新村の地祖未納者処分をせよと言うことです。

皆さんにも地租未納分を完納してもらわねばなりません。

この度の命令は厳しいものであり、猶予はないでしょう。

不納の時は公売処分になります・・・・」

しかし、「ないものはない」のでした。

陳情の効果もなく、不納者221名の土地は公売されることになりました。

しかし、この時も入札者は一人も現れませんでした。

県は、次の方法として土地没収と地券引き上げを通知してきました。

明治141231日のことでした。

印南6ヵ村にとって、冷たい、絶望の大晦日となりました。

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