ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

大河・かこがわ(251) 近世の高砂(47) 新、工楽松右衛門物語(18)・船を持て

2020-05-11 08:41:51 | 新・工楽松右衛門物語

        船を持て

  ・・・・

 多度津で、(高田屋)嘉兵衛が(工楽)松右衛門旦那からきいた話で胆に銘じたのは、「持船船頭になれ」ということでした。

 「沖船頭(雇われ船頭)など、いくらやっても面白味にかぎりがある」ということでした。

 「嘉兵衛、いくつだ」

 「二十四でございます」

 「わしなどは40から船持の身になったが、若ければ船のことがもっと身についたにちがいない、沖船頭をいくらやったところで、持船とは身につき方がちがう」ともいうのです。

 が、資金がありません。

 千石船一艘の建造費には千五百両という大金が必要でした。

 二千両といえば、それだけの現金を持っているだけで富商といわれるほどの額です。

 松右衛門の場合は、「松右衛門帆」という大発明をして、それを製造し大いに売ったればこそ、沖船頭から足をぬいて持船の身になることができたのです。

 「わし(嘉兵衛)には、資金がありません」といったが、松右衛門旦那は無視し、大声をあげ「持船の身になればぜひ松前地へゆけ」というのでした。

 「陸(おか)をみい。株、株、株がひしめいて、あとからきた者の割りこむすきまもないわい」ともいうのです。

 株をもつ商人以外、その商行為はできません。

 大坂に対して後発の地である兵庫でも、株制度は精密に出来てしまっています。

 ・・・・

 株という特権をもたない者は、いっさい取引に参加できません。

 もともと商人がこの制度を考え、幕府に認めさせたのですが、今度は株が、商人の自由な活動を妨げるようになっていました。

 幕府は、株を持つ特権商人と結びつき、税を搾り取るようになりました。(no4963)

 

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大河・かこがわ(246) 近世の高砂(40) 新、工楽松右衛門物語(11)・帆でもうけよ

2020-05-04 08:03:46 | 新・工楽松右衛門物語

        帆でもうけよ

 松右衛門織りは、こんにちなお兵庫県の明石から加古川にかけての産業である厚織りやカンバス、ベルト生地の製造、あるいはゴムタイヤに入れる「すだれ織り」といったかたちで生きつづけています。

 松右衛帆について続けます。

 かれは、この帆布の製作のために兵庫の佐比江に工場を設けましたが、当時まだ沖船頭(雇われ船頭)でした。

 この資金は北風家、あるいはその別家の喜多家から出たのではないかと思われます。

 佐比江(さびえ)の工場では、船主や船頭が奪いあうようにして出来上がりを持ってゆくというぐあいで、生産が需要に追いつかないほどでした。

 かれは、むしろ積極的にこの技術を人に教え、帆布工場をつくることをすすめました。

 明石の前田藤兵衡という人物などは、いちはやく松右衛門から教えをうけて産をなしたといわれています。

 「金が欲しい者は、帆をつくれ」と、松右衛門はいってまわりました。

 このため弟子入りする者が多く、工場はにぎやかに稼働したが、独立してゆく者も多くいました。

 数年のうちに播州の明石、二見、加古川、阿閇(あえ)などで、それぞれ独立の工場が動きはじめ、西隣りの備前、備後までおよびました。

 この松右衛門帆は、これ以後の江戸時代を通じて用いられたばかりか、明治期までおよびました。

 ・・・・

 「人の一生はわずかなもんじゃ。わしはわが身を利することで、この世を送りとうはない」というのが松右衛門の口癖でした。(no4956)

 *写真:松右衛門帆の布地

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大河・かこがわ(245) 近世の高砂(39) 新、工楽松右衛門物語(10)・松右衛門帆

2020-05-03 09:18:34 | 新・工楽松右衛門物語

      松右衛門帆 

 松右衛門を有名にしたのは、なんといっても、「松右衛門帆」の発明です。

 近世初期の帆はムシロ帆であり、17世紀後半に木綿の国産化により木綿帆が普及し船に利用されました。

 しかし、18世紀末までは厚い帆布を織ることができなかったので、強度を

増すために、二・三枚重ねてさして、縫い合わせた剃帆(さしほ)でした。

 剃帆(さしほ)は、縫合に時間と労力が必要であり、それでも強度は十分でなく破れやすい帆でした。

 松右衛門帆については『菜の花の沖』に詳しく説明されていますので、ここでも引用させていただきます。

       帆の改良

 「帆を改良しよう」と松右衛門が思いたったのは、中年をすぎてからです。

 彼は、北風家の別家の喜多二平家で話しこんでいたときに不意にヒントを得たらしい。

 幾度か試行錯誤をしたらしいのですが、「木綿布を幾枚も張りあわせるより、はじめから布を帆用に織ればよいではないか」と思いつき、太い糸を撚(よ)ることに成功しました。

 縦糸・横糸ともに直径一ミリ以上もあるほどの太い糸で、これをさらに撚り、新考案の織機(はた)にかけて織ったのです。

 ・・・・できあがると、手ざわりのふわふわしたものでした。

帆としては、保ちがよく、水切りもよく、性能はさし帆の及ぶところではありません。

 かれのこの「織帆」の発明は、天明二年(1782)とも三年ともいわれています。

 ・・・・

 帆は「松右衛門帆」と呼ばれましたが、ふつう単に「松右衛門」とよばれるようになりました。

 さし帆より1.5倍ほど値が高かくつきましたが、たちまち船の世界を席捲(せっけん)してしまいまあした。

 わずか7、8年のあいだに海にうかぶ大船はことごとく松右衛門帆を用いるようになりました。

 その普及の速さはおどろくべきものであったといっていいます。(no4954)

  *写真:松右衛門帆でゆく北前舩

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大河・かこがわ(244) 近世の高砂(38) 新、工楽松右衛門物語(9)・松右衛門の発明

2020-05-02 08:17:01 | 新・工楽松右衛門物語

      松右衛門の発明

 松右衛門は、少年の頃から発明をすることが好きで、驚くほど多才な才能を発揮しています。

 中でも、なんといっても船の帆「松右衛門帆」ですが、松右衛門帆については、後に紹介します。

    『農具便利論』にみる松右衛門の発明

 松右衛門の発明ついて『菜の花の沖』(司馬遼太郎)で、次のように書いています。(漢字等少し変えています)

 ・・・

 たとえば大船と大船の連絡用の快速艇を考案して「つばくろ船」と名づけたが、荒波をしのぐが便利なように潜水艦のような形をしている。

 彼が考案した船や道具のうち15点ばかりが、江戸後期の農学者大蔵永常(おおくらながつね・1768~?)の『農具便利論(三巻)』に鮮明な図付きともに掲載されている。

 轆轤(ろくろ)を用いて土砂取船、舷が戸のような開閉する土砂積船、海底をさらえるフォークのような刃の付いたジョレン、あるいは大がかりに海底をさらえる底捲船(そこまきぶね)、また水底に杭を打つ杭打船、石を運ぶ石積船、さらに巨岩を一個だけ水中にたらして運ぶ石釣船(図)、など20世紀後半の土木機械と原理的に似たものが多く、そのほとんどが松右衛門生存中に一・二の地方で実用化され、死後、ほろんだ。(以上『菜の花の沖』より)

      松右衛門の工夫

 松右衛門の発明は、当時の人々にかなりの程度知られていたテコを大型化した滑車、浮力を組み合わせたものが多いが、知られていた原理や道具を組み合わせて異色の機具・道具をつくりだしています。

 これらの技術は、後に紹介したい箱館やシャナ(エトロフ島)の港づくり等で威力を発揮しました。(no4953)

 *大蔵永常(おおくら ながつね)・・・明和5年(1768~ ?) 江戸時代の農学者。宮崎安貞・佐藤信淵とともに江戸時代の三大農学者の一人。

*図:松右衛門考案の石釣船(『農具便利論』大蔵永常より)

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大河・あこがわ(241) 近世の高砂(35) 新、工楽松右衛門物語(6)・ 兵庫港、天領となり一時衰弱

2020-04-29 06:54:53 | 新・工楽松右衛門物語

                   兵庫港、天領となり一時衰弱

 『播磨灘物語』を読んでみます。(文体を変えています)

 ・・・こんにち「阪神間」とよばれている地域は、江戸時代の中期、噴煙を噴きあげるような勢いで商業がさかんになりました。

 特に、尼崎藩は、藩の産業を保護し、特に兵庫港を繁盛させることに力を尽くしました。

 しかし、幕府はこの地の商業活動が盛んなのを見て、明和6年(1769)にここを取り上げ、天領(幕府の直轄地)としました。

 が、幕府は兵庫港の政策(運営の方針・みとうし)を少しも持ちませんでした。

繁盛しているところから運上金(うんじょうきん:税金)を取りたてると言うだけでした。

 そのため、あれほど栄えていた兵庫問屋は軒なみ衰えていきました。

 北風荘右衛門(きたかぜそうえもん)が34・5才のときでした。

 彼はまず同業の問屋に、兵庫港の復活を呼びかけました。

 北風家は大打撃を受けていましたが、それを回復したのは、北風家が船を蝦夷地(北海道)へ仕立てて、その物産を兵庫に運んで売りさばいたからです。

 莫大な利益がありました。

 十年にして、ようやく兵庫の商権と賑わいを取りもどしました。

 以後、兵庫港では、北風家の競争相手はいなくなりました。

 そして、「兵庫の北風家か、北風家の兵庫か」と呼ばれるまでになりました。 (no4950)

 *絵:兵庫港:孫(小4当時描いた絵)

 

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大河・かこがわ(240) 近世の高砂(34) 新、工楽松右衛門物語(5)・北風家

2020-04-28 11:28:11 | 新・工楽松右衛門物語

      北 風 家

 『菜の花の沖(二)』(文芸春秋文庫)は、次のように始まります。

  ・・・兵庫の津には、北風という不思議な豪家がある。・・・・

 「兵庫を興(おこ)したのは、北風(きたかぜ)はんや」と土地では言う。

 諸国の廻船は普通大坂の河口港に入る。それらの内、幾分かでも兵庫の港に入らせるべく北風家が大いにもてなした。

 「兵庫の北風家に入りさえすれば、寝起きから飲み食いまですべて無料(ただ)じゃ」と、諸国の港で言われていたが、まったくそのとおりであった。

 北風家は兵庫における他の廻船問屋にもそれをすすめ、この港の入船をふやした。

 入船が多ければ、その港が富むことはいうまでもない。

     兵庫の北風か、北風の兵庫か

 「北風の市」というのは、入船のたびに遠近(おちこち)から集まってくる仲買人でにぎわった。・・・・

 めし等は、いつ行っても無料(ただ)であった。

 入船の船乗りだけでなく、家に戻っている船乗りでも、「どりゃ、これから北風に振舞(ふれま)われてこようかい・・・」と七宮神社(しちのみやじんじゃ・写真)近くの北風の湯に出かけて行く。

 勝手口から入ると、富家の娘のようにいい着物を着た女中たちが、名前も聞かずに給仕をしてくれるのである。・・・(以上『菜の花の沖』より)

 北風家の賑わいの風景が目に浮かぶようです。

 松右衛門も北風家の空気をいっぱい吸いこんで仕事を始めたのです。

      北風の湯

 北風の湯というのは、二十人ほどが一時に入れるほどに豪勢のものでした。

 「船乗りは北風の湯へ行け。湯の中にどれほどの知恵が浮いているかわからぬぞ」と言われていました。

 老練な船乗りたちが話す体験談や見聞談(けんぶんだん)は、若者にとってそのまま貴重な知恵になるし、同業にとってはときに重要な情報でした。

 兵庫の港では船乗りであればだれでもよかったのです。

 風呂では十数人の船乗りが、たがいに垢(あか)をこすりあったり、背中を流しあったりしながら自然に情報を交換しました。

 湯あがりの後、時には酒もでました。

 北風家としても全国からの情報を集め商売に利用していたことはもちろんです。

    松右衛門も、北風の湯で学ぶ

 松右衛門は、15才で兵庫の湊に飛び出し、御影屋(みかげや)で働くようになり、やがて船に乗りました。

 最初は、だれでもそうであるように、船乗りといっても「炊(かしき)」という雑用係から始まります。

 松右衛門もそんな炊の時期を経て、20才を過ぎた頃、船頭になっています。

 「北風の湯」に出入りし、全国の情報をいっぱい仕入れました。夢はますます膨らんでいったのです。(no4949)

 *写真:七宮神社(神戸市兵庫区七宮町二丁目)、神社の近くに北風家・北風の湯がありました。

 

 

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大河・かこがわ(239) 近世の高砂(33) 新、工楽松右衛門物語(4)・兵庫の港

2020-04-27 07:29:53 | 新・工楽松右衛門物語

        兵庫の港

 『菜の花の沖』で、司馬遼太郎はこの頃の松右衛門について書いています。

 ・・・

 「・・・わしは(松右衛門のこと)十五の齢に家を出たよ」と松右衛門は人によく言い、その時は、両親も肩の荷をおろしたようによろこんだという。

 この少年がどれほど悪堂だったかがさっせられる。・・・・」(『菜の花の沖』より)

 私の松右衛門のイメージは、がっちりとした体の真面目な少年ですが、あるいは司馬氏が言うようにワルガキの面もあったのかもしれません。

 松右衛門は、力士のように大柄でした。

 とにかく、15才の時に兵庫(神戸)へ飛び出しました。夢の続きでした。・・・

       大坂は天下の台所

 秀吉の時代、大坂は一大消費地となり全国の商品はここにあつまりました。

大坂は、徳川の時代になった後も「天下の台所」としてその機能を引き継いでいました。

  教科書『中学社会・歴史』(大阪書籍)の記述を借ります。

 ・・・大坂は、江戸の間に航路が開かれると、木綿・酒・しょう油・菜種油等を江戸へ積み出し、それをあつかう、問屋が力をのばしました。

各地の大名は、大坂に蔵屋敷(くらやしき)を置いて年貢米や特産物を売りさばきました。

 また、日本海と大坂を結ぶ西まわり航路が開かれると、大坂は商業都市としていっそう発展しました・・・(以上『中学社会・歴史』より)

河村瑞賢(かわむらずいけん)により北前船(日本海航路)が成立したのは、寛文12年(1672)です。

     兵庫(神戸)港は、大坂の外港に

 しかし、大坂の港は大きな欠点がありました。

 淀川が押し出してくる大量の土砂は、安治川・木津川尻の港を浅くしました。

 徳川中期の頃までは堺がその外港としての役割を果たしていましたが、宝永元年(1704)大川の流れを堺へ落とす工事が完成して以来、堺は港としての機能を低めました。

 この点、兵庫の港は違っています。

 六甲山系からは大きな川がありません。川は短く、一気に流れ下り水深が深いのです。

 徳川期にその役割を弱めた堺に代わり、兵庫の港(神戸港)は大坂の外港としての役割を果たすようになりました。

 最初は、海路で全国から大坂へ運ばれる商品はいったん兵庫(神戸)に運ばれ、そこで陸揚げされず、ほとんどの商品は小船で大坂へ運ばれていましたが、船の輸送はますます増え、兵庫の港にもの商品が陸揚げされるようになり、取引が行われるようになりました。

 兵庫の廻船問屋は大いに栄えました。(no4948)

 *挿絵:幕末の兵庫の津(神戸市立博物館蔵)

 

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大河・かこがわ(238) 近世の高砂(32) 新、工楽松右衛門物語(3)・松右衛門、15才で兵庫港へ

2020-04-26 07:53:19 | 新・工楽松右衛門物語

 高砂出身の工楽松右衛門(くらくまつえもん)は、廻船業で身を立てました。

 また、帆の改良や様々な工夫により各地の築港にも功績がありました。

 それに感銘を受けた大蔵永常(おおくらながつね)は、『農具便利論』に彼の伝記を紹介しています。

     松右衛門、15才で兵庫港へ

 松右衛門は、寛保3年(1743)に高砂の漁師・宮本松右衛門の子として生まれ、父と同じ松右衛門を名のりました。

 20才の頃、兵庫津、佐比江町の船主・御影屋平兵衛に奉公して、船乗りになりました。

 40才の頃、兵庫佐比江新地の御影屋松右衛門として廻船商売を始めたといいます。

 石見(現:島根県)浜田外ノ浦の清水屋の「諸国御客船帳」には、安永6年(1777)3月24日、入津の御影屋平兵衛の八幡丸の沖船頭として松右衛門の名があり、同8年5月7日の御影屋の津軽からの上り船・春日丸沖船頭として記録があります。

 そして、寛政4年(1792)6月6日の上り船では「御影屋松右衛門様・久治郎様」とあり、この頃に独立したと考えられます。

 松右衛門は、当時蝦夷地と呼ばれた北海道から日本海沿岸、そして瀬戸内から江戸といった広域で千石船を含む持ち船により、米・木・木綿・荒物(日常生活に使う桶・はたき・ほうき等雑貨)等の買積み活動をしていました。

    40才の頃、廻船問屋を始める

 『高砂市史』の記述によれば、兵庫の津に出て船乗り成ったのは20才の頃でした。別の書では高砂を出たのは15才であったので、しばらく下積みの生活があったのでしょう。

 40才頃、廻船問屋を始めたといいます。

 松右衛門というと廻船問屋と結びつきますが、廻船問屋を始めたのはずいぶん遅い時期でした。(no4947)

 *絵:兵庫の津(七宮あたり)

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大河・かこがわ(237) 近世の高砂(31) 新、工楽松右衛門物語(2)・松右衛門 蝦夷地・エトロフへ

2020-04-25 07:58:45 | 新・工楽松右衛門物語

     松右衛門 蝦夷地・エトロフへ

 工楽松右衛門は、歴史上大きな役割を果たしましたが、広く知られている人物とはいえません。

松右衛門の紹介の前に、彼についての概略を紹介しておきましょう。
 江戸時代、高砂の町には賑わいがありました。

 その豊かな経済力は、個性豊かな人物をたくさん輩出しています。その代表的な一人が、松右衛門です。
 松右衛門が世に知られるようになったのは、なんといっても船にとってたいせつな帆布の改良に取り組んだことでした。

 船の帆は、古代から材料は麻布や草皮等を荒く織った粗雑なものでした。
 瀬戸内を縦横に活躍した水軍も、遣唐使船も多くはムシロの帆を使ったと記録されています。

 そして、当時の船は帆よりも櫓(ろ)にたよることが多く、帆布が広く使用されるのは、江戸時代初期からのことです。
 しかし、この帆は、薄い布を重ねあわせて使用したため、破れやすく、雨水等を含んですぐ腐ってしまうという欠点がありました。
 そこで、松右衛門は、高砂・加古川地方が綿の産地であることに目をつけ、現在のテント地のような分厚い丈夫な布を織って帆にしました。
 この帆は、丈夫であるばかりか、操作も簡単で、風のはらみもよくなりました。

 さらに、継ぎ目に隙間を開けたことで、つなぎ合わせた一枚の帆よりもはるかに便利でした。
 この帆は「松右衛門帆」または単に「松右衛門」として呼ばれ、またたく間に全国に広がり、彼は一躍(いちやく)大商人にのしあがりました。

     蝦夷地へ

 「松右衛門帆」により、当時、最も遠いとされた「蝦夷地(北海道)」との航海の日数も一挙に短縮されました。

 松右衛門は、蝦夷地の海産物をあつかう廻船問屋を始めました。内地に運ばれたのは、塩鮭・干鮭・にしん・かずのこ・ぼうだら・にしんかす・昆布・ふのり等でした。

 特に、塩鮭・にしん・昆布の三品が圧倒的に多く、これらの移入で、当時の食生活もずいぶん変ったといわれています。
 また、塩鮭は保存のため塩からく、鮭の本来の味が損なわれました。そのため冬の期間は、塩を薄くした「あらまき」を江戸や大坂に直送しました。

     工楽松右衛門、エトロフへ

 天明期から寛政期(1781~1800)にかけて蝦夷地は、にわかに騒がしくなってきました。

 ロシア船の出没です。一時は、ロシアによる蝦夷地の占領の噂も流れました。

 そんな情勢の中で、幕府から兵庫の問屋衆に難題がくだったのです。

 「・・・エトロフ島で、港をつくれ・・・」

 兵庫の問屋衆は何度も、なんども話しあっいました。堂々巡りが続きました。

 そんな時でした。めっきり白いものが多くなった松右衛門が「・・・・皆さん・・・ご異議がなければ、そのお役目をお引き受けしたいと存じます・・・」と、発言しました。もとより反対する者はありません。

 松右衛門に感謝とねぎらいの言葉がありました。この時、松右衛門は50才に近くになっていました。

 幕府からの工事費の一部は下されました。松右衛門は、船頭や大工を選び、資材や食料の準備にあたり、寛政二年五月(1790)、20名の乗組員と共にエトロフへ向かいました。

 エトロフに着きました。短い夏は駆け足で過ぎ去り、冬将軍がどんどん迫ってきました。

 彼は、ひとまず兵庫へ引き返し、翌年の3月再びエトロフを目指し、その年の9月、あらかた港を完成させました。

 その後も、幾度となくエトロフに渡っています。港は後年、紗那(シャナ)と名づけられました。

 この功績により享和2年(1802)、彼は「工楽(くらく)」の苗字をゆるされました。さらに、松右衛門は箱館の築港もなし遂げました。

     高砂の港を修築

 郷里・高砂の町は、かつての賑わいを失いかけていました。

 彼は、60才を過ぎて兵庫の店を息子に譲り、郷里の高砂に帰り、私財を投じ高砂港を改修し、現在の堀川を完成させました。

 文化9年(1812)、秋風が肌にしみる日でした。松右衛門は、波乱にとんだ生涯を終えました。(no4946)

 *地図:エトロフ島(松右衛門が築港した紗那(シャナ)を確認しておいてくだ

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大河・かこがわ(236) 近世の高砂(30) 新、工楽松右衛門物語(1) 

2020-04-24 08:43:12 | 新・工楽松右衛門物語

    新、工楽松右衛門物語

 ずいぶん以前のことです。

 「高砂市に、工楽松右衛門(くらくまつえもん)というどえらい人物がいた」ということは聞いていました。

 でも、松右衛門に特に興味を持ったのは、小説『菜の花の沖』(司馬遼太郎著)を読んでからのことです。

 いつか彼を紹介したいという気持ちがふくらみましたが、彼を紹介する知識も史料もあまり持ち合わせていません。

 そのため、松右衛門について『菜の花の沖』以上に想像することができませでした。

 さいわい、「高砂市が工楽松右衛門に取り組むらしい」ことを知り、松右衛門に関する学習会にも参加しました。

 司馬氏の松右衛門像は、おぼろげに想像することはできました。しかし、松右衛門の本当の姿ではありません。

 が、松右衛門が、生き生きと活躍しています。

 司馬さんは、『菜の花の沖』で、高田屋嘉兵衛のほかに、もう一人の主人公として、工楽松右衛門を描いています。

 高田屋嘉兵衛を通して、工楽松右衛門の時代の空気がビンビン伝わってきます。

 それにしても、司馬氏が『菜の花の沖』で松右衛門を紹介しなかったら松右衛門はあまり知られないままに終わっていたかもしれまれません。

 もちろん、松右衛門が、歴史上で大きな意味がないということではありません。

 いずれ、松右衛門の研究が進めば松右衛門の生涯は、詳しく紹介されるでしょうが、それは「すぐ」ではなさそうです。

 そのため、間違いも多いでしょうが、『工楽松右衛門物語』のタイトルで、松右衛門を紹介することにします。

 天国の司馬氏から、そして、松右衛門研究に取り組んでおられる地元の方から「こんなでたらめな内容で・・・」とお叱りを受けそうですが、研究が進み、「本当はこうなんですよ」と、そのとき改めて松右衛門を登場させればよいと居直っています。(no4945)

 *写真:工楽松右衛門像(高砂神社境内)

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