松右衛門 蝦夷地・エトロフへ
工楽松右衛門は、歴史上大きな役割を果たしましたが、広く知られている人物とはいえません。
松右衛門の紹介の前に、彼についての概略を紹介しておきましょう。
江戸時代、高砂の町には賑わいがありました。
その豊かな経済力は、個性豊かな人物をたくさん輩出しています。その代表的な一人が、松右衛門です。
松右衛門が世に知られるようになったのは、なんといっても船にとってたいせつな帆布の改良に取り組んだことでした。
船の帆は、古代から材料は麻布や草皮等を荒く織った粗雑なものでした。
瀬戸内を縦横に活躍した水軍も、遣唐使船も多くはムシロの帆を使ったと記録されています。
そして、当時の船は帆よりも櫓(ろ)にたよることが多く、帆布が広く使用されるのは、江戸時代初期からのことです。
しかし、この帆は、薄い布を重ねあわせて使用したため、破れやすく、雨水等を含んですぐ腐ってしまうという欠点がありました。
そこで、松右衛門は、高砂・加古川地方が綿の産地であることに目をつけ、現在のテント地のような分厚い丈夫な布を織って帆にしました。
この帆は、丈夫であるばかりか、操作も簡単で、風のはらみもよくなりました。
さらに、継ぎ目に隙間を開けたことで、つなぎ合わせた一枚の帆よりもはるかに便利でした。
この帆は「松右衛門帆」または単に「松右衛門」として呼ばれ、またたく間に全国に広がり、彼は一躍(いちやく)大商人にのしあがりました。
蝦夷地へ
「松右衛門帆」により、当時、最も遠いとされた「蝦夷地(北海道)」との航海の日数も一挙に短縮されました。
松右衛門は、蝦夷地の海産物をあつかう廻船問屋を始めました。内地に運ばれたのは、塩鮭・干鮭・にしん・かずのこ・ぼうだら・にしんかす・昆布・ふのり等でした。
特に、塩鮭・にしん・昆布の三品が圧倒的に多く、これらの移入で、当時の食生活もずいぶん変ったといわれています。
また、塩鮭は保存のため塩からく、鮭の本来の味が損なわれました。そのため冬の期間は、塩を薄くした「あらまき」を江戸や大坂に直送しました。
工楽松右衛門、エトロフへ
天明期から寛政期(1781~1800)にかけて蝦夷地は、にわかに騒がしくなってきました。
ロシア船の出没です。一時は、ロシアによる蝦夷地の占領の噂も流れました。
そんな情勢の中で、幕府から兵庫の問屋衆に難題がくだったのです。
「・・・エトロフ島で、港をつくれ・・・」
兵庫の問屋衆は何度も、なんども話しあっいました。堂々巡りが続きました。
そんな時でした。めっきり白いものが多くなった松右衛門が「・・・・皆さん・・・ご異議がなければ、そのお役目をお引き受けしたいと存じます・・・」と、発言しました。もとより反対する者はありません。
松右衛門に感謝とねぎらいの言葉がありました。この時、松右衛門は50才に近くになっていました。
幕府からの工事費の一部は下されました。松右衛門は、船頭や大工を選び、資材や食料の準備にあたり、寛政二年五月(1790)、20名の乗組員と共にエトロフへ向かいました。
エトロフに着きました。短い夏は駆け足で過ぎ去り、冬将軍がどんどん迫ってきました。
彼は、ひとまず兵庫へ引き返し、翌年の3月再びエトロフを目指し、その年の9月、あらかた港を完成させました。
その後も、幾度となくエトロフに渡っています。港は後年、紗那(シャナ)と名づけられました。
この功績により享和2年(1802)、彼は「工楽(くらく)」の苗字をゆるされました。さらに、松右衛門は箱館の築港もなし遂げました。
高砂の港を修築
郷里・高砂の町は、かつての賑わいを失いかけていました。
彼は、60才を過ぎて兵庫の店を息子に譲り、郷里の高砂に帰り、私財を投じ高砂港を改修し、現在の堀川を完成させました。
文化9年(1812)、秋風が肌にしみる日でした。松右衛門は、波乱にとんだ生涯を終えました。(no4946)
*地図:エトロフ島(松右衛門が築港した紗那(シャナ)を確認しておいてくだ