ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんの語る郷土の歴史(63) 古墳時代(37)・聖陵山古墳(加古川市野口町)

2017-12-31 08:36:19 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

    聖陵山古墳(加古川市野口町)

  写真は、野口町長砂の円長寺(昭和40年代の撮影か)です。

 この写真の右隅に少し高まった丘が半分写っていますが、これが聖陵山古墳(せいりょうざんこふん)です。

 もともと、前方後円墳であったのですが、明治7年に前方部を平らにし、寺をここに移したため、現在の墳丘は円墳のようにみえます。

 また、寺伝は、天文 年(1544)に、この古墳から鏃(やじり)12本が出土した(今は7本が残っている)ことを伝えています。

 この鏃などから判断して、この古墳は4世紀後半の古墳と考えられています。

 また地形から、海とのかかわりを持つ豪族の墓と考えられます。

 ともかく、考古学では注目されている古墳です。

 この古墳は、少なくとも2回の破壊を経験していますが、受難はさらにつづきました。

 第二次世界大戦の末期、この古墳に横穴が掘られました。

 そこで、加古川飛行場の通信部隊が通信業務をおこなっていたといいます。

 なお、「加古川飛行場の飛行機が、この壕にかくされていた」という説があるのですが、これは間違いです。

 いくらなんでも、この古墳の内部に飛行機は入りません。(no3828)

 *写真:昭和40年当時の円長寺(現在のお寺でありません)

 ◇きのう(12/30)の散歩(11.229歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(62) 古墳時代(36)・愛宕塚古墳(播磨町)

2017-12-30 08:11:42 | お爺さんが語る郷土の歴史

 愛宕塚古墳へ出かけました。
 古墳の周囲は、住宅が密集して、古墳時代を想像する雰囲気はありません。
 この古墳が、「愛宕塚古墳」と呼ばれるのは、写真にあるように古墳の頂には、愛宕大権現が祀られているためです。
  
  愛宕塚古墳(あたごづかこふん)
 播磨町の大中遺跡は、弥生時代前期から古墳時代中期まで続く複合遺跡です。
 そのため、同地に居住する人々の墓や支配者の墓が近隣に存在していたと考えられますが、大中遺跡の住人と愛宕塚古墳の関係は分かりません。
 大中遺跡人の墓地は、大中遺跡の発掘調中に大中台地西側で墓らしきものが確認されています。
 潰目池等溜池、田畑の開墾等により破壊された可能性も考えられます。

いまのところ、大中遺跡の東約2キロメートル、標高22メートル(大中遺跡も標高13メートル)に位置する播磨町唯一の愛宕塚古墳が、大中遺跡と何らかの関連があると結論づけることできません。


 愛宕塚古墳は、墳径約22メートル、高さ約2.2メートルートルの円墳で、周囲に約4.5メートルの堀があり、きわめてよく保存されている古墳時代中期の古墳と考えられています。
 堀の南部は、北部と比較して馬蹄形になっており、もともとの墳形は、円形でなく、「帆立貝式の古墳」ではないかとも考えられています。(愛宕塚古墳の実測図は、町史『阿閇の里』(60p)をご覧ください)
 近年まで、愛宕塚古墳の南西50メートルのところと、東約80メートルの地点に培塚(ばいちょう)かありました。
 しかし、明治に入って、田畑開墾、土取りのため破壊され、今はなくなっています。(no3827)
 *『阿閇の里』参照、*写真:愛宕塚古墳
 ◇きのう(12/29)の散歩(14.855歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(61) 古墳時代(35)・時光寺古墳(高砂市阿弥陀町)

2017-12-29 08:20:19 | お爺さんが語る郷土の歴史

 時光寺(高砂市阿弥陀町)は、浄土宗の著名なお寺としてではなく、古墳中期(5世紀)ごろの古墳があることでも知られています。

    時光寺古墳(じこうじこふん)

 時光寺の裏手に小高い丘があります。

 そこに、径46メートル・高土6.6メートルの円墳・周溝を持った二段の古墳があります。

 墳頂部には方形埴輪列と、外周に円形埴輪列、この墳頂周辺からは、甲冑・盾・靭(ゆき:矢を入れて背負う筒状の道具)・家・鶏形埴輪の断片が相当量出土しました。

 段部にも円筒埴輪がめぐっていたようで、崩れ落ちていましたが、この段の部分には馬形埴輪があったようです。

 墳頂のほぼ中心部には写真にあるように、石棺が東西に直葬されています。

 蓋の形は、かなり背の高い半円形に近い蒲鉾状断面形で、両長辺にそれぞれ二個の縄掛突起を持っています。

 全体に丁寧な作りで、石棺蓋全長は228センチメートル、幅は85センチメートル、突起を含めると123センチメートルです。

 長持形石棺とすれば小形の棺です。

 この棺は、蓋が露出されただけで、それ以上の発掘は行わないまま埋め戻されました。

 ただ、盗掘は受けていたようで、蓋石が僅かにずれており、下に棺身が存在したことは確かであったようです。

    消えた古墳群

 たまたま、この地が、瓦やレンガの生産に適した土層であったことから、その地に築かれていた古墳は、その後の瓦生産や、また近代・現代の土取り工事で、破壊され消滅してしまったようです。 (no3826)

 *写真:時光寺古墳頂上部発掘状況(梅原章一氏撮影・『高砂市史・第一巻』より)

◇きのう(12/28)の散歩(10.690歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(60) 石の宝殿(13)・石の宝殿、竜山石採石遺跡 高砂市が保存活用へ

2017-12-28 08:26:55 | お爺さんが語る郷土の歴史

 石の宝殿を古墳時代で紹介しました。少し無理があったと思いますが、いかがだったでしょうか。コメントをお願いします。

 これで、シリーズ「石の宝殿」を終わります。

 なお、今年の6月3日(土)の神戸新聞に下記の神戸新聞の記事がありました。資料として転載させていただきます。

    石の宝殿、竜山石採石遺跡

          高砂市が保存活用へ

 兵庫県高砂市は、2014年に国の史跡に指定された「石の宝殿および竜山石採石遺跡」の保存と活用の方向性を定めた計画を策定した。史跡としての価値を保ちつつ、公開して活用する重要性を指摘し、史跡周辺の樹木の管理や見学道の整備などを盛り込んだ。

 史跡は観光資源としての注目が高まっている。市は価値を明確にし、保全策や見学者の安全対策につなげるため、計画を定めた。

 石の宝殿は生石神社に祭られている竜山石の巨石。竜山石の採石は古墳時代から、1700年以上続いている。時代ごとに古墳の石室や、寺院の石造物、建築部材などに幅広く利用されてきた。

 計画の範囲は、石の宝殿を含む宝殿山地区と、竜山石の採石遺跡が多く分布する竜山地区で、国の史跡指定地とほぼ重なる。広さは約11万平方メートル。採石遺跡は採石場、加工場など計31カ所が確認されている。

 保存管理は、現状維持を基本に、危険箇所や補修が必要な場合は整備する。採石遺構は土や樹木で埋もれているものもあり、発掘調査とともに樹木の伐採や看板の設置などを行う。石の宝殿の巨石上に生えた植物も、石への影響を考慮し管理する方針だ。

 活用面では、情報発信を強化し、市民や見学者の史跡に対する理解を深める。また史跡を巡るルートを設定し、説明板の設置や道の整備を行うという。学校の校外学習などにも利用できる環境を目指す。

 有識者らによる史跡整備委員会が5月に発足し、年度内を目標に、整備内容を具体化した基本計画を策定する。市教育委員会文化財係は「土地の所有者らと相談の上、保全と活用を進めていきたい」としている。(小尾絵生)

(no3825)

 *記事・写真とも神戸新聞からの転載です。

 ◇きのう(12/27)の散歩(11.551歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(59) 古墳時代(34)、石の宝殿(12)・ゾロアスター教の拝火壇か?

2017-12-27 08:58:19 | お爺さんが語る郷土の歴史

    石の宝殿は、ゾロアスター教の拝火壇か?

 「この大石は何か」について決定的な答はありません。

 石の宝殿の意外な説を紹介しましょう。石の宝殿を調べてみたくなったのは、松本清張氏の小説『火の路』を読んだからです。

 松本氏は『火の路』で、「石の宝殿」は、ゾロアスター教の拝火壇であるとの説を主張しておられます。

     日本に入ったソロアスター教(祆教・けんきょう)

 石の宝殿つくられた7世紀、日本は新しい国づくりの真最中でした。

 新しい文化が中国からどんどん取り入れました。

 その最大の文化は、なんといっても仏教です。

 でも、ちょっと考えください。

 日本に入ったのは仏教のみだったのでしょうか。熱心さにおいて温度差(公私の差)はあるものの、仏教だけでなく道教、当時中国に伝わっていたキリスト教、その他の宗教も同時に日本に入ったと考えるのが自然です。

     ペルシャから日本へ

 宗教だけではないはずです。

 古代中国では、ハイカラな風習としてイランを源流とするものが大いに流行しています。

 胡桃(くるみ)・胡麻(ごま)・葫(にんにく)など「胡」のつく植物・野菜は、たいていイランを原産地とするもの又はイラン経由のものです。

 柘榴(ざくろ)・葡萄(ぶどう)もイランから輸入されています。

 獅子や駱駝(らくだ)動物もそうです。

 そうであれば、日本へイランやイラン経由で中国へ伝えられた文化が、中国経由で日本へ伝えられたと考えるのは自然です。

 松本清張氏は、飛鳥に残る不思議な石造物をヒントに、ゾロアスター教(祆教・けんきょう)も日本入っていたと想像されました。

 そして、NHK取材班と一緒にイランへその証明のために取材に出かけられています。

 その結果をまとめられたのが『ペルセポリスから飛鳥へ』(日本放送協会)です。

 つまり、石の宝殿は、ゾロアスター教の拝火壇と想像されています。

 石の宝殿の頂上部に松が生えています。この部分は、くぼみがあり火を焚く場所であると想像されています。

 いかがでしょうか・・・・

 でも、石の宝殿は御神体です。松の木を取り除き調査はできません。(no3824)

 *写真:ゾロアスター(祆教)の拝火壇(『ペルセポリスから飛鳥へ』より)

  ◇きのう(12/26)の散歩(15.933歩)

 

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お爺さんが語る郷土の歴史(58) 古墳時代(33)、石の宝殿(11)・石の宝殿の伝承がない理由とは

2017-12-26 08:03:24 | お爺さんが語る郷土の歴史

   石の宝殿の伝承がない理由とは

 石切り場の工人たちの多くは、蘇我氏の命令であったとしても、単に中央からの命令として、黙々と作業を続けるだけで「何を何のためにつくっていること」など考えなかったのでしょう。

 当時、竜山では、この大石の製作だけではなく、多くの石棺を命ぜられるままにつくり、その多くは大和地方にも運ばれていました。

 その延長で、石工は命じられるままに作業を進めていただけかもしれません。

 「中央の政治上の都合で石の宝殿の工事が中止と決まっても、それについて深く考えなかった」と想像するのです。

 

 中止になった理由を考えてしまいますが、当時の工人は案外製造の理由なんてどうでもよいことであったのかもしれません。

 そう考えると、「伝承がない」ことも納得できます。

    「石の宝殿」は、

         永遠に語り継がれる謎(ロマン)

 確実な伝承もないままに、「石の宝殿」は打ち捨てられたままに残されました。

 時は過ぎます。

 伝承がないだけに、よけいに人々は石の宝殿に「不思議さ」を感じたのではないでしょうか。

 後の人は「こんなでっかい石塊は、人が作ることは不可能である。きっと神様がつくられたものであろう」と考えたのかもしれません。

 記録によれば、平安時代にはこの「石の宝殿(大石)」は神となり、社殿「生石神社」が作られたようです。

 歴史学者・真壁ご夫妻は、この不思議な石の宝殿を学問的に研究されています。

 『石の宝殿‐古代史の謎を解く』(神戸新聞総合出版センター)で詳細を述べておられます。

 詳しくは、その著書をお読みください。

 でも、まだ「誰が・何のため」につくられたのかには、確実なことはわっかっていないようです。

 「石の宝殿」は、おそらく永遠の謎(ロマン)として語り続けられることでしょう。(no3823)

 *写真:石の宝殿「西遊旅譚(司馬江漢)」より

 ◇きのう(12/25)の散歩(12.466歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(57) 古墳時代(32)、石の宝殿(10)・「石の宝殿」は、蘇我氏が造ろうとしたものか、

2017-12-25 07:06:28 | お爺さんが語る郷土の歴史

 前回、「石の宝殿は、蘇我氏との争いに敗れた物部氏のモニュメント」とする説を紹介しました。

 今回は、『石の宝殿・古代史の謎を解く(真壁忠彦・葭子共著)』から、反対に石の宝殿は蘇我氏がつくろうとしたモニュメントであるとする説です。

    「石の宝殿」は、蘇我氏が造ろうとしたものか?

 ・・・・石の宝殿は、ほとんど完成品にちかい段階で放棄されています。

 よほどのことがあったと考えられます。

 石の宝殿が「飛鳥時代のもの」で、これだけの石造物の製造を命令することのできるのは、中央の最高権力者です。

 その権力者とは「蘇我氏」以外に考えられません。

 それでは、なぜ蘇我氏がこのモニュメントづくりを中止したのでしょうか。

 よほどの理由があったはずです。

  蘇我氏は「大化の改新」で滅び、

                             事業は中止されたのか

 その理由を探すなら、「大化の改新で蘇我氏が急に滅亡した」と考える以外に理由はみつかりません。

 当時、蘇我氏は、大王家(天皇家)をしのぐ権力を持っていました。

 蘇我氏が「石の宝殿」のようなものをつくろうと命令することは、なんの造作のもないことです。

 「大化の改新により蘇我氏がほろぼされ、急に勢力がなくなり、石の宝殿の製作を中止してしまった」とする推理です。

 いかがでしょうか。

 それにしても、蘇我氏が何のためにこの石の宝殿をつくろうとしたのでしょうね。

 何らかの、伝承があってもよさそうなものですが、何も語られていません。(no3822)

 *挿絵:蘇我氏のつもり

  ◇きのう(12/24)の散歩(10.244歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(56) 古墳時代(31)、石の宝殿(9)・敗者のモニュメント?

2017-12-24 07:20:07 | お爺さんが語る郷土の歴史

    仏教の侵入を塞ぐために物部がつくったのか!

 それでは、物部氏は、何のためにこの大石を造ろうとしたのでしょうか。

 小説家の青木一夫氏は、次のように考えておられます。

  ・・・・物部氏は、大石が持つ神聖を信じていました。

 日本古来の信仰は大きな岩などに霊力があるとする自然信仰です。

 物部氏は、「大きな石を置くことにより、その霊力で仏教が日本に入ることを防ぐことができる」と考えたようです。

 とにかく、「この東播磨の地で大石をつくり、その霊力で仏教の侵入を防ごうとしたのではないか」と想像されるのです。

 つまり、大和に仏教が入る手前の東播磨の地でこの大石をつくろうとしたのではないでしょうか。・・・

 いかがでしょうか。

    「石の宝殿」は、敗者のモニュメント

 青木氏は、物部氏が大石を作ろうとした目的を「・・・物部氏は、日本古来の信仰である大きな岩などに霊力がやどるとする自然信仰もっていた。

 とにかく、この東播磨の地で大石をつくり、その霊力で仏教の大和への侵入を防ごうとしたのではないか。

つまり、大和に仏教が入る手前の東播磨の地でこの大石をつくろうとした」という説です。

 少しだけ、つけ加えます。

 物部氏と蘇我氏の戦いの結果は蘇我氏の勝利で終わりました。

 この争いの中でつくられていた大石(石の宝殿)は、その後「敗者のモニュメント」として(未完成のまま)打ち捨てられたのです。

 敗者のモニュメントは、その存在さえ許されないもので、それらは、ふつうは打ち壊されます。しかし石の宝殿は未完成品であり、打ち崩すには大きすぎ、頑丈すぎました。

 蘇我氏の支配する社会では、大石については語られることも許されず、ひっそりとその姿を横たえているだけの存在になっていたのではないかと想像考えらされるというのです。

 これだけ大きな、モニュメントが語りつかれなく造られてから100年ぐらいでその製作の目的わからなくなったのには少し不思議な感じもするのです。(no3821)

 *写真:石の宝殿測量図

 ◇きのう(11/23)の散歩(6276歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(55) 古墳時代(30)、石の宝殿(8)・『風土記』は、蘇我と物部の争いを語るか?

2017-12-23 10:47:15 | お爺さんが語る郷土の歴史

     『(播磨)風土記』より

 大石(石の宝殿)の復習です。

  ・・・原の南に作り石があります。形は家のようです。

  長さは二丈(約6㍍)、広さは一丈5尺、高さもそれぐらいです。

  名は大石といいます。

  伝えられていることは、聖徳太子の時代に弓削大連(ゆげのおおむらじ・物部の守屋)作らせた石です。・・・・

 風土記の記述、「聖徳太子の時代に弓削大連(ゆげのおおむらじ・物部の守屋)作らせた石です」の記述に注目ください。

   『風土記』は、蘇我と物部の争いを語るか?

 風土記を読む 「石の宝殿」のつくられた時期の日本社会のようすを中学歴史教科書にみてみます・

 6世紀の日本では、地方の豪族が反乱を起こし、大和王権でも豪族同士の争いが続くなかで、豪族の蘇我氏が渡来人と強い結びつきを持ち、力を伸ばしました。

 外国の宗教である仏教を取り入れようとして、これに反対する物部氏を滅ぼし、大きな勢力をふるいました。・・・・(中学歴史教科書:大阪書籍より)

 つまり、聖徳太子の時代外国の勢力と結んだ蘇我氏と物部氏の勢力が激しい争いをしていました。

 蘇我氏は、仏教を取り入れ百済の力を借りようとしました。

 それに対して、物部氏は「仏教は我が国を亡ぼす邪教である」として反対しました。

 結論は、蘇我氏を中心とする勢力がこの戦いに勝利しています。

 この争いの前から物部氏は、大石(石の宝殿)を造り始めていたようです。

 でも、『風土記』によれば、この大石が完成する直前の頃物部氏が敗れ。ほとんど完成していた大石の工事は中止になり、そのままに打ち捨てられた状態になってしまったというのです。(no3820)

 *写真:石の宝殿頭頂部

 ◇きのう(12/22)の散歩(11.802歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(54) 古墳時代(29)、石の宝殿(7)・石の宝殿は、大和までの移動が可能か?

2017-12-22 08:57:00 | お爺さんが語る郷土の歴史

    石の宝殿(大石)は、大和に運ばれる予定であったのか?

昔といっても、江戸時代ごろまでは、石の宝殿(大石)は、近在だけではなく広く知られていたようです。

 松巡り(当時の観光)とセットで、ここを訪れた人もたくさんありました。

 それに比べ、最近は知名度が下がっているようです。

 まだの方は一度訪ねてください。

 この500トンもある大石に圧倒されます。この大石はご神体ですが自由に直に触れることができます。

 大石の周囲を一周できます。

 ご神体体の大きさに比べて周辺の空間が狭く、よけいに大きく感じられます。

 いま、真壁ご夫妻の書かれた石の宝殿についての著書を読んでいます面白いです。

    石の宝殿は、大和までの移動が可能か

 が、一つだけどうしてもストンと胸に落ちないことがあります。

 それは、真壁氏はこの大きな石を切り出して、大和(奈良)に運び、それぞれの目的のために利用する予定であった」とされていることです。

 確かに、この周辺ではたくさんの石棺がつくられ、奈良だけでなく広く各地に運ばれています。

 ですが、石棺が運ばれたことと、このデカイご神体(石の宝殿)が運ばれることは、どうしても結びつきにくいのです。

 この大石(石の宝殿)は、宝殿山の中腹に鎮座しています。

 当時、石の宝殿を作った指導者たちは、宝殿山のふもとは海が迫っていたのでしょうが、「このでかい500トンもの石塊を切り出し、山の下まで運び、海を渡り大和まで運ぶことができる」と考えたのでしょうか。

 無理ですね。まして、大和まで運ぶことはさらに無理と思えるのです。

 とするならば、「この場所で何らかの目的のために利用するために作られた」のではないでしょうか。

 この大石を大和まで運ぶという点に関しては、どうにも同意できないのです。

 以上は、ど素人(私)の呟きです。(no3819)

 *挿絵:石の宝殿(『火の路(松本清張)』より)

 ◇きのう(12/21)の散歩(13.212歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(53) 古墳時代(28)、石の宝殿(6)・竜山1号墳

2017-12-21 07:32:21 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

    竜山1号墳

 石の宝殿は謎の大石です。でも、その謎を知っている人物がいるとすれば、竜山1号墳(写真)の被葬者です。

   被葬者は、「石の宝殿」の製作の事情を知っていた?

 山腹斜面にずり落ちるばかりに置かれていた石棺の身の部分のすぐ上部に小型の石室が確認されます。

 石棺の大きさは、蓋の大きさで、幅0.6メートル、長さ1.18メートル、蓋と身の高さをあわせると0.62メートルです。

 この古墳は、生石神社の境内にあり、石の宝殿と無縁とは思えない位置にあります。

 この古墳の時期について、棺形から7世紀中頃までとされていますが、長さが1メートル少々の小形棺で、場合によっては火葬骨が納められていても不思議のない大きさです。

 この種の棺で、子供を納めた事例は知られていません。大人を納めた石棺です。

 場合によると8世紀に入っている可能性もある古墳とも言われています。

 とすると、すでに奈良時代です。

 ともかく、この棺に納められ、人物は、とのような生涯を送ったのでしょう。

 小さくとも、竜山の伝統的な石棺に納められたこの人物は、この地方では中心的な人物の一族であろうと想像されます。

 この人物は、石の宝殿製作時を記憶している人かもしれません。

 この人物の親か祖父があの「石宝殿(大石)」製作工人の中心的人物であり、製作の事情を知っていた可能性は強と想像するのです。(no3818)

 *『高砂史(第一巻通史編)』参照

 *写真:竜山一号墳の石棺と蓋

 ◇きのう(12/20)の散歩(15,036歩)

 

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お爺さんが語る郷土の歴史(52) 古墳時代(27)、石の宝殿(5)・(伝承) 神々のイサカイ

2017-12-20 08:15:21 | お爺さんが語る郷土の歴史

 前項で、生石神社の祭神の伝承について紹介しましたが、今回も余話として、生石神社の伝承を紹介します。

      生石神社の伝承

 『峰相記(みねあいき)』という本があります。

 著書は「峰相山鶏足寺(けいそくじ)」の某僧となっていて名前はわかりませんが、鎌倉時代末期から南北朝のころまでの播磨のようすを知る貴重な本です。

 『峰相記』には、さまざまな話が取り上げられていますが、その中に高御位山・生石神社の神様の話が登場します。

 湊神社(姫路市的形)の宮司、神栄宣郷氏が『郷土志(15号)』で、鎌倉時代の民衆の信仰としてこの話を紹介しておられます。

 本稿では、さらに平易な文にさせていただきました。

 ちょっと、ユーモラスは神様たちの物語です。

      神々のイサカイ

 石の宝殿(生石神社)の神様は、むかしから、「生石子(おおしこ)神」と呼ばれていました。

 峰相記に「陰陽二神としてあらわれたまう・・・」とあって、生石子神は女神で、高御位山の神様は男神で、この二人の神様は夫婦でした。

 ところが、ここに日向大明神という、それは美しい女神が美しい侍女をたくさん伴って、加古の浜辺へご上陸になりました。

 高御位の神様は、日向大明神やお供の侍女たちの美しさにビックリして、とうとうご自分の所へ招待されました。

 このありさまを知った生石子神は、カンカンになり承知なさるはずがありません。

 “怒り”がおさまりません。

 美しい日向大明神を、川向うの山(日岡山)へ追いやると同時に、侍女たちを別にして泊神社(現:加古川町木村)へ押し込んでしましました。

 この高御位山の神と生石子神の物語は、どこか俗っぽい話で、およそ神様らしくない話です。

 こんな話からも神と共に笑い、共に泣いたむかしの人々の気持ち、考え方が伝わってきそうです。(no3817)

 *『郷土志(15号)』(神栄宣郷)参照

 (注)

 昔、日岡神社(加古川市)は、「日向神社」と呼ばれていました。現在の「日岡神社」に名前を変えたのは明治3年(1870)のことです。

 ◇きのう(12/10)の散歩(11.250歩)

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お爺さんの語る郷土の歴史(51) 古墳時代(26)、石の宝殿(4)・つくられた伝承

2017-12-19 07:44:46 | お爺さんが語る郷土の歴史

     つくられた伝承

 「石の宝殿度は何か?」を探し出かけたいのですが、その前に石の宝殿・生石神社にまつわる伝承を先に先に見ておきます。

 風土記が作成られた時は、石の宝殿が造られてから、およそ100年の時が立っていました。そのため、「石の宝殿の造られた理由」は、すでに分からなくなっていたようです。

 それに、その後『風土記』は、何らかの理由で姿を消し、江戸時代に突然発見されました。

 ですから、長い間謎の空間の時期がありました。この間に、多くの伝承が作られています。

 生石神社へ出かけました。 そして、「日本三奇播磨国石之宝殿生石神社略記」のパンフレットをいただきました。

         祭神は、「大国主神と少彦名」

 パンフレッによれば、生石神社の祭神は大国主神(おおくにぬしのみこと)と少彦名(すくなひこな)の神です。

 「どうして、この二神が祭神であるか」について考えてみます。

 万葉集に、次の歌があります。

 〝大汝(おおなむち)、少彦名乃(すくなひこなの) 将座(いましけむ) 志都乃(しずの) 岩屋者(いわやは) 幾世(いくよ) 将経(へぬらむ)〟(三五五)

 なんとなく、石の宝殿(大石)を思い浮かべるような歌です。

 作者の名前は、生石村主真人で生石神社の「生石」と同じです。

 そして岩屋も登場しています。

     祭神は、万葉集から

 「生石」「岩屋」と重なると、この歌は、石の宝殿(大石)を詠んだ歌と想像してしまいます。

 生石村主真人は、美濃の人のようです。かれは播磨国印南郡出身だとする理由はみつかりません。

 古代史には、生石村主真人という人物は多く登場します。

 万葉集に登場する上記の人物が播磨の人であることは判定でしません。

 現在、万葉集の研究者も、この歌が石の宝殿を詠んだ歌と考えるのは無理としています。

 江戸時代、「石の宝殿」を知る「文化人」が、万葉集のこの歌を「石の宝殿」と結びつけ、生石神社の祭神は大国主神(大汝)と少彦名ということにして、広がったようです。(no3816)

 *挿絵:生まれる神社の神々

 ◇きのう(12/18)の散歩(11.344歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(50) 古墳時代(25)、石の宝殿(3)・石の宝殿は、石棺か?

2017-12-18 07:54:06 | お爺さんが語る郷土の歴史

       石の宝殿は、『風土記』編纂の1世紀前

 石の宝殿は、宮城県塩竈神社の塩竈や宮崎県霧島の天の逆鉾と並んで、日本の三大奇岩と言われています。

 石の宝殿は文献(風土記)と考古学遺跡が一致する珍しい例です。

 『風土記』が制作されたのは700年代(8世紀)です。

 石の宝殿(大石)が造られてかららすでに100年ほどが経過しており、風土記が作成された時は、すでにこの大石はどのような目的で作られたのか分からなくなっていたようです。

     石の宝殿は、石棺か?

 『(播磨)風土記』にはこんな記述もあります。一部を書き下して紹介します。

 ・・・石の宝殿の近くの山に、伊保山(いほやま)という山があります。

 その名のおこりは、仲哀天皇が亡くなられた時、奥様の神功皇后が石棺(廬:いほ)づくりの職人を率いて、讃岐(香川県)で、石棺用の羽若石(はわかいし)を探されました。

 大来(おおく)という石づくりが、羽若石を石の宝殿の近くの山でみつけました。そのためこの山を美保山(伊保山)いいます。・・・

 この風土記の記述をもって「石の宝殿は石棺である」とする説がされますが、やや強引すぎのではないでしょうか。

  もう少し『風土記』の話を続けます。

 『風土記』は編集されて後、まもなく姿を消します。

 何らかの事情で、厳重に保管されていたものの、その存在が分からなくなったようです。

 そんな状況が、一変したのは、江戸時代、何百年もの空白の期間を経て風土記がみつかったのです。

 『播磨国風土記』は、平安時代の中期以降に書写されたものが、江戸時代の終わりころ、寛政八年〈1796〉と嘉永五年(1852)再び写され、世に登場しました。

 『播磨風土記』は、まったく世に知られない空白の期間が数百年も続きました。

 この『風土記』の空白の間にも、「石の宝殿」は、近在はもちろん、広く不思議な大岩として世に知られていました。

 人々は、この岩についていろいろと想像し、風土記とは関係ない伝説がつくられ、いまに至っています。

 いつしか、この大岩は、「石の宝殿」と呼ばれるようになり、「神様の依り代(よりしろ:神の宿る場所)である」と、神となり、やがて社殿(生石神社)が建立されたようです。(no3815)

 *写真:生石神社と石の宝殿

 ◇きのう(12/17)の散歩(11.563歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(49) 古墳時代(24)、石の宝殿(2)・『播磨国風土記』に「大石」として登場

2017-12-17 08:44:37 | お爺さんが語る郷土の歴史

     石の宝殿(2)

 写真の大きな石の正体は何者なのでしょうか。それにしても、デカイ不思議な石塊です。

 この石塊に関して記録があります。『(播磨国)風土記』です。

 風土記は、日本で最も古い書物の一つで、今から1300年ほど前の713年に大和朝廷から各国の郡や里の名のいわれ、産物、地力、山や川の地名、伝承を書いて報告するように、と命令が出ました。

 その報告書が『風土記』です。

 『風土記』ですが現在残っているものは『常陸国風土記』『播磨国風土記』『出雲国風土記』『豊後国風土記』『肥前国風土記』だけです。

 そのうちでも、『播磨国風土記』は、早い時期に提出されたと考えられています。

    『播磨国風土記』に「大石」として登場

 さっそく、『播磨国風土記』で、石塊(大石)についての個所を、読んでみましょう。(*読み下し文)

  〈大石〉

 ・・・原の南に作り石があります。形は家のようです。

 長さは二丈(約6㍍)、広さは一丈5尺、高さもそれぐらいです。

 名は大石といいます。

 伝えられていることは、聖徳太子の時代に弓削大連(ゆげのおおむらじ・物部の守屋)作らせた石です。・・・・

 今回は、大石(「石の宝殿」のこと)が『播磨国風土記』に登場登場することだけを確認しておきます。(no3814)

 *写真:石の宝殿

 ◇きのう(12/16)の散歩(13.066歩)

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