ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川町平野・美乃利探検(25) 香寺神社

2021-06-04 08:03:20 | 加古川町平野・美乃利探検

     香寺神社

 

 今日の香寺神社の報告も、ほとんど『美乃利の本』(美乃利史編纂委員会)をお借りしています。

 

 大野にあった中世の常楽寺の末寺の一つに「幸寺」があります。

 美乃利にある小字名「コウデラ」がその由来の推定地と推定されています。

 ちなみに現在、香寺神社がある所は小字名「鴫才=シキサイ」の北部で、その近くにある鴫才公園 の南部付近が小字「コウデラ」です。

 が、その時代と寺跡と裏付けられる遺跡は確認されていません。

 この辺りは太古、美乃利の集落でも奈良時代、郡衙(ぐんが・郡の役所)や軍事施設があったとされる地域です。

 また、江戸時代の日向神社(日岡神社のこと)の社伝では重要な降神由来の地になっています。

 この地が特別な場所であるのは間違いなさそうです。

 地元の古老によると「鴫才」も、正式な呼び名は「シキサイ」で、「神才=塞神(さいのかみ)を表すと考えられ、祀られる場所があったのでしょう。

 「鴫」は、鳥の名前ではなく、仕切り(さえぎるもの)つまり「シキリ」の意味で、溝で仕切られた境界という意味ととらえた方がよさそうです。no5104

 *地図:『美乃利の本』(美乃利史誌編纂委員会)より

  <お知らせ>

 あまり勉強もせず平野・美乃利について書いてきましたが、このシリーズは、しばらくお休みとします。

 次回は「加古川町大野探検」を、来週9日(水)から再開の予定です。よろしくお願いします。

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加古川町平野・美乃利探検(24) 大野新村の道標

2021-06-03 07:40:34 | 加古川町平野・美乃利探検

    30年以上も前になりました。日岡地区に興味を持ち調べたんです。

 でも『美乃利の本』を拝見するまで、「大野新村が作った写真の道標」について知りませんでした。

 今日は、この冊子から文体を少しだけ変えて、その一部をお借りして紹介させていただきます。

      大野新村の道標

 加古川総合文化センター博物館の収蔵庫に保管されてい大きな道標(190cm)は、加古川大橋の下に(東岸側)に遺棄されていたものです。

 そのには「願主 大埜新村中」と彫られてますが、村には経緯を語る資料がありません。

 

 江戸時代、道は今では、路地となり面影さえない所が大半ですが、当時、多くの人がその道を必要として、それ相応の往来がありました。

 物資の輸送だけでなく、名所や神社仏閣への旅行は、今以上の人気で、多くの旅人が道を往来しました。

 例えば、各地に「日向講」が存在し、別府や高砂、西国街道を経由して大野新村(現:美乃利)を通り日岡神社の参拝していたと思われます。

 写真の道標が発見された加古川大橋堤防下は、大野新村とつながりもなく案内と合致する道も考えにくいのです。

 可能性が高いのは、旅人は加古川宿を出発して、大野新の集落にたどり着きました。

 道は、A地点(美乃利太鼓蔵)で、左に変わります。

 すなわち、日向社(日岡神社)方向です。

 

 右は、北在家路で途中で西国街道と交わり、東へ行く近道となります。

 古老の話では、かつてB地点(知第一公園東入り口)付近に立派な道標があったとのことですから、写真の道標のあったのは、こちらの可能性も考えられます。(no5103

 *写真:『美乃利の本』より

 

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加古川町平野・美乃利探検(23) 石のたらい

2021-06-02 08:10:31 | 加古川町平野・美乃利探検

        石のたらい

 話を4世紀ごろにもどします。

 伝承では、ヤマト・タケルこそ大和朝廷の日本統一に大きな役割を果たしたと伝えられている英雄です。

 『古事記』と『日本書紀』によってヤマト・タケルの生涯をおってみたいのですが、彼の詳細については、『加古川町大野探検』で取り上げます。

 ここでは簡単な紹介です。

 伝承では、ヤマトタケルは、加古川市付近に生まれたとされています。

 第十二代 景行天皇(けいこうてんのう)を父として、母はこの地方出身の稲日大郎姫命(いなびのおおいらつめのみこと)でした。

 ヤマト・タケルは双子の弟であり、幼名を小碓命(おうすのみこと)と呼ばれました。

 しかし、加古川から日本統一にかかわった英雄が登場しているのは愉快なことです。

 写真は、ヤマト・タケル兄弟が産湯(うぶゆ)を使ったと伝えている石のタライです。

「石のたらい」のある場所は、加古川町美乃利の住宅地の一角です。

それにしても、この「石のたらい」は何であったのか分かっていません。

この「石のたらい」は、昔、近くの田の中にあったそうです。(no5102

 

*写真:伝承で、ヤマトタケルが産湯に使ったとされる石のたらい。

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加古川町平野・美乃利探検(22) 「弾丸列車」計画

2021-06-01 09:13:53 | 加古川町平野・美乃利探検

   「弾丸列車」計画

 戦前、壮大な計画がありました。

 東京から大阪・神戸を経て、そして朝鮮海峡を越え、朝鮮半島に鉄道をつなげようとする、とてつもない計画でした。

 まさに、軍備増強・植民地経営のための鉄道計画でした。

 昭和13年、この弾丸列車の計画は国会で承認され、そして用地の買収が始められ、昭和16年に一部建設工事がはじまりました。

 しかし、戦局の悪化のため、この弾丸列車計画は、つかの間の夢と消えたのです。

 用地買収は、東京~大阪間は96キロ、大阪以西は64キロにとどまっていました。

 加古川地域は、用地の買収が進んでいた地域でした。

 東京~大阪間はの用地は、昭和34年に着工した東海道新幹線の用地として、そのまま使用されました。

 兵庫以西の土地はいったん売却されたのですが、昭和35年、加古川バイパスの用地として再び買収され、10年後の昭和45年から国道2号線との暫定使用がはじまりました。

 加古川バイパスが、このように短期間に、しかもまっすぐな道路になったのにはこんな裏話があったのです。

なお、今回の記事は「加古川平野・美乃利(17)・美乃利新村・間形村」と合わせてお読みください)(no5101

 *「加古のながれ(市史余話)」(加古川市史編纂室)参照

 *写真:美乃利を貫く加古川バイパス予定地

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加古川町平野・美乃利探検(21) 間形の力石(ちからいし)

2021-05-31 07:54:07 | 加古川町平野・美乃利探検

   間形の力石(ちからいし)

 間形(まがた・美乃利)に、どこにでもあるような四角い石が灯篭の前に置かれています。

 前回のブログで紹介した「大和大明神の碑」の横の灯籠の前に置かれた四角い石です。

 この石には銘もなく、ただの石のようで、地元でもその存在を知る人は多くないようです。

 古老によれば、この石は「力石(ちからいし)」です。

 「力石」とは、字のごとく、力だめしをする時に使った石のことです。

 農作業の合間に、若者が集まった。そして、力自慢をしました。

 この石を持ち上げることができると一人前の若者として認められたのです。

 何回も使われたのでしょう。

 両手で持ち上げる部分はつるつるしています。

 間形の力石にはないのですが、娯楽から始まった力石には、重い石を持ち上げた人が、年号や自分の名前を石に刻んで、神社に奉納する行事へと発展したものです。

 時代は、人の力から機械の力へと主役が交代しました。

 また、農業の衰えと共に、いつしかこの風習もなくなっていきました。

 「力石」には、若者のたくましい汗と熱がしみこんでいます。(no5100

 *写真:間形の力石

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加古川町平野・美乃利探検(20) (沼田家文書3) 大和守明矩に感謝

2021-05-30 09:11:20 | 加古川町平野・美乃利探検

   大和守明矩に感謝

 前号で「姫路藩の財政は火の車」であることを紹介しました。

 さらに、延享五年(1748)朝鮮使節の接待費などが重なりました。

 朝鮮使節は、江戸への途中姫路藩の室津に立ち寄ります。

 その接待費・二万両を姫路藩の町人・農民に負担させました。

 悪いことは重なるもので、この年に猛烈な台風が襲います。

 さらに、寛延元年(1748)十一月、明矩は急死しました。

 嫡子は、10才とまだ幼く、転封のことが噂されました。

 この知らせが、姫路に到着したのは、翌寛延二年(1749)元日でした。

 藩主の死により、政治に空白ができました。

 寛延元年(1748)も暮れようとする十二月二十一日、印南郡の農民三千人が湧き出るように市川河原に結集した後、姫路城下へなだれ込む勢いをみせました。

 この時は、かろうじて百姓の怒りは燃え上がらずに終わりました。

        位牌を拝む

 翌年(寛延二年・1749)早々のことでした・・・

 一月二十二日、西条組大庄屋沼田平九郎宅を打ち壊すことで「寛延の大一揆」の幕は切って落とされました。

 「間形村由来書送り之事」の日付に注目します。

 日付は、「寛延元辰年十二月」です。

 まさに、一揆の火が燃えあがろうとするときに出されています。

 児玉正美氏は、『鹿児(67)』(加古川史学会)で、この文書について次のように述べておられます。

「・・・“位牌を拝む”というこの文書の日付が寛延元年十二月ということ・・・この文書を作成した時点では各地では不穏な空気が藩権力と結びついた大庄屋などを脅かしてしただろう。直次郎らの狙いの一つは、減免を認めた藩主(大和守明矩)の位牌に百姓らを結集させることで、自らの権力の保全を図る、イデオロギー支配だったのではないだろうか・・・」

まさに、このような世論づくりの一環であったのでしょう。

   確実な年貢の確保を

 前号の宿題、「間形村の年貢が3割に減免された理由」に戻ります。

 間形村の土地が「上がり地」となった理由は、別の史料によれば間形の百姓が石高分を生産しきれず、「上がり地」を願い出たようです。

 とすると、藩としては、少なくなったとしても確実な年貢の確保を求めたのでしょう。

 まとめておきます。

 「間形村由来書送り之事」が語ることは、「①藩主の位牌に百姓を結集させ大地主の保身を図ったこと、②年貢が減少しても確実な年貢の確保を図ったこと」にあるのではないかと思われます。

  *写真の碑「大和大明神」は、沼田家に保存されている「間形村由来書送り之事」の歴史を語り継ぐために、先代ののお父さん(故)沼田利治さんが建立された碑です。(no5099

 

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加古川町平野・美乃利探検(19) (沼田家文書2) 間形村:免相(税率)三割に      

2021-05-29 08:03:39 | 加古川町平野・美乃利探検

  沼田家文書(2) 

      間形村:免相(税率)三割に

 沼田家文書を検討してみましょう。

 間形村の税率(免相・めんあい)は、それまで6割6分だったものが、「上がり地」となり、元文二年(1737)、上西条の沼田直次郎と加古新村と沼田九郎太夫に下げ渡しとなり税率も5割6分となりました。

 それでも村は安定せず、延享三年(1746)に3割の年貢率(免相)を藩主・松平明矩(あきのり)に願い出たところ認められました。(「間形村由来書送り之事」より)

 姫路藩は、間形村の窮状から判断して免相・3割を認めたのでしょうか?

 当時の姫路藩の財政事情をみておきます。

      姫路藩の財政は火の車

 徳川家の親戚の大名・松平明矩(あきのり)が、奥州白河藩から姫路城の城主としてやってきたのは、寛保二年(1742)のことでした。

 その時、白河藩では、借金を踏み倒すなど、ひと騒が起こっています。

 白河藩、姫路藩ともに十五万石ですが、実際の収入では米のほか、塩・木綿・皮等の産業をあわせると姫路藩の方がはるかに勝っていました。

 姫路藩への転封は、松平家にとっては喜ばしいことだったのですが、その費用をつくるため商人から多額の借金をしての姫路入りとなりました。

 明矩は、借金の返済は姫路で行うと約束して、やっとのことで姫路へ来ることができたのです。

 そのため、姫路藩への入部早々、まず増税にとりかかりました。

 そのやり口はひどいものでした。

 大庄屋を通じて百姓衆が願い出たという形式をとっての増税でした。

    間形村減税の理由は?

 姫路藩の財政は火の車で、免相を6割6分から短期間に3割にまで下げることなど、とうてい考えられる状況ではありません。

 でも、間形村の免相は3割が認められています。

 何がそうさせたのでしょう。(no5098

 

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加古川町平野・美乃利探検(18) (沼田家文書1) 間形村由来書送り之事 

2021-05-28 07:34:53 | 加古川町平野・美乃利探検

    間形村由来書送り之事

 間形の沼田家のご祖は加古新村の方で、沼田家に伝わる文書「間形村由来書送り之事」(写真)があります。

 今回は、その内容(口語訳)の紹介をさせていただきます。

 *文書の口語訳は、内容が理解しやすいようにしたため、完全な直訳ではありません。

       間形村由来書送り之事(口語訳)

 間形村というのは、溝之口村の枝村ですが、溝之口村に家があるばかりで、間形の地には家が一軒もありませんでした。

 姫路藩主・榊原式部守(政岑)の時代、元文元年(一七三六)に、七五石一斗五升が「上がり地」となり、次の年の二月十八日に残りの三一五石五升の全てが「上がり地・あがちち」となり、取り上げられました。

   *注、「上がり地」・・・藩や幕府に召し上げられた土地

 その土地は、上西条の大庄屋・沼田直次郎と加古新村庄屋・(沼田)九郎太夫に下げ渡しとなりました。

 間形村の免相(めんあい・税率のこと)は、六割六分だったものを「一つ」減じて五割六分となりました。

 当時、平野村の兵左衛門が間形村の庄屋を兼ねていましたが、同年三月二十六日に、天王寺村(現、野口町良野)の庄屋・甚五郎が間形村の庄屋を兼ねることになりました。

 しかし、それでも間形村の生産は安定しません。

 延享三年(一七四六)に「間形の免相(年貢率)を三割に減らしてほしい、そして枝村ではなく、独立した間形村として認めてほしい」と藩主・松平明矩(まつだいらあきのり)に願い出たところ、なんとこれが認められたのです。

 寛延元年(一七四八)十一月十七日、姫路藩主・大和守明矩様は亡くなられました。

 これによって、毎年十一月十七日の命日には、間形村の大恩人の明矩様に感謝して、村役人宅に集まり、その遺徳をしのび位牌を拝むことを決めました。

 このように、大和守様(松平明矩)の遺徳をおろそかにせず、いつまでも守るように。

    寛延元年(一七四八)十二月 

 加古郡間形村  九郎太夫

この事を、今後も末永く村中へ折々読み聞かせるように。  

              西条組大庄屋  直次郎

   右証                       (no5097

 *写真:間形村由来書送り之事(文書の一部)

 

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加古川町平野・美乃利探検(17) 美乃利新村(しむら)・間形村(まがたむら)

2021-05-27 08:04:37 | 加古川町平野・美乃利探検

        美乃利新村(しむら)・間形村(まがたむら)

 右の地図は、元禄播磨国絵図(部分)を分かりやすく書き直した地図です。

 この地図で、大野新村と間形(まがた)を見つけてください。

 大野新村は、大野から分かれて独立した村です。

 正保播磨絵図には出ていません。

 別の史料(荒木家文書)では、明暦二年(1656)に大野新村は、大野村から独立したとしています。大野新村は、一般的に「しむら」と呼ばれました。

 この大野新村の分離について『大野史誌(大野史誌編集委員会)』

 「・・・明暦二年本村の南に大野新村を設けた』と書くのみで、分離の理由を知ることはできません。

 しかし、大野新村は新井用水が完成した明暦二年、大野村より分離していますから、分離には新井用水と何らかのかかわりがあったのでしょう。

   明治9年、大野新村は間形と合併し、名称を「美乃利」とする

 時代は明治に変わり、多くの村で合併が行われました。

 明治9年(1876)、大野新村は、この時、理由は分かりませんが大野村と合併せず、間形と合併し、村名を「美乃利(みのり)」としました。

 従って、行政的には、大野新村・間形村の呼称はこの時消え、美乃利となりました。

 しかし、昭和45年・加古川バイパスが美乃利の中心を通り、美乃利を南北に分断した。そのため、バイパス南部の住民は、間形の名前を盛んに使うようになりました。

 くりかえしますが、現在、間形は「美乃利」のままで、行政的には存在しません。(no5096

 *正保時代(1644~1648)、元禄時代(1688~1704)

 *地図:元禄播磨絵図

 

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加古川町平野・美乃利探検(16) 新井用水

2021-05-26 07:19:11 | 加古川町平野・美乃利探検

 日岡山の裾から野口の印南野台地に沿って江戸時代の初めに新井用水がつくられました。

 美乃利村(当時は、大野村に含まれた集落でした)のそばの用水です。少しだけ、説明をしておきましょう。

     新井用水

 加古川大堰のところから野口を流れ、古宮(播磨町)の大池に達する用水(新井用水)の話です。

 承応3年(1645)の旱魃はひどく、太陽が大地を容赦なく照りつけました。秋の収穫は何もありません。

 溜池に頼る24ヵ村の百姓は、種籾はもちろん木の実、草の根、竹の実を食べつくし餓死する者も少なくありませんでした。

 寺田池の水も完全に干上がってしまいました。

 それに比べて、加古川の水を利用している五か井郷(五ヶ井用水で灌漑をしている村々は、ほとんど被害がなく、水田は夏の太陽をいっぱいに受け、むしろよく実っていました。

 野口・平岡・播磨の村々の百姓は、食べるものがありませんでした。

 五か井郷から食料と種籾を分けてもらって、やっと生活をつなぐありさまでした。

 古宮村(播磨町)の大庄屋の今里伝兵衛は、加古川から用水を引きたいと考えました。

 しかし、水は、川より高い土地には流れてくれません。

 そのため、上流の城山(じょやま・神野町)のすぐ北の加古川(加古川大堰の左岸)から水を引く計画たてました。

 しかし、問題は、「取水する場所は、五か井用水の取水口の近くになります。当然、五か井郷の村々は了解しないであろう。そして、他の村々の協力が得られるだろうか?」ということでした。

 藩主・榊原忠次の協力を得ることができました。藩主の命令は絶対です。

 難問は、ひとつ解決しました。新井用水の工事は明暦元年(1665)正月に始まり、翌年の月に完成しました。

 伝兵衛は新井の開通式に白装束で臨んだといいます。(no5095

 *写真:新井用水流路

 

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加古川町平野・美乃利探検(15) 五ヵ井用水(4) 西大寺技術集団

2021-05-25 08:50:48 | 加古川町平野・美乃利探検

       西大寺技術集団

 鎌倉時代の農業は、鋤・鍬使う農業でしたが二毛作も始まっています。人口も増えました。商業活動も盛んになりました。

 唐突に、鎌倉時代の西大寺派の農業技術集団が登場します。

 一般的に鎌倉時代に、大河に堰を設けるなどということは、技術的に不可能と思われていたのです。

 でも、最近の研究で、私たちの地域には、その技術があることがわかりました。

 常樂寺は、大野(加古川町大野)は、北條郷にある西大寺派の有力寺院でした。

 五ヶ井用水の改修には、この西大寺派の農業土木技術が使われたと想像されるのです。

 もう少し説明が必要ですが、五ヵ井用水が現在のような水路に改修されたのは1315年ごろ、つまり、鎌倉時代と考えられるようになりました。

 論理が飛躍しているようで、ストンと腑に落ちないでしょう。

 西大寺農業土木技術集団の話を続けましょう。



 鎌倉時代、地震・飢饉・戦争は引き続きおきました。

 その上に重い税金があり、人々の生活は、厳しさを増し、まさに末法の世のようでした。

 こんな時、人々は仏様に救いをもとめます。

 この時代、法然・親鸞といった新しい考えの宗教家がキラ星のように誕生しました。

 庶民は、救いを仏様に求めたのです。特に「仏様を信じれば救われる(死後、浄土へ行ける)」という考え方です。すさまじい勢いで広がろうとしました。

 当然、それまでの宗教(教団)と争いがおきました。

     常楽寺は、真言律宗の寺院

 「お釈迦さまが一番大切にされたのは戒律(かいりつ)を守ることである。もう一度、いまの時代に戒律を呼び興こそう」という声が高まりました。

 信者は、「戒律」を守ってこそ救われるとする教団が真言宗・天台宗を中心にして生まれました。

 特に、真言宗から規律(律)を大事にする声が上がり、奈良の西大寺を再興した叡尊(えいぞん)を中心にして真言律宗がつくられました。

 永仁3年(1295)、文観(加古川の大野の人)は、西大寺に入り受戒(真言律宗の僧として認められ戒名をもらうこと)しています。

 文観(殊音)・西大寺・常楽寺(加古川町大野)については「平野、美乃利」の後「大野探検」をとりあげるよていです。そこで、詳細を追ってみます。

 ここでは、西大寺技術集団によって五ヶ井用水は完成したと、頭の隅にとどめておいてください。(no5094

 *写真:奈良の西大寺を再興した叡尊(えいぞん)

 

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加古川町平野・美乃利探検(14) 五ヶ井用水(3) 五ヶ井の水路

2021-05-24 09:37:53 | 加古川町平野・美乃利探検

     五ヶ井用水の水路

  先に紹介したように、奈良時代、中央・地方の政治の仕組みも整ってきました。

 地方には国司・里長等の地方官が置かれました。

 これら地方官の仕事は治安、そしてなによりも農民から確実に税を納めさせることにありました。

 政府は、税を確実にするために土地制度を整えたのが、条里制でした。

 条里制は、七世紀の末には始まっていただろうと思われます。 



 美乃利でも条里制の土地があったことは確かめられています。

 しかし、土地だけでは田畑になりません。水が必要です。

 では、どのようにして水を得たのでしょうか。

 池から得たとも考えられが、池の遺構がありません。

 埋もれてしまったとも考えられるが、これだけ発達した条里制です。どこかで遺構が見つかってもよさそうなものです。

 考えられることは、加古川の水を利用することです。

 それにしても、加古川からの水が条里制の全ての田畑を潤したとも思えません。

 加古川は、洪水をしばしばおこす暴れ川でした。加古川に堰をつくり、水を引いたとも考えられないのです。

 この時代に大規模な用水作る土木技術はまだありません。

 加古川は、太古よりその流路をしばしば変えています。加古川の旧流路(図)を見てください。

 これら流路と条里制の遺構がたぶんに重なっています。

 つまり、条里制の土地は加古川の旧流路を用水として利用したと考えるのが自然です。

 五ヶ井用水の始まりは条里制の時代まで、さかのぼることができると想像されるのです。no5093

 *図:加古川の旧流路(北の部分)

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加古川町平野・美乃利探検(13) 五ヶ井用水(2) 条里制と五ヶ井の水路跡

2021-05-23 08:31:51 | 加古川町平野・美乃利探検

     条里制と五ヶ井の水路

 先に紹介したように、奈良時代、中央・地方の政治の仕組みも整ってきました。

 地方には国司・里長等の地方官が置かれました。

 これら地方官の仕事は治安、そしてなによりも農民から確実に税を納めさせることにありました。

 政府は、税を確実にするために土地制度を整えたのが、条里制でした。

 条里制は、七世紀の末には始まっていただろうと思われます。 



 美乃利でも条里制の土地があったことは確かめられています。

 しかし、土地だけでは田畑になりません。水が必要です。

 では、どのようにして水を得たのでしょうか。

 池から得たとも考えられが、池の遺構がありません。

 埋もれてしまったとも考えられるが、これだけ発達した条里制です。どこかで遺構が見つかってもよさそうなものです。

 考えられることは、加古川の水を利用することです。

 それにしても、加古川からの水が条里制の全ての田畑を潤したとも思えません。

 加古川は、洪水をしばしばおこす暴れ川でした。加古川に堰をつくり、水を引いたとも考えられないのです。

 この時代に大規模な用水作る土木技術はまだありません。

 加古川は、太古よりその流路をしばしば変えています。加古川の旧流路(図)を見てください。

 これら流路と条里制の遺構がたぶんに重なっています。

 つまり、条里制の土地は加古川の旧流路を用水として利用したと考えるのが自然です。

 五ヶ井用水の始まりは条里制の時代まで、さかのぼることができると想像されるのです。

no5093

 *図:加古川の旧流路

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加古川町平野・美乃利探検(12) 五ヶ井用水(1)

2021-05-22 07:33:33 | 加古川町平野・美乃利探検

   五ヶ井用水(1)

 大野・中津・美乃利は五ヶ井用水のど真ん中の集落(五ヶ井郷)です。

 五ヶ井用水の話をしましょう。

 

 『日本書紀(にほんしょき)に、次のような話があります。

 ・・・

   五ヶ井用水の伝承

 (今から1300年以上も前のことです)聖徳太子は、叔母君の33代・推古天皇(すいこてんのう)のために法華経(ほけきょう)の講義をしました。

 これを聞かれた推古天皇は、大いに感動され、その労をねぎらうために、播磨の国の良田、500町歩を聖徳太子に与えました。

 太子はこれをありがたくお受けして、斑鳩寺(揖保郡太子町)と鶴林寺に分け、それぞれ361町、139町を分け与え荘園としました。

 ・・・・

 そして、鶴林寺の田畑を潤すために造られたのが「五ヶ井用水」だというのです。

 しかし、加古川の本流に堰(せき)を築き、洪水の時にも崩れない、しっかりとした堤と水門をつくり加古川から取水するためには、そのための技術の進歩が必要となります。

 聖徳太子の時代には、まだそれだけの技術の発達はありません。

 それに、何よりもひろい地域を一体的に支配する権力者が出現し、村々の代表の結びつきができなければ、ひろい地域の灌漑施設できません。

 このようなことから考えて、現在の「五ヶ井用水」は、ずっと後(鎌倉時代以降)とみてよいようです。

 それ以前の水路は、加古川の古い流路を利用していたと考えられます。

   なぜ「五ヶ井用水」

 五ヶ井用水の名称は、昔の①北条郷(大野・美乃利・平野・中津・寺家町・篠原・溝口)岸南庄(加古川‐現在の本町・木村・友沢)、③長田庄(長田・安田・新野辺・口里・北在家)、④加古庄(粟津・備後・植田)それに⑤今福庄の五つの地域と集落に水路が引かれているところからつけられた名称です。

 五ヶ井用水に、昔はホタルが飛び交い、水遊びの子どもの歓声があったといいます。(no5092

 *地図:①は五ヶ井用水受益地域(②の新用水受益地域については後に説明します)

 

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加古川町平野・美乃利探検(11) 美乃利に残る条里制(じょうりせい)跡

2021-05-21 09:06:12 | 加古川町平野・美乃利探検

      美乃利に残る条里制(じょうりせい)跡

 奈良時代、中央・地方の政治の仕組みも整ってきました。

 地方には国司・里長等の地方官が置かれました。

 これら地方官の仕事は治安、そしてなによりも農民から確実に税を納めさせることでした。

 政府は、税を確実にするために、まず土地制度を整えます。これが条里制です。

 条里制は、七世紀の末には始まっていただろうと思われます。 

 その仕組みは、六町四方(43.2ヘクタール)の大区画を縦横六等分、つまり36の小区画に分けました。

 そして、その一つをさらに36等分し、その一つひとつに一の坪・二の坪・三の坪・・・のような番号をつけ所有者をはっきりさせました。

 美乃利の条里制の遺構(図)をご覧ください。

 以下『美乃利の本』から一部引用させていただきます。

 「・・・・やがて、そのシステム(条里制)が失われ、それから千年の時を経ても加古川下流域この条理の痕跡が多く残った地域で、現在の美乃利の土地区画も驚くほどその影響を受けているのがわかる」

「また、『美乃利の本』の筆者は条坊制の条里制の地割は、古代山陽道を配慮しつつ、加古郡の郡衙から高御座山を真正面に眺められる方向であることに注目される」と指摘されています。

 <郡衙(ぐんが)>

 律令時代の「郡」をおさめるための役所です。今で言う市役所にあたります。no5091

*挿絵:美乃利地区の条里制の痕跡(『美乃利の本』より)

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