次の話題へ進む前に、トレビア(雑学)をしておきたい。
神戸製鋼所のある地区は金沢町です。ここは江戸時代のおわりのころに開発された金沢新田でした。
金沢新田の直接の開発したのは、金沢九郎兵衛(現:東神吉町砂部)です。
そして、『新野辺の歴史(第一巻)』で、次のような伝承を紹介しました。
九郎兵衛と蛇塚
金沢新田の開発中のことでした。
新田に大蛇をほうむったという大きな塚がありました。
村人は、これを「蛇塚」とよんでいました。
「もし、牛がこの塚の草をたべると発熱するし、人がその塚の草をふんだだけで熱がでる」と恐れられていました。
金沢新田の開発は進み、蛇塚をほりおこし、水路を造らなければならなくなりました。
ところが「大蛇のたたり」を恐れて、誰も塚を掘ろうという者がいませんでした。
九郎兵衛は、家族に「新田開発も後は蛇塚を残すだけとなった。塚を掘ると大蛇のたたりで死ぬかもしれぬ。それで、他の者に任せてはかわいそうである・・・」と、自ら塚に鍬をいれました。
幸い、何事もおこりませんでした。
塚のあとから、蛇の骨のような物が2個出てきました。
一つを自宅に持ち帰り、他の一つは、観音寺(尾上町池田)に納さめました。
ある夜のことでした。
九郎兵衛の夢枕に大蛇があらわれ、「私の祠(ほこら)を建てて祭ってくれたら金沢家を守護するであろう」というと姿を消したのです。
金沢家では祠を建てて祭っておられます。
九郎兵衛門、もとの苗字は「磯野」
以上のように、九郎兵衛さんの苗字は金沢と紹介しましたが、安永三年(1774)の生まれで、九郎兵衛さんは、もともと「磯野」と名のっており、開拓当時、通称、「市場屋九郎兵衛」と呼ばれていました。
天保11年(1840)、金沢新田は完成し、藩主の酒井忠実は、その功を称して、時の奉行・金原左衛門の「金」と長澤小太夫の「澤」を九郎兵衛に与えました。
つまり、この時以来、九郎兵衛は「金沢」を名のりました。
そして、金沢家は帯刀御免となり、大庄屋格としての紋章と、毎年米10俵を賜るようになりました。
もちろん、神戸製鋼所のある「金沢町」の金沢は、九郎兵衛さんの苗字「金沢」に由来しています。<o:p></o:p>