ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

さんぽ(120):新野辺を歩く(二部)36 金沢九兵衛

2014-05-07 08:27:42 |  ・加古川市別府町新野辺

 次の話題へ進む前に、トレビア(雑学)をしておきたい。
 神戸製鋼所のある地区は金沢町です。ここは江戸時代のおわりのころに開発された金沢新田でした。
 金沢新田の直接の開発したのは、金沢九郎兵衛(現:東神吉町砂部)です。
 そして、『新野辺の歴史(第一巻)』で、次のような伝承を紹介しました。
   九郎兵衛と蛇塚
Photo
 金沢新田の開発中のことでした。
 新田に大蛇をほうむったという大きな塚がありました。
 村人は、これを「蛇塚」とよんでいました。
 「もし、牛がこの塚の草をたべると発熱するし、人がその塚の草をふんだだけで熱がでる」と恐れられていました。
 金沢新田の開発は進み、蛇塚をほりおこし、水路を造らなければならなくなりました。
 ところが「大蛇のたたり」を恐れて、誰も塚を掘ろうという者がいませんでした。
 九郎兵衛は、家族に「新田開発も後は蛇塚を残すだけとなった。塚を掘ると大蛇のたたりで死ぬかもしれぬ。それで、他の者に任せてはかわいそうである・・・」と、自ら塚に鍬をいれました。
 幸い、何事もおこりませんでした。
 塚のあとから、蛇の骨のような物が2個出てきました。
 一つを自宅に持ち帰り、他の一つは、観音寺(尾上町池田)に納さめました。
 ある夜のことでした。
九郎兵衛の夢枕に大蛇があらわれ、「私の祠(ほこら)を建てて祭ってくれたら金沢家を守護するであろう」というと姿を消したのです。
 金沢家では祠を建てて祭っておられます。
 九郎兵衛門、もとの苗字は「磯野」
 以上のように、九郎兵衛さんの苗字は金沢と紹介しましたが、安永三年(1774)の生まれで、九郎兵衛さんは、もともと「磯野」と名のっており、開拓当時、通称、「市場屋九郎兵衛」と呼ばれていました。
 天保11年(1840)、金沢新田は完成し、藩主の酒井忠実は、その功を称して、時の奉行・金原左衛門の「金」と長澤小太夫の「澤」を九郎兵衛に与えました。
 つまり、この時以来、九郎兵衛は「金沢」を名のりました。
 そして、金沢家は帯刀御免となり、大庄屋格としての紋章と、毎年米10俵を賜るようになりました。
 もちろん、神戸製鋼所のある「金沢町」の金沢は、九郎兵衛さんの苗字「金沢」に由来しています。<o:p></o:p>

 

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さんぽ(97):新野辺を歩く(二部)13 小物成

2014-04-10 13:20:59 |  ・加古川市別府町新野辺

  小物成(こものなり)
Img
 百姓は、厳しい年貢にあえいでいました。
 その年貢は、米・畑作に対する税金だけでなく、その外に、さまざまな種類の税金が課せられました。
 これらの税金は、小物成(こものなり)と呼ばれています。
 新野辺村の明細帳(寛延三年・1750)から、「小物成」を簡単に見ておきましょう。右の『明細帳』はその一部です。
   
小物成
一 米四斗六斗四合       犬米
   但シ高百石ニ付五斗懸リ
一 銀五百拾五匁六分壱リ    草銀
   但シ高百石二付六匁壱分五リ懸リ五月より九月
   草月五ケ月分
一 銀 百八拾五匁三分     藁銀
   但シ百ニ付弐匁八分五隣リン懸リ三月より四月迄
   十月より十二月迄藁付き七ヶ月分
 (以下略)
 これらの外、堤防の補修・道修理等と様々な小物成が百姓に課せられたのです。
 <参考>
 犬米・・・藩主が鷹狩りをする時に村々から人と共に犬が動員されました。後に米で納めるようになりました。
 草藁銀・・藩で飼っている馬の飼料として草のある時は干し草を、その外は稲藁を納入していましたが、後に銀納になりました。
*古文書:「新野辺村明細帳(寛延3年・1750)の一部」より

<o:p></o:p>

 

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さんぽ(96):新野辺を歩く(二部)・12 百姓の嘆き!

2014-04-09 08:35:35 |  ・加古川市別府町新野辺

 新野辺村の百姓の嘆きの声が聞こえる
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 写真上の古文書は、元文二年1737の新野辺村の明細帳の一部です。
  加古郡加古庄  高砂組 新野辺村
  村之初相知レ不申候
  本田高 九百二拾八石八斗弐  免 六ツ壱分
 (以下略)
 新野辺村は、元文二年当時、高砂の大庄屋の支配下の村でした。
 そして、すでに新野辺村は、いつのころに始まったかわからなくなっています。
 本田は、9288斗の村で、税金は6割1分の村でした。
 文書の「免」と言うのは、税率のことです。
 新野辺村は潮風・砂地で、その上に水の少ない土地です。
 それにしては、新野辺の税金が収穫量の61とは、非常に高い税率です。
 新田等の税率は除いていますが、当時の新野辺村の百姓の嘆きの声が聞こえてきそうです。
 それでも、なんとかして、61分の税金を払っていたのでしょう。
 定免法から検見法へ
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 寛延3年(1750の新野辺村の明細帳には、新野辺村の年貢について、次のように書いています。
 一 御検取ニ而御座候(ごけみとりにてござそうろう)

 検見取(けみどり)は、「年貢は、その年の収穫高を見て判断する」と言うのです。
 これに対して元文二年のように、収穫高の決められた割合で納税する方法を定免法(じょうめんほう)といます。
 つまり、新野辺村の納税法は、定免法から検見法に変わっています。
 先にみたように、元文二年と寛延三年は、わずか13年の間ですが、その間に天災が容赦なく百姓の上に襲いかかりました。
 姫路藩としては、今まで通り61分の税率を維持したかったのでしょうが、もはや不可能になったようです。
 新野辺村は、検見法が採用されています。
 *古文書上:「元文二年(1737)の新野辺村明細帳」より
   〃 下:「寛延3年(1750)の
新野辺村明細帳」より

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さんぽ(95):新野辺を歩く(二部)・11 新野辺に22のため池(寛延三年)

2014-04-05 08:35:49 |  ・加古川市別府町新野辺

 新野辺村は五ヶ井郷の戸尻の村
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 新野辺村は、五ヶ井用水の村(五ヶ井郷)です。
 五ヶ井用水は、神野町西条の城山(じょやま)のところの平松堰から加古川の水を取り入れています。水の豊かな用水です。
 用水は、池を伴うのがふつうです。
 旱魃の時などは、田植ができません。そんな時のために水をためておく、ため池がつくられました。
 しかし、五ヶ井用水ばかりは、その心配がほとんどないほど水の豊かな水がありました。
 そのために、五ヶ井用水の村々(五ヶ井郷)にはほとんど池がありません。
   
新野辺に22の溜池があった
 しかし、新野辺村だけは少し事情が違います。五ヵ井郷の村ですが、神野町西条の平松堰から運ばれてくる五ヶ井用水の終点で、水が確実に届く保障はありません。
 そのため、五ヵ井用水の水を貯めておく池が必要でした。
 寛延三年
(1750)の明細帳には新野辺の溜池についての記載があります。そのカ所を読んでおきます。
  (解読)
  田地植付之
 一 溜池  長 弐拾間より百九拾弐間迄 
拾九ヶ所
       幅 五間より三間迄  
  
右は平松五ヶ井水之戸尻故植付之節例年水廻り遅ク御座候
  ニ付植付かゑ水ニ而御座候
  右同断<o:p></o:p>

  一 溜池  長 六間より拾九間迄    弐拾弐ヶ所
       幅 三間半より六間迄
 (文意)
 新野辺村は、五ヶ井用水の一番最後(戸尻)にあたり、例年水廻りが遅いため、田植えのため、また、かえ水のために、比較的大きな溜池が19ヶ所と小さな溜池が22ヶ所あります。
 新野辺村には、大小あわせて溜池が41もあったといいます。現在は、ほとんど姿を消してしまいました。
 大水・大風(潮風)の外、旱魃にも悩まされた村でした。

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さんぽ(94):新野辺を歩く(二部)・10 うち続く風水害

2014-04-04 08:34:23 |  ・加古川市別府町新野辺

  うち続く風水害
 元文~寛延期の加古川の水害史を列記しておきます。
  
<加古川の風水害史>
   元文5年(174089日    大雨・洪水
   寛保元年(1741721日   大風雨・洪水
   延享2年(174573日    洪水
   延享3年(1746)824日   大風雨
   寛延2年(174972日    大風雨・洪水   *数千人死亡
Photo
 この時期、自然は荒れ狂いました。ここには書いていないのですが、その間に旱魃も百姓を襲いました。
 それに、前号で紹介したように重税が重なりました。百姓の生活は、餓え苦しむばかりでした。
 百姓は、立ち上がりました。そのエネルギィーは、油紙に火を注いだように瞬く間に全藩を包んだ一揆に広がりました。
 百姓は、実情はともかく、大庄屋・めだった庄屋・豪商をことごとく襲いました。
 新野辺村は、海岸の村です。大風・潮風の直撃を受けた村でした。
 被害の記録が無く、紹介できませんが、特にきびしい被害状況であったと想像できます。
 その結果が、新野辺村の人口減少だったのでしょう。
   梅谷家打ち壊し!
 前回紹介した。一揆の進路経路をご覧ください。
 一揆は、新野辺村にも押し寄せました。
 この時、現在の加古川市の海岸部では、ただ一軒、新野辺村の庄屋・梅谷家が打ち壊しにあっています。
 『姫路市(第三巻)』は、梅谷家の被害状況を、「表門・長屋廻り屋根懸ヶ塀全壊、建屋天井・床・柱等打砕、建具打捨」と、まとめています。
 徹底した打ち壊しだったようです。
 梅谷家打ち壊しについての詳細は分かりませんが、当時、梅谷家はこの地方では相当裕福な庄屋として目立った存在だったようです。
 なお、この時期大歳家は、大庄屋ではなく、村の庄屋も梅谷家が担当していました。

 

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さんぽ(93):新野辺を歩く(二部)・9 姫路藩寛延一揆

2014-04-03 08:35:08 |  ・加古川市別府町新野辺

 新野辺村の属する姫路藩にとって、元文から寛延にかけての時期は、まさに怒涛のような時代でした。
 新野辺村に残る明細帳(寛延三年・1750)の前年には、姫路藩最大の危機であった大一揆がおきています。当時の状況を見ておきましょう。
   
姫路藩・播磨寛延一揆
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 当時の状況を見ておきます。
 1741年、奥州・白河藩(藩主・松平明距)は、姫路への転封が決まりました。
河藩内の商人は、借金の返済を求めましたが、借金を踏み倒しての姫路入りとなりました。
 姫路への引越し費用は、江戸の商人からの借金でなんとか賄いました。
 この時、江戸商人と「借金は姫路で支払う・・」という約束をしました。
 姫路に入るや、年貢の引き上げ等により増収をしなければなりませんでした。
 その上、延享二年(1745)、家重が九代将軍を引き継ぎ、朝鮮国からお祝いのため。延享五年(1748)477名が来朝し、途中一行は、室津(龍野市)に立ち寄りました。
 幕府は、この接待を姫路藩に命じました。二万両が必要でした。
 借金まみれの姫路藩に商人は協力しようとしませんでした。返してもらえる見込みがないのですから当然です。
 さらに、悪いことがかさなりました。
 明距(あきのり)の姫路入部以来、6年に四度の暴風雨に見舞われ、凶作が続いていました。
 寛延元年(1748)も、大干ばつと台風で「稀有の凶作」となりました。
 姫路藩は、「農具を売ってでも年貢を納めよ」という強攻策にでました。
 西条組の大庄屋・沼田平九郎は藩に迎合しました。
 寛延二年(1749)、西条組大庄屋・沼田平九郎宅(現:加古川市八幡町中西条)は、一揆衆に打ち壊されました。
 年貢の減免を願い出た百姓は投獄されてしまいました。
 百姓たちの不満が爆発したのです。
 滑(なめら・夢前町)でも、甚兵衛が中心となり大庄屋宅を打ち壊しました。
 野谷新村と夢前(飾西郡)で燃え上がった一揆は、瞬く間に姫路藩を震撼させる一揆にひろがりました。<o:p></o:p>

 一揆の後、大弾圧
 藩から足軽部隊が出動しました。亀山・船場(姫路市)本徳寺(浄土真宗)も百姓の説得にあたりました。
 やがて、一揆は終息。厳しい調べが大坂奉行所で行われました。
 寛延三年(1750)九月一揆の中心にいなった者への判決が言い渡されました。
    野谷新村      伊左衛門 磔刑
    滑村(なめらむら) 甚兵衛  磔刑
 *その他、獄門三名
 伊左衛門は六月、大坂の牢で亡くなり、死体は塩漬けにされていました。姫路藩は、塩漬けの伊左衛門を市川河原に引き出し磔にしたのです。
 姫路藩の財政は火の車でした。当然、その負担は百姓に覆いかぶさることになりました。
*図:播磨全藩一揆の進行経路

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さんぽ(92):新野辺を歩く(二部)・8 新野辺村困窮す

2014-04-02 08:52:35 |  ・加古川市別府町新野辺

  13年(元文二年~寛延三年)で、91人の人口減
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さんぽ(91)で、寛延三年(1750)の「新野辺明細帳」から当時の新野辺村の人口・職業・職業・出稼ぎの簡単な状態を見ました。
 さらに、新野辺には元文二年(1737)の明細帳も残っています。寛延三年より、わずか13年前の明細書です。人口を比較しておきます。
 寛延三年の新野辺村の人口は、1075人(男、544人・女、531人)ですから、この間13年で91人もの人口減です。
 この数字から考えると、寛延・元文の頃の新野辺村の百姓は困窮したようです。
 そのためか、さんぽ(91)でも書いたように、多数の者が大坂へ出稼ぎに出ていますが、文二年では、男女合わせて47人の者が大坂稼ぎに行っていますが、寛延三年は、その数字も飛躍的に多くなり、男だけで90人が大坂稼ぎに出かけています。村内だけでは生活は成りたたなくなったのでしょうか。
 これら困窮の原因は何だったのでしょう。次回で想像してみたい。
 その外、この二つの明細帳を見ていると、新野辺村には大工の多かったことを知ることができます。
 元文・寛延のころ、新野辺村は困窮したのか
  千百六拾六人 内  男 五百九拾三人
            女 五百七拾三人
   内
 一 干鰯商人         壱人
 一 小見世          三人
 一 小商人          拾弐人
 一 諸職人          拾壱人
 一 大工           弐拾三人
 一 医者           壱人
 一 大坂奉公挊ニ奉り候者   四拾人
(以上右文書、以下の文書は省略しています)
 一 大坂奉公挊ニ参り候者   七人女
 一 他村ヘ奉公ニ参候者    六人男

 一  右同断         拾五人女
 
一 居村奉公仕候者      拾三人男
 
一  右同断         弐壱五人女
    〆
   外ニ
  弐拾五人 内  男   拾八人
          女    七人 他村より奉公に参リ居申者
*古文書:『新野辺村明細帳(元文二年・1737)』の一部<o:p></o:p>

 

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余話:「加古川市の歴史」を英語で読んでみませんか

2014-04-01 08:29:55 |  ・加古川市別府町新野辺

 A History of Kakogawa City』完成
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 月日が立つのは、はやいものです。もう退職して10年になりました。退職して、二年間は学生に戻りました。
 ある大学で英語を専攻しました。指導教官に言われました。「大学で英語の専攻でない者が大学院で英語を専攻した例は知りませんね・・・」と。間接的に、英語の能力がないことに対する間接的な非難だったのかもしれません。
 でも、目論見がありました。英語で、地域の歴史を書いてみたかったのです。やがて、一年が過ぎ、そろそろ修士論文を書かなければならない時期になりました。先生に「英語で読む、加古川の歴史をつくりたいんです」とお願いすると、指導教官は困っておられました。「英語は指導するが、肝心の加古川市の歴史は知らないよ」と言われました。当然です。それでも、無理をとおして、「内容は私の責任です」と、ご無理をお願いしました。
 そして、その修士論文の一部をもとに完成させたのが、この『A History of Kakogawa City』です。
 6年前に、一度つくり、関係者に配布しました。間違いだらけの本でしたが、それでも感想をいただきました。その旧版も現在、私の手元に3部が残っているだけになりました。そこで、少し書き直して、新たに500部を発行することにしました。
 ハプニングがありました。「キラリかこがわ」さんが、素晴らしい表紙を制作してくださいました。うれしくて元気になりました。はりきって加筆・校正を急ぎました。<o:p></o:p>

 まだまだ、英語らしい英文になっていないと思いますが、ご批判・ご感想をお願いします。
 高校生・中学生のみなさん、英語と加古川市の歴史を通して、加古川市を好きになってください」
 現在、加古川市にお住まいの多くの外国の方にも読んでいただきたいと考えています。<o:p></o:p>

 また、最近は熟年のたくさんの方が英語を勉強されています。そんな勉強の教材にいかがでしょうか。
 この『A History of Kakogawa City』の編集に際し、AETのロバート・ダン先生、シドニー大学の学生、トーマス・コノップさんに大変お世話になりました。この紙面をお借りしてお礼申し上げます。有難うございました。
 <あつかましいお願い>
 尚、この本は一冊500円で販売をします。お読みいただける方はE-mailか、電話でお名前と御住所と電話をお聞かせください。(電話は、不在の時が多いので繋がらない時は、ご了承ください)
    電 話:079-490-4641
    E-mail qq7z6tn9@mist.ocn,ne.jp

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さんぽ(91):新野辺を歩く(二部)7 作間稼ぎ・出稼ぎ 

2014-03-31 07:32:45 |  ・加古川市別府町新野辺

 大歳家文書・新野辺町内会文書を紹介していきますが、整理されての紹介ではありません。時代・内容とも順不同です。後日、整理します。
 最初に、『加古川市史(第二巻)』の「新野辺村の商工業」(p499)からの紹介ですが、記事は『新野辺の歴史(第一巻)』再掲載です。
 「新野辺村明細帳・寛延三年(1750)」より
   作間稼ぎ・出稼ぎ(大坂酒屋の米踏かせぎへ)
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  人数 1075人 
  内男  544人
   女  531人
   大工  24人 農具鍛治  3人
   樽屋   1人 医者    1人
 作間商人 22人
 と、あり51人の職業が記録されています。
 22人の作間商人は、味噌・タバコを売り、木綿小売りが6人、そのほか籠振りの零細な行商人がいたことが分かります。
  次に、明細帳から右のか所を読んでおきます。
  (解読)
 男かせぎ耕作之間ニハ干鰯筵打申候、又冬春作間ニ大坂酒屋米踏挊ニ九拾人斗(ばかり)も参り申候(もうしそうろう)、尤五人組迄断参申候 *挊(かせぎ)
 (意味)
 新野辺の百姓は農作業の合間に、干鰯(ほしか・農業のための肥料)の藁袋つくりに精を出しています。<o:p></o:p>

 そして、冬から春にかけての農閑期に大坂の酒屋に米踏作業に出かけます。
出稼ぎにあたっては五人組迄届けています。
女かせぎについては、「解読」だけを紹介しておきます。
 (解読)

 女稼耕作之間ニハ妻子共干鰯筵縄又ハ浜之宮松林落葉山守とかきわけ浜辺草芝薪かせぎ木綿かせぎ致申候者も御座候
 ここで注目したいのは、男かせぎで「90人ばかりが大坂の酒屋へ米踏稼ぎに出かけている」ことです。米踏と言うのですから、酒の仕込みの準備工程である精米作業(単純労働)のことと思われます。

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さんぽ(90):新野辺を歩く(二部)・6 新野辺町内会文書② 

2014-03-29 08:50:28 |  ・加古川市別府町新野辺

  古文書は、昔からのメッセージ
 (前号より続く)
 以上が、大歳家文書と新野辺町内会文書の概略です。
 大歳家文書からは主に江戸時代(とくに後半)の、町内会文書からは主に明治以降の新野辺の様子が明らかになるということは理解いただけたかと思います。
 この2つの文書群を読み通せば江戸時代から現代までの新野辺の歴史を描き出すことができるのです。
   
山本商店文書・蛭子講文書・黒田家文書も・・・
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 ただし、新野辺に残る古文書はこれだけではありません。
 他にも、例えば私が整理させていただいたものとしては、山本商店文書(165)、蛭子講文書(41)、黒田家文書などがあります。
 山本商店文書は、明治~昭和の家の史料、蛭子講文書は安政~大正の蛭子講の史料、黒田家文書は住吉神社や御頭関係の史料(ただし印刷物が多い)です。
 これらは大歳家文書や町内会文書とは性格を異にしますが、それ故に両者からは見えない世界を浮かび上がらせてくれるはずです。
 また、新野辺に関する古文書は新野辺の中だけにあるとは限りません。
 鶴林寺や浜宮天神杜に残された古文書から見えてくることも多いはずです。
 これらの古文書が末永く保存され、広く研究に活用されることを祈念しています。<o:p></o:p>

 (以下略)
 *「新野辺の郷(創刊号)」掲載、「新野辺に残る古文書-大歳家文書と新野辺町内会文書を中心に-(羽田真也)」参照

<o:p></o:p>

 

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さんぽ(89):新野辺を歩く(二部)・5 新野辺町内会文書①

2014-03-28 08:57:46 |  ・加古川市別府町新野辺

  「大歳家」・「新野辺町内会文書」については、すべて『新野辺の郷(創刊号)』の寄稿されている羽田真也先生の論文をお借りしています。
 文中の「私」は、羽田真也先生です。
   
新野辺町内会文書①
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 新野辺第一町内会にも古文書が残されており、新野辺公民館で大事に保管されています。私は、いちおう「新野辺町内会文書」と呼んでいます。
 私が把握している限りで七百数十点に及びますが、現状は大きく2つに分かれています。<o:p></o:p>

 ひとつは昭和25(1950)くらいまでの約600点です。大半が明治の史料です。
 これらは、大歳家文書と同じく加古川市史編纂事業の中で整理され、「新野辺町内会所有文書」として目録も刊行されています。
 もうひとつは、昭和6(1931)~平成4(1992)の史料137点です。
 こちらは市史の調査対象とはならなかったため、数年前に私が簡単な整理をさせていただきました。
 この2つが、もともとから別々に保管されていたのか、それとも市が古い文書だけを抜き取ったために、もとは1つであったのが2つに分かれてしまったのかは不明ですが、ともに新野辺村(自治会、町内会)で作成された史料です。
 この中には、「地券帳」などの土地に関する史料、「地方税地価戸数割徴収簿」などの税に関する史料、「新野辺村戸籍下調帳」などの戸籍に関する史料、「新野辺村小宇図」などの地図類、「新野辺村協議費勘定帳」などの村運営に関する史料、「学校費用簿」などの学校に関する史料、「浜之宮予決算書綴」などの浜宮天神社に関する史料といったものが含まれております。
 明治以降の新野辺のようすを知りうる格好の素材です。<o:p></o:p>

 *以上、「新野辺の郷(創刊号)」掲載、「新野辺に残る古文書-大歳家文書と新野辺町内会文書を中心に-(羽田真也)」参照(次号へつづく)
*写真の新野辺町内会文書の「寛延三年(1750)・
明細帳」の一部を見ておきます。
 
  (解読)
  一、当村田畑之儀海辺ニ而御座候ニ付汐風吹上ケ風損多ク
 
  場所ニ御座候田地之儀ハ第一水損場ニ而御座候

(文意)
 「当村(新野辺村)の田畑は、海辺に近く潮風が吹き上げ風の害も多い所で、そして、田の水が得にくい場所である」
 新野辺村は、①水がなく、②潮風が強く、そして③砂地の三重苦の村であったようです。

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さんぽ(88):新野辺を歩く(二部)・4 大歳家文書②、大歳家文書の秘めたる可能性

2014-03-27 08:38:24 |  ・加古川市別府町新野辺

  大歳家文書の秘めた可能性
Photo
(前号から続く)こうした大歳家文害の中で江戸時代の新野辺の様子をよく知ることができるのは、やはり、新野辺村庄屋関係の史料です。
 そこには、「検地帳」や「名寄帳」といった土地把握のための帳面、「宗門改帳」や「五人組改帳」といった人の把握のための帳面などをはじめとして、実に多様な文書が含まれています。
 姫路藩から下達された触(ふれ・命令書)を写しとった「御触状写帳」、逆に新野辺村から姫路藩へ上申した願書・諸届の控えである「諸願之控帳」などもあります。
 また、いろいろな争論に際して作成された文書もあります。
 これらからは、当時の村の様子をとても豊かに描き出すことができます。
 さらに、新野辺組大庄屋関係の史料からは、新野辺組に属した新野辺村以外の村むらのようすも知ることができます。
 このように、大歳家文書は大きな可能性を秘めた、新野辺や周辺地域の江戸時代の歴史を解明するうえで、欠かせない史料群なのです。
 大歳家文書は、加古川市史編纂事業の中で整理が行われ、目録も刊行されています。<o:p></o:p>

 しかし残念ながら、その事情は不明ですが、中途で終わってしまっており、多数の史料が未整理・未公開のままとなっています。
 それらの整理と目録の公開が今後の大きな課題です。
 *「新野辺の郷(創刊号)」掲載、「新野辺に残る古文書-大歳家文書と新野辺町内会文書を中心に-(羽田真也)」参照
 (参考)
*名寄帳
(なよせちょう)‐ ある人物が持っている不動産の一覧表のことです。一筆一棟ごとの「固定資産課税台帳」を所有者ごとにまとめたものです。
*検地帳(けんちちょう)‐ 検地の結果を村単位で集計して取りまとめた帳簿のことで、封建領主が土地・人民を支配するための基本台帳としての役目を果たしました。
*宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)‐江戸時代の宗門人別改によって作成された民衆調査のための台帳です。本来の目的は、信仰宗教を調べることでしたが、現在で言う戸籍原簿や租税台帳の側面も持っていました。
*五人組御改帳‐五人組が遵守すべき法令と五人組員が連署・捺印した帳簿の通称です。
*写真:大正時代の大歳家

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さんぽ(87):新野辺を歩く(二部)・3 大歳家文書①

2014-03-25 23:31:00 |  ・加古川市別府町新野辺

  大歳家文書①
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 大歳家には現在、数千点におよぶ古文書が残されています。
 その大半は江戸時代のもので、大歳家の蔵で大事に保管(写真)されています。
 これらは「大歳家文書」と呼ばれたり、加古川市の市史編纂事業では「大歳正雄家文書」と名付けられたりしています。
 ここでは大歳家文書と記すことにします。
 ちなみに、大歳家文書といった、複数の古文書からなるまとまりを研究の世界では「史料群」あるいは「文書群」と呼び習わしています。
 大歳家は、天明5(1785)に、それまで新野辺村庄屋を代々つとめてきた梅谷家か庄屋役を引き継ぎ、安政元年(1854)までつとめました。
 また、天保9(1838)には姫路藩から新野辺組の大庄屋に任命され、明治4(1871)の座藩置県までそれをつとめました。
 この大庄屋とは、各村の庄屋の上に立ち、複数の村むらからなる大庄屋組を統括する存在です。
 江戸時代後半の姫路藩領では26の組が設置されていました。
 新野辺組は新野辺、別府、口里、長田、池田、今福、養田、備後、積田、北在家、小松原、荒井の12村で構成されていました。
(*新野辺組の村々については前号の図をご覧ください)
 さらに、大歳家は江戸時代後半になって急激に土地を集め、19世紀半ばには18世紀以来の有力地主である梅谷家に匹敵する地主に成長しました。
 このように、江戸時代の大歳家は、新野辺村庄屋、新野辺組大庄屋、新野辺村の有力地主という3つの顔を持っていました。
   
三種類の古文書<o:p></o:p>

 大歳家文書の中身もこれに照応し、①新野辺村庄屋関係の史料(庄屋として作成した文書)、②新野辺組大庄屋関係の史料(大庄屋として作成した文書)、③大歳家の経営に関する史料(地主として作成した文書)3つに大きく分類できます。
 このうち①と②については、当然のことですが、基本的には庄屋や大庄屋をつとめ
 ていた期間のものが残されています。
 一方、③については、江戸時代のものはほとんどなく、大半が明治~昭和のものです。
 量の面で言うと、①がもっとも多く、③はあまり残されていません。(つづく)
 *「新野辺の郷(創刊号)」掲載、「新野辺に残る古文書-大歳家文書と新野辺町内会文書を中心に-(羽田真也)」参照

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さんぽ(86):新野辺を歩く(二部)・2 大庄屋・大歳家

2014-03-25 08:13:16 |  ・加古川市別府町新野辺

 *新野辺を歩く(二部)を始めましたが、説明の都合上、一部と重なる記事が多くあることをご了承ください。
   
 新野辺組大庄屋・大歳家
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 江戸時代、各村には村を治めるのは庄屋でした。
 大庄屋(おおじょうや)とは、それらの庄屋をまとめる庄屋のことです。
 つまり、庄屋の中の庄屋であり、ふつう大庄屋の治める村は、10数ヵ村で、それを「組」と呼んでいます。<o:p></o:p>

 そして、その組の名は普通大庄屋の居住する村名で呼ばれました。
 したがって、大歳家の支配下の村々は、「新野辺組」です。
 大歳家は、天保9~明治4年(183871)、北在家・植田・備後・別府・口里・長田・今福・養田・池田・小松原・高砂・荒井そして新野辺の村々の大庄屋をつとめました。
 各村の庄屋と違い、大庄屋は苗字・帯刀を許され、農民の代表と言うより、藩(姫路藩)の役人的な性格をもっており、各組中の庄屋への連絡、村々から領主への諸届けの取次ぎ・年貢などの賦課・徴収そして、事件(論争)の処理など多岐にわたっています。
 文化元年(1818)11月、大歳吉左衛門は大庄屋格になり、そして天保9(1838)大歳藤七郎(吉左衛門の養子)へ新野辺組大庄屋が命じられました。
 大歳家の大庄屋への就任の背景には、経済的な裏づけと共に庄屋としての功績や地域への貢献という実績があったようですが詳細については、はっきりとしていません。
 なお、現在の別府町西脇は、新野辺組ではなく古宮組(現、播磨町)に属していました。
 なお、大歳家には地域を知る貴重な文書が多数保存されていることでも知られている。<o:p></o:p>

 次号で紹介しましょう。
 *図:羽田真也「大庄屋」(森下徹編『身分的周辺と近世社会7・武士の周辺に生きる』吉川弘文。2007年)より転載、図中の枠で囲んだ村は新野辺組の村々と新田<o:p></o:p>

 

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さんぽ(85):新野辺を歩く(二部):新野辺の歴史(第二巻)発行にむけて

2014-03-24 08:18:33 |  ・加古川市別府町新野辺

  「新野辺の歴史(第二巻)」にむけて
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 先週の土曜日(322日)平成26年度の「新野辺(加古川市別府町)まちづくり協議会」の総会が別府公民館で開催されました。
 25年度の事業報告として、710日・冊子『新野辺の歴史(第一巻)』の発行が報告されました。
 それに、26年度の計画に2月に『新野辺の歴史(第二巻)』が計画され、予算も承認されました。
 ということは、今からボチボチ「第二巻」の準備をしなければなりません。
 新野辺の歴史(第一巻)では、大庄屋大歳家(文書)のことあまり取りあげませんでした。
 第二巻では、大歳家の文書の語る新野辺村の歴史を中心にまとめてみたいと考えています。<o:p></o:p>

 さいわい、新野辺には歴史的に貴重な大歳家及び大歳家が保存する膨大な古文書が完全な形で保存されています。
 また、この外に村方文書も多数保存されています。たいへん珍しい地域です。
 幸いなことに、これらの文書をとおして新野辺(村)を研究されている関西学院大学の羽田真也先生の協力があります。
 さらによいことには、新野辺には、6年前から、さまざまな方々を招いて新野辺の歴史を中心に講座が開催されています。今月(3月)は、私が担当させていただきました。こんな例は、現在加古川市では他にありません。
 しかし、残念なことは、これら6年間の学習会の内容については、学習会に参加された方以外には広く知られていません。
 また、新野辺は著名な方を輩出した町です。
 そのため、第二巻では①古文書が語る大歳家・新野辺の歴史、②学習会の内容、③新野辺人国記を中心に書いてみたいと考えています。
 もちろん、その過程で余話が加わると思います。
 ブログで、『新野辺の歴史(第二巻)』の準備をはじめます。<o:p></o:p>

 それらの原稿に加筆・訂正し、第二巻を製作しますのでご協力よろしくお願いいたします。
 *写真:「新野辺の町づくり協議会」総会の後、2部で冊子「新野辺の歴史(第一巻)」をつくって、と題して報告している私。

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