ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

コーヒー・ブレイク 二十四の瞳に学ぶ

2015-08-31 06:14:14 |  ・コーヒーブレイク・余話

 昨日(20日)は、久々でブログをお休みにしました。

 孫と夏休みの思い出づくりに1泊2日(29・30日)で小豆島へ遊びに出かけました。

 先日、神戸新聞の夕刊に関西大学名誉教授の森岡考二先生が次のような随想を書いておられます。読んでみます。

 文中の「平和の群像」(写真)にも寄ってきました。

   二十四の瞳に学ぶ

 戦後70年の本年7月5日、小豆島町で「二十四の瞳」に学ぶ平和トーク」があった。

 壷井栄のこの名作は、大石先生が師範を出て岬の分教場で1年生を担任する場面から始まる。

 それから15年戦争といわれる長い戦争があった。

 岬の子どもたちは5年生になると片道5㌔の対岸の本校に通うようになる。

 本校では、「草の実」という子どもの作文集を持っていただけで「赤」の疑いをかけられる事件があった。

 そんな思想統制についていけず、先生は最初の教え子たちが小学校を卒業した年に、教師を辞める。

 戦争が激しくなり、島の貧しい若者に次々と赤紙が来る。

 教え子が戦地に行く日、送りに行った

 先生は、そっと「名誉の戦死など、しなさんな。生きてもどってくるのよ」と言うのだった。

 大石先生が分教場で教えた12人は、5人が男子、7人が女子であった。

 戦争が終わり、復職し分教場に戻ることになった先生を囲んでクラス会が開かれる。

 しかし、森岡正、竹下竹一、相沢仁太の姿はなかった。

 戦死したのである。

 岡田磯吉は失明除隊で生き残った。

 男子で無事だったのは漁師の徳田吉次だけだった。

 船乗りだった先生の夫も戦死していた。

 敗戦の8月15日、落ち込む息子に、先生は「よかったじゃないの」「もうこれからは戦死する人はないもの」と言う。

 島の玄閲、土庄町の桟橋前広場に、オリーブを背に『二十四の瞳』の「平和の群像」がある。

 除幕式に招かれた壷井栄は、像を揮毫した鳩山一郎首相が再軍備と改憲を唱えていたことから、挨拶を拒んだ。

 慌てた主催者から何を話してもよいからと強く請われた彼女は、再軍備反対と平和への思いを述べた。

  『二十四の瞳』に学ぶなら、日本を再び戦争をする国にしてはならない。(no2923)

 *写真:平和の群像(小豆島土庄町)

 *神戸新聞より

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高砂市を歩く(337) 中島・今市を歩く(13) 中島の農家の約47戸のうち40戸が小作・自小作

2015-08-29 07:21:25 |  ・高砂市伊保町

 中島・今市を歩いています。

 中島は、兵庫県で最初に日本農民組合の支部が結成された集落です。

 中島・今市を含む農民運動について『東播地方農民運動史(木津力松著)』(写真)に詳しく紹介されていますので、読んでみます。

   中島の70戸の集落、うち農家は47戸 

            (約40戸が小作・自小作)

 兵庫県で最初に日農(日本農民組合)支部が結成されたのは1922(大正11)年4月28日、印南郡伊保村中島支部においてでした。

 当時、中島は、総戸数70戸、うち農家は47戸、非農家が23戸の集落で、農業戸数の大部分をしめる約40戸が小作、自小作と推定されます。

 非農家には地主があり、他方で農業を離れ、日本毛織、三菱製紙、鐘渕紡績に通勤する労働者の多いのが特散でした。

 耕地面積は、田36町歩の大半を、近在の大地主・伊藤家(今市)をはじめとする数戸が所有しており、小作地として27.8町歩を貸し付けていました。

 *大地主・伊藤家については、後に説明します。

   耕地規模は1戸平均7反歩

 耕作規模は、1戸平均で約7反歩、農事に精励する篤農家が多い村でした。

 収穫は、平年作で一等田2石7,8斗、裸麦1石5、6斗で、小作料は1等田で1石8斗5升(68%)、田一級下がるごとに5升引が決められていました。

 大正10年(1921)の秋は、地方一帯が凶作で、中島では反当2石4斗を収穫、「収支計算すれば、一反歩に7円50銭の損失」が出る状態でした。

 それまでから、村では毎年収穫時に作況を検討したうえで、代表(5名)を選んで地主と交渉しましたが、地主は小作料減額を認めても5分程度でした。(no2922)

 *『東播地方農民運動史(木津力松著)』(耕文社)参照

 *写真:『東播地方農民運動史』表紙

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高砂市を歩く(336) 中島・今市を歩く(12)  日本農民組合の誕生

2015-08-28 00:11:49 |  ・高砂市伊保町

 話題を変え、時代も一挙に現代(明治以降)へ移ります。

 きょうのブログには、あまり中島・今市は登場しません。

   日本農民組合、神戸で誕生

 大正7(1918)年に起きた米騒動は日本の杜会運動動に大きな影響を与えました。

 さらに、第一次世界大戦後のロシア革命の思想的影響もあって多数の労働組合が組織され、同8年には497件ものストライキが起きています。

 並行して、農村においても小作争識件数は年ごとに激増しました。

 小作入組合が組織され、小作人も組合を背景に集団的に要求する形に変わっていきました。

 このような時期に、日本農民組合創立者である賀川豊彦(写真)と杉山元治郎によって設立の準備がすすみ、同11年4月9、神戸キリスト教青年会館において創立大会が開かれました。

 大会議長に杉山が選ばれ、貿川起草の次の綱領が決定されました。

    綱   領

 一、われら農民は知識を養い、技術をみがき、徳性を涵養し、農村生活を享楽し、農村文化の完成を期す。

 一、われらは相互扶助のカにより、相信じ、相より農村文化の向上を期す。

 一、われら農民は、穏健着実合理合法なる方法もって、共同の理想に到達せんことを期す。

以上から考えても、この組織は穏健的であり、地主との協調的な色彩の渡い性格をもっています。が、誕生の意義は大きなものがありました。

   中島は、農民組合兵庫支部の最初の支部に

 なお、大会は杉山元治郎を組合長に賀川豊彦ら九人の理事を選出して幕を閉じました。

 このようにして、わが国最初の全国的農民組織が名実ともに発足し、その指導のもとに農民運動が組織的に展開するようになりました。

 この日本農民組合設立後、兵庫県下において最初の支部が中島において組織されたのです。大正(1922)11年4月のことでした。(no2921)

 *写真:日本農民組合設立の中心になった若き日の賀川豊彦

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高砂市を歩く(335) 中島・今市を歩く(11) 今市札

2015-08-27 08:19:45 |  ・高砂市伊保町

     渋沢栄一と今市村

 後に大蔵官僚として大活躍する渋沢栄一は、幕末に一橋家に仕え、高砂市と関係を持ちました。

 渋沢栄一は、一橋家の経済を立て直すためにいろいろと手を打ちます。

 彼は、一橋家の財政立て直しのための一つに、播磨の特産品である木綿や菜種油に注目しました。

 姫路藩の木綿専売制は有名ですが、一橋家領でも木綿が織出され、印南郡北部や加古川下流の今市・中島・曽根の諸村には木綿仲買が存在していました。

 特に、今市村の木綿仲買は姫路藩領でも買取活助は姫路藩の専売削の阻害要因になるほどでした。(天領として木綿販売に姫路藩の専売制の方法で若干対立した点もあった)

 渋沢は、一橋家領の木綿は、姫路藩のようにまとめて大坂・江戸で売るなら価格も上昇するだろうと考えました。

 慶応元年(1865)に細工所村(加古川市東志方町)へ出張し、8月28日から1ヵ月間今市村に逗留して一橋産物会所(役所)の開設を準備しました。

 今市村に役所を置いたのは、資産家が多く、家屋や土蔵などの設備もあり、なにより水運が便利だったからです。

 実際に会所は今市村・鈴木長左衛門家の空家(あきや)が利用されました。

    今市札

 また、渋沢は売買の便利をはかるために木綿預手形(今市札)を発行しました。

 この木綿手形の背景には当時金相場が高騰して、正貨である幕府貨幣の流通が滞っていたという事情がありました。

 人々は正貨の代替物を求めていたのですが、それには信用がなによりも大切でした。

 といっても、どこの藩(天領を含む)台所は火の車でした。

 一橋家も十分な引替準備金はありません。

 そこで、渋沢は裕福な者から借銀をして準備金を用意することを考えました。

 この出資者は、揖東郡日飼村(たつの市)堀彦左衛門(2500両)、加東郡垂水村(加東市)藤浦常八(1250両)、多可郡下比延村(西脇市)広田傳左衛門(800両)のほか地元・今市村伊藤長次郎(600両)、同村入江十郎(300両)、同村鈴木又蔵(200)両、同村入江亀太郎(150両)、その他一人(120両)、四人(200両)両ずつ、一人(60両)で、総額6380両を集めました。利息は年8朱で10年返済でした。

 これらの出資者はすべて、産物会所及び引替所の役職に就いています。

 一橋家の発行する手形は、大きな信用を作りあげることに成功しました。

 そのため、一橋家領の木綿預手形は一匁のものはいつでも一匁と額面通り流通したといいます。

 今市村の商は、大いに繁栄しました。(no2920)

 *『高砂市史(第二巻・近世編)』参照

 *挿絵:今市札(『高砂市史・伊保篇』より)

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高砂市を歩く(334) 中島・今市を歩く(10) 今市は天領

2015-08-26 07:55:54 |  ・高砂市伊保町

 今市の正覚寺の山門の前に地蔵立像(写真)があります。

 14世紀中ごろから後半にかけての南北朝時代の終わりの頃の石造のようです。

 この地蔵さんの説明に説明があり、その最初を読んでおきます。

    今市は、天領

 「今市は、江戸時代の終わり、徳川家の御三卿一橋家の天領であった。

 集落内を歩くと、村の裕福さが良く分かる。

 町並みの古さや堂々とした構えなど、他の集落には見られない趣がある。・・・」

 説明は、この地蔵像より、今市は一橋領の天領であり村の裕福さを誇っているようです。

 ここでは、天領、今市・中島・曽根村について少し説明しておきます。

    天領(一橋領)

 八代将軍の吉宗は、家康によって創設された御三家にならって田安家(吉宗の二男)・清水家(将軍家重の二男)・一橋家(吉宗の四男)をもって御三卿(ごさんきょう)を創設しました。

 江戸時代初期におかれた御三家が、中期になると将軍家との関係が次第に疎遠になってきたためでした。

 御三卿には、それぞれ領地があたえられた。

 吉宗の四男・宗尹(むねただ)の一橋家にあたえられた土地は約10万石でした。

 その10万石の一部が今市・中島・曽根村からの物でした。

 もともと、今市・中島村は姫路藩でしたが、慶安4年(1651)に幕府領になりました。

 そして、延宝6年(1678)相模小田原藩の領土になりました。

 そして、宝永4年(1714)の富士山の大噴火により、小田藩はあたかも亡所のようになり、それに代わる土地を宝永5年(1708)に、復興がなるまでという期限つきで、中島今市を含めた新たな領地を得ました。今市・中島・曽根村は、より強く小田原藩の支配に組み込まれました。

 その後、小田原藩も復興がなり、延享4年(1747)から今度は、一橋領に組み込まれました。

 以後、今市・中島・曽根は一橋領として、江戸時代の終わりまで続いています。(no2919)

 *写真:正覚寺の山門前の地蔵さん

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高砂市を歩く(333) 中島・今市を歩く(9) 中島村 vs 今市村

2015-08-25 08:31:31 |  ・高砂市伊保町

   中島村と今市村

 高砂市を歩く(331・332)の地図で、中島村と今市村をながめています。

 現在の地図から、これらの地域を捜しても、辺りは「家だらけ」で、元の中島村、今市村の原形を捜すことはできません。

 こんな時は、元の村のあたりを歩いてみることです。

 見つけるのは簡単です。元の村はお寺を中心にしていますから、そのあたりを歩けば村の原型は案外残っているものです。

 先日、中島の(雁南山)玄長寺(浄土真宗本願寺派)の周囲を歩いてみした、やはり江戸時代の集落であることはすぐわかります。

 このあたりは、狭い路地と比較的大きな家構えの家が密集しています。新興住宅の密集する現在風の風景ではありません。

   今市村・有力者の支配する村

 次に、法華山谷川の東の土手を南へ今市の集落のあった場所へ急ぎました。今度は、目指すは(臨江山)正覚寺(浄土真宗本願寺派)です。

 浄土真宗のお寺は、一般的に大きく目立ち、すぐにみつけることができます。

 さっそく、辺りを散策しました。

 どうも、中島の周辺と雰囲気が違います。

 正覚寺の周辺には、大きな古そうな屋敷が目につきます。

 それも一軒だけではありません。今市村は裕福な有力者が支配していた村であることは、一目でわかります。

 『高砂市史(伊保編)』には、「・・・昔より鈴木長左衛門、入江十郎、伊藤長次郎などと言える豪家あり、・・・」「・・・正覚寺は、鈴木長左衛門の先祖高政の創建による・・・」と紹介しています。

 これら豪家は、地主であり、商業活動で富を蓄えたようです。

 今、『東播地方の農民運動史(木津力松)』(耕文社)を読んでいます。

 大正時代、兵庫県で最初に農民組合が結成されたのは、中島村でした。

 地主は、今市の有力者の名前がしばしば登場します。

 江戸時代の、詳しい記録はないのですが、有力者の支配する今市。

 その今市村の有力者に支配される中島村と言う構図が浮かびます。

 とんでもない、思い込みかもしれません。調べてみます。(no2918)

 *『高砂市史(伊保編)』参照

 *写真:今市の屋並

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高砂市を歩く(332) 中島・今市を歩く(8) 喧嘩島

2015-08-24 10:21:28 |  ・高砂市伊保町

 今回のブログは「高砂市を歩く(126・喧嘩島)」の再録です。

 喧嘩島は、南洗川の出口にあった今市のすぐ南にあった島です。

    復習・喧嘩島(けんかじま)

 右の地図(明治28~31頃)をご覧ください。

 伊保村と荒井村の間に島(赤く彩色した島)があります。

 復習になりますが、この島が今回の話題の喧嘩島です。

 洗川の河口近くに小さな砂州が生れ、それは、やがて小さな島となりました。

 後に、この場所に現在の高砂市役所が建てられました。

 砂州であるこの島をめぐって荒井村・伊保崎村と今市村の人々は、自分たちの土地であると主張し争いになりました。

 寛文7年(1667)、荒井・伊保崎両村のものとする裁定で結着したといわれますが、喧嘩島の名は、その後も地名として残りました。

 昭和29年(1954)7月、町村合併で高砂市が誕生しました。

 3年後、南洗川廃川敷の埋立てで荒井と地続きになったこの島に、市庁舎が完成しました。

 法華山谷川を境に加古郡と印南郡が永らく分れていた関係もあり、地理的にも高砂市の中央部にあたることもあって、この地に決めたといいます。(no2917)

 *地図:毎時28~31年頃の喧嘩島(赤く彩色した島)

 

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高砂市を歩く(331) 中島・今市を歩く(7) 洪水の村

2015-08-24 09:48:50 |  ・高砂市伊保町

     復習)中島・今市村の地形

  上記の明治30年頃の地図(一部)をご覧ください。中島・今市村を取り囲む川筋を赤く彩色しました。

 復習です。

 地図でA~B間は、北洗川で、B~C間は南洗川です。

 そして、A~C間は、現在の法華山谷川です。

 中島村・今市村は、完全に水に囲まれた村です。

 北洗川は川筋跡が少し残されていますが、南洗川跡は、「洗川緑道」として整備され、その両側も宅として開発されています。

     今市村の水害

 この地形のために、中島・今市はしばしば洪水の襲撃がありました。

 『高砂市史(第二巻)』に、幕末の今市村の水害の記録(今市村の鈴木家の文書)がありますのでお借りします。

 ・・・・今市村の鈴木家の日記(鈴木家文書)によれば、慶応2年(1866)8月4日からは、大雨が降り続いて、6日昼4つ時(午前10時頃)より洪水となり、一橋家領今市村では夜に7カ所の堤が決壊して村中急流となり、全家没水し、村の東では、4尺余りも浸かったという。

 これにより米・綿・菜種・干鰯が大損害をこうむる。

 15日より、また雨が降って16日昼過ぎには洪水となり、東の家々はまたもや浸水した。

 この間、今市村では有力者か握飯などの食科を提供し、村人たちは寺に避難して危機を乗り切っている。(no2916)

 *地図:明治30年頃の中島・今市村の地図(一部)

コメント (1)
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高砂市を歩く(330) 中島・今市を歩く(6) 南洗川筋跡(洗川緑道)

2015-08-23 09:23:38 |  ・高砂市伊保町

  

    南洗川筋跡(洗川緑道)を歩く

  今市の南西隅で法華谷川に面している場所に八幡神社があります。

  そこから、少し東へ行くと荒井中学校です。

 荒井中学校の運動場の中央辺りから、道は東へ伸び、少し行くと道は緩やかに北の方へ向を変えて続きます。

 緑いっぱいの「洗川緑道」です。

 この洗川新道は、南洗川の川筋跡です。

 ですから、先日歩いた北洗川筋跡とこの南洗川筋跡と法華山谷川に囲まれた地域が、まさに昔の地図にある中島・今市村です。

 現在、北・南洗川は、そのほとんどが埋め立てられ、中島・今市が島であったことは分かりませんが、そのつもりで地図を見ると、かつての川筋跡を容易に捜すことができます。

 地図を片手に、かつての川筋跡を散策ください。

     おそろしい話

 きのう(22日)、この南洗川の川筋跡(洗川緑道)を歩きました。

 現在、川筋の一部は、写真のような緑いっぱいの綺麗な散歩道になっています。

 でも、気持ちが良いので、コンビニで買ったお茶を飲みながらしばらく木陰で休憩しました。休憩しながら、恐ろしいことを考えてしまいました。

 神戸・淡路大震災のことです。

 あの大震災の時、神戸市で断層でもないので被害が大きな場所がありました。

 後で分かったことですが、その被害の特に大きかったヵ所は、かつての川筋跡であった場所が多かったことが分かりました。

 そこは地盤が軟らかく、あたかも断層が走っているような被害を受けたのです。

 こんな、ことは書きたくないのですが、この南洗川筋跡に現在住宅が立派な住宅が密集しています。

 最近、南海地震がうわさされています。

 この、南北洗川筋跡に建つ住宅は、地震の備えが特に必要かもしれません。(no2915)

 *写真:南洗川筋跡(南洗川は埋め立てられ、その一部は洗川緑道になっている)

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高砂市を歩く(329) 中島・今市を歩く(5) 市丸廟

2015-08-22 08:37:34 |  ・高砂市伊保町

 北洗川筋を散策しました。

 さっそく、弁財天を祀る社(美保里)から、南へ南洗川川筋を散策したいのですが、その前に、加古川の水が北洗川と南洗川の分岐点にある弁財天を祀る神社(写真上は弁天神社と同じ敷地に建つ竹島神社)に立ち寄ります。

 *次の「市丸廟」の説明は『高砂市史(第二巻・近世編)』から、文体を少し変えてお借りします。

    市丸廟

 小田原藩、大久保家の播磨領支配についてはよくわかっていません。

 高砂市域でもこの時期の史料は少なく、とりわけ中島・今市村の史料はほとんどありません。

 『高砂市史・伊保篇』に、少し触れられているだけです。

 享保一九年(1234)に、家中大谷利左衡門が役用で今市村に詰めた時に住吉神杜を設立し、元文三年(1738)に大坂に移住する際に村に神社の支配権を譲っています。

 また、中島村に北条陣屋詰代官・市丸又四郎の顕彰碑(写真下)があることも注目されます。

 中島村が丹波川(加古川)の水害を度々受けるのを目撃した市丸は、享保元年(1716)に洪水よけのため竹林を植え、鎮護のため弁財天と稲荷を勧請しています。

 その後、水書を免れたため、市丸の死後の享保六年(1721)に中島村の村人がそれに感謝して碑を建てています。

 現在も高砂市美保里には市丸廟の額が掲げられたい市堂が弁天堂と同じ敷地に堂には市丸の事績を記した碑文と「恵光院浄慶」と記された墓碑が納められています。

    境内の巨木群

 市丸廟のある境内に竹島神社があります。その前のイチョウの大木はみごとで、市の記念樹に指定されています。

 その他にも、たくさんのみごとな巨木がある神社の境内です。(no2914)

 *『高砂市史(第二巻・近世編)』参照

 *写真上:弁財天を祭る神社の敷地にある巨木と竹島神社、写真下:市丸廟と碑

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高砂市を歩く(328) 中島・今市を歩く(4) 北洗川跡をたどる

2015-08-21 09:57:37 |  ・高砂市伊保町

   北洗川跡をたどる

 前回、地図で確かめたように、中島・今市は北と南を洗川にかこまれた水に浮かぶ島でした。その島の北が中島村であり、南が今市村でした。

 これらの村は、水に恵まれてる半面、しばしば洪水の被害を受けた地域でした。

 きのう(20日)、中島の大歳神社へ出かけました。

 大歳神社は、竜山の麓の明姫グリーンロードと法華山谷川の交わるところにかかる竜山大橋の東詰のすぐ南にある神社です。

 ここは、北洗川と法華山谷川に出会う場所で、特に洪水に悩ませられたところです。

 北洗川の川筋跡を自転車で散策しました。いまは、ほとんど埋め立てられていますが、北洗川は水路が、少し昔の面影を留めています。

 水路は、途中で暗虚になっていますが、その先は道を越えて再びその姿を現し、宝殿中学校のあたりで現在の加古川の本流に繋がっていることが分かります。

   北洗川と南洗川の分岐点

 もう一度、今市・中島の場所を確かめください、

 弁財大明神と竹島大明神を祀る社(美保里・みほのさと)の近くで、北洗川と南洗川で分かれています。

 この辺りも、大歳神社も大洪水のたびに大きな被害があったところです。

 そこで、大久保出羽守の元禄期、代官は堤防に樹木を植え、その根張りで決壊を防ぐ指導をしたといいます。

 これらの神社には、その頃植えたと思われる銀杏(いちょう)・榎の巨木が見られます。

 加古川の洪水直撃を受ける南北の洗川に分かれるところ(美保里)に、弁財天があり、北洗川が法華山谷川と出会うところ(中島)に大歳神社があります。

 神に祈った人々の気持ちが伝わってくるようです。

 弁財天をまつる社から南へ、昔の南洗川筋もサイクリングしました。(no2913)

 *写真上:大歳神社(中島)と巨木、下:わずかに北洗川の川筋跡をとどめる水路

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高砂市を歩く(327) 中島・今市を歩く(3) 水との闘い

2015-08-20 07:49:59 |  ・高砂市伊保町

   加古川は暴れ川

 上の絵図は、「正保播磨図絵(解読図)」の一部です。 *正保(1644~1648)

 正保(しょうほう)播磨図絵では、平荘町池尻あたりから、ほぼ同じ大きさの二本の流れがあります。

 東の流れは東加古川、西の流れは西加古川と呼ばれていました。

 このように、加古川は、現在の流れと同じではなく古代から幾度となく、洪水を引きおこし、その流れを変えています。

   中島・今市は、水との闘いの歴史

 いま、『加古の流れ』(建設省近畿地方建設局姫路工事事務所)で、加古川の水害史の一覧を見ています。

 それにしても、加古川はなんと水害が多いことでしょう。

 中島・今市に関して、水害の詳細な記録は残されているのかもしれませんが、浅学のため詳細は知りません。

 中島・今市の位置(地図で赤く彩色したヵ所)を確認ください。

 中島・今市の歴史は、加古川は恵の川であるとともに、同時に闘いの対象でもあったことは容易に想像されます。

 村の北には北洗川(きたあらいがわ)、南に南洗川、さらに西は法華山谷川が北洗川と合流して西を流れています。

 まさに、水に浮かぶ集落です。(no2912)

 *図:「正保播磨図絵(解読図)」の一部(中島・今市は赤く彩色した三角州上にある集落)

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高砂市を歩く(326) 中島・今市を歩く(2) 中島・今市は小田原藩領に

2015-08-19 07:51:51 |  ・高砂市伊保町

 高砂市伊保町中島・今市の位置、誕生の歴史は「高砂を歩く(137)」をご覧ください。

    小田原藩壊滅

 宝永4年(1707)11月23日(現暦:12月16日)、「宝永の噴火」と知られる富士山が、空前の大爆発をおこしその惨状の一部は前回紹介したとおりです。

 少し繰り返します。元禄16年(1703)にも、房総近海を震源とするマグニチュード8.0~8.2といわれる巨大地震が、南関東地方に大災害をもたらしました。

 ことに小田原の被害は甚大で、町は火災でほとんど全滅。それに小田原城は、天守閣をはじめ多くの建物が全壊しました。

 その上に、宝永の大噴火がその4年後におこったのです。

富士山は、膨大な火山灰を噴出させ、風下の小田原領を直撃しました。

 小田原領は、火山灰にのみこまれました。

 たちまちに食料が不足し、飢餓が襲いました。火山灰は川をせき止め、いたるところで洪水を引きおこしました。

 ほとんどが「亡所」と言うまでも、廃墟同然となり、当然、年貢は集まりません。

 復興の方法が見つかりません。

    中島・今市村は小田原藩領に

 当時、小田原藩の藩主・大久保忠増は幕府の老中でした。非常手段をとりました。

 なんと、小田原藩の領土の過半を一時、幕府に返上にしてしまったのです。

 幕藩体制の成立以来こんな例はほかにありません。

 そして、小田原藩は、それに代わる土地を宝永5年に、復興がなるまでという期限つきであったのでが、新たな領地を得たのです。

 高砂・加古川市域では、次の村々が小田原藩の領地となりました。

 新田次郎の小説『怒る富士』(文春文庫上・下)には、17日間も続いた宝永の大噴火を背景として、農民や幕府の混乱が見事に描かれています。

 時間のある時にでもお読みください。

  ◇小田原大久保領になった村々

 中島今市・曽根(以上高砂市)、行常・大沢・細工所(野尻新田を含む)・岡・吉広・柏尾・高畑・大宗(以上加古川市)(no2911)

 *挿絵:『怒る富士』のカバー

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高砂市を歩く(325) 中島・今市を歩く(1) 宝永富士山大噴火と中島・今市(1)

2015-08-19 07:13:21 |  ・高砂市伊保町

 高砂市伊保町の中島・今市(いまいち)を歩きます。

 伊保町と関係のないような話から始めますが、宝永の富士山の大噴火が中島・今市と関係してきます。紹介しましょう。

      宝永大地震

 宝永四年(1707)、10月28日(旧10月4日)東海~南海巨大地震である宝永地震(M8.4)が発生しました。

 宝永地震では、地震の被害だけでなく、伊豆半島から九州にかけての海岸を大津波が襲い、津波による家屋の倒壊は2万戸、死者は少なくとも2万人に達したといわれています。

   富士山の大噴火(宝永4年・1707)

 その宝永地震の49日後の12月16日(旧11月23日)の朝10時ごろ、富士山の大噴火が始まりました。

 その日の朝噴火が始まると、山麓の村々には焼け石が絶え間なく降り注ぎ、家も畑もたちまち、その下に埋まっていきました。

 江戸でも、その後10日あまり灰がふり、時には栗粒ほどの黒い砂が混じり、家々の屋根に落ちる音が大雨のようだったと言います。

 特に、噴火の大きな被害を直接受けたのは小田原藩の各村々は深刻でした。

 噴火が終息し彼らが帰って見たものは、一面に灰や焼砂に覆われた絶望的な村の風景でした。

 人々は、すべての収穫を奪われてしまいました。

 たちまち飢饉が襲いました。餓死するものも相次ぎました。

 小田原藩は、米一万俵を各村々に分配したのですが、その程度では飢饉をとうてい救えません。

 その上に、降り積もった焼け砂や灰を除去するには多大の労力と経費を必要としました。

 小田原藩領民の自力だけでは不可能でした。

 この窮状に対して、幕府も救済の手を差し伸べざるを得なくなりました。

 翌年、被害の大きかった村々を一時幕府の直轄領とすることにしました。

 また、幕府は被災地域救済のために、全国の公領・私領を問わず、高100石につき2両の義捐金を課しました。

 こうして、諸国から集まった義捐金は、40万両にも達しました。

 が、幕府が実際に被災地の救済に使ったのは16万両にすぎず、残りの24万両は江戸城の修理に流用してしまいました。

 このような体たらくですから、復旧もままなりませんでした。

 悪いことは重なるものです。

 火山灰で川底が埋っているところへ8月7日(旧6月21日)午後から翌日にかけ、激しい豪雨が襲い、土石流や土砂崩れを引き起こしました。

 被害は一層、悲惨なものとなりました。(no2910)

 *写真:宝永火山でできた河口

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コーヒブレイク   過去の歴史を忘れてよいのか!

2015-08-18 10:22:10 |  ・コーヒーブレイク・余話

 「ひろかずのブログ(2900号)で、時々発言をします」と宣言しました。

 ブログは、次の話題「伊保町中島を歩く」の前に少し言いたいを書いておきます。

   若者は過去の歴史を忘れてよいのか!

 政府は14日、午後の臨時閣議で、戦後70年の安倍首相談話を決め、発表しました。

 内外からいろいろ評価もあるようですが、次のヵ所が特に気になりました。

 日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の8割をこえています。

 あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世帯の子供たちに謝罪を続ける宿命を背負おわせてはなりません。

 しかし、それでもなお、私たち日本人は世帯を超えて、加古の歴史に真正面から向き合わなければなりません。

 謙虚な気持ちで受け継ぎ。未来へと引き渡す責任があります」のヵ所です。

 赤字の部分に注目します。

 過去の戦争責任を語りたくない、打ち切りにしたい本音が見え見えのようです。

    ワイツゼッカーに学ぼう

 この部分を読むとき、ドイツの元首相・ワイツゼッカー次の言葉を思い出します。

 「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」との演説です。

 国民に対し、ナチス・ドイツの過去をありのままに見つめる勇気を持つよう求めました。

 日本にも、一度この姿勢を謙虚に、世界む向けて示す必要がありそうです。

 確かに、若者にも関係のなかった戦争かもしれません。

 ですが、中国・朝鮮その他アジアの諸国に加害の事実をさらに知る必要です。

 そうでなければ、「しかし、以下は付けたしのように聞こえます」

 安保法案と完全に矛盾します。

 世界は変わったとして、中国・朝鮮の最近の動向を声高に叫び、外交努力をないがしろにしているように思えてしかたありません。(no2909)

 *写真:ワイツゼッカー

 

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