ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

野口を歩く(35):野口の民話・運慶と湛慶

2012-10-31 08:26:11 |  ・加古川市野口町

(民話)運慶と湛慶

963d1ef2  横蔵寺(平岡町新在家)の観音様には、こんな話が伝えられています・・・・

 ある日、湛慶は、母に父のことをたずねました。母は、今まで、「湛慶の父は仏師だ」としか教えていませんでした。

 「・・・・お前の父は奥州生まれの運慶で、仏像をつくって諸国をまわるうちに宮崎を訪れ、そこでお前を身ごもったのです。

 そして、湛慶が母の体内に宿ってまもなく、郷里に残してきた老父母のようすが気になり、風のように奥州へ帰っていきました。・・・」と、母は、その日湛慶に語りました。

 ある夜、湛慶は千手観音の夢を見ました。観音様は「・・・わが右半身を作り、東へ行くべし・・・」と告げるのでした。

 湛慶は、観音様の右半身を背に負おうと東へ出発しました。

やがて、加古の里の野口の大辻村まで来て、路傍の石に腰をおろしていました。

 その時です。

「私も休ませでくださらぬか」と声をかけられ、一人の老人が彼の横に立っていました。

 「どちらから来られたんですか」と湛慶はたずねました。話は弾みました。何時しか、身の上話に及びました。

 湛慶は「もしやあなたは、運慶様ではございませんか・・・」

 老人はビックリしました。

そして、湛慶の取り出した右半身の観音様は、運慶の持つ左半身の観音様と寸分の違いもなくピッタリと一体の仏像と合わさりました。

 その夜、野づらには、強い風が吹いていました。風が歌っていたのかもしれません・・・

  

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野口を歩く(34):野口廃寺

2012-10-30 06:48:37 |  ・加古川市野口町

 

   野口廃寺(白鳳時代)

004日本へ仏教が伝えられて比較的はやい白鳳時代(645710)に、加古川地方に仏教が伝えられています。

野口町に、この時代の寺院跡があります。野口廃寺跡です。

野口廃寺について『加古川市史(第一巻)』の説明の一部を読んでみます。

(文章を若干変えています)

一古大内遺跡から駅ケ池をこえて北東500メートルに野口神社があり、その境内地をほぼ寺域として野口廃寺が想定されています。

野口廃寺のあった位置は、明石・賀古の両郡一帯にわたる印南野台地の西端部にあたっており、しかもすぐ南方を古代山陽道が走っていて、まさに「野口」という名にふさわしい土地でした。

いまだ本格的な発掘調査が行われていないため、遺跡・遺構の内容についてはよくわかっていません。

ただ偶発的に掘り返された遺物や表面観察などの観察により、神社本殿裏からおおよそ90×60センチメートルの凝灰岩質の礎石を検出しているし、境内の数ヵ所において土壇様の隆起が認められ、その付近に古瓦類の散乱が多いところから、薬師寺式あるいは法隆寺式の伽藍配畳を想定する説が出されています。

日岡豪族は野口へ行った?

20797491無責任な推理を付け加えておきます。

日岡山には多くの古墳があります。古墳時代、溝口(加古川市加古川町)に大きな古代の村があり、支配者は日岡山に古墳を築いたと考えられています。

ここでは、彼らを「日岡豪族」と呼んでおきます。そして、「日岡豪族」は大和の政権とも同盟を結んでいたことがわかっています。

日本の歴史は大きく転回しました。大陸から仏教が伝わり、比較的早い時期に加古川の地に仏教が伝えられたのです。

この地方の豪族は大和にならって仏教を取り入れ、多くの寺院をつくりました。

時代は、古墳文化から仏教文化へ代わりました。

白鳳時代(645710)の寺院跡が野口の外に西条・石守(ともに神野町)・中西(西神吉町)・山角(平庄町)等に残っています。

ここまでは、学問的にもほぼ確かめられていいます。推論は、ここからです。

日岡山豪族は、どこに消えたか記録がありません。「日岡山豪族」が、敗れ去るほどの事件があれば、文字のない時代とはいえ、伝説など何らかの形で現在にメッセージを残こしていてもよさそうです。

「日岡豪族」は、水害の影響もない、そして交通の要所である野口で寺院をつくったのではないでしょうか。野口廃寺が、彼らの日岡豪族の氏寺跡であると想像したいのですが、いかがでしょうか・・・

*写真上:野口神社

 写真下:日岡豪族・野口へ行こうか!

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野口を歩く(33):途切れた道

2012-10-29 08:32:15 |  ・加古川市野口町

水足から野口への道

B158d34f右の地図は、大正12年の地図です。

今回の話題の道は、地元の人でなければ少し分かりにくい道のため、太く赤く塗りつぶしています。

水足と野口とを結ぶ真っ直ぐな細い道です。

水足は野口村の北端にあり、何かと不便でした。

そのため、野口村の初代村長・米谷十三郎(よねたにじゅうざぶろう)の尽力で、明治時代の終わりのころ、この道は完成しました。

しかし、現在この道は、加古川バイパスをこえて播磨化成の前で途切れています。

そして、播磨化成の北の道を越えて、米谷家まで続いています。 

これは、昭和13年に陸軍高射砲第3連隊が、現在の播磨化成の場所に設置されたためでした。

高射砲隊の兵舎により道は、分断されました。

当時は軍の方針に反対できる時代ではありません。

以後、通学・仕事などで野口村へ行く時は、兵舎の西側を迂回することになり、ずいぶん不便になったといいます。

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野口を歩く(32):かわいそうな道標

2012-10-28 09:10:08 |  ・加古川市野口町

かわいそうな道標

以前この道標については、2006617日のブログで紹介しています。

「野口を歩く」で改めて紹介したくなり、その場所に行ってみました。

その時は、「草が生い茂ると見えなくなってしまいそうな道標である・・・」と書いています。

先日、写真を撮りに行くとなんとか、コンクリートに埋まりながらも残っていました。

いとおし姿の道標です。

(以下の文は、2006年のブログからです。内容・文体は少し変えました)

    道標から南への道は鶴林寺・浜街道へ

Snake_010野口(加古川市)の旧西国街道沿いの小さな道標の前にいます。洋服の「はるやま」の裏あたりです。近所の人にもほとんど知られていない道標です。

小学生・中学生の通学路にもなっていますが、この壊れかけの道標を気にとめる人は誰もいないようです。

コンクリートから、ちょこんと顔を出したような道標です。それも当然かもしれません。

昔(江戸時代)、このあたりで一番大きな道は、道標のある西国街道でした。

海岸部にも、比較的大きな街道がありました。「浜街道」です。

浜街道は別府・尾上・高砂・曾根そして姫路へと通じていました。東は明石に至る道です。

西国街道は、所々で浜街道と結ばれていました。この道標の文字は「□田山尾上」と読めます。欠けている□には「刀」の文字が入ります。

刀田山(とたさん)とは鶴林寺のことで、道標は「ここを南に行けば鶴林寺・尾上へと通じる」つまり、浜街道に続くことを教えています。

今では、何の変哲もない村中の小さな道ですが、この道標から南への道は重要な役割をになった道でした。

鶴林寺への途中に大きな造り酒屋さんがありますが、この街道沿いにあったと考えれば何の不思議もありません。

誇らしい役割を担ってきた道標です。せめてこのままで残ってほしいものです。決して他の場所へ移動されたりしないように!・・・この道標は、れっきとした歴史の証人です。

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野口を歩く(31):野口城はどこに?

2012-10-27 08:30:52 |  ・加古川市野口町

001「野口を歩く」では野口城がしばしば登場しますが、かんじんの、野口城の場所は現在もはっきりとしていません。

野口城跡について橘川真一氏は『別所一族の興亡』(神戸新聞総合出版センター)で、次のように書かれていますので一部をお借りします。

文体等、若干書き変えています。

   野口城

『別所長治記』には、野口城は「播州一ノ名城」と記されているのですが、規模等は、遺構が残っていないのではっきりしません。

地誌『播磨鑑』(はりまかがみ)には、「野口城長43間、横21間、野口庄在寺家村(じけむら」 四方沼田要害ノ城。今ハ田地ト成、村ヨリ半丁ノ方総廻リたけ藪、外ニ堀構」とあり、別の史料(『御領中組々書留』)には「古城跡、長43間、横21間、 惣廻り東西に堀有、寺家村より半丁北」とあります。

これでみると、野口城は長さが約77.4メートル、横が約37.7メートルあり、四方を沼地で囲まれた要害で、外郭には竹藪と堀がめぐらされていたと想像されます。

江戸時代の中期に、すでに田畑になっており、痕跡をとどめていなかったようです。

いつの頃に制作されたかわかりませんが、「播州三木城地図」(写真下)に野口城が描かれています。

「野ロノ城祉本城(三木城のこと)へ三里半、北野邑(村)此地平地也」「大手東向、 同所稲荷社アリ、有寺教信上人ノ寺」とあります。

   野口城は野口神社付近か?

9812dfb3「播州三木城絵図」では、寺(教信寺)と稲荷社を抱きかかえるように曲輪(くるわ)があり、堀をめぐらせており、三方が沼地、一方が池(城ノ池)のようです。

教信寺は当時、塔頭も多く、城とともに炎上したと伝えており、城郭の一部として利用されたようで、守りの固い城だったようです。

「調査報告」では、野口神社(写真上)の周辺に主郭があったと思われる「岡」をはじめ「構(おかまや)ノ谷」「竹()ノ下」「前田(通称しろのつち・しろのうえ)「古屋敷」等の地名が残されているところから、ここに野口城があったのは間違いないとしています。

しかし、城跡ははっきりと確かめていません。将来の発掘調査を待たざるを得ません。

 *写真上:野口神社  下:「播州三木城図」の描かれた野口城

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野口を歩く(30):鎮魂の神社

2012-10-26 07:25:29 |  ・加古川市野口町

  野口城、孤立し破れる

(野口城戦では、三木側からの援軍はなかった)

・・・・

三日目、野口一帯をおおう煙の海を泳ぎ渡るように、新たな兵力が攻囲軍の後方に迫った。

「待ち続けた味方、の援軍がとうとう着いたぞ」

「見殺しにされるかと案じていたが、これで助かった」

 城内に一瞬生気がよみがえった。

「幾人かの兵が援兵を城内に導き入れようと裏門を開いて駆けて出た。

だが、またたく間に道端に転がった。

味方と錯覚したのは、秀吉方に従って、搦め手(からめて)手攻めに加わった加古川城の手勢五百であった。

Snake_014・・・・

小説『教信』で、小杉隆道氏は野口城の戦いについて以上のように書いておられます。

野口城の兵はバタバタと倒れました。

そして、戦は終わりました。

   野口戦の犠牲者の魂を祭る

24日(水)、の午後教信寺の東の「播磨化成」に至る道を歩きました。

教信寺の東のあたりに、稲荷神社(写真上)がります。

神社の正面の少し高い所にあるため、最近視力が弱りよく読めませんでしたが、野口戦の説明があるようです。

この神社は、野口戦でなくなった多くの兵士の魂を慰めるための神社です。

近くに行かれることがありましたら、お立ち寄りください。

  <余話> 誰を祀る三基の五輪塔?

Snake_016稲荷神社の写真をとっていた時です。

後ろから声がありました。地元のTさんでした。「あの畑の隅に古いお墓があるで・・・」と教えてくださいました。

稲荷神社から南東へ100㍍程の場所です。

その場所へ行きました。

なんとそこは野口城主であった長井家の墓所でした。

古そうな宝篋印塔(ほうきょういんとう)が、三基(写真下)ありました。

長井家と関係がありそうですが詳細は調べていません

この五輪塔については後日報告します。

ご存知の方は一報ください。

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野口を歩く(29):黒田二十四騎・野口佐助

2012-10-25 08:08:15 |  ・加古川市野口町

黒田官兵衛は、後に九州中津の城主となり、その後、息子・長政は福岡藩の初代城主となりました。

官兵衛が中津へ移って以来、黒田家には勇猛な24人の家来が誕生しました。彼らは「黒田二十四騎」と呼ばれました。

    黒田二十四騎

Dc36168c「黒田二十四騎」のメンバーは、黒田家が豊前国(大分県)中津城主になった時の侍大将です。

このうち二十二人が姫路近辺の生まれ、または播州育ちでした。

福岡では姫路出身の家来を大譜代といってすごく大事にしています。

福岡の家臣たちは、播州出身であることが誇りだったようです。

    野口佐助(のぐちさすけ)

これら黒田二十四騎のメンバーである母里太兵衛(もりたへえ)や後藤又兵衛(ごとうまたべえ)については、いろいろな所で紹介されています。

が、よく知られていないメンバーもいます。

現在の加古川市野口町出身の野口佐助(のぐちさすけ)についても、その一人です。野口佐助について、『黒田軍団(山本一城著)』(宮帯出版社)からその一部をお借りし紹介します。(文体は変えています)

・・・

野口左助は、播磨国加古郡の出身です。

野口念仏で有名な教信寺がある所です。

父浄金(15241602)は、黒田孝高(官兵衛)の囲碁友だちの僧でした。

天正三年(1575)、17才で出仕した左助は、地元の地名を姓としました。

翌々年、上月合戦(こうづきかっせん)の高倉山城(福原城の支城)の大手口で一番槍の功名をたてていす。

ついで、三木城で騎馬武者二人を槍で倒しました。

世に謙信流の使い手だったという話が、一人歩きしていますが、越後とどう関係があるのか不明です。

中津において、野口佐助は母里太兵衛の妹と結婚しています。

*図:黒田官兵衛と黒田二十四騎図(安政五年ごろの作・福岡市博物館蔵)

*『黒田軍団(本山一城)』(宮帯出版社)

 『黒田官兵衛播磨学研究所』(神戸新聞出版総合センター)参照

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野口を歩く(28):『黒田如水』(吉川英治)に読む野口合戦

2012-10-24 00:09:31 |  ・加古川市野口町

前号で『播磨灘物語』(司馬遼太郎)から野口合戦を紹介しました。

地元としては、少し物足りない気もするが、とにかく野口合戦についての記述はあります。

黒田官兵衛については、吉川英治の『黒田如水』も紹介しなければ不公平になりますが、そこには、次のように書かれるのみで野口合戦については、ほとんど登場しません。

    『黒田如水』(吉川英冶)に読む野口合戦

73016371・・・

三木城の嶮とその抵抗力は、歯肉に頑強な根を持っている虫歯にも似ている。

しかも、一本の悩みを抜き去るためには、それに連なる志方、神吉、野口、淡河、端谷とうの衛星的な小城をまず一塁一塁陥し入れてからでなければ、敵の本拠たる歯根を揺るがすことが出来ないからである。

書写山を本営とする秀吉の戦法は、いわゆる定石どおりに、その外郭の敵を一城ずつ攻めていった。

野口の城を陥し、端谷城を奪(と)り、順次、神吉長則や志方の櫛橋治家などの塁を衝き、別所一族の領土とする広汎な地域にわたって放火、掃討、迫撃の手を強めた。(以上、『黒田如水』より)

以上で野口合戦はすべてです。吉川英治は野口合戦について、まるで歴史の本を読むように、素っ気がありません。

    しばらく播州から姿を消す官兵衛

少し蛇足を書いておきます。信長の命令により、秀吉が中国攻め大将の資格を得て播州へ入ってきました。

これに対して、我こそは中国攻めの指揮官とか思っていた丹羽長秀・明智光秀などの重臣たちの不満は大きかったようです。

とにかく、重臣の間に秀吉に対し面白くない感情を持った者の集団として播州を攻めが始まりました。

そのためか、加古川での戦いには信長の嫡男・信忠を加えました。

野口合戦は秀吉の指揮によるものでしたが、加古川での最大の戦いになるとみられた神吉城の戦いからは信忠が指揮をとっています。

信忠は父・信長のように秀吉を重んじませんでした。

野口合戦の後、信忠は秀吉に但馬にちらばる別所一族の掃討を命じました。

従って、秀吉と行動・作戦を共にした官兵衛の姿は、しばらく影をひそめます。

さらに、官兵衛はその後、信長に反抗した荒木村重に幽閉されてしまいますので、解放されるまで、しばらく全く播州から彼の影響はなくなります。

*絵:黒田官兵衛(歴史群像シリーズ『黒田如水』表紙‐学研‐の一部から)

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野口を歩く(27):野口合戦(『播磨灘物語』より)

2012-10-23 05:39:56 |  ・加古川市野口町

野口方は、やがて三木城からも、また周辺の仲間からの援軍があり、内と外から秀吉軍を挟み撃ちにできるものと考えていました。

しかし、三木城から、さらに近隣の城からも援軍はありませんでした。

三木方にとっても、野口城への援軍を考えていましたが、援軍を出すと、手薄になってしまいます。そのすきに、秀吉の別軍が三木城を攻撃するだろうと考え、援軍を出せなかったのが実際のようです。

 野口合戦を司馬遼太郎は『播磨灘物語』で次のように書いています。黒田官兵衛も登場します。

    播磨灘物語にえがかれた野口合戦

Kyousinnji_031(秀吉は、三木城の周囲の城を攻め孤立させる作戦をとります。最初に狙いを付けられたのが野口城です)

・・・

されどどの城がよいか、と秀吉が官兵衛に聞くと、「左様さ、野口城がてごろでござろうか」

と官兵衛は考えた。

「野口か」秀吉も、その村が加古川の西二里、山陽道に沿っているために、村もそのあたりの地形も、記憶にある。

・・・・

「城主は、たしか長井といったな」

「長井四郎左衛と申す」

「出来星(できぼし)か」

と、秀吉が聞いたのは新興の家ならば力量のある人間がいるかわり、その付近の百姓は必ず懐いていない。それに比べ、古い家柄なら当主がたとえ凡庸でも土地者の支持が強い。 そういうことを知っておきたかったのである。

「鎌倉のころからの家でござる」

「古いわ」

秀吉は、播州にはまだそんな古い豪族が残っていたのか、とそんなところに感心した。

・・・

「野口の城は、この土地では播州一などと申しますが」

「堅固か」

「左様、沼が多く」

と、官兵衛はその地理を説明した。

付近に沼や湿田が多く、城はそれらを回らし、わずかに乾いたところにある。

このため寄せ手にとっては一筋ほど小道を一列になって責めねばならず、防ぎ手としては、その一列の先頭をいちいち鉄砲で潰しているだけで済む。

「沼を埋めればよい」

秀吉は、攻撃に土木工事を用いることを好んだ。

328日、秀吉はその兵力の内3000を率いて三木城に接近した。その一部を割いて俄かに野口城を襲い、数日で陥とし、城主・長井四郎左衛門の降伏をいれた。

その攻撃のとき、附近の山から雑木を大量に切り、それに草や土等を交えて湿田や沼をうずめ、そののちに攻めた。

沼がうめられるころには、城中の士卒の気が萎えてしまったらしい。・・・(以上『播磨灘物語』より)

城主・長井四郎左衛門(政重)は降伏を条件に部下の助命を願い出ています。

そして、城主自身も助命され追放されて百姓になったとも言われています。

が、戦いの中で討ち死にしたとか、その後秀吉に仕え丹波の戦いに従ったとも伝えられています。

はっきりしません。

*教信寺境内にある長井四郎左衛門政重の墓

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コーヒーブレイク:宮本伊織生誕400年

2012-10-22 07:31:08 |  ・まち歩き

      宮本伊織の生誕400

         1021日は伊織の誕生日

Musasi_021昨日、宮本武蔵の養子、伊織の生誕400年記念講演会が木村の泊神社でありました。

1021日が伊織の誕生日だそうで、主催者はこの日にこだわって開催されたそうです。

プログラムは「鬼太鼓座(おんでこざ)」の元メンバーの太鼓、武蔵円明流の演武、それに旭堂南海さんの「宮本父子伝」の講談でした。

   武蔵は明石藩の家老

伊織は若くして明石藩の家老になり、島原の乱鎮圧に侍大将として活躍しています。

泊神社は伊織にとっての氏神で、伊織の寄進により1653年、荒廃する社殿を再建しています。

    宮本武蔵から14代目当主参列

Smusasi_018挨拶に宮本武蔵から14代目の当主(写真下)も小倉から参加されていました。

余談ですが、宮本さんは、1018日(木)のBS歴史館「宮本武蔵‐巌流島ミステリー」(20002100)に登場されていましたのでビックリしました。

私たち持っている宮本武蔵のイメージと違い、優しそうな方でした。

なお、BSでは俳優・高橋弘樹さん・アナウンサーの渡辺真理さんが解説者とともに参加されていましたが、解説者は国際武道大学教授の魚住孝至さんで、魚住さんは高校の後輩の歴史学者の方で加古川出身の方でした。

*写真上:旭堂南海さん

*写真下:中央、宮本武蔵から14代目当主

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野口を歩く(26):教信寺の涅槃図

2012-10-21 06:51:52 |  ・加古川市野口町

     教信寺の涅槃図

右図は教信寺に伝わる涅槃図(ねはんず)です。

まず、涅槃図の説明をしておきます。

お釈迦さまが入滅(にゅうめつ・お亡くなりになる事)した時の様子を描いたものです。

お釈迦さまが入滅されたことを「涅槃に入る」ということから、この絵を涅槃図といいます

  岩の上に草を敷き、その上に板を置き眠る釈迦

多くのお寺で涅槃図がのこされていますた、教信寺伝わる涅槃図を紹介します。

   ・室町時代(15世紀)

   ・絹本着色  縦:212.0㌢  横:167.0

Ae5f0aa9_2釈迦は蓮台に横たわり、宝台の三方には弟子、そのさらに後方には天部、図の下方には禽獣を配しています。

空には月を真中に、飛来する立ち姿の摩耶夫人(釈迦のお母さん)が右上隅に描かれています。

涅槃図では普通、釈迦は箱状の宝台に横たわって描かれるのですが、本図の宝台は、岩の上に草を敷き、さらにその上に板を置き作られたものでたいへん珍しい涅槃図です。

このような類例は他に知られていません。

手本になる涅槃図が存在したのか、作者が意図的に創作したのかは不明です。

彩色は鮮明で、描かれた菩薩、弟子、天部、鬼神なども見事な筆つかいで描かれています。

よくみると、本図の彩色の下には、墨線が隠れています。

釈迦の死に際して集まった会衆や動物の表現が穏やかな表情に描き直された形跡があります。

このことから、本図が室町時代前半に制作されたものが、17世紀頃の修理で大きく補筆されたと考えられています。

*涅槃図、解説ともに『仏と神の美術(中世いなみ野の文化財)』(加古川総合文化センター)参照

*涅槃図をクリックすると画面は拡大します。

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野口を歩く(25):教信寺絵解き②・下巻

2012-10-20 07:56:55 |  ・加古川市野口町

1d329cb8きょうの「絵解き②」は前号の続きです。

絵(教信上人一生絵)は、小さくて見にくいため拡大してご覧ください。(絵はクリックすると拡大します)

   教信上人一生絵下巻

下巻は、勝如が弟子の勝鑑を播磨に遣わせて、教信の事績を追う形式で説明しています。

教信は興福寺の学僧でしたが阿弥陀を信仰し、若い頃から約40年間、諸国を歩き回り、賀古(かこ)の地の粗末な庵に住みつき、野良仕事や荷運びなど人々を救って暮らしました(左中の図)

そして、86才の815日に西の空に向い念仏を日えながら往生すると阿弥陀如来が25菩薩を従えて飛来したといいます。(左上の図)

勝鑑が播磨に着いた時、教信の死骸は禽獣が食い荒らしていましたが、お顔だけは綺麗に残っていました。(右上の図)

その近くの庵で、教信の妻子に出会いました。

画面下が加古川の流れで、中央が駅ケ池といいます。

*『信仰の美術(東播磨の聖たち』(加古川総合文化センター)参照

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野口を歩く(24):教信寺絵解き①

2012-10-19 00:04:06 |  ・加古川市野口町

教信寺の絵解き(1)

7dc588e0「絵解き」は絵を見せながら仏教の説話類を述べ聞かせることを言います。

教信寺の「絵解き」毎年9月の「野口念仏大法要」で行われます。

教信の「絵解」きに用いられる「開山上人一生絵」は上下二巻で構成されています。

もともと、この二軸は室町時代、土佐光信により描かれたといわれていますが、現在の絵は、それを模した江戸時代末期のもとあるといわれています。

室町時代の絵の特徴を残しています。

きょう紹介する軸は、上巻で勝尾寺の勝如上人と教信との関係が描かれています。

以下に若干絵の解説をしますが、内容は「野口を歩く(9)・教信の死」と重なります。あわせてご覧ください。

*下巻の紹介は次号で。

  勝尾寺の勝如の生誕

から入滅 (上巻)

上巻の「絵解き」の内容を要約すると、左下の屋敷が摂津国の佐通(勝如の父)の屋敷で、佐通とその妻が子どもを授けてもらうため、上部に描かれた寺で毎月15日に月参りし、3年後に男子が誕生します。(右下の図)。

こどもが7才になると、妻が念仏三昧(仏門に入る)を行いたいことを告げ、佐通もそれに従い、通りがかりの乞食僧に頼み剃髪し、こどもも自ら出家をします。

その僧から三年の間、阿弥陀教の講義を受けます(左中の図)

数年後のある日、夫婦は斎戒沐浴(さいかいもくよく)し念仏を唱え往生します。

こどもは追善のため、回向(えこう:死者のための供養)し続け、勝尾寺の門に入る(右中の図)

これが勝如で、生涯修業に励むことになります。

貞観八年(896815日の月夜半、賀古(かこ)の教信が自らが極楽往生したことと、来年同日に勝如が往生することを夢に告げます。

*『信仰の美術(東播磨の聖たち)(加古川総合文化センター)参照

*写真:「絵解き」に用いられる「開山上人一生図(上巻)

 (クリックすると写真は拡大します)

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野口を歩く(23):木造地蔵菩薩立像

2012-10-18 07:20:25 |  ・加古川市野口町

B99c86c2_3教信寺の木造地蔵菩薩立像(写真)について『信仰の美術(東播磨の聖たち)』(加古川総合文化センター)下記のように説明されています。

補足を加え、若干書き変えて紹介します。

  

 教信寺に伝わる木造地蔵菩薩立像

一木造   像高 935センチ

   平安時代末期~鎌倉初期(1213世紀) 

このお地蔵様は。教信寺本堂に向かって左に安置されています。

左手は宝珠を捧げ、右手に錫杖を握るいわゆる声聞形(しょうもんぎょう)の地蔵善薩立像です。

台座、宝珠、錫杖、ようらく等は後に補われています。

さらに、傷みの激しい部分を中心に、全身の表面は修理されています。

両手首から先、両足は別の材で、足柄は新しいもので補われています。

また、面部は修補により鼻線から口にかけてかなり手が入っているようです。

その他、全身に浅い鉈(なた)で彫ったような痕が見られます。

これらの修理は一見しては像容を大きく損ってはいません。

いわゆる平安時代末期から鎌倉時代初期の地蔵菩薩の姿をよく留めています。

  

  野口城の攻防で持ち出された地蔵菩薩か?

教信寺の仏たちを語る時、必ず登場するのは「野口城の攻防」のことです。

この地蔵様も教信寺の寺伝に見える、羽柴秀吉の軍によって諸堂が灰燈に帰したとき持ち出された什物の中に、小野篁(たかむら)の手刻とされる地蔵菩蔭がありますが、本像がその地蔵菩薩であるとも考えられています。

<蛇足>

三木合戦では、加古川地方の寺社・諸城は三木方(毛利に味方した勢力)と信長・秀吉方に分かれて加古川市域でも激しい攻防がありました。

三木方(別所氏)に味方した寺社・諸城はことごとく炎上し、多くの宝物がこの時焼失しました。

鶴林寺には多くの宝物が残されていますが、一つの理由は、信長・秀吉側につき攻撃を受けず焼失を免れたためです。

教信寺は三木方(敗北側)につき秀吉・信長方軍の激しい攻撃を受け炎上し、多くの宝物は焼失してしまいました。

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野口を歩く(22):銘菓「のぐちのねんぶったん」

2012-10-17 00:14:16 |  ・加古川市野口町

Manju2 きょうの話題は「まんじゅう」の話です。

軽く読み飛ばしていただいて結構です。

   

 加古川に銘菓誕生

加古川に新しい銘菓が誕生しました。

名前も野口念仏にちなみ、ズバリ「のぐちのねんぶったん」です。

野口念仏(913~15日)の3日間で、販売を予定していたところ、13日中に完売されてしまいました。

私も14日に「ねんぶったん」に出かけましたが、購入することはできませんでした。

残念!

買った人の話では、酒粕入りであっさりとした味でとても美味しかったそうです。

今は、製造販売はされていませんが、今後広く販売してゆく予定だそうです。その日が待たれます。

14日の「ねぶったん」では購入できなかったのですが、銘菓の由来を書いた説明書をいただきました。

次のように銘菓が紹介されています。

   

   銘菓「のぐちのねんぶったん」の由来

播州賀古乃念仏山教信寺(ばんしゅうかこのねんぶつさんきょうしんじ)の古瓦に使われていた紋様の「念」の字を複写し、「口」の字の中に入れた焼印は、教信が日本で当地方の庶民に授けた口に称えるお念仏を表したものです。

教信が始めた口称念仏は後の親鸞・一遍も敬慕し、鎌倉浄土仏教開花に大きな影響を与えました。

*写真:教信寺HPより

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