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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

円照寺の花たち(160) 円照寺の風景(3)・旧円照寺

2016-07-31 06:24:10 | 円照寺の花たち

    円照寺の風景(3)・旧、月輪山円照寺

 写真の旧円照寺(現在の円照寺北約50㍍)は、安永4年(1775)に再建された建物です。

 それ以前の、円照寺についての詳細は分かりません。

 以下は、「円照寺の花たち(10)」の再掲です。紹介していますのでご覧ください。

     円照寺の開基は嘉吉元年(1441)

 印南郡誌によれば円照寺の開基は、「嘉吉元年4月1日、願主広尾村に円照寺を創む」とあります。

 「おや!」

 不穏な時代の動きを感じます。

 嘉吉元年(1441)といえば、当時播州一円の支配者・赤松満祐(みつすけ)が、時の将軍・足利義教(あしかがよしのり)を京都の自宅で暗殺した事件(嘉吉の乱)のあった年です。

 嘉吉の乱は、6月24日で、円照寺の開基より2か月ほど後です。

 詳細は分かりませんが、当時、東志方地区は赤松の支配下にありました。

 いろんな困難が想像されます。(no3296)

 *写真上:旧照寺本堂、同下:旧円照寺山門

 

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円照寺の花たち(159) 円照寺の風景(2)・鐘楼のあたり

2016-07-30 08:04:29 | 円照寺の花たち

 円照寺の梵鐘については、「円照寺の花たち(47)」で、少し説明しています。復習です。もう一度、加古川市教育委員会の説明(板)の一部を読んでおきます。

     円照寺の風景(2) 鐘楼あたり

 円照寺に銘のある梵鐘では加古川市内で最も古い、明応七年(1498)の梵鐘があります。

 志方町内の梵鐘のほとんどが大戦中に供出されたのですが、この梵鐘は古鐘のために供出をまぬがれました。

 説明板(加古川市教育委員会)には、次の説明がありますので読んでおきます。

 「この銅鐘は、もと山口県徳山市の上野八幡宮のものであったが、豊臣秀吉が島津との戦いに陣鐘として用い帰京の際、宮谷附近に捨てたものを志方八幡神社に納めたが、鳴りが悪かったため円照寺に納めたとう。(以下略)

 いま、1994年完成の円照寺の鐘楼(写真上)を見ています。

 下の写真と比べてみてください。なんとも寂しい鐘楼です。

 いやな表現ですが、まさに「羽のないトンボ」のようです。

 それにしても、風景は変わるものですね。

 写真上の鐘楼では、歴史的な梵鐘であれ、歴史マニア以外の方の見学以外はなかったことでしょう。(no3295)

 *写真上:1994年当時の鐘楼、同下:現在の鐘楼付近の風景

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円照寺の花たち(158) 円照寺の風景(1)・本堂のあたり

2016-07-29 08:21:24 | 円照寺の花たち

      円照寺の風景(1)・本堂のあたり

 シリース「蓮如さん」は、紙面の都合もあり、文脈がつながらないところや説明不足の多い文章になってしまいましたが、ご了承ください。

 話を円照寺の花たちに戻したいのですが、夏の花が終わり、秋の花には、もう少し時間が必要のようです。

 そのため、余話を続けます。円照寺とその界隈の話です。

    円照寺、平成五年(1993)に、現在地に移転新築

 まず円照寺の話です。「円照寺の花たち(9)」で、円照寺の本堂について紹介していますが、一部を転載して復習をしておきます。

 円照寺は、もともと現在地にあったのではなく、平成五年(1993)に、現在地に移転新築されました。

 もとは、現在地の北方50㍍の丘陵地にある寺院でした。春にはみごとなユキヤナギで埋まる場所です。

 移転当時の本堂のあたりをご覧ください。大変身です。(no3294)

 *写真上:新築当時の本堂、同下:花に埋まった現代の本堂あたり(撮影:堀江)

 なお、旧写真の本堂の写真は、『広尾と円照寺の歴史(上月昭信著)』よりお借りしました。

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円照寺の花たち(157) 蓮如さん(6)・日本最大の宗教(浄土真宗)の組織者

2016-07-28 07:10:14 | 円照寺の花たち

       吉崎から山科・大坂へ

 吉崎で、蓮如がまいた種は、巨大な森となり繁茂しました
が、それが蓮如を押しつぶす怪物に成長してしまいました。

 文明七年(1475)夏、蓮如は船で失意のうちに吉崎を後にしました。

 その後、しばらくは近畿の各地の布教に専念していましたが、やがて文明11年(1479)山科(やましな)本願寺が起工され、数年後には吉崎をしのぐまでになりました。

 蓬如はやがて大阪の街の先がけとなる石山本願寺を築きました。

 すでに本願寺を引退していた蓮如は、なりふり構わず名号(布教のためのお札)を書きに書き、その代金を資金にあてました。

 石山御坊といわれるこの本願寺は、1497年に完成しました。石山本願寺は、現在の大阪城の場所に造られました。

 石山本願寺の完成の翌年蓮如は84歳で波乱の生涯を終えました。

    日本最大の宗教(浄土真宗)の組織者

 その後の、浄土真宗(一向宗)を信じた庶民の熱い心は燃え続けています。

 特に、11年にわたる信長軍と真宗門徒衆の戦いは、蓮如の教えとは離れたかもしれませんが、真宗の武衛のための激しい戦闘を繰り広げました。

 蓮如の組織した門徒衆の活躍(信仰)は、日本史の1ページを飾っています。

 親鸞の時代、浄土真宗は小さな一宗派でした。

 ともかく、蓮如が日本最大の宗派である浄土真宗をつくりあげました。

 蓮如は、普通「蓮如さん」と親しみをもって呼ばれています。彼は、一宗教者であるとともに民衆の中へ普段着のまま入っていった組織者でした。

 蓮如は、宗門の方以外にはあまり親しまれることが少ないようです。

 が、もっと知られてよい人です。(完)(no3293

 *写真:京都山科区にあった山科本願寺跡の土塁

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円照寺の花たち(156) 蓮如さん(5)・翻弄される蓮如 

2016-07-27 07:03:49 | 円照寺の花たち

    吉崎にて

 蓮如の新しい布教の地、吉崎は、もともと興福寺の荘園の一部でしたが、偶然にも吉崎の地を布教の拠点とすることができました。

 紙面の関係で結論を書いておきます。結果は、吉崎進出以後は、爆発的に急成長を遂げました。

 蓮如本人でさえ、「これは末代の不思議なり、ただ事ではおぼえはべらず」とあきれているくらいです。

 人々は、雪崩をうったように、吉崎に集まってきました。

    信仰のゆるみ

 蓮如は、「ひたすら阿弥陀如来ひとすじにすがりなさい」と説きました。

 しかし、他の一切の信仰を軽蔑したり、無視したり、攻撃したりする門徒が出てきました。

 また、すべての人間が同朋・同行だとすれば、これまでの身分や、社会秩序は無視してかまわないと、権力に反抗したり、無軌道にふるまう者もあらわれました。

 「仏はすべての罪ぶかき衆生をこそ救うのだから、いくら悪事をはたらいても念仏さえすれば大丈夫だ」などという安易な考えも広がってゆきました。

 「吉崎にこれだけ人が集まってきても、本当に親驚の教えを理解している者は、ほんのひと握りだろう」と、蓮如はしばしばつぶやくのでした。

 また、内部の関係者たちも、蓮如がいくら説いても、正しい信心に近づくどころか、むしろ吉時の繁昌に増長して、かえって俗化していくのでした。

 吉崎に参集する人びとが落す金も、莫大なものでした。

 商売も栄えたにちがいありません。

 しかし、そんななかにあって、蓮如は愚直と見えるほど執拗に、周囲との摩擦をさけよと人びとに呼びかけました。

    翻弄される蓮如

 やがて、文明六年(1474)、本願寺派門徒は守護・富樫政親(とがしまたちか)の要請を受けて本格的な合戦に参加しました。

 地侍や、浪人や、さまざまな雑民のエネルギーか渦巻く門徒集団は、すてに力のある武家をもしのぐ戦力となっていました。

 この戦いで門徒衆は、2000人の死者を出しました。

 蓮如は、断固として参戦を制止しなかったことで、後に非難もされました。

 彼は、やがて吉崎を後にします。

 その後、蓮如の去った北陸では一向一揆と呼ばれる門徒を中心とした民衆・武士の反乱がくり返され、ついに、1487年(長享元)、加賀平野において史上空前の一揆がおこりした。20万といわれる雑民の大軍が富樫政親を攻め、これを自害させました。

 加賀一国は、この後、約100年にわたって、門徒と武士の集団支配のもとに、日本史上かつてない雑民の共和国が出現します。

 その時、蓮如は、吉崎を遠くはなれ、京都・山科(やましな)に移っていました。(no3292

 *写真:吉崎御坊跡

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円照寺の花たち(155) 蓮如さん(4)・蓮如の女性観

2016-07-26 08:07:13 | 円照寺の花たち

  女性に対する思慕の情

 蓮如は、84年の天寿を全うしました。

 その長い生涯の間に、5人の妻を持ち、それぞれの妻たちときわめて情愛の濃い生活を送っています。

 が、縁が薄いというか、なぜかその女性たちに先立たれては、心から悲嘆にくれることのくり返しでした。

 幼なくして亡くした子どもも、少なくありませでした。

   女性の役割を発見

 蓮如は、土民といわれた下層の大衆のなかに鋭く切りこんでいきました。

 そこで見たことは、農村や町衆の生活のなかで女性たちが果たしている大きな役割、そのエネルギー、そして、そういうものがどのような価値があるかということを実感として把握しました。

 前の号で説明した「変成男子(へんせいなんし)」のような女性観が一般的の時代に、法然や親鸞の「女性も同房衆である」という女性観をさらに推し進め、女性の積極的な女性観を説きました。

    現在に生きる女性観

 「どんな立場の人間であっても、ひと筋に阿弥陀仏を頼み、その教済の悲願というものを心から信じて、それに身をまかせれば必ず救われる」という、この思想は、当時の女性たちの心にどれほど強くひびいたか、想像に難くありません。

 それは、いま私たちが想像することの数百倍も激しく、しかもラディカルな立場でした。

 蓮如の死からすでに500年を経ようとしている現在でも、まだわれわれのなかに恨強く影を落としている女性に対する偏見を、わが身のこととしてふり返ってみるにつけ、中世において、自由なまなざしを女性に注いだ人物とし蓮如は忘れることができない人物といえるでしょう。(no3291)

 *絵図:蓮如

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円照寺の花たち(154)  余話:阿弥陀三尊来迎図(女人来迎図)

2016-07-25 06:51:38 | 円照寺の花たち

 前号で「蓮如は、吉崎に布教の場所を変えました、しかし・・・」と書きました。

 今回は、その続きを書かねばなりませんが、その前に、蓮如の女性観を述べておきましょう。

 お断りです。今日は、さらにその前に常楽寺(東神吉町)に残る「女人来迎」を余話として紹介しておきます。

 当時(鎌倉・室町時代)、 女人は、男子より穢れており、「変成男子(へんじょうなんし)」という考えが一般的な時代でした。

 女性は、成仏でるが、そのままでは無理で、いったん男性に変身して姿かたちが男性にかわり、その後極楽への往生が可能とされていたのです。

   阿弥陀三尊来迎図(女人来迎図)

 日本仏教説話では、死後初七日(しょなぬか)からはじまって33回忌まで、さまざまな冥界(めいかい)の王や仏に出会うといいます。

  まず、死ねば閥魔王(えんまおう)の裁きを受けるとされました。あの世があるならば「地獄」より「極楽」を願うのが、人情です。

     女性の往生を描く

 東神吉町にある常楽寺(浄土宗の寺)に、嫌倉時代末期から南北朝時代にかけてと推定される「女人往生図(にょにんおうじょうず)」(写真)が発見されました。

 右手下の建物に、いままさに死なんとする女人が手をあわせています。

 左上に阿弥陀仏、下に魂を入れる入れもの(うてな)を持った観音菩薩と勢至(せいしぼさつ)が迎えにきているところです。

 蓮如の師・親鸞、さらにその師・法然は女性の地位を認めています。が、絵画に描かれた例はほかにありません。

 発見された当時、朝日新聞一面トップにカラーで掲載されました。

 女人往生図が女性のまま往生できることを描いた絵画の発見は、日本でこの一例だけです。

 その意味で、 常楽寺の「女人往生図」は、日本の思想史においても一大発見となっています。もっと広く紹介されるべき作品です。(no3290)

 *図:阿弥陀三尊来迎図(兵庫県指定文化財)

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円照寺の花たち(153) 蓮如さん(3)・吉崎へ

2016-07-24 08:08:35 | 円照寺の花たち

     惣村・講、そして信仰

 蓮如の時代、それまでの荘園制度は、次第にガタガタなって、崩れかかった時期でした。

 したがって、荘園の農村への支配は、ずいぶん弱まりました。

 そして、「自分たちの村は自分たちで守る」という、新しい集落が誕生することになりました。

 聞きなれない言葉ですが、歴史の教科書でいう「惣村(そうそん)」が形づくられてきたのです。

 しかし、新しい惣村はバラバラでは、弱く守ることができません。

 蓮如は、その惣村に「講(こう)」という仕組みをいれて、惣村を横につなげ強い組織をつくりあげたといわれています。

 「講」とはどのようなものでしょう。

 講は、仏典とか、さまざまな経などを僧侶が集まって講義を聴く集まりでしたが、時代と共に一般の信者が信仰上の教えを聞く集まりを講というようになりました。

 「全ての人が仏の前では平等である」という意識(同朋主義・どうぼうしゅぎ)が惣を通じて広がっていったのです。

     新しい信仰の地「吉崎」へ

 「同朋主義」は、夜を照らす光明のように魅力的であったにちがいありません。

 蓮如による浄土真宗の考えが広がっていきました。

 が、それにつれて、既成教団からの弾圧の嵐が強くなってきました。

 やがて、門徒集団は、信仰を守りぬくために暴走さえしかねない状態になりました。実際、流血の惨事も発生しました。

 布教と理想の溝が、ますます深まってきたのです。

 蓮如は、堅田を離れ、信仰の拠点を北陸(福井県)の吉崎へと移しました。(上図は吉崎御坊の復元図)

 蓮如57歳の再出発でした。

 吉崎の浄土真宗は、驚くべき勢いで広がっていったのです。

 しかし、・・・・・(no3289

 *図:吉崎御坊復元図  

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円照寺の花たち(152) 蓮如さん(2)・闇の時代

2016-07-23 06:50:02 | 円照寺の花たち

 写真は、円照寺に伝わる蓮如上人の御真影。寛政元年(1789)本願寺よりいただいた御真影です。

     闇の時代

 蓮如は、その後、あまり歴史に登場しません。はっきりと分からないのです。

 そんな蓮如でしたが、28歳の時結婚し、次々と7人(男4人・女3人)の子供をもうけました。

 しかし、貧しい当時の本願寺で家督を継いでいない身では子供を育てることはできません。

 幼い子を里子に出したり、よその寺に使用人としてあずかってもらうより方法がありませんでした。

 不憫でした、6歳で、実母と別離した自分の人生と重なるのでした。

 蓮如が43歳の時でした。父が亡くなります。本願寺の相続について内部の争いがありましたが、奇跡的に蓮如が継ぐことになりました。

 そして、47歳の時、いわゆる「寛正(かんしょう)の大飢饉(1461)」を経験します。正月~2月の二か月間だけで京都の餓死者が82.000人にものぼったと言われています。

 多くの百姓は、天を呪いました。生きる希望をなくしました。

 多くの人々は迷信、占いそして怪しげな祈とうに走りました。

 親鸞の「阿弥陀、一心にすがり、ナムアミダブツを唱えなさい・・・」という教えは、むなしい響きにさえ聞こえるのでした。

    堅田衆の援助

 そんな時に、今の大津あたりですが、堅田(かただ)の門徒・法住(ほうじゅう)に出会いました。彼は、蓮如の考えに共鳴します。

 堅田衆は、当時の交通・通運の要衝である琵琶湖の漁業権及び交通をほとんど握っているグループで、法住は、その堅田衆の指導者です。

 堅田衆には農漁民以外の職人、商人や馬借、車借などの運送業など当時の社会では一種の偏見を持ってあつかわれていた人々も含んでいました。

 蓮如は、そんな堅田衆の援助を得ることができました。

 堅田衆としても比叡山(天台宗)と対立しており、精神的な柱を蓮如(浄土真宗)に求めたのでしょう。

 たちまち、比叡山からの非難が起きました。京都の本願寺は、比叡山のために打ち壊されてしまいまいた。

 そんなことに負ける蓮如さんではありません。

 蓮如の見つめる人々は、一揆をおこし動乱の時代の新しい担い手になりつつある農民や底辺の人々でした。

 「時代は動いている・・・」

 「私(蓮如)は、これらの人々と一緒新しい信仰(時代)を広めてゆこう」と決意するのでした。(no3288

 *写真:円照寺に伝わる蓮如上人の御真影(部分)

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円照寺の花たち(151) 蓮如さん(1)・蓮如という人

2016-07-22 05:57:50 | 円照寺の花たち

    蓮如という人

 我が国の歴史上有名な宗教思想家といえば。誰を思い浮かべられますか。

 まずは、最長・空海・法然・親鸞・日蓮・栄西等でしょう。

 「蓮如(れんにょ)は、どうですか」と問われると、〝それは誰?″と首をかしげる方も多いのではないでしょうか。

 彼は、親鸞に学び、親鸞に一心に帰依しその考えを広めようとした人です。

 時代は、日本の歴史上最も複雑な15世紀の乱世でした。

 権力闘争と内乱が続きました。そして、恐るべき大飢饉と疫病が世を襲った時代でした。

 そんな時代にあって、蓮如は親鸞の教えである「一心にナムアミダブツを唱えなさい。阿弥陀様は必ず救ってくださいます」「人間は、仏様の前では、平等なんです」と唱え、この考えを広めようと努めました。

 結論を先に、述べておきましょう。彼は、晩年戦国大名さえおびえさせるほどの日本最大の教団(浄土真宗・一向宗)を育てあげました。

 その経過、問題点はこの「シリーズ・蓮如」でお話しすることにします。

     母との別れ

 蓮如は、応永22年(1415)、京都の東山本願寺の僧侶の子として誕生しました。

 父(在如)は、20歳でまだ下住みで正式の妻は持てません。

 母は、当時本願寺で働いていた若い女性でした。

 彼女は、どんな女性であったかわかっていません。祖母の侍女であるとか、としていわれのない差別を受けていた女性であったともいわれています。

 いずれにしろ、母は正式の妻として迎え入れぬ身分の人であったことは確かなようです。蓮如は、「親鸞の血を引く本願寺の子としてうまれたというエリート意識。また、優しい母が祝福されない身分であったこと」、この二つが、その後の彼の考え(行動)に大きく影響したようです。

 蓮如が6歳の時、悲しい出来事がありました。

 蓮如の父が本願寺の当主として正妻を迎えることになりました。しかるべき家柄の人でした。

 母は、師走の風の中を幼い蓮如を残して、いずこともなく姿を消していきました。想像ですが、それを知った蓮如は、一人になると世の不条理と母の姿を求めて慟哭したことでしょう。

 母は、立ち去る前に幼い蓮如の姿を絵師に頼んで描いてもらい、それをもって寺を去ったともいわれています。

 蓮如は後に、その絵を描いた絵師を見つけ出し、同じ絵を描いてもらったと伝えられています。

 その複製の方(写真)が「鹿子の御影(かこのごえい)」として現存しています。(no3287

 *写真:鹿子の御影(福井県超勝寺所蔵)

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円照寺の花たち(150)  次号から、蓮如さんと室町時代を歩きます

2016-07-21 07:33:22 | 円照寺の花たち

 いま円照寺は、夏の花が終わり花たちは、秋の準備をしています。

 円照寺に楽しい色紙がありましたのでお借りしました。

 さりげなく、親鸞さん・蓮如さんの教えである「他力本願」について語っておられるのですね。

    蓮如さんと室町時代を歩きましょう

 花の端境期です。花の紹介は、しばらくご辛抱ください。

 その間を利用して、柄にもなく蓮如さんの話をしようと計画しました。

 6回になる予定です。

 もちろん、専門家面して日蓮・親鸞さんについて語る資格はありません。

 当然間違いがいっぱいあるとおもいます。ご指摘ください。

 円照寺さんの責任ではありません。

 私ですか?・・「蓮如さんと一緒に室町時代という混沌とした時代を歩きたい」だけなんです。

 中世の歴史をちょっとだけかじりました。少しだけ蓮如さんのお話しをさせてください。

 「円照寺の花」の読者には、ご迷惑な内容になるかもしれませんが、お許しください。(no3286

 *写真:円照寺の色紙より

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円照寺の花たち(149) あなたが好きだよ

2016-07-20 08:33:02 | 円照寺の花たち


 

    今、あなたが好きだよ

 円照寺の庫裏に、「花」の書が掛かっています。

 声を出して、読んでみましょう。

     

    季節の中で

    見つけた

    優しい花

    「いまあなたが好きだよ」と、といってくれたのは

    風の音

    かしら

    ・・・

 いえいえ、そうではありません。

 「風の音」では、ないでしょうね。

 ここは円照寺。

 きっと、観音さまか、阿弥陀さまの、あなたへの囁きだったのですよ。

 「私は、あなたが好きですよ。そして、いつでもあなたの掌の中にいますよ」と・・・(no3285) 

 *写真:花の書(円照寺の庫裏)、今季最後のカサブランカ

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円照寺の花たち(148) 東屋のある風景

2016-07-19 10:17:53 | 円照寺の花たち

     今は、秋の花が準備をしています

 失礼な、書き出しです。お許しください。

 一般的には、浄土真宗(一向宗)のお寺の構え(伽藍)は立派ですが、円照寺はそんな「はではでさ」はありません。

 むしろ、俗な言葉で「こじんまりした、控えめなお寺」です。

 もし、円照寺を取り巻いている花がなかったら、雛の村の寂しいお寺で、あまり知られることもなく、時々檀家の方のお参りのある程度で、寂しいたたずまいのお寺であったのかもしれません。

 でも、花たちが一挙に円照寺を引き立てています。

 むしろ、円照寺の「質素さ」が寺と花のコラボレーションを演出し、まるで浄土の風を漂わせています。

 今はキキョウが頑張っていますが、さすがの円照寺も、少し花の端境期です。

 秋の花たちがその準備をしています。次の花たちの出番まで少しだけお待ちください。

     東屋のある風景

 円照寺には花が似合います。見学の方のリピーターの方が沢山おられます。

 その要因は、なんといっても一年を通じ多くの花が楽しめることにあります。

 が、その他にも、花を引き立てる仕掛けがありそうです。

 本堂の前の石段に腰を掛け、境内を眺めていると、二棟の東屋(あずまや)を見つけます。

 花を眺めながら散策されるのもいいのですが、東屋でゆっくりお休みください。

 そして、初めてお会いする方ともお話しください。

 私も、境内で偶然に学生時代(半世紀以上前)の友達と会い懐かしいお話をしたり、かつての職場の同僚ともお会いすることもありました。

 不謹慎なことを想像しています。

 こんなにたくさんの花に囲まれて東屋でビールを飲んだら、さぞ美味しいしょうね。

 でも、帰りに事故を起こしたら大変です。

 余韻を自宅に持ち帰り、ゆっくり飲むことにします。(no3284)

 *写真上:境内の(西の)東屋、同下:(東の)東屋

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円照寺の花たち(147) 念ずれば、花ひらく

2016-07-18 06:11:18 | 円照寺の花たち

 この仏さまの色紙は、山門横の円照寺の掲示板の場所にありました。お断りしてお借りしました。

  「念ずれば、花ひらく」

 もちろん、この花は悟りの花でしょう。人生の花かもしれません。

 「悟り」なんて、とっても無理です。

 ここでは「努力すれば、(必ず)むくわれる」くらいの意味にとっておきます。

 「でもね・・・」と、しばし考えてしまします。

 もう73歳になりました。

 たいして頑張れません。今までも、花を咲かせることはできていません。

 ましてや、これからも花を咲かせることは無理です。 

 でもね。この仏さまのお顔を見ていると「もうひと頑張りしますか・・・」という元気をもらいます。

 「私ですか?・・・こまりました」「何をしましょうか」

 とりあえず、孫のためにそっと(気づかれず)頑張ることにします。

 きょうは、昼から孫と氷丘プールに出かけます。腰を痛めない程度に、遊んできます。

 私の頑張りは、この程度のことです・・・(no3283

 *写真:色紙より

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円照寺の花たち(146)  蕾は、弾けるときポンと鳴る?

2016-07-17 08:12:30 | 円照寺の花たち


    

       「キキョウ」、秋を感じます

 最近は品種改良により、夏場に咲くキキョウもずいぶん増えました。

 でも、キキョウは秋ということが頭に刷り込まれているせいか、どのキキョウを見ても清々しい秋を感じます。

 特に、紫のキキョウはそうです。

 暑さを忘れさせてくれます。

   「蕾は、弾けるときポンと鳴る」という

 キキョウについて面白い話を聞きました。

 キキョウの花は、咲くまでは蕾(つぼみ)が閉じて、ふくらんだ袋のようになっていいます。

 その「キキョウの蕾を指で強く押えると、ボンと音がする」というのです。

 事実らしいのです。

 しかし、おもしろい話ですが、子どもたちに教えないようにしましょう。教えてしまったらあとの祭りで、若い奮もつぶされてしますでしょう。

 内緒ですよ。

 でも、キキョウの蕾がはじける音は聞いたことがありません。

 一度だけ子供にかえって、試してその音を聞いてみたいものです。。

 でも、最近、耳が遠くなりました。

 聞こえるかな・・・(no3282)

 *写真:境内のキキョウと観音さま(撮影・堀江)

 

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