吉崎にて
蓮如の新しい布教の地、吉崎は、もともと興福寺の荘園の一部でしたが、偶然にも吉崎の地を布教の拠点とすることができました。
紙面の関係で結論を書いておきます。結果は、吉崎進出以後は、爆発的に急成長を遂げました。
蓮如本人でさえ、「これは末代の不思議なり、ただ事ではおぼえはべらず」とあきれているくらいです。
人々は、雪崩をうったように、吉崎に集まってきました。
信仰のゆるみ
蓮如は、「ひたすら阿弥陀如来ひとすじにすがりなさい」と説きました。
しかし、他の一切の信仰を軽蔑したり、無視したり、攻撃したりする門徒が出てきました。
また、すべての人間が同朋・同行だとすれば、これまでの身分や、社会秩序は無視してかまわないと、権力に反抗したり、無軌道にふるまう者もあらわれました。
「仏はすべての罪ぶかき衆生をこそ救うのだから、いくら悪事をはたらいても念仏さえすれば大丈夫だ」などという安易な考えも広がってゆきました。
「吉崎にこれだけ人が集まってきても、本当に親驚の教えを理解している者は、ほんのひと握りだろう」と、蓮如はしばしばつぶやくのでした。
また、内部の関係者たちも、蓮如がいくら説いても、正しい信心に近づくどころか、むしろ吉時の繁昌に増長して、かえって俗化していくのでした。
吉崎に参集する人びとが落す金も、莫大なものでした。
商売も栄えたにちがいありません。
しかし、そんななかにあって、蓮如は愚直と見えるほど執拗に、周囲との摩擦をさけよと人びとに呼びかけました。
翻弄される蓮如
やがて、文明六年(1474)、本願寺派門徒は守護・富樫政親(とがしまたちか)の要請を受けて本格的な合戦に参加しました。
地侍や、浪人や、さまざまな雑民のエネルギーか渦巻く門徒集団は、すてに力のある武家をもしのぐ戦力となっていました。
この戦いで門徒衆は、2000人の死者を出しました。
蓮如は、断固として参戦を制止しなかったことで、後に非難もされました。
彼は、やがて吉崎を後にします。
その後、蓮如の去った北陸では一向一揆と呼ばれる門徒を中心とした民衆・武士の反乱がくり返され、ついに、1487年(長享元)、加賀平野において史上空前の一揆がおこりした。20万といわれる雑民の大軍が富樫政親を攻め、これを自害させました。
加賀一国は、この後、約100年にわたって、門徒と武士の集団支配のもとに、日本史上かつてない雑民の共和国が出現します。
その時、蓮如は、吉崎を遠くはなれ、京都・山科(やましな)に移っていました。(no3292)
*写真:吉崎御坊跡