岩崎新田と千代新田の開発。
岩崎新田
寛政年間(1789~1801)、姫路藩は加古川の池田村の西の海岸を新田にしようとして、開発希望者は申し出るようにと触れを出しました。
しかし、開発は難工事が予想され、領内から誰も願い出る者はいませんでした。
たまたま、武蔵国秩父郡小鹿野村の七兵衛がこちらに来て手びろく仕事をしていました。
七兵衛は、他国者でしたが、北在家の紀右衛門は弟で、その二男の善兵衛は七兵衛の養子の間柄でした。全くの他国者ではありません。
七兵衛は、新田の資金を仕送りすることにしました。
北在家の紀右衛門を名義人として姫路藩に開発を申し出ました。
寛政十一年(1799)に開発の許可が下り、さっそく工事が始まりました。
しかし、工事は思いのほかの難工事で、費用も七兵衛の仕送りだけでは足りません。
紀右衛門は、多額の借金をしました。
ともかく、多額の借金を抱えたまま、文政四年(1821)54石8升1合、面積5町1反4畝1歩の新田を開発することができました。
紀右衛門は、岩崎姓を公式の場でも名乗れる一代苗字御免となり、開発した新田も「岩崎新田」の名称を姫路藩からもらいました。
岩崎新田は、岸本吉兵衛へ譲渡
しかし、新田開発の費用に要した費用はあまりにも多く、岩崎新田は一時大野組大庄屋・荒木弥一衛門に渡っています。
この時は、紀右衛門は所有権をとりもどしていますが、借金は残ったままでした。
やがて、岩崎新田は、新野辺の大歳藤七郎・梅谷三右衛門に渡りました。
嘉永六年(1853)頃に、紀右衛門の後継ぎの八十左衛門から「岩崎新田を譲った時の銀・79貫は用意するから返してほしい」との要求がありました。
ところが、大歳・梅谷家は「新田は買い取ったものであり、譲り受けてからも多分の費用を入れているし、高砂の岸本吉兵衛から119貫で譲り受ける話がある・・」と、返すことができないと断りました。
そして、岩崎新田は、岸本氏に銀119貫で譲渡されました。
千代新田
文化十三年(1816)新野辺村の大歳冶部右衛門へ姫路藩から「池田浜の海中に潮留堤防をつくり新田を開拓するように・・・」という命令があり、新田造成が始まりました。
場所は、岩崎新田の東となりです。
高砂の岸本吉兵衛、大野村の荒木弥一衛門、そして新野辺村の大歳吉左衛門の三人で開発にとりかかりました。
文政四年(1621)、ようやく「千代新田」として検地をうけ、田14町5畝・140石5斗、畑4反4畝16歩2分5厘・3石5斗6升3合3夕、合わせて14町4反9畝2歩5厘・144石6升3合が高入れされました。
千代新田は、一区割りごとに所有者が決められたわけでなく、岸本・荒木・大歳の外、姫路の児島又右衛門を加えて四人の連名の所有でした。
そして、開発の諸費用は、はじめは、岸本が5歩(5割)、荒木が3歩、大歳が2歩の割で負担することにしていましたが、開発、検地がなされたのち、文政四年に三人の負担率は岸本4歩4厘、荒木・大歳それぞれ2歩8厘に改められた。
この段階では、千代新田の所有者は4人でありながら、児島又右衛門だけは諸費用の負担者となっていません。
しかし、文政七年(1824)に、児島も負担者となり、開発以来の諸費用について岸本が3歩5厘、荒木・大歳が各2歩、児島2歩5厘の負担をすることに変更となりました。
塩害の新田
「千代新田」開発のために労働力を提供した池田村に対しては、文政三年から同七年まで年々銭350貫491文ずつ5年間の計算で、合わせて銭1752貫455文が文政七年に支払われています。
その費用の負担は所持する新田の面積に従って4人が負担しました。
開発後、附近の村々の者を耕作者として入植させましたが、「千代新田」は、海岸であるため潮気が多く、稲が立ち枯れる被害にあい、耕作の始まった文政四年、さっそく多くの入植百姓が元の村に帰ってしまったほどでした。
これを防ぐために、借財などで村方へ帰れない者や流浪人でも人柄を見て入百姓にし、家を建てて住まわせ耕作させたといいます。
やっと、文政10年(1827)、25俵を姫路藩に献上しました。
しかし、文政13年の史料によれば文政3年以降12年まで、毎年植えつけても作物は十分に生育せず、この間入植者は地主から助成してもらうことも多かったようです。
このような事情でしたから、天保四年(1833)より年貢を上納する新田として発足しましたが、年貢率はさしあたり3ツ(3割)と低い年貢率(免相)と定めらました。
なお、千代新田の隣の広大な金沢新田の開発に大歳家は直接関係していません。金沢新出については、『市野辺村の歴史(第一巻)』をお読みください。(no3575)
*『加古川市史(第二巻)』より