ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

大庄屋・大歳家(37) 大庄屋:大歳家保存運動の参考のために

2017-05-29 11:07:34 | 大庄屋・大歳家

       大庄屋:大歳家保存運動の参考のために

 今日(29日)の神戸新聞に下記の記事が掲載されていました。

 昨年、(別府町新野辺の)大歳家保存の参考に清掃作業を見学に出かけた大庄屋・村上家です。

 保存運動は、やはり地域の方の盛り上がりなんですね。

 参考(と記録)のために掲載させていただきました。

   江戸期の宿本陣跡よみがえる 神戸・淡河

 江戸時代の歴史を伝える神戸市北区淡河町の邸宅「淡河宿本陣跡」の改修工事が終わり、28日に内覧会が開かれた。長年人が住まず、傷んでいた屋根瓦や床板、かまど、畳などを地元住民らが修繕。住民や久元喜造・神戸市長ら約60人が参加し、地域の交流拠点となる歴史的建造物の復活を喜んだ。(村上晃宏)

 淡河町は、豊臣秀吉が命じて播磨と有馬温泉を結ぶ宿場町として整備された。本陣跡は、宿場町の建設に尽力した大庄屋・村上家が居住していたという。約600平方メートルの敷地に書院造りの母屋や土蔵、茶室などがある。約50年前から無人で老朽化が進んでいた。

 一昨年、地域の有志が一般財団法人「淡河宿本陣跡保存会」を結成し、修繕を決めた。工事中にも、流しそうめんや七夕、大学生考案の改修案パネル展といったイベントを開催。電気や水道設備も整え、今後はカフェの営業をはじめ、季節行事や移住・定住相談会などを企画するという。

 内覧会で、保存会の村上隆行代表理事(47)は工事過程を写真で説明し、「子どもも大人も地域の歴史や文化を体感できる交流施設として活用したい」と期待を込め、久元市長は「淡河に『未来を創る場所』が生まれた」とあいさつした。

 参加者は鏡開きした後、地元産の食材を使った料理に舌鼓を打ち、利用方法のアイデアを出し合っていた。(no3601)

 *写真上:地域住民らの改修工事で復活した邸宅

  写真下:歴史の面影を残す修理されたかまど

 

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大庄屋・大歳家(36) 岩崎新田と千代新田

2017-05-06 08:25:48 | 大庄屋・大歳家

     岩崎新田と千代新田の開発。

   岩崎新田

 寛政年間(1789~1801)、姫路藩は加古川の池田村の西の海岸を新田にしようとして、開発希望者は申し出るようにと触れを出しました。

 しかし、開発は難工事が予想され、領内から誰も願い出る者はいませんでした。

 たまたま、武蔵国秩父郡小鹿野村の七兵衛がこちらに来て手びろく仕事をしていました。

 七兵衛は、他国者でしたが、北在家の紀右衛門は弟で、その二男の善兵衛は七兵衛の養子の間柄でした。全くの他国者ではありません。

 七兵衛は、新田の資金を仕送りすることにしました。

 北在家の紀右衛門を名義人として姫路藩に開発を申し出ました。

 寛政十一年(1799)に開発の許可が下り、さっそく工事が始まりました。

 しかし、工事は思いのほかの難工事で、費用も七兵衛の仕送りだけでは足りません。

 紀右衛門は、多額の借金をしました。

 ともかく、多額の借金を抱えたまま、文政四年(1821)54石8升1合、面積5町1反4畝1歩の新田を開発することができました。

 紀右衛門は、岩崎姓を公式の場でも名乗れる一代苗字御免となり、開発した新田も「岩崎新田」の名称を姫路藩からもらいました。

   岩崎新田は、岸本吉兵衛へ譲渡

 しかし、新田開発の費用に要した費用はあまりにも多く、岩崎新田は一時大野組大庄屋・荒木弥一衛門に渡っています。

 この時は、紀右衛門は所有権をとりもどしていますが、借金は残ったままでした。

 やがて、岩崎新田は、新野辺の大歳藤七郎・梅谷三右衛門に渡りました。

 嘉永六年(1853)頃に、紀右衛門の後継ぎの八十左衛門から「岩崎新田を譲った時の銀・79貫は用意するから返してほしい」との要求がありました。

 ところが、大歳・梅谷家は「新田は買い取ったものであり、譲り受けてからも多分の費用を入れているし、高砂の岸本吉兵衛から119貫で譲り受ける話がある・・」と、返すことができないと断りました。

 そして、岩崎新田は、岸本氏に銀119貫で譲渡されました。

   千代新田

 文化十三年(1816)新野辺村の大歳冶部右衛門へ姫路藩から「池田浜の海中に潮留堤防をつくり新田を開拓するように・・・」という命令があり、新田造成が始まりました。

 場所は、岩崎新田の東となりです。

 高砂の岸本吉兵衛、大野村の荒木弥一衛門、そして新野辺村の大歳吉左衛門の三人で開発にとりかかりました。

 文政四年(1621)、ようやく「千代新田」として検地をうけ、田14町5畝・140石5斗、畑4反4畝16歩2分5厘・3石5斗6升3合3夕、合わせて14町4反9畝2歩5厘・144石6升3合が高入れされました。

 千代新田は、一区割りごとに所有者が決められたわけでなく、岸本・荒木・大歳の外、姫路の児島又右衛門を加えて四人の連名の所有でした。

 そして、開発の諸費用は、はじめは、岸本が5歩(5割)、荒木が3歩、大歳が2歩の割で負担することにしていましたが、開発、検地がなされたのち、文政四年に三人の負担率は岸本4歩4厘、荒木・大歳それぞれ2歩8厘に改められた。

 この段階では、千代新田の所有者は4人でありながら、児島又右衛門だけは諸費用の負担者となっていません。

 しかし、文政七年(1824)に、児島も負担者となり、開発以来の諸費用について岸本が3歩5厘、荒木・大歳が各2歩、児島2歩5厘の負担をすることに変更となりました。

   塩害の新田

 「千代新田」開発のために労働力を提供した池田村に対しては、文政三年から同七年まで年々銭350貫491文ずつ5年間の計算で、合わせて銭1752貫455文が文政七年に支払われています。

 その費用の負担は所持する新田の面積に従って4人が負担しました。

 開発後、附近の村々の者を耕作者として入植させましたが、「千代新田」は、海岸であるため潮気が多く、稲が立ち枯れる被害にあい、耕作の始まった文政四年、さっそく多くの入植百姓が元の村に帰ってしまったほどでした。

 これを防ぐために、借財などで村方へ帰れない者や流浪人でも人柄を見て入百姓にし、家を建てて住まわせ耕作させたといいます。

 やっと、文政10年(1827)、25俵を姫路藩に献上しました。

 しかし、文政13年の史料によれば文政3年以降12年まで、毎年植えつけても作物は十分に生育せず、この間入植者は地主から助成してもらうことも多かったようです。

 このような事情でしたから、天保四年(1833)より年貢を上納する新田として発足しましたが、年貢率はさしあたり3ツ(3割)と低い年貢率(免相)と定めらました。

 なお、千代新田の隣の広大な金沢新田の開発に大歳家は直接関係していません。金沢新出については、『市野辺村の歴史(第一巻)』をお読みください。(no3575)

 *『加古川市史(第二巻)』より

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大庄屋・大歳家(35)  頭 分(新野辺村の百姓代)

2017-05-05 09:13:58 | 大庄屋・大歳家

     村方三役 

 現在、加古川市内の中学生が使っている歴史教科書(『中学社会歴史』・大阪書籍)の説明を読んでおきます。

 

 ・・・・村には土地をもつ本百姓と、土地を持たない水呑百姓との区別があり本百姓の中から庄屋(名主)・組頭・百姓代(ひゃくしょうだい)等の村役人を出し、寄合によって村を運営していました・・・

 

 上記のような説明は、どの教科書にもみられます。

 少し説明が必要のようです。というのは、庄屋(名主)は、江戸時代初期から置かれましたが、組頭は必ずしもそうではありません。

 また、百姓代は江戸時代中ごろになって初めて姿をみせます。

 百姓代について、もう少し説明しておきます。

 村入用(むらいりよう)という村費などの負担は庄屋・組頭により村人に割り振られました。

 しばしば、その負担をめぐって村役人と一般の百姓の間でトラブルが生ることもしばしばでした。

 この傾向は、江戸時代も中期になるといっそう多くなり、激しくなりました。

 そのため、一般の百姓を代表する百姓代が登場したのです。

      頭 分(新野辺村の百姓代)

 新野辺村の百姓代についての説明です。

 新野辺住吉神社には神社を運営する組織である住吉頭が置かれました。

 その頭を運営する人々は頭分と呼ばれました。

 頭分は、氏子の中から選ばれました。

 新野辺村の頭分は、教科書で言う百姓代の役割を果たしました。

 しかし、新野辺村の頭分は、庄屋・組頭の仕事を監視するというだけではありません。

 庄屋・組頭と共に村の運営にしっかりと組み込まれていました。

 つまり、氏子の意見をまとめる頭分は村の運営に積極的な役割を果たしました。

 頭分の意見を無視して庄屋・組頭は村の運営を決めることはできなかったばかりか、大庄屋の大歳家でさえ頭分の意見を無視することはできなかったのです。

 新野辺の頭分は、むしろ村の運営の中心として役割をになっていました。(no3574)

 *『武士の周縁に生きる』(吉川弘文館)より羽田真也氏論文参照

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大庄屋・大歳家(34)  新野辺村の綿作

2017-05-04 08:28:29 | 大庄屋・大歳家

      新野辺村の綿作

 綿の栽培が始まったのは、室町時代の中ごろです。

 やがて庶民の生活に入ってきました。

 それまで着ていた肌ざわりの悪い麻布と比べて,柔らかく、染めても美しく、それに何よりも暖かく冬の防寒には最適でした。

 江戸時代に入り、江戸や大坂等の巨大な消費都市が生まれ、交通も発達しました。

 綿は商品作物として栽培され、急速に生産を増やしました。

 姫路木綿は品質が良く、薄手でやわらかく、その上、市川や加古川の水質が木綿を晒す(さらす)のに適していました。

 特に綿布は白く「姫玉」とか「玉川さらし」と呼ばれて、江戸で大好評を得ました。

 この姫路木綿の原料の多くは、加古川地域(東郷)で栽培されていました。

 新野辺の綿作を見る前に、より綿作が盛んであった尾上の綿作を少し見ておきます。

     綿作の盛んであった養田・池田

 江戸時代の後半、特に文化・文政期(1800年代のはじめ)、綿作はかなりさかんでした。

 加古川地域でも尾上地区で特に綿作がさかんでした。

 池田村と養田村にその例を見ますと、安政四年(1857)池田村では畑作の中で綿作の占める割合は86%(養田73%)を占めており、全田畑では池田86.8%(養田63.6%)とずいぶん綿作が盛んでした。

     新野辺村の綿作は?

 新野辺の綿作はどうだったのでしょう。新野辺の状況を大歳家の文書から見ておきましょう。

 尾上の池田・養田と少し綿作の状況は違っていたようです。

 万延元年(1860)、新野辺の綿作は、田地53町2反6畝の農地のうち綿作地は1町1反1畝(2%)、畑作地は9町9反7畝のうち2町8反3畝余(54%)で、面は畑作が中心でしたが栽培規模は養田・池田村とは大きく違っていました。

 綿布の流通ですが、天保10年(1839)仲買246軒に姫路藩から免許を受け鑑札が交付されています。

 この時期、新野辺の仲買に善兵衛、佐右衛門、善太郎、平兵衛、三郎兵衛、善蔵の名前がありますが実態ははっきりわかりません。

 また、仲買に大歳家藤三郎、梅谷三右衛門の名前はありません。

 これらの史料からみると、加古川の浜手地域は、砂地であり綿作が盛んであったのですが、新野辺は尾上地区と比べるとそれほどでもなかったようです。

 他の大歳家の文書から判断して、新野辺村の人々は、家計の補助を出稼ぎや作間稼ぎでおぎなっていたと想像されます。(no3573)

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大庄屋・大歳家(33) 村方騒動(2)・大歳家が庄屋を守るわけは?

2017-05-03 08:30:24 | 大庄屋・大歳家

     村方騒動(2)

 文久元年(1861)12月8日以降、大庄屋・大歳藤七郎らにより宗四郎の庄屋復帰が図られていす。

 村では、金銭問題で不明朗が発覚した宗四郎の庄屋役についての寄合が行われました。

 大庄屋・大歳藤七郎、大歳慈父右衛門、そして梅谷三右衡門、兼帯庄屋井上恵助が頭分(住吉神社氏子の主だった者)に対し、宗四郎を庄屋に復帰させるよう説得を行っています。

 しかし、頭分と判頭(五人組頭)は、宗四郎の庄屋複帰を拒否しました。

 翌、文久2年1月になり、代官からの指示もあって再度宗四郎の庄屋復帰が図られました。

 なぜ、大庄屋は庄屋・宗四郎を守ろうとしたのでしょう。

    頭分と五人組頭について

 事件は、「村方」の代表として頭分が積立金の不明朗さをめぐって庄屋・宗四郎と対立しました。

 そして、その調停の際に頭分が度々五人組頭と相談を行っています。

 ここから、中下層の百姓をも含む五人組頭が頭分と「小百姓」との間のパイプ役を果たしていたことが窺えます。

 また、大庄屋から宗四郎を庄屋に復帰させるよう説得された時にも、頭分は五人組頭と相談を行っています。

頭分が宗四郎を庄屋役から排除しようとしたこと、あるいは「積立金の支払いを行った上での庄屋復帰」を主張したことなども、「小百姓」の意向をうけてのことでした。

 つまり、この村方騒動の一軒からも頭分が村運営の中心に存在していたことを知ることができます。

    大庄屋が庄屋・宗四郎を守ろうとしたわけは?

 庄屋・宗四郎と大庄屋・大歳家とはどんな関係であったのか、はっきりしませんが、庄屋・宗四郎は大歳家の意を呈して行動する庄屋でした。

 村経営は大歳家ではなく頭分が実権を持っていました。大歳家は、頭分ではありません。

 ですから、大歳家は村への支配の多くを庄屋・宗四郎を通じて有利に行いたかったのです。

 宗四郎が庄屋役をやめさせられるようなことになれば、大庄屋の村支配は難しくなります。

 ですから、村方騒動では大歳家は必死に宋四郎を庄屋に残すよう動いています。

 これが、幕末期における新野辺村のようすでした。(no3572)

 *『ヒストリア(193号)』(大阪歴史学会)より「播州姫路藩における大庄屋と村」(羽田真也)参照

 

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大庄屋・大歳家(32) 村方騒動(1)

2017-05-02 09:30:03 | 大庄屋・大歳家

 万延元年(1860)から文久二年(1862)にかけて、新野辺村でおきた村方騒動をみておきます。

 きょうは、すこし読みづらい記事になっていますがご辛抱ください。

     村方騒動(1)

 「小百姓」が集まり、不作のため「積立金」の支払いを庄屋・宗四郎に求めました。この時は「支払期日になっていないのでできない」と、支払いを断りました。

 「小百姓」達は、納得できません。

 また、庄屋・宗四郎が取り集めた講の積立金も一部しか渡さず、残りを自ら預かっていながら、支払いを延ばしていました。

 積立金の支払いに不安を感じた「小百姓」が、度々支払いを求めました。

 この騒動は、万延元年の不作のため生活に困った「小百姓」が庄屋・宗四郎に対し、安政元年に取り決められた積立金の支払いと、宗四郎が預かっている講の加入金の支払い要求したものでした。

 ① 騒動のはじまり (万延元年11月28日~12月5日)

 11月末から「小百姓」は、積立金の不払いについて集まりました。

 その時、「小百姓」の集まりとは別に住吉神社の氏子の主だった者(以下、頭分とする)と印形頭が村の会所で寄り合いをしていました。そこへ「小百姓」が多数押しかけました。

 そこで、小百姓たちは庄屋・宗四郎の積立金不払いを訴えました。

 庄屋・宗四郎が講出資金の支払いを行わない中で、とりあえず、大歳藤七郎と梅谷三右衛門は、独自に三貫目の支払いを行っています。

 ② 庄屋・宗四郎の退役願いをめぐって

 「小百姓」たちが庄屋・宗四郎の糾弾を進める中で庄屋・宗四郎は病気を理由に庄屋の退役願いを提出しました。

 12月26日、退役願いを受けて大庄屋・大歳藤七郎と頭分は話し合いました。

 頭分たちは庄屋・宗四郎の退職を求めたのですが、大庄屋・大歳藤七郎は、庄屋・宗四郎をしばらく「病気養生中」として期限をつけながらも植田村(現:北在家の西部)庄屋・井上恵助の庄屋兼帯を藩へ上申し、井上が新野辺村の庄屋を兼ねることになりました。

 ③ 積立金支払いをめぐって (文久元年1月16日~2月30日)

 文久元年、1月16日から、いよいよ大庄屋大歳藤七郎らにより積立金の問題についての調停が行われました。

 庄屋・宗四郎を立ち会わせて積立金の取調を行っています。

 その中で、大歳家が豊後屋善兵衛家へ入れた銀15貫目の借用書を宗四郎が差し出し、積立金の内から銀15貫目を大歳家へ貸し付けていることが判明しました。

 これをうけて大歳藤七郎が宗四郎の言い分を委細を取り調べているのですが、それ以上、何も記録が残されていません。

 が、おそらく、宗四郎の主張は事実だったと思われます。

 しかし、事はそれだけでは終わりませんでした。

 2月14日になって「村方」が今度は講の積立金・二貫目の不足を主張し始め、再び調停が行われています。

 この調停には、大庄屋大歳藤七郎、兼帯庄屋・井上恵助等が取り調べ、さらに大歳藤七郎と対時する「村方」の中心の頭分と判頭惣代(五入組頭の惣代)が含まれていました。

 新野辺村は、もはや大歳家の一存では運営できない状態でした。

 この件は、宗四郎の病気全快後に支払いを行うこととなり、頭分が積立金の一部を家別に割り渡して、2月30日に一応の決着を見ました。(no3571)

 *『ヒストリア(193号)』(大阪歴史学会)より「播州姫路藩における大庄屋と村」(羽田真也)参照

 

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大庄屋・大歳家(31) 大歳家と小作関係

2017-05-01 08:47:06 | 大庄屋・大歳家

            大歳家と小作関係

 大歳家は、大庄屋の仕事のほかに安政元年(1854)当時、大歳家は新野辺村において分家を含め97石を所持し、地主経営も行っていました。

 この段階で大歳家は、新野辺組の大庄屋と新野辺村の庄屋を兼任しています。

 地主としての大歳家は、新野辺以外の土地を拡大させつつも、新野辺村の所持地こそが経営の中心でした。

 安政元年四月の大歳家に残る文書によれば、大歳家は分家を含んだ村内の所持地と数石程度の池田村・別府村内の所持地とを一括して管理し、この年、田地から年貢米と小作米150石弱、畑地から1貫856匁余を得る予定でした。

 そのうち大歳家の自作地からは米9石弱を得るに過ぎず、大半が小作地でした。

 大歳家は、小作地では80人の小作人を抱え、うち77人が新野辺村の百姓でした。

 所持地の大半を小作地とし、新野辺村の百姓を数多く小作人としてかかえていたのです。

 おそらく梅谷家も大歳家と同様の地主経営であったと考えられます。

    たまる小作農民の不満

 万延元年(1860)、5月上旬と7月の台風によって安政4年と同じく不作となりました。

 新野辺村も他村と同様に藩へ手当米(給付米)を出願しました。

 9月21日、代官によって見分が行われ、村へ手当米41石1斗が申し渡されました。

 その翌日の事です。村役人・住吉神社の氏子代表・五人組頭により、手当米の披露が行われ、その後、大歳・梅谷家に対して小作料の減額について話し合われました。

 この話し合いでは、村役人(五人組頭)の惣十郎と久次兵衛が小作人の側にたって行動しています。

 大歳家が、庄屋就任後に新野辺村で所侍地を急速に拡大させ、それにより村内では地主・小作関係が強まり、大歳家と住吉神社の氏子、五人組頭、そして下層小作人との間に対立が生まれていました。

 これにより、大歳家の金銭問題に絡み、大庄屋と兼任していた庄屋を退役させられ、その後、大歳家は村において大きな発言権を若干弱めることになりました。(no3570)

 *『ヒストリア(193号)』(大阪歴史学会)より「播州姫路藩における大庄屋と村」(羽田真也)参照

 

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大庄屋・大歳家(30) 高砂組から新野辺組へ

2017-04-30 07:58:01 | 大庄屋・大歳家

      高砂組から新野辺組へ

 寛延二年(1749)、姫路藩に一揆が荒れ狂いました。

 藩は、一揆後大改革を実施しました。今まで26あった大庄屋を13(文化9年に12)に削減しました。

 この時まで新野辺村は、高砂組の三浦家の支配下の村でした。

 しかし、三浦家に一揆が押し寄せ、打ち壊され、一揆後大庄屋を免じられています。

    一揆、梅谷家(新野辺の庄屋)を襲う

 この時、大庄屋でなかったのですが、新野辺村の庄屋の梅谷家は、現在の加古川市の海岸部では、ただ一軒、打ち壊しにあっています。

 梅谷家は、近世初頭から18世紀の後半、大歳家と庄屋を交替するまで新野辺村の庄屋を務め、そうとうの豪農であったらしく、姫路藩全般一揆では農民の恨みの対象となり徹底的な打ち壊わされました。

 梅谷家の打ちこわしのようすは、『姫路市(第三巻)』に「表門・長屋廻り屋根懸ヶ塀全壊、建屋天井・床・柱等打砕、建具打捨」と、まとめています。

 徹底した打ち壊しだったようです。

 一揆後、新野辺村は高砂組(三浦家)は免じられ、現在の播磨町古宮の今里家の兼帯となりました。

 新野辺村は、古宮組の傘下の村となったのです。

 姫路藩としては大庄屋の数は減らしものの、この地方に大庄屋の必要を感じていました。

 が、打ちこわしを受けた大庄屋を再度認めることはできなかったようです。

 地図をご覧ください。「高砂2.3と新野辺2.3」をご覧ください。

 「高砂2.3」は、寛延2年2月3日に高砂大庄屋三浦家が打ちこわしになった日を示しています。

 おなじく「新野辺2.3」は、新野辺の庄屋梅谷家が打ちこわしにあった日です。

 このような情勢の中で、天保9年(1838)新野辺の大歳藤七郎が大庄屋に任命され、組名も新野辺組と改称され、廃藩置県(明治4年)まで大歳家は大庄屋を務めました。(no3369)

 *『兵庫県史(第四巻)』、『姫路市史(第三巻)』、『加古川市史(第三巻)』参照

 

 

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大庄屋・大歳家(29) 姫路藩・播磨全藩一揆

2017-04-29 08:47:38 | 大庄屋・大歳家

 

 大庄屋を話題にするとき、寛延二年(1749)の「播磨全藩一揆」を避けることはできません。

 今日は、大歳家の話題が登場しませんが、「姫路藩・播磨全藩一揆」を紹介しましょう。

   姫路藩・播磨全藩一揆
 新野辺村の属する姫路藩にとって、元文から寛延にかけての時期は、まさに怒涛のような時代でした。姫路藩最大の危機であった大一揆がおきています。
 1741年、奥州・白河藩(藩主・松平明距)は、姫路への転封が決まりました。
 白河藩内の商人は、借金の返済を求めましたが、借金を踏み倒しての姫路入りとなりました。
 姫路への引越し費用は、江戸の商人からの借金でなんとか賄いました。
 この時、江戸商人と「借金は姫路で支払う・・」という約束をしました。
 そのため、姫路に入るや、年貢の引き上げ等により増収をはかりました。
 その上、延享二年(1745)、家重が九代将軍を引き継ぎ、朝鮮国からお祝いのため。延享五年(1748)、477名が来朝し、途中一行は、室津(龍野市)に立ち寄りました。
 幕府は、この接待を姫路藩に命じました。二万両が必要でした。
 借金まみれの姫路藩に商人は協力しようとしませんでした。
 さらに、悪いことがかさなりました。
 明距(あきのり)の姫路入部以来、6年に四度の暴風雨に見舞われ、凶作が続いていました。
 寛延元年(1748)も、大干ばつと台風で「稀有の凶作」となりました。
 姫路藩は、強攻策にでました。
 西条組の大庄屋・沼田平九郎はなにかと藩に迎合しました。
 寛延二年(1749)、西条組大庄屋・沼田平九郎宅(現:加古川市八幡町中西条)は、一揆衆に打ち壊されました。
 年貢の減免を願い出た百姓は投獄されてしまいました。
 百姓たちの不満が爆発したのです。
 野谷新村と夢前(飾西郡)で燃え上がった一揆は、瞬く間に姫路藩を震撼させる一揆にひろがりました。

     一揆の後、大弾圧
 藩から足軽部隊が出動しました。やがて、一揆は終息。厳しい調べが大坂奉行所で行われました。
 寛延三年(1750)九月一揆の中心になった者の死刑が言い渡されました。
 姫路藩の財政負担は、百姓に覆いかぶさることになりました。(no3368)
 *図:播磨全藩一揆の進行経路(高砂市史・第二巻)

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大庄屋・大歳家(28) 大歳家が大庄屋に任命された理由とは

2017-04-28 08:30:55 | 大庄屋・大歳家

             大歳家が大庄屋に任命された理由とは

 「大庄屋・大歳家(1)」で、「・・・・新野辺村の大歳家は、天明八年(1788)~寛政二年(1795)頃に新野辺村の庄屋を務めました。

 その後、文化元年(1818)11月、大歳吉左衛門は大庄屋格となり、天保9(1838)大歳藤八郎は、新野辺組の大庄屋を藩より命じられたのです。

 しかし、藤八郎が大庄屋に任命された理由は、はっきりとは分かっていません」と書きました。

     理由は経済力と藩・地域での貢献度

 確かに、大歳家が大庄屋に任命された確かな理由は文書等に記録されていません。

 でも、想像はできます。

 図のように、大歳家だけではないのですが、大歳家・岩崎家(北在家村)が中心になり岩崎新田・千代新田(ちよしんでん)を開拓しています。

 *(参考)

 〈岩崎新田・54石余〉

 天保7年(1836)に北在家の(岩崎)紀右衛門等とともに開拓に当たり、大歳家は、小作米として60%を取得。

 安政3年(1856)に大歳家、岸本家(高砂)、児島家(姫路)、荒木家(加古川天地大野)は新田を共有し、大歳家は小作米25%を取得。

 〈千代新田・144石余)

 大歳家、岸本家、荒木家での開拓でした。大歳家は小作米20%を取得しました。

 大歳家は、新野辺村を中心に所有権を広げています。この経済的な裏付けが大庄屋任命の背景であったと想像されます。

 

 また、大歳家は、経済力だけでなく、村人を集めて読書・算術、人の生き方などを説く学問所となりました。

 つまり、庄屋の職務だけでなく藩・地域への貢献が評価され大庄屋に任命された理由だと思われます。

 なお、金沢新田については『新野辺の歴史(第一巻)』をご覧ください。(no3567

 *「新野辺学習会(講師:羽田真也)レジュメ」参照

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大庄屋・大歳家(27) 新野辺は三重構造の村

2017-04-27 06:55:59 | 大庄屋・大歳家

 大歳家は、多くの貴重な古文書が保存されていることでも知られています。

 嘉永四年(1851)当時の古文書から村のようすを拾ってみます。

    新野辺は三重構造の村

 歴史学者の羽田真也氏は、幕末の新野辺村の特色を「大歳家文書」から次の3点(①~③)を指摘されています

 今日の報告は『ヒストリア(193号)』の羽田先生の「播州姫路藩における大庄屋と村」を参照させていただきました。

  新野辺村の土地は、ほぼ村内だけの所有

 この件については③にみます。

  突出した大歳家・梅谷家の土地所有

 当時、梅谷三右衛門家が143石弱、大歳慈父右衛門家が96石の所持高でした。

 所持高第3位の善兵衛家が21石で、新野辺村では梅谷・大歳家が突出しています。

 梅谷家は、近世初頭から18世紀後半まで大歳家と交替するまで庄屋を務めていました。

 大歳家は、元文二年(1737)当時33~4石であったこと、文政10年(1827)前後に所持高が52石余であることなどから、梅谷家とは対照的に18世紀末の庄屋就任以降土地を集積しています。

  多い無高層・小高持層 

 もうひとつの新野辺村の特色は、無高(土地を所有していない)が61軒、所持高1石未満が56軒、1石以上3石未満の29軒を占めており、これだけで軒数の57%を占めていることでした。

 このように、生産高から見ると新野辺村は、梅谷家と大歳家が突出した所持高を有し、その対極に無高層・小高持層が多数の村でしたが、村への村の必要経費の負担額から判断すると、土地の所持高からだけでは判断できません。

 新野辺村では商業活動に励んでいる百姓が多数存在していたことです。

 幕末期の新野辺村は、梅谷家と大歳家が突出した大百姓である一方では商業流通にかかわって成長を遂げる百姓も多数存在していました。

 大歳家・梅谷家を突出した大百姓と紹介しましたが、両家は自ら直接米の生産にたずさわったのではありません。

 新野辺村には、零細経営の百姓が分厚く存在し、かれらは、梅谷家・大歳家の土地を小作していました。   (no3566)

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大庄屋・大歳家(26) もと、新野辺村の庄屋は梅谷家

2017-04-26 10:25:21 | 大庄屋・大歳家

    延享二年(1745)新野辺村の庄屋は梅谷家

 新野辺村の大歳家は、天明5年(1785)年に新野辺村の庄屋に任命されています。

 それ以前、新野辺村の庄屋は梅谷家でした。

 梅谷家は大歳と庄屋を交替するまで庄屋を務めており、元文二年(1737)当時でも100石余を所持しており、近世初頭以来、新野辺村の有力な地主としてきた家であろうと思われます。

 大歳家は、文化二年(1805)の38石余りから嘉永4年(1851)の95石へと梅谷家に次ぐ地主に成長しています。

    大歳家は、新野辺村の「庄屋」に

          そして、新野辺組の「大庄屋」に

 文化元年(1818)11月、大歳吉左衛門は大庄屋格となり、そして天保9年(1838)大歳藤家は、新野辺組の大庄屋に任命されています。

 ここで、よくわからないことがあります。

 それでは、梅谷家がどうして大歳家と庄屋を交替し、また、大庄屋に選ばれなかったのかということです。

 いろいろと想像はできるのですが、史料等で確かめることはできていません。

 ともかく、新野辺の住吉神社の鳥居がつくられた時、新野辺村の庄屋は梅谷家で、梅谷氏はこの鳥居を寄贈しています。(no3565)

 *写真:鳥居柱(南)に、鳥居の寄贈者(新野辺村庄屋・梅谷重傳)の名が刻まれています。

なお、同鳥居には「延享二乙年・正月吉祥日」銘が刻まれています。(*延享二年:1745年)

 

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大庄屋・大歳家(25) 若き研究者からの提言(4)、4つのステップ

2017-04-25 08:45:38 | 大庄屋・大歳家

    大歳家の継続・活用の基礎的提案

 *論文は、適当な個所をつまみ食いし、文章も若干変えて掲載させていただいています。

  第1ステップ

  ◇人脈の確保:活動するにあたり、ある程度の人数がいなければ活動の幅が広げることが出来ない。

 パンフレット、ポスター、ホームページの作成や回覧板への掲載等の、広報活動を活発に行うことが必要である。

 ◇庭の整備:雑草がたくさん生えている状態であり、除草剤 を散布し枯れた草を集めると次は土が露わになり、哀愁を帯びた状態となった。

 大歳正明氏は花壇を作り庭を華やか にし、その活動を地域の人と共に行うことが出来ればと話 していた。

 そして、花壇をつくったり木の苗を植えたりすることは比較的費用がかからず、見た目からも庭の整備を 行った前後で誰でも違いが分かり達成感が得られる可能性 が高くハードルが比較的低いので、庭の整備から始めることはよいと考えた。

  第2ステップ

 ◇便所の整備:大歳家は、大歳家の敷地近くまでは下水道が通っている状態だが、大歳家の便所までは配管がきていない。

 せっかく大歳家が地域拠点になったとしても不便な状態なので、敬遠されてしまう可能性がある。

 ◇損傷個所や程度を把握する:どの建物のどの箇所がどの程度傷んでいるのかを一つずつ調べ、把握していくことが大切であると考えられる。

  第3ステップ

 ◇茶室の修繕:現在、茶室の床は抜け落ちとても使えるような状態ではない。外壁も傷み、ベニヤ板が張られていわゆる応急処置を施している状態である。

 大歳家の中では建物規模自体は最も小さい建物であので、ワークショップが実施され易いのではないかと考 えた。

  第4ステップ

 ◇茶会:使える状態になった茶室で茶会を開催して、地域の人に来ていただく。その時に茶室だけで飲むのではなく、庭に椅子を配置し、茶室の近くにある縁側で気軽におしゃべりしながらお茶を楽しむことが出来るようにする。

 ◇勉強会:大歳家にはとてもきれいな状態で保管されている。

 大庄屋としての記録や古文書などの資料が多く残されている。今までも数回、勉強会を行っているが、それを今後は大歳家で行うことが出来るようにする。

 ◇写経:以前、写経をする団体が大歳家で写経を行っていたが、最近は大歳家では行っていないので、また以前のよう に写経の活動を行ってもらう。(no3564

 *絵:大歳家の茶室(『兵庫の民家と街並み画集』より)

 

   〈感謝にかえて〉(新野辺まちづくり協議会)

  『古民家を核にした伝統的集落活性化に関する研究』の論文によるご提案ありがとうございました。

  今後の「まちづくり協議会」活動には、特に若い方のご意見と活動が参考になります。

  今後ともご協力よろしくお願いします。

  さて、ここまで大歳家の概要、現状、課題(問題点)を纏めてみました。

  もう少し、歴史を中心として大歳家について述べておきましょう。

  なお、先に新野辺まちづくり協議会では、『新野辺の歴史(第一巻)』を纏めています。 

  『大庄屋・大歳家』と合わせお読みください。


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大庄屋・大歳家(24) 若き研究者からの提言(3)、大歳家の活用方法と課題

2017-04-24 10:46:30 | 大庄屋・大歳家

 〈古民家を活用した伝統的集落に関する研究より〉

     大歳家の活用方法

 活用方法について聞いたところ、一番多かった事項は「おしゃべりしながら集うことが出来る場所」 であり、次に多かったのが「集会所」であった 。

 このことから、地域の人は大歳家がコミュニティーの場になることを望んでいることが分かった。

 しかし一方で、大歳家の存在を知らない新成人が多いことが分かった。

 これは、大歳家を保存・活用していく上で大きな問題と言える。

 *図:大歳家の活用方法

     大歳家の課題

 そして、大歳家の課題を問う質問に対しては、資金不足、老朽化と回答した人がそれぞれ約2割を占めていることがわかった。

 その他の回答としては、「市の文化財に対する 関心が薄い」、「大歳家の屋敷の存在意義を明らかにする 歴史研究」といったことが挙げられた 。

 今後、大歳家について地域住民や市に関心をもってもらうためにも このような地域住民の参加を促す活動をする必要がある。(no3563)

 *図:大歳家の課題

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大庄屋・大歳家(23) 若き研究者からの提言(2)、トイレの整備と茶室の再建から

2017-04-24 07:47:09 | 大庄屋・大歳家

        若き研究者からの提言(2)

 大歳家保存会の今後について目指すのは、新野辺の人々 のコミュニティーの場とすることである。

    トイレの整備と茶室の再建から

 それを行うにあたり第一にすることは、次の事項である。

 ・夏季の暑さ対策と、冬季の寒さ対策。

 ・便所へ下水道管をつなぐ。

 ・傷みが進行していて、人が乗ると落ちそうなところ等の 危険な場所をなくす。

 上記の事項が整えば、次の段階として下記のように活動を希望している。

 ・現在、床が落ち、使用不可能なお茶室を改修し、お茶会 に利用したい。

 ・以前、写経の団体が写経を行っていたことがあるので、 写経をする場として提供したい。

 ・左官の講習のワークショップを行い、建物の傷んでいる ところを補修する活動をしたい。

 ・花壇をつくり、庭を華やかにしたい。

 ・大歳家文書の研究を近くの公会堂で歴史の勉強会を行っているが、その会場を大歳家としたい。

 ・イベントを開催する時に展示スペースを設け、大歳家にしかないもの等を展示する。(no3562

 *写真:大歳家(上段の間)での学習会

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